読み週記 11月

 

 

第5週(11/29〜12/5)

 最近少しずつ、身の回りの人が面白い本を紹介してくれるようになってきた。こうなってくると読む方も力が入ってくるもので、ますます本を読むのが面白くなってくる。この1年間、読み好きな自分をひろくうったえてきたかいがあるというものだ。

 出先でまたもや本を読み終わりそうになって、あわてて書店に駆け込んだ。大きな店なのでスペンサーシリーズも揃っている。今度はミスすまいと冷静にロバート・B・パーカー『プレイメイツ』(ハヤカワ文庫)を手に取る。優れた才能を持つ大学バスケットボール選手に絡むいかさま賭博についての事件。今ではすっかりスペンサーの相棒となったホークとともにスペンサーがまたもや将来ある若者のために身を削っていく。自分の信じる方法で徹底した行動を続けるスペンサーとそれを支持するスーザンだが、今度の相手は彼等の気持ちをそぎかねないような頑固者だ。
 度々繰り返すようにスペンサーシリーズは何よりもシリーズとしての流れを常に意識しながら読む必要があるが、今作においてはすっかりチームとなったスペンサー、スーザン、ホークの色々な意味での結びつきが強調されるという以外には特別な進展はないように見える。シリーズとしてのまとまりから飛び抜けた傑作は生まれにくくなっているのか、平凡な日常を描くように淡々と時間が過ぎていくようだ。不思議なシリーズだ。

 そのスペンサーシリーズの著者、ロバート・B・パーカーの『銃撃の森』(ハヤカワ文庫)も実を言えば間違えて買ってしまった本。スペンサーシリーズと当然のような顔をして並んでいるのでもちろんその1冊なんだと思ったら、シリーズとは別の物語だったのだ。
 主人公は著者自身とどれだけ重なるのかを邪推してしまうような、小説家とその妻。殺人を目撃してしまった主人公が、証人としての証言を封じるための脅迫に屈してしまい、それを覆すために復讐を計画する物語だ。
 スペンサーシリーズと違って、本編の主人公は素人。戦争経験があり、そのような世界にのめり込む近隣の友人とともに、おのが内の恐怖心と戦いながら復讐を完遂していく。導入がやや強引だった上に、主人公が犯人に恐喝される原因が明らかにされぬまま終わるなどやや隙が多い。夫妻の関係修復もやや図式的すぎるような嫌いがあるように思えて、あまり高くは評価できないが、同時にこれを読むことで俺がスペンサーシリーズにどのような期待を持っているのかがわかるような気がする。

 帚木蓬生の『空の色紙』(新潮文庫)は精神鑑定を依頼された精神科医、大学紛争の時代の大学教授二人をそれぞれ主人公とした中編3編で構成されている。医学部や精神鑑定の内部を描きつつ、あっさりとした的確な描写でじっくりと読ませる。特に学生の解剖学を教える教授の心を描いた「頭蓋に立つ旗」は独特の感慨を残していい。やや変わった題材を元にしているだけにどれだけの評価を得られている作家なのか僕は知らないが、しっかりとした文章力は高く評価できるはず。

 岡嶋二人のSFミステリー『クラインの壺』(新潮文庫)は本が無くて困っているときに、題名の雰囲気につられて買ってみた。限りなく本物に近いヴァーチャル・リアリティ装置を題材としたミステリーで、その大がかりでこれと言って新味のない仕掛けが現れたとたんに、今では古びてしまった手法が全て明らかにうかがえてしまって後半は全く面白くなかった。人物も特に特徴が無く、終わり方はフジテレビの「世にも奇妙な物語」のよう。もしかしてあの番組に使われた話なの?

 あえて告白してしまうのだが、実は俺、『週刊ヤングジャンプ』(集英社)に連載されている竹田エリの『私立T女子学園』(集英社)が好きなんです。ぼんやりとマンガが読みたいような気分の時に、心のスキマに入り込んでくるような現代的オーソドックスな笑いを素直に提供してくれるから。そんなわけでずいぶん前に出たはずの3巻を友達に借りて読む。ずいぶん前から早く続きを買え、とせっついていたのだが、俺の知らぬ内に買っていたらしい。教えろって。どこまでが本物でどこからが作り物かがわからなくなりそうな感覚がいい。ところで、他人の本なんで基本的にはどうでも良いんですが、本のカバー、上下逆ですけど。

 年末が近付いている。今年の年末年始はちょっと性根を入れてお勉強に時間を費やそうかと思わないでもない。でもゆっくり本を読みたいという欲求もある。どっちが勝っても後悔しそうな点が一番怖い。

 

 

第4週(11/22〜11/28)

 ついにやってしまった。ひさびさにやってしまった。何巻もあるマンガを買っている時には良くあるのかもしれないが、本で買ってしまったときは何となく精神的なダメージが大きい例のやつ。必殺のダブり買いだ。

 柏に行ったときに、持っていた本を読み終わってしまい、慌てて駅前の紀伊国屋書店に飛び込んだ。荷物を増やしたくなかったので文庫の棚を眺めているとなんとびっくり。文庫の冊数を多く揃えている大型書店にしか置いていないロバート・B・パーカーの「スペンサーシリーズ」の中盤が何冊かあるではないか。
 このシリーズ、人気も高くて、ハヤカワ文庫をうっているほとんどの書店には置いてあるんだけど、なにせ巻数が比較的多いので始めの方からだいたい『初秋』か『告別』あたりまでと『晩秋』以降しかないのだ。
 ところがさすがは紀伊国屋。それほど広いスペースではないけれど、その間の作品も全部ではないにしろ置いてある。どきどきしながら見てみると、先週読んだ『蒼ざめた王たち』までがなくて、その次の『真紅の歓び』からがある!いいぞ、紀伊国屋柏駅前店。
 早速手にとって帰りの電車から読み始める。今度はスペンサーシリーズでは恐らく始めてであろう、サイコサスペンス物。黒人女性を狙った連続殺人を巡って、上からの圧力により休暇に追いやられたマーティン・クワーク、フランク・ベルソンと、スペンサー、ホークによるチームが犯人を追いつめていく。久々にストレートな物語の展開である。
 もちろんそれだけではもはやスペンサーシリーズとは言えない。物語は自主性を確立し、それを守るために自分の職務においてスペンサーと対立することになるスーザンを交えていくのだ。
 犯人の視点が挿入される典型的なサイコサスペンスの造りであるためにかえってシリーズとしては違和感があるものの、犯人と関わりのあるセラピストが描かれている点が新鮮。クワーク、ベルソンの殺人課刑事二人の出番が後半に進むにつれて少なくなるのはやむなしか。忍び寄る老いの影もちらつき始めている。 

 カート・ヴォネガット唯一の戯曲『さよならハッピーバースディ』(晶文社)は知人が古本市で見つけてきた物。ヴォネガットは戯曲よりも小説で読んだ方が面白いとは思うものの、これもなかなかの出来だ。
 永き不在にピリオドを打った冒険家が、久々に家に帰ってくる物語で、彼の妻はすでに彼は死んだものと思い、新しい関係を築いている。そんななかに専制君主的な主人が帰って大騒ぎ、という内容だ。
 序盤はヴォネガットらしいユーモラスな展開が続き、終盤では実際の芝居での緊張感が伝わってくるようななかなかの名作。ただ最後の最後だけは、結論はともかく演劇的にどうなのか疑問だ。実際に舞台で見ると違うのだろうか。
 自信の小説の主人公達のような内省的な序文を読む限り、ヴォネガットにとって戯曲を書くことが必要な通過点であったようにみえる。

 あれだけやめるやめると言い続けてきた『週刊少年ジャンプ』(集英社)ですが、諸事情により続けることにしました。そんなわけで47号から50号までを一気読み。どうでもいいけどおれ、実際の刊行よりも常に遅れてる。
 ほったゆみ・小畑健「ヒカルの碁」がいい、というのは前にも書いたけど、最近許斐剛の「テニスの王子様」も好きだ。単に題材が好きなだけかもしれないけど。

 さて、『真紅の歓び』を読み終えた翌日。俺の家のダイニングのテーブルからもう一冊の『真紅の歓び』が発見されました。スペンサーシリーズの中盤がなかなか買えないので、前のを買ったときに買いだめしたのがもう1冊あったのでした。全然よくないぞ、俺。

 

第3週(11/15〜11/21)

 さて、何がいかんって、自分が今何を読んでるのか全く把握できないことがいかんね。出先で本を忘れると書店に駆け込んで買っちゃうんだけど、家に帰れば今まで読んでいたのがあるわけでそれをまた読む。ところがそれが何度か重なると、読みだした本が家のいろんな所にあることになる。それが一体どこにあるのかがさっぱりわからないうえに、何を買って何を読んでいるのかがわからないのだ。
 それだけではない。未読の中に非常に魅力的な本がいくつかあって、つい手を出してしまったりする。そうすると更に収拾がつかなくなってしまうのだ。
 昔、煙草の火を消す男は移り気なので注意が必要だ、というのを聞いたことがある。実は俺は煙草の火を消すのがとても下手で、友人達にも良く注意されるんだけど、まさにその通り、移り気なのだ。ただしそれは本に限ってのこと、と思って全国の女性ファンは安心されたい。

 前作で関係が修復されたスペンサーとスーザン。その二人の今後が気になるのは当然のことでロバート・B・パーカー『海馬を馴らす』、『蒼ざめた王たち』(ハヤカワ文庫)を続けて読む。前者はスペンサーに救われたあと、再び売春婦の世界へ自ら進んでいったエイプリルが再登場する話。後者は殺された新聞記者の謎を解決するためにスペンサーが地方の町へ乗り込み、まさに周囲全てが敵となるような状況に飛び込む物語。
 巻を追うごとに関係のある人物や思い出が増えていき、シリーズとしての面白味が増していく。この時点ではスペンサーとスーザン、そしてホークを交えた関係が非常によく、その他の脇役達も魅力的に登場している。
 物語単体として考えれば面白いのは後者の方。地方の町の閉鎖的な社会でのミステリーは独特の雰囲気があっていい。もっともスペンサーシリーズをミステリーとして読むのはもう放棄してしまったが。ホークとの会話もすでに安定した楽しみを供給してくれる。

 桜玉吉『幽玄漫玉日記』(アスペクトコミックス)の2巻は、1巻と比べると、一部を除いてずいぶんすっきりとしてしまった印象がある。もちろん面白くはあるけれど、やや残念な気がする。もっとも1巻のような雰囲気を出し続けるのは人間の作業として危険な気もする。会社を設立した桜玉吉が次は資本主義経済の重要な要素である株に手を出す話。そこでアスキー株に行くあたりが流石か。和光証券でのエピソードが秀逸。

 さて、次は何を読もうか。というか何を読み終えようか、という世界になりつつある。 

第2週(11/8〜11/14)

 去年一年間は読書の秋だった。春も夏も秋も冬も読書の秋だった。そのせいか、あと何年か読書の秋はもらえないらしい。そんなバカな。

 精神科医/小説家である帚木蓬生の『閉鎖病棟』(新潮文庫)はかなりの佳作。山周賞受賞作で、文章によって物語を読むことを楽しむ感覚が十分に味わえる。
 舞台はとある精神病院。それぞれの過去を抱えた患者達の過去や現在が巧みに配置され、独特の世界の日常と非日常が語られる。あまり一般には知られていないかもしれない精神病院の患者達の様子や心情がリアルに描かれているのが特徴といえるが、その中でも面白いのが彼らの人間関係である。
 自分が精神障害者であることを受容するのは容易ではない。その家族には更に難しい。ともなれば縁もゆかりもない他人にとっては更に難しい。そうやって少しずつ彼らと一般の人間達の間には距離ができていく。一方で入院施設のある病院ともなれば一つの社会の中での人間関係がつくられていく。患者同士、患者と医療スタッフ、患者と家族、その他の人間達。様々な人々のつながりがリアルに、淡々と描かれている点がこの小説をいいものにしている。

 ようやく手に入ったロバート・B・パーカーの『キャッツテルの鷲』(ハヤカワ文庫)は前作『告別』で深刻な状況になったスペンサーとスーザンの関係に決着がつくシリーズの重要な通過点である。もっともここしばらく全ての作品が大きな流れのパーツになっていて、スペンサーの探偵としてでなく人間としての日々の物語としての色合いがますます濃くなっている。
 スーザンとの関係について、そしてこの作品での決着のつき方について、恐らく様々な意見が出てくるはずだ。スーザンについて納得のいかない人もスペンサーに納得のいかない人も、もちろん翻ってパーカー自体に対する批判を表に出す人も。ただ、全般的にどこか釈然としない物が残る人が多いのではないだろうか。
 スペンサーシリーズはハードボイルドの潮流の中でも独特の色合いを持っている。もちろんだからこそこれだけ巻数を重ねることができるのだし、一つのポジションをしめることができるのだ。それにしてもこれだけ伝統的なハードボイルドの価値観と新しいハードボイルドの価値観がぶつかり合うヒーローも珍しい。スペンサーという主人公が持つ信念はときに押しつけがまく感じられたり違和感を感じさせられる。絶妙のユーモアセンスによって包まれたその個性が今後どちらの方角に向かっていくのか。単体としてだけでなく、シリーズとしての面白さを十分に感じさせるようになっているところがいい。実際これだけ読みふけりながら、何度も読むのをやめようと思うシリーズはなかった。不思議だ。とりあえず『晩秋』までは読むと思うけど。

 賞を獲って以来書店で見かけることが増えてきた佐藤賢一だが、実はずいぶん長い間視野に居続けて迷惑していた。日本人による西洋の歴史小説は近年特別には珍しくないが、その中でもかなりの好評かをうけている作家だけに是非一度読んでみたい。一方で実は俺、世界史に自信ないんです。
 もちろん日本史にだって自信はないけど、一応学校でも勉強してるし、多少の常識はあるつもり。ただ西洋史となるとどうもねぇ。自分で本を読んだりもしてるんだけど、何しろ広くてやっかいなのだ。これは内緒なんだけど俺は地理が大の苦手で、昔から全然勉強しなかった。ところが歴史という学問は地理の知識があって初めて深みや広がりが生まれるもので、それができていないと頭の中で整理されにくい。
 理由はもう一つある。俺の高校の世界史の先生は俺が世界史を習う段階に突然入院し、授業は中世ヨーロッパにもたどり着かぬ内に終了。受験科目にしたわけでもなく、何となく放置されていた俺の中の世界史の大量の空き巣ペースは埋められぬまま現在に至っているのだ。こうなると西洋物にてがでないのも当然だ、と理解されたい。
 さて、その佐藤賢一の『ジャガーになった男』(集英社文庫)は話題になった『傭兵ピエール』(集英社文庫)の前の作品で、遣欧使節団の一員としてイスパニアにわたった伊達藩士・斉藤小兵太寅吉の物語。日本の武士に相当するような立場の男と意気投合して日本に帰らずにイスパニアに残る。
 実は本当に読みたかったのは『傭兵ピエール』の方だったのである。ではなぜこちらに手を出したか。
 理由は簡単である。「ピエール」の方は上下巻。こちらは一冊ですむ。つまりは金がないからなのだ。とりあえずお手並み拝見というつもりで手に取ったのがこちらの方というわけだ。
 感想を端的に言えば安物買いの銭失い。そもそも題名に今一つ魅力がないのが気になったのだが、内容もさほど面白くない。物語の進行が散漫で主人公にも魅力がないのだ。
 もっともかといって作者自身への関心が全く消える、というわけでもない。今だ書店では「ピエール」が気になり続けているのだ。よって最終的な評価はそのあとで。その隙に少しは勉強しなきゃ。

 今年の衝撃はなんといっても『ワールドサッカーダイジェスト』(日本スポーツ企画社)が各週刊になったことだ。Jリーグ人気は低迷しているけど、ワールドサッカーの情報への需要は高まっている様子で、これに限らずワールドサッカーの雑誌をこの頃よく見かける。全部に目を通していたわけではないけれど、個人的にはかなり気に入っている雑誌なので、嬉しいと言えば嬉しいが、そのせいで質が落ちはしないかとやや心配になる。確かに膨大な情報が目に触れずにいるわけだから、それらが多く拾えるのはいいことだが、世の中そう単純ではない。今後の発展と成功を祈りながら、とりあえず各国のダービー特集を堪能。向こうのダービーはいろんな背後関係が複雑で面白いのだ。

第1週(11/1〜11/7)

 今週はキリが良くて良いなぁ、なんて思ってたらとんでもない。そのせいで本を読む暇がなかった。「最近、読み週記の冊数も減ってきてるよね」って友達に言われて、こんなのいちいち読んでる人がいることにも驚いたけど、今週読んだ本を思い返して更にびっくり。最近本が読めない愚痴だか言い訳だかわからないような枕ばっかですいません。

 幸田文『おとうと』(新潮文庫)は先週読んだある本を薦めてくれた人が一緒に教えてくれた本。薦めてくれたっていうか無理矢理引き出したんだけどね。
 作家の父と継母の元で育つ姉と弟、その2人の成長と死別の記録である。世の中には当たり前だけど色々な家族があり、幸田露伴の娘である幸田文もそんな色々な家族のなかの一つで育っている。物語で描かれている家族がどれほど自分の半生と関係があるのかはわからないが、物語はある家族の姉弟を中心にすすんでいく。
 主人公であろう姉のげんは弟思いで持病で体が思うように動かない母に変わって家の家事をとりしきる娘だ。物語が進み弟が変化していく様々な状況の中で、げんは弟離れができずにいる自分や、家族の中で思うようにわがままを表出できずにいる自分に気づいていく。家中の一つの役割を担い、その中から新たな自我が形成される過程が素直な文体ですっきりと語られている。
 人間の自我形成にとって、その家庭の影響の大きさは今更言うまでもない。とくに広い社会に出ていく前の段階では、時にその影響力の大きさは、逆説的な言い方だが恐ろしいほどだ。一つの独特な集団の中での人間関係、なにかがあっても、また無くても、そのほとんどが個人を創り上げていくのだ。世間から切り離された部分さえ持ち合わせる日本の家庭の姿が心を打つ。

 とまあこれだけです。すいません。どうなってるんざんしょ。