空の下海の果て
何の前触れもなく。
ドブン、という水音とともに目の前の人影が消えた。
「!? オデュッセウス!」
慌てて海をのぞきこめば、暗い水面から金茶の巻き毛がぷかりと浮き出てきた。
「オデュッセウス!」
「冷たいぞ」
イタケの王はそう言って、何がおかしいのかくすくすと笑った。
「何やってるんだ、あんた!」
「アキレスも来い。気持ちいいぞ」
たった今自分で「冷たい」と言っておきながら、オデュッセウスは堂々と嘘をついた。
上質の あぶら がぬってある、とまことしやかに噂される軍師の舌は、ときに白を黒と言いくるめることすらしてのけるけれども、その裏側で、こんな子供じみたでたらめを口にする。
まったく、軍議の席での威厳はどうした、とアキレスはため息をつきたくなった。
海水が冷たいのなんかあたりまえだ。
春とは言ってもまだ名ばかりで、今夜はまたいっそう冷え込んでいる。だから、夜番の兵たちには身体を暖めるための葡萄酒がふるまわれた。それを横合いから奪っていたのはお前じゃないか。
一国の王でありながら、オデュッセウスは一般の兵にまぎれることをいとわない。陣屋にいないと思ったら、兵士達と火を囲んで共に酒を酌み交わしていたりする。
気さくな王は人気があったけれど、太陽のような笑顔や、無防備に開いた脚を簡単に人目にさらすオデュッセウスを、アキレスは苦々しく思っている。
だから今日も、一つの壺を回し飲みしているイタケの王をさらうようにして自分の天幕へと引き込んだ。
せっかく酒を飲んでいたのに、とかわいらしく唇をとがらせたりするものだから、アキレスは部下に命じて、一番気に入りの赤葡萄酒を持ってこさせた。
獅子にも比する英雄がご機嫌とりだ。
まこと「アフロディテの息子は盲目」と、言い伝わるもゆえあるかな──と賢者ならば言うだろう。弓を離れた彼の矢は、どこに当るか行き方知れず、当ったものは目がくらむ。
アキレスの好みで、酒精のきついそれにオデュッセウスは嬉々として唇をつけ、ずいぶんと早いペースで杯を空けていった。
薄紅色に染まった目元はいつになく防備がゆるく、何かあったな、とアキレスは思った。
またぞろやっかいな役目でも押しつけられたか、意に沿わぬ戦闘を強いられたか。
しかし、それを問いただすのはアキレスの役目ではなかった。やれと言われてもできはしないし、端から期待もされていない。
臣下には慕われ、かのミュケナイ王ですらその頭脳に信頼を寄せる英邁な王は、ゆえにこそ孤独だった。
獅子と呼ばれ、その力を慕われも恐れられもするアキレスが孤高であるのと同じように。
わかりあおうとは思わない。
わかって欲しいとも思わない。
ただ、側にいられればそれでよかった。
だから、言葉の代わりにアキレスは、酒をかき回してはオデュッセウスの杯を満たした。


そうして、すっかり出来上がったオデュッセウスが、散歩に行く、と無意味に誇らしげに宣言して歩きだしたのは、もう半時も前のことだ。
誘われたわけでもないアキレスが一緒に立ち上がったのは、イタケ王の足取りが極めて怪しかったからである。
そして、心配した通り、オデュッセウスはふらりふらりと覚束ない足運びで、自分がどこへ向かっているかもわからないままに歩き続けている。
やぶに突っ込みそうになったり、道を踏み外しそうになったりするたびに手を差し出しているのはアキレスで、アカイオス一の勇者ともあろうものが、まるで幼子をかまう乳母の風情だ。相手がオデュッセウスでなければ、間違いなく いばら の茂みに頭からつっこんでやるところである。
帰っておとなしく寝ろ、という、しごくまっとうなアキレスの意見は「いーやーだ」という一言のもとに、もう何度目かの却下を受けていた。
このまま寝台に放り込んで、毛皮ごと革ひもでぐるぐる巻きにしてやろうか、と半分本気で考えながらも、結局は果たせずにいる。
思いがけないところでアキレスが見せる忍耐強さや、愛情深さは、獅子と ちか しい者だけが知る特権だった。
そうして、こんなふうに子供めいたふるまいをするイタケ王を知る者はといえば、これはもうアキレスだけの特権だ。
それを、「信頼」や「親愛」と言った美しい言葉に変換してしまうのはすこし違うけれど、それでも他人の知らぬ顔かと思えば、独占欲を満たす理由としては悪くない。
オデュッセウスは脚にまかせてどんどんと陣から離れ、アキレスは呆れながらも後を追い、やがて二人は桟橋へと行き着いた。
舫ってあるのは、我が物顔で浜辺を埋めている軍船ではなく、もともとこの地に住む者の漁船だ。ゆらゆらと波に揺れる小舟は、50名もの戦士を乗せて海を行く船に遠慮してちいさく肩をすくめているように見えた。
銀の粒を散らしたような夜空は晴れ渡っている。
できれば明日中に決着をつけたいものだ、とアキレスは持久戦になりつつある戦の行く末に思いを馳せた。
オデュッセウスの姿が視界から消えたのは、その一瞬の間だった。


「オデュッセウス」
「ほら、おいで、アキレス」
額に貼り付いた巻毛をかき上げて、オデュッセウスが指を伸ばした。水を弾いて差し出された腕の白さが、目に痛い。
「断る」
「酔いざましにはいい温度だ」
「酔ってるのはあんただけだ、イタケ王。いいからあがってこい。風邪でもひいたらどうする」
あまりに自然に付け加えられた言葉に、言った本人の方が驚いた顔をした。
言われた方は、実は耳新しくもない獅子の優しげな言葉に、目を細めて笑った。
鋭い牙の向こう側に収まっていて見えにくいし、扱いにくいし、誰にでも与えられるわけではないけれども、アキレスの心根は優しい。──と、オデュッセウスは思っている。
まあ、反対意見も多かろうが。
ネストル殿とてご存知だ。だから、お前を操るときは諸王らでなく、兵士達を盾にとるだろう、獅子よ?
「とにかく、いいから出て来い」
ばつの悪さをごまかすようにそう言って、アキレスが腕を伸ばした。
手首をつかまれた、と思った次の瞬間、オデュッセウスの身体は宙に浮き、足の裏に固い感触が当った。
ただひと息で人間ひとりを──女子供ではない。戦士たるオデュッセウスを、だ──引き上げてしまったアキレスの膂力に、今さらながらに驚かずにはいられない。
「信じられない」
アキレスの肩に手を置いて、オデュッセウスはうつむくように笑った。
それ以上近づいてこないのは、水浸しの我が身を考えてのことだろう。
髪の先から雫がこぼれて、つるつると肌をすべりおちる。水を含んだ衣はぴたりとはりついて、身体の線を残さず暴いた。
やっぱり今日のオデュッセウスは防備がゆるい。
誘われるままに、アキレスは濡れた身体を抱きしめた。
「アキレス」
潮の味のする唇に口付ける。
何度も何度も、やわらかく血の色の透けるそこから、何の味もしなくなるまで。
深く合わせた唇を、オデュッセウスは拒まなかった。
長い指がアキレスの首を抱く。
やっと思いの通じ合った恋人同士のように、二人は接吻を繰り返した。


「──このまま、どこか行こうか」
オデュッセウスがそんなことを言いだしたのは、何度目の口付けの後だったろう。
「どこか?」
何を言われたかわからず、アキレスはおうむ返しに問うた。
透明な笑みを浮かべ、オデュッセウスの指先ははるか沖を指した。
「そう、どこか遠く。海が続くかぎり向こうへ。アキレスのこともオデュッセウスのことも、誰も知らないところへ」
まるで、何でもないことのように言うから、逆にアキレスは動揺した。
とおくへ。
テッサリアの英雄のことも、イタケの王のことも、誰も知らない国まで。
酔っ払いの戯れ言というには翡翠の瞳は真摯で、アキレスは、いきなり蜜を満たした大鉢にでも突き落とされた気分になった。
指の先まで甘さに浸されて身動きすらできない。
そして同時に、喉元に刃を突きつけられた気にもなった。
きっとこれは最初で最後の夜だ。
イタケという国はやっかいな雑草のようにオデュッセウスの中に根を張っていて、もはや分かち難いほどに絡み合っている。この先、何があったところで、この英邁な王が祖国を捨てると言いだすことはけっしてないだろう。
けれど今なら。
アキレスさえうなずけば、夜の海へと漕ぎだすことができるのかもしれない。
お互い以外に何も持たない世界は、どんなにか自由で気ままかと思う。
そうしてアキレスはふいに、自分たちは傷ついていたのだろうかと思った。


「オデュッセウス…俺は……」
アキレスは何かを言おうとして、でも何を言うべきなのか見当もつかず、ただオデュッセウスを抱き寄せた。
おとなしく腕におさまって、オデュッセウスは千載一遇の機会を逃した恋人を笑った。
「……馬鹿だなあ、君は」
余人なら知らず、獅子ならば、人ひとり連れ行くことなど簡単だろうに。
「俺は、お前に撰べと言ったことは、ない」
イタケか。
自分か。
そんな選択を迫ったことなど。
「君の手は大きいからね。欲しいものはぜんぶ、手の中だ」
アキレスを欲深だとは思わない。
ただ、ほんとうに大事なものは逃さないだけの強さを、それを守るだけの力を、獅子は天から与えられていた。
己の手に重ねられた白い手を、アキレスは握りこんだ。
きれいな手だ、とてらいなく思った。
オデュッセウスがそうしたいと言うのなら、この手を、指を、腕を、黄金と色とりどりの宝石で埋めてやることも難しくはない。
そうしないのは、そうしてくれと請われたことがないからだ。
ただ、それだけ。
「そうだ。俺は、欲しいものを奪い取るのにためらったりはしない」
だから、イタケの王。
「本当にそうしたい時は、いつでもあんたをかっさらっていく」
絡みつく根などぜんぶ切り捨てて。
それまでは、安心して縛られていればいい。
唇で指先に触れられて、くすぐったいとオデュッセウスは笑った。
ほんとうに、この獣は肝心なところでだけ、敏くて、優しい。時々、とまどってしまうほどに。
「私はうかつなことをしたのか?」
「そうだな。あんたは愚かな獲物だったってことだ」
一度でも、獅子の眼前に決定的な隙をさらしたことを悔いるがいい。

ひらりひらりと羽の代わりに言葉をあやつる獲物を前肢で捕らえて、黄金の獅子はぱくりとその耳に歯を立てた。


END
/Bean Worksトップへ
2004.12.9

タイトルを「惜しみなく愛は奪ふ」にしようかと思ったけどやめました。(←それで正解)