読み週記 9月

 

 

第4週(9/27〜10/2)

 今週はなんだかあっと言う間に終わってしまった。この読み週記のおかげで「一週間」という単位が生活に密着して感じられるようになったのはいいことだが、あまりにも早すぎて風情がない。もっとも色々事件があったり、秋の気配が色濃くなってきていて、世間的には内容の濃い週であったようだけども。

 テレンス・ファハティ『輝ける日々へ』(ハヤカワ文庫)は、警備会社に勤める元俳優が主人公。警備会社と言ってもやっていることはほぼ探偵と同じ様なことで、つまりはハードボイルド小説である。映画好きの心をくすぐるような引用があったり、かつてのハリウッドの香りが漂ったりしてなかなか小細工の効いた小説であったが、最終的に犯人が分かったところでやや興ざめ。そこそこ面白いだけに、オチまでが古風であることにちょっと難があるかも。

 童門冬二『小説 直江兼続』(集英社文庫)はなぜ「全一冊」と書いてあるのか。手に取ったときに、はて、続きがあるのかしらん、と思ってしまって非常に紛らわしくて困るのだ。
 答え。元々は単行本の上下巻で発行されたものだからである。だからどうしたと言われても困るけど、ようするにややこしいのでやめて欲しいと言うだけのことだ。
 実は直江兼続ものは2冊目。昔読んだのは別の著者の物なのだが、あれよあれよと言う間に話がとんでもない方向に進んでいって、驚きのラストへ流れ込んでしまうのが今一つ肌に合わなくていやだったのだが、こちらはいい。主君・上杉景勝と固い絆に結ばれた知将兼続の魅力が全編にあふれているとともに、ほかの登場人物も魅力的でいい。歴史小説の面白さは、主人公はもちろん、まわりの人物がどれだけ面白く書かれているかにもよるのは今更言うまでもないが、この本での秀吉、景勝、兼続の妻や前田慶次郎など、主人公の目を通してじつによく描かれていて、読んでいて楽しめた。全君謙信から引き継がれる大地を愛する思想が、キーとして彩りを濃くしている。
 難をあげれば、兼続と義兄弟となる石田三成の描かれ方が中途半端に感じられてしまったこと、兼続の政治家としての面が、外交や戦略意外の部分では細かく描かれていない点かも。

 ベン・エルトン『ポップコーン』(ハヤカワ文庫)はハリウッドを舞台にしたイギリス人による小説。暴力的な描写で名を売る映画監督が、自らが描いたような殺人カップルに自宅を占拠され、人質となってしまう。映画『ナチュラル・ボーン・キラーズ』や『カリフォルニア』を思い出すような登場人物に加え、ハリウッドやメディアの影響について皮肉の効いた視点で語られる様が時に痛快で面白い。
 人質となる主人公の映画監督は、自らを芸術家と主張してはばからず、多くの批判と戦うことで暴力的なメディアを象徴する。犯人達から思い出されるのはさっきあげたような映画だけど、この監督が作る映画の雰囲気ってどっちかというとタランティーノを感じさせるけど、これは俺だけなんでしょうか。

 法律の裏の裏をつくドナルド・ラムと彼の雇い主である大女バーサ・クールの探偵事務所を舞台にした探偵小説『屠所の羊』(ハヤカワ文庫)の著者A・A・フェアが別の名前で書いている有名な弁護士のシリーズはなにか。
 ミステリ好きなら問題を逆にして答えるところなのかもしれないけど、俺は全然知らなかったので読み終わったあとの解説でびっくり。アール・スタンリイ・ガードナー「弁護士ペリー・メイスンシリーズ」が答え。なるほど、最後の法廷のシーンなどそのものずばりでした。
 依頼人に「有罪にならずに殺人を犯す方法」があることを教えたために弁護士免許を取り上げられた主人公ドナルドが貧しさに迫られて入社した探偵社のボスは、金にうるさい巨体の女社長。この社長バーサ・クールがまた派手な人物なんだけど、ドナルドの独特の「軽さ」が、メイスンとはまた違う味になっている。ただこちらの場合、法律の使い方がかなり悪質なので、その辺もあってガードナーは変名を使ったのだろうか。独特のあっさりした物語の進み方や古風な雰囲気の描写なんかで気付いても良かったかもしれないけど、なんとなくこちらの方が本人がリラックスして楽しんで書いているような気もする。まあ、どちらかと言えば「メイスンシリーズ」の方が好きだけどね。

 以上、相変わらず文庫ばかりの読み週記終わり。ところで、俺の友達の中でも俺は本を読むのが速いと勘違いしている人がいるみたいだけど、読むのが速いんじゃなくて、読んでいる時間が長いだけです。読むのは多分遅い方じゃないかと思うけど。もっと速くいっぱい読みたい、という欲求に常に駆られてるんだから。

第3週(9/20〜9/26)

 読みたい読みたいと願ってなかなか読めずにいたくせに、ひょんなことからその本に出会うことがある。友人の兄の同級生の後輩の母上のご姉妹のお宅の犬に会いにうかがったときに、偶然本棚に天童荒太『永遠の仔 上・下』(幻冬舎)を発見して思わず声をあげてしまった。そのお宅の方は実に快くその本を貸してくださり、おかげでまだしばらくは読めないであろうと思われた本を読むことができた。なんといい人。
 数ヶ月前に書店の平積みで見かけたときから読みたくて仕方がなかったのに手が出なかったのは、単に金がなかったからである。単行本の上下巻はやや気が挫ける。それだけに書店で見かける度に悔しくて仕方がなかったのだ。本は売れまくり、評判ばかりが耳に入る。
 物語は現在と過去を交互に繰り返すことによって進んでいく。児童用の精神科病棟に入院していた3人の子供が、それぞれのトラウマを抱えたまま成長し、更なる悲劇の渦中に飲み込まれていき、謎に包まれた2つの殺人事件が姿を見せる。確かに今流行りのジャンルではあるけれども、過度に自罰的な彼らの姿が心を打つ。その背後には必ずそれぞれの家族が抱える問題があり、子供の人生に根深く過程が関わっていることが良く描かれている。上下巻とかなりの長さではあるが、かえってそれだけの長さにあれだけの内容をよく入れ込めたものだと逆に感じてしまうほどの質量感があるのだ。親子の絆は、たとえそこにどんな悲劇を内包しようとも恐ろしいほど強い。

 『永遠の仔』のせいで読みかけのまま放置されていたサラ・パレツキーの『サマータイムブルース』(ハヤカワ文庫)は、女探偵V・I・ウォーショースキーが主人公の女性版ハードボイルド。全くないわけではないものの、女性版のハードボイルドは数が少ない。これにはもちろん様々なわけがあるのだが、議論としてはほとんど意味がないのではないか、という気がする。男女平等や性差別の問題との絡みや、逆に社会的、心理学的原因をあげることは特別困難なことではないが、一方でその議論は時代の流れの中でしか通用しない物にも思える。今だからこそ「女性版」ハードボイルドという言い方ができるのだし、それがそのまま残るとしたら、そのことに大半の人間が痛痒を感じていない、というだけのことだ。
 息子を捜すという依頼を受けたヴィクが保険会社に関わる背後の陰謀に相対していく、というストーリーで、真相に対するアプローチの仕方も主人公の個性も、これといって際だった物がない。女性とか男性とかいうレベルでなく、たんにハードボイルド・ミステリーとして読んだときに特別面白くない、という程度だ。これは読み切るのに時間をかけすぎたことが原因にあるのか。どうも読んでいて今一つテンションのあがらない本だった、というマイナスの印象だけが残ってしまった。間に挟んだ本が悪かったのかも。

 明治から大正、昭和にかけて活躍した文学作家達の短編を集めた『ことばの織物 短編小説珠玉選』(蒼丘書林)との出会いも奇妙だった。地元の図書館が「再利用図書」として放出し、区の施設に並べられていた物なのだが、なぜ図書館にあったのか不思議に思うような大量の書き込みに驚いた。学校の授業で使った本をいらなくなった学生が寄付した物なのかもしれないが、それにしてもこんな本を図書館がおくと思う人も凄い。小説そのものを楽しむよりも、小説を読みながら書き込みの主がどんな勉強をしたかという方に興味が傾くのも仕方がない。
 収録作品は樋口一葉「わかれ道」、泉鏡花「処方秘箋」、志賀直哉「剃刀」、森鴎外「佐橋甚五郎」などでその他にも有島武郎、横光利一、太宰治、芥川龍之介など、中学の文学史の授業に出そうな名前がずらりと並んでいる。個人的には鴎外、葉山嘉樹あたりが面白かったが、なに、この本に限れば注目は書き込みの方なのだ。
 まずこの本をほとんど一冊使っていることから、元の持ち主は文学部の学生ではないかと想像される。所々に「先生:〜」という教師の意見をメモったらしき箇所もあるので、ほぼ間違いない。面白いのは、方々に見られる先生の意見が全く俺と合わないこと。全くはいい過ぎだが、首を傾げる瞬間がずいぶんあった。普段エンターテイメントに毒されて、文学作品を読み解くセンスがなくなってしまったのかどうかはわからないが、不思議な違和感に捉えられたまま読み進んでいた。文字の雰囲気から恐らく女性であろうと思われるのだが、時折少し雰囲気の違う筆跡が登場してきていて、それが更なる疑問を呼ぶ。まさにミステリーである。文学をミステリーとして読む。全く新しい試みのために天から下された本である、という可能性はほとんど無いだろうなぁ。

 誕生日のプレゼントとしてお薦めの本を教えてくれい、とお願いしたところ、かえってきたリアクションの一つが夢枕獏の『陰陽師』(文春文庫)。実は昔、夢枕獏の書いたT・ゴドウィン「冷たい方程式」(ハヤカワ文庫『冷たい方程式』収蔵)のパロディを読んだことがあって、実は有名なSF小説をネタにしたSM小説だったんだけど、その描写があまりに恐ろしくて、その時丁度風邪を引いて熱に浮かされていたこともあって夢枕獏の印象はすこぶる悪い。結局それ以降もあまり読んでいないのだが、そういう作家とこうやってで会うのもまた一興である。
 夢枕獏と言われてそれっぽい版元の棚を探したのだが見つからず、インターネットで検索してみてびっくり。なんと文春文庫から出ていたのだ。ちょっとイメージが合わなくて不思議だったのだが、それって失礼?
 平安時代、平安京に出る様々な魑魅魍魎による怪事件を、天才的な陰陽師安部晴明とその親友である武官、源博雅が解決するという連作短編集。結局解決するのは晴明なのだが、生真面目な博雅とのコンビは特に斬新ではないものの心にしみいる。飄々としながらも、おそらく自らの式神だけを身の回りに配して暮らす晴明に漂う孤独感とそれを気にしながら確信に踏み込めずにいる博雅の関係が面白い。
 もちろん独特の雰囲気も重要で、特に一番はじめの話「玄象という琵琶鬼のために盗らるること」における、蝉丸が琵琶を演奏するシーンが印象的だ。

 どうもこの頃、買っておいた本が読む前にどこかへ消えてしまっている。読みかけどころか未読のままいずこに放置されているのか。気になるところだ。

第2週(9/13〜9/19)

 なんという眠さだ。夜布団で本を読めば眠くなり、電車で本を開けば眠くなる。おかげでさっぱり読書がはかどらず、読みかけの本、未読の本が増えていく。
 実はあるページで「誕生日プレゼントとして面白い本を紹介してくれい」と書いたところ、本当の紹介してくれた人がいてかなり嬉しいのだが、問題はその本になかなか届かないこと。全てはこの眠さと、自然の欲求に正直な俺自身にある。

 俺はいつになったら『週刊少年ジャンプ』(集英社)の購読をやめるのか。ここ数年の疑問である。今週読んだのは41・42号。疲れたときにふとマンガを読みたくなるのが現代若者の病理なのかはともかく、はずれマンガが多い中、けなげに読み続ける理由がわからない。「何となく面白いけど、特になくてもいいよねー」という慢性的な状態にある。とにかく小畑健「ヒカルの碁」が続いている間は読みそうな気がする。

 『本の雑誌』(本の雑誌社)10月号の特集は「90年代のベスト100発表」だ。相変わらず企画で扱う冊数が多いため、すごいスピードで決まっていく。ベスト5くらいに絞ればいいのに、とも思うが、それじゃ雑誌としての狙いが薄れてしまうのだろう。
 それにしてもベスト100の中で、読んだ本が数えるほどしかないのはなぜか。別にこれらが必読の書というわけではないのだが、未読のうちの何冊かは確かに読みたいと思ってはいた物だけに、改めて「面白い本」と挙げられると悔しいようなもどかしいような。ベスト100をぼんやりと眺めながら「これとこれだけはせめて読もう」とリストアップする気力も今一つ。でも読みたいなぁ。

 某病院で話題になったという謎の書赤坂真理『ヴァイブレータ』(講談社)を読んでいたら、題名を見た知人に「すごい本読んでるねぇ」と言われた。別に例の器具の話じゃないです。マスコミ業界で働いているらしい主人公のお話で、途中からはトラックの運転手とのロード・ストーリーの様になっていく。全編分裂症っぽい考想化声やら妄想やらがあふれていて、内容はともかく作者自身に興味が向かってしまうのも仕方がないか。そのことに関してはふたつの読み方ができると思うんだけど、それはまた別の話。ここには書かない。
 「本年度、芥川賞候補作」という腰巻きにまずびっくり。読んでみて更にびっくり。良く書けてるとは思うけど、最近よく見かけるタイプの小説から基本的には離れていないし、本書のようなタイプの話し言葉で書かれた小説が、果たして文学としてどれだけ評価されるのかはわからない。ううむ。ちょっと迂闊に評価できないような、切り捨ててもいいような、微妙な状態にある。とりあえず、特に言葉の使い方が上手いとは思わなかった。方々に顔を出す論理性のような物が作品の普遍性を形作る要因になっていて、それがかえって邪魔になる。マイノリティックな雰囲気が評価される時代なんだけど、かえって俺の好みからは遠い気がするだけなのかも。

 そんなわけで今週はこれだけ。あれも読みかけ、あれも読みかけの状態で、ひょんな事からあれが手に入ってしまったので早速読み始める。どうなっているのだ。

第1週(9/6〜9/12)

 9月12日は俺の誕生日。もう最近は誕生日などすっかり関係がなくなったが、ここに来て誕生日プレゼントをいろんな人にねだっている。面白い本や本の情報を、である。前者はともかく、後者は応えてくれる人もいそうで頼みがいがあるような気がするが、いかがなものか。

 本物の幽霊に出会うことを夢みながら、結局幽霊騒ぎの真実を突き止めて幽霊にはあえずじまいになってしまう心霊探偵アレグザンダー・ヒーローの物語『幽霊が多すぎる』(創元推理文庫)は、ポール・ギャリコには珍しいミステリー。ミステリーを書いても、この作者の根本にある、「おはなし」という面白さの追求が心地よい。
 大きな館を襲った幽霊騒ぎを解決すべく呼ばれたヒーローと義理の妹メグの活躍よりも、ノーリーンや「いとこの」フレディの愛すべきキャラクターがほほえましい。ただ、本物を求めながら幽霊の正体を暴いてしまう心霊探偵、という設定。たしか小山田いくのマンガに似たようなものがあったような気がするけど。意外にパターンなのか?

 前回読んだ『マダム・タッソーがお待ちかね』(ハヤカワ文庫)ではちょっとがっかりした感があったものの、この『偽のデュー警部』(ハヤカワ文庫)におけるピーター・ラヴゼイの力は見事。恋に恋する、というタイプの不倫の相手に勧められて妻を殺すことにした歯科医が、かつて太平洋航路でおきた逮捕劇の登場人物デュー警部の名をかたることから始まる探偵劇。犯人がわかる瞬間はややお粗末にも感じるけれど、人の話を聞いているだけで、どんどん話を引き出してしまう「偽のデュー警部」のとぼけた味わいといい、トラディッショナルなかおりのどんでん返しがうまく使われていることも見事。何よりも、主人公にかつてサーカスの読心術師であった、という過去をふかしたところが捻りが利いていて面白い。

 今週は眠いのでどんどん行く。結局このままシリーズを全部読んでしまいそうな、ロバート・B・パーカーの「スペンサーシリーズ」の『レイチェル・ウォレスを捜せ』(ハヤカワ文庫)は、前作から一転、意外にオーソドックスなハードボイルドに近いかたちになっている。ホークもうわさ話でしか登場せず、物語自体は特別変わっていない。
 しかし、シリーズものの長所は様々な話が語られる中でどんどん主人公の人格が掘り下げられ、同時に色々なかたちでの成長がみられる点で、今回の話にもそれがふんだんにある。
 大きな特徴といえるのは、過去作にも増して、スペンサーの思想を批判する人間のメッセージが強いことだ。大きな批判者としてシリーズを通して登場している恋人のスーザンと、今回の依頼人でもある女性開放論者でありレズビアンのレイチェル・ウォレスの2人がいるが、この2人が似たような点でスペンサーに批判を加えているにもかかわらず、2人の立場は正反対である。スーザンはスペンサーの思想に批判を加えながらも最終的にはスペンサーを愛し、その特徴とも批判点とも言える部分を擁護している。
 一方のレイチェル・ウォレスの方は、最後までスペンサーと対局の立場をとり続ける。この2人の存在によって、スペンサーの思想が善悪でなく、一つの明確な意思、あるいはメッセージとして確立されることになる。これは、作品中で何度も矢面に立たされるスペンサーが、自分を批判する相手の言をいちいち認めていることによって更に強化されているだろう。主人公のスペンサーの生き方によって、ハードボイルドが語るある種のロマンティシズムが強く存在を主張することになるのだ。

 やっと出た。今までの出版ペースから比べるとずいぶん遅れているようにも思えるが、恐らく文庫化が翻訳ペースより早いことが原因なのだろう。もうじき単行本に追いつきそうなのだから仕方ない。とはいえ、この新刊を見つけたくて何度書店に足を運んだことか。ディック・フランシス『告解』(ハヤカワ文庫)である。
 今回の主人公は、元アマチュア騎手の映画監督トマス。原作の味や特徴にこだわり続け、このトマスに泣かされることになる原作者の姿が興を呼ぶ。なにしろこの主人公トマスからはハリウッドの思想が見え隠れし、単純にいってそれは主人公の魅力をそぐことにもなりかねない。
 フランシスがあえてその挙に出た理由はわからないが、それでもなお、仕事に向かう姿勢や素晴らしい映像を手にするための惜しみない情熱には、今までのフランシスの主人公達に通じるものが確かにある。
 競馬界の過去のスキャンダルを元にした原作の映画化に携わる主人公は、その撮影を妨害する何らかの力に立ち向かうことになる。しかし自体は自分の命にも関わるほどの緊迫した状況を迎えることになる。
 ここで主人公があえてその力と戦うのだが、この「命を賭けて」の部分に正当性と何よりも主人公の特長を裏付けるのが、撮影に呼ばれた騎手達の心を掴むために自らレースを仕掛けるシーン。馬とともに障害を飛越していく喜びはもちろんだが、危険を省みないだけでなく、それを望む心の動きがはっきりと示されていることがフランシスの大きな魅力の一つといえる。大けがや時には命を失う危険をはらんだ競馬騎手という仕事のなかに、抗いがたいスリルを感じたというフランシスの思考が、主人公達に投影されているのだ。
 しかしそれでもなお、この作品は水準点に達しているとは言い難い。前作の決着に比べると物語もやや散漫な印象が拭えず、せっかくの魅力のある登場人物達が十分に描かれていないのだ。
 だが、フランシスの力が衰えたわけでは決してない。次に文庫化される予定なのは、作者自身に発破をかけるかのように再登場するあの主人公、シッド・ハレーのいちばんの傑作、『敵手』(早川書房)なのだ。快作から傑作の間のローテーションの谷間と考えたい。

 2作続けて。結局全部読むことにしてしまった北村薫の「私と円紫師匠シリーズ」の第2、3弾『夜の蝉』(創元推理文庫)、『秋の花』(創元推理文庫)。1作目の『空飛ぶ馬』(創元推理文庫)と続けて読むことで、本格推理の味わいを保ちながら、主人公である「私」の成長物語としての姿が明らかになっている。
 とにかくうまい。というとなんだか北上次郎みたいだが、言葉の使い方や主人公の心の機微や完成の描き方が見事の一言に尽きる。これほどすっきりと心のはいる言葉を使うのはそう簡単ではないはずなのに、北村薫の手に掛かると造作もないことのように見える。
 前者は1作目と同じ様な短編集。最も長さは短編と中編の間くらいで、最後の表題作は円紫師匠も出てこない、完全な普通小説である。単なる推理ものの粋を越えているのだ、と言うことを今更主張する必要もないほどに、主人公の心が伝わってくる。
 それに比べると後者の方はかなりの本格派。出てくる事件も今までの中で最も事件性が強い。それでありながらも普通の推理小説にならないのが北村印。不可解な謎に戸惑う主人公、話を聞いただけでその真相を洞察してしまう探偵役、といった道具立てを揃えていながら、シリーズが持つ個性は全く損なわれていない。本格派速球投手と言うよりも、絶妙のコントロールがファンをうならせる。かといって見た目ほど球質が軽いわけではない。しっとりと心に訴えてくるものがあるのだ。
 これらの作品の流れからさらにあの名作『六の宮の姫君』(創元推理文庫)が登場するのだからたまらない。「器用」という言葉には収まりきらない魅力が北村薫にはある。ついつられるようにして『六の宮の姫君』を読んでしまったのも当然の帰結である。再読なのでここには書かないけど。

 秋の気配は明らかにそこらじゅうにあふれているくせに、肝心の本体がなかなか姿を現さない。いつになったらのんびり涼しく本が読めるのだ。