その、心
 死の騎士がな、お前の魂をつかんでるのを見たよ。片手に納まるくらいの、そうだな、野球のボールよりちょっとデカイくらいの大きさで、真っ白に輝いてた。本当に輝いてたんだ。キラキラした感じじゃなくて、太陽みたいに輝きっぱなしさ。この仕事を始めて二十年以上になるけど、魂なんて初めて見たよ。おかしいな、幽霊だって魂だろ、肉体はなくなって、何つーの、中身だけが残った状態だろ、でもあんなピカーッって光らないよな、あ、でもあれか、昇天するときは光るな、うん、やっぱり幽霊なんてやってると魂も薄汚れちまうのかな、でもサミー、お前の魂はすごく真っ白に光ってた、魂ってきれいなもんなんだな。
 兄は、どうやらだいぶ酔っぱらっているようだった。同じことを延々繰り返すのは酔っ払いの常道で、先ほどからずっと「サミーの魂の美しさ」について、ぼんやりした口調で語り続けている。
 ヘイゼルグリーンの瞳も焦点を失ってやや虚ろだ。けれど、それでも彼はハンサムだった。一年半ぶりに会うディーンは、相変わらずハンターで、飲んだくれで、インパラを運転し、オールドロックを好み、チーズバーガーを頬張り、自分の望む「ワイルドでタフなヒーロー像」からちょっと外れた方向の正統派の美形で、そうして、相変わらずサムの兄だった。
 お互いに、離れたり寄り添ったり、騙したり騙されたり、裏切ったり裏切られたり、死んだり生き返ったりと波乱万丈な時間を過ごしたことを思えば、むしろそれこそが奇跡のような頑なさだ。
 その頑なな兄がふらふらと安定しない指先で酒瓶を持ち上げようとするから、サムはグラスの口を手のひらで塞いでやった。
「ディーン、飲み過ぎだよ。今日はもうやめたほうがいい」
 兄はアルコールを好むほうだが、こんなふうに酔うのは珍しい。もともと体質的に強いせいもあるし、酔えばどちらかと言うと上機嫌になって騒ぐか、でなければばったり眠ってしまうタイプだからだ。ダウナー方向に酔って管を巻くのは、おおむね自分のほうであったのに。
 ディーンはまるで今初めて気づいたみたいにまじまじとサムの顔を覗き込み、そこから首、肩、腕、と視線を滑らせて、自分のグラスをふさいでいる弟の手のひらまで辿って、もう一度顔に戻ってきた。
「サミー」
「ダメだったら、ダメだ。兄貴もう完全に酔っ払いだよ……って、うわ!」
 突然、テーブル越しにディーンに抱きつかれて、サムは驚きの声をあげた。酒瓶やグラスがぶつかって、 ちりんかしゃんと澄んだ音を立てる。さいわい割れたり壊れたりはしなかったが、倒れたグラスからほんの少し残っていた琥珀色の液体がこぼれ、つるつるした天板の上にちいさな水たまりを作った。
「すげー、すげーよ、本物だ」
「ちょ、何、やめろって、うわ、この酔っ払い!」
「すげー、お前は間違いなく俺のサミーだ。すげー、何だお前、俺の酒の量をコントロールしようなんて百年早いんだよ、このビッチ!」
 アルコールに脳髄を浸されたディーンは何が楽しいのか、けらけら笑いながら、サムにしがみついてすげーすげーと繰り返した。
「ジャーク! 今のままアルコールを摂取し続けたら、肝硬変になるまで百年も待つ必要はないよ」
 せっかく地獄から戻って来たのに、残りの人生兄貴の介護で過ごさせるつもり?
 そう言うと、ディーンは一瞬目を輝かせた。
 いやいや、そんな「ナイスアイディアかも!?」みたいな顔されても困る。
「ディーン、僕は……ちょっと離れろって……僕は、ディーンが肝硬変で入院しなくったって傍にいるよ」
 自分たちを悩ませていた魔王と大天使は今ごろ仲良く(はないだろうが)檻の中にいて、アザゼルもルビーも消滅したし、他にやっかいな悪魔は残っていても、これまでのように兄弟間に絡んでややこしくさせていた連中はいなくなった。もう、離れなければならない理由はない。すくなくとも、自らの意志に反して、彼を距離を置かねば、とそんなふうに思いつめる必要はないのだ。
 この先、ディーンがリサともう一度……あるいは彼女のように理解と包容力のある素晴らしい女性と共に暮らしたいと言い出すまでは。
 ──ああ。
 そうか、傍にいてもいいんだ、という事実に改めて気づき、サムはこみあげる喜びと愛しさに胸をつかれた。信じられない。もう二度と一緒にいられないと、いったい何度覚悟したことだろう。兄の死を前にしたときも、悪魔と手を組んだことが彼にばれたときも、魔王を甦らせてしまったときも、自分の地獄行きを決意したときも、そのすべての瞬間に身を切られる思いで目の前のひととの縁が切れることを嘆き悲しんだというのに、そしてそのそれぞれの出来事が起こったとき、確かに彼との縁は切れたはずだったのに、今こうして共にいてもいいなんて。ディーンも、それを望んでくれているなんて。
 さっきまで酔っ払いの戯れだと煩わしく思っていた、絡みついてくる腕も、兄の身体の重みも、アルコールに染まった吐息も、ハイテンションの笑い声も、そのすべてが急に大切なものに感じられた。
 中途半端に広げたままの両手を、おずおずと兄の背中に回す。手のひらに感じる肌の温度が高いのも、摂取しすぎた酒の副作用だ。二人の間にあるテーブルがなんだかとても邪魔に思える。
 変な体勢のまま固まってしまったその刹那、ディーンがふとその長い睫毛をしばたかせ、それからおやすみ、と告げるようなさりげなさでサムにキスをした。
 唇、に。
 その行動は想定外だったので、サムは抗うこともできずにまともに口づけを受ける羽目になった。
「……ディ、」
 目を見開いて硬直した弟に何を思ったか、酔っ払いの兄はへらりと笑って弟の癖毛をくりくり撫でると、次の瞬間──撃沈した。彼の額とぶつかったテーブルが、ごつん、と鈍い音を立てたが、本人は幸せそうにすうすう寝息をたてている。きっと朝になれば不機嫌そうに額を撫で撫で、何かしらねえけどここが痛い、お前俺が寝てる間にいたずらしたろう、などとサムに向かってあらぬ疑いをかけるのだ。
「……び……っくり、した」
 サムはようやく止めていた息を吐きだし、兄を起こしてしまわない程度の声で、そっとそう呟いた。
あんまり驚いたせいで、咄嗟にディーンを受けとめることもできなかった。
 キスなどと言っても、ライトなもので、仲のいい家族ならそうした触れ合いも珍しくはないのだろうが、自分たちウィンチェスター兄弟にとって、それは色々と境界を超えたコミュニケーション方法だ。マウストゥマウスのキスなんて、それこそ思いだせるかぎりでは二十年も前のこと。まだふっくら丸い頬にそばかすの残っていたディーンが、同じくふっくら丸い頬をした弟に対して与える心優しい愛情の証。
 ちっちゃなサミーは兄がしてくれるキスが大好きだったけれど、兄弟が成長するに従ってその習慣は自然に間遠くなり、いつの間にか消えてしまった。今さら、そんな子供めいたスキンシップを復活させたいわけでもないだろうに。
 魂のないお前は一年もの間俺から隠れてたんだ、いくら中身が空っぽだからって兄ちゃんに向かってそれはあんまりな仕打ちなんじゃねえのか、地獄から戻ったならすぐさま俺に連絡を寄越すべきだ、と、秘密にされたことがよほど悔しかったのか、くどくどくどくど繰り返していたが、それを今の自分に言われても、サムとしては対応のしようがない。ディーンもわかっていて八つ当たりしているだけだ。寂しかった、とひと言言えばすむところを、直接な弱音を嫌うから無駄な言葉を使って遠回りをする羽目になる。
 それこそが、兄の兄たる所以ではあるが。
 テーブルに片ひじをついて、その上に顎を乗せる。知らず唇を微笑みのかたちに緩めて、サムは大切な兄の姿を見下ろした。傍にいろ、という兄の言葉をただの束縛としか感じられなかったのは十年も昔のことだ。あれからあまりにも遠いところまで来てしまって、あの頃自分が確かだと思っていたものは、どれこもれも根こそぎ奪われるか崩れ去るかして、もう自分の手元には残っていない。ディーン以外は、何一つ。
 グラスと酒瓶の林立する隙間では、その兄がむにむに口元を動かして眠っている。何の夢を見ているのだか知らないが、幸せそうなのは間違いない。チーズバーガーの山に埋もれている夢か、酒の海で溺れている夢か、──あるいは、誰かの。
 そう想像したところでさっきのキスを思い出して、サムは一人で赤くなった。
 その意味を考えるべきなのか、考えずにいるべきなのか、その判断をすることにさえ危険がはらまれている気がして落ち着かない。
 魔王に身体を明け渡し、大天使と共に地獄の檻に飛び込んでのち生還、などという、キリストでさえ経験したことのない破天荒な半生を過ごしてなお、今気になるのは兄のことだというのがどうにも馬鹿馬鹿しいんだか自分たちらしいんだか、馬鹿馬鹿しいうえに自分たちらしい、というのが正解な気もするが、たとえ今この時だけだとしても、こんなふうに自分たちだけのことを考えていられるのは実に数年ぶりだ。天使がああだとか悪魔がこうだとか世界の終末がどうだとか、そんな重石がはずれて、多少浮かれた気分でいるのは否めない。
 ──だから、さっきのディーンのあれも、きっとそうした昂揚感がもたらしたフライング的なそれだったのに違いない。……うん、たぶん。…………だと思う。
 本当のところは、兄に訊ねてみなければわからないけれども。
 訊ねてみて、万一「違う」と言われたとき、どんな反応を返すべきなのかは、もっとわからないけれども。
 無意識に自分の唇を指先でなぞりながら、魂のないままの自分なら、それこそディーンをたたき起こしてど真ん中に「なあ、さっきのキスはどういう意味?」とか訊いちゃったんだろうなあ、と思い、何となく、サムはその頃の自分に対して勝ち誇ったような気持ちになった。


終わり
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2011.10.14