**聖 夜**
 その存在を感知したとき、ショーンは、この小さな教会に誰もいなかったことを、心から喜んだ。
 ショーンを慕ってくれる近隣の子どもたちも、信仰深い老婦人も、ガンコジジイと言われながらも、その公平さを慕われている元海軍大佐の老人も、悩み事を見つけるのが趣味であるかのような気弱な学校教師も、彼を評してそう言った、あの、天使も。
 ずしり、と空気が重くなり、室温は一気に10度近く冷えた。常人では身動きすることもできないほどの濃密な空気は、その『存在』のまとう瘴気が作り出すものだ。
 魔界における、王の中の王。絶対唯一の支配者であり、神に正対する最大の反逆者。
 悪徳のすべてを掌中に納め、いまだつきせぬ欲望を抱いている。
 ショーンは一度ゆっくりとまばたきをし、やわらかな笑顔を浮かべて振り向いた。
「……久しぶりですね、ルー。何か 人間界 こちら に、楽しいことでも?」
 久しく会っていない友人を迎えるような親しみを向けられて、ルーと呼ばれた男は──ルシファー、は──にやりと口元をゆがめて応えた。
「逆だ、ショーン。地底にこもっているのにも少々飽きたところでな。力を持ちすぎるというのも、これでなかなか退屈なことだ」
「あなたがうかつに動くと、影響力がありすぎますからね」
 紅茶でもいかがですか、とまるであたりまえのことのように勧められ、ルシファーは、面白がるような、呆れたような顔で、狭い教会を見回した。
「相変わらず、とんきょうなところに巣くっているな」
「私には、ここが居心地のいい場所なんです」
「ああ、そうだろうとも。今日は、あの天使はいないのか?」
 金の髪に蒼い眼の、絵に描いたような 半天使 ハーフブリード 。ブラッド、と言っただろうか。
 恋人の名を出されて、ショーンの笑顔がうすく緊張した。
「ルー……一体、あなたは何を……」
 楽しげに目元を細め、ルシファーは、己の部下を見下ろした。
「言っただろう? 私は退屈なんだ」
 悪魔に恋をしている天使の顔を見物に行こうかと思うていどには。
 半悪魔とセックスをする半天使は珍しくはない。人界には、天界人と魔界人の中立地帯があり、そこでは、インキュバスを口説く神の使徒を見ることだってできる。
 けれど、彼のように心を傾けて悪魔を愛している天使はいない。なぜなら、そうと心を決めた時点で、天使はその聖なる属性を失ってしまうからだ。
 もっとも、それを罰だと思うか、僥倖だと思うかは、それぞれの判断であろうけれど。
「あれは、面白いな、ショーン。お前に惹かれて、なお翼を保ったままでいる。──それとも、面白いのはお前のほうか?」
 魔界に生まれながら、恐怖と争いと暴力、流血、苦痛が支配する世界に、どうしても馴染めなかった悪魔は、こうして神に仕える人間のふりをして、心の平安を保っている。
 ──面白い。
 じつに面白い。
「──もし、私が『あれを堕とせ』とお前に命令したらどうする?」
「……ルー……」
 彼らの世界では、力の差が、絶対の上下関係を作る。最高位にある魔王の命令に、おもてだってそむくということは、その場で消滅させられることすら覚悟せねばならない、ということだ。
 けれども。
 恐れ気もなく支配者を見上げ、ショーンは深い決意を込めた、涼やかな声で言った。
「帰ってください、ルー。あなたに彼は渡さない。それくらいならいっそ私は、天界で永遠の責め苦を受けたほうが、何万倍も救われる」
「救いだと?」
 久しく聞かない言葉に、かつての大天使はにい、と牙をむいた。
「それは、愚かな人間と天界のものだ、ショーン。悪魔のお前に救いなどありはしないぞ」
「……いいえ」
 ショーンは静かに微笑んだ。
「いいえ、ルー」
 あなたは知らないのだ。あの天使の持つ強さと、しなやかな心を。裡に抱え込んだ、大きな愛を。
「──何だつまらん。昔のように、私に泣きついてくるかと思ったのに」
 次々と送られてくる罪人の苦痛のうめきと、悲鳴に心を痛め、己の内から出られなくなるほど憔悴しきった半悪魔を地上へ放り出したのは、この魔王だ。即座に消滅させてしまってもよかった。それなのに、そうしなかったのは、ただの退屈しのぎであり、と同時に、どうあっても適応できない環境の中でもがく姿に、かつての自身を見たからだ。
 情けではない。そんなものは、はるか過去、まだ背中に白い翼を持っていたときですら、持ち合わせてはいなかった。人界で朽ち果ててしまうなら、別にそれでもかまわなかったのだが。
「私は、あなたのように不変の存在ではありませんから」
 変わっていく。すこしずつ。先の見えない道でも、側に誰かがいてくれるなら、進むことができるのだと知ることができた。
 それだけでも、自分は。
「──まあいい、私は、楽しいことは何でも好きだ。お前がどうするのか、見物していよう」
 今はそれでいいかもしれない。
 けれど、変わりゆく存在だと言うならば、この神父とても、欲を出さぬと言いきれはすまい。
 地獄の王は、翡翠の色の瞳をのぞきこんで、真っ黒な蜜をたらすようなささやきを落とした。
「覚えておくんだな、ショーン。天使を堕落させるのなど、じつに簡単なことだ。彼はじきに、魔界の生活にも慣れることができる」
 もちろん、それには地獄の苦痛を伴うが、何、亡者どもの味わう永遠の期間に比べれば、ほんの一瞬だ。
「──そうすれば、あれは永遠にお前のものだぞ」
 失うことはなく、離れることもなく、永劫の時間を共にする。
 それは、強烈な誘惑だった。
 ショーンは、けれど、清々とした笑顔を浮かべただけだ。
 ルシファーは一度だけ肩をすくめ、ばさりと背中の翼を広げた。
「……さようなら、ルー。メリークリスマス」
 皮肉でなく、その言葉で魔王を送りだす悪魔に、ルシファーはニヤリと笑った。
「メリークリスマス、ショーン。いい夜を」

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 Hi、と声をかけられて、ブラッドは、内心で盛大にため息をついた。
 朝っぱらから、面倒な相手に見つかったものだ。
 手の中のグラスをからりと鳴らして、首だけで相手に振り向いた。
「ハイ、ガブリエル。珍しいな、あんたがここに来るなんて」
 クラブ・ミッドナイトは、超自然的存在の集う場所で、ここでは天使も悪魔も巨人も小人も双頭の蛇も首なしの馬も、見境なく平等にたむろしている。
 しかし、ガブリエルをこの場所で見かけることは、あまりない。
 天使長であり、神の言葉の伝達者であり、冬を司るこの天使は、性別のわかりにくい硬質な容貌をしていた。身体のラインも中性的で、黒のアルマーニをきちんと着こなしている。
「私が気晴らしに出てはいけないか?」
「そんなことは言ってないさ。一人? それとも、相手はここで探すつもりだった?」
「お前こそ、一人か?」
 ん? と薄い笑みは、美しいけれども、どこか残酷だ。
 神の使徒の中でも、長く〈生きて〉いる彼は、決して寛容な性質ではない。規律を重んじ、正しい道を尊ぶ、ごく純粋な神への愛を今でも多く保っている。
「それは、俺がいつでも女を連れてる、とでも言いたいわけですか、サー?」
 隣に座った上位の天使に目を向け、わざとらしい敬語で訊ねてみる。
「だとしたら、ひどい誤解だ。──まあ、清廉潔白な生活をしてるとは言わないけどね」
 俺ってば、正直者なので、とブラッドは肩をすくめた。
「ここで女を連れているくらいなら、すこしもかまいやしないがね、ブラッド」
 額の真ん中に三つめの〈眼〉を開いたバーテンからグラスを受け取り、ガブリエルは無造作に手をかざした。透明だった液体は、即座に琥珀の色と、豊かな香りを帯びた。
 俺もお代わり、と氷ばかりのグラスを差し出して、ブラッドはガブリエルの表情をうかがった。バーテンダーが、新しいグラスをその手の中に握らせた。半分ばかりを満たしているのは、正真正銘、ただのミネラルウォーターである。
 にこりと笑うガブリエルは親しみがあって、だからこそ、その嘘くささにブラッドはげんなりとなる。
「言いたいことがあるなら、ストレートにどうぞ、ガビー」
「そんなふうに言うからには、私が何を言いたいのか、知っているということだね、ブラッド」
「Yes, Sir. あんたが言いたいことは、だいたいわかるが、あんたが俺に何を言わせたいのかがわからないんだ」
「言わせたいこと?」
 かつん、とグラスがぶつかると、ブラッドの手にした水も、ガブリエルのものと同じ色になる。鼻先で香りをかいだブラッドは、嫌そうに眉をしかめてみせた。
「あんたがスピリッツ好きだったとは知らなかったよ、ブラザー」
「どうせ酔いはしないんだから、何でもかまわないだろう」
 それとも、ワイルドターキーばかりを飲んでるわけ、と言われ、酒くらい好きなもん飲ませろ、と不平を言いながら口をつけた。
「それで」
「何だよ」
「お前は、あの悪魔をいつまで放っておくつもりなんだ?」
 悪魔、と言う発音には、あからさまな侮蔑と憎悪がこめられている。
 そんなふうに、あの神父を呼ぶ存在に、ブラッドは初めて出会った。──過去の自分をのぞいては、だけれど。
 彼は彼を知るすべての人間から、敬愛の念を向けられている。
 そうされるにふさわしい存在だと、強く主張するのはやぶさかではないが、目の前の大天使にそれを納得させることは、一万年かかってもできはしまいと思われた。
「──人間界にいる 半悪魔 ハーフブリード は、直接〈悪さ〉をしないかぎり不可侵のはずだぜ、ガブリエル」
 生粋の悪魔や天使は、原則として、人界へ出て来ることはない。それは、善悪二つの世界のバランスを保つための、大前提のルールだ。その代わりの任務を担って〈この世〉にやってくるハーフブリードたちもまた、人間へのあからさまな働きかけは禁止されていた。
 彼らは、囁きひとつ、微笑みひとつで、人間たちの背を押すのだ。
 GOODのほうへ。あるいは、BADのほうへ。ひとが、もともと持っている善悪の振り子を、どちらか一方へと、大きく振ってやる。そうして、ひとは、ある日突然、銃を振り回して無差別に他人を殺傷することもできるし、危険な場所へ、見ず知らずの誰かを救うために向かうこともできるのだ。
「悪魔が教会に巣くっているなど、神に対する侮辱だとは思わないのか」
「歴代法皇の中にすら、〈下〉へ落ちた奴はいるぜ。ショーンが導いた人間達で、本来行くべきでないところへ行った者がいるか? 彼は正しく道を示している」
 死の前に懺悔をし、前非を悔いた者は、神に赦され、天界へと召される。
 そうすることを拒み、死後の世界を甘く見ていた者は、悪鬼たちの歓迎を受けることになる。
 もちろん、ショーンは神に祈ることを勧め、赦しを請うようにと説く。彼には、魂を天界へ連れてゆく 能力 ちから はないから、結局は本人の真摯な心だけが結果を招くのだ。
「あいつは、何一つ罪なんか犯してねぇよ。例え、あの方の前だろうと、俺は胸をはってそう言うよ」
「欺瞞も罪だぞ」
「あいにく、本気さ」
 残りすくない酒を振って見せ、それからグラスを一気にあおった。さて、もう一杯飲もうかどうしようか、と考えている横顔を、ガブリエルは疑い深いまなざしで見やった。
「お前は……あの反逆者の二の舞いを踏むつもりじゃないんだろうな?」
 はるか昔に、神の愛を受けながら、神に挑み、神に背いて、地に落ちた大天使。
「ルシファーか? まさか」
 〈父〉への挑戦などというだいそれたことは、夢にも考えてみたことはない。
「買いかぶってくれるのはありがたいが、俺は、そこまで野心家じゃない」
 自分ののぞみは、もっとずっとささやかなものだ。俺ってば、あんがいマイホームタイプだったんだろうか、とほおづえをついて、真面目に考えてみる。
「ブラッド、目を覚ませ。堕落させられて、神の愛を失ってからでは遅いんだぞ」
「──堕落って?」
 誰が誰に、と本気で考える。
 俺が、ショーンに?
 は、と思わず笑い声が出て、隣の天使に嫌な顔をさせてしまった。
「ブラッド」
「Sorry. でもガブリエル、あんたはショーンを知らないんだ」
 あの、穏やかに微笑む心優しい悪魔を。
「知らないだと? 私が?」
 冬の天使は、細く形のいい眉をきりきりとつり上げた。
「私が、お前の何倍の時間を、こうして存在してきたと思ってるんだ?」
 まだ人間たちが、幼子のような文明しか持たない頃から、神の側で人界を見て来た。何度も何度も、懲りずに大きな罪を犯すさまを。善に向かうよりも、悪に走るほうが簡単だ、と悪魔の誘惑に身をゆだねる弱さを。
 そのたびに、人は、神がいとおしむにふさわしい存在なのか、と疑わずにはいられないのだけれど。
「違うよ、ブラザー。悪魔を知らないって意味じゃない。あんたはショーンを知らない、って言ったんだ」
 あの悪魔には、天使はもちろんのこと、ライン上にいる悪人をそそのかして、地獄へ突き落とすような真似すら、できはしないのに。
「あれは、たぶん、……」
 ショーンを表すための正しい言葉をさがすのならば、彼は「奇蹟」と呼ばれるにふさわしいだろうと思う。ガブリエルは、聞き分けのない子どもに言い聞かせるような顔をした。
「……奇蹟は、神によってのみ、なるものだ、ブラッド」
「父の手は、万物の上に差し伸べられているはずだろ?」
「彼は悪魔だ」
「ショーンさ」
 二人とも、声は穏やかで表情は微笑んですらいる。
 けれど、お互い、一歩たりとも引かないだけの強情さをにじませて、相手の目をのぞき込んでいた。
 ガブリエルのグラスが、こつりと音を立ててカウンターに置かれる。これ以上の議論は無駄だ、という合図らしかった。ブラッドとしても、のぞむところだ。これ以上話しあっても、何一つ合意点など見いだせそうにはなかった。
優雅なしぐさで、スツールからすべり降りると、ガブリエルは、最後通牒のように、年若い──彼自身に比べれば、ということだが──天使を振り向いた。
「ブラッド、先に言っておくよ。どうか私に、お前を処刑させるようなことは、させないでおくれ」
 神の寵愛を失って、闇へと走るなら、見逃すわけにはいかない。
 ぞっとしないね、とブラッドは肩をすくめ、そんな心配はいらない、と言った。
 ただ、もしも。
「……ショーンを地獄から救い出す方法があるなら、俺は、どんな代償を払っても惜しくはないよ、天使長」
「ブラッド」
 深い憐れみと、冷たい嘲りをこめて、ガブリエルはブラッドの頬に触れる。赤く光る瞳は、どうしてお前は現実を見ないのだ、と雄弁に物語っていた。
「──もはや神の慈愛も届かず、救うすべすらない存在を、悪魔と言うのだよ、マイ・ブラザー」
「……Yes, Sir」
 了解、と手をあげて、ふと思い出した。
「メリークリスマス、ガブリエル」
 聖なる日に祝福を。
「メリークリスマス、ブラッド。できれば、次はあの悪魔を縁を切ったお前に会いたいものだね」
「それは無理だから、見かけても知らん顔しててくれ」
 God bless you, と手を振ったブラッドに一瞥をくれると、ガブリエルは喧騒の中へと消えていった。


 軽快なノックの音に、ショーンはぱっと立ち上がった。
 ドアを開けると、やっぱりそこにいたのは恋人で、ふくらんだ紙袋とワインの瓶を両手に持って立っていた。
「メリークリスマス、ブラッド」
「メリークリスマス、ショーン」
 ブラッドは、ようこそ、と微笑むエプロン姿のショーンを上から下までとっくりと眺め下ろした。キッチンを満たしている甘い香りが、玄関までただよっている。
「もう準備を終えちゃったのか?」
「ベースのお菓子はね。あとは、デコレーションをして、リボンを通して……」
「ツリーに飾って?」
「Sure」
 そうだよ、とうなずいて、ショーンはブラッドに近づくと、ひっそりと身体を寄せた。外気そのままの冷たい肩に頬を当てる。
「ショーン?」
「会いたかったよ、ブラッド」
 君の顔を見たら安心した、と幼い声でショーンは言った。
 珍しいことだ。
 何かあったのか、と問うのは簡単だったけれど、そうすることがはばかられた。言いださないからには、何か理由があるのだろう。閉じた目元には、哀しみも怯えも見えなくて、だから、ブラッドは訊ねることはしなかった。
 代わりに。
「……俺も」
 会いたかったよ、と肩まで伸ばした金髪に鼻先を埋めた。抱きしめ返したかったけれど、両手は荷物でふさがっている。ショーンの手が、紙袋を受け取った。
 空いた手をお互いの身体に回す。唇は簡単に近づいて、二人はそっと壊れ物に触れるように、クリスマスのキスをした。



END
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あくまめさん本第一弾「Holly Night」より
2010.3.4(再録)