Phantomillenialism ─幻千年王国─
刹那の情動は離れた瞬間から下降し始める。元々が肉欲に溺れるようにはできていない。身体が、ではなく、心が、でもなく、存在そのものがだ。必要ないから装備されていない。それだけだ。産めよ増やせよ地に満てよ、と祝福(あるいは呪縛、かもしれない)を受けた人間達とは違う。
神のしもべ。神の戦士。神の代弁者。天の使いに生殖行為は必要ない。
けれど、そうした行為を好む天使は少なくない。人間の身体を手に入れるからだろうか。彼らのもつ動物的本能が天の使いをしてそうさせる? 
それもおかしな話だと思う。ひとはもう、生殖のための交合などほとんど意味を見失っているのに。
もちろん、今も多くの人間が古来通りの方法で生を受け、この世に生まれ出てくるが、科学──ひとの信じる新しい神──は、今や試験官の中で新しい生命を生み出すことも可能になった。人々は生命の誕生をコントロールしながら、性の与える快楽を貪っている。異性と、同性と、あるいは一人で、あるいは異種生物と、もしくは無生物とでも。
人間とは実に貪欲な生き物だと思う。元から性衝動には左右されない天使には、いつまで経っても理解しがたい部分がある。
だが、カスティエルとて、実体を持つからには触れ合ってみれば、感じて当然の快楽は感じるし、そこに生じる様々な身体の反応を不快だとは思わない。
「何考えてる?」
指先が一房の髪を掬う。そうした仕草が様になる。いつ覚えたのだかは知らないが、真面目一辺倒だったカスティエルに比べれば、格段に遊びの風情が身に付いた男だ。もっとも、そうでなければ神の武器を盗んで地上に逃走するなど想像もするまいが。
キャスの世界が狭かったころ──今思えば、1メートル四方を世界の広さだと信じていたほど視野の狭かったころ──には、キャスの知る中ではウリエルが最も奔放な天使だった。見当違いにも程がある。彼はキャスの見えなかった方向に狭い世界を見ていただけだ。
──アンナ。
──ガブリエル。
──ルシファー。
──バルサザール。
神の規律から外れた者たちは、皆そうした余裕を持っていた。任務以外のことに動かされる心。神の言葉だけを信じ、命令を待つだけの多くの天使には、決して持つことの出来ない空白の部分。持っていたがゆえに堕ちたのか、堕ちたがゆえに身に付いたのか。ならば今の自分にもそうした余裕があるのだろうか。
少なくとも、以前の自分なら誰かと、それも同性と肌を合わせるような次第に陥ることはなかったから、その分だけは羽目を外しているのだろう。
試してみたのは気まぐれだ。誘われたから。だがそれも天使としてはまるで相応しい動機ではない。実際、誘った当人のバルサザールは素直に預けられたキャスの身体に驚いていた。
彼の方にどんな腹積もりがあったのかは知らないが、最初にそうなったとき、カスティエルが地上で見た不可思議な映像を思い出したのは確かだ(あれはアダルトというジャンルだと後からディーンが教えてくれた)。主役らしい男が同じく主役らしい女性(といっても、あのビデオには最初から最後まで二人の役者しかいなかったが)を痛めつける話。愛しあっているのに、痛めて、痛めつけられて、それで二人は喜びを。
愛は神が与えたものであるはずなのに、人間達にかかると複雑怪奇に変貌を遂げて、無数と言えるパターンを形成する。単純な愛しか知らない天使の自分は、そのバリエーションの多さに眩暈がしそうだ。
ふと、彼の人間の友人達の顔が浮かぶ。ウィンチェスター兄弟。彼らの愛も複雑だ。
──兄は弟を愛している。自らの生命を差し出すほどに、本当に彼のすべてをかけて。
──弟は兄を愛している。悪魔の力を手に入れてでも運命に抗おうとするほどに。
なのに、二人が向かいあうと、かなりの頻度ですれ違ったり、食い違ったりして、時に真剣で深刻な諍いの原因になる。それは何故だろうかとカスティエルは不思議に思っている。いつも、いつもだ。たぶん、この兄弟を知ったときからずっと。そうして、未だ答えは得られていない。数千年もの間、人間を、彼らのしでかす騒動を、その痕跡を見続けてきた。愚かな者もいた。聡明な者もいた。信心深い者、堕落した者、謙虚な者、傲慢な者、それぞれの間に沸き起こる憎悪、信頼、裏切り、愛。人間達の感情はひとときたりとも安定しない。
ウィンチェスター兄弟と関わるまで、カスティエルは、それらは別々の壺に分けて入れられるもの、まるで別個のものだと考えていたが、どうもそうではないらしい。ひとは愛しながら裏切り、憎悪しながら手を組み、信頼しながら秘密を持ち、裏切られてもなお愛することができる──ものらしい。
一般論だったはずのそれは、想像の中でたやすく兄弟の姿に切り換わった。彼らの愛には果てがない。
バルサザールが笑いを含んだ声音でカスティエルの沈思に割り込んだ。
「キャス、──カスティエル、お前は本当は、あの男とこうしたいんだろ?」
「……あの、男」
ぼんやりとした口調でカスティエルはバルサザールの言葉を繰り返した。
とぼけようと思ったわけではなく、ただこの時間、熱情から普段の冷静さを取り戻すまでのわずかな時間はほんのすこし思考が鈍る。人間なら「寝起き」という状態なのかもしれない。
「ディーンだ。ディーン・ウィンチェスター。お前は彼に恋をしている。そうだろ?」
バルサザールの指がカスティエルの髪を梳く。キャスはその奇跡のように青い瞳を天井に向けたまま、「恋?」と呟いた。
それは。
「違う」
違う、と断言できるほど「恋」という概念に詳しくはないが、それは違うとはっきり思った。何故だか連想したのは、ディーンの弟のことだ。ディーンに恋をしているというなら、きっとサム以上に彼を恋うている者はいない。その逆もまたしかり。
「オゥ、お前はずいぶんと人間くさくなった」
「何が」
「嘘をつく」
それも、わかりやすい嘘を、とバルサザールは笑う。こんな場面で、それがマナーだと知っているのかと。どんなマナーだ、と生真面目に問えば、ベッドでは同衾している相手以外の話はしないものだ、と教えられた。それは知らなかった。
「嘘ではない」
「じゃああれか、もしかして弟の方か」
「それも違う」
繋がり、という意味なら、どうしたってサムよりもディーンと深く繋がっている。地獄で傷ついたディーンを引き揚げたのはキャスだ。彼の身体は地上で負ったものも地獄で負ったものも合わせてそれまでのすべての傷を失い、代わりにただ一つ、救済者の手の跡だけを残して甦った。
不思議なことに、サムにはその痕跡が残されていない。何故だろう。彼のすべてを救い上げられなかったからか。ならば、あの手の跡は、肉体ではなく魂に刻まれているのか。そのせいで、より一層ディーンとの繋がりは深いのだろうか。
サムはサムで友人だとは思っているが、ディーンという媒介者がいなければ、分かりあうのは難しかっただろうとも思う。彼の方は天使に憧れを抱いていたようだが、サムと知りあったころの自分では、相互理解に到る前に彼を殺してしまっていただろう。ディーン自身でさえ、ただそうするようにと決められた任務だったから関わっただけだ。
──だのに、今は。カスティエルにとって、数十億いる人間の中では、間違いなくあの兄弟がもっとも大切な二人だ。どちらか一人、と問われれば一番大切なのはディーンだが、きっと彼は自分だけではいられないのだ。サム、という存在が欠けてはディーンはディーンでなくなってしまう。サムの欠けたディーンは、キャスが大切だと感じるディーンではない。だからと言って、別に、サムをディーンの付属物としかみなしていないのか、と言われれば、それも違う。そこまで彼を軽んじようとは思わない。色々迷惑をかけられもしたが、やっぱり大切な友人だ。そもそもサムだって、ディーンかキャスか、と選択を迫られれば迷いなくディーンを選ぶだろう。だがそれはそれとして、彼はキャスのことを大事な友人だと言うはずだ。お互い、それで納得しているのだから問題はない。
「彼らは友人だ。大切な」
それ以外でもそれ以上でもない、とカスティエルは淡々と答えた。
「──お前は、」
「何だ」
「……いや、何でもないよ」
バルサザールはそれ以上何も言わなかった。ただ、いつものように皮肉に笑っただけだ。カスティエルが訊ねなかったからだろうか。訊ねるべきだったろうか。それがこうした場合の『ルール』であるのか。
どれが正解なのかと迷って、だが結局キャスは何も言わないことにした。どうせわからないのだから、余計なことは言わないでおくほうがいい。言葉を募らせれば相互理解が深まるというのは幻想だ。あの兄弟を見ればそれはわかる。言葉を使っても身体を使っても、結局彼らは理解しあえてはいない。
……それとも、理解しあえているから、ああして愛する相手と諍うことも、まるで怖くはないのだろうか。それを絆と呼ぶのだろうか。
カスティエルにだって、兄弟姉妹と呼ぶ存在はいる。実質天使たちは皆神に作られたのだから、すべてが兄弟であり姉妹であると言ってもいい。だがそこには、ウィンチェスター兄弟のような強い繋がりはない。ミカエルとルシファーも、繋がりはあったが、結局二人の間に残ったのはほとんどが憎しみだけだ。
何が違う?
彼らと──彼らは。
彼らと──自分は。
どう在りたいかと問われたなら、………あの、兄弟のように。
憧れているんだな、と、正解は不意にキャスの胸にすとん、と落ちた。ジミーだった心臓がとくん、と跳ねて自己主張する。
そうだ、私はあの兄弟に憧れた。
弱く儚い人間が負いきれない荷を負わされ、それまでの人生のすべてを否定され、奪われ、惑い、移ろい、傷つけて、傷つけられて、最後の最後には身体も心もボロボロになって、自らの血だまりの中で蠢くほどに追いつめられて。
天使なら、悪魔なら、そうなる前にきっと投げ出している。頑張ったって報われもしない、神は長らく留守のままで自らの責任を放棄しているし、魔王を助けたところで感謝されるどころかいつ後ろから切りつけられるかわかったものではなく、頑張る価値など何もない。逃げ出すだけの才覚がなくとも、ああもう勝手にしろよ、俺は知らない、と投げやりになって当然だ。
事実、見よ、魔王が捕らわれた今は彼の座を狙って他の悪魔が暗躍しているし、神のしもべは自分の好ましいように最終戦争を再現しようと企んでいる。天界も魔界も混乱の極みにある現在、彼らが憎み、見下し、嫌う人間世界がもっとも秩序を保っているではないか。
なのにあの兄弟──と、彼らの父親代わりのボビー──ときたら、ただの一瞬たりとも諦めなかった。諦めたふりはしたし、本人は諦めたつもりでいたのかもしれないが、真実与えられた運命を放棄したことは一度もない。自由意志のある人間ならばこそ、それを投げ出す選択もあり得るだろうに。
彼らを駆り立てるものの正体を知りたかった。
少しずつ歩む道を外し始めたカスティエルは、揺るぎない規範が欲しかったのだ。
信じた道を歩くための。


遠い眸をして何事かを考え込む情人に、バルサザールはそっと笑った。俺は一体誰に嫉妬すればいいのだと、そんな質問をしてもこの天然ボケ天使はきょとんと目を丸くするのが精一杯だろう。
もっとも、結局のところは──それでいいのだ。
自分たちは、個々の関係を深めるようにはできていない。個性は神のしもべに求められる美点ではない。父に、ミカエルにああまで執着するルシファーのような存在の方が希有なのだ。神の支配から逃れたバルサザールでさえ、個人的な何かや他者に執着したりはしない。神の武器を盗むのも売るのも、全部自分の安全や快楽のためだ。
だったら、あの兄弟に執着するカスティエルはどうなんだろうか、とふと思った。人間なんかを対等の友人として遇し、あまつさえ、兄弟の(というか、おもに兄の)判断に信を置いているふうなこの天使がいずれどこかでその執着に足をすくわれねばいいが、とバルサザールは案じ、しかし、自らその不吉な予感を振り払った。
──それが過ちだったと知ったのは、既にカスティエルが引き返せないほど深みにはまった後だったのだけれど。

***

ナイフを持つ手が同胞の血で濡れる。鉄錆の匂いが鼻をつく。もうそんなことにはとっくに慣れたが、今自分の手を汚している相手を、少なくともその身体を知っているのだと思うと不思議な気持ちがした。感慨はないが、理解してもらえないことへのもどかしさと裏切りへの怒り、そしてわずかな寂寥はある。味方はどんどん減っているし、ウィンチェスター兄弟とも袂を分かった。バルサザールがキャスの目的を理解してくれれば、いい相棒になれたかもしれない。すくなくともクラウリーなどよりはずっと。
もっとも、起こり得なかった可能性の未来などカスティエルにはさして重要ではなかった。天使だから分かりあえるというなら、そもそもラファエルと和解の道が残されていたはずではないか。
一体自分がどこで道を間違えたのか、今ではもう色々なことが複雑になりすぎて、どこからやり直せば正しい道をゆけるのか、そもそもそんな道が存在するのかもわからなくなってしまった。
兄のために、と懸命に正しい判断をしようとして、結局はルシファーを復活させてしまったサムもこんな気持ちだったのだろうか。そういえば、あのときもディーンは、サムの説明をまるで聞こうとしなかった。キャスに言ったのと同じように、自分ががダメだと言うからダメなのだ、と、頭ごなしにそう言った。あのときの自分はディーンの判断を正しいと思っていたから何も思わなかったが、同じ立場に立たされてみると、ちょっとはこっちの話も聞いてくれ、という気持ちになるものだ。
カスティエルはほんのすこしだけ面白いような気持ちになった。サムと、この件について話しあう機会があれば、彼との相互理解に役立つような気がしたからだ。
今さら、そんな時間が持てる可能性があるはずもないのだけれど。
煉獄の扉を開けて、数万の魂を取り入れれば、きっとこの程度のちっぽけな感情さえなくなってしまうのだろうという予感がした。それを残念だとは思わないが、魂を取り戻すことでサムが人間らしく──これはディーンがことさらに好む感情だ──なったことを思えば皮肉な気持ちにはなる。魂を取り込んで感情豊かになったサムと、より人間味を失う自分と。もし自分の中にジミーの心が残っていれば、彼はどう判断するだろう。長らく考えたことのない自分の「器」のことを思った。
どさりとバルサザールの身体がくずおれた。視力を灼く閃光が建物を満たし、断末魔のごとき咆哮が空気を揺るがせる。しかしカスティエルは普段通り無表情のまま、赤く濡れた右手をぬぐった。
それよりも、ディーンがここへ近づいているのなら、今の光を見ただろうかと、そっちのほうが気になった。彼は千々に揺れる感情を抱えたままここへとやって来るだろう。弟の魂を守る壁を壊したキャスに対する怒りと、煉獄の扉が開くことへの不安と、何としてでも阻止せねばならないという責任感とに苛まれながら。
キャスにしてやられた地獄の王も、このまま黙って引っ込んではいまい。悪魔というのは恨みがましくかつ執念深いものだ。
そしてラファエル。カスティエルの最大の障害に気づかれる前にこの計画を終わらせることができるだろうか。
七つの封印は既に解かれ、七つのラッパはとうに吹き鳴らされ、それでも人は死に絶えることはなかった。もう一度同じことを繰り返させるわけにはいかない。そのために、あの兄弟や飲んだくれの老ハンターと敵対することになってもだ。
踏み出した足に柔らかいものが触れた。バルサザールの遺体──「かつて彼の器だったもの」だ。ここに転がして置くのは邪魔になる。
カスティエルは誰かに片付けさせようと思い、その澄んだ空色の瞳を床に落とした。
──お前は、
あの時バルサザールが言いかけてやめた言葉は何だったのだろう、と、抜け殻になった彼を見下ろしながら、不意にそんなことが気になったが、振り向いた瞬間にもうそのことは忘れてしまった。

──ここはメギドの丘。 決戦の場所 アルマゲドン
総てを捨ててでも勝利を得ねばならない要の地。


然り、主なる全能の神よ、汝の審判は眞なるかな、義なるかな。


END

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2011.10.6




どうしてもこの二人で一本書いてみずにはいられなかった(笑)。