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「……ショ……ショーン……?」
コーヒーを淹れて戻ってきてみると、デイヴィッドの恋人は携帯電話を握り締めたまま、哀れなほどに肩を落としていた。
どうしたのか、などと聞くまでもない。
さっきまでショーンは、敬愛する──というか、むしろ溺愛している地元サッカーチームの試合中継を、携帯電話ごしに夢中になって聞いていた。たしかデイヴィッドがコーヒーを淹れようと席を立ったのが、後半残り5分、というところで、そのときまでは一点リードしていたはずなのだ。
それがこのありさまということは。
(5分の間に2点とられたのかあ……)
ショーンは石像のように固まっている。
ただその目元だけが、衝撃のあまりか、潤んで見えた。
カップ二つを両手に持って、さて、何て声をかけようか、とデイヴィッドは眉を寄せた。
ヨークシャー人の経済観念はしっかりしている、というのが世間での一般認識で、実際ショーンも、浪費癖とはあまり縁はないのだけれども、ことサッカーに関しては、理性の紐も財布の紐も、ちっとも締めてはおけないようだった。時差も通話料金もまったく関係なしに、遠く離れた母国の試合を中継してもらうこともしばしばだ。
もし仮に、目の前に悪魔が現れて「お前の応援するチームを、プレミアシップで優勝させてやろう。だが、その翌日には全人類は滅亡する」という取引を持ちかけたら、ショーンはためらいなく「イエス」と答えてしまうのではないか、とデイヴィッドは、こっそり思っている。
いったん試合を聞き始めたら最後、終了のホイッスルが鳴るまでは、ショーンは隣に恋人がいることなど、ほぼ完全に忘れてしまう。
ゆえに、シェフ・Uは、デイヴィッドにとってはいわば仇敵なのだが、それでも彼は、チームの勝利をいつも祈っていた。
それは恋人を思いやっての、優しい気持ちからというだけのことではなく(もっとも、その点に関しても皆無ではない、とデイヴィッドは自分の名誉のために主張しておきたかった)、チームの勝敗がその後のショーンの精神状態に如実に反映されるからだ。
がっかりしてふてくされているショーンも可愛いといえば可愛いのだけれど、やっぱり機嫌よく笑ってくれているほうが、デイヴィッドだって嬉しい。
勝ったにせよ、負けたにせよ、ベッドに入ってキスで唇をふさぐまでは、その日の試合のことばかりを話し続けているのだとしても、だ。
たぶん自分はそのうち、シェフィールドの主な選手の名前を覚えてしまうだろう、とデイヴィッドは思う。
しかも、それは、そう遠くはない未来の話だ。
とりあえず、カップをテーブルに置く。
ショーンは動かない。
そっと隣に座って、ちいさく丸まった肩を抱いた。
「……残念でしたね」
精一杯同情を浮かべて、悄然とした顔の恋人をのぞきこんだ。
デイヴィッドの声が聞こえているのかいないのか、ショーンはまっすぐ前を向いたままだ。
長いまつげにひっかかっていた涙が、ころりと頬を流れて落ちた。
勝ったと思った試合だけに、よっぽどショックだったのだろう。
いい大人が、たかがフットボールで、などと言ってはいけない。
国際試合でイングランドチームが負けでもした日には、落ち込むあまり、仕事を休むひとがいるという国だ。
なんとニュースでキャスターが「ちゃんと会社へは行きましょう」とコメントするらしい。
初めて聞いたときにはエイプリルフールかと思ったが、正真正銘の事実だというから、豪快な話だ。
ぽんぽん、と肩をたたいたら、ぐい、と押されてちょっとのけぞった。
触るな、ということらしい。
八つ当たりかな、不機嫌の根はずいぶん深そうだ、とデイヴィッドが懐柔策を考えようとしたとき。
ショーンがぽつりと何かを言った。
「え?」
「……たから……」
「──? ショーン、すいません、聞き取れなくて……何です?」
「私がキスなんかしてたから……」
「──はい?」
キスって誰とです、と問いただそうとして、ここには自分たちしかいないことに気づいた。
ということは、自分とだ。
でもショーンはこの90分ばかりはずっとサッカーに夢中で、キスする隙なんて──と思ったところで思い出した。
シェフ・Uがゴール前の混戦を制して(だと思う。何せ、デイヴィッドは、中継を聞いているショーンを通してしか状況を知ることができないので、正確なところは不明だ)見事に得点したときに、バンバンと肩をたたかれ、満開の笑顔のショーンに、ちゅ、とソーダが弾けるようなキスをされた。
たぶん、その一瞬だけ、隣にいたのが恋人だということを思いだしたのだろう。
──で、ありますように。
ひょっとして、いつも、あんなふうに、スタジアムやパブで隣り合った相手にキスしてまわってるんじゃないんでしょうね、と詰問したいところだったのだけれど、ショーンはまたすぐにイギリス時間の中へ帰ってしまったので、口を挟む暇もなかった。
「あんなこと、するんじゃなかった」
しょんぼり、と背景に書いてありそうな落ち込み方のショーンは、今、シェフ・Uの選手よりも監督よりも、今日の敗戦について責任を感じているのに違いなかった。
(……うーん、そうきたか)
いわく、試合の間に、自分がちょっと席を外したから。
いわく、今日撮り終えるべきシーンを終えられなかったから。
いわく、ウッドタッチを忘れていたから。
それ、絶対1%も関係ないですよ、というような理由を列挙して、ショーンは自分に責任を押しつけようとするくせがある(これも、ブリティッシュにはさして珍しくない習性らしいが)。
もちろんそれは、チームを愛するがゆえなのだけれど、それにしたって、とデイヴィッドはいつも笑ってしまう。
しかし、その原因が自分とのキスだなんて──しかも「あんなこと」扱いだ──決められてしまうのは、困った話だ。
さて、どうしたものか、としばし考え、デイヴィッドは真正面からショーンの目を見た。
目元にたまった涙を指先でぬぐってから、せいぜい真面目な顔をする。
「それは逆ですよ、ショーン」
「……逆?」
「一度しかキスしなかったから、勝てなかったんですよ」
勝てなかった、と言われ、現実を思い出したのか、ショーンは切なそうに眉を寄せた。
大切な恋人にこんな顔をさせて、と、デイヴィッドにしてみれば、ひとくさりチーム批判をしてやりたいところだけれど、それをすると、当の恋人に嫌われてしまう可能性があるので、これに関しては口をつぐんでおいた方が賢明だ。
代わりに、ショーンの頬を両手で包み込んで、固く結ばれた唇に、柔らかくキスを落とした。
「今度は二度、してみましょう? きっと勝てますよ」
「そう……かな……?」
「もちろん」
「本当に?」
「ええ」
自明のことだと言わんばかりに、うなずくデイヴィッドに、ショーンは「そうなのかなあ」と小首を傾げて考え始めた。
どうせ、もともとジンクスとも呼べない、ささやかな縁起かつぎなのだから、根拠など何もない。だったら、さも確信あり気に言い切ったほうの勝ちである。
鼻先の触れそうな距離で、にっこりと微笑う恋人の自信に気おされて、ショーンはうろうろと視線を泳がせた後、「……じゃあ、次はそうしてみる」と子どものようにうなずいた。


そうして、その後。
儀式のように二度、キスをした後で観た(というか、聴いた)試合では、ほんとうにシェフ・Uが勝利したものだから、ショーンは大喜びで、まるでデイヴィッドのおかげだと言わんばかりに何度も何度も抱きついて、感謝を述べた。
「俺は何もしてませんよ」と謙虚さを見せながら、デイヴィッドは「このチャームはもって後二、三回だろうな」と冷静に考えていた。
ショーンには申し訳ないけれど、公平に見て、あのチームはとても強豪とは言えないようだから。
(次に負けたときは、さて、何て言ってショーンをごまか──じゃなくて、慰めよう?)
恋人の背中を抱きしめながら、デイヴィッドは、それこそ、そう遠くはないであろう、来るべき未来に思いをはせた。



END
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2005.05.01

イングランドチームが負けると、落ち込んで会社を休むひとがいる、ってほんとだそうです。
マジでか!
イギリス人って……、とカルチャーショックを受けたので書いてみました。