Tawashi's Room[ 本を読んで考えた 目次]
本を読んで考えた

15 「これからの英語教師」を読んで考えた

書名 「これからの英語教師」 若林俊輔著 大修館書店
メモ 2004年3月〜

長くなりそうなので、目次をつけました
第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 第6章 第7章 第8章 第9章 第10章
第11章 第12章 第13章 第14章 第15章 第16章 第17章 第18章 第19章 第20章
第21章 第22章 第23章 第24章 第25章 第26章 第27章 第28章 第29章 第30章


どのくらいの方がこの本をご存じでしょうか。

「これからの英語教師」、大修館書店から英語教師叢書の1冊として1983年1月26日に出版されました。著者は若林俊輔先生です。

20年ぶりにこの本を読み返し、大学で受けた若林先生の授業を懐かしく思い出しました。全30章と付章のあわせて190ページ足らずの本ですが、内容は決して古くなっていません。ああ、いい授業を受けたなと感じます。

初めて読んだのが大学4年の時でした。そのときは、先輩に感想を聞かれ、「付章の英語授業学的雑談が一番おもしろかったですね」と答えたのを覚えています。今は、もちろんこの付章もおもしろいのですが、それよりもその前の30章全体の方に強く惹かれます。自分自身、少しは成長したのでしょうか。

自分自身を少し見つめ直すために、気がついたことをメモしておきたいと思います。もちろん、この本の要約ではありません。本筋から離れたところであっても、「おやっ」と思ったところを抜き出し、感想を書きます。

なお、20年前に読んだときは、メモなどは残していませんでした。これが最初のメモになります。10年経ったらコメントをつけましょうか。
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「第1章 教師と生徒」を読んで

 子どもたちはオトナを信頼していない。私もかつてそうであった。(略)少々おとなしい言い方をすると、オトナとはわけのわからないことを子どもに押しつける存在である。「それが世の中というものだ」というセリフしかオトナにはない。英語教育にあてはめれば、「英語とはそういうものなんだ、理屈を言わずにおぼえろ」ということになる。(略)要は、オトナを信じていない子どもたちを前に置いたとき、オトナである教師はどういうことを考えていなければならないか、それを「英語授業学」を標榜して論じようということである。(pp.2-3)
このズバッとした言い方、まさに若林先生です。

「オトナである教師はどういうことを考えていなければならないか」、今の私なら、「子どもたちに、自分はやればできるんだという自信とやることの難しさ・大切さを自覚させること」と答えます。

英語の授業って難しいけど、楽しいこともあるし、先生はうるさいけど、少し活動をやってみると、前はできなかったことが少しずつできるようになる、苦労って実るんだ……そんなことを実感させることかなと思います。

どんなことがあるかといえば、このWebSiteで紹介している「ねえ、みなさん……」からのすべての取組が該当します。

それから、活動が失敗したとき、全部を生徒のせいにしないで(本当はしたい気持ちもあるんだけれど)、自分の見通しの甘さを認め、生徒に「残念ながら、この活動はうまくいっていないので中止する。始める前に、君たちの様子をじっと見て、君たちならできると思って活動を組んでみたんだけれども、私の観察が甘く、準備が悪かったようだ。申し訳ないが、中止する。君たちのせいではない。」と正面から語りかけることかなと思います。一度、実際にありました。

また、生徒の質問に一緒になって必死に考えることも大事ですね。
「先生、なんで This is ... が疑問文になると、 Is this ...? ってひっくり返って、おまけに文の最後が上がるの?」
「う〜ん(と暫しの間) 正直言って、先生も知らない。でも、たとえば、こんなことは考えられないかな。疑問文て、質問しているわけだから、ふつうの言い切りの文とは違うだろ。だから、違いを目立たせなくてはいけないんだ。そのために this is の順番をひっくり返して is this って言うし、文の最後も下降調とは変えて上昇調で言うんじゃないかな。」と汗を流しながら答えました。こんな答えをしたことを若林先生が知ったら、怒るでしょうか。それとも苦笑いでしょうか。
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「第2章 思い込みからの脱却」を読んで

 私たち教師がもっとも警戒しなければならないもののひとつに「思い込み」がある。その「思い込み」はどうしてできあがったかというと、かつてそのことをそのように習い、おぼえ、それが正しいことであると信ずるに至ったからである。
 昔からある笑い話だが、「地球が丸いということはどうしてわかるか、理由を3つ示せ」と言ったところ、ある小学生が「お父さんがそういいました、お母さんもそういいました、ボクもそう思います」と答えた。たしかに笑い話である。しかし、ちょっと考えてみると、そうそう笑ってもいられないのである。私たちも「地球は丸い、オレンジのような形をしている」ことは知っている。しかしどのようにしてこのことを知ったのかと考えると、学校などでそう教わったという理由ぐらいしか思い当たらない。(略)
 教師は教える内容について自信を持っていなければならないという。それは当たり前のことである。しかし、自信を持つことと、常に「思い込み」からの脱却を目指すこととは、全く別物である。
 私たちは、一生、「思い込み」からのがれることはできない。だからこそ、毎日のように「思い込み」からの脱却を目指さなければならないのである。教師という職業には特にこれが求められる──生徒たちを不幸にしないために。
「思い込み」について一番強く感じたのは、話すことの指導のときでした。
"Our Chat Will Go On"の最初にも書きましたが、
これまでは、私は、生徒に話させることに臆病でして、dramaにしてもinterview gameにしても、台本を用意したprepared activitiesになっていました。
という「思い込み」が強かったと思います。つまり「impromptuに話すことは中学生には難しいんだな」です。しかし、ある公開授業を見たことがきっかけとなって、自分でも実際にchattingに取り組んでみると、大変なことは大変ですが、でも、結構面白いんです。生徒の力が伸びていくのがわかります。手応えも(苦労とともに)感じます。「思いこむ」ことで自分に、そして生徒に枷をはかせていたのです。

この章では文法指導について取り上げていますが、自分の授業では「疑問詞を使った疑問文の文末は下降調で読む」「someは肯定平叙文、anyは疑問文、否定文で使う」という「よくある記述」からどう抜け出し、どう子どもに分かりやすく説明するかに悩みました。

学習の始めの段階ではこう教えた方がいいというご意見もありましたが、そのたびに、大学の授業で若林先生がお話になった「始めにAと教えれば、子どもは一生懸命にAと覚える。ところが後になって、あれは実はAではなくてBなんだ、とういことが英語教育にはけっこうあるけれど、こどもは「それでは必死になってAと覚えた努力は何だったんだ」と思うのではないかな」という言葉を思い出しました。

そうかといって、その代わりにどうわかりやすく教えるか、なかなかいい案が出てこないのです。特に後者の方は「someはあると予想できるときに、anyはあるかどうかわからないときに使う」と生徒に示しても、子どもはちんぷんかんぷんでした。これなら "Do you have some pens?" と "Do you have any pens?" の違いもわかるし、 "If you have any time," の文でanyを使うことの理由にもなるので、けっこういいところをついているつもりなのですが、やっぱり自分の力不足かな。
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「第3章 教師自らの退路を断つこと」を読んで

 ある授業を見た。 This book is Tom's.という文を黒板に書き、「このthisはどういう意味かな」と言いつつ生徒の机の間を歩き回り始めた。「さあ、アテルゾ、アテルゾ、ダレガアタルカナ、ソレ、A君。」A君は小さな声で「コレ」と言った。「コレか。 う−ん、そういう意味もあったが、ここではちがうぞ。サア、ダレガアタルカナ、アタルゾ、アタルゾ、ハイBさん。」Bさんは「コノ」と小さい声で言った。「そう、モの通り」と教師は言った。──この教師、まったく人情味あふれる人で、上の場面でもけっして強迫的なところを感じさせなかった。しかし、「アタルゾ、アタルゾ」と言いつつ歩き回る間、クラス中はシーンと静まり返っていた。生徒全員が身を縮めて、アタッテはかなわないと恐れおののいていると見えた。A君がアタルと、ホーッとため息が出てくる。Bさんの場合も同じ。どうも、この「アタル」という台詞はいけない。まるで食中毒みたいではないか。「サス」もよくない。「刺す」に通じる。毎日ササレたり、アテラレたりするのでは、まったくたまらない。
(略)
 発問の問題とは少々ちがうが、私は最近、教科書の日本語訳をあらかじめ生徒に配布してしまえ、と言っている。こうすれば、訳し方をまちがえる生徒はいなくなる(実際はそれでもまちがえる生徒はかなり出てくるのだが…)。こうすれば、教師は、訳語に関するつまらない質問で生徒を困らせることができなくなるであろう。ほんとうの英語の授業がここから始まる。英語に関する日本語の授業からのがれることができる。
 発問の問題で私が言おうとしたのは、実は、訳文配布と同じことである。差別することなく発問する方針を立てれば、発問のあり方を徹底的に考え直すことをせざるを得ない。つまり、逃げ道を自らふさぐのである。
 私は、若い人たちに、教科書を教室へ持って行くな、とも言っている。教科書の中身くらい、百パーセント暗記して教室に臨めと言っているのである。教案も頭の中に十分たたき込んで行く。
 つまりは、自ら退路を絶つのである。生徒の退路を絶つことを考える前に、自らにそれを課すことである。それでも、教師の生徒に対する優位性は崩れることがない。このことについては、このあとの数章でも、くり返し述べることになろう。
逃げ道をふさいで、何に立ち向かうのでしょう。

やっぱり、生徒です。生徒の学ぶ姿です。

荒れた学校で席に座らない生徒がいる、そんな生徒に立ち向かうことも必要ですが、座って勉強している生徒に立ち向かうことが見逃されている気がします。(つまり、自分自身見逃してきたということです)

若林先生のこの文を見て思ったのは、教師が生徒を、生徒の学ぶ姿を見ることの大切さです。自分の授業をふりかえっても、案外見ていないんですよね。物理的にも、教科書を見たり、黒板を見たりする時間が結構長く、子ども自身の顔や全身を見る時間はあまりありません。(教科書の中身を100%暗記して教室に臨んだのは何回あったのだろうか) 心理的にも、「この発問についてはだれがわかっていそうかな」ということに気を遣ってしまい、「このことについて、どのくらいの子どもがどんなふうにわかっているのだろうか」まで気が回らないことがたびたびありました。そうなると「立ち向かって」はいないんです。授業を流しているだけなんですよね。

だから、もっと生徒の学ぶ姿を見ることが大切なんです。そこから、次の授業のヒントをどう見つけて、自分の授業に生かすかが必要なんです。

授業がうまくいかないと愚痴を言うのは簡単ですが、そのうまくいかない理由は何なのか、そこを探さないと授業は改善しないし、生徒に立ち向かうことにもならないのかなと思います。自分自身の授業はどうだったのかと問われると、「いつもできていたわけではない」と答えます。でも、何回かは立ち向かっていました。そこで、子どもたちの姿を見て、自分の授業設計の下手さを痛感しながら、授業を手直ししていました。
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「第4章 教わったようには教えるな」を読んで

 私は、英語教育には発音記号というものは不要である、むしろ有害である、したがって発音記号を扱うことはやめるべきであると考え、主張し続けている。その理由については、別項でも述べるので、ここでは本章において私が言おうとしたことをまとめておくことにする。──それは、教師であるあなたが、かつて生徒・学生であったころに採用した学習法が、いま目の前にいる生徒たちに同じく有効であるとする「思い込み」を捨てよ、ということである。発音記号は自分にとって役に立った、だから生徒たちにも役に立つであろうと思う。そこまではいい。「思う」まではいい。 しかし実行してはならない。あなたが生徒であったころからすでに何年も経過している。目の前の生徒たちをよく観察し、彼らがどういう学習法を求めているかを知らなければならない。実行はそれからである。そして、しばしばそれは実行不可能になることを知るべきである。
 私の、このことに関する主張を一言で言えば、「自分の過去の経験はすべて疑ってかかるべきである」ということになる。もっとはっきり言うと「自分が教わったようなやり方で教えてはならない」となる。
「教わったようには教えるな」、何度この言葉を繰り返したことでしょう。教育実習生に向かって、そして、自分自身に対して。

実際、この言葉を守ることはとても難しく、ついつい妥協したことも数多くあります。でも、その結果うまくいったことはあまりありません。

若林先生の言うとおり
あなたが生徒であったころからすでに何年も経過している。目の前の生徒たちをよく観察し、彼らがどういう学習法を求めているかを知らなければならない。
ということなんですよね。昔と今とでは英語の学び方についてもさまざまな新しい考えが出ていますし、子どもたちの状況もずいぶん違っています。だから、基本的なところから見直さないと、その結果が同じものであっても、結局役に立たないわけです。

実はこれは、英語の授業に限ったことではなく、自分の今の仕事にも言えるんだなと実感しました。昔のとおりやっていても、あちこちから指導を受け、「いったい何でだ!」と思ったことも数多くありましたが、やっぱり昔は昔、今は今、「昔やったようには今やるな」ですね。
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「第5章 英語を学ぶことのむずかしさ」を読んで

 日本語は長い間漢字という表意文字に依存してきた。一方英語には表意文字はない。中学校1年生が英語を学ぶということは、表記法ひとつをとってみても、このようにまったく異質の文化の衝突を経験することなのである。コレハはthis、デスはis、ホンはa bookといった、たんなる移しかえを学ぶことではない。そして、異質の文化の衝突を体験しこれを乗り越えて行くには、ふつうの子どもたちには相当な時間が必要なのである。週3時間では不可能である。
 英語の文を書くときの「分かち書き」も、同じく、子どもたちにとっては目新しい。通常の日本語は分かち書き──つまり単語と単語の間を離して書くことはしない。英語では分かち書きをしなければならない。つまり、「語」の意識が明確でなければならない。英語を学ぶということの中には、この「語の意識を明確に持つ」ことも学習目標として含まれるのである。これまた新しい文化との出会いである。
 英語教師である人たちや、英語教師を目指す人たちにとっては、つづりと発音と意味の関係とか分かち書きの問題などは、かつて容易に納得したものである。しかし、このことこそが、あなたにとっての盲点となっていることを知るべきである。生徒たちにとって何がどのようにわからないかが、この盲点のために見えなくなるからである。
うーん、参ったなというのが正直な感想です。「あなたにとっての盲点となっていることを知るべきである」、いやはやそのとおりです。たしかにこのことは、読み返すまで気がつきませんでした。「言葉は異なる文化の第一歩である」などと教室で、職員室で広言していたのに、「分かち書き」のことはすっかり頭から抜けていました。(「分かち書き」というと、泡坂妻夫の「掘り出された童話」を思い出します)

「英語には表意文字はない」、そのとおりです。表意文字群ならありますが。

やっぱり、このへんは最初の10時間できっちり抑えなくてはいけないことだったのかもしれません。自分の授業はどうだったのか。思い返してみると、曖昧です。ちょうど、教科書がNew Crownだったときがあり、Is this a hat? の前に A hat?/ Yes. 等の問答が出てきたので、何とかこなせていたのかなとも思いますが、冷や汗たらたらです。(あの問答のねらいはそこだったのですね。教科書の編著に若林先生が携わっていたからこその表現です)

もう一回、自分とその周りを見直さないとね。
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「第6章 名前のある文字に接する驚き」を読んで

 まず[b〓:d]〈〓はschwa〉という発音(「発音記号」ではないことに注意)を教える。何度もくり返して正しく(何が「正しい」かはまた別の問題である)発音できるようにする。そして次に、[b〓:d]はBIRDとつづるのであると教える、としてしまっては何にもならないということである。なぜならば、生徒たちは[b〓:d]をBIRDと書くことをおぼえるわけだが、これは、[トリ]を「鳥」と書くことをおぼえることと何ら変わるところがないからである。
 ではどうするか。[b〓:d]を教える。よく発音できるようになったら、[b]をBと書くことを教える。[〓:]はIRと表すことを教える。[d]はDで表すことを教える、というふうにしなければならない。こうすれば、[b〓:d]がBIRDのつづりで表されることの仕組みがわかる。
 さて、このような、発音と文字の対応関係をきちんと教えて行くという立場に立つと、どうしても批判しなければならなくなるのがフラッシュカード(flash card)である。これは、カードに単語を書いて、その単語を瞬間的に見せ(つまりflashさせ)、その単語の発音を言わせるのに用いる教具である。最近はフラッシュカードを長時間見せる教師がふえてきて、これではフラッシュカードとは言えないのだが、それはともかく、語のつづりを瞬間的に判断してそれを音声化するというのは、少なくとも、つづりと発音との関係について、基礎的な訓練を十分に施してからでなければならないと思うのである。漢字のフラッシュカードならばいいであろう。文字の「形」を瞬間的に読みとる訓練は必要かもしれない。しかし、英語の単語は「形」でおぼえるわけにはいかない。つづりを構成する文字と、文字が表す発音との対応関係こそが指導の重点なのである。そして、同じことのくり返しになるが、[f]はF、[l]はL、[ae]〈aeはa-e digraph〉はA、[sh]〈shはlong s〉はSHで表されていることを徹底的に納得してもらうことが、何よりも優先しなければならない。
※〈 〉は私の注釈です。

たしかにフリガナをつけるように覚えなくてはいけないのかもしれません。中学生時代に、発音のテープを買ったことがありました。フォニックスの裏付けがあったのか、その本は発音記号はおまけ程度に示してあって、大体は、綴りの母音字の上に⌒をひっくり返した記号を付けて短音を表し、−をつけて長音を示していました。へえ、こんな書き方もあるのかと思っていたら、後日、POD(たしか第5版か何か)を古書店で手に入れ、にやついて開いてみたら同じような書き方がしてあったので、妙に感心した記憶があります。

ただ、フラッシュカードもここで取り上げられていますが、一律に批判されているわけではないと思います。要は使い方に気をつけて、英語の導入期にはあまり使いすぎてはいけないということでしょう。「基礎的な訓練を十分に施してから」というよりは「十分に施しながら」のほうがいいんではないかと感じます。

また、文中でも触れられていますが、flashするのがフラッシュカードなのであり、のんべんだらりと見せていてはだめだと大学の講義でも何回も話されていました。おかげで、私も、授業中、よしここはフラッシュカードを使って、ここではただの単語カードとしての利用だな、などと考えながら、同一のカードを使っていたものでした。

flashと書くと、"Flush."という、All I Really Need to Know I Learned in Kindergarten. の credo の一節を思い出します。
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「第7章 規則的なものを優先すること」を読んで

 penという単語のとなりに[pen]という発音記号が印刷されていたという、中学校1年生の私には何が何だかわからない、オバケのような不思議なことがあった、そして、いまでもある、という話をしたい。
 もうひとつ例をあげると、jetは[d〓et]〈〓はtailed-z〉、yetは[jet]である。なぜjetと[jet]は表す発音が違うのであろうか。この仕掛けを理解するには、よほど変わった仕掛けの頭脳が必要であろう。
(略)
 [pen]という記号は、penというつづりを読ませるために掲げられているはずである。しかしpenが読めなければ[pen]は読めない。そしてpenが読めたら、もはや[pen]は不必要なのである。
 つづりと発音の規則的な関係は、最近になって「フォニックス(phonics)」の名で脚光をあび始めている。いいことである。この分野の研究が進んで、やがて発音記号が辞書や教科書・参考書から姿を消す日を、私は待ち望んでいる。
綴りと発音の関係で、規則的なもの、わかりやすい単語から導入することが大切というのが、まずあります。

一年生にとって読みやすく、文型練習の際などに教師としても絵に描きやすいのは pen や desk です。(deskの絵を描くと、「先生、それは机なの、テーブルなの?」とよく聞かれたものです。「美的センスの違いかな」と答えていましたが)しかし、ballやbookを使うと(実際よく使ったのですが)、「先生、bolとかbukじゃないの」という声が上がってきました。ball/bolについては発音指導が下手だったせいもあるのですが、日本人の学習者にとっての推測のしやすさもあるのかと思います。

規則的なものを優先することについては、本文の中でも触れられていますが、ou の扱いには手こずりました。outやshout, aboutのように /au/ が基本的な読み方なのに、決まって1年生の最初の方に country が出てくるのです。しかも、意地の悪い私は、定期試験に出したりしました。(反省しています)

フォニックスの現在の興隆はご存じのとおりですが、1年生にとっては指導が難しいかなと思います。ある程度語彙が増えて、その中から綴りと発音の共通する規則を見いだしていくという学習が自然であり、「この綴りはこう読む」ということを最初からやるのは厳しいと感じます。

別件ですが、Jという文字はもともとIが別の母音の前に来たときに(つまり半母音化したときに)書いた形であり(UとVも同じですね)、昔はJという字はなかったことは知っているのですが、その文字 J はなぜ/d〓ei/(〓はtailed-z)になったのでしょうか。疑問です。
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「第8章 生徒の望みを打ちくだく教育のこと」を読んで

 日本の英語教育を改革するには、英語教師の持ち時間数を極度に減らす必要がある。1日2時間を限度として、週6日、つまり週12時間を上限とするのである。1クラス週4時間として3クラスということになる。
 最後に一言付け加える必要がある。なぜ12時間か。それは発音を大切にしたいからである。なぜ発音か。それは生徒たちはじょうずにしゃべれるようになりたいと願っているからである。いまの英語教育は、しゃべれるようになりたいと思って中学校に入学した生徒たちを、2〜3か月のうちにdiscourageし、しゃべるなどとうてい無理だとさとらせ、あきらめさせる教育をしている。これは教育ではない。学習者の求めるものを与えることを拒む教育は、はじめから教育ではないのである。
 日本の英語教育は、明治以来百年、学習者の明るい希望を打ち砕き、踏みにじることをやり続けてきた。そしていま、「中学校英語週3時間」体制という苛酷な条件の中に置かれることになった。
 外国語を話すということは、たいへんに疲れることなのである。どう指導したらよいかを真剣に考えれば考えるほど疲れる。私自身、ほんの10年ほど前までは、英語を教えることにそれほどの疲れは感じなかった。いい年になって、これは相当にエネルギーを必要とする職業だったのだなということがわかりはじめてきた。いささか遅きに失した。だから、英語教師待遇改善みたいなことを言ったのである。
「いまの英語教育は、しゃべれるようになりたいと思って中学校に入学した生徒たちを、2〜3か月のうちにdiscourageし、しゃべるなどとうてい無理だとさとらせ、あきらめさせる教育をしている。これは教育ではない。」重い言葉です。

でも、そのとおりなのでしょうか。

「しゃべれるようになりたいと思って中学校に入学した生徒」これはけっこう当たってますね。小学校でどんな英語会話をやってきたかにもよるのですが、かなりの生徒は思っています。でも、これから小学校で「英語科」などができたら、もう、あきらめてしまう子どももかなり生じてしまう危険性はありえますが。

閑話休題、
「2〜3ヶ月のうちにdiscourageし、しゃべるなどとうてい無理だとさとらせ、あきらめさせる教育をしている。」ここなんですね、気になったのは。私も1年生を担当したことが5〜6回あり、そのうちのほとんどは、しゃべることについては生徒をdiscourageさせていたかもしれません。「入門期は音声重視」などといっても、そのことと「しゃべること」とを結びつけるのは結構大変なんです。

ただ、このWebSiteに示した「ねえ、みなさん……」から始まる実践では、音声面でのコミュニケーションについていろいろと試行し、「しゃべるって難しいけど、何とかなるかも」という自信を多少身につけさせることができたのではないかと思います。

また、「最初はとてもできないと思っていたことが、単元の最後にはできるようになった」という経験は、生徒にとっても、そして教師にとっても大切だなと実感しています。
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「第9章 教師・生徒の上下関係をくずすこと」を読んで

寺子屋には先生がいた。生徒もいた。生徒は先生からいろいろなことを習った。その生徒たちのうち、ある生徒たちは、ある日突然、いま習っている先生からはもうこれ以上習うことがなくなったと思った。そこで、その生徒たちはどうするか。当然のことながら、その寺子屋を去るのである。より優れた教師のいる寺子屋をさがす。──要するに、役に立たなくなった教師は、生徒たちにとってはもはや教師でなくなるのである(かつて恩を受けた教師という意味は、もちろん、残る。これをつまり「恩師」という)。

寺子屋時代は、このようにして、生徒たちが教師を求めていた。ところが、義務教育制度が始まってから、生徒たちが教師を求めて右往左往するということがなくなってしまった。生徒たちは、「義務」的に、どのように無能な教師にでも教わらなければならなくなった。有能な生徒たちも、無能な教師に一方的に評価されて、優良可とか甲乙丙とかABCとか54321とか、そういうきめつけられ方をされる、いわば被害者の立場に追い込まれるようになった。この体制は、大正期にほとんど完全に確立した。それ以来、もはや半世紀をこえる。つまり、教師が、上下関係の「上」の位置を占めるようになってすでに半世紀ということである。かつては、教師は生徒によって選ばれていた。教育の主体は生徒であった。いまは違う。教育の主体は教師になった。しかも悪いことに、教師をコソトロールする組織が完成してしまっている。つまり、教育の主体は、いまや教師でさえもなくなった。主体は、文部省を頂点とする教育行政組織である。つまり、教育はいまや、生徒たちのために存在するのでなく、教育行政組織(そこで生計を立てているおとなたち、と言えばわかりやすいであろう)の維持のために存在しているという、まさに、主客転倒ともいうべき状態になってしまった。これは、教育の破産状態というべきであろう。学校教育はすでに破産している。破産しながらも存在し続けている。
中学校で教えていて、卒業の時期を迎えるたびに「みんな、新しい先生を捜して去っていくんだな」と思ったことを思い出します。(就職する子たちも、それぞれ仕事の先生がいるわけですね)

後半の論の進め方は、若林先生の面目躍如といったところです(怒られちゃうかな)。ただ、寺子屋時代にしてもその子どもがその小屋に滞在する間は上下関係はあっただろうと思います。だから、「上下関係の……」といった指摘はいかがなものかと思います。

続いて、「教師をコントロールする……」についてです。行政に携わる立場に現在いる私にとってはとても耳の痛いところもありますが、「教育行政組織の維持のために存在している」という指摘は間違っています。自分の生活のために今の仕事をやっているわけではなく、自分の目指すもののために仕事をしているのです。(いささか、いい格好しすぎでしょうか)

たしかに、今の子どもたちの現状を忘れてはいけません。でも、現状だけではなくあるべき姿も考えないと。「ラ・マンチャの男」のセリフに、"And the maddest of all, to see the life as it is, not as it should be."というのがありました。
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「第10章 生徒の苦しみを再体験すること」を読んで

bとdの区別がなかなかわからない生徒はいまでもたくさんいる。こういう生徒を軽蔑するのはやさしい。そして、この区別を教えることはむずかしいのである。なぜならば、もしこのbとdの混乱という「あやまり」を矯正しようとすれば、教師はそのあやまりをできるだけ正確にまねしてみなければならないからである。しかし、これは、まねすることはほとんど不可能であろう。 したがって、赦師としてできることは.たぜこの生徒がbとdの区別ができないか、その理由をなんとかして理解することである。ところが、困ったことに、こういう生徒に限って(私もそうだった)、なかなかしゃべってくれない。なぜしゃべらないかというと、本人も、なぜ区別がてきないかの理由かわからないのである。ことばに出して言えるほど理由がはっきりしていない。生徒自身も困っている。

 私は、現在の教育の中で一番問題なのは、われわれが、こういう生徒たちにどう対処したらいいのか、具体的な方法論を持っていないということである、と思っている。私自身は、bとdの問題を「門」をたよりに解決することができた。私は私自身の力によって救われた。それはしあわせなことであった。ては、自身の力によって自らを救うことのできない生徒はどうするのか。私は、教師というものは、まさにこういう生徒たちのために存在しているのであることを、何回でもくり返し述べたいのてある。
どこかで書いたでしょうか、中学校時代の恩師の先生から贈られた言葉を思い出しました。ちょうど、卒業間際のときでした。「高澤クン、おまえも、できない子どもの気持ちをもう少しわかるといいんだけれどな」というものです。

そのときは「僕だってできないことはたくさんあるから、できないことの気持ちは少しはわかるよな」と思いました。今から考えてみると、ちょっと傲慢な考えですね。これまでの人生の節目節目で思い出した一言でした。

若林先生はbとdについて書いていますが、そういえば1年生の1学期は、dookと書いたり、beskと書く子どもがけっこういました。b・dの違いをどう指導したかは、若林先生の書いているとおりです。(門パターンではありません)

答えに詰まってしまった質問は、aの書き方についてのものでした。「先生、教科書の本文ではaに髭があるのに(つまり、右の図の1行目右側の文字)、なぜノートに書くときは髭無し(1行目左側)の文字を書くの」 あわてて、大学時代の授業を思い出し、「教科書の最初の方に書き方の見本があるだろ。bやdをそう書きたかったら、aは髭無しを書くんだ。それで一揃いだね。もし髭つきのaが書きたかったら、こんなふうな一揃いになるんだ」と言いながら、2行目のようなアルファベットを書いたものでした。今思い出しても、説得力はないですね。

文字についてびっくりしたことと言えば、大学の授業でsの代わりにlong-sを板書で使った教授がいたことです。図の3行目の文字です。板書では右側の草書体を使っていました。懐かしい思い出です。
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「第11章 偏見の話」を読んで

なぜ中学校1年生に、「活字体」と「筆記体」の両方を教えるのであろうか。理由はわかっている。それは、教師であるあなたがそのように習ったからである。自分が習った方法で教えているにすきないのである。これを私は「思い込み」と呼んでいるのである。

タイプライターやそれに類する手段(電子機械のいろいろなものを考えてもらえばいい)で文字が提供される時代に、なにゆえに「円字体」系列の文字を教える必要があるのであろうか。現在、教科書などで用いられている「活字体」は、ローマン体と呼ばれる字体である。したがって、生徒たちは、ローマン体が読め、ローマン体に似た文字が書ければ十分である。スペンセリアンの昔にかえる必要はどこにもない。ローマン体に似た字体、そして書きやすい字体、それは、ブロック体、マニュスクリプト体、あるいはイタリック体である。

同じことをまたくり返して言っておく。教師は自分の「趣味」を生徒に押しつけてはならない。自分がスペンセリアンが書けるからといって、それが英語教育にとって有効であるかどうかとは、まったく関係がないのである。

とにかく、自分が日頃用いている字体がどういう流派に属するものであるかについて、少々まじめに調べてもらいたい。「字体」の選択については、日本の英語教育界は、相当にふまじめすぎる。

「字体」の選択はしばしば「趣味」によって行われる。そして、「趣味」は「教育」ではないのである。
この本は1983年発行なので、当時の学習指導要領は「カ 文字  (ア) アルファベットの、活字体および筆記体の大文字および小文字。」を教えることとなっていました。その後、平成10年公示の学習指導要領で「イ 文字及び符号  (ア) アルファベットの活字体の大文字及び小文字」となり、「文字指導に当たっては、生徒の学習負担に配慮し筆記体を指導することもできること。」が「指導計画の内容と取り扱い」に示されたのはご存じのとおりです。

字体については、若林先生の主張の通りかなと思います。しかし、20年前にこの本に接してからも「自分が日頃用いている字体がどういう流派に属するものか」については、とんと調べたことがありません。やっぱりいい教え子ではありませんでした。

Whの書き方スペンセリアン体についても先生は豊富な知識をお持ちで、「Wとhは、スペンセリアン体では繋がらないんだ」ということを授業で聞いてびっくりしたことを思い出します。(もちろん、教師になって筆記体を取り扱ったときには、ちゃんと教えました)

字体について、もう一つ触れておきたいことが、ワークシートのフォントのことです。このごろは1年生向けの教科書では、特に初期にブロック体が用いられることが多いようです。そのことも参考にしながら、授業用のワークシートを作成するのですが、フォントで困ることが多いものです。

私はWindowsを使っているので、ブロック体に似ているフォントとして、たとえばArialがありますが、左図のとおり、大文字のIには髭がないし、小文字のaもブロック体とは違います。

また、最近はMS-UI Gothicというフォントもあり、大文字のIには髭があるのですが、小文字のaは異なります。

このことについては、過日、「掲示板」にも質問が寄せられ、あちこち調べてみたのですが、決定打というものはありませんでした。

難しいものです。

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「第12章 趣味を押しつけないこと」を読んで

(高澤註:☆はinverted-cを、★はschwaを示します)
かつて、sometimesを[ソメティメス]、occupyを[オカッピー]、otherを[オットヘル]と発音した教師がいたという話は有名である。その教師は[ソメティメス]という発音しか知らなかった。だから、生徒にもその発音を押しつけた。いまではこれほど極端な人はいないと思うが、似たような話はかなりある。たとえばoftenだが、この語は[☆:f★n](または[☆:fn])、あるいは[☆:ft★n](または[☆:fn])と発音される。ところが、[☆:ft★n]の発音を認めようとしない教師が非常に多い。なぜか。その理由を尋ねると、「私は[☆:f★n]と習って、いままで[☆:f★n]で通してきて、それで困ったことは一度もない」というのである。ソリャソウデショウ、と私は言いたい。[☆:f★n]がまちがいだとは、だれも言っていない。

しかし、[☆:ft★n]も同じくまちがいではないのである。要するにどちらでもいいのである。だから、たとえば、仮に「[☆:ft★n]ではいけませんか」と尋ねる生徒がいたら、「もちろんそれでもいいのだよ」と答えればいいのである。

こういうことを言うと、しばしば私が出会った反論は、「生徒は、どちらでもいい、などと言うと非常に不安になるのでありまして,つまり、AでもBでもいい、というのは困るので、AでなければならないとかBでなければならないとか、はっきり言ってやる必要があるのです」となる。私は、こういう発言を聞くとイライラする。どちらでもいいものは、あくまでもどちらでもいいのである。これが言語というものの実体であるはずである。
「生徒は、どちらでもいい、などというと非常に不安になる」というよりも、「どうせ覚えるのなら、どちらか一つにしてくれという生徒は多い」のかなと感じます。子どもたちにとって、覚えることは大変なことですから。だから、授業のときに一つしか提示しないというのは、意味のあることかと思います。

ただ、「仮に「[☆:ft★n]ではいけませんか」と尋ねる生徒がいたら、「もちろんそれでもいいのだよ」と答えればいいのである」というコメントは、そのとおりであると思います。無理矢理教える必要はないのでしょうが、「どっちでもいい」というのが正解ですし、「これが言語というものの実体である」のですから。

こう考えてくると、英語学習の基礎・基本の一部として、「言語に関する知識」をどこまで設定するのか、けっこう難しいことがわかります。次章の「ミニマム・エッセンシャルズ」に続いていきます。

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「第13章 ミニマム・エッセンシャルズ論の序章」を読んで

「草書体」など書けなくてもそれは英語力とは関係がない。しかし、しゃべれなければ、これは英語力がないと言われても仕方がない。どちらを選ぶか。──余裕があったら、両方とも選び取っていいであろう。しかし、「中学校英語週3時間体制」(たとえそれが週5時間であろうとも)の中に、両方とも選ぶ余裕があるのであろうか。あるはずがない。
(中略)
私が本章で言いたかったのは、そもそも、学習者にとって大切なものは何かということを見失うなということである。「草書体」などは、学習者にとっては、本来「趣味」の領域の問題で、したがって、はっきり言えば、「書道クラブ」などで趣味的に扱ったほうがいいのである。

教室では、かなり直接的に「学力」と関係があるものを集中的に扱うべきであろう。本章で論じた材料との関係で言えば、話せる英語のほうを優先させたほうがいいのである
「草書体」(筆記体のこと……こう書くと「活字体だって人間が書いたものについて言っているんだろ。そりゃ活字じゃない。『筆記体』だぞ。」という大学の講義を思い出します)は時間があったら指導するものという論ですが、今の学習指導要領を先取りしたものになっています。

この文章が書かれたのは1982年当時ですが、そのころは昭和52年告示の学習指導要領に基づいて授業が行われていて、「カ 文字 (ア) アルファベットの、活字体および筆記体の大文字および小文字。」というように、しっかり活字体と筆記体の両方を指導するようになっていました。そのなかで「草書体は後回しで」と言い切ったのですから、なんとも若林先生らしいものです。

「学習者にとって大切なものは何かということを見失うな」は名言だと思います。ただ、何が大切なのか、大切ではないのかというのは、ある程度取り扱ってみないとわからないこともあります。(スープの味が飲んでみないとわからないように) 私にとっては、平成元年告示の学習指導要領で示された『新しい学力観』がそうでした。「関心・意欲・態度? いったいなんなんだ。」と思っていたのですが、授業設計に組み込んでみたら、授業がガラッと変わりました。

だから、安易に妥協せず、また怯懦せず、何が生徒にとって必要なのかをしっかり見ていくことかなと思います。

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「第14章 教材は自作が原則であること」を読んで

ほんとうは、前にも述べたとおり picture card などは、教師が自作すべきなのである。自分の授業の進め方・内容にあったものは、自分でなければ用意できない。文法は文法学者の数だけある。それと同じように、教授法は教師の数だけある。したがって aids のあり方も同じく教師の数だけあるのである。だいたい teaching-learning aids を教科書出版社が種類を限って提供するという体制そのものがおかしい。(中略)

私が本章で言いたかったのは、実はこれからである。私は teaching-learning aids (こんな言い方があったかどうかは不確かだが、造語としてはなかなかよくできていると思っている)の「自作」をすすめている。教師自身が不器用だったら(そういう人もいるのだろうが、ほんとうは困るのである──これは教員養成の大問題の一つ)、生徒たちといっしょに作ればいい(そういうことをしている教師もたくさんいる)。生徒が授業の運営に直接参加するというのは非常にいいことである(器用な教師でこういうことをやっている人がいるのには敬服させられる)。さて、ここで「中学校英語週3時問問題」が浮上してくる。それはどういうことかというと、「われわれ教師は忙しいのである」ということである。忙しいから自作などとうていできない。だから、 teaching-learning aids の準備を教科書出版社に頼るのは当然である、と言う。私が言いたいのは次のことである。「当然」ではないのである。教師にはヒマが必要である。このことを声高に主張する必要がある。(pp.57-58)
確かに、教え方は教師の数だけありますし、どんな picture card がいいかは人によって違います。また、同じ人でも年度によって違います。別の場所でも書きましたが、昔、GDMの講習会に参加して(といっても一回だけ)、学んだことに「手作りの教材は毎年作り直そう」ということです。どうも昔のものを使っていると、新鮮なアイディアが出てこないで、マンネリに陥ってしますのです。

後半の文章を読んで、いろいろと考えました。賛成することも多いのですが、「忙しい」から「当然」とはならないと思います。限られた自分の時間を何に使うのか、それは自分の選択です。自作する時間を削って(つまり、教科書会社作成のものを流用して)、ワークシートづくりをするとか、CDを聞いて範読の練習をするとか、どれを選ぶのかは自分です。

ただ、「教師にヒマが必要である」ことは、いつも大声で叫んでいかなければいけないでしょう。とくに、学校に対して批判的な視線が寄せられることの多い、現代では。

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「第15章 言語偏重主義にのめり込む危険性について」を読んで

Verbal symbols, therefore, are used together with every other material on the cone, though they themselves are abstractions.(イタリックは原文のまま)

この本のあるページにへビをつかんでにっこり笑っている少女の写真が出ていて、その写真の下には This rich experience is "sensed," it is new, it has marked emotional tone, it produces a sense of achievement. Is it likely to be forgotten ?
というキャプション(caption)がついている。残念ながら、私はヘビを極度に恐れるように教育されてしまっているから、この写真の少女のような行動はとうていできないが、もし仮にこういう経験をしたとすれば(仮定法週去完了で言うことになろう…)、絶対に忘れることはないであろう。そして、自分にとってヘビとはどういうものかが身に泌みてわかったであろう。自分のからだの中で snake という語が、まさに生き生きとうごめくであろう。私は、視聴覚的方法の原点はまさにここにある、と考えている。ヘビの実物を見たこともないくせにただ「ヘビ」ということばだけを知っていて、それで snake という英語を教わるとこれをヘビと結びつける、といった教育は、まったくことばの教育になっていない。(pp.61-62)
体験と結びついた学習の重要性ということでしょうか。現在の教育で自然体験・社会体験の重要性が指摘されています。豊かな人間性とのかかわりでふれられることが多いのですが、そればかりでなく、「確かな学力」をはぐくむのためにも、体験の充実が必要であることがよくわかります。

もともと豊かな人間性と確かな学力は表裏一体なのですが、体験が直に学習に働きかけてくるという指摘は、あまりありません。それとも、authentic という視点がそうなのかな。

あとは、どのようにその時間を確保するかです。必修は105コマだし……、若林先生は「だからもっと授業を増やそう」と言っていますが、それとともに、105コマという時間をどう割り振るのかを考えることも大切です。

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「第16章 ネーティプ・スピーカー信仰」を読んで

ネーティブ・スビーカーの発昔はそんなに悪いか。○○悪い。そしてそれは当たり前なのである。朗読がきちんとできるようになるためには、それ相当のきちんとした訓練を受けていなければならないからである。ふだん英語をしゃべっているから、アメリカ人やイギリス人であればだれでもいいだろうなどと考えたら大間違いである。たとえば自分自身のことを考えてみるといい。あなたはふだん日本語をしゃべっている。つまりあなたは日本話のネーティブ・スビーカーである。それでは日本語の範読をいつでもできるか。できないはずである。あなたがいつか、目本語の発音や朗読や語りなどについて相当程度の専門的訓練を受けたことがあり、その後も練習を怠らない、というのであれば、もちろん話は別である。
(中略)
私は、大学で私の「英語科教育法」を受講する学生に毎年同じせりふをくり返す。いわく、「生徒の発音は、教師である君自身の発音よりうまくなることはない。たとえ、どんな audio-visual techniques を使おうとも、である。」
(中略)
範読は、けっしてテープレコーダーにまかせるべきではない。そもそもテーブの範読がたいしたものではないのである。教師の疲労を少なくするためにテープレコーダーを用いる、という話もある。私は、こういう説は言語道断である、と言う。「日本英語教育改善懇談会」のアピールが述べているように、週当たり待ち時問数を15時問以下にすればよい。そういう運動を起こすべきである。テープはとにかく役に立たないのだから。(pp.66-69)
若林節炸裂といった具合です。言っていることはその通りですが、少し付け加えます。

先日、仕事でリスニングテストの録音に立ち会いましたが、あのときの役者さんはうまかった。一つ一つの発音がしっかりしていて、まるでリンガフォン(歳がわかるな)のようでした。さすがにプロは違います。

それに比べると、私が出会ったALTのみなさんは、大なり小なり訛っています。どこの訛か、どんなふうに訛っているのかまでは、私の力ではわかりませんが。でも、この人は訛っていることを承知していれば、世の中にはさまざまな英語があることの一例ですし、そのALTの方をおとしめることにはならないかと思います。ALTに必要なことのなかで、発音というのは one of them ですし、smaller one だと感じています。それよりも、TESOLの技能、教えることへの意欲とか、子どもと関わり合うこと、JTEとの協力姿勢などのほうがよっぽど大事です。

後段の教師の発音以上に生徒はうまくならないというのも同感です。今はテープではなくてCDのようですが、テープは使いにくかったですね。いちいちポーズボタンを押したり離したり、それでもタイミングが合わず、微妙に生徒の反応がずれるのです。CDではそんなことはないのかな。我が中学校にはCDプレーヤーを使っていなかったので、よくわかりません。

ただ、BGMとか、効果音とか、英語の歌とか、それはとても役立ちました。録音の面目躍如ですね。でも、実際の会話文や本文の範読は、大した発音ではないけれど、私がやっていました。そのほうが、授業がテンポよく進みます。このテンポが授業では大事でした。

今、仕事で話すことの教材づくりにかかわっています。どんなふうに使い方を示せばいいのかな。しっかり考えます。

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「第17章 アンナチュラル・スピードのすすめ」を読んで

テープレコーダーによって提供する音声教材というのは、何のための教材なのであろうか。つまり、聞くためのものか、それとも、話すことのためか、ということである。多くの場合、文と文の閥とか、少し長くなると節と節の間とか、あるいはまた sense group (実にあいまいなものだが)ごとにポーズがあって、そのポーズの間に生徒たちに repeat させているところを見ると、どうやら「話すこと」というか、朗読のための教材らしいのである。ポーズは、その前の部分の読みの時間の1.2〜1.5倍とってある。この時間で生徒たちにコーラスで repeat させる。忙しくてしかたがない。口の遅い生徒は、後半をムニャムニャと口を動かすだけでごまかしてしまう。練習にも何にもならない。むしろごまかしを奨励しているに等しい。

なぜそんなに急がなければならないのか。なぜ This_is_an_apple.を強制するのか。なぜ This−is−an−apple.ではいけないのか。根拠としてはナチュラル・スピード信仰しか考えられない。(p.71)
やっぱり、限られた授業時間内で何をどこまで目指すのかというバランスの問題だと感じました。十分時間があれば、ナチュラル・スピードに近い速度で話す(朗読する?)ことはできるまで力が伸びるかもしれませんが、現在の授業時数では難しく思います。それだったら、こだわらなくていいのでしょう。

また、自分自身英語を話していて、語尾などが立ち消えてしまい、「なよなよした英語だな」と思うこともたびたびです。This−is−an−apple.と読む練習を積み重ねれば、骨太(?)の発音が身に付くかもしれません。(前章の「生徒の発音は、教師である君自身の発音よりうまくなることはない。」という一文を思い出し、身のすくむ思いでした)

ただ、テンポをどうするのかという問題は残ります。上の例文で言えば、 This is an apple. を●○○●○(●はstressed ○はunstressed)と2拍で読むのが英語らしいテンポですが、This−is−an−apple.だと●●●●●と読んでしまいがちです。まあ、ゆっくりとしたスピードで●○○●○と読めばいいのですが、判読する方は大変ですね。でも、それができるのが英語の教師かなと(自戒の念を込めて)思います。

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「第18章 「弱形」は不要であること」を読んで

私の主張は、英語教室では強形だけを教えればいい、ということである。では、強形だけを教えていて、弱形に挑戦しようという生徒は出てくるであろうか。出てくる。そういう生徒は自分で学習を進める生徒である。ラジオやテレビまたレコードやテープを使って主体的に学習を進める生徒が必ずいる。そういう生徒が援助を求めてきたら手をかせばいいのである。
(中略)
だいたい、日本人の英語の発音は(天才的5パーセソトは別として)、強形で言ったつもりでもやっとのことで弱形なのである。強勢アクセント(stress aceent)を身につけることは相当にむずかしくて、homesickにしたところで[h'omsik]とは程違いダラリとした[ホームスィック]になってしまう。力を入れるということがなかなかわからない。だから力を抜いて weak にするということもわからない。教授上の目標は力を入れて発音することに重点を置くべきである。あとはリズムにのせれば、自然に力の技けるところが出てくる。われわれ日本人は、力の抜けるところのほうが得意なくらいなのだから。(pp.74-75)
「力の抜けるところの方が得意なくらいなのだから」はもちろん皮肉ですが、でも、自分の発音を考えても、的を射た指摘です。前章でも述べましたが、どうしても発音がだらしなく、のんべんだらりとしたものになってしまいます。弱形で全部読んでいるのではないかと、テープに録音した自分の声を聞いてみるとよく思います。

だから、強形をしっかり教えようということには賛成なのですが、それで英文のリズムが身に付くのかというと、ちょっと難しいかと思います。若林先生も、強形の指導で生徒がリズムに慣れるとはおっしゃっていません。やはり、別の(それとも、これに関わって)指導が必要になってくると思います。

それから、冠詞の a, the は強形から弱形を導き出すのがちょっと大変なので、その指導も必要ですね。

いくつか、配慮すべきことも出てきましたが、強形をもっとしっかり指導することには大賛成です。

自分の授業を振り返っても、もちろん、強形の練習がほとんどでしたが、「日本人の英語の発音は(天才的5パーセソトは別として)、強形で言ったつもりでもやっとのことで弱形なのである。」のご指摘通り、生徒の発音はやっぱり弱形もどきでした。もっと、stress accent を強調して範読すればよかったなと思います。

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「第19章 「教えすぎるな」ということについて」を読んで

教室にテープレコーダーを持ち込もう。そして、生徒の発言をどんどん録音しよう。(中略)教室で録音し、その場で再生して生徒全員に聞かせるのである。(中略)聞かせてから、その生徒に、「ずいぶん上手にできたね、だけど何回かちょっとつまずいたね、こんどは大丈夫だね」というようなことを言って、もう一度話させ、それを録音するのである。

私自身この方法を試みたことがある。1、2分の録音に対して、1か所くらいきちんと注意してやってもいいであろう。ただし1か所くらいに限ったほうがいい。第1回の録音のあと、さきほど述べた要領で生徒を励ましたあと、第2回の録音にはいる。これを聞かせる。同じ要領で励ましたあと第3回に入る。このとき大切なのは、第2回の録音は消去してしまうことである。第1回の分は保存しておく。以下同じ要領で第3回、第4回をやる。そして最終的には、第1回録音と最終回録音の2つが残るのである。教師は生徒全員に言う。「A君の最初の録音と最後の録音を聞いてみよう。」そしてそのとおりプレイバックする。

この方法は、だまされたと思って、一度ためしてもらいたい。第1回と最終回(といっても10回もやられてはたまらない。せいぜい4、5回である)の差は歴然としているのである。ほとんど「注意」をしないにもかかわらず、である。私は、この理由を明確に説明することができない。おそらく、生徒自身が自己評価をするのであろう。そして生徒自らが remedy を行うのであろう。(pp.80-81)
魅力的な方法です。でも、趣旨をよく説明しないと、最初に指名された生徒にはショックです。何度も何度もやり直しを求められ、心理的な抵抗も少なくありません。それだけに、最初と最後の音読を比べてみて、自分の読みの上達ぶりがわかったときのうれしさは大きなものがあると思います。願わくば、その喜びが最初のショックを上回りますように。

それから、この活動は生徒全員にすることが大切です。一人当たり5、6分かかると思いますので、1時間の授業では1〜2人が精一杯ではないかと思います。それ以上やると、他の子どもは飽きてしまいます。学級全員が終えるのは、20〜30時間、つまり、ゆうに2〜3ヶ月はかかってしまいます。きちんとした授業設計、単元設計が必要です。

これらの問題を考慮しても、この取組は魅力的です。とくに生徒が自分の伸びを実感できる、そして周りの者もそれがわかるという点がいいですね。音読を繰り返せばうまくなるのですが、その効果が明確にまわりに伝わるのがミソです。

このような取組により、自分の力をきちんと把握する自己評価能力が伸びてきますが、これは「よき学習者」を育てる上で必要不可欠です。なんで、自分が授業をもっているときにしなかったんだろうか。不思議です。いまなら録音頭出しの簡単なMDを使うか、それともビデオで撮ってしまうか、どちらかでしょう。

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「第20章 地図は現地ではない」を読んで

テレビカメラを持って行って現地の様子をビデオテープに録画してくる。のちにそのビデオテープを再生する。(中略)「冷凍庫的」とか「アルバム的」とか言ったほうがいいであろう。私は「冷凍庫的利用法」の原則は現地主流であると言っているのだが、ふつう一般には、放映されたテレビ番組を録画したり、専門業者が作成したものを用いたりすることについていうことが多い。確かにこういう ready-made programs を利用しなければならないことが多いであろう。それを承知の上で私はあえて現地主義の原則を言うのである。(中略)

「冷凍庫」によって提供された内容と同じものを教師と生徒たちが協力して作成しビデオテープに収め、これを再生して見る(中略)。たとえばNHKなどで提供される英語番組の全部または一部を、生徒たちが講師役、演技者役、ネーティブ・スピーカー役、さらにいろいろな小道具(つまり audio-visual aids)製作役、操作役、カメラマソ役、ディレクター役などを分担して再現するのである。技術的には幼椎であろう。しかしそれでいいのである。(中略)

「地図は現地ではない」という言い方がある。そして「現地」のほうがすぐれている。しかし、どうしても現地に行けないこともあろう。地図で現地について学ぶことを余儀なくされることが多いであろう。だが、だからといって「地図で十分である」ことにはならない。地図による学習をできるだけ現地におもむいての学習の方向に近づける努力と工夫をしなければならない。前にも述べた事のくり返しだが、「犬」ということばだけ知っていてイヌに体温があることを実感しない教育はやはり教育ではない。イヌの絵を見せたからといって、それで視聴覚的方法を利用したことにはならないのである。(pp.85-86)
経験の質ということでしょうか。どうすれば「実感」できるのか、させることができるのか、難しい課題です。「イヌの絵を見せたからといって、それで視聴覚的方法を利用したことにはならない」、きつい指摘です。

"C'mon, you can do it." という何でもないセリフがあります。でも、私がこの意味を実感したのは、S先生からこの言葉にまつわるエピソードを聞いたときです。それまで何の変哲もなかった文字列が、突然、輝きはじめました。

"Hic et Nunc." ということわざにしても同様です。いろいろと悩んでいたとき、友だちからこの言葉を紹介され、ほっとしたことをよく覚えています。

でも、それには時間がかかります。「覚える」ことと「使う」ことが融合できればいいのですが、いつもうまくいくとはかぎりません。105時間で、どこまでできるのか、やるべきなのか。

また、ビデオを用いたおもしろい取組みが紹介されています。必修の授業では難しいかもしれませんが、選択でやってみたくなりました。腕が鳴ります。(鳴るばかりですが)

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「第21章 Language Workshop のすすめ」を読んで

要するに英語科には英語科特別教室が必要なのである。これに私は language workshop という名称を与えているにすぎない。ただ、その特別教室が従来の教室とか LL とかと同じような形をしていては何にもならない。必要な道具が使えつけられ、必要な活動が「ゆとり」をもって実行できるだけの十分なスペースがなければならない。紙芝居、簡単な人形劇、ふつうの劇を上演するための道具を作る設備(たとえば絵をかく、文字をかく、人形を作るための台とかスペースとか材料・道具)、それらの劇を上演するためのスペース(たとえば舞台)、ダンス・歌などのための設備(たとえばピアノ、ギター、ドラムなどの諸楽器)、スライド、フィルムを上映できる設備(たとえばプロジェクター、暗幕、スクリーン)、音声テープのためのテープレコーダー、レコードのためのレコードプレーヤー、またスピーカーシステム、それとこれらによって演じられるものを「冷凍庫」に入れておくためのビデオテープレコーダー、カメラ、モニターテレピ、マイクロホンなどなどが必要である。もちろん、普通教室におけると同じような学習活動もここで行うから、机・椅子、黒板または白板、掲示板などもすべて可動式のものを用意しなければならない。さらにこれに教師のための研究室が附属する。私の漠然とした構想でも、最近の新しい体育館ほどの面積は必要になる(こういうことから language gymnasium という名称を思いついたのであった)。

まるで夢のような話だ、と言われるかもしれない。しかしよく考えてもらいたい。体育科の教師たちは現往のようなすばらしい形・内容の体育館を長年かかって獲得したのである。たとえば、昭和36年6月にできた「スポーツ振興法」を見るといい。(p.88)
世の中の流れは「ハコもの」からソフトウェアに移ってきていますが、それでも、なお、設備は大事だなというのが正直な感想です。

一時期、パソコン・ルームで英語の授業を行ったことがありました。もちろん、奏すべき理由があったからで、単元末か定期テスト前、どちらかの時期に、新出語彙の定着の促進のために、オンラインソフト(もちろん、ウィルスチェックはきちんとして)を用いて、簡単なチェックテストを子どもたちにやらせてみたかったのです(今だったら、システムの安全管理上、難しいかもしれません)。ずっとテストをやっているわけではなく、1時間の中で10〜20分程度だったでしょうか。

活動自体は成功し、子どもたちはパソコンの画面にすぐに表示されるフィードバックに一喜一憂していましたが、授業自体は妙に間延びしたものでした。PC教室の構造上が英語の授業にあわないこととあわせて、その教室で英語の授業をすることに子どもが慣れていないことが大きな原因だったかと思います。

また、"Play and Guess"などの別の授業で、班別の上演練習などのために、20分程度、教室を二つを使ったこともあります。6班がそれぞれ練習するにはそのくらいのスペースが必要です。(複数の教室での活動は、教師の安全管理という視点からすると、課題が残るかもしれません)

練習前には二つの教室に分かれて活動することの意義とそれに伴う責任について説明するとともに、練習中は頻繁に教室感を往復し、練習をみて助言しました。ふざけていて練習していない班を見つけたら、即座に学級全員を集め、練習を中止し、意義と責任について再度話し、反省を求めました。

自分のこんな取組を思い返すと、やっぱり Lanugage Gymnasium は必要かなと思います。英語教育振興法はまだできていませんが、それに似たものとして「『英語を使える日本人』の育成のための行動計画」が平成15年3月にできました。今後、どのような効果が施設面で現れてくるのでしょうか。

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「第22章 辞書指導廃止論」を読んで

さきほど、どのページを開いても知らないことばかりというのはまったくの恐怖なのであると言った。一度でいいから自分の知らない言語の辞書を引いてみるといい。ロシア語を知らなければロシア語の、ウルドゥ語を知らなければウルドゥ語の辞書を引いてみるといい。日本語の部分は確かにわかる(これさえわからない生徒がいる)。しかしかんじんのそのロシア語の部分、ウルドゥ語の部分がまったくわからないことが恐怖の原因になるのである。何年か前パキスタンヘ行ったとき、毎日のようにウルドゥ(Urdu)語の文字と面と向かってすわる破目になったのだが、1つの文字もわからない私は連日悪夢を見る思いだった。何日か滞在するうちにひとつかふたつの文字と、ひとつかふたつの単語をおぼえたが、そして私は英語教師で外国語に興味を持っているから何とか耐えることができたが、ソレハソレハ恐ろしい経験だったのデス。──

辞書指導などという、生徒たちにとって恐ろしいことは、やめたほうがいい。あの、1ページ1ページをめくる恐ろしさを経験させると、だいたいの生徒たちが英語の学習に拒否反応を起こす。そして、こういう拒否反応をする子どもたちが正常なのである。1語1語教えてやればいいではないか。なぜ1語1語教えてやらないのであろうか。「辞書を引け!」と言う。まったくケチクサイことだ。

私は本章を書き始めるにあたって、「電訳機」のことを初めから頭にえがいていた。タイプライターのように文字を打ち込むと、その語の意味が出てくる、あの機械である。これはとてもいい機械だ。ページをめくるあの恐怖をあじわう必要がない。まもなく、単語を打ち込むと発音を直接聞かせてくれる機械が出てくるであろう。そうなると発音記号もいらなくなる。まことにいいことだ。単語の意味もあっと言うまにわからせてくれる。まことにいいことだ。(p.94)
「どのページを開いても知らないことばかりというのはまったくの恐怖なのである」というのは久しく味わったことのないものでしたが、この文を読んで、大学で第2外国語として学んだドイツ語の授業を思い出しました。たしかに恐怖で、やる気を失わせます。

英語を最初に学んだのはもちろん中1でした。最初の授業の前に、4月のはじめから基礎英語を聞いていて(3ヶ月くらいで挫けましたが)、とてもわくわくしながらテキストを見ていたような記憶があります。あれは、やっぱり導入段階では1ページのアルファベット数が少なかったからでしょうね。最初から英語がうじゃうじゃ出てきたら、見るのもイヤになってしまいます。やっぱり、こういう気持ちを忘れてはいけませんね。

ここで電訳機のことに触れていますが、その予想通り、電子辞書はすっかりポピュラーになり、発音が聞ける機種も販売されています。値段が高いのが玉に瑕ですが、私も安価なものを1台購入し、仕事場で使っています。広辞苑とALDE、それにジーニアス英和・和英等が入っている機種で、2万円弱でした。例文もキーを押すだけで表示されますので、とても便利です。検索も早いですし、本棚から辞書を取り出す手間がいらないこともメリットの一つです。

ただ、授業で取り扱うとなると、すくなくとも中学校では価格の高さがネックです。全員分、図書室等にそろえるには予算が足りません。個人負担も厳しいものです。となると、もうしばらくは紙の辞書指導が必要になるのかと思います。

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「第23章 わからないことを拒否してはならない」を読んで

教師というのはどうやら何でも知っていることを期待される職業らしいことは、受け入れておいたほうがいい。知らないことにぶつかったら、ありとあらゆる方法を駆使して調べる。それでもわからないことはいくらでもある。そのときは「調べてもわからなかった」と正直に生徒たちに告白すればいい。

「知らないことは拒否する」どころか「否定する」とか「排斥する」傾向が英語教師にはかなりあることを感じたのは、私が中学校英語教科書の編集作業の下働きを始めた1964(昭和39)年ごろからである(教科書編集の下働きとは何か−−これを詳述する余裕はいまはまったくない。それは山野に散らばった空缶を拾い集める作業に似た、実に根気のいる仕事なのであるが…)。私がかかわったその教科書に、 Tom lives on Second Street. という文が出ていた。この文を見たある英語教師が、「これはおかしい。Tom が Second Street を常食とするなんて、そんなばかなことかおるか。この教科書は英語を知らない者が書いたにちがいない」と広言したのである。(p.96)
このような先生がいたのですね。「王子と乞食」でも live on the street などという表現は出てきそうですが、道路を食べていたらお腹を壊します。

そうはいっても、知らないことを知らないと認めるのは勇気がいることです。また、生徒は先生がどんな質問でも答えてくれると思っています。

今から思い出すと恥ずかしいことですが、高校時代に英語の授業でひねくれた質問ばかりしていた時期がありました。(先生、ごめんなさい) たとえば
「先生、arrive at と get to はどう違うんですか」
「教科書には He remained silent.とありますが、ここでは stayed は使えないんですか」
「big, large, huge, gigantic はどう違うんですか」
「wonderful, cool, fantastic, marvellous, dynamite はどう使い分けるんですか」
などです。こう書いていても、どうしようもなく crooked な質問です。嫌な生徒でした。

そのためか、教師になって、こんな質問を受けました。
「なぜ、Is this a map? の文は文末を上げて、What is this? では下げて話すのですか。」
「なぜ、質問するときには is などを前に持ってくるのですか」
ドキッとしました。自分自身は中学生の時に「そんなものなんだ。それが英語だ。」と思い、何の抵抗もなく受け入れてしまっていましたので、そのことを疑問に思う生徒がいることがショックでした。そのことを疑問に思わなかった自分がショックでした。

いくつか辞書や辞典を見ましたが、答えは載っていませんし、いろいろ考えて、次のように答えました。正しいかどうかは今でもわかりません。
「よく分からないんだ。もしかすると、質問というのは、普通の「言い切り」の文とは違うということを、相手に知らせなくてはいけない。だから、いつもと違うことをしなくちゃだめなんだ。たとえば、Is を主語の前にもってきたり、文の最後を提げるのではなくて、挙げて言ったりするんだ。でも、What というのは質問そのものだから、相手はすぐに質問だと気づく。だから、文末を別に上げなくてもいいんだよ。そんなふうに先生は考えるんだけれど、間違っているかもしれない。」

一応一生懸命考えたのですが、どんなものでしょうか。

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「第24章 生徒に責任を転嫁しないこと」を読んで

ある学校のあるクラスが、その「そデル授業」の対象になる。そのクラスには(当たり前だが)英語を担当している先生がおられる。その授業が始まる前にその先生に会う。その先生は(ほとんど90%の確率で)こうおっしゃる「なにしろ、こういうところですから、こどもたちのできがあまりよくありませんで−−しんぱいです。」

私は、何回となく言った。同じセリフを言ってきている−−「イエ、どちらへうかがっても、いろいろとおもしろい生徒さんがいることがわかっていますから。」それでもその先生はおっしゃる「ここは、特にいろいろと問題がありまして…。」

ほんとうを言うと、私はこういう「セリフ」を聞くたびにイライラするのである。私の200回近い経験から言えば、どこへ行っても生徒たちは英語が実によくできるのである。もちろん、何かのハズミであろう、できない生徒もいる。しかし、一方、これも何かのハズミかもしれないが、どこへ行ってもすばらしくできる生徒がたくさんいる。できる生徒の数(とかパーセンテージ)たるや、私自身が中学生だったころなど物の数ではない。年寄りたちは、よく、昔の生徒はよくできた、いまの生徒はだらしがない、などと言うが、私に言わせればまったく冗談じゃない、昔、進学率が十数パーセントのころのドロップアウト率に比べれば、いまのドロップアウト率などはるかにはるかに低いのである。−−ただし、いまの週3時間体制は論外である。このままほうっておけば、あと数年にして、太平洋戦中・戦前のあの嘆かわしい状態に戻ってしまうであろう。というわけだから,さきほどゴチャゴチャと紹介した先生のセリフは、たぶん「あいさつ」だろう、と言うのである。(p.102)
ローマ時代のエッセイか劇のセリフに「昔に比べたら、今の若い者はどうしようもない。」とあるそうです。いつの世も同じようなことを思うものですね。

この文章を若林先生が書いたのが二十数年前でしたが、その後どうなったのでしょう。自分の娘が定期試験前に英語に苦労している様子を見ると昔とそんなに変わってないのかなと感じたり、また、ときどき他の方の授業を見せていただくと、「すばらしくできる生徒が」(たくさんではありませんが)必ずいることを実感します。塾の影響もありますが、それと以上に授業が変わってきたためでしょう。

それを外部の方にどう示すのか、日本人の美徳の一つである謙譲をもって示すか、それとも、一人ひとりのよさを認めて、アピールするか。後者ばかりでは自慢ばかりが鼻につくという事態に陥ってしまうかもしれませんし、かといって、謙譲ばかりでは話の雰囲気が暗くなり、また、否定的なな先入観が生まれてしまって、ピグマリオン効果やヘイロー効果も期待できなくなってしまいます。二者択一ではなく、どちらの要素も必要なのでしょう。教師になったばかりの時に言われた「七つほめて三つ叱れ」のとおり、長所中心に留意事項を付け加えるような流れでしょう。

あとは、その学級のよさをどう把握しているか、一人ひとりの生徒のよさをどう把握しているか、それを簡略に伝えることができるのかといったことが問題になります。もちろん、伝える相手は、外部の方であり、保護者であり、そして生徒自身です

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「第25章 「敵をまちがえるな」ということについて」を読んで

実は、私が著者である教科書で、1時間分の教材として3 sentencesほどを示しているページを何ページか作ったのだが、これはいいと言ってくれた人もかなりあったけれども、たった 3 sentences で50分の授業をどうやれというのかと不平を言う教師もかなりいたのである。英語教室を教科書によって百パーセント束縛するなどは下の下であると私は考えているから、「3 sentences を10分で片づけて、あとの40分は自由におやりください」と答えることにしているのだが、「こんなに量が少なくては反復が不足していて教科書としてはいいとは言えない」とやられてしまう。

確かに反復は不足である。そこで教科書の著者は1ページに盛り込む量を多くする。多くしなければ反復の回数を多くすることはできない−−これは理屈である。ところが、ここでまた次の新しい不満の声を聞くことになるのである。いわく、こんな分量では1時間ではとうてい扱いきれない、もっと減らせ、この不満の声の気持ちもよくわかる。英語教師のイライラが実によくわかる。よくわかるけれども、デキナイソウダンはやはりできないのである。私に言わせればまるでムチャクチャである。少ないとぶやせと言う、ふやすと減らせと言う。教科書のページの上での反復を多くしようとすれば、各ページにおさめる文章の量を多くする以外にないではないか。文章の量を減らせば、当然、反復の回数は減る。

要するに「週3時間体制」が何と言っても諸悪の根源である。この体制を認めておいて、そして教科書のページ数を教科書協会に勝手にさせておいて、それで多すぎるの少なすぎるのと文句を言ってもらっては困る。(p.106)
若林先生の面目躍如といったところでしょうか。大学の講義でもエネルギッシュに話していらっしゃったことを思い出します。

さて、教科書の内容についてですが、「1時間分の教材として3 sentencesほどを示しているページ」は私は大歓迎です。教科書の本文がいかようにでも料理できるではないですか。

教科書は「主たる教材」ですから、法律的にもかならず使わなくてはいけません。また、生徒にとっては無料です。でも、それ以上にとても便利な存在です。学習指導要領に示されている言語材料が漏らさず載っていますし、外国の文化なども数多く取り入れられています。ですから、教科書の内容を授業できちんと取り扱っていれば、必要とされているものは残らず教えていることになります。

これだけのものを独力で作り上げることは、並大抵の人ではできませんし、膨大な資料と時間が必要です。才能と資力にあふれた人だったらやれるかもしれませんが、その時間とお金を別のもの、たとえば、導入の工夫とか言語活動の設計とか評価活動の工夫とかに費やした方が、授業が充実します。

単元単位で授業を設計してきた私にとっては、1ページ3文は活用しやすい教科書です。

一方、反復ということも大切なことです。仕事柄、教科書をじっくり見ることもありますが、たとえば、受身形がどのような形で教科書に繰り返し出てくるのか、調べたことはありません。現在完了形にしてもそうです。三単現のsについても同様です。

ただ、どうなのかな、反復については、授業する教師の責任で行うものという気もしてなりません。教科書に載っていればよし、載っていなければ教師が補えばいいと思います。もちろん、いつ頃、どう繰り返すのかということも大事なことなのですが。

若林先生は最後に105時間体制についての持論を披露していますが、むしろ、私には、「先生方、もっとうまく教科書を利用してください。」と叫んでいるように聞こえてきます。

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「第26章 視点を自由にすること」を読んで

1年生の教科書をbeから始めるかbe以外の動詞から始めるか、そのいずれがすぐれているかは結論が出ていない。そのことは当面しかたのないこととして、たとえばbeから始めるとしても、〈 be+現在分詞〉つまり「進行形」とかあるいは〈 be+過去分詞〉つまり「受身形」から始めてはどうかというような提案はけっして出てこないのである。まして、be の過去形 was、were から導入する発想はない。どういうわけか This is a book. とか l am a student. のような文から始まることになっている。

「-s の思想」(高澤註 三単現の s や、名詞の複数形の s )(というほどおおげさなものではないにせよ)は、英語を学ぶ上でかなり大切な項目かもしれない。しかし、中学校1年生はあまりにも多くの項目を学ばなければならないのである。それは「学習指導要領」の内容をよく読めば専門家ならばだれでもすぐわかるはずである。だから私は、「学習指導要領」を作った人たちは専門家ではないのではないかと疑っている。(pp.109-110)
たしかに、1年生のはじめは、This is ...か I like ...がほとんどで、若林先生が携わっていた New Crown で一時期 A pen?/ Yes.(だったかな)のような Laconinc(?) Q&A を取り扱っていたこともあります。

授業でこの教科書を使っていたときには、スムーズに生徒は活動していました。しかし、今振り返ってみると、その活用場面を "(Is this) a pen?" に限ってしまっていた気がします。よく考えれば、"(Do you like) a pen?"とか"(Do you play) baseball?"などの代わりにも使えるのですが、当時は全く気がつきませんでした。もったいないことです。この段階でいろいろな場面で使えることを学んでいれば、話す活動などで表現に詰まったときにこの形が活用できるかもしれません。また、いろいろな場面で使えるということは、意味がはっきりしないときもあることですので、話し手の意図を限定する "Is this ...?" という形を習うことの便利さ・有効性をきちんと子どもへ伝えることができたでしょう。

この時期の学習指導要領では文法等については学年指定がありましたので、指導要領が強く批判されています。現在は3学年一括して示されていますので、体制が多少が違いますが、現実的には、ほとんどの1年生の教科書で過去形を取り扱っているなど、1年生で学ぶ内容は増えているかと思います。

このあたり、どのようにすればよいか、もっとアカデミックな調査などが必要であると思います。

よく言われていることですが、一般動詞の過去形から入ることも一つの考えです。-ed の発音が3種類になってしまうことの面倒さはありますが、それは三単現も同じです。do/does の使い分けがないぶんだけ子どもにとっては楽です。しかし、いざ、そんな教科書を見せられると、現場の先生の戸惑いは大きく、営業的に難しいのかもしれません。なんとか、うまく、いかないかな。

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「第27章 生徒を混乱させないこと」を読んで

will は未来? それならば shall はどうだというのか。これも未来か? 高校生のときにおぼえた文に You shall die. があるが、私は、これが未来とはどうしても納得できなかった。仮にこの文を「殺してやる」とか「死んじまえ」とか訳すとしよう。言っている本人は「現在」言っているのであって、未来のことを言っているのではない。ずっとあとになって Tomorrow is Sunday. でも Tomorrow will be Sunday. でも、どちらでもいいけれど、Tomorrow is Sunday. で十分であると知って、私の中では、wiIIイコール「未来」という信仰は、完全に崩れ去ってしまったのである。

will は「未来」ではない。will はまがうことなく「現在形」である。このあたりから私は走り始める。 be going to〜は「未来」ではない。「進行形」である。そうとしか見えないではないか。be going to 〜がどうして「未来」なのであろうか。フランス語あたりを少々かじってもらいたい。フランス語には「未来形」はある。しかし、英語には「未来形」はないのである。だいたい「形」とはなにかについて、ほとんど定義もしないでおいて「未来形」とは何ごとであるか。(pp.114-115)
平成元年度告示の学習指導要領絵は「未来形」となっていますが、現在は「助動詞などを用いた未来表現」となっています。なかなかうまい記述ですね。

でも、それが今の生徒に伝わっているのかというとまた別問題です。

たとえば、形容詞にしても、日本語の文法(といってもいろいろあるけれど、ここでは、時枝文法を元にしたと思われる、中学校で教えている学校文法を想定しています)と英語の授業で扱っているものとは違います。かたや単独で述部になり、英語では動詞(不完全自動詞だっけかな)が必要になります。

このあたり、teaching English と teaching about English の違いとも関わってきますが、どう示せば子どもたちにとってわかりやすくなるのでしょうか。

もちろん、日本語と英語とでは違う言葉なので、まったく同一にはできないことは承知しているのですが、でもわかりにくい説明をするくらいなら、しないほうがましです。なんとかならないのでしょうか。

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「第28章 「ごまかし・まやかし」について」を読んで

それにしても、とつくづく思うのだが、「中学校学習指導要領」の別表1がどのように作られたのかについて、文部省とか「学習指導要領」を作った人たちが、ひとことも説明しないのはどうしてなのであろうか。「語彙表」というものはソーソダイクとかフォーセット=マキとかマイケル・ウエストとかパーマーとかを引きあいに出すまでもなく、常に科学的研究の対象であったし、いまでもそうである。 490語を選定したことは認めるとしよう。ただし、認めるためには、どういう手順・方法・資料・論拠によってそれを選んだのか、明確に説明してもらわなければ困る。「別表1」を作った人たちが、もし、本章の私の文章を根拠のないワメキであると言うならば、私はただちに反論するであろう。「別表1」の論拠を示せ、と言うだろう。論拠不明確なものを、文部省告示の名を使って教育現場に強制する権利が、いつどのようにしてどの法律に基づいて生じたのか、説明を求めることになるであろう。ごまかし・まやかしは、まかり通ってはならないのである。(p.122)
厳しい言い方です。

広い視野から見れば、「人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して」教育を行うためには、英語は何をどの程度教えればいいのか、そしてそれはなぜかということになりますし、「生きる力」やその一つの側面でもある「確かな学力」ということからみるとどうなるのかなども頭に浮かんできます。

学習指導要領は全国共通なものであり、生徒全員に身につけさせるべきことが示されています。それなりにうまくできているとは思いますが、実際に授業をすると「この言語材料が中学校で扱えるのなら、生徒の活動がうまくいくのに」と感じることも何回かありました。

国語の例ですが、常用漢字表には読みも示されています。そのなかで、「関」には「かか(わる)」という訓読みがないんです。「かか(わる)」と読むのは「係わる」です。それから、音を「きく」には「聞く」と「聴く」があるんですが、ものを「みる」には「見る」はあっても「視る」がないんです。いったいこれはどうしたわけでしょうか。

今の指導要領では、次の言葉は必ず教えることとなっています。
別表1
a about across after all am among an and another anyone anything are as at because before between both but by can could do down during each either everyone everything for from has have he her hers him his how I if in into is it may me mine must my near nothing of off on one or other our ours over shall she should since so someone something than that the their them then these they this those through to under until(till) up us we what when where which who whose why will with without would you your yours

この根拠は何なのでしょうか。基本的な前置詞( up や down も含める)、代名詞、疑問詞、一部の助動詞、接続詞、う〜む、難しい。

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「第29章 数字はくせものであること」を読んで

実際には、現在でもテストの信頼性や妥当性を高めるにはどうするかについて、これぞ最終案といったものは見つかっていない。だから当面は、人手し得るかぎりの文献をあさって、できるかぎりいろいろな方法でテストを行うしかない。そして、「たぶんA君の学力はこの程度であろう」と、かなりの誤差を勘定に入れて判定するしかないのである。「A君は89点、B君は85点、したがってA君のほうが上位」などというのは、「測定(measurement)」について少々勉強した人ならば、恥ずかしくて言えたものではないはずである。

私は、たまたま、その公立中学校を退職してELEC(現在の財団法人英語教育協議会)の事務局に勤めることになり、そこであるチャンスから評価とか測定などについて勉強することができた。そして自分で作ったテスト問題をテストしてみて、ある方法で信頼度係数をはじき出したところ、0.5なにがしというどうにもお話にならない数が出てきて唖然とした記憶がある。これを改良して0.8なにがしというところまで持って行くのに1年以上かかってしまった。現在のように「電卓」などという便利なものがあるはずもなく、ソロバンと計算尺で計算したからよけい手間がかかったということもあるが、何べん計算し直してもさっぱり「信頼性」がないことが証明されて、毎日がため息の連続だった。(p.124)
評価・評定に関わる問題です。

先日、同僚とともに昨年度と今年度の生徒の学習定着状況を比較してみたのですが、単純に正解率の上下動だけではなく統計的な検定も必要ではないかと声が上がり、数学の先生から「χの自乗検定」を紹介してもらいました。実際に回答者数を入力してびっくりしました。「これだけの差が昨年と今年の回答率にあるのだから、これは絶対に力が付いたな」と思う問で「有意差なし」と示されたり、その逆もあったのです。(「有意」は significant なんですね)

もちろん計算はパソコンに任せたので、「ソロバンと計算尺で計算したからよけい手間がかかった」などということは全くなく、あっという間に結果が表示されたのですが、結果を読んだときの驚きと悔しさは同様です。

評定も同様です。質的な差異であれ、量的な差異であれ、どんな差があれば「異なっている」といえるのでしょうか。

また、昨年に PISA と TIMSS という大きな国際調査の結果が発表され、読解力の不足や数学・理科の力が落ちているとマスコミに大きく取り上げられました。一部では検定結果も含めたコメントがありましたが、そのほとんどはパーセントの上下のみを暑かったものでした。やっぱり検定というのは理解されにくいことなのだなと思うと同時に、どんな指標に基づいて判断を下せばいいのか、どんな指標を公表すればいいのか、考えさせられました。

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「第30章 新しい世界に入るための英語教育」を読んで

それにしても、とつくづく思うのだが、「中学校学習指導要領」の別表1がどのように作られたのかについて、文部省とか「学習指導要領」を作った人たちが、ひとことも説明しないのはどうしてなのであろうか。「語彙表」というものはソーソダイクとかフォーセット=マキとかマイケル・ウエストとかパーマーとかを引きあいに出すまでもなく、常に科学的研究の対象であったし、いまでもそうである。 490語を選定したことは認めるとしよう。ただし、認めるためには、どういう手順・方法・資料・論拠によってそれを選んだのか、明確に説明してもらわなければ困る。「別表1」を作った人たちが、もし、本章の私の文章を根拠のないワメキであると言うならば、私はただちに反論するであろう。「別表1」の論拠を示せ、と言うだろう。論拠不明確なものを、文部省告示の名を使って教育現場に強制する権利が、いつどのようにしてどの法律に基づいて生じたのか、説明を求めることになるであろう。ごまかし・まやかしは、まかり通ってはならないのである。(p.122)
若林先生の授業の試験問題の一つに、窓を開けてほしいときに使うことのできる英文をたくさん書けというものがありました。大学生の私は、 Will you や Can you, Could you, Please などをとっかえひっかえ使った後、The sky is very beautiful.か何かの英文を思いつき、どきどきしながら書いた覚えがあります。今ならもっと書けますが、その当時は、英語について正の面しか見えなかったのではないかと思います。

教師になり何年か経って、たしか、This is my pen. か何かを授業で取り扱ったときに、「この文が使える場面を考えてごらん」と生徒に問いかけたことがありました。「目の前に自分のペンがあるとき」という答えは出てきたのですが、「自分のペンを相手が奪おうとしたとき」というものはなかなか出てきません。まして、「『明日、デートしようか』と言われて、行く気がないとき」などの回答はなく、こちらから紹介するとボケッとする顔とニヤッとする顔が半々だったと思います。きっと、英語は正面勝負するものだとしか私が教えていなかったせいなのでしょう。

中学生は子どもなところもありますが、ずっと大人を感じさせる一面ももっています。たしかに英語は入門期であり、語彙も文型も初歩的なものしか学びませんが、伝えることのできる内容は豊かなものにすることが可能です。それができるかどうかは、教師の教え方にかかっていると感じます。

後半の若林先生の指摘、「この子どもたちは頭がよくないから、むずかしいことを教えてもしかたがない、と言うなどはあまりにも無責任すぎる。(略)「全国一斉学カテスト」(略)の体制は、教育環境の劣悪さをそのままにしておいて、生徒ができるかできないかを一方的に調査し、その結果に基づいてカリキュラムを改変して行くという、無責任体制の典型的なものであった」はとても厳しく心に響きました。財政的なこと、人的なことなどさまざまな制限はありますが、まず、結果に基づいて教育環境を改善し、生徒や先生を支援しなければいけないわけですね。

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[ 本を読んで考えた 目次]