空の あお 海の あお
アキレスは思ったほど荒れてはいなかった。
ただ、清められたパトロクロスの身体を前に、小さくなって座っていた。
彼の哀しみを思ってか、周りには誰もいなかった。あるいはあの有能な副官、エウドロスが人払いをしたのかもしれない。
エウドロスの咽喉には赤黒いアザが出来ていて、彼はその理由を語ろうとはしなかったが、彼の主人の怒りの産物だということは聞かずともわかった。
アキレスの哀しみの深さを身をもって知ったエウドロスは、アキレスに会いたいと言うオデュッセウスを止めた。
もう少し落ち着いてからの方がいいのではないか、と。
それでも今、アキレスに会っておきたかった。でなければ、二度と彼の前に顔を出すことはできないような気がしたからだ。
だがいざアキレスを前にすると、かける言葉を捜しあぐねて、オデュッセウスはただ黙って彼に近づいた。
気配に気付いてないはずがないのに、アキレスは顔を上げない。
アキレスがまだパトロクロスくらいの青年だったころから共に戦ってきたが、こんな風に肩を落して憔悴した彼を見るのはこれが初めてだ。
彼はいつも自信と光に満ちていた。全ての勝利、全ての栄光は、常に彼のものだった。
女神の息子とすら呼ばれた彼が、今はただ絶望と無力感に苛まれた普通の男に見えた。
けれど、それはもちろん錯覚だ。
手負いの獣ほど怖いものがあるだろうか。
「──あんたはどこにいたんだ」
俯いたまま、ぼそりとアキレスが呟いた。
「アキレス」
「パトロクロスが殺されたとき、あんたはどこにいたんだ、オデュッセウス。あんたがいれば、パトロクロスは死なずにすんだのに──!」
あんたなら、自分と従弟を間違えたりはしないだろう、と。
振り仰いだ瞳は濡れてはいなかったが、悲痛なまでの哀しみをたたえてオデュッセウスを見つめた。野生の獣は、声を出さずに、涙は見せずに、仲間の死を哭くのだろう。
獅子の見せる無条件の信頼に、オデュッセウスは一度目を閉じた。
唇が震える。
それは恐怖ゆえではなく、これから自分がアキレスを更に傷つけることを知っているからだ。
「──アキレス。私、は」
その時、私は、アキレス。
「私もそこにいた。パトロクロスがヘクトルと戦っていた、その場に」
そして、パトロクロスの最期を、エウドロスと共に看取った。
空色の瞳が一瞬見開かれる。
その青さを認識するより先に、イタケの王は地面に叩きつけられていた。受け身もとれずに砂地に転がって、オデュッセウスは肺の中の空気を全部吐き出した。すかさずアキレスがオデュッセウスの身体に乗り上げて、その喉元を締め上げた。
「……が……っ……!」
苦しさにオデュッセウスの顔が歪む。うっすらと開いた目に映ったのは、怒りに目を光らせている獅子だった。
「その場にいただと!? なら、何故止めなかった! ──何故!」
何故。
それはオデュッセウス自身が100度も自らに問うたことだ。
何故止めなかった。
彼を。
何故疑わなかった。
彼だと。
「答えろ、オデュッセウス!」
「君、だと、思っ……た……」
周りの部下たちから何度も聞かされた答えを繰り返されて、アキレスは怒った。オデュッセウスの巻き毛をつかむと、力任せに地面へ押しつけた。
「お前が! 俺とパトロクロスを間違っただと! 誰よりも長く俺の剣を見ていたお前が、俺と初陣すらまだのひよっこ剣士を見間違えただと!?」
「アキ……レス……」
「知者が聞いて呆れる! どうせならもっとましな嘘を言え!」
嘘ではない。
けれど、本当でもないのかも知れなかった。
「そう、だ……私は……知っていたのかもしれない」
ぎりぎりとこめかみのあたりを押さえつけられながら、オデュッセウスは自らの心を辿った。
気付いていたのかも知れない。彼ではないということに。
初めから。
「そもそも……っ、君が出陣して来たこと自体を、不思議に思った」
言葉を尽くした説得にも折れず、アキレスはギリシアへ帰ると言った。諦めきれるものではなかったが、お互いに長い付き合いだ。これ以上はどういっても無駄だとわかったから、オデュッセウスはため息とともに、アキレスの参戦を諦めたのだ。
まるで、それを知っていたかのようなタイミングでトロイは襲いかかってきた。嵩にかかって攻め入るトロイ軍に、オデュッセウスは最悪の結果をも覚悟した。
その中を稲妻のように駆けていった兵士達。彼らのまとう鎧は黒いのに、アカイオスにとっては希望の光そのものだったろう。
「その時点で気付かなかったのか」
アキレスの声は怒りで低い。
あるいは、己が留めてきたパトロクロスの出陣を思い描いているのかも知れなかった。
「──砂を食む脚が、いつもほど……軽やかでないとは思った」
彼は早かった。おそらく平地なら従兄に負けぬほどに。
けれど、従兄の持つ力強さには、まだ及んではいなかった。
「──それで?」
「敵の剣をいなす盾が……いつもほど力強くないとも思った」
盾の表面を滑らすように相手の剣を避ける技は華麗だった。
けれど、その勢いで敵の刃をへし折りそうなアキレスのやり方とは少し違った。
「それで」
アキレスの追求は止まない。
押さえつけられた部分に血が上って、オデュッセウスの頭ががんがんと鳴った。
「突きだす剣の切っ先が、いつもほど鋭くないとも………っ」
もう一度強く頭を打ち付けられて、オデュッセウスは呻いた。
砂地でなければ今ごろ脳震盪を起こしているだろう。
「お前はわかっていたんだ、オデュッセウス! わかっていて何も言わなかった! ギリシアが勝つにはアキレスが必要だったから! 例え偽物でも!」
「違う……アキレス……」
「何が違う! そのお利口な頭で何を考えた!? ギリシアの勝利か!? お前の口車に乗らなかった裏切り者のことか!」
「……君だといい、と思ったんだ……」
恥じ入るような小さな声は、ギリシア一の知将と呼ばれる男の本音だったろう。
アキレスの手が緩んだ。
「君だといい、と思った。そう願ったばかりに、自分の中の疑問を見逃して、判断を誤った。──君の言う通りだ。誰が知者なものか。私はただの愚か者だ」
己の希望に目を奪われて、正しい判断を下す機会を逃した。
それが、一途な若者の命を奪い、アキレスから最愛の従弟を奪い、ヘクトルへ汚名を被せることになった。
疲れ切ったようなため息をついて、オデュッセウスは身体の力を抜いた。
ピティアでの二人を思い出す。
楽しげに木刀を打ち合わせていた従兄弟同士。
冗談半分ではあったが、パトロクロスを友餌にアキレスの参戦を促そうとしたら、先手を打ってぴしゃりとやられた。
トロイの海岸で見かけたパトロクロスは、「船の番を言い付かった」と不満そうにしていた。トロイの巫女姫の件でアキレスがアガメムノンと諍いを起こした翌日、彼はオデュッセウスのところへ来て、従兄は参戦しないと言っている、と困ったように告げに来た。多分そんなことだろうと思っていたから、驚きはしなかったが、すいません、と肩を落して謝る青年の真面目さが微笑ましかった。
──獅子に教育されたにしては、随分としつけのいい若者だった。
アキレスがオデュッセウスの上からゆっくりと退いた。
そのまま、どさりと地面に腰を下ろす。イタケの王はゆるゆると身体を起こした。
「──くそ……っ!」
やり場のない怒りを吐き捨てて、アキレスは自分の膝へと顔を伏せた。
「……責められるべきなのは、俺だ」
「アキレス」
「俺が、気づくべきだった。あいつはギリシアのために戦いたがっていたんだ。そんなことは、わかっていたはずなのに……」
オデュッセウスに、というよりも、自分自身に語るようにアキレスは言った。
「──いいや、俺が戦うべきだったんだ。あんたに言われたとおりに」
「アキレス、それは違う」
血の滲む傷口を自らかきむしるようなアキレスに、オデュッセウスはその空しさを知りながら言葉を継いだ。
「パトロクロスは立派に戦った。あのヘクトルと互角に。……彼の、最後の旅を見送ってやろう」
穏やかな低い声はどこまでも優しく、アキレスのささくれをそっとかばって包み込んだ。それは、アキレスがまだ少年だった頃から変わらない。
アキレスの方が強くなっても、大きくなっても、必要だと思われるとき、年上の男はその優しさを惜しんだりはしなかった。
のろのろと面を上げて、先ほど激情に任せて地面に叩きつけた顔を見る。
茶色の巻き毛も、秀麗な顔を半分隠してしまっている頬髭も砂にまみれていたが、翡翠の瞳には怒りも絶望も映ってはいなかった。
「……パトロクロスは、あんたに憧れていた」
「──君にだろう?」
「いいや、あんたに。俺のやり方では敵しか殺せない。でも、あんたは敵も味方も動かして、国ごと躍らせることができるだろう」
尊敬する従兄が唯一認めるギリシアの王、オデュッセウス。
パトロクロスは彼の逸話を何度でも聞きたがり、その度に、いつか自分も彼に会えるか、と従兄に訊ねた。
戦場で、と答えず、いつかイタケに連れて行ってやろう、と約束したのは、初陣もまだの従弟のためか、己の決して大きくはない国を誰よりも愛しているイタケの王のためだったのか。
こんな敵地の浜辺ではなく、豊穣とは言えないながらも、平和な西ギリシアの島ならば、オデュッセウスはもっと多くの笑顔を見せ、沢山の話をパトロクロスに聞かせてくれただろう。
──けれど、もう何もかもが遅かった。
「……オデュッセウス。パトロクロスの死を悼んでやってくれ。それがあいつへの手向けになる」
「ああ、もちろんだ、アキレス」
「それと……八つ当たりをしてすまなかった」
アキレスが本気で後悔している顔で、オデュッセウスに手を伸ばした。髪や頬についた砂を丁寧に払い落とす。オデュッセウスはされるがままにじっとしていた。
アキレスの唇がオデュッセウスの唇に触れる。合わせるだけの口付けは、想い人にではなく、まるで神への敬意を込めたようなそれだった。
いつもアキレスの口付けは深く激しい。不審が顔に出たのか、アキレスが少しだけ苦く笑った。
「──今は、やめておく」
何故、と理由は告げなかったが、オデュッセウスにはわかった。
まだ、パトロクロスの魂は冥府の川を渡っていないから。

アキレスの陣屋から出るとすぐに忠実な副官が寄ってきた。物問いたげな表情で見つめられて、オデュッセウスは安心させるように軽く手を上げた。
見たところ、怪我をしている風でもなく、そんなイタケ王の様子に、アキレスの怒りは幾分かは落ち着きを見せたのだと知れた。
例えそれが「治まった」と同義ではないにしても。
「……ありがとうございました」
礼を言われるとは思わなかったオデュッセウスは、一瞬目を見開き、それから微笑んだ。
「それは、アキレスのために?」
「はい。それと……パトロクロス様のために。──差し出がましいことですが」
淡い水色の瞳を伏せて、エウドロスが静かに言った。
戦場では部隊の信頼も厚く、アキレスに継ぐ武勇を誇るこのミュルミドン人は、武器を手放すとまるで印象が違ってしまい、物静かな文官にすら見える。
「まさか。有能な副官がいて、アキレスが羨ましい」
万事に控えめなエウドロスは、とんでもありません、と否定を口にした。
そのまま連れ立つ形になって、アキレスの友人と副官は海のほうへと歩みを進めた。
「他の皆は?」
「火葬場で作業を手伝っています」
「ああ……そうか」
今夜、アカイオスの全てを上げてパトロクロスの葬儀を行うことになっている。
命じたのはアガメムノンだ。オデュッセウスを通じて伝えられた厚意を、アキレスは黙って受け取った。
過去の諍いを水に流したのではなく、パトロクロスの為に、英雄と言うに相応しいだけの壮大な火葬台を作ってやりたかったのだろう。
「エウドロス。アキレスはきっと……」
「はい」
オデュッセウスの言いたいことをエウドロスは正確に察していた。
「……やっぱり、か」
パトロクロスを送った後、アキレスはきっと報復を果たしにただ一人、トロイの城へ向う。
そして、トロイ一の勇者とギリシア一の戦士は、お互いの誇りと生命をかけて闘うだろう。
潮風に髪を弄らせながら、イタケの王は遥か彼方、海の向こうのギリシアよりもまだ遠い所に目を向けた。
「……歴史が動く」
オデュッセウスが口の中で呟いた言葉は、エウドロスには届かなかったらしい。
何か、と訊ねる副官に、オデュッセウスは何でもないと首を振った。
動くのか、動かすのか、動かすのは 人間 ひと か神か。かの獅子ならば「神などいない」と即座に答えを返すだろう。
いずれそれが定めならば、闘わねばならず、闘う限りは勝利を望む。それが人だ。結論は後世の者が出せばいい。
確実に歴史の一端を担っている知者はそう結論付けると、天を仰いだ。
千年前も千年後も変わらずにあるだろう空は、ただどこまでも蒼く広がっていた。

END
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2004.0716


火葬の習慣のあるギリシアですが、英雄の場合は煙が沢山でるように、火葬台も大きかったんですって。
アキレスの葬儀なんて、15日も続いたんだそうです。……って、里中満智子の漫画にありました(笑)。

アキレスって、インテリ好きだと思う。
頭良くって、簡単に激高したりしないひと。自分と逆のタイプ(笑)。
アキレス本人も頭はいいと思うけど、でも短気でしょ。
気長に色々考えられる人、好きだと思うな。
だから、オデュッセウスやエウドロスやヘク兄、タイプだと思うんだな(笑)。
アガメムノンが嫌いなのは、自分と同じく上昇志向が強いからだと思う(方向性は違うけど)。
同族嫌悪。
もしも出会ってたら、パリスとも嫌いあったと思うなー(笑)。パリスは短慮、アキレスは短気なところがお互い鼻につく感じで。