| Home sweet home 3 |
| 「だから言ってるだろ、大丈夫だって!」 珍しく父が電話口で声を荒げている。隣の部屋だからと安心しているのか、電話の相手との話に夢中になってわたしたちの存在をいっとき意識の向こうにやってしまったのか、とにかく、父がそんなふうに頭ごなしに何かを言う場面なんて、(一番叱られているはずの)わたしの記憶にもあまりない。 何年か前に移動式遊園地に連れていってもらったとき、わたしは、ピエロが両手一杯に持った風船に気を取られて、反射的に父の手をほどき、車道に飛びだそうとしたことがある。 二歩目を踏みださないうちに、腕が抜けるかと思うほど強い力で引き戻されたわたしは、その反動で芝生の上にしりもちをついた。何が起こったのか、と目を丸くしたわたしに、父は青い顔をして、何て危ないことを、とさんざんに叱りつけた。 それまで、まるで目に入っていなかった車がびゅんびゅん走りすぎる様子と、いくつものタイヤの下敷きになったらしいぺちゃんこのポップコーンの空箱、そして、普段耳にすることのない父の強い声に、わたしも一緒に青ざめた。涙が込み上げてくるのをこらえ切れず、わたしは父にすがってわあわあ泣いた。 怖かったのは、叱られたことでもなければ、怪我をしたかもしれないことではなく、そのことで父を哀しませてしまったかも知れないこと、下手をすればそのまま永遠に父と別れることになったかも知れないことだ。 もちろん、そう気付いたのはそれからずっと後のことだけれど。 ぐしゃぐしゃになったわたしの顔をハンカチでぬぐい、もう泣かなくていいよ、と言ったとき、父はもういつもの穏やかな彼だった。でも、わたしはその日一日、父にくっついてほとんど離れようとはしなかった。 今、電話機に向かって熱く口論している父の口調は、あのときに比べれば深刻さには欠ける。でも真剣さなら同じくらいだ。 鋭い声音が注意を引いたのだろうか、わたしの両側でおとなしく寝そべっていたセイディとハーリーが、同時に頭を持ち上げた。 「大丈夫よ。ケンカじゃないの。……すくなくとも本気じゃないわ」 飼い主同士がケンカをすると、飼い犬は情緒不安定になる、と聞いてたから、わたしはなだめようと、二頭の丸い背を撫でた。きちんと手入れされた温かな毛並みはとてもすべらかで、てのひらによく馴染む。 わたしにとって、セイディたちはジャレッドの飼い犬というより、彼の家族としての先輩みたいなものだ。 わたしと父が親子という絆でつながっているように、ジャレッドと彼らも愛や信頼でつながっている。血だけに頼った絆はときに他人同士よりも脆かったりする(らしい)けど、愛と信頼はお互いの努力があるかぎり揺らがない。ジャレッドと正しく愛し合っている二頭をわたしは尊敬している。彼らのようにジャレッドの家族になりたいと思う。 セイディとハーリーは、大きくて賢い。堂々としている。今も、父の声のするほうとわたしの顔を見比べて、案じることはないと判断したようだ。耳だけをぴくりぴくりとさせながらも、再び自分の前足に顎を乗せて寝そべった。 「頑固者? それはお前だ、この石頭!」 まだ怒鳴ってる。父がこんなにムキになることも滅多にない。 ──まあ気持ちはわからないでもないけど。 実は、ジャレッドがインフルエンザに罹ったのだ。 新型ではなく季節性のもののようだけれど、だからと言って症状が軽くなるわけでもない。100°Fを超える高熱を出してただ今自宅療養中。 セイディとハーリーが我が家にいるのはそういう理由による。ジャレッドの熱が下がって、インフルエンザウイルスが抜けるまで、彼らは我が家のお客さまなのだ。 もちろん、わたしたちは彼の家族を喜んで、かつ、丁重にお迎えした。幸い、二頭も我が家を気に入ってくれたらしい。すくなくとも、逃げ出したいほどイヤだと思っていないのは確かだと思う。現に、今もこうしてわたしの両側で優雅な姿勢で寝そべっている。 だから、それはいいのだけど、当然ながら、父はジャレッドの看病に行きたがっている。ジャレッドの家に住んでいる人間はジャレッドだけだから、高熱でうんうん言ってる彼に消化のいい食事を作ってくれたり、スポーツドリンクを買い足してくれたり、氷嚢を取り替えてくれたり、汗みずくになったシーツを交換してくれたりするひとはいない。 それは想像するだけでつらいことだ。 自分がごはんを食べたり、お風呂に入ったり、テレビを見て笑ったりしているときに、大事なひとが苦しんでいるかと思うと、誰だって心配でじっとしてはいられないだろう。 だから、父はジャレッドの家に行って、うんうん言っている恋人に、そういうことをしてあげたいと思っている。 でも、ジャレッドはジャレッドで、大切な恋人にインフルエンザがうつっちゃいけないから、来ちゃダメだ、と言う。「ジェンの家にはもいるじゃないか。彼女まで感染したらたいへんだろ」と言うのがジャレッド側の主張だ。 それで、さっきから電話で延々言い争いをしている。もうそろそろ10分くらいになるだろうか。これじゃ、ジャレッドの熱は上がる一方だ。 わたしはすっくと──そう、戦争の調停に赴く和平使節のような厳粛な気持ちで立ち上がった。セイディとハーリーもすかさず身体を起こすと、まるでシークレットサービスのように重々しい足取りでわたしの後をついてくる。 向かう先は玄関だ。ドアの近くに、簡単な掃除道具や季節に合わない靴を保管してあるチェストがあって、その上には、ちょっとした小物や鏡が置いてある。父はいつも、そこの小皿にキーホルダーを置いておく。 ややアンバランスなほど大きな黒ネコのぬいぐるみは、父でなくわたしの好みだ。二年前のクリスマスプレゼントだったのだけど、未だにちゃんと使ってくれている。もっとシンプルで、父くらいの男性が持っていてもおかしくないようなキーホルダーを贈ろうか、とも思うのだけど、父の上着のポケットからときどきネコが顔を出してたりするのが何とも可愛らしいので、ついそのままになっている。 その可愛い黒ネコの首輪にぶらさがっている鍵は三つ。 一つ目はこの家のもので、二つ目は車の鍵。そして、一番新しく輝いて見えるのは、ただいま紛争真っ最中の恋人の家のものだ。 ジャレッドは、作ったばかりで傷一つない鍵をふたつ、その大きな手の中に隠していた。 ひとつは父に。ひとつはわたしに。 今のところ、ひとりでジャレッドの家(しかもホストが留守のときに)を訊ねるような予定も希望もないのだけれど、でもちゃんとわたしの分を用意してくれるところが彼らしい。嬉しい、ありがとう、と彼の巨木のような胴体にぎゅうぎゅう抱きついてから、わたしはそれを、家の鍵と一緒に、白ネコのキーホルダーに大切につけた。父は、ぎゅうぎゅう抱きつきはしなかったけど(すくなくともわたしの目の前では、と言い添えておく)、ほんのり赤くなりながら、見ているほうが照れてしまうような、幸せそうな様子でにっこりした。 ……うちのダディは、娘の欲目を抜きにしても本当に美形なので、そうした表情もさまになってしまって、時々ちょっと目のやり場に、困る。 もちろん、わたしと父は、その次にジャレッドに会ったとき、うやうやしく我が家のスペアキーを差し出した。彼はわたしと父の顔を順番に見て、そこに「もらったからには返さなくては」みたいな義務的な感情がないのを確認してから、作りたてのピカピカしたその鍵をうやうやしく受け取ってくれた。 遠くもなく、終わってもいない幸せな記憶を胸に、わたしは、だいぶ生地がくたびれて、くったりしている黒ネコを手にすると、まだ電話を続けている父の鼻先にそれをつきだした。 行動する前に話し合いを持つことは、思慮分別のある大人に相応しい選択なのかもしれないけれど、それも時と場合によりけりだ。どこまで行っても平行線を辿るばかりの議論は、時間と体力の無駄でしかない。ことに、片方が安静を言い渡されている病人の場合は。 「?」 「多数決」 ジェンセン・アクレスはジャレッド・パダレッキの看病に行くべきか否か。賛成票2、反対票1、よってこの議案は可決されました。 ──いや、違う。わたしを引き止めようとしないなら、セイディとハーリーも、賛成票を投じたと思っていいはず。4対1じゃ、いくらジャレッドでも勝ち目はないわ。 わたしの言いたいことがわかったのだろう、父は一度わたしの手の中の黒ネコに目を落としてから、にやりといたずらな男の子みたいな顔つきをした。 ジェン、どうしたの、と電話の向こうでジャレッドの声が聞こえる。それは機械を通してるからではないざらつきを含んでいて、そんな状態でわたしたちの心配なんかしてる場合じゃないでしょう、と初めて彼に苛立ちを感じた。 「今から行く。も賛成してる」 「セイディとハーリーもよ」 「おう、なるほど……お前の愛犬たちもだそうだ。じゃあな、俺が行くまで、おとなしく寝てろ」 ジャレッドが何か言おうとしたとしても、その声が聞こえるより先に電波は遮断されてしまった。問答無用だ。 うちから何か持って行く? と訊いてみたけど、一度様子を見てから必要なものを考えるよ、と、父は携帯電話と財布と黒ネコだけをポケットに突っ込んだ。 「お大事に、って伝えてね」 「わかった」 「わたしに出来ることがあれば連絡して」 そんな用件があるはずない、とわかっていたけれど、そう言わずにはいられなかった。父はくしゃりと目元にしわを作って優しい顔で微笑むと、わたしの肩に手を置いた。 「必ずするよ」 それはおざなりでもなぐさめでもなかった。本当にわたしに出来ることがあれば、彼はちゃんと連絡をくれる。わたしの父は、そういうひとだ。だからわたしは、父の容姿ではなくて、こういうところを心から誇らしく思っている。 夕方には帰るから、と慌ただしく出て行く父の背中に、キスはダメよ、うつるかもしれないから、と言い添えた。からかうつもりではなかった。そうなれば、ジャレッドが気にするだろう、と思っただけだ。 だが、父にとっては爆弾にも等しい威力があったらしい。彼は何もないところで器用につまづき、二、三歩たたらを踏んでから、振り返った。その顔を見て、わたしは真っ赤に熟れた甘いリンゴを思い出した。 END |
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| 2009.11.20 |