| ラプンツェル…1 |
| タクシーを拾えば良かった、と、そう思ったときには遅かった。 ぐらり、と目の前の世界が揺れて、身体から力が抜ける。 抱えていた本がどさどさと道路にぶつかる音がし、きゃあ、と甲高い女性の悲鳴が聞こえた。 「ミスター!」 膝をつく直前に、誰かに腕を引かれ、メリックはかろうじて転倒を逃れた。 そのまま、その誰かの腕に抱え込まれてしまう。 「ミスター、大丈夫ですか? 何か持病が? 今、救急車を呼びますからね、しっかりして!」 「……No……大丈夫……大丈夫だから……」 だるい腕を上げて、メリックはうわごとのように、「大丈夫」を繰り返した。 「でも……っ」 「あ……」 「あ?」 「暑い…………」 「ミスター!」 「──すまなかった……」 スポーツ飲料を一息に飲み干して、メリックは安堵と羞恥のため息をついた。 確かに、こんなふうに直射日光の下に出たのは、ひと月ぶりではあるけれども。 よりによって医者たる自分が、軽度とは言え、熱中症で倒れるなんて。 とても部下たちやクローンの前では見せられない醜態だ。 「いいえ、いいんですよ。今日の暑さは異常ですからね、無理もないです」 今年一番の気温だそうですよ、と青年はひとの良さそうな顔で微笑んだ。 「これ、あなたの持ってた本です。すこし汚れてしまったけど……大丈夫、破れたりはしてないみたいですよ」 「ああ……どうもありがとう」 「気分はどうです?」 「だいぶマシになったよ」 青年は、容赦ない陽射しにやられたメリックを、木陰まで移動させ、ネクタイを弛めて脈拍を計り、喉元に冷たいタオルをあてがった。 その動作は滑らかで迷いがなく、ルーティンワークをこなすかのように手慣れている。 手にしたファイルケースで顔をあおいでくれている青年を、メリックは細めた眼で見上げた。 「君は……看護士? それとも、医者かな?」 「え?」 「こういったことに、とても慣れてる。……ね?」 「ああ……ええ……」 私の推察は間違ってないだろう、と言うメリックに、はしくれですけど、と青年ははにかんだように笑った。 気持ちよく笑う男だ、とメリックは感心する。 営業用の、見た目のいいだけの笑顔なら、どこにでもあふれかえっているけれども、こんなふうに笑顔を浮かべる人間を、身近には思い出せなかった。 「あなたもお医者様ですよね?」 「え?」 「その本。医学書ばかりだ。そういうのを読むのが趣味なら別ですけど」 「ああ……ばれてしまったか」 医者のくせに、みっともないな、と苦笑しながら、身体を起こそうとしたら、青年に強い調子で押しとどめられた。 「ダメですよ、もうすこし休んでください。体温が下がるまでは無理しないで。それとも急ぎの用事が?」 「いや……私の用は、もう終わったんだ。君こそ、私なんかに付き合ってていいのか? 時間は?」 「ええ、大丈夫。俺も、もうホテルに帰るだけなんです。それに、具合の悪い人を置いて行くなんて」 そんなことできませんよ、と。 まるで当たり前のことのように言うから、メリックは、「お人よしだな、君は」という言葉を、喉元で飲み込んだ。侮蔑だと取られることを危惧したからだ。 目をあげれば、重なり合った葉の間から、幾粒もの光がこぼれている。 遠くでは子どもの声がして、身を横たえた地面からは、土と草の青臭い匂いが、そうして、頭の下で無造作に広げられた青年の上着からは、マリンノートのかすかな香りが立ち上っていた。 常日頃、コントロールされた空気の中でばかり暮らしているから、こんなふうに遠慮なく五感を刺激されるのは、ずいぶんと久しぶりだ。 「ホテル、ということは、この街のひとじゃないんだね?」 「ええ、ここへは三日間の研修で……あ、俺、名前も言ってませんでしたね」 「ああ……私も名乗っていなかった。助けてもらっておきながら、申し訳ない」 「いいえ。俺はデイヴィッドです。デイヴィッド・ウェンハム」 「ヘンリーだ。ヘンリー・メリック。助けてくれてありがとう、ミスター・ウェンハム。こんな体勢のままで失礼するけど」 君がいなければ、熱射病の上に、擦り傷と打ち身くらいは覚悟しなくちゃならなかっただろうね、と笑いながら、メリックは右手を差し出した。 「デイヴィッドでかまいませんよ。お役に立てて何よりでした。──ほんとうは、体調が悪そうだったから、心配してたんです。声をかけてみようかなあって」 「そんなに?」 「ええ。真っ青でしたよ。……ああでも、あなたは元々色の白い方だから、余計にそう見えたのかも」 「直射日光に、こんなに長くあたるのはひと月ぶりなんだ。──不健康な話だが」 「ああ……なるほど」 病的というほどではないにせよ、メリックの肌は、とにかく白い。 皮膚本来の色もさることながら、メラニンをどこかに忘れて来たような白さは、確かに日光に触れる生活をしていない証拠だった。 「全然外に出てないんですか?」 「そうだね、ほぼ、だ」 クローンたちは一定のプログラムにしたがって太陽灯の光を浴びているけれども、メリックはそういったこともしないし、ラボから出るときも、ヘリコプターや車での移動が主で、外の空気に触れること自体がすくないのだ。 「そりゃ……そんなひとが、今日のお陽さまを浴びたんじゃ、一発でのぼせてしまいますよ。それにその服! 黒は熱吸収率が高いんですから」 この炎天下に長袖の黒いシャツ、黒のパンツ、しかもネクタイまで! と、デイヴィッドは呆れたように言った。 「次に外に出るときは、白の半袖シャツとノーネクタイをお薦めしますよ、ミスター・ラプンツェル」 「……ラプンツェル?」 何だっただろう、と記憶をたぐる。聞いたことがあるような気もするけれど。 「知りませんか? 赤ちゃんの頃、魔女に捕まって塔に閉じ込められた女の子の童話」 「ああ! 思い出した。長い髪を窓から下ろして、王子を引き入れるんだったね。……ん?」 ちょっと待ってくれ、それは私のことか、とレンズの向こうで、メリックは微妙な顔をした。 「だって、ひと月も外に出てないんでしょう」 「…………」 それは確かにその通りで、けれど別に自分は幽閉されていたわけではなく、あくまで自分の意思で研究所にこもっていたのだが。 けれど、今、そんなことを真面目に主張しても仕方がないし、何より、結果としてこういう状態に陥っているのでは、何を抗弁しても恥の上塗りのような気がして、メリックは唇もまぶたも閉じてしまった。 まだ、頭の奥ががんがんと鳴っている。 あ、タオル変えましょうね、とデイヴィッドは、止める間もなく駆けて行き、公園の水道で塗らしたタオルを持って駆け戻ってきた。 メリックはペットを飼ったことはないのだけれど、忠犬、というのは、こういう動作をする動物をさすのではないかと、ふと思った。 首筋の両側、大きな血管を覆う、冷えた感触に、思わず吐息がこぼれる。 「ミスター・メリック、もし、眠れるようなら、すこし眠ってください。そのほうが、後でずっと楽ですから」 「──ここで?」 反射的に訊き返してしまった。 過剰に熱を持った頭と身体が、休息を欲しているのは確かで、けれども、屋外で眠ったことなど、もう数十年もしたことがなかったので。 しかし、気のいい青年は、メリックの疑問を不安ととらえたらしかった。 「大丈夫ですよ。俺が見てますから────あ」 ぽか、と口を開いて、デイヴィッドは困ったように頭をかいた。 「す、すみません、俺が不審者じゃないって保証はないですもんね」 すみません、と、とても悪いことをしたような顔で謝るデイヴィッドに、メリックは──これも、じつに久しぶりに──声を立てて笑い出した。 「君……デイヴィッド、ほんとうに変わっているな。通りすがりの人間の面倒を、こんなに真摯に見てくれる君が不審者かもしれないだって?」 それはまあ、初めに親切にしておいて、信用させたところで、背中から銃を突きつけるような真似は、常套手段ではあるけれども。 この青年が、自分の懐に手を伸ばしたり、あまつさえ、生命を奪おうとしたりするところなど、一瞬たりとも想像することはできなかった。女性とても、彼を『安全圏』と見なすことに異議はあるまい。 ああしまった、おかしい、と、メリックはまだ身体を震わせている。 「え……いえ、あの、でも……」 おろおろと言葉を継いで、なぜか赤くなったデイヴィッドは、困り果てた顔でメリックを見下ろした。 「……ミスター……えーと、……そんなに笑うと、お腹も痛くなりますよ」 「!」 あっはっは、と、一番長い部下ですら聞いたことのない、楽しげな声で笑い出したメリックは、それこそ、ほんとうに腹筋が痛くなるほどに笑い続けた。 「…………はー…………」 はたはたと倦まずに風を送りながら、デイヴィッドは知らずため息をついた。 落した視線の先では、ずいぶんと顔色の良くなったメリックが静かに寝息を立てている。邪魔だろう、と、こっそり外した眼鏡の下には、驚くほど秀麗な造作の顔があった。 一糸の乱れもなくまとめられた髪や、ノンフレームのグラスが怜悧な印象を与えるけれども、笑顔は息を飲むほどに鮮やかで、デイヴィッドは心底びっくりした。 何と言うか。 まるきり、不意打ちだ。 「……俺……今なら、魔女の気持ちがわかるかも」 誰にともなく呟いて、デイヴィッドは眠り続けるひとを見つめた。 赤ん坊の頃、魔女にさらわれたラプンツェルは、あんまり綺麗な娘に成長してしまい、だから魔女は彼女を塔に閉じ込めてしまったのだ。 ──誰の目にも触れないように、と。 続く |
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以前、絵チャで、「メリック先生は貧血気味で、レバー嫌い」、という話で盛り上がりました(笑)。 2005.09.01 |