SINCE
「ビーン・ボーイ!」
明るい声がショーンを呼ぶ。
声をかけたのはもちろん、『愛多きパリス』ことオーランドだ。
呼ばれた方は、今、サッカー雑誌に夢中で、顔もあげなかったが、オーランドはそんなことは針の先ほども気にかけなかった。
さくさくと砂地を駆けて来る。あと五歩も走ればショーンの背中にとびついて形のいいあごを相手の肩の上にちょこんと乗せるのだろう。
そうして、べらべらと話しかけてショーンの邪魔をして、しまいに剣突をくらわされるのだ。
普段のショーンなら穏やかにオーリの相手をしてくれるだろうが、サッカー絡みで何かをしているショーンはダメだ。それ以外のことには何一つ神経を使おうとはしない。
それくらいのことは、今回初共演の面々にも、スタッフにもわかりきったことなのに、オーリはこりない。というか、全く気にしていない。
彼らは共演者というよりは、本物の家族のように仲が良く、遠慮がなく、親しかった。それは以前に二人がいた現場の雰囲気をそのままに残しているらしかった。
また始まった、と言う顔で何人もの俳優やスタッフが笑顔を浮かべてオーランドを見ている。もう、彼らには見慣れた光景だった。
その、ゆるく溶いたコーンスターチのような空気を、ふいに主演俳優が横切った。片方の人さし指で自分の唇を、もう片方の手でオーランドの身体を押える。その表情にはひどく悪戯っぽい笑みが浮かんでいた。
何、と目で訊ねるオーリと身体を入れ替えるようにして、そっとショーンの後ろに歩み寄る。
完全に雑誌に熱中しているショーンは、周りの空気が変わったことになど全然気付いていなかった。
ブラッドはそのまま、オーリがいつもやるように彼の身体に腕を回し、丸い左肩にあごを乗せた。
ショーンは気付かない。ブラッドの澄ました顔に、スタッフの何人かが笑いをこらえるように口を押える。
オーランドは、ブラッドのさらに後ろにそっと近寄った。
「ねえ、ビーン・ボーイ」
「んー」
「こっち見てよ」
「んー」
生返事の見本のように適当な返事を返して、ショーンは文字を追っている。ブラッドが両腕に力をこめて、きゅう、と抱きしめた。
「オーリ、苦しい」
文句を言いながら、でもやっぱりまだ目は雑誌に落したままだ。ブラッドの腕をぺしぺしと叩くまねまでしておきながら、その腕の太さの違いにまったく気付かないのだから、その集中の度合いがしれようと言うものだ。
その耳の後ろ、青い血管がのぞく日に焼けていない薄い皮膚に、ブラッドはふう、と息を吹きかけた。アキレス役が決定してから禁煙してトレーニングをつんでいるブラッドだから、香りでバレることもなく。
ショーンはただうざったそうに軽く首を振った。
でもその前に、ショーンの身体がびくりとすくんだのが、ぴったりとくっついた身体越しに伝わってきた。この英国人俳優は、ずいぶんと敏感な性質らしい。
「ねえ、ショーンったら。あんたに知って欲しいことがあるんだよ」
オーリが面白がって言葉を継ぐと、「ああ、何だい」と口だけは話を聞こうとする人のように言った。
でも、頭は空っぽに違いない。
スクリプトもこの調子で読んでいるのなら、台詞が入るのも早いことだろう。
耐えきれなくてくすくすと笑っているスタッフもいるというのに、そんな声はまったく届いていないのだ。
ショーンが気付かないから、悪戯はどんどんエスカレートする。
あーん、とわざと大きく口を開けて、ブラッドは、他の部分より体温の低い耳たぶにぱくりと噛みついた。
「オーリ」
やめなさい、と犬を叱るような言い方でぴしゃりと言って、それでもまだ雑誌から目を離さないところは、いっそ敬服に値する。
唇で軟骨の部分を甘噛みし、なお振り向こうとしないショーンに、やわらかな耳たぶをぺろりと舌で舐めてやった。
「ひぁっ!!」
さすがに驚いたらしく、ショーンは雑誌を取り落とすと、すごい勢いで振り向いた。
「オーリ!」
「何、ショーン」
こらえきれない笑いを含んだ声は、予想したよりずっと右の方から聞こえてきて。
ショーンは、目を丸くしてオーランドを見、さらにブリキのロボットのような動きできりきりと首を回して、そこで初めて自分を抱きかかえていたのが誰だかを知った。
「ブラ……っ……!?」
「ハイ、ショーン」
カメラ用の笑顔で、ブラッドがにっこりと笑う。
「あんたの耳はとってもやわらかいな」
「!!」
「あ、おい!」
パニックに陥ったショーンは力任せにブラッドを押しのけ、その勢いで自分の方が椅子から転げ落ちてしまった。
あんなに夢中だった雑誌の上に座り込むようにして、呆然とブラッドを見上げる。
一部始終を目撃していたキャストたちが、とうとう一斉に吹き出した。
ショーンてば、とオーリが腹を抱えて笑い転げている。
「大丈夫か? そんなに驚くとは思わなかったよ」
自分も笑いながら、ブラッドはショーンに手を差し出した。
「い……いつから……」
「初めっからさ。あんた、本当にサッカーのことになると無我夢中なんだな」
ほら、と鼻先に手を近づける。ショーンはその先に毒グモでも乗っているかのように上半身をのけぞらせた。
「ショーン?」
「あ……ああ、いや、悪い。その……大丈夫だから」
おろおろしながら、ショーンは自分で立ち上がった。
衣服の汚れをはたく指先が、ふ、と左の耳に触れる。
ついさっき、ブラッドが舌で触れたそこを、長い指が覆い隠してしまった。
それは、ひどく心を騒がせる仕種で、ブラッドはうっかりと魅入られるようにショーンの指先を見つめた。
ショーンの手の形がとてもきれいなのは知っていた。今、その肌の白さが際立って見えるのは、頬がうっすらと紅くなっているからだ。
ブラッドはショーンを見つめたまま、サッカー雑誌を拾い上げた。
「ああ……どうもありがとう」
ショーンは、ひどく恥ずかしそうに笑ってそれを受け取った。
「ショーン、もう少し周りを見ないとダメだよ」
「うるさいぞ」
してやったり、と笑っているオーランドに振り返ったショーンは、もういつもの顔だった。丸めた雑誌でぽかりと悪戯小僧の頭を叩く。
大げさに痛がりながら、オーリは「俺じゃないよ、言いだしたのはブラッドなんだから!」と冤罪を訴えた。
本当かい? と翡翠の瞳が訊ねてきたので、ブラッドは両肩をすくめて罪を認めた。
「ほらね、ほらね!」
「調子を合わせてたんだから同罪だ」
もう一度遠慮なく頭をはたく。
やっぱり二人は家族のようだった。
だから、ショーンはあんなにも無防備だったのだ。

お互いの肩を抱くようにしてじゃれあう二人を見ながら、ブラッドは、ショーンの形のいい指や、やわらかな耳や、照れきった笑顔や、吐息一つで固くなる身体を思い出した。

そうすると不意に、あの、薄紅色に染まった頬の理由を知りたくなった。
あれは、ショーンの耳に触れたのが「オーランドでなかったから」か「ブラッドだったから」なのかを。

きっと、前者なら落胆すると思った。
多分、後者なら狼狽すると思った。
それが何故なのかまでは、考えてみなかった。

ほんのちいさな、ありふれた、何でもない出来事が、すべての始まりだったと気付いたのは──ずいぶんと後になってからのことだった。



END
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2004.11.05