読み週記 2月

 

第4週(2/28〜3/5)

 今年は閏年である。特に今年は400年に一度のなんだかすごい閏年であるらしい。要するに、1年に1日多く本が読めるということだ。

 安能務『隋唐演義』(講談社文庫)は中巻にきてますますわかり辛くなってきている。なにしろ登場人物が多い上に始終いろんな国や場所に移っているため、その人物が重要人物達とどのような関係にあるのかがさっぱりわからないことがあるのだ。おまけに史書を素に書かれた物語であるために、急に展開が早くなったり遅くなったりしてしばしば物語についていけなくなることすらある。歴史小説はむずかしいのだ。
 中巻の読みどころはなんといっても単雄信の死のシーン。有名な中国の演義物の名場面と比べても全く遜色無い、どころかその中でも屈指のシーンであることは間違いない。

 ギャビン・ライアル『もっとも危険なゲーム』(ハヤカワ文庫)は代表作『深夜プラス1』(ハヤカワ文庫)が思いの外良かったために読んだ冒険小説。裏表紙のあらすじが物語のクライマックスのシーンを使っているところが珍しいように思える。前作ほどではないが面白いが、決定的な差は登場人物の魅力の差ではないだろうか。

 『週間少年ジャンプ』(集英社)10〜13号をまとめ読み。後半では新連載がスタート。片方はなんと釣りマンガである。実は今、都心の子供達の間ではルアーフィッシングがそこそこ流行っているようでびっくり。あんな金のかかる遊びが出来るなんて。不景気なんて嘘だ。そろそろ卓球マンガが出るかも。

 『本の雑誌』(本の雑誌社)3月号を読んで思ったのだが、どうもこの雑誌は年々面白くなくなってきている。情報源として活用できることは確かだが、どうもパワーダウンは否めない。ちょっと名が知れすぎたのだろうか。それにしても相変わらず鏡明の句点の多さが気になって仕方がない。

 めっきり本が読めなくなった。夜寝るときにやけに眠いとか、移動中の読書がはかどらないせいである。困った困った。

第3週(2/21〜2/27)

 今週は魔夜峰央再読強化週間につき、新しい記述はない。酷い話である。

第2週(2/14〜2/20)

 「冒険小説のバイブル」などという大仰な腰巻きのついた有名なギャビン・ライアル『深夜プラス1』(ハヤカワ文庫)に今まで手が出なかったのは、裏表紙にあるあらすじ中の「アクション」という言葉が引っかかっていたからだ。俺は昔からアクション映画や小説にあんまり興味が無くて敬遠していたのだが、この名作もそのせいで何となく読む気になれずにいた。
 とんでもないことだ。評判に違わぬ名作で、今まで読んでなくて本当にすいません、という気持ちで一杯になる。主人公と相棒のガンマンの関係や人物造形など、冒険小説の王道でありながら決して退屈させないだけの力を持った作品。『深夜プラス1』という題名の理由は最後までわからなかったのだが、わかって見ればこれも独特の気取りであって、これがまたいい。こういう本を読むとその週はそれだけで満足できるのだ。
 不思議なのは訳者の菊池光である。菊池光翻訳の小説は当たりが多いのだが、それは俺が個人的にこの訳文の味が好きなだけなのだろうか。あの淡々とした物言いが、ハードボイルドの文脈にピタリとはまっている。一体どんな人なのかが気になるところだ。

 安能務『隋唐演義』(講談社文庫)の上巻は、隋の楊広が権力をに握るまでと秦叔宝が人脈を広げていく間の物語。周王朝が興る過程を描いた「封神演義」がマンガで有名になり、「三国志」はすでに市民権を得ているため、ややマイナーな感があるが、流石に3大演義の一つだけあっておもしろい。在野の豪傑達の活躍ぶりが特徴といえるだろう。
 それにしても、中国物は固有名詞の漢字を出すのが面倒だ。

第1週(2/7〜2/13)

 ふと気を抜くと、家中が読みかけの本だらけになる。そのまま油断していると、その読みかけの本が家のどこかに姿を消し、ぼんやりとしか覚えていない読みかけの本に進化を遂げることになる。いかんいかん、と思いつつ、そうなってしまうのだ。大問題である。

 フレデリック・フォーサイスは非常に有名な作家で、どこの本屋でも見かけるが、何となく読めずにいた作家の一人。せめて1冊くらいは、と気張って手に取ったのが『ジャッカルの日』(角川文庫)だ。フランス大統領ドゴールが暗殺されかけた、というどこまでが本当かわからないようなサスペンス。そこそこに長い話ではあるものの、それを感じさせないほどにテンポがよく、サスペンス特有ののわざとらしさもほとんどなく楽しめる。
 もちろんドゴールは暗殺などされなかったので、計画は失敗するのだが、それがどのように進行していくかが巧く書かれていて、ジャーナリスト出身者らしい的確な筆致は大したものだ。もっとも巧い一方であまり記憶に残らないような気がするのだが、多分好みの問題なのだと思う。

 童門冬二『人生を二度生きる 小説榎本武揚』(祥伝社文庫)が実に読みにくい荒いつくりだと思う。同じ意味内容や説明の繰り返しが目に付き、「今」とか「現在」という言葉もわかりにくい。同じ著者の小説を前に読んだときにはそんなことは気にならなかったので、この作品が特にそうなのかも知れないのだが、それが気になって物語に入り込めなかった。主人公もあまり生き生きと描かれていず、せっかくの題材がもう少し活かされても良いのではないか、と不満の残る一冊。

 山本直樹『ビリーバーズ 1』(小学館)は小さな島で暮らす謎の信仰に浸った3人の人間の物語。ヴォネガットの小説に出てくる儀式を織り交ぜながら最近のカルト宗教に見られる異常な情熱をシンクロさせている。元エロ漫画家らしい相変わらずの芸風ながら、異常さと現実味、メジャーとマイナーの境界線をわざとうろうろしてみせる確信犯的な所業が実に巧みだ。ここ数年さらにそんなところが直截的で目が離せない。

 毎回評価が難しいエリザベス・フェラーズの『細工は流々』(創元推理文庫)はトビーとジョージのコンビが主人公のシリーズ邦訳の第3作目。この後書きに来て邦訳の順番がバラバラであることが初めてわかり、大きなショックを受ける。
 今回は一軒の家に集まった人々の中から犯人を捜すタイプのストーリー。ジョージの動きが実に狙い通りに描かれていて、彼に関して言えば今まで邦訳された中では一番いい。シリーズとしてはこのジョージにこそ注目すべきで、彼の正体に触れる部分などを出版順に追ってみたいと思うのだが、全部揃ったところでもう一回読むのは辛いだろうなぁ。

 朝、本を忘れて出先で買い求めた時は特に最悪だ。もちろん新しい本が増えることになるし、それが面白いと今までたまっていた物より先に読みたくなってしまうからだ。もっと計画性を持って読まなくては、と思うのも何か変だと思うんだけど。