読み週記 3月

 

 

第一週(3/1〜3/7)

 ちょっとだけ時間に余裕ができたので、これ幸いと本を読む。「3月〜はひなまつりで酒が飲めるぞ〜」という酒飲みの歌を思い出す。何かといいわけを作って本を読んでいる自分を発見。

 余裕ができたくせになぜか文庫ばかりに手を出す。読売新聞の書評欄に載っていた本が買いたいのに、近所の本屋においていなかった腹いせだ。

 ジョー・R・ランズデール『ムーチョ・モージョ』(角川文庫)は向こうで出版された順番と逆に翻訳されているシリーズの第2作目。第1作目はまだ翻訳されていない。第3作目は既に出版されているが、あえてそれを避けてこちらから読むことにした。白人の主人公ハップと、その相棒であるゲイの黒人レナードのコンビが、レナードの叔父にまつわる事件の捜査に乗り出す物語。黒人差別の問題に加えて、ゲイの差別の問題まで加わって、2人と人々のつながりは微妙な形を作る。会話もおもしろくて、なかなかの快作。

 稀覯本にまつわる『死の蔵書』(ハヤカワ文庫)、『幻の特装本』(ハヤカワ文庫)のジョン・ダニングの過去作『封印された数字』(ハヤカワ文庫)は、本にまつわるミステリーである他の作品とは全く違う、無意識の世界に影響される宝探しの物語。雰囲気も全く変わっているが、本関係のミステリーと比べるとずいぶん落ちる気がする。

 かねてから欲しかった隆慶一郎『捨て童子・松平忠輝上・中・下』(講談社文庫)を一気に読む。見つけた限りでは、隆慶一郎の完結した長編は全部読んだことになる。未完の長編がいくつかあって、未完とわかってしまうとどうしても手が出ないのだが、いつか読むことになるのだろうか。本当に惜しい。同じ著者の『影武者徳川家康』(新潮文庫)と同じ時代を描いているのに、「家康・影武者説」は出てこない。『捨て童子』を読むと『影武者』の方では忠輝がどう扱われたいたのかが気になって、つい読みたくなってしまう。長い話だし、題名を見たらなんの話かは分かるので内容には触れないが、とにかくあまりに短い作家期間を惜しむばかり。

 エリザベス・フェラーズの『猿来たりなば』(創元推理文庫)は何とも言えぬ読後感。古典的なミステリーのスタイルを取りながら、ホームズとワトソン役を取り替えてしまうなど、たくらみも多い。謎の意外性やトリックの凝り方などはさほど優れているとは思わないし、語りに荒い部分も多いが、最後に思わずうならせられるような部分もあって、なかなかおもしろい。もっと評価されてもいい作家だと思う。

 ここだけの話だが、『週刊プレイボーイ』(集英社)は本当におもしろくなくなった。かつて大物ジャーナリストを多数輩出した雑誌なのに、今ではくだらない記事が多い。「インターネット大規制時代が始まった」という記事が読みたかったのだが、結局ただの天下りの話に終始。天下り、好きだねぇ。ところで、昔のジャンプのマンガが『週刊プレイボーイ』にやたらと集まっているような気がするのはなぜだろう。「キン肉マン2世」が連載されているのは知っていたが、いつの間にか宮下あきらの「天より高く」に「魁!男塾」のメンバーが登場しているのには驚いた。なんと、剣桃太郎が総理大臣になっているのである。なんということだ。

 『まんがくらぶ3月号」』(竹書房)については特に言うことはなし。大橋ツヨシはおもしろいのだが、当たり外れがあるのが難点。なぜいつも古い号ばかりなのかというと、人にもらって読んでいるからだ。

 

第2週(3/8〜3/14)

 本屋に行く機会が減ってきたので、まとめ買いをしたくなる。非常な誘惑に耐えつつ本を買う。

 デニス・リーマン『囚人同盟』(光文社文庫)が大当たりだ。現役の囚人である作者が、雑居房に新しく入ってきた恐ろしく頭のいい、囚人らしからぬ男によって生まれ変わっていく囚人達の姿を書いた小説で、刑務所内部の魅力的な面々や生活の描き方は当然のようにリアル。なのかどうか、つかまったことがないのでなんともいえないが、刑務所の暮らしも国によって大分違うであろうから問題はますますややこしい。それでも、囚人の中には何人か是非ともお友達になりたいような愉快な奴がいるし、かといってこの刑務所には絶対に入りたくない、と思わせる。話の展開もスピーディーで、にやりとさせられるエンディングに向かって一気に駆け抜ける。とにかくおもしろい。

 スティーヴン・キャネルの『殺人チャットルーム』(徳間文庫)には「チャットルーム」はほとんど出てこない。物語のキーになるのは、優れたハッカー同時の戦いと、精神病質の男の恐ろしい犯罪で、この犯罪者が同時に優秀なハッカーであるから始末が悪い。無茶の多い関税局の捜査員、女性プロファイラー、収監されている天才ハッカーのチームが事に当たるこの小説は、実にアメリカらしいサスペンスの手法に、ハッカーとプロファイラーの魅力をぶち込んだ力技の作品。とくにコンピューターに関する言葉が訳が分からなくて、結果としてどうなるかがわかっても、その過程でなにが行われているのかが全くわからないのだが、それがかえって奇妙な味になっている。もっともわかっちゃう人もいるんだろうけど。

 エリザベス・フェラーズ『自殺の殺人』(創元推理文庫)は先週読んだ『猿来たりなば』に比べるとずいぶん落ちる気がする。主人公であるトビー・ダイクの一人称で語られた全作に比べて、ちょっとまとまりが欠けてしまっているし、相棒のジョージのキャラクターがずいぶん変わってしまった気がする。今作でその過去が少し明らかになるわけだが、はたしてうまくいっているのだろうか。自殺を止められた老人が翌日に死んでしまい、それが自殺と他殺のどちらであるかという推理がころころと変わる様子はうまい。

 東海林さだお/椎名誠の対談集『ビールうぐうぐ対談』(文芸春秋)は久しぶりに椎名誠に接する思い。30も年上の人達にやけに共感するのはなぜだろうか。対談集というのは、もちろん多少の意識はあるだろうが、基本的にはただの会話が本になるわけで、冷静に考えると酷い商売でもある。ただそれに金を出す人が確かにいるわけで、それは共感をしたいからなのか、単におもしろい会話を聞いてみたいからなのかが不分明ではある。読みながらふと思ったのだが、どうしてもっと若い世代の対談集がないのだろう。きっとおもしろくなくておもしろいだろうに。

 隆慶一郎の長編をあらかた読んでしまったのだが、何となくもっと読みたいので、エッセイ中心の『時代小説の愉しみ』(講談社文庫)を読む。本人が後書きで述べているように、本当にまとまりのない本である。かつての恩師小林秀雄などのエピソードがあったかと思えば、日常の出来事や、歴史上の人物についての考察があったりしている。もちろんどれも読んで楽しいのは一緒だが、なんと言っても小林秀雄のエピソードが圧倒的におもしろい。隆慶一郎の描く「おとこ」のイメージには小林秀雄がずいぶん影響を与えているのだろうなぁ、と思う。

 池袋のリブロで本を買っていたら、隣に並んでいた人が高橋源一郎『退屈な読書』(朝日新聞社)を持っていたので慌てて探しに行く。源一郎の小説は出るまでが非常に長いのに、エッセイや文学批評は気付くと出版されているので気が抜けない。相変わらず、鋭かったり煙に巻いたりの文芸批評で、笑いながら読んだ。昔から女子高生言葉は酷いと思っているが、その言葉の思わぬ価値に気付いている人はどれくらいいるだろう。僕は「コギャル言葉」が大っ嫌いだが、思わぬ真実が隠された言葉であったりするので、おろそかにはできない。

 

第3週

 今週はたった1冊。読みかけの本ばかり増える事がたまにあるので困る。でかい本は読むのが疲れるので、時間がかかるのだ。長持ちしてよい、という考え方もある。

 チャールズ・ブコウスキー著、ロバート・クラム画『死をポケットに入れて』(河出書房新社)の翻訳者中川五郎は大失敗をしている。ブコウスキーのファンならば、死の数年前に書かれたブコウスキーの日記が読めるならば、この本を買うだろうし、ブコウスキーを全く知らない人は恐らく買いそうにないので、たいして重要でないと思うかもしれないが、邦題『死をポケットに入れて』は大失敗だと思う。原題『THE CAPTAIN IS OUT TO LUNCH AND THE SAILORS HAVE TAKEN OVER THE SHIP』は一番最後の日記の文頭に書かれている文章だが、これをそのまま使うべきだった。中川自身これを「船長は昼食に出かけ、船乗り達が船を乗っ取ってしまった」と訳していて、特別すばらしくはないが、いい訳だと思う。本の題にこのまま使っても全く遜色がないし、最初に挙げた理由で本の売れ行きを大きく左右することはないだろう。確かに『死をポケットに入れて』の方が一般向きだとも思うが、そのまま使ったほうが圧倒的に「ブコウスキー」らしい。詩を書いていて思うのが、ちょっとした短い言葉を発したときに、それによって恐ろしく大量の意味を発してしまい、他の長い文章が全然いらなくなってしまう瞬間がある。その言葉に巡り会ったときに一つの仕事が終わるし、だからかどうかは知らないが、この日記もこの表現が出た日に終わっている。多分ブコウスキーはその日の日記で終えるつもりで「船長は〜」を書いたんだと思うんだけど、読者は最初にこの言葉が題として与えられた上で作品を読み、最後に再び出会うまでの過程を愉しんで終わる。そうやって完成される本だと思うのだ。日記でありながらあまりにも詩的なこの作品を生かすために必要な題だったと、強く言いたい。ロバート・クラムの絵は日本人には馴染みにくくてちょっと怖かったが、ブコウスキーの原語の文章が一緒に載せられているのが嬉しい。原語の詩集を是非1冊読みたいのだが、なんと言っても洋書の棚は探しにくい。困ったものだ。

 

第4週

 近くの書店で雑誌の定期購読を頼むのは非常に便利だが、こまめにもらいに行かないとたまってしまって大変なことになる。レジの後ろの棚に並べられた大量の『週刊少年ジャンプ』(集英社)を見るとなんだかいたたまれないような気持ちになってしまうのだ。

 そんなわけで、放置されていた『週刊少年ジャンプ』の14〜17号までを読む。読まないマンガもいくつかあるのに、4週分もたまるとさすがに時間がかかる。前にも書いた気がするが、過去の天才にとりつかれた少年が、囲碁にはまっていく、ほったゆみ・小畑健『ヒカルの碁』がおもしろい。このマンガで空前の囲碁ブームが来たりするのだろうか。プレステで若者向け囲碁ゲームが出たりして。

 これも毎月のことだが、『本の雑誌』(本の雑誌社)を読むと必ず読みたくなるような本が出てくる。特に今月目を引いたのが、茶木則雄が紹介している天童荒太『永遠の仔』(幻冬社)が気になってしょうがない。上下巻なので、買うにもちょっと気が引ける。でも読みたい。ううむ。

 先頃のインテルのチャンピオンズリーグ敗退で、一気に今シーズンの気合いがトーンダウンしてしまったが、『ワールドサッカーダイジェスト』(日本スポーツ企画出版社)のリバウドのインタビューには注目してしまった。ワールドカップではブラジルの不振ばかりが目立ってしまって、あまりいい印象を残せなかったが、密かに各国の10番に注目していた俺にとっては、リバウドはかなり注目した選手。あまりにも地味な雰囲気のせいか、日本ではたいした評価を得られなかったみたいだけど、ブラジルの攻撃を一手に担っていたし、そのセンスはジダンと比べても決して見劣りしていなかったはずだ。

 その『ワールドサッカーダイジェスト』の増刊号『チャンピオンズ・オールスターズ日本版』(日本スポーツ企画社)は、有名な選手達の短いストーリーを並べた物。「日本版」ということは、世界各国で出版されている物なんだろうか。「他のスポーツ選手に比べて、金銭的なもらいが少ない」という記事がおもしろかったが、日本のサッカー選手と比べてもらいが少ない、とは思うぞ。

 シェリー・タークル『接続された心』(早川書房)を探すのには苦労した。ジュンク堂で探したのだが、心理のコーナーにあるかと思いきや、コンピューター書の扱い。MITの教授をしている臨床心理士が書いた本で、心理学/社会学的な調査をベースにした物なのだが、コンピューター書かぁ。仕方ないかも。前半はコンピューターの発展の過程において、人間のコンピューターとの関係性が変化していく過程が描かれている。後半はインターネット時代における人々のアイデンティティの変化について。コンピューター時代になって人々のアイデンティティが変わりつつある、ということではなく、アイデンティティの定義自体が新しい展望を見せ始めている、ということだ。本文の大部分に登場する、テキストベースのゲーム「MUD(マルチ・ユーザー・ドメインまたはダンジョン」についての調査が非常におもしろい。要するにコマンドの入力によって、仮想世界での行動が行われる、という仕組みで、進化したチャットのようなものだと思う。チャットやBBSで与えられる匿名性が、人々の自己表現に新たなアプローチを与えたのはたしかで、思いも寄らぬようないい影響を与えることもあるが、結果として逃避の手段になることもある。新しいコミュニケーションツールとしてのコンピューターが、人々にどのような影響を与えるのかという事について、マクロな視点での調査が待たれる。本当にどうなってしまうんだろう。所でこの本、コンピューター書の扱いだけど、心理の人じゃないとわかりにくいような話もたくさん。どちらの層に受けるのか皆目見当がつかない。

 ジョー・R・ランズデール『罪深き誘惑のマンボ』(角川文庫)は抜群におもしろい。翻訳順ではあとになるその前作『ムーチョ・モージョ』(角川文庫)を遥かに凌駕する面白さ。相変わらず品のない言葉だらけの、文部省の悪書排斥運動(ナンてものはないと思うけど)に引っかかって焚書にされないのが不思議。ただそこに描かれた、今なおアメリカの地方に根強く残る黒人差別の描写は恐ろしくリアルで、本当に恐ろしい。リアル、だなんて言って本当にどうなのかは知らないが、あり得ると思う。主人公の2人の会話も圧倒的におもしろくなっているし、前作に比べて明らかに造形が明確になり、作者もやりやすくなっているようだ。ただ間違いなく、翻訳順ではなくアメリカでの出版順に読むべき。もっともシリーズ第1作はまだ翻訳されていないんだけど。

 いくら日本人の作品をほとんど読まないからって、松本清張を読んだことがないのはマズい。と焦って買ったのが有名な『点と線』(新潮文庫)。いやはやびっくり。確かに読み物としてはおもしろいが、あまりにもあまりなトリックにはびっくり。当時の社会を考えれば成り立つのかもしれないけれど、今の人が読んだら怒ります。絶対。

 

第5週

 他人には関係のない話だが、俺の祖父は仏文の教授だった。その孫はとんでもない役立たずに育ってしまったが、もう一つ亡き祖父に申し訳ないと思うのが、俺がフランスが大嫌いだという点だ。まずフランス語が気にらない。あのはっきりしない発音が嫌だ。ワールドカップのフランス代表は良いチームだったし、好きな選手がいないでもないが、やっぱりイタリアかオランダに優勝して欲しかった。ついでに言えばフランスの映画もあまり好きではない。他にも色々あるが、もう一つ、フランス文学も気に入った作品にほとんど巡り会わない。

 レジーヌ・ドゥダンベル『閉ざされた庭』(東京創元社)は公園で目の前で恋人をレイプされたことを悔やみ、そこから出ることもなくホームレスになった少年の話。実はホームレスになる物語は一度書いてみたいと思っていて、それなら実地にホームレスになってやろうかと思ったこともあるのだが、知人に「もしホームレスになったあなたにあったら、他人のふりをする」とつれないことを言われてやめたことがある。そんな人は立派なホームレスにはなれないと言われればそれまでだが、それはそれとして、視点はおもしろいし、独特の世界をうまく書いているとは思うけれど、どうもいけない。共感と納得を得るために、なぜか一枚不快感の壁があるのだ。なかなか理由がわからない。俺達とは違った意味で正直すぎる感性のせいなのかもしれないとも思う。こう言うとき、俺はとりあえず「フランス」のせいにすることにしている。

 パトリシア・カーロン『ささやく壁』(扶桑社ミステリー)はおもしろかった。何となく大雑把なオチが読めてしまうサスペンスは好みではないのだが、これは読むのを止めることができなかった。発作によって全身まひに陥った老女が、ベッドに横たわったまま恐るべき殺人計画を知ってしまい、何とかそれを防ごうとする物語。非常にユニークな設定だけに、「同じようなシチュエーションが〜の小説でも・・・」と言った具合に前例を取り上げられてしまうのが不幸といえば不幸だが、それをおいても語りの上手さで見事に終わりへと導いている。最後はやや反則ともとれるが、すぐ目の前の解決になかなか結びつけない、というサスペンス独特のもどかしさを非常に巧みに創り上げている。これだけの小説があるのに、小説界の流行りに合わなかったためになかなか評価されなかったカーロンをみるにつけ、ホントに流行りとはむごいと思う。小説、文学に限らず、時代の流れによって存在を消される業績のなんと多いことか。

 ピーター・ワトスン『まやかしの風景画』(ハヤカワ文庫)は帯につられてつい買ってしまう。「一枚の絵から始まる胸おどる宝探し」と書かれた下に「本書には、鍵となる風景画がついています」とある。気になって開いてみると、おお、確かに初めになにやら思わせぶりな中世風風景画があるではないか。なるほど、読者はこの風景画を見ながら主人公達と一緒に謎解きを・・・と考えながら自然とレジに持っていってしまうのである。ところがなんと、この絵にこめられた暗号の複雑なこと。確かに何度も絵を参照してしまうのだが、読者が絵を見ながら解ける謎はそんなに多くない。一つ一つの言葉が宗教的な意味合いを持っていて、それを解き明かすことによって謎を解決する。つまりそんな知識無しには、謎などとけるはずもないのだ。ところがそれだけに、事典とにらめっこしながらそれを解き明かす主人公達の小さな一歩一歩から目が離せない。なるほど宝探しである。暗号解読による宝探しなので、その姿はまるで研究中の学生のよう。読者は実際には絵だけでなく、主人公達が参照する文章の中から謎を解く鍵を探していくのである。ううむ。「宝探し」には偽りはない。

 友達に「児童文学の恐ろしさを味合わせる」と薦められた灰谷健次郎『兎の目』(角川文庫)を読んで以来、どうも灰谷健次郎が怖くて読めない。そこにつづられる子供達の姿はそこはかとない「痛み」を伴わせずにはいられないのだ。それはもしかしたら、自分たちが参加している、あるいはしつつある「大人の社会」へのある種理想主義的な疑問とどうしても向き合わざるを得ないからではないだろうか。文明社会の一員として、例えば岡崎照男訳『パパラギ』(立風書房)のような異なる視点を持ち出されたとき、俺達は何らかの理論武装のしようがある。その武装を無意味にさせてしまうようななにかが、灰谷文学にはあるのではないだろうか。灰谷健次郎『せんせいけらいになれ』(角川文庫)を手にとって、見つけてしまったことを後悔したときに、そんな「痛み」がふとよぎる。個々には子供達の生き生きとした詩が収録され、灰谷自身の詩の授業のような面もちがある。ブコウスキーの詩を読むとなぜか詩を書かずにはいられない気持ちになるが、子供達のこの詩を読むと、詩を書くなどとっととやめたっほうがいいのでは、と思ってしまう。ほら、やっぱり「痛」かった。