妬心 ネタムココロ  〜16歳〜 1.5 〈アキレス〉
アキレスは、口の中に溜まった血を無造作に吐きだした。
頬の内側がぴりぴりと痛んだが、身体に与えられる傷など、 精神 こころ に受ける傷に比べればいかほどでもなかった。
怒りで頭はたぎっているのに、胸の奥がひどく冷たい。
肩をいからせたまま、荒々しい動作で自陣を突っ切っていく英雄を、わずかに外に出ていた兵たちが、恐ろしげな目で見送った。
簡易な陣屋が並ぶ中、その中央辺りに、ひときわ巨大で豪奢な天幕があった。この連合軍を率いる──『と称する』、とアキレスはいつも思う──総指揮官の幕屋だ。
にぎにぎしくたいまつを灯したそれを、アキレスは燃えるような瞳でにらみつけた。
今すぐ剣をとって陣屋の中へ駆け込み、だらしなくくつろいでいるに違いないあるじの首に、切っ先を突き立ててやりたかった。
何もかもが腹立たしい。
意地汚く権力を欲する王も、その下でしっぽを振る他の王達も、彼らの力を利用しようとしている恋人のことも、すべて。
けれど、一番腹立たしいのは、それをどうすることもできない無力な自分だ。
自らの率いる精鋭以外にはどの軍にも属さず、どの王にも仕えず、けれど自由なようでいて、アキレスですらもさまざまなしがらみに縛られているのだ。
そうと気付いてしまうのは、気分のいいものではなかったけれども。


物問いたげなエウドロスの視線を振りきって、自分の陣屋の中へ転げ込んだ。
オデュッセウスを待つ間にも、手当たり次第にその辺りの物をひっくり返しては憂さを晴らしていたから、まるで嵐でも吹き荒れたかのごとく散らかっている。
寝台の上の物を落して、アキレスはそこへごろりと横になった。
けれど、とても眠りは訪れそうにはない。
打たれた頬よりも、頭の奥が熱を持つ。
ただの怒りではくくり切れない感情の切れ端が、ぜんぶそこに詰っている。
思いは当然のように恋人のことへと飛んだ。


今さら改めて言われなくとも、オデュッセウスが以前、アガメムノンの相手だったことくらい、アキレスとても知っている。わざわざ話題にしたことがないだけだ。
いくらアキレスが若く、付き合いが悪いとはいえ、まったく一人で戦をしているわけではないのだから、いくつもの戦いを経験すればそれなりに知り人もできるし、聞くともなしに風評の類も耳に入ってくることもある。
そうと知ったとき、怒りも嫉妬も感じなかったといえば、それはもちろん嘘だ。
それこそ、その場でアガメムノンの首を切り落としてやりたかった(とりあえず、卑しげにその話を言いふらしていた相手の顎は砕いておいた)。
けれど、それも十数年も前の話だと、アキレスなりに分別を見せて、腹を収めたのだ。
それを、うかうかと蒸し返す輩がいるものだから、しなくてもいい嫉妬をする羽目になり、挙句、しなくてもいい喧嘩をしてしまった。
「くそっ」
陣屋の壁に向かって投げつけたゴブレットは、はね返ったあと、銀の盆に当って派手な音を立てたが、あるじの不機嫌を知る部下たちは、誰一人顔を出さなかった。

そもそも、男性間における性的関係は、ギリシアにおいてはすこしも珍しい話ではない。
現にアキレス自身も、まだもっと幼かったころには、その手の誘いを何度も受けた。
ただ、アキレスはそういった関係を受け入れねばならないほど恩も義理もある相手はいなかったし、実を言えば、どうやらイタケの王子がその相手だと思われていたらしく──それはある意味間違ってはいなかったし、逆にはなはだしく間違いだとも言える──何度もしつこく言い寄る相手はいなかった。もっともそれはむしろ、秀麗な外見に似合わず短気で、すぐに剣を抜くアキレスに恐れをなしたせいかもしれないが。
オデュッセウスは、自分が幼いアキレスの念者だと思われていたことなど、今でも知るまい。かの王子は、他人のことなら良く見えたし、さまざまな情報も握っていたが、自分のことに関してはどうにも無頓着なところがあって、どこか一本ねじが抜けていた。
それは、今でも変わらない。
アキレスは、ただオデュッセウスが好きで、彼を欲しいと思っている。それは簡単で簡潔で、アキレスにとってはとても自然な欲求だ。
たったそれだけのことが、どうして小難しいやりとりになってしまうのか、アキレスにはさっぱりわからなかった。
彼が王として背負わなくてはいけないもののこともわかっているつもりだ。理解はしていないかもしれないが、でもわかっている。
どうあがいたところで自分は彼の愛する国には勝てないし、それがくやしいと思うこともあるけれども、それはそれだろう。
だからといって、アキレスの気持ちが変わるわけではない。
いったい、それ以外に必要で、それ以上に確かなことがあるだろうか?
オデュッセウスは人の心ほど当てにならないものがあるか、と言うけれども。
納得しないアキレスに、「目の前にいるのがその好例だ」とオデュッセウスは笑う。けれど、そういう彼とても、故郷とそこに住む人々への愛情はみじんも揺らぎはしないではないか。
「…………ダメだ」
どうしたって眠れるわけがない。
このまま朝を待つこともできない。
相変わらず言いたいことを的確に表す言葉は見つからなかったけれど、それでも、どうしても今夜中にオデュッセウスに会っておかねばならないと思った。
でないと、あの、精緻にできてはいるが、自分のことは忘れがちな知将の頭脳が、とっぴな結論を導きだしてしまう恐れがある。
そのことに思い当たったテッサリアの英雄は、それこそ本物の獅子のようにひらりと寝台から起き上がると、静かに天幕をくぐった。


闇は濃い。
夜は、密やかに野を行く獣の気配を覆い隠して、ただ静かに見守っていた。

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2005.02.22