読み週記 4月

 

 

第一週(4/5〜4/11)

 一度読んだ本は二度と読まない、という友達がいた。彼曰く「一度読んだ本をまた読んだら、他の本を読む時間が少なくなる」と。それもまた一つの考え方ではあるし、俺もそんなに読むのが速い方ではないので、読みたいけど時間がなくて読めない本のことを考えてしまうこともある。それでも、俗な言い方にはなるけれど、読み直すことで新しい発見や新鮮な感想を抱くことだってあるし、前に読んだときの自分と今の自分を対比させることもできたりする。面白いとわかっていて、その面白さをもう一度味わいたいと思うわけだから、気楽に読める、という側面もある。失望することもあるけど。

 そんなわけで今週はなぜか読み返しが多かった。昔読んだ本やマンガをいくつか読んだため、今週は少ない。読み直しについては書かないことにしたのだ。何となく、気分で。

 今週は色々疲れていたこともあって、あまり頭を使う本を読みたくなかった。というわけで、面白さが保証されている、ディック・フランシス『女王陛下の騎手』(早川書房)についに手を出すことにした。後に物にする抜群の競馬ミステリーを書く前、騎手をやめたばかりのフランシスが自らの半生を振り返った自伝。フランシスの小説の初期の2、3、冊は、後の物と比べるとやや落ちる感があるのだが、この本を読むと、小説家になる前から物書きとして傑出した才能を持っていたことがよくわかる。フランシスの語りのスタイルはほぼ完成されていて、とにかく面白い。現役時代の話はさすがにやや時代が古いが、障害競馬騎手がどんな生き物で、どんな世界にいるのかがよくわかる。折しも今週は、新しくG1となった中山グランドジャンプがあったが、この本を読んだ後なので一層愉しんでしまった。なんとタイムリー。

 どうして未だに『週刊少年ジャンプ』(集英社)を読み続けているのか、さっぱりわからない。週刊とは恐ろしい。いつもちょっと遅れて読むのだが、18、19号を読む。「すごいよ!!マサルさん」のうすた京介が新連載。相変わらず楽しんで仕事をしているようでいい。20年前には絶対評価されないはず。

 『本の雑誌』(本の雑誌社)5月号は、春の特大号。特大のわりには他誌ほど特大にならないあたりはさすが。目黒考二が書く「笹塚日記」。先月号ではあまりにもあからさまな紙面稼ぎだった物が、なんと連載になっているのにはびっくり。それにしてもこの人は一体いつ家に帰るのだ。「98年度タイトルベスト10」の座談会が面白い。

 

第2週(4月12日〜4月18日)

 人生で何度か日記を書こうと思ったことが、あるがたいていは長く続かない。そのくせ時折突然日記を付けたくなるのはなぜなのだろうか。人生の流れの中で不意に立ち止まって自分の生活を振り返りたくなる、そんな時期が不定期に訪れる、ということなのか。

 急に日記を書きたくなってパソコンの記録を開くと、なんと3年ほど前の6月から1年以上の期間にわたって書いた日記を発見してしまった。今までの日記人生最長記録である。あまりに面白いので2時間くらいかけて読みふけってしまった。自分の日記が面白いなんて変な話だ。

 それを読むと、大学3〜4年の間に、現在の夜更かしの生活が確立されたことがよくわかる。とにかく思いつきでふらふらと遊びに出て、酒ばかり飲んでいる。たかだか照明をやるためだけに、友達の大学の吹奏楽団に帯同して、タダで演奏旅行に行ったのもこの時期だし、友達の家でマンガを読んでいたら、いきなり神戸に行きたくなって、その翌々日にはもう新幹線に乗っていたりしている。くだらないことをぼんやりと考えながら、自堕落な生活を送っていた。そんな記録を目の当たりにして、情けないやら恥ずかしいやらうらやましいやら。しかしもっとも恥ずかしいのは、その頃と比べて全くと言っていいほど成長がなく、むしろ退化しつつある自分を再確認したときである。日記もなかなか侮れない。

  マーチン・ガードナー『奇妙な論理』(社会思想社)は、1950年代にあった疑似科学を取り上げた本。誇大妄想的なえせ科学者達の系譜である。時代はやや古いが、その時代にいまだに地球の形や地質学の常識的な知識に異論を唱える科学者達の姿は面白くもあり、恐ろしくもある。理解されぬ事を嘆きながら、同時に支配的な科学理論にたいしてあくまでも反抗を続ける科学者の姿は、必ずしもその世界だけに見られる人間の姿ではないはずだ。現在に至っても、ろくな資料批判もせずに自らの理論に固執し、常識を攻撃するえせ理論家達は後を絶たないし、自らの新しい発想、新しい思想にとらわれて、非論理的な主張をごり押しする人はいくらでもいる。SFや冗談ごとでならともかく、その思い込みにある一定の権威や認知が与えられるのは、それを信じたい人が主張する本人以外にも存在するからなのだ。厳然たる事実と人々が胸の内にはぐくむ真実の境界線は、これからますますあやふやになっていくというのに。ところで、今日本でもずいぶん広まってる整骨やカイロプラクティックも「疑似科学」として取り上げられているけど、どうなんですか、太田さん。

 山本周五郎の魅力は、そのエンターテイメント性と庶民の生き生きとした姿の描き方にあると思う。解説では「成功作では一概には言えない」と言われているものの『風雲海南記』(新潮文庫)はなかなか読ませる。どうやら新聞連載をされていた物であるらしいが、出だしの江戸っ子達の心意気を描くシーンや三吉という少年など、周五郎の長編には独特の味わいがあって、それに触れることがまた楽しい。江戸時代、幕府がしきりに藩の力を弱める施策に力を入れていた時代の、西条藩を巡る争いは、ついに主人公を海外にまで送り込む。壮大なスケールがスムーズに語られていて、一気に読んでしまう。どうも去年からの超個人的時代小説ブームが再燃しそうな気配である。

 浦沢直樹『モンスター 第11章/死角』(小学館)がいつの間にか書店に並んでいた。コミックはあまりこまめにチェックしていないので、知らぬうちに新刊が出ていたりするので気が抜けない。浦沢直樹は昔は何となく絵に抵抗感があって読めなかったのだが、『マスター・キートン』(小学館)や『パイナップル・アーミー』(小学館)を夢中になって読んでいるうちになれてしまった。どちらも浦沢直樹は絵を担当しているだけで、本人はこういう話は書かないかと思っていたのだが、『モンスター』を読むうちにすっかり認識が変わってしまった。実は書きたかったのかなぁ、こういうの。あまりにも面白いので、一冊では短すぎてかえって欲求がたまってしまう。こういう物は、知らぬうちに完結して後から一気に読む方がよい。わかっていても、つい買ってしまうのだ。かくして欲望に忠実な自堕落な俺の生活は続いていく。

 

第3週(4/19〜4/25)

 子供の頃から外国人の書いた児童書を多く読んでいたせいか、どうも日本人の書いた本を読まない。いかいかんと思いつつも、夏目も芥川も「ナンだナンだ」という感じでほとんど読まずにいた。そんなはずが今週は日本人の書いたものを多く読む。珍しいが、別に日本人強化週刊のつもりではない。

 北杜夫をちゃんと読んだことがないのには自分でも驚く。たまたま古本屋で見つけたのでとりあえず一冊読んでみることにした。とりあえず『どくとるマンボウ途中下車』(中公文庫)に手を出すあたり、俺も結構ミーハーである。北杜夫は「どくとるマンボウ」しか書いていないと思っている日本人は多い。かどうか知らないけど。何が面白いかと言って、旅に出てそれについて書く事を企図された本であったのに、なかなか旅に出ない。歯ブラシで悩んだりするのだから始末に負えない。それにしても、この年代くらいの教養人には面白い人が多いなぁ。

 とあるところでなぜか赤瀬川源平の話になったのだが、ちょうど書店で赤瀬川源平『新解さんの謎』(文春文庫)を見つけたので、早速買う。あれだけ話題になった上、ちょっと興味もあったので文庫になった今がチャンスである。昨年の話題「老人力」のブームが下火になりつつある今、あえて「新解さん」に戻るところがいい。千葉までちょっとばかり用事があったのだが、あいにくその日は寝ていなくて、眠くても眠らずに読める本を探していたらちょうど発見したのだ。家から千葉までの行き帰りでちょうど読み切るくらいでナイス。内容は今更説明するまでもないが、三省堂が出版している国語事典『新明解国語事典』の奇妙な記述から、「新解さん」がいかなる人であるかを探る本。なるほど、これだけ楽しめる辞書もなかなかないと思うが、一体どういう意図でつくられた辞書なんでしょう。文庫本の前半部分くらいで終わってしまうのが残念。後半は「紙がみの消息」というまた別のエッセイ集なのでした。それにしても、赤瀬川源平という人自体がかなり謎な人物だと俺は思うぞ。

 すっかり浸かりつつある山本周五郎『明和絵暦』(新潮文庫)を読む。ううむ。隆慶一郎の罠にかかったときと同じ様なパターンになりつつあるなぁ。内容は、幕末よりもずっと前に尊皇倒幕の思想を唱えた学者山形大弐とそれを取り巻く若者達が織りなす様々な人生の苦悩を描いた物。先週読んだ『風雲海南記』(新潮文庫)は、若者のアイデンティティーの獲得が主題になっていたが、今回はちょうどその一歩先を行く感じ。理想や藩のために自らの命をも惜しまぬ若者達の姿が描かれている。隆慶一郎や周五郎にひかれるのは、彼らが描く若者像に共感する部分があるからなのか。藤井右門がいまいち生きてないように思えた。これも『風雲海南記』と同じく新聞に連載されたものだが、連載小説として読むと、人を覚えるのが大変だろうなぁ。

 町沢静夫『成熟できない若者達』(講談社文庫)は精神科医が書いた原題の若者論。データとして心気症やボーダーラインの若者達の症例が示されているが、同じ様な問題意識を持っていない人々に、若者に共通の病理を生み出す社会の問題点をどれだけ説得力を持って示せているかが難しいところ。もっとも興味のない人は読まないでしょうが。父親不在による母親との相互依存的な関係とコミュニケーション能力の低下を中心に論を展開している。全く持って納得。没コミュニケーションな若者のなんと多いことか。今必要なのは、若者や子供を取り巻くこのような問題が、今や「うちに潜む理想主義だけが唯一の歯止めとなっているおかげで、辛うじて絶望的と言わない」くらいに悪化しているという事が、もっと広く理解されることだ。あるいは彼らがやがてスタンダードとなり、単なる文明病としてあきらめられる物になってしまうのだろうか。

 読む本がなくなってしまったので、ついに家にあったパトリシア・コーンウェル『検死官』(講談社文庫)に手を出す。あまり俺向きではないような気がしていたのであえて読もうとは思わなかったが、近所の書店で派手に平積みされていて、気になって仕方がなかったのだ。木村弁護士がある本で「調書を読むのが面白い」と言っていたことがあるが、まさにそれに近い。もちろん小説としてしっかりしたストーリーテリングに支えられてはいるのだが、根っこにある物はそれに近い。でも面白いので仕方ない。あっと驚くようなミステリーよりも、ミステリー仕立てのサスペンス、といった感じ。それにしても向こうの検死官はこんなに捜査に関係してるんですねぇ。

 『週刊少年ジャンプ』(集英社)の20、21号を読む。最近ギャグマンガを見ながらつい笑ってしまうことがあるのが不思議だ。昔はこんな事はほとんど無かったような気がするが。若者の生活や悩みに共感を覚えさせるようなマンガが増えたような気がする。フィクションが、フィクション化する現実により近付こうとしているようにも思える。

 

第5週(4/26〜5/2)

 連載体系がよくわからないせいもあって、いつ発売されるのかが把握しづらいマンガの一つ松本零士『銀河鉄道999』(小学館)を発見する。かつての999が各惑星での冒険が中心になっていたのに比べて、新シリーズはその部分が少なくなって、メタノイドとの対立が多くなってきているいるのがやや不満。前シリーズの機会人類との対比に比べてちょっとわかりにくくなっているのは俺だけだろうか。ハーロックやエメラルダスがいっぱい出てくるのはちょっと嬉しいが、登場人物達の感情の隆起がちょっと唐突すぎ。なんだか当たり前のように宇宙戦艦ヤマトなんかが出てきて、それはそれで楽しかったりする。ヤマトの乗組員なんかも出て来るんだろうか。俺は徳川機関長を見たいぞ。今のヤマトの艦長は誰なのか。そんなことばかり気になってしまう。ハーロックの親友、トチローの登場にはちょっと感動。

 読む者が見あたらなかったので、家に転がっていた話題かどうかは知らないが、パトリシア・コーンウェルの『検屍官』(講談社文庫)についに手を出す。なんと、こいつが犯人だったのか!的驚きよりも、地道な調査によって少しずつ明らかになる犯人像で、ミステリーよりもサスペンスにより近い感じがする。それにしても向こうではこんなに検屍官が捜査に参加するといのに驚き。日本のミステリーや刑事ドラマでは、検屍官というと殺人現場にいて「死因は絞殺。殺されたのは昨夜の2時頃だね」てな事を言って後はほとんど出番がない。たまに気の利いたジョークを言うくらいのものだけど、えらい違い。合理的なやり方だと思うなぁ。自分のよくわからない分野を担当する専門職の人間への尊重がシステムとして固まってる向こうのやり方がよくわかる。面白くはないんだけど、何か一つ足りない印象が残る。

 山本周五郎『栄花物語』(新潮文庫)は、悪役のレッテルがすっかり定着している田沼意次が実は商人階級の対等から武家政治を守るために戦った有能な政治家であった、という物語。もっともその政治思想はともかく、意次が有能な官吏であったことには誰も依存はないと思う。この頃の時代から幕末、明治にかけて日本の政治は激しく動いた。将来の日本の方向を決めたといっても過言ではないと思う。その後日本は開国、倒幕にむかって明治新政府が樹立されるんだけど、歴史がそうなったために、その方向に向かって活動した思想家や武士は良い者、そうでない者は歴史に逆行したり先が見えてない悪者、という扱いになる。でも、歴史がそう流れたから必ずしもそれが正しかったのか、という議論は実はあまりなされていないんじゃないか、という気もする。今更幕末の思想の流れを批判してもしょうがないとも思うけど、少なくとも歴史学者はそういう視点をもっとアピールしても良いような気がする。青山信二郎と河井保之助の関係が、田中芳樹『銀河英雄伝説』(徳間書店)のロイエンタールとミッターマイヤーを連想させる部分があったりするが、実際は全然違うなぁ。

 コリンデ・デクスターの「モース警部シリーズ」(ハヤカワミステリ)に対する批評が『本の雑誌』(本の雑誌社)に載っていて、それに対する反論がある巻の解説に書いてある、という話を聞いて、急に昔は読まなかったぶんを読みたくなったので、『本の雑誌』の古いのを引っぱり出し、読み始める。なんと我が家にはかなり古い号から揃っているのだ。とりあえず簡単に見つかった1995年の1月号である139号から148号までを読む。もうこのころには月刊になっているのだが、かつてはそんなペースで出版されているわけではなかったので、142号をもって、20周年となっている。なんと、本の雑誌って俺と1才しか違わないのね。当時話題になった本が新刊として紹介されているのがすごく面白い。そうか、あのころはこんな本があったのだ、とか、あの作家はこのころまだ評価が定まっていなかったのだな、などと思いながら読んでいると、たった4年がずいぶん長く感じる。カヌーイスト野田知佑のカヌー犬、ガクがまだ生きていたのだ。当然のように面白そうな本がたくさん紹介されているわけで、慌てて何冊かをチェックしたものの、書店に行ってみるとそのほとんどを売っていない。映画化されて話題になったトマス・ハリス『羊達の沈黙』(新潮文庫)は今でもどこの書店でもよく見かけるけど、俺が読みたいのはそのレクター教授がつかまるまでの『レッド・ドラゴン』(新潮文庫)の方なのだ。出版界のもの悲しさを実感。たった4年を生きながらえる本は少ない。どんな本も一応見て買いたい俺は、あんまり注文が好きでないので、買いづらいのだ。それにしても、自分の出版者以外の版元から山ほど本を出す出版社の社長って、本の雑誌社の目黒考二くらいじゃないだろうか、と母親に言ったら、「違うペンネームだから良いのだ」とのこと。そういう問題だろうか。