帰還 1
男はひどく混乱した様子で、けれどいっそ無邪気とすら言えるくらい簡潔な言葉で、彼らの置かれた状況をはっきりとさせた。
「……私はいったい誰なのです?」
「…ボロミア…?」
ゴンドールの新しい王と、新しい執政は二人して言葉を失った。
明快な答えを探すようにお互いの顔を見つめるが、もちろんそこには同じ種類と同じ深さの困惑が浮かんでいるだけだ。
奇跡のように還り来た執政家の長男は、過去のすべてをアンドゥインの流れに溶かしてしまったようだった。


「まいったな」
言葉ほどには困ってなさそうに、アラゴルンが頭をかいた。
いまだ野伏時代の名残が抜けぬ王は、よくそのことで執政に小言をくらっていたが、今のところは慌てて行状を改める気はないらしかった。
そして当の執政は目下重大事に気を取られていて、王が頭をかこうが玉座で膝を立てようが、目に入ってはいないようだ。
「医師に診せましたが、何と言っても原因がわかりませぬので……」
「そうだなあ。あれから、かなりの日数も過ぎているし……。エルロンド卿に診ていただけないか、問うてみてもいいが、物忘れの病は、普通の病や怪我とは異なるからな」
「ささいなきっかけで、すべてを思い出すこともあると言いますし」
「とりあえず、様子を見るしかないか。何、馴染んだ場所で寝起きすれば、きっかけをつかむこともできるだろう」
きわめて希望的観測を口にして、エレスサール王は悪戯っ子のように、に、と笑った。
下品だとは言わないが、あまり上品とも言いがたい。
その気になればいくらでも、威厳と慈愛に満ちた王らしい表情をすることができるのに、ファラミアや、旅の仲間といる時の王は、木の根を枕に、下生えを褥にしていた頃のままでいたいらしかった。
どうにもミスランディアを連想させるひとだ、とファラミアはこっそり思っている。
「この件はあなたに一任しよう、ファラミア公。否やはないだろう?」
「──はい」
「助手に、衛兵のペレグリン・トゥックと……そうだな、リダーマークの騎士、メリアドク・ブランディバックをお借りできないか、エオメル殿に訊ねてみよう」
ゴンドールとローハンにそれぞれ忠誠を誓った二人のペリアンは、転がるように走ってきて「ボロミアさん、ボロミアさん」、と泣き笑いの顔で兄にまとわりついていた。
左右から抱きつかれて、覚えてもおらぬのに、ボロミアは優しい笑顔で二人の頭を撫でた。
そのしぐさは、ファラミア自身が幼い頃に何度も目にした光景で、巻き戻される時間の糸は、ファラミアの胸の隙間をふさいでいった。
永遠に失ったと思ったひとが、再び彼の側にいる。
とまどいながらも、笑顔を浮かべ、やわらかな声でファラミアの名を呼び、翡翠の瞳でファラミアを見つめる。
そのことだけで、世界中のあらゆる存在に感謝をささげたい気持ちになる。
ボロミアが生きて、そこにいるなら、それ以外のことなど──兄が記憶を失っていることすら──ひどくささいなことに感じられた。
生命あればこそ、と。
大いなる災いと戦を乗り越えた今、強くそう思う。
「ファラミア公」
「はい?」
「良かったな」
「は……」
ファラミアは深く頭を下げて、すこし潤んだ瞳を隠した。


ゆらゆらと揺れるオレンジ色の光が部屋をまるく照らしている。
ボロミアは落ち着かない気分で、与えられた部屋を見渡した。
丁寧な刺繍のある分厚いカーテンや、寝台の上掛け、精緻な細工の机や壁飾りを見れば、この部屋の主が身分の高い者だったことは簡単に知れる。
それが、どうも自分であるらしい。
けれど、こうして自室を見回しても劇的に記憶が戻るということもなかった。
部屋の中を探ってみたが、呼び水になるようなものは見当たらず、わかったことと言えば、自分は武術をずいぶん好んでいたらしいことと、代わりに机上での勉学はあまり好きではなかったらしいことくらいだ。
武具や戦術書の類いはいくらもあったが、それ以外の書物といえば、戦記ものが2冊ほど、机の隅に置いてあったばかりだった。
まあでも、それはわかるような気がする、とボロミアは見知らぬ自分に親近感を抱いて苦笑いをした。
後は、丁寧にまとめてある手紙が数十通。差出人はすべて弟の名前だった。
家族の間で手紙など、と不思議に思ったが、読んでみればお互い遠く離れた戦場に身を置いて、顔を合わせることも気軽に、というわけにはいかなかったなかったらしい。
急いでしたためられたとわかるのに、それでも読みやすい、きれいな字でつづられていた。
手紙といっても半分は戦況報告のようなもので、最後の方にすこしだけ自分のことと、常套句のように必ず、兄の身を気づかう言葉が添えられている。
読み進む間中、胸の奥がざわついて落ち着かない気がした。遠く離れた陣地でこの手紙に目を通したとき、自分はそんな気持ちでいたのだろうか。
案じていたのは戦の行く末か、弟の安全か。
前者であったと思うほど、自分が冷酷でなければいい、とボロミアは思った。
ファラミア。
自分とは違う、癖のある金髪。冬の空色の瞳。
それでも、誰に教えられなくとも、血縁を疑わずにはいられなかっただろう。
ボロミアを取り囲む人々がみな、笑顔や泣き顔であった中、一番遠くから、一番冷静な貌で自分を見ていた。それなのに、ボロミアは彼が今にも泣きくずれはしないかと心配した。
人の輪をくぐりぬけて伸ばした指先は引き合うようにつながり、自分によく似た面立ちの青年はささやくような声で、「兄上」と呼んだ。

身体も心も疲れきっていたのに、どうにも眠れるような気がしなくて、ボロミアは寝台に腰を下ろした。
石の壁は音を届けることも、運んでくることもせず、痛いような静寂だけがボロミアを包んでいる。
慣れない場所ではなく、慣れているはずなのに、そうと感じられない場所にいるというのは、こんなにも落ち着かないものか、と思う。
寂しいわけではなかったが、もしも聞けるものなら人の声が聞きたかった。
だれか。
そう思ったとき、扉の向こうに人の気配を感じた。
ノブに手をかける前に、ボロミアには、そこに立つひとが誰か、わかっていたような気がした。
真夜中の客人は、ノックの形に手を上げたまま、先んじて開かれたドアに驚いた顔をし、それからふわりと笑みを浮かべた。
「──ああ……。やっぱり、起きてらしたのですね」
「……ファラミア」
明かりが見えたので、と訪問の理由を告げて、ファラミアは気遣うような視線を向けた。
「お眠りになれないのですか? ご気分は?」
「いや、体調は悪くない。ただ、寝付ける気がしなくて……。起こしてしまっただろうか?」
「私は起きておりましたので。寝酒でも運ばせましょうか。それとも、香草茶でもお淹れしましょうか?」
「香草茶? 私はそういったものを好むたちだったのか?」
覚えがないのは当然ながら、香草茶と言えば、婦人の好むもの、という認識がある。……ような気がする。
それが過去の自分の考えなのか、一般的にそう考えられているからなのかはわからない。
いちいち他人事のようで面倒だな、とボロミアはすこし首をかしげた。
「普段はご酒の方がお好みでしたが、疲れがひどくて寝付きにくいときなどは、ときどき」
その声に、秘密を示唆する響きを敏く感じ取って、ボロミアは、好奇心いっぱいのこどものような顔をした。
「ファラミアが淹れてくれたのか?」
「はい。他の者が淹れたものは、薬臭いとおっしゃって。──お飲みになりますか?」
ボロミアはこくりとうなずいて、今日初めて、他の誰かの知らない秘密を持った。
この国に入ってからというもの、周りは自分のことを知っているのに、自分は相手のことも自分のことも、何一つ知らないことばかりだったのだから、これはけっこうかなりいい気分だ。
ボロミアは身軽な動作で寝台から降りると、ファラミアの後について部屋を出た。


彼の弟は、彼とは対照的に、読書がとても好きらしい。
自分のものとほとんどおなじ造りの部屋は、あちらにもこちらにも書物の山が屹立していて、そこここに読みさしとわかる本がおいてある。
飽きっぽいのではなく、同時に二冊も三冊も読んでいるのに違いない、と何も知らないくせに、ボロミアは確信した。
「──すみません、散らかってて」
きょろきょろと珍しそうに部屋中を見回す兄に、ファラミアは椅子をすすめながら謝った。
「いや。これくらいの方が落ち着く」
自分の部屋はいかにもきちんと整頓されていて、でもそれはきっと自分がいない間に、誰かの手が入ったものに違いなくて。
もう二度と帰ってこないひとを思いながら片付けられたのであろう部屋は、いきなり舞い戻ったあるじをどうやって受け入れるか、まだ迷っているのかもしれなかった。
その点、ファラミアの部屋は生きている部屋だ。
ずいぶん長いこと使い込んでいるらしい、心地よいくたびれ具合のクッションを見つけて、さっそくボロミアは背に当てた。
くたくたと頼りなくかたちを変えるそれが、ボロミアはたいそう気に入った。
「いい部屋だ」
「……それは良かった」
ふ、と息をぬくように笑う。
それは昼間、王や医師や、その他たくさんの人々の前で見せていたのとは違う、ファラミア自身のためへの笑い方だった。
つられたようにボロミアも笑った。
そうして、何か、いたわりの言葉でもかけてやれたらいいのに、と思い、そうできない自分をすこし恨んだ。
ファラミアはボロミアの弟で、今、この国の執政で、でもそれがどんなにたいへんなことなのか、ボロミアにはわからない。
それどころか、この国が、彼らの生きる人間の世界がこうやって無事続いていること自体が奇跡に近いのだと、小耳にはさんだそんな話がどういう意味を持つのかすら。

「徐々に思い出しますよ」
「ファラミア」
差し出された陶器からは、ゆらゆらと湯気が立ち上っていた。
「私は声を出していたか?」
「いいえ。でも、何を考えてらっしゃるかは、だいたい見当がつきますから」
慌てることはないでしょう、と言われ、ボロミアはそうかといたって素直にうなずいた。
ファラミアの淹れた茶は、少しの蜜と生姜が入っていて、ボロミアの知らない──あるいは今は記憶にない──花の香りがした。

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2004.12.16