読み週記 10月

 

 

第4週(10/25〜10/31)

 はい皆さん。ぼやぼやしてる場合ではありません。もう11月ですよ。って、あ、じゃあクレイジーコアの会報もアップしなきゃ。しまったネタもないしどうしよう。余計なこと思い出しちゃった、という最悪の枕。

 先週、下巻を読むのは先になりそう、なんて言っていたトマス・ハリス『レッド・ドラゴン』(ハヤカワ文庫)をやっぱり読んでしまった。なんて意志の弱い俺。まあいいか。今読むとそうは感じないかもしれないけど、これは今時の異常心理/犯罪の流行にのって書かれたものではないと思うので、そういう点では評価されてもいいはず。それなのにこの手のものに慣れた今の人(っつってもかなり短い「今」だけど)にとってはやや面白味を欠くかも。
 犯人がいかにしてそのような人格に辿り着いたのか、という事が重点的に述べられる下巻だが、その点は実にリアルにうまく書けている。そして犯人が進んでいく意外な方向も、やや陳腐な雰囲気は漂うもののその推移はうまく書けていて、どちらも迫真の描写、と思わせるシーンが多々ある。
 それでいてどうにも納得がいかないのが、主人公とその仲間達が魅力的でないことだ。友情と職務の板挟みの苦しみや、専門家達の存在感など、どれをとっても今一つ。わざとらしさがない反面、フィクションとして完成されるには何か足りないと思わせるのだ。
 ハンニバル・レクターという個性を作ったことは必ずしも真新しいことではない。非常に興味深い特異なキャラクターではあるものの、それすらもアンソニー・ホプキンスに食われているような印象があるのだ。どれもこれも頭ではわかる。それなのにどうしても心に響く物がないのだ。

 知らぬ間に『ワールドサッカーダイジェスト』(日本スポーツ企画社)が各週刊になっているのには驚いた。今月からのようである。こういう時って「何号」って言うんでしょう。62号かな。
 一時の勢いを忘れたように低迷するパルマの名ディフェンダー、テュラムのインタビューが複雑な状況を如実に表現していて面白い。チームは落ち目、本人自身も苦難の渦中にあるだけに、インタビューにも答え辛そう。単純にセンシーニやベーロンを出してオルテガをとるチームがわからんけどな。
 オランダリーグとベルギーリーグの合同リーグができそうだ、という話は知らなかったけど興味深い。スーパーリーグ構想が立ち消えになっただけにアヤックスやいくつかのチームが焦るのもよくわかるし、何よりもそんなリーグができて果たして何かの解決になるのか、という点が興味深い。

 有吉佐和子『悪女について』(新潮文庫)は、その斬新な手法の噂は過去に何度も聞いたにもかかわらず、すれ違うこともないままにいた本。なぜその本を手に取ることになったのかはともかく、物語そのものよりも日本の小説に抵抗を感じなくなっている自分を再発見した、という点に置いて興味深い。
 物語は謎の死を遂げたある女性実業家について、彼女を知る様々な関係者からのインタビューを集めた、というかたちで進み、最後までそれを通している。本人は既に死んでいるわけだから、彼らの話の中に出てくる思い出を除けば、その話題になっている女性は一度も登場しない。それでいながら、彼女は紛れもない主人公なのだ。
 一人の人間が様々な立場の人々、色々な関わり合いの中で、驚くほど多様な見られ方をしているのは現実の世界でもあることで、それをややどぎついほどに表現しているのが面白いのだが、それとは別にその本人の人生を色々な時代、色々な角度で見ることで物語自体がずいぶんと幅広い要素を持っていることが面白い。
 それは男の側からみたいくつもの恋愛小説であり、一人の女のサクセスストーリーであり、逆に一人の人間を通して語られる人々の姿を描いた物語であり、もちろん矛盾する証言からもたらされる彼女の正体、及び彼女の死についての謎を巡るミステリーでもある。締め方もうまい。ううむ、考えているうちにずいぶん名作のような気がしてきたぞ。

 近々、本の整理をしたいと思っている。仕事の関係で部屋により多くの収納スペースが必要になったこともあるし、より多くの本を手に入れて家に置いておきたい、という願望の現れでもある。そのためにはどうしても本を整理しなければいけない。問題は俺の本が家のどこにあるのかがさっぱりわからないこと。ついでに家以外の所にどれだけあるのかもわからない。今年の大掃除には何とかしたいものだなぁ。

第3週(10/18〜10/24)

 最近徐々に社会復帰しつつある。ただ問題なのが、それにつれて本を読む時間がどんどん減っていることだ。いやむしろ、読むときの集中力が衰えているのかもしれない。いかんいかんと思いながら、それでも書店を見かけるとつい足が向いてしまうのはなぜだろうか。

 この間やっと文庫化された『告解』(ハヤカワ文庫)が思ったほど面白くなかったせいで消化不良に陥ったというわけではないんだろうけど、ずいぶん前に出た本にもかかわらずつい買ってしまったのが早川書房編集部編『ディック・フランシス読本』(早川書房)だ。未訳の短編とフランシスについての黒鉄ヒロシ、志水辰夫、菊池光らのエッセイ、岡部幸雄らによる座談会、『本命』(ハヤカワ文庫)から『帰還』(ハヤカワ文庫)までの作品解説と小文など、フランシスを愛する人々が存分にフランシスについて語っている。
 とにかく全編フランシスづくしなので、ファンならその世界に浸るだけでも満足できそうなできばえだが、それも全てフランシスの力のなせる技である。所々にはさまれる主人公達の台詞や場面の再現だけでフランシスを読んだときのわくわく感が蘇ってくるようだ。家にあるフランシスの本をいくつかまた読みたくなってしまう。いまさらその面白さを再確認する必要があるだろうか。

 俺の友達に落語が好きな男がいて、恐らく彼にこんな本を薦めたら怒られるに違いない。柳家小三治『ま・く・ら』(講談社文庫)はその表題の通り、小三治の枕を長短取り合わせて収蔵したもの。本で読んだりテープやCDで聞いたりしないで、現場で生を聞け、とそのスジの人に言われそうであるが、面白かったのでしかたがない。願わくばこれを読んでふらりと寄席に足を向ける人が増えるといいけどね。噺家さんというのはその名の通り話がうまい人なんだけど、この「話がうまい」って簡単な言葉で表現されている物がどれだけ簡単でないか、この本を読んだだけではまだわからない。小三治のファンの人なら読むだけでこの人の声や語り口が聞こえてくるのかもしれないけど。とになく人に言えた義理じゃないけど、是非一度生の噺家さんをどうぞ。

 ハンニバル・レクターという人物が出てくる有名な映画と言えば、という問題を友達にだしたら即答で「特攻野郎Aチーム」だって。それはジョージ・ペパード演じるハンニバル・スミスです。正解はアンソニー・ホプキンスが異常殺人犯ハンニバル・レクターを演じる「羊達の沈黙」でした。
 あの映画に出てくるレクター博士は存在感抜群で、主役が誰だったのか忘れそうになるほど。なんでも向こうではその続編がつくられるらしくて、俳優業から引退するなんて言っていたホプキンスがその役だけは譲れないと息巻いてるとか。その後うわさを聞かなくなったけど、どうなったんでしょうか。
 そのレクター博士が登場する、「羊達の沈黙」以前のお話であるトマス・ハリス『レッド・ドラゴン』(ハヤカワ文庫)は見つけるのにずいぶん苦労しました。なぜなら同じ作者の『羊達の沈黙』と版元が違うから。こちらはたいていの本屋には置いてあるので各自で探すように。
 実は今週読んだのはその上巻。下巻はいつ読めるか見当もつかないのでちょっと不安だけど、既に病院に収監されているレクターの出番が少ないのがファンには辛いか。もっともそのレクターを捕まえた異常犯罪捜査の専門家ウィル・グレアムの人物造形がなかなか興味を聞く。理由はどうあれ異常殺人犯との危険な戦いに身を投じるグレアムの、妻と子供へ感じる葛藤については意外に普通なので置いておくとして、推理段階に置ける思考の過程やら、一匹狼的な調査の仕方に独特の「変さ」があっていい。追いかける犯人がわとの紙一重具合がやけにリアルさを感じさせるのだ。それについて更に深く掘り下げられるのかどうかは下巻のお楽しみ。早く読みたいなぁ。

 

第2週(10/11〜10/17)

 最近人と本の話をする機会が非常に多い。ただ話に出てくる本の範囲がずいぶんと広くて、自分の読書歴を総ざらいするような感覚を覚える瞬間が良くある。その度に思うのが、なんと読書数が少ないことか、ということだ。自分が自分の希望に比べ読むスピードが遅いことや読解力が低下していることを痛感する毎日。

 久しぶりに読む『まんがくらぶ』(竹書房)では、小池田マヤの「ばついち30ans」が大変なことになっていた。主人公の佐々がいつの間にやらずいぶん追いつめられていて、なんか幻覚症状みたいな物に襲われているし、一体どうなっておるのだ。なんかシリアス路線爆走中である。
 高橋しんが「私たちは散歩する」で登場。天然のお母さんを使ったちょっといい話はお得意か。あの4頭身キャラの感じがいいよね。
 ところで『まんがくらぶ』の読者の年齢層がどれくらいなのか見当もつかないけど、今の若い人はあの沖雅也のギャグはわからないと思うんですけど。

 他に読みたい物があったにもかかわらず、ずるずると買った分を全部読んでしまったのが、ロバート・B・パーカーの「スペンサーシリーズ」、『残酷な土地』(ハヤカワ文庫、以下同じ)、『儀式』、『広がる環』、『告別』だ。止まらなくなった理由は、物語がそれぞれのストーリーではなく、スーザンの関係と合わせて人生の岐路に立ったスペンサーの苦難の日々として続いているからである。
 その前作である『レイチェル・ウォレスを捜せ』の依頼人であるレイチェルからの紹介でであった次なる依頼人キャンディとの出会いと別れが、スペンサーとスーザンの関係、そしてスペンサー自身の自信のぐらつきとなって、再登場してきた『初秋』のポール・ジャコミンやホークに囲まれたスペンサーに様々な変化をもたらしていく。
 自分の言動とその心の内の微妙なずれや自らによって制御できないような衝撃を乗り越えて、スペンサーが今後どうなるのか、それはそのままシリーズの行方と大きく関わっていく。それなのに、やっぱり近所の本屋のどこを探しても続きがないのだ。
 「スペンサーシリーズ」もかなりの人気シリーズだし、かなり古い物でも書店に置いてある。だが置いてあるのはどこでも初期の物と近作だけで、肝心の中間部分がごっそり抜け落ちているのだ。注文に出すのも気が退ける一方で大きな本屋まで足を伸ばすと別の本も買いたくなる。この矛盾を整合させるのはそう簡単ではない。まあ、他に読みたい物があるので何とかなる気もするんだけど。
 スペンサーシリーズの魅力は実のところ主人公の皮肉なユーモアとそれとからむ仲間達との会話、そして話一つ一つが適度に短いことがそのほとんどなのだが、結局最初の予想通り全部読みあさってしまいそうな勢いだ。

第1週(10/3〜10/10)

 別にそんなに悔しいわけじゃないけど、体育の日に全然運動をしなかった。最近運動不足なのがやや気になってはいたのだが、だからといってその日だけ動いても何にもならないしね。

 本当はすごく間が空いているんだろうけど、読み出したのが遅かったせいで意外な短期間で続編を発見して小躍りしたくなったのが、宮本輝『血脈の火 流転の海第三部』(新潮文庫)だ。再び大阪に帰ってきた松坂一家。熊吾は新しい事業を始めるが、台風や熊吾の病気など、様々な苦難に押されて熊吾の勢いも渋りがちになる。一方で大物ぶりを覗かせるようになったのが息子の伸仁で、愛嬌のあるおっとりした性格も手伝ってか、街の人々の中で両親が驚くような「友人」を増やしていく。徐々に成長していく伸仁と老いていく熊吾。父と子の物語は新しい局面を迎えてきた。
 人間は3種類の資産を持っている。1つはもちろん現金や不動産などの金銭的に計算できるものだが、人間の環境はそれだけに左右されるわけではない。残りの2つの資産もその生活や生涯に大きく関わっているのだ。
 その片方が文化資産とよばれる物で、これは例えば教養や知識と関係がある。それぞれの家にある本や芸術作品、父や母、友人達の持っている教養や、学問や芸術などにどれだけ価値を持たせる育てられ方をするかなどだ。学者の家に生まれたなら、小さい頃から本や資料に囲まれて育つことが多いし、両親が芸術家であればその作品を小さい頃から目にすることになる。親がどれだけ普段から音楽を聴いているか、それはどんな種類か、どんな教育を受けているか、それがすべて本人の資産となるのだ。
 もう一つが松坂一家の特長とも言えるもので、社会資産である。これは社会的な人間関係、つまりコネにあたる。熊吾は生活や商売を通して様々な人間関係を築き、人脈を増やしていく。面白いように人間が集まって熊吾の様々な側面を形作ると同時にその多くが伸仁の今後にも関わってくるだろう。
 これら様々な要因が伸仁の生涯に影響を与え、方向性をつくる一因となっていくのだ。これらがどう結実していくのか。「父と子」というテーマの中の、一つの重要な視点であるように思える。

 スティーヴン・キャラハン『大西洋漂流76日間』(ハヤカワ文庫)はその題の通り、乗っていたクルーザーが沈没し、太平洋を横断しながら非常用のゴムボートで76日間を生き延びた作者の漂流の克明な記録である。困難なサバイバルの記録であり、大自然と人間との戦いと共存、人間の知恵と、生命への渇望の物語だ。
 この漂流において著者が直面した問題は生存のための戦いよりも、俗な言い方になるが自分との戦いである。生き続けることに絶望し、あきらめてしまわないよう自らを鼓舞し続け、不安や孤独と戦っていく。
 興味を引く点は、著者が直面する孤独との戦いだ。大西洋の大海原の中で、キャラハンは自分の救命ボートにくっついた貝を食べにきて、時としてキャラハンの食料となる魚達を友人と考えることで、キャラハンはそれに対処する。社会的な生き物といわれる人間にとって、自分と他者を対象化して考えることはひとつの生きていくための重要なエネルギーなのだろうか。再び人間の社会に帰ってきたときの著者の魚達を見る目に、自然を擬人化して信仰の対象とした古代の人間の思想との関係を考える。それは「人間」という種が広い地球の中で生きていくために必要な作業であったのであったのではなかろうか。

 筒井康隆『私のグランパ』(文藝春秋社)は筒井康隆の久々のジュヴナイル。主人公珠子の生活に突然現れた祖父謙三との物語である。子供の世界に魔力的な力(全然魔法とかではないけどね)を持った人物が現れて、子供自身を変えていく、というジュヴナイルの定番のような設定で、昔よんだ様々な児童文学を思い出す。現代風にも筒井風にもなっているものの、そこから呼び覚まされるのは自分の子供時代への郷愁であるような気がするのはなぜか。筒井作品というよりもそういう読み方が前に出る。

 最近年を取ったと思うことが多いのだが、その一つにマンガを読むのが辛くなってきたことがある。この辛さは読んだあとに来る物で『週刊少年ジャンプ』(集英社)の43〜46を一気に読んだあとに来た。表現するのが難しいのだが、何というか、読み終わったあとに絵と言葉の奔流が頭の中で組み合わさったときにある種独特の違和感や不快感を伴っている状態とでもいうべきか。
 いまでも多分マンガは好きだし、でたら読もうと思っているマンガもいくつかあるんだけど、なんとなくそれを読むことが不安になるのだ。再緊急に襲ってきた感覚である。誕生日を迎えて少し変化が訪れているのであろうか。