読み週記 7月

 

 

第4週(7/26〜8/1)

 今週は毎日本ばかり読んでいたような気がしているのに、全然読んでいないのはなぜか。理由その1、何となく昔読んだ本を読み返してみたくなったりして、新しい本に手を出さなくなった。理由その2、最後の洞窟で止まっていたFF7を、今度こそクリアすべくやり直していたから。理由その3、このページをずいぶん書かずにいる間に、部屋中に散らばっている本を、いつ読んだのかさっぱりわからなくなってしまったから。人間的な最低限の生活に、危機が訪れている。

 足立区立図書館の蔵書の幾分かが、「再利用図書」ということで区の施設に「ご自由にお持ちください」と並べられていたので、ご自由にお持ちすることにした。高橋三千綱『BY THE WAY』(新潮社)もその一冊。初版で出版されたのが昭和57年9月となっている。こういう本はとっくに文庫化されて、ついでにとっくに絶版になっている可能性がある。足立区の心優しいはからいがなければ出会えなかったかも。雑誌か何かに載ったものなのか、短いエッセイを集めたもの。いくつか面白い話もあったが、全体的にはまあ出会わなくてもよかったかも。何となく競馬の話が出てくるのを期待していた自分を発見。

 栗本薫『エーリアン殺人事件』(角川書店)もやはり再利用図書。これも初版本で、発行が昭和56年。俺はまだ小学校低学年だった。縁は奇なものである。エーリアン騒動に遭遇した宇宙船でのパニックがいつの間にかミステリーにすり替わってしまうパロディ満載のお話。『エーリアン殺人事件』なんて言ってるわりに、事態が殺人事件らしくなるのは後半からだ。主人公のアル中の宙航士の名前「ルーク・ジョニーウォーカー」にはちょっと笑ってしまいました。なんか笑いの作り方がレトロで。

 増島みどり『6月の軌跡 ’98フランスW杯日本代表39人全証言』(文芸春秋)は、筆者が取材したフランス大会の日本代表の選手、監督、スタッフのインタビューを、大会を追いながらまとめたもの。全体の構成が巧みで、ドラマ、事件、生活といった様々なワールドカップの側面を見事に浮かび上がらせている。未だにワールドカップ関連本が多数出る中、ジャーナリスティックな視点と代表の内側を見せる技術が優れた1冊であると思う。日本の初出場は歴史的なトピックであったと思うし、今後もいろんな角度からあの大会が描かれると面白い。

 6月の始めの方に読んでいたジェームズ・エルロイの「L.A.4部作」をようやく読み終わる。ずいぶん長かったが、そこに描かれている時代もずいぶん長かったのでまあ良し。4部作の最終章である『ホワイト・ジャズ』(文春文庫)は、『LAコンフィデンシャル』にも登場したエド・エクスリーの命をうけた悪徳警官を通して、4部作の背後にまたがる陰謀の歴史に終止符が打たれる。4部作いずれも複雑なプロットの重ね方が偏執狂的なほどで、とにかくそれを把握するのに骨が折れたが、エルロイの情念の固まりのような傑作に仕上がっている。それぞれのキャラクターが持っている暗いパワーにあてられて、物語の力強さがのしかかってくるようだ。『ホワイト・ジャズ』の解説は『不夜城』の馳星周が書いているが、あくまでも「評論家板東齢人」ではなく「小説家馳星周」として書いている気持ちが伝わってきて良かった。ところでこのシリーズ、なんで毎回訳者が違うんでしょうか。

 軽妙なユーモアと父と子の愛情物語にミステリの方が食われてしまうような不思議なドン・ウィンズロウの「ニール・ケアリーシリーズ」の3作目、西部劇のような舞台の『高く孤独な道を行け』(創元推理文庫)では、主人公ニールがまたもう一歩変化している。作品ごとに少しずつ成長しつつあるニールの物語は、ますます今後が楽しみになる。あと2作で終わってしまうのが惜しい感じ。一見今風のミステリー/サスペンスの作りのようで、どこか昔の娯楽読み物の様な雰囲気を持っているのが不思議である。「父さん」グレアムがあまりに出来が良すぎる、という批判はありうるかも。

 最近はすっかり文庫に頼りっきり。書店で単行本のコーナーを見ると、欲しい本だらけなのでなるべく近寄らないようにしている。理由その1、貧乏だから。他に理由がないあたりが悲しい。

 

第3週(7/19〜7/25)

 書き始めてはみたものの、今週の読み週記はお休みである。理由は極めて単純。まさか今週突然再開するとは思っていなかったので、今週何を読んだか覚えていないからだ。ここのところ本読み、及び本探しが今一つ不調で、面白い本は読んだ様な気もするものの、これといってのめり込んだ印象がない。そこで今週は特別に、「本が読めないときの活字中毒者」について書くことにしよう。

 1年に何度か、どうも新しい本をどんどん読んでいこう、という気力に欠けるときがある。パワーというか集中力というか、とりあえず、と思って買った本を持って電車に乗っても妙に気が散って、向かいに座っているきれいなお姉さんのノースリーブから覗く腕やミニスカートの足ばかり見ていたりする。そういえば、本が読めなくなる時期が毎年夏になると訪れるのには深いわけがあるのだろうか。

 なかなか新しい本に手が出ないからといって、それでは何も読まずに生活できるのか、というとそんなはずがない。なにしろ活字中毒というのは、真っ白い壁に囲まれた施設の狭い一室に閉じこめられて、3年間気も狂わずに耐えられた人間ですら、退院のその日に本屋に駆け込んでしまうほどの難病である。実験的に閉じこめられた活字中毒者が1年を過ごした病室を見てみたら、食事用のフォークを使って書かれた文字で壁が埋まっていた、というエピソードがあったとうわさを聞いたような気がしてもおかしくないくらいのものである。何も読まずには生きていけないのである。

 するとどうなるか。まず簡単に筋が追えるマンガに手を出す。ところがこれも欲求不満にあおられるように読んでしまうから、多少では補えない。友達を脅すようにして浦沢直樹・画、勝鹿北星・作『MASTER KEATON』(小学館)全18巻を3度目だというのに読んでみたり、家中のマンガを読み散らしたりする。
 次に過去に読んだ本をもう1度(結果的には5回目だったりもするが)読んでみたりする。これは犯人を知っているミステリではいけない。ただ活字を追って手軽に楽しみたい、という不純な動機の元の読書であるから、先がわかっていても楽しめることが必須の条件になる。こんな時は田中芳樹『銀河英雄伝説』(徳間書店)や、マイケル・ムアコックの「エターナル・チャンピオンシリーズ」(ハヤカワ文庫)などがいい。1度山川惣治『少年ケニア』(角川文庫)を試したことがあるが、これはページの半分がイラストなので、ページをめくるのが面倒くさくてよくなかった。

 電車に乗っていたり、街を歩いていても、自然と活字を探してしまう。そのせいで、こういう時期に限ってやたらと芸能界ネタに詳しくなったりする。隣の人の本が気になってしょうがないし、つい他人の東スポに見入っている自分に気付いて慌てたりもする。

 次にユーモアの多いエッセイや小説に惹かれるようになる。そうして徐々に書店に足が向くようになって、つい面白そうな本を見つけてしまうのだ。これが全ての不幸の元。自ら望んで埋没への日々が再び始めるのである。せっかく本を買わずにすんだおかげで残っていた金が反動で消えていき、未読の山が増える。新しい本を買う気がしなくなる時期になぜこれら未読の山に目がいかないのか、不思議でしょうがない。