読み週記 8月

 

 

第5週(8/30〜9/5)

 ふと気付くと、追いかけているシリーズ物や作者の物がずいぶんな数になっている。つまり書店に向かう度にあるシリーズの新作が出ていないか、とか書棚の前で、あの著者の次の作品はいつ訳されるのだ、と憤る事が増えてきたのだ。ところがこれがうまくないことに、あまりにも探す物がありすぎて、書棚を巡りながらつい1つ2つ見落としてしまう。するとどうなるか。前の棚のところにもう一度戻って落胆した揚げ句、他に面白そうな本を見つけててに持ってしまうことになるのだ。こうして気になるシリーズ物が増えていく。最近これに注意していて、なるべくシリーズ物には手を出さないように気をつけている。ところが家の近所の書店では、なぜか面白そうなシリーズ物ばかり平積みになるのである。

 未だに先に手を出すべきか迷いながら、書棚でうまく次を見つける度にその手頃な長さに惹かれ買ってしまうロバート・B・パーカーの「スペンサーシリーズ」の『ユダの山羊』(ハヤカワ文庫)は、前作でやっと姿を見せるようになってきたホークの出番が多い。舞台をイギリスに移した今作は、スペンサーシリーズをテレビでやるなら2時間のスペシャル版になりそうな雰囲気。ホームタウンのボストン周辺から大きく離れ、スペンサーはホークとともにヨーロッパ各地などを旅する。
 シリーズ事態が転換期を迎えているという事なのか、今回もまたもや今までの流れががらりと変化する。ハードボイルド小説からスーザン達との対話を前面に押し出した作品に変わりつつあったことは先週書いたが、今度は冒険小説やサスペンス小説のような出来上がりになっていて、ひと味違う。シリーズ自体が巻を重ねるごとにかたちを変えながら発展していくので、目が離せなくなりそうなのだ。
 今作でずいぶん長い間登場するスペンサーの相棒ホークがまた面白い。特別新しい人物造形ではないにしろ、スーザンにも読み手にも好感と親しみを感じさせながらも、その性は極めて悪に近い人物だといえる。スペンサーの制止がなければ命を奪うことに躊躇を見せず、冷酷な人間になれる、というよりも冷酷な人間でありうる。
 物語の重要な人物になる悪人にはおおよそ4パターンあって、最初は物語上役割として悪役を担っているために、およそ内省なしに悪役である人物。此の役に作者がいくらか味付けをして深みを持たせるようになると、2番目のパターンになって悲しさや弱さ故に悪になる悪役になる。これは恐らく悪役としてはもっともオーソドックスなかたちだろう。時として悪役ともつかぬ役につくことがある。
 次が悪を装っているだけのいい奴。これはたいていが見方や相棒として登場することになるが、時として2番目のパターンに変化していくことがある。これも比較的多く、特にヤングアダルト系の小説には欠かせないキャラといえるだろう。
 最後がホークのようなタイプである。このタイプは悪役としても主人公の側の登場人物としても現れうる。どこかに愛嬌があったり、何か優しさに似たものを感じさせる要素があって、シリーズの人気登場人物の一人になる。ところがその実、物語世界の中の「悪」の要素を体現している人物であることが多く、一風変わった彩りを物語に与えるのだ。
 最後のホークのようなタイプは実に面白い登場人物であるのだが、不思議とこの手のタイプは物語の主人公になりにくい。作者が余計な過去や内省を含まずにいられないからで、実はそれこそがこのような人物の非現実性、虚構性を明らかにする要素なのではないか。あるいはそのような非現実性を感じさせるのは人間のオプティミスティックな本質にあるのかもしれない。

 最近時代小説を読んでいなかったのは、大分前に買った山本周五郎『天地静大』(新潮文庫)がいつも視野にはいるからだ。ちょっと厚めの文庫本なので、なかなか読み出すことができなかったのだ。夏が終わってまた何冊もの本を同時に読むような生活が始まったので、ついに読み始めた。
 山本周五郎が珍しく幕末を描いた作品で、周五郎らしくその視点はほとんど中央に向けられることがない。時代の大きな流れに奔流される東北の小藩に生を受けた何人かの若者の人生が語られている。
 時代が変転する中自らの人生を学問に傾けることを決意した若者杉浦透。そして江戸で彼と知り合い、超然とした、シニカルな視点で若者や世の中を俯瞰する藩主の弟水谷郷臣。この2人を軸にして物語は進んでいく。
 個人の力で順行を後押しすることはできても逆行させることはできない時代の大きなうねり。それを運命論に大きく傾いた水谷郷臣を重ねて人の成長とそれを包み込む時代の姿を強く感じさせる。幕末だけが特別なわけではなく、全ての時代についてこれは言えることだ。常に歴史は動いており、人間は自らが織りなす歴史に翻弄される生き物である。それでも人は生きていて、その生は決して小さな価値のないものではない。歴史と個人、個人と歴史。その対比がある。

 そういえば雑誌以外で文庫本でない本を読んだのはずいぶん久しぶりのような気がする。本当に久しぶりなのだが、ボリス・ヴィアン『日々の泡』(新潮社)は存分に堪能した。堪能したはしたのだが、素晴らしい作品であるが故に心の中に棘を残してしまう。それだけの力が文学にあると言えばそれまでだが、それが日々の暮らしの中でずいぶん軽視されているような気がする。
 読んでいてなぜかこの本の本質的な面白さを自分は味わえていないのではないか、そんな気分を味合わされるのはヴィアンの独特のユーモアと文学のセンスによるものだ。まるでSFの様な道具立てがちりばめているかと思えばその実恋愛小説であったり、あまりにもあっさりとしたいが現れたりする。淡々とした流れとは別にどこか読者を落ち着かせないような不思議なパワーが作品中に満ちあふれていた。無性に面白く、無性に悲しい。そんな本であった。実はずいぶん前から家に転がっていたのだが、何で読んでいなかったのか。
 最後のシーンはとにかく素晴らしい。あれを書いたというだけで、ボリス・ヴィアンの才能はいくら褒めても足りないくらいだ。

 北村薫のデビュー作品集『空飛ぶ馬』(創元推理文庫)は国文学の女子大生と落語家というコンビ「私と円紫シリーズ」の1作目でもある。これを読むとこのシリーズの4作目『六の宮の姫君』(創元推理文庫)がいかにすごい作品であったかがよくわかる。
 この1作目を読むまでは知らなかったのだが、決して殺人事件のようなショッキングな事件が起きるわけではないのだが、このシリーズが元は普通の推理ものから始まっていることがよくわかる。円紫師匠が解く謎は初っぱなの「織部の霊」を覗けばそれなりに事件性をもっているし、どれも比較的オーソドックスな推理ものである。この作品がどうして4作目のような文学ミステリーにつながるのか。
 日常の小さな事件と文学的な作品の背景が、北村薫には同列に見えているためなのか、それとも著者自身の成長がシリーズを化けさせたのか。あるいは北村薫の狙いが4作目にしてようやく実現できたという事なのか。著者本人にしかわからないことなのではあろうが、シリーズを追っていけばもしかしたらその謎は解けるのかもしれない。どうしよう。気にはなるのに。

第4週(8/23〜8/29)

 なんということだ。夏が終わってしまう。思えば昔は気楽だった。無限にあるかのような夏休みをただただ自堕落に消費しているだけで良かったのだ。最近は、夏に時間があるなら何とか有効に使わないと心苦しくて、かえって夏が短く感じるようになってしまった。なんとなくもったいない。

 夏の終わりを感じて、たまっていた未読の文庫本を片付ける事を企図する。そのくせ何となく新しい本を買ってしまうので、何の解決にもならない。

 『週刊少年ジャンプ』(集英社)については本当に悩んでいる。何で今だに定期購読を続けているのかよくわからない。何となく続いているだけなのだ。もうやめればいいのに。
 特に面白いマンガがあるわけでもない。今週面白かったのは、前作の方が面白かった、と世間では不評のうすた京介「武士沢レシーブ」のインチキジャンケンのギャグと、表紙になっている島袋光年「世紀末リーダー伝たけし!」の小次郎がなぜか『別冊りぼん』をよんでること、くらいか。

 最近、『ワールドサッカーダイジェスト』(日本スポーツ企画社)のインタビューは注目している選手のものでないのであんまり面白くない。アルメイダはもちろんいい選手だが、パーソナリティを深く知りたくなる、というタイプではない。
 マーティン・ヘーゲレのコーナーをはじめとして、FIFA会長ブラッターは悪評ばかりが目に付くが、それではどうして今なお権力の座に居続けているのかよくわからない。日本のスポーツマスコミ関係者がブラッターがだれだか知っているかどうかも怪しい。
 セリエAもいよいよ開幕。気になるのはWOWOWが放映権を取得できるかどうかだ。我が家が一体何のためにアンテナを買ったと思っているのだ。ついでに言うなら、カンピオーネはインテルのジッポライターをうって欲しい。新しいユニフォームはアリだと思うけど、俺は買わないし。

 続けて読んだわけではないけれど、転換期を迎えているのは確かなのであえて並べて述べる。ロバート・B・パーカーの「スペンサーシリーズ」の3作、『誘拐』、『失投』、『約束の地』(ハヤカワ文庫)だ。『誘拐』ではスペンサーの恋人スーザン・シルヴァーマンが登場し、『約束の地』ではようやくホークが作品に顔を出し始める。
 文庫シリーズでの第1作目、『失投』の解説で北上次郎が述べ、他の書評家にも言われているとおり、シリーズの趣が徐々に変わりつつある。単なるハードボイルド・ミステリーで合ったものが、スーザンをはじめとする登場人物との会話の中でマチズムやその他様々なことがらについて語る物語になりつつある。特にその色合いが濃いのが『約束の地』で、スーザンとの関係が大きく前進するのと同様に、ウーマンリブやマチズムについてのスーザンやパム・シェパードとの議論が作品の中で重要な意味合いと特徴を持っている。
 古いハードボイルドにおいてはヒーロー達は声高に「男の生き様」について述べる必要はなかった。時代が進むにつれ、そこに変化が現れた。主人公達は単なる「男らしい」人物ではなく、人間としての強さと弱さを持った人物に描かれるようになった。そのなかであえて旧来のごとき暴力とマチズムを振りかざすスペンサーは、スーザンといういままでのヒーロー達とは違う、長く深い関係を保つ女性の存在によってその存在理由を説明する必要に迫られ、同時にそれを正当化するのではなく一つの意義ある価値観として示す必要に駆られる。単なるネオ・ハードボイルドとは違う味がそこに生まれてきているような気がするのだ。
 時代が変わり、男も女も変わらなくてもその関係性が変化することで男も女も以前のようではいられない。そんな変化を象徴するようなシリーズになりつつあるのではないだろうか。

 エド・ディー『アイリッシュの誇り』(創元推理文庫)は、元ニューヨーク市警の刑事である作者による警察小説。決してつまらない話ではないはずなのだが、その前に読んだジェイムズ・エルロイの一連の作品の印象が強すぎて今一つに感じてしまった。余計に評価し辛くなってしまったのだが、変に飾るところのない淡々とした主人公の描き方がいい。アメリカ人はいろんな人種がルーツにあるために複雑な社会を形成しているけど、日本人には今一つ掴みづらい。日本人が単一民族なわけではないが、アメリカほどバラエティの幅が多きく、今なお色濃くそれが残っているとは言えないためだと思う。

 バクシーシ山下の名前は高橋源一郎のいくつかの作品で目にしたのだが、彼の撮ったAVをみたことがあるわけではない。それでも異色AV監督である彼の『セックス障害者達』(幻冬社アウトロー文庫)に手を出したのは、決して表紙に裸のおねぇさんが写っていたためではない、と言い訳をしておきたい。
 バクシーシ山下の作品を追う様に語られるそのまわりの女優、男優、スタッフ達の異常と言っても良いような姿が描かれているはずなのに、読んでいるうちに浮かび上がってくるのはバクシーシ山下本人であるのはなぜだろう。ゆるい、というか薄いというか、あまりにも淡々と独特の世界を語る山下の言葉からうかがえるのは、結局のところ冷静で不自然に透き通った不思議な山下本人の人格の人格であるような気がする。ちょっと周りにはいないタイプのようでありながら、どこか最近よく見かける人物のようでもある。
 解説を書いているのは高橋源一郎だった。だからどうというわけでもないけど。

 家の近所の本屋では文春文庫が注文できない。その理由が何であるのか俺は知らないけど、おかげでキャサリン・ネヴィル『デジタルの秘法』(文春文庫)を手に入れるのにずいぶん時間がかかった。
 銀行で着々とキャリアアップを重ねてきたヴェリティが、銀行のセキュリティ・システムの不備を訴えるために始めた計画が、どんどんスケールアップしていき、やがて10億円を盗む大計画に発展していく小説で、コン・ゲームとしての面白さはもちろん、彼女と対決することになるゾルタンのキャラクターやスケールのでかさが魅力。キャサリン達に協力することになる登場人物が、その壮大な計画の中で徐々にそのスケールにならされていくのが不思議でもあり、恐ろしいほどリアリスティックに感じられもする。ストーリーテリングもうまく、なかなかの作品といえるだろう。悪役がもう少し濃くてもいいかもしれない。

 悩んでいたものの結局読んでしまったのが宮本輝『地の星』(新潮文庫)。圧倒的な存在感を誇る主人公松坂熊吾とその息子伸仁を描いた『流転の海』(新潮文庫)の第2部である。息子の伸仁も4才になり、故郷の南宇和でくらす熊吾一家を取り巻く様々な事件とその中を力一杯に歩んでいく熊吾のパワーは相変わらず圧巻。その強烈な個性が人を惹き付ける力としても苦しめる欠点としてもますます発揮される。変転する時代の中で巨大な岩や大木のように立ち続ける熊吾の魅力が休まずにページをめくらせるのだ。とにかく続きが読みたい。早く文庫にして早く完結させるように、誰か新潮社の人か宮本輝に電話してくれないだろうか。とにかくすごい作品だ。

 今週はなぜか時間に追われるように本を読んでいた。何か違うぞ。何か。まあいいか。

 

 第3週(8/16〜8/22)

 全くと言っていいほど本が読めない。単に遊びすぎが原因なだけに誰を責めることもできないのが悔しい限りだ。なおかつまずいことに、世界陸上が始まってしまった。ちょっとピンチである。

 最近いちばん楽しみにしている雑誌はもしかしたら『本の雑誌』(本の雑誌社)かもしれない。もともとあまり雑誌を読む方ではないので、ボキャブラリーが少ないせいもあるのだが、本屋で見かけると嬉しくなる。
 そのくせ読んでいるとなんとなくがっかりするのがまた不思議。昔は特集なんかがもっと面白かったような気がするのになぁ。
 目黒考二に「笹塚日記」は読む度にうらやましくなる。何でこの人はそんなに速いペースで本が読めるのか。こればっかりはどうにもならないことなので余計に悔しい。これぐらいたくさん読めたら楽しいだろうなぁ。金はかかるけど。
 昔から気になっていたのが鏡明の「連続的SF話」。題名のわりにはSFの話がすごく少ない、というのはともかく、気になるのは句点の多さ。句点の数っていうのはその人の癖が出ることがあって、この人はすごく多い。あんまり細かく切りすぎるので、読むときに読みづらいのだ。多分頭の中にある話し言葉を文章に変換する際にどうしてもこうなってしまうんだろうと思うけど、どうにかならないものか。森本レオのナレーションを聞かされている気分。

 ロバート・B・パーカー『ゴッドウルフの行方』(ハヤカワ文庫)は『初秋』(ハヤカワ文庫)の私立探偵スペンサーのデビュー作。「暴力専門」ホークも、恋人スーザンも出てこない。ところがこれが日本で出たスペンサーの2作目である事は、相変わらず気味が悪い。シリーズものを翻訳する際に話題になりそうなものを先にするのは良くあることで、これもその一つ。背表紙にある「話題のヒーローのデビュー作」ってあらすじがなかったら、きっと後に手を取っていたはずだ。
 実はこのスペンサーシリーズ、全部読もうかどうか悩んでいる。『初秋』はとりあえず面白かったのだが、その他にはあと3、4作読めば十分、という噂も聞いている。とりあえずスーザンやホークが初めて出てくるところまでを順番に読んで、それから決めようと思っていたのだ。『ゴッドウルフの行方』の解説を読むとわかるんだけど、ハヤカワ文庫での出版順は、最初の方が滅茶苦茶で、第1作は2冊目、第2作は7冊目になっている。とりあえず順番に読みたいと思っている人にとってはちょっときつい。まあ、解説を読めばいいのでなんとかなるんだけど。しょうがないといえばしょうがないけど、何となく納得がいかないなぁ。
 ちなみに内容の方は、大学が舞台の物語。スペンサーのキャラクターも特に個性的に感じられるわけではなく、話自体もさほど特別面白くはない。文庫で順番が変わってしまうのもわからないではない。ますます全部読むべきかどうか悩んでしまうなぁ。

 オーソン・スコット・カードの『無伴奏ソナタ』(ハヤカワ文庫)は有名なデビュー作「エンダーのゲーム」を含む短編集。今読んでみるとアイディアや展開が古めかしく感じられるほどの古典になってしまった感がある。SFには常に新しいアイディアや驚きが要求されるような気がして、それが俺の場合、SFを楽しむ障害になっているように感じるときがある。単純に楽しめばいいものを、妙に贅沢になってしまうのだ。
 天才的な音楽の才能を持った少年の悲しい一生を描いた表題作がどうも馴染めない。心のどこかに引っかかりを感じてしまうのだ。人工的な音から遮断された少年がいかにして音楽を創っていくことにのめり込んでいくのか、あるいは存在そのものを音楽に没入させていくのか、その過程や在り方に違和感を感じるのか、どうもはっきりしない。なにかが足りない気がするのだ。
 ロビン・ウィリアムス主演の「トイズ」を思い出させる「エンダーのゲーム」など、カードの短編を読んでいると、昔遊んだおもちゃを引っぱり出して眺めるような感慨にとらわれる。あるいはそんな感覚が、SFやファンタジーの根底にあるのかもしれない。

 今週はこれだけ。なんということだ。日に日に更新が楽になっていく。

 

第2週(8/10〜8/15)

 おお、そういえば、終戦記念日だというのに戦争関係の本を一冊も読んでいない。何となくわざとらしくて気が退けるという理由もあるけど、日付を見ると突然考え深くなる日本人らしさが必要だろうか。まあよし。

 チャールズ・ブコウスキー『ありきたりの狂気の物語』(新潮文庫)は以前に読んだものだが、文庫で出たので再読。ブコウスキーはほとんど借りものだったので、是非文庫でどんどん出していただきたい。

 ロバート・B・パーカー『初秋』(ハヤカワ文庫)は流石に面白い。実はパーカーのスペンサーシリーズを読むのは初めてなのだが、どれもこんなに面白いなら早速全部読みたいが、恐らくそんなことはないんだろうなぁ。相棒のホークの造形が今一なのは、シリーズの中途を読んでいるからか。恋人のスーザンがすごくいい。
 愛をうけずに育った子供を、関わり合いになったスペンサーが自ら自立を教え込む、という物語。日本で失われつつある父親像を見るのはあまりにも平凡な見方だけど、かえってそれくらい泥臭い見方をしてもいいような気がする。菊池光の翻訳を読み慣れているせいか、独特の雰囲気がたまらない。
 ところで友達がこの本の背表紙のあらすじを読んで「ボクシング、大工仕事・・・スペンサー流のトレーニングが始まる。」に大爆笑していた。彼の中にどんなイメージが浮かんだのか、非常に気になるところだ。

 初めて読んで以来、突然ペリー・メイスンを読みたくなる。E・S・ガードナー『光る指先』(ハヤカワ文庫)を早速手に取ることにした。簡単に聞こえるが、近所の本屋にはペリー・メイスンものが全く置かれていないので、手に入れるのが大変なのだ。こんなに面白いのに、どうしてだろう。
 シリーズの最大の魅力はメイスンのしつこいまでの喋りにある。ミステリーとして特別優れたトリックがあるわけでもなく、描かれる人間ドラマもさほど深くない。それでもメイスンという独特のキャラクターとわき役達が、最近のリーガルサスペンスでは味わえないようなものを創り上げている。読み物としてはこれでよい。
 今回は遺産相続を巡る物語。登場してくる人物が片っ端から怪しいのがポイント。途中まで悪さが見え隠れする人物が最終的なメイスンの依頼人になるので、中盤がいちばん面白いかも。

 『週刊少年ジャンプ』(集英社)は毎週定期購読なので書店に2、3冊ためてから読むのだが、なんと今回買ってみたら36号が抜けてしまっていた。わざわざ探すほどもののでもないので我慢して読むことにするとどうだろう。1週抜けているにもかかわらず、全然辛くない。マンガによっては急展開していたり、話が全く分からなくなったりする、と言うことが全くない。週刊誌ってそういうものなんでしょうか。何となくだまされているような思いをかみしめた。

 最近ちっとも本を読んでいないような気がする。不満だ。

 

第1週(8/2〜8/9)

 週の前半で面白い本をむさぼるように読み、疲れ切った後半は、本を買うだけで読まずに過ごす。どうも暑いと本を読む気にならない。目の前に面白い本をぶら下げられても、涼しい部屋でのんびり映画でも見ている方がいいと思ってしまうのだ。おまけにこの夏は、本を読む時間を削って、パソコンに向かっている。最近どうも、書き散らすのが楽しいらしい。

 R・D・ウィングフィールド『クリスマスのフロスト』(創元推理文庫)は季節はずれになってしまったことを差し引いても、特別に面白い、とはいえない。イングランド、デントンの町の警察署の警部フロストの活躍を、彼の下につくことになった巡査の目を中心として進むミステリーで、一見役立たずなようで、勘に頼った推理は結局はずれがおおい、という仕事中毒で品のないジョークにまみれたフロスト警部のキャラクターは、特別に新鮮ではないなりに個性的ではある。同時に品のないユーモア、コロンボ警部のようなとぼけた味わい、銭形警部のような仕事における粘り強さなど、魅力的な様々な要素を持っているせいで、背負わされたキャラクターが重荷になっているように、どこか心に響くものがない。

 ところがその第2作目である『フロスト日和』(創元推理文庫)になると、フロストはもちろん彼を取り巻く警察署の人々が実にのびのびと動くようになり、世界を取り巻く作者の筆もどんどん調子づいて、物語の潜在的な魅力が一気に発揮されるようになるのだ。
 前回と同じように曜日によって章立てがされているが、それが更に日勤と夜勤に別れる。飛び回るように仕事に励むフロストのエネルギーが、物語全体の強力な推進力となって、読み手の心拍数をあおり立てるのだ。短い日にちの中でいくつもの事件が起き、細い意図でつながったりすれ違ったりしながら、フロスト警部と今回彼に引き回されることになったウェブスターにふりかかる。事件という事件に顔を出し、それぞれの間を駆け抜けるように操作していくフロストの姿が、密度の濃いスピード感となってせまってくるのだ。物語もより読者の共感を呼ぶ部分が増えて、完成度も段違い。続きが早く読みたくて仕方がない。

 宮本輝『流転の海』(新潮文庫)は作者も語っているとおりに、「父と子」をテーマとした物語の枠を超えて壮大な大河ドラマとして発展している。戦後から2年たった大阪からスタートする物語は、「父と子」の父のの方、松坂熊吾を主人公として進んでいく。豪快でパワーに溢れた商売人である熊吾は、そのスケールの大きな人間性で、人々の人生の中で大きな存在として浮かび上がる。その様が描かれることによって、日本の戦後史、さらには登場人物達の歴史がそれぞれ印象深く迫ってくる。いやはや、うまい。隆慶一郎の小説の登場人物のごときその圧倒的な熊吾の個性と、様々な小説の要素を取り込んだ物語のスケールの大きさが面白くて仕方がない。
 今後物語は進んでいくのだが、現在探した限りでは第2部までしか発見されなかった。単行本ではもっと出ていくのかもしれないが、またもや続きが読みたくて仕方がない。こういう壮大な歴史にまたがるような話が僕は好きで、その大きなうねりや時間軸に広がる視野に触れるだけで興奮してしまうのだ。実はもう第2部は買ってある。問題は続きが読めないかもしれないという苦痛に耐えて、読むべきかどうかだ。しかし読みたい。ああ読みたい。

 山際淳司『スローカーブを、もう一球』(角川文庫)について、特に喋ることはない。「江夏の21球」を含む8編は、どれをとっても質の高い一流の仕事だ。スポーツと選手、そしてそれをレポートする筆者の個性。この3者の魅力が文句なく輝きを放っているときに、本当のいいものが生まれる。山際淳司が一流であったのは、そのどれもに、惜しみない愛情を注いでいたからではないか、と思う。

 最近、身近な人に本を薦めてばかりいる。あれは相手にとっては相当に鬱陶しいものなのかもしれないが、とにかく面白い本に会うと人に読ませたくなる。一方僕の周りには静かな読書人が多いので、全然本を薦めてくれない。版元お薦めの文庫フェアもいいけど、友達お薦めの文庫フェアを個人的にやりたくて仕方がない。