| 奏 |
| 「マイ・ロード」 戦の穢れも落さぬうちに、別れたばかりのエウドロスが顔を出した。 水盆に手をひたしたところだったアキレスは、また何かやっかいごとか、と振り向きもせず、声だけで答えを返した。 「面倒事ならあとにしろ、と言え」 「いえ、オデュッセウス様が……」 「オデュッセウス?」 珍しいな、と顔を上げる。 戦が終わった直後のアキレスは、たいがい興奮で血をたぎらせているから、動作が粗暴になる。抑制も利かない。人血で沸いた身体は、人肌で冷ますのが一番手っ取り早くて簡単で、だから普段のイタケ王は、そんな状態の情人に好んで近づこうとはしないのだが。 もっとも、彼がほんとうに厭うているのは、乱暴者の獅子でも、行為そのものでもなく、同じく暴力に昂ぶった自身が、年下の恋人の激しい欲求に応じてしまうことだと、アキレスは知っていた。 知謀で知られた王は、自分が、理性の範疇を大幅に越える言動をとることに、どうしても慣れることができないらしい。 アキレスにしてみれば、情事の最中に理性を保っているほうがおかしいと思うのだが。 「アキレス」 副官の後ろから姿を現したオデュッセウスは、まだ戦装束も解いておらず、鎧はもちろん、その白い顔にまで返り血や泥がこびりついたままだった。 ずいぶんと急ぎの用件らしい。 「オデュッセウス? どうした、そんな格好で。何があった?」 敵方が何か仕掛けてきたのか、あるいはミュケナイ王から難題でも押しつけられたのか、とよくない予測ばかりがわいてきて、アキレスは眉間を寄せた。 戦闘の後ですら、人好きのする笑顔と、穏やかな声を絶やさずにいられる王は、足元を捕らわれた獣のように、焦りと懇願をもって英雄の腕を取った。 「君に頼みがあって来た。どうか聞いてはもらえまいか」 「『頼み』だと? 改まって一体何だ」 ますます不審をつのらせながらも、アキレスは、友人の王の話にとりあえず耳を貸すことにした。 狭い陣屋の中は、死の気配に満ちていた。嗅ぎ慣れた鉄錆の匂いが、むっとするほど強くこもっている。 寝かされているのは、まだ年若い兵だ。たぶん、15から16──おそらくはこの戦が初陣だったのだろう。 半面を覆う包帯も、そこからのぞく髪も、赤黒い色に染まって元の色などわからなくなっている。 「ヒッピアス」 静かに枕元に膝まづいて、オデュッセウスが兵士の名を呼んだ。 片方だけ残された瞳が、ゆるゆると開いてあるじの姿を認めた。 「オ……ウス…ま……」 「ああ、口をきくな」 何気もなく、普段どおりの微笑みを浮かべ、オデュッセウスは兵士の手を取った。 その指先は、ぞっとするほど冷たい。ヒッピアスの命は、確実についえようとしていた。 「私が、誰を伴ってきたか、わかるか?」 重傷者のために、灯りは最小限にとどめられ、ちいさな陣屋の中ですら、隅々まで光は届ききらない。けれども、そのあえかなろうそくの炎にも、獅子の髪は黄金色に煌いて見えた。 「ア……レスさま…」 「そうだ、アキレスだ。そなたのために、勇者アキレスが足を運んで来たのだぞ」 「なんと……もったいな…」 「ヒッピアス」 オデュッセウスの隣に膝をつき、アキレスはまっすぐに若者を見詰めた。 死に逝く者を見送るのは、強者の務めだ。 ならば、英雄アキレスほどその役目にふさわしい者もいなかった。そうして実際、この獅子は、年齢には見合わないほど多くの戦士を送ってきたのだ。 「惑うな。お前は敵に背を向けず、立派に戦った。己を誇るがいい」 低い声は、確かな自信に満ちていた。タナトス神ですら、この若者を怯えさせることはできない。 アカイオス一の勇者が恐れるのは、誇りを忘れ、己が名を貶めるような戦いをすることだけだ。そうして、将がそうあることで、兵もまた、死への道行きを畏れずに敵に立ち向かうことができた。 けれども、ヒッピアスはまだあまりに若い。 かすかにうなずきを返しながらも、襲い来る冥府の影に、怯えた声をあげた。 「ああ、でも怖い…!」 オデュッセウスの手に包まれたヒッピアスの指に力がこもる。すがろうとする兵の手を、なだめるようにオデュッセウスが握り返した。 「──恐れるな、ヒッピアス。アキレスの竪琴がそなたを導くだろう」 迷いなく逝け、と言うのは酷薄ゆえではなく。 定命の人の身ならば、王であれ、臣下であれ、将であれ、兵であれ、いずれ死は逃れられぬさだめであり、ならばこそ、せめて安らかに、と願うくらいしかできない。 自身の哀しみは深く隠して、オデュッセウスは水盆を引き寄せると、びっしりと脂汗の浮いた額を、いつくしむように拭ってやった。 時ならぬ琴の音に、アカイア軍の将兵たちは、戦の後始末をする手を止め、耳を傾けた。 彼らの多くは、奏者を知れば驚きの声をあげただろう。 アキレスが竪琴をたしなむことを、またその技量が確かなものであることを知る者は少ない。おそらく、アキレス自身の館に仕える者たちと、イタケの王宮で、あるじの側近く働く者くらいだ。 アキレスは戦には出てきても、親しく周りと交わるほうではなかったし、問われもせぬことを吹聴して歩くこともしない。そして、周りはと言えば、獅子よ英雄よと崇めることはしても、戦士ではないアキレスを必要とするものは少なかったからだ。 けれど今、死の床につく少年のために奏でられる旋律は、なめらかに響き、広がって、天幕を通り抜け、未だ殺伐とした空気を残す自陣の中へと溶けていった。 身体を震わせるほどの豊かな音量と、明確な輪郭を描く 「……ああ、この曲を知って……王の、ために奏で……した……」 もう、光も映さないであろう、うすい茶色の瞳から、つう、と涙が落ちた。 「──イ…ケの空が……海が見え、ます」 岩場の多い、これといって何もないちいさな国だ。 けれど、オデュッセウスにとってそうであるように、そこは、ヒッピアスにとっても大切な生まれ故郷だった。 その場所で、アキレスの竪琴を漏れ聞いた。 午睡の時間に、夜の 「……ぁ………」 ため息のような、深い息がもれた。 琴の音がやんだ。 「──アキレス、礼を言う」 兵士の手をそっと外して、オデュッセウスはアキレスを振り返った。 「この者の魂は、今、故郷へと還った」 ヒッピアスの亡骸を、他の兵たちと共に火葬に伏してのち、アキレスを伴って、オデュッセウスは自分の天幕へと帰った。 厳密に言うなら、アキレスの方が、オデュッセウスを追って来たのだけれど。 重ねて礼を言いながら、イタケの王は疲れた顔で、客人に葡萄酒の入った器を差し出した。 「──あれは誰だ?」 ずっと疑問だったことをアキレスは問うた。 彼はどうみても一介の、それも戦功はなはだしい豪勇とは思えぬ若年兵にすぎなかった。 いくらイタケが小国と言えど、王がすべての兵の最期を看取り、自らオボロス銅貨を置いてやることはしないだろう。 ましてや、アキレスのもとを訪れ、琴の音を望むことなど。 事実、そんな頼まれごとなど、一度もされたことがなかった。 「彼は……テレマコスの兄だ」 「何?」 口元に運びかけたゴブレットを止め、アキレスはイタケの王を見返した。 彼は一国の王の割に身辺はかなり清潔で、妻と、その間に生まれた息子を溺愛している。 それ以外に子どもがいるというような話は聞いたことがなかった。 「……隠し子がいたとは知らなかったぞ」 「私の子じゃない」 「だって、テレマコスの兄だろう。ならあんたの子じゃないのか」 「彼の母親が、テレマコスの乳母だ」 ああ、とアキレスはうなずいた。そういう意味なのか。 「乳兄弟のようなものか」 ほんとうの乳兄弟になるはずはない。 あまりにも身分が違いすぎる。 「気のいい、働き者だ。私は、彼に初陣はまだ早いと止めたのだが……本人が望むなら、と彼女はむしろ笑って送り出した」 「────」 よくある話だ。 けれど、だからと言って、子を失った母の悲しみが癒えるわけでもない。 千人の兵士の犠牲を嘆いても、千と一人目に自分の愛する相手がなってもいい、と思う人間はいないだろう。 オデュッセウスは、何かを思いついた瞳をして、アキレスを見た。 「そうだ、君にわざわざ来てもらった理由を話してなかったね」 彼はね、とすこしだけ微笑んで言った。 「彼は、アキレスの信奉者だったよ。──君の武勇でなく、君の弾く琴の音を愛していた」 珍しいだろう、と言われ、なんと答えを返したものか、考えてしまう。 確かに、いまだかつて、そんなことを言われたことはなかったけれども。 「耳のいい子でね。声も美しかった。兵士なんかじゃなく、 「──本人の望んだことだ。あんたが自分を責める必要はないだろう」 ぱふりと頭に手を置いてしまったのは、この軍師があまりにちいさく肩を丸めているからだ。 20年も昔には、まるきり立場が逆で、そのたびに「子ども扱いするな」といきり立ったものだった。 オデュッセウスもそれを思い出したのだろう。「子ども扱いする気かい?」と、心もとないながらも、笑顔を見せた。 「寝てしまえ。明日、寝不足の頭で戦に行くわけにはいかないだろう」 「そう……そうだね」 誰を失ったところで、戦は続く。そうして、この戦いが終われば、オデュッセウスはヒッピアスや、その他の兵たちの訃報を持って、彼らの家族や恋人のもとへと帰らねばならない。 もっとも、それはアキレスとても同じことで、だからこそ、憐憫の言葉も、哀惜の念も、分け合うことはできなかった。 戦場は、獅子が生きるには必要な場所だからだ。 いっそ、すがすがしいほどに自分たちの立っている位置は重ならないのだと、こんなとき二人はいつも思う。 そのくせ、不思議なほどに心の在る場所は遠くないのだ。 半ば抱きかかえられるようにして寝台に押し込まれ、ますます子どものようだとオデュッセウスはおかしそうな顔をした。 「君は寝ないのか」 「──あんたが寝たら、帰るよ」 だから早く寝ろ。 いつもは押しとどめても、決して耳を貸さずに褥にもぐりこんでくる獅子が、そう言って枕元に座を占めた。 灯りを消してしまえば、不寝番の灯す松明の光が、入り口からかすかに忍び込んでくるだけになる。 闇の中で、アキレスが身じろぐ気配と、かたりとちいさな音がした。 ぴん、と弾かれたのは、彼の竪琴だった。 空気を揺らすほどの静かな音が、柔らかな旋律をつむいでゆく。 慈悲深い アキレスは今まで一度も、神など信じたことはない。 けれども今夜は、平穏な眠りと夢を与えてくれるように、と、イタケの王のために、そう願った。 |
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| 2005.03.13 「竪琴を弾くアキ」をいつか書いてみたいとずっと思ってて。(それだけ!?) |