「おやすみ」
遠く、石畳を鳴らす蹄の音に、ソロンギルは顔を上げた。
元々、出陣でもなければミナス・ティリスを馬で駆ける者は少ない。
厩舎のある第六環状区を越えて騎馬で上ってくるものはさらに少なく、ソロンギルの知るかぎり、心当たりはほんの数名だ。
人を乗せているとは思えない軽やかな足音は生え抜きの駿馬のもので、それだけの名馬はゴンドールには数頭しかいない。そして、その主たちは今現在、全員ミナス・ティリス内にいる。
ならばやはりかの御仁のご来訪だろうと、ソロンギルは書きかけの書類を置くと、ペン先をぬぐって立ち上がった。
彼が入り口の階段に立ったのと、すんなりとした馬の姿が門扉をくぐって現れたのがほぼ同時だった。
「殿下」
「……ソロンギル卿?」
呼吸をするような自然な動作で馬から飛び降りた 馬の司 ロヒアリム の王子は、思いがけない出迎えに驚いた顔をした。
「お久しく。殿下にはお変わりないようですな」
「ええ、おかげさまで。どうなされたのです? 貴殿自らのお迎えなどと」
「この度は公用でのおいでですか? センゲル王からの伝言でも?」
「いいえ、わたくし事です。ご機嫌伺いに参りました」
「エクセリオン侯に?」
「デネソール殿に」
まだ20歳になるやならずやの王子は、全く悪びれた風もなくそう言って笑った。
大らかなローハンに生まれ育った彼は、社交上必要な場合を除いては、しきたりや型式と言ったものに気兼ねして本音を隠すことはせぬ。相手が旧知の仲ならなおさらだ。
むろん、ソロンギルの方とて、 最初 はな から答えを承知の上での問答である。
要は定型のやりとりに過ぎず、友人同士が交わす軽口のようなものであった。
「相変わらず率直なおっしゃりようをなさる」
彼が目通りを求めてきた当の相手とは水と油ほど違う。ゴンドールの執政家の嫡子は、伝統と体面を重んじ、型式から外れたことを好まない。
良くも悪くも、彼らはそれぞれが背負う 国民 くにたみ の気質を色濃く宿していて、それはもう、周りから見れば笑いを誘うほどだった。
──だからこそ彼らは反発もし、惹かれ合いもするのだろう。
どうぞ、と差し招きながら、執政侯の信頼も厚い将軍は、別棟の方へとセオデンを誘った。

「デネソールに何か?」
ソロンギルの足は奥へ奥へと向う。
前庭からは見えない奥津城は居住区に当てられていて、居室や客室が並んでいる。
幼少の頃から、何度も迎え入れてもらった──長じて自ら忍んでいくことになったのだが──デネソールの私室に向っていることに気付いて、セオデンは表情を改めて、ソロンギルにそう問うた。
「デネソール卿は、公務を休まれて、臥せっておられます」
「……戦の際にケガでも? それとも何かの病ですか」
「病と言えば病でしょうが──結論から言えば睡眠不足ですね」
「──ああ」
安堵のため息をついて、セオデンは笑顔を取り戻した。
「また徹夜で書見でもしておられたのでしょうか」
「そんなことでしたら笑い話なんですが」
「と言うと?」
「あの方のことですから、はっきりとはおっしゃらないんですが、どうもここのところ夢見が悪いようです。それで、あまり眠れておられないようで」
時代が下がるにつれ、薄まる一方のドゥネダインの血と力は、けれど時折気まぐれを見せて、その末裔の中に色濃く現れることがある。
常人とは異なる力が現す験は、持ち主の聡明さに磨きをかける役割もしたが、同時に、往々にして彼らの平安を奪い去った。
「見かねたエクセリオン候が休息を言いつけられました」
「──それでは、私はお邪魔なのでは……」
「それはデネソール卿に決めていただきましょう。あなたを門前払いしたのでは御不興をこうむりますから」
そう言って足を止めると、ソロンギルは──セオデンの記憶にあるかぎり──何一つ変わらない笑顔を見せた。

磨き込まれて黒光りする扉は、華美ではないが精緻な細工が施されていて、古きよき時代のゴンドールを彷彿とさせた。
その向こうにある空間はしん、と静まり返っていて、声をかけるのもはばかられる。それでも思いきって拳を上げたセオデンだったが、結局それが音を立てるより先に、部屋の主から声がかかった。
「セオデンか」
「デネソール!」
「入って来られるがいい。鍵は開いている。──ああ、ソロンギル卿、心配はご無用だ。速やかに公務に戻られよ」
涼やかな声は取りつくしまもなく、しかしそれがいつものデネソールらしくて、ソロンギルとセオデンは顔を見合わせてこそりと笑った。
「わかりました。では後はセオデン殿にお任せするとしましょう」
お邪魔はさせませんから、何かありましたら呼び鈴をお鳴らし下さい、と耳打ちをして、ソロンギルは静かに歩を翻した。


たっぷりとしたドレープを描く緞帳の奥に、寝台の足元だけが見える。
部屋の中には気静めの香と、かすかに薬湯の香りが残っていた。元来この部屋のあるじは、むやみな賑やかさを好むほうではなかったけれども、今日はことのほか空気が静かだ。
セオデンは不安にかられて、速足で寝台へと近づいた。
「デネソール」
二つ三つと重ねた枕に背を預けて、デネソールは倦んだように目を閉じていた。黒く豊かな髪が、翼のように広がって、その肌の色をいっそう白く見せている。
少し落ちくぼんだ目の回りや、色濃く残った隈に彼の疲労が見て取れた。
「お加減はいかがですか」
セオデンは、枕元にひざをついて、デネソールの手をとった。前線で正規軍を指揮する立場にありながら、彼の指は繊細で美しい。馬と剣を友とし、空を屋根に、草を褥に生きる自分の手が触れては、傷つけてしまわないかと心配にすらなる。
デネソールはゆるゆると瞼をあげた。
「──何だその顔は。センゲル王の息子ともあろうものが情けない」
ぴしりと決めつける口調ばかりは普段通りで、セオデンはむしろ安心した。
「どうせ、ソロンギル卿から大げさな話を聞かされたのだろう」
「眠れないのですって?」
「元々それほど長く眠る習慣は、私にはないのだ。父上がうるさくおっしゃるゆえ、病人のフリをしているだけだ」
「でも、顔色がよくない。ちゃんとお眠りにならなければ」
心配している、と顔一面に書いて、ロヒアリムの王子は執政候の世継ぎの顔をのぞき込んだ。そんなふうにためらいなく感情を表現されることは、この都では珍しく、どうにも慣れないデネソールはすこし目を逸らした。
セオデンはそれを気にするそぶりもなく、握った手に力を込めた。
「ほら、お手も、こんなに冷たい。熱はないのですか?」
「ない。……よせ、子どもでもあるまいに」
直接に額を寄せようとするのを、ひそみ顔で制する。
まったく、この年若い恋人は、身体に触れるときも心に触れるときも、遠慮というものを知らない。
すこし身をひいたデネソールに、何がおかしいのか、セオデンは笑顔を見せた。
「──そなたの手は温かいんだな」
その皮膚はがさがさと荒れて、指先は硬くなっていたけれども、乾いた手からじんわりと体温が移ってくるような気がした。
「たった今まで、馬に乗っておりましたから」
「知っている。最上層まで雪で駆けて来ただろう。蹄の音がここまで響いていたぞ」
「──ああ。それで、私が来たことがお分かりになったのですね」
来訪を告げるより先に名を呼ばれた不思議を解かれて、セオデンはうなずいた。
「あんな早駆けでこの都を駆け登って来るのはそなたぐらいだ」
「だって、七階層もあるのですから。見えるところにあなたがいるのに、のんびりと歩いてなど、上ってはいられません」
「──それで我が民に怪我でも負わせてみろ。容赦はせぬぞ」
後ろ半分は聞こえなかったふりで、デネソールは難しい顔をしてみせた。ただ、青白かった頬がうっすらと紅みをおびて行くのを留める術はなかったのだけれど。
「もちろん、重々承知しておりますとも。あなたは、ほんとうにこの国を愛してらっしゃるから」
倍近くも年上の恋人はずいぶんと照れ屋で、しかもそのことを指摘されるのが大嫌いだと知っているから、セオデンも何もなかったようにうなずいた。
「でも──この都は美しいですが、すこし寂しい気がいたします」
国の名に相応しい堅牢な作りの都は、輝くように白く荘厳で、立派で、見るものを圧倒したけれども、どこか寂し気な印象がある。花や樹や水が、規模の割にすくないからだ。移ろう季節も、吹きゆく風も、芽吹く命も知らせない土地は、ただ変わらずにそこに立つ。
変わらずに在ることは、たとえようもなく尊いが、どうしようもなく寂しい。
そしてそれは、そのまま目の前のひとと重なって見えた。
デネソールは、ミナス・ティリスそのものなのだと──この黒髪のひとは、もしかしてこの都の化身なのではないかと、セオデンは時折、そんなふうに思うことすらあった。
「そうだな。ローハンのメドゥセルドに育てば、そのように見えるかも知れぬな……」
ため息とともに枕に沈み込んで、デネソールは静かに言った。指をつなぐ力がすこしだけ強くなる。
セオデンは立ち上がると、わずかの間に細くなったように見える肩に頭を乗せた。
「ドゥネダインの血があなたを苦しめているのですか? それとも、この地のすぐそこに巣くう暗黒の力が?」
「セオデン?」
「悔しいです。私にはあなたを苛んでいるものがわからない。……あなたをその力から守る術も」
「セオデン」
血肉を持ち、剣でもって襲い来る相手ならば、共に戦うこともできようものを。
はるかに年下で、戦場経験もすくなく、モルドールからも遠く暮らす若者が『自分を守りたい』と言う不遜を、デネソールは笑わなかった。
それよりも、肩にかかる重みと、半身に寄せられた温もりが心地良い。
「……外の匂いがする」
「え」
不思議そうに顔をあげたセオデンは、慌てたように身を引いた。
「あ…ッ、す、すみません、馬の匂いですね?」
ローハンでは馴染みが深すぎて、まったく意識しないけれども、この石の都ではずいぶんと悪臭に違いない。すん、と袖の辺りを嗅いで、セオデンは距離を置こうとした。
「違う」
「デネソール」
「陽と、草と、風の香りだ」
ことりと腕の中に落ちてきた身体に、セオデンはとびあがりそうに驚いた。こんなふうに甘えたしぐさを見せてくれるのはほんとうに珍しくて、動揺を押し隠すので精一杯だった。
おそるおそる、滝のように流れ落ちる黒髪に指を入れてみる。
デネソールはおとなしく目を伏せた。
「──お元気になられたら、一緒に出かけましょう」
「どこへ?」
「どこへでも。陽と草と風の薫るところまで」
肩のあたりがちいさく揺れて、デネソールが笑ったのだと知れた。
「でも、今は少しお眠り下さい」
「眠くない」
「デネソール」
「──眠くないのだ」
口ぶりは静かだったけれども、デネソールは、意地を張る子どものようにかたくなに繰り返した。
「──あなたが目を覚ますまで、お側におりますから」
やわらかな髪に、影を落すまつげに、隠れた耳の先にも唇で触れて、セオデンは頑固な恋人の身体を布団の中へ押し込んだ。
必ず、と約束するように、強く手を握る。
子守歌でも歌いましょうか、という提案は却下され、けれどもほどなく、デネソールは穏やかな寝息を立て始めた。



「…………あら」
とっぷりと日が暮れた後で、晩餐はどうなさいますか、と伺いをたてに来た女官は、寝台に伏せているローハンの王子と、久方ぶりにおびやかされない眠りを手に入れた執政家の長男を見て笑った。
眠っている間にほどけたらしい手は、それでもまだ重なったままで、それはまるで同じ夢を見ている証であるかのようだった。



END
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2005.02.01