Pas de Chat(2015.2.7MP24無配)
あ、と思ったときにはもう遅かった。
突然暗くなった空から、一瞬のためらいもなく、ざあっと雨粒が降ってくる。
まずいまずい、と手にした資料をとりあえずシャツの下に突っこんで、サムは他の通行人と同じく屋根のあるところへ駆け出した。
不幸にも、というべきか、緑の豊かな大きな公園は、散策するにも身体を鍛えるにも、家族で過ごすにも相応しいけれど、雨をしのげる場所はさほどは多くない。
白く華奢なデザインの四阿は、本来はロマンチックな用途を目的として造られたのだろうけれど、今はサムを始めとして、雨をよけるために駆け込んだひとたちで一杯だ。ただ、もう寒い季節は終わっているから、濡れるのが気にならないひとたちは、わあわあいいながらもそのまま走ったり歩いたりして、三々五々に散っていった。
サムも、さっき借りてきたばかりの本がなければそうしたのだけれど。
出かける前、ディーンが「水の匂いがする。雨が降るぞ」って鼻をひくつかせてそう言っていた。傘持ってけよ、って言われていたのに、ころっと忘れて出かけてしまった。
当の本人は今頃モーテルのベッドですやすや眠っているだろう。まだ午後も早い時間だけれど、ネコは昼でも夜でも朝でも、とにかく隙あらば眠るものだ。
サムが出かけようとするのを見て、いそいそとジャケットを手にとっていたが、目的地が図書館だと聞いて、途端に出かける支度を止めてしまった。素直と言うか、正直と言うか、でもそういうところも嫌いじゃない。
サムの人生は物心ついて以来、ずっと嘘やごまかしで塗り固められていた。
仕方もない、父の生業はオカルトハンターです、というか稼いでないので生業でもないです、生活は主に賭博とカード詐欺で成り立ってます、クローゼットには本当に幽霊がいるし、ベッドの下には怪物がいるよ、この間つかまった殺人犯ね、あれ悪魔憑きのせいだよ、……なんて。
言えるわけがない。
だから、友達にも、学校の先生にも、幼い子どもを不憫がって親切にしてくれたモーテルの女主人やダイナーの店員にも、そうして、生涯を共にしたいと願った女性にさえ、都度都度適当な嘘をついてその場をごまかして来た。むしろ、サムに親切であろうとするひとにこそ、サムはたくさんの嘘を重ねて、懸命に「普通」を装った。
学校に通うのは好きだった。転校生はあれこれ絡まれやすいし、子どものころのサムはちいさくていかにもひょろっこそうに見えたからか、ちょいちょい、「クラスのボス」的立ち位置の少年にちょっかいをかけられて、そういうのはすごく面倒だったけど、それでも行かないよりは断然いい。
勉強するのも楽しかったし、何より、他の子どもと一緒にノートを広げたりしていると、ちょっとだけ、自分も普通の子どもでいられるみたいで嬉しかった。
学校、俺も行ってみたかったなー、とディーンはそこはかとない憧れを持っていたようだが、一日の大半を机に座って勉強せねばならないのだと教えられて以来、その憧れはあっさり霧散したらしい。どうやら子ネコの憧れは主に体育とランチと放課後のクラブ活動へのものだったようだ。
それもまたディーンらしくて、サムは笑わずにはいられない。
ディーンなら女の子たちにモテただろうね、と言えば「それって大事なことなのか?」と不思議そうに首を傾げていた。
そんなふうに改めて訊かれると、サムとしても、どうだったかな? という気になる。が、大事と言えば大事だろう。BF・GFがいるかいないかでは、学生生活の彩りがだいぶ違う。
ただ、サムの記憶に残っているのは、初めてそれなりにちゃんと付きあった女の子のことより、彼女の家に招かれて、「普通の家庭」を目の当たりにした時のことだった。
家族の軌跡を記した写真があちらこちらに飾られ、使い込まれた感じの、でも大事にされているのがわかるクッションや食器やとっておきだという鮮やかな色のテーブルクロス、食卓の会話は明るくて楽しいことばかりで、当たり前だけど、幽霊だとか悪魔だとか異教の神の呪いがどうこう、なんて話題は一切ない。両親にからかわれて赤くなるガールフレンドは、学校で見るより幼かったがずっと可愛らしくも見えた。
その家には愛情や思いやりや、家族の歴史がたくさんつまっていて、わかってはいたはずなのに、サムは自分の家とのあまりの違いに呆然としたのを覚えている。
結局、彼女とはその後すぐに会わなくなった。サムが引っ越したのが原因だけれど、もしあのままあそこに留まっていても、彼女との交際は長続きしなかっただろう。
雨は一向に止む気配がない。視界が白く煙るほどの雨は、世界をモノクロームに変えてしまう。
共に雨宿りをしているひとたちは、困り顔で空を見るひと、しょうがない、と諦めて気長に待つ体勢になるひと、逆に、諦めたがゆえに雨の中に駆け出すひと、電話で迎えを頼むひと、などそれぞれである。
サムも、雨の勢いと、腕に抱えた本と、傘が買えそうな近くの店までの距離、をそれぞれ秤にかけて考えてみる。だが、本を濡らさずにいようと思えば、まだもうすこし雨足が弱まるのを待つしか方法はないようであった。
こんなこと、子どものころにもあった。ショットガンの撃ち方は知っていても、まだ狩りには同行しなくてよかったくらいの年齢の頃、近所の子どもたちと遊んでいたら、突然雨が降りだして来て、急いで大きな木の下に逃込んだものの、雨の勢いは一向弛まず、困ったねえ、とみんなで顔を見合わせていた。
でもそのうち、ぽつりぽつりと傘を持ってお迎えの家族がやってきた。母親がほとんどだったが、中には父親だったり、祖父だったり、年上の兄姉がやってくることもあった。
一人ずつ少なくなる友達を見送って、サムは最後までその木の下にいた。
サムに、一緒に帰らないか、と訊いてくれた女性もいたが、サムはサッカーボールを抱えたまま首を振った。
「お父さんが来てくれるから」
そう、早く来てくれるといいわね、と彼女は微笑み、娘と二人で雨の中に消えた。
もちろん、迎えなんかは来なかったから、サムは止まない雨の中をモーテルまで走って帰った。誰もいない冷えきった部屋の中で、サムはぼたぼたと髪から落ちる雫にまぎれて、ほんのちょっとだけ泣いた。

ざあざあと降り続く雨の中に閉じ込められて、サムが不意に笑ったのは、そんな幼い自分のことを思い出したせいじゃあない。
ばしゃばしゃと水を蹴散らして、一つの影がまっすぐ走ってくるのが見えたからだ。
「サム! サム! お前、傘持ってけって言ったのに!」
風呂は好きでも雨に濡れるのは好きじゃないはずの人ネコが、もー、雨降るって言ったろ、と小言を言いながら、左手に持った傘を差し出した。
「ごめん、忘れてて」
「だったら電話しろよ、迎えに行くし」
降りだしてから結構経ってるだろ、とディーンは一部は水たまりと化している遊歩道を見つめて呆れたようにそう言った。
「止むかなあ、と思ってたんだよ」
「あー、無理無理。あと一時間は降るぞ、これ」
ええ、という落胆の声は、サムではなく、雨宿り中の他のひとの口から漏れた。彼も、雨が止むのを待っているクチらしい。
ディーンはくるっと丸い目をそちらの男性に向けた。
「傘、ねえの? 俺の良かったら使う?」
「え、でも、」
「いいんだ、俺、サムと一緒に帰るし」
はいどうぞ、と自分の傘を男性に差し出して、ディーンはサムの袖を引っ張った。
「帰ろうぜ。おやつ食べよ」
「何があるの」
「何もないから買って帰ろう」
ジャムドーナツかチェリーパイがいい、と子ネコが甘えるように言う。
何だ、もしかしてそれが目的だったんじゃないの、と笑いながら、サムは自分の傘をぽん、と開いた。大きめの傘ではあるが、サムもディーンも大柄なので二人で入るとちょっと濡れる。まあでも、本とドーナツ(か、パイ)が濡れなければさしたる問題ではない。
ありがとう、という男性に手を降って、二人は雨の中に足を踏みだした。
空はまだ重苦しい灰色だったけれど、一時間後には光が戻ってくるだろう。もしかすると虹ができるかも知れない。
ただ、その頃にはきっと子ネコは満腹の腹をかかえて機嫌よく眠ってるんだろうなあ、とサムは正しく未来を想像した。

【終わり】
 
2015.2.15再録