読み週記 5月

 

 

第4週(5/24〜5/30)

 いくつかの図書館で専門書を手に入れたのはいいが、返却期間があるため早く読まなくてはならない。当たり前の話なんだけど、つい調子に乗って借りすぎてしまったので、時間がなくなって大変である。

 北上次郎『余計者文学の系譜』(角川ソフィア文庫)は、今までに著者が書いた角川文庫への解説文のいくつかをまとめたもの。文庫解説が本になるとは知らなかった。圧巻なのは一番最初の阿佐田哲也論。もちろん加筆したり、いくつかをまとめたりもしてるんだろうけど、書評家として、ギャンブル好きとしての気持ちがこもった阿佐田論は密度が高い。解説が茶木則雄だったりしてちょっと驚いたが、その解説にある話にまたびっくり。北上次郎が月に読む本の数50冊にも驚いたけど、それよりも1月に150冊も本を買うという事実。そんなに未読の本をためてどうするつもりなのか。雑誌の編集長でもあり、ギャンブルエッセイの書き手でもあり、テレビに出たり大学で教えたりもしているという多忙な人でもあるが、とにかく異常である。

 アイラ・レヴィン『死の接吻』(ハヤカワ文庫)は、読む前から何となく気が乗らなかった。読む本がなくて家をあさっていたら出てきた本なんだけど、なんとなく心に響くものがない。こうなるともう直感のレベルなのでなんともいえないけど。
 これがまた意外なことに、中盤くらいからどんどん面白くなる。3部構成になっていて、それぞれ3人称で語れらながらも、心理描写の中心が微妙に移り変わっていて、独特の風味を醸し出している。金持ちの娘との結婚を狙う男の冷酷な犯罪の様がなにやら恐ろしげでよい。巻末の解説、紹介文が山ほど載っているのはいいけど、ちょっと退屈してしまう。

 宮城谷昌光の有名な作品『重耳』(講談社)にあえててを出さず、その登場人物の1人である介推の活躍を描く『介子推』(講談社文庫)にいったのには、大きなわけがある。ともに文庫で出ているものの、『重耳』(講談社文庫)は上・中・下の3冊でこちらは1冊。そう。金がないのだ。思えば、隆慶一郎『影武者徳川家康』(新潮文庫)にをなかなか買えずに、結局友達に借りるまで我慢していたのも同様の理由からだ。なんと悲しいことか。
 中国ものは固有名詞がワープロでは表示しにくいのであまり書きたくないのだが、そうもいかない。主人公の介推は極めて理想主義的な中国の英雄。長年の放浪の末にやっと母国に帰り、やがて覇業を成し遂げる重耳の部下のそのまた部下として働くことになる。一度気に入った人物はとことんまで信用したい、という思いを持ちながらも、自分の主君や統治者に対しては常に厳しい視点を保ち続ける。その生き方には妥協を許さない芯の強さがある。

 『月刊ワールドサッカーダイジェスト』(日本スポーツ企画出版社)の7月号は、ユーゴの問題についてのマーティン・ヘーゲレの記事が素晴らしい。この人はかつてはドイツサッカーについてのコーナーを担当していた人なんだけど、サッカーを取り巻く様々な事について取り上げる此のコーナーを始めてからますます面白くなった。日本ではストイコビッチなんかが平和を訴えたりすると愛国心を称揚したりしているけど、あの地の民族紛争やら独裁者の意図なんかはいまいち伝わっていない。平和を求めるのは当然としても、その平和のためにどんな道筋を通るのか、日本人はあまりにも軽率すぎる。

 『月刊ワールドサッカーダイジェスト』の増刊『ワールドサッカーダイジェスト ロベルト・バッジョ特集号』(日本スポーツ企画出版)をつい買ってしまった。時折バッジョって顔がよすぎるせいで「サッカーの歴史的なヒーロー」としてはマイナスポイントを抱えてるんじゃないかと思ってしまうことがある。もっとも、俺がワールドサッカーにのめり込むようになったのはそう昔のことではなく、見始めの頃のもっとも偉大なヒーローがバッジョであったため「俺の時代のヒーロー」って意識が強い。過去の偉大な選手達やこれから出てくる名選手もいいけど、やっぱり見始めの頃にインパクトを与えてくれた選手達のことが一番好きだ。俺はマラドーナにすらちょっと遅れていて、そうなると必然的にバッジョが浮上してくる。ミカエル・ラウドルップが俺的にはかなり上位なんだけど、ドリブラーの頃は見てなかったからなぁ。

 5分の4くらい読んだ所で未読の本に埋もれてしまっていたチャールズ・ブコウスキーの詩集『指がちょっと血を流し始めるまでパーカッション楽器のように酔っぱらったピアノを弾け』(新宿書房)を読了。このページに詩なんか書いているくせに、実は俺は全然詩を読まない。だけどブコウスキーは面白い。もっともっと詩集を出して欲しい、と全国のブコウスキーファンが祈っているかどうかは謎である。洋書のコーナーを探しても、小説しか置いてないし。
 関係ないけど、あるページの掲示板から飛んだまたあるページのウェブマスターが「好きなもの」にブコウスキーの名前を挙げていて、なんだか感動してしまった。とにかくみな、ブコウスキーの詩を読め。そして俺にこの本の英語版をくれ。詩を訳で読むのってなんだか激しくナンセンスに思える。

 

第3週(5/17〜5/23)

 今週は何となく数が多いような気がするので駆け足で。

 島村洋子『せずには帰れない』(双葉文庫)と『家ではしたくない』(双葉文庫)は、著者が言う通り、姉妹編の様な2冊。題名に使われている「する」という動詞がさしているのは、要するに「例のヤツ」。「いたす」とか「いいこと」とか「スケベ」とかいろんな言われ方をしてるけど、最近はやりの「Hする」という言い方はなんだか可愛く飾り付けたオブラートで誤魔化されているような気がして、何か卑怯な印象さえある。「明るく楽しいSEX」みたいな戦略でどんどん簡単な物にされている。「キティちゃんコンドーム」とか売春を「援助交際」に置き換えるのにも、同様の策略を感じるのはおいらがおっさんなだけなんだろうか。そうかも。
 「エッチもののコラム」ってな様相でつづられた島村洋子のこのエッセイは、全編その話でいっぱい。何がすごいって本人や友人が直に体験したことがもろに暴露されているので、読んだ関係者が慌てたかどうかは謎。ただ、あっけらかんと思うままを語るそのやり方は、時代にあっていて巧みだ。ただのセックスエッセイとはひと味違う面白さのなかに、心と体の関係をうまく浮かび上がらせるのがさすがだ。これ、どれくらいの層に薦められるのか、ちょっと悩んじゃいます。5、6年前の双葉文庫を置いている本屋もあんまりないけど。

 俺が本物のえせミステリーファンであることを証明するのが、レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(ハヤカワ文庫)を読んでいなかったという事実。「海外物のミステリーが好き。ハード・ボイルドなんていいよね」なんて言っているくせに、およそ古典を読んでないんです。遅読のくせに興味本位でいろんな所に手を出すもんだから、いろんなジャンルの「オールタイムベスト」に入りそうな名作、読んでないのが多いんです。
 そんなわけでなぜか家に転がっていた同書を読む。いまさらこういう古典を読む辛さは、いくつかのトリックやディティーるがその後の他の作品に出てしまっていること。もちろんそんなことで作品の価値が落ちるわけではないけれど、何となく悔しい物を感じるのも事実。ハードボイルド界の名優の1人、フィリップ・マーロウの、偶然に知り合った男との友情にたんを発する物語は、ただただかみしめて読むばかり。独特のユーモアは、やや暗めの物語にちょうど良いアクセントとして効いている。

 森博嗣『すべてがFになる THE PERFECT INSIDER』(講談社文庫)には腹を立てても良いんでしょうか?ちょっと変わった題名と裏表紙にある「新しい形の本格ミステリィ」って言葉につられて買った本だけど、謎とトリックはともかく、人間の描き方、特に前半部分にはずいぶんと問題があるように思えるぞ。まずこうも天才ばっかりでてくるのはどうか、という疑問もあるけど、主人公の1人、西之園萌絵(この名前もすごいが)のお嬢様ぶりが凄まじい。出てくる登場人物がみんなヤングアダルトものの「行き過ぎたステレオタイプ」みたいな印象が最後まで拭えないのは、なぜなんでしょうか。最後までその正体が謎な儀同世津子なんかも、キャラクターづくりといいその正体といい、あまりにも陳腐。ただ、提示される謎とそのトリックは非常に大がかりで、アイディアとしては面白いんだけど、それだけに登場人物がアイディア提示のための物語のパーツにとどまってしまっているのが何とも惜しい。
 ところでこの本、著者も日本人で国内ミステリーなのに、本文の表紙部分の日本語題が「すべてがFになる」で、その前のページにある英語の題が「THE PERFECT INSIDER」になってる。翻訳物の場合そのページに原題が書いてあって、邦題との違いを確認できたりするんだけど、国内書で両方があるのが不思議。「すべてがFになる」の「F」が英語で下品な言葉である、いわゆる「”F” WORD」のことなのかなー、と思ってしまった俺の貧相な感性が更に不思議。

 宮城谷昌光はずいぶん前から気になっていた著者。中国歴史小説を書く人で、取り上げる題材が『重耳』(講談社文庫)とか『介子推』(講談社文庫)とかで、その辺も気にはなっていたんだけど、何より気になっていたのが、その名前の読み方であった、ということは内緒。「ミヤギタニ マサミツ」って読むんですね。素直に読めばよかったのか。
 買って読むまでこれが短編集だとは知らなかったので、表題作「侠骨記」が終わった瞬間にはびっくり。歴史物は長編の方が好きな俺としてはちょっとがっかりだったんだけど、内容は十分に面白い。斉の名相として知られる管仲の時代を描いているけれど、主人公は隣の国魯の「そうかい」(すまん、字がでない)。軍事にくらい国にあって、軍師として名をあげた賢臣の物語だ。
 一番面白かったのが2編めの「布衣の人」。読み始めた時には、主人公の俊が、どの時代の誰なのかがさっぱりわからなかった。中国史でも古い時代なんだろうなぁ、とかってに予想はしてたけど、中盤で「帝」が出てきた瞬間に疑問が氷塊。なあるほど。
 名前もわかったことだし、今度は長編が読んでみたい。

 ウィリアム・アイリッシュ『幻の女』(ハヤカワ文庫)は妻殺しの嫌疑を受けた男が、アリバイを証明する女の事をほとんど覚えていないせいで、死刑が確定してしまうお話。刑の執行日が迫る中、男を救うために友人がその女を捜して走り回るが、どうしても女の存在が証明できない。こういう出来の良いサスペンスは読み出すと止まらないので恐ろしい。最後のどんでん返しもうまいけど、どんでん返しの瞬間にまた新しい疑問が生まれて、それがもう一度解決される快感は、よくできている。サスペンスが嫌いでない人は今すぐ読むべし。

 知らぬ間に続巻がでていた川原正敏『海皇記』(講談社)の2〜4巻を一気読み。『修羅の門』(講談社)に見え隠れするナルシスティックな作者のかっこつけは相変わらず。3巻にはガルハサンの軍師アル・レオニス・ウル・グハラが登場して、ますます伝奇物マンガの様相が深まっていって嬉しい。伝説の魔道士を捜す少女マイアの顔が変わりすぎるような気がするのが難点だ。背景真っ白が多いって?気にすんな。

 唐沢なをきのコミックはいつどこから出るのかわからないので全く油断がならない。こういうのをちゃんとチェックして購入してくれる友人がいるって素晴らしい。
 そんなわけで唐沢なをき『学園天国』(集英社)を読む。学校にまつわる短いマンガ集。唐沢なをきのマニアックなくだらなさが、俺は微妙に好きで、これはわかる人にしかわからないだろうなぁ。

 『週刊少年ジャンプ』(集英社)の24、25号を読む。真倉翔・岡野剛の「地獄先生ぬ〜べ〜」が終わったけど、とくに毒にも薬にもならない作品だと俺は思っていたのでこれといった感慨もナシ。夢中になるような新連載が欲しいところ。

 以上、全然駆け足にならなかったけどおしまい。

第2週(5/10〜5/16) 

 『本の雑誌』(本の雑誌社)の欠番がいくつか見つかったので、それと合わせて1997年12月号(174号)までを読む。読みたくなる本が山ほど出てくるが、現在、近所の書店で手に入れるのは難しい。何とかして欲しい。『本の雑誌』の1997年はなかなか熱い内容が所々にあって面白い。要になってるのは偶然にも1997年3月号。ながらく本の雑誌で書評を書いていた板東齢人は、実はベストセラーになった『不夜城』(角川書店)の著者馳星周なのだけど、3月号にはその最後の書評が載っている。『本の雑誌』では基本的に執筆者が関わった本(書いた、訳した)など)は取り上げないことになっているので、『不夜城』は誰も取り上げなかったのだが、なんとそのほんの2ヶ月前の1月号での「私のベスト3」で関川夏央が例外として取り上げていて「出てくるチャイニーズが全然リアルではない。ミステリー評論家というのもあてにならないと思い知った」と酷評してるのだ。だからどうしたと言われても困るけど、ちょっとすごいなぁ。
 『本の雑誌』ネタが続くけど、その話題の3月号の特集は「この10年のSFはみんなクズだ!」という思い切ったタイトルが付けられている。これは最近出版業界がSFという名前を付けて本を売ることにやや及び腰になってるのは、SF自体ではなく、SFというジャンルの一般的な認知が衰えてきてるかも、ってことを問題にして、「もっとがんばれSF」というつもりの特集なんだけど、この特集での鏡明と高橋良一の対談が波乱を呼んじゃった。この特集に触発された日経新聞が「SF冬の時代」なんて言い出しちゃったこともあって、『SFマガジン』(早川書房)が5月号で大激怒。怒りの反論記事の特集が組まれて、感情むき出しの文章まで出てくる始末。なんだか大変なことになってしまっていた。俺としては『本の雑誌』側の主張のほうが納得できるけどなぁ。明確に1ジャンルとしてのSFは、本当にコアな人々だけの物になりつつある。それは「SF」というジャンルがもつイメージが明確になってきて、それが「難しい」とか「近寄りがたい」ってイメージになっちゃったことが問題なんだと思うんだけどね。人に本を薦めるときに「面白いSFだ」っていうと薦めにくいし。

 ひょんな事から『NATIONAL GEOGRAPHIC日本版』(日経ナショナルジオグラフィック社)の98年3月号が手に入ったので読む。さすがに作り込んでいる雑誌だけあってよくできている。ただちょっと痛いのがこの号がたまたま虫の特集をしていたこと。実はおいら、虫が大嫌いで、表紙にいきなりどアップのカブトムシがいただけで本を落としそうになったくらい。あまりに出来の良い写真も、場合によっては考え物だ。
 ただこの雑誌を読んでいて急に例のSF論争を思い出した。SFの価値っていうのは、普段の生活で俺達が持ってる物とは全く異なった視点、視野を、フィクションの面白さを与えてくれることにあるんじゃないかと思う。『NATIONAL GEOGRAPHIC』みたいに、レポート、ジャーナリスティックな方式でなく、物語として宇宙やミクロの世界が語られ、それによって、「本当は身の回りにある異世界」を身近にしてくれるのが、SFの一番の魅力なんではないだろうか。ホラーやミステリーの殻をかぶった最近のSF風小説群が同様の喜びを与えてくれていることは評価されるべきだし、その点では『本の雑誌』側も、『SFマガジン』側も一致しているはず。問題はSFというジャンル自体がポピュラリティーを得られるかどうか。コアなSFが難しいのは、そこにたどり着こうと思うだけの魅力を持たせるための後押しを、SFというジャンルができていないことにあるんじゃないのかな。

 女子大の愉快な哲学教授、土屋賢二の『われ笑う、ゆえにわれあり』(文春文庫)は、たまたま気持ち的になんにでも笑ってしまう時期だったこともあって、笑いながら読んだ。何しろ最近面白いことが多すぎる。まずテレビが面白い。若い女の子達が山ほど出てくる番組などは、女の子達があまりに同じ様な感じなので「おお、テレビ間違い探しだ」と思って笑ってしまうし、歌番組かと思って見てみると実は「タレントカラオケ大会」だったりしてまた笑ってしまう。いくら日本人の歌手がほとんどいなくなったからって、全部の歌番組をカラオケ大会にするとは大胆な発想だ。
 ええと、話がずれたけど、とにかく「疑う」、「そして新たな角度で見る」という哲学の基本を、サービス過剰なまでのユーモアにくるんで語る著者の心意気は買うぞ!

  先週読んだ弁護士ペリー・メイスンが面白かったのでもう1冊購入。とにかく翻訳第1作がどこにもないため、とりあえずある物を買ってしまおうと思ったら、長編の邦訳最後の物とのこと。順番滅茶苦茶である。まあよし。E・S・ガードナーの『不安な遺産相続人』(ハヤカワ文庫)の面白さは圧倒的なスピード感にある。次々と物語が展開するため、息を継ぐ暇もなく一気に読んでしまった。遺産を得るために遺言状を巡ったトリックを重ねる展開は確かに古典的ではあるけれども、エンターテインメントの基本と作品の特徴がしっかりしているために飽きが来ない。ミステリーにおいても、生き残れる古典はたくさんあるのだ。

 

第1週(5/3〜5/9)

 先週の続きで、『本の雑誌』(本の雑誌社)の1995年12月、150号から1997年4月の166号までを読む。ただしいくつか抜け番があるので、全部を読んだわけではない。悔しいのは1997年の1月号が見あたらなかったこと。毎年1月号で前年のベストをあげるのだが、それがないのが悔しい。もっともこの雑誌では有名どころは扱いが悪いので、いまいち把握しにくい部分もあるんだけれど。1995年から1996年にかけて、国産のSFがSF以外のジャンルとして発表され、ずいぶん売れたみたいだ。最近は国内のジャンルフィクションに大ヒットが少ないなぁ。

 江口寿史が集めた漫画家達によるアンソロジー雑誌『COMIC CUE』(イーストプレス)の5、6号を読む。子供が主人公のマンガ特集の5号では、すぎむらしんいちの「小林君」が面白い。河野哲郎「LUCKY TOWN」もなかなかよかったが、これポール・オースター『偶然の音楽』(新潮社)にでてきたエピソードにそっくりですが。手塚治虫特集の6号は黒田硫黄「メトロポリス」が秀逸。また雑誌の途中に挿入された、月に1人で倒れ込んでいるロビタが何とも言えぬ感動。手塚キャラの中でも非常に印象的なキャラだと思う。

 その江口寿史の短編集『江口寿史の犬の日記、くさいはなし、その他の短編』(KKベストセラーズ)は短編集というより、寄せ集め。こういう作品が方々にぽろぽろあるので、油断ができない。「LEGS&CHAIRS」がうまい。

 友達の家に遊びに行ったときだけ手に入る『まんがくらぶ』(竹書房)の4月号を読む。なんだかんだ言って、毎月ほぼ確実に読んでいるようだ。小坂俊史「せんせいになれません」がだんだん面白くなってきた。

 『週刊少年ジャンプ』(集英社)22、23合併号には鳥山明と梅澤春人が読み切りで登場。たまに突然顔を出す鳥山明だが、いつも適当に仕事をしている感じ。最近注目のほったゆみ・小畑健「ヒカルの碁」には、碁会所で賭け碁を打つ中学生が登場。ありがちだけど、こういう展開好きだなぁ。

 ずいぶん前から探していたんだけど、著者名が思い出せずに見つけられなかったE・S・ガードナーの「ペリーメイスンシリーズ」をようやく発見。一作目が見つからなかったので、『駆け出した死体』(ハヤカワ文庫)を読む。初版が1977年というだけあって、訳がやや古めかしく、今読むちょちょっと妙になっていることを除けば、作品としての面白さは決して古くない。「妻に殺される」と言っていた男が旅先で病死するが、その死体がいなくなってしまったという事件。メイスンはその死体の妻の弁護をすることになる。とにかくメイスンが圧倒的に嫌なやつなのが面白い。口がうまく、相手に言質を取らせない。必要とあれば、細かいところを病的なほど厳密にするので、相手が全く自分のペースで喋れないのだ。最近のリーガルサスペンスの弁護士というと、「格好良い」人が多いけど、これくらい嫌なやつのほうが弁護士らしい気もするなぁ。面白いので他のも読みたいが、なにせ「ペリー・メイスンシリーズ」は冊数が多すぎる。すこし厳選して読まねば。

 今週の一番が団鬼六『真剣師 小池重明』(幻冬舎アウトロー文庫)だ。フィクションの様な面白さ。朝までかけて一気読みしてしまった。あまりにも面白いので、アーサーの城に寄稿させてもらってる「文庫のへそ」まで取っておくことにする。文章とかでなく、紹介する本の面白さだけがウリなので、うかつに情報を公開できないのだ。宣伝をかねた貯蓄。最近団鬼六が平積みになっている本屋をよく見かけるが、鬼六作品に限らず、埋もれそうな本をばんばん文庫にしてだしている幻冬舎はえらい。