芦原太一は新進気鋭の若手ボクサーだったが、不慮の交通事故のために下半身麻痺となり、車椅子での生活を強いられることになってしまった。
ボクシングの夢を奪われて、生きる希望をなくした太一。 恋人と別れ、友人達も遠ざけて、これといった定職につくこともないまま、荒んだ毎日を送っていた。
とは言っても人生はドン底ばかりではない。
ふとしたキッカケでテキ屋のおじさんと出会ったり、その紹介でテキ屋を始めたり、神社で巫女のバイトもやっているという女ギャンブラー・サマ子ともちょっと仲良くなってみたり。
やがてテキ屋も板に付いてきた。
太一の心にはまだ格闘技への想いがあった。
車椅子の太一を入門させてくれるジムや道場は無かったが、そんなある日、座ったままや寝転がったままですら人を投げ伏せてしまう合気柔術との出会いが、太一に新しい希望に与えるのだった。
最初に結論。 面白いから観なさい。
今年最後に観た映画がこれだった。 たまたま帰省の列車待ち時間に、格闘技の映画らしいということしか知らずに観た。 意外に(と書いたら失礼だが)アタリ。
正直に難を言えば、大東流合気柔術の宣伝という臭いが多少鼻につかないでもない。 こんな感じだ。
私は21歳のとき交通事故に遭い半身不随になりました。 それからというもの恋人とは別れ仕事も無く家族からは厄介物扱いされる暗い毎日でした。 そんな私の人生を変えてくれたのが合気柔術です。 合気柔術のおかげで生活が健康になり仕事もうまくいくようになり自分に自信がつきました。 今では新しい彼女もできて人生ウハウハです。
しかしもちろん、この映画が本当に描こうとしているのはそういうことじゃないと思う。
この映画で描かれているのは、若者の挫折、葛藤、自立だ。
人間が自立するためには、まず自分に自信を持っていなければならない。 それには3つの側面があると思う。
1) 自分が何をすべきか知っている。
2) 自分が何をできるか知っている。
3) 実際にできる・やる。
映画の冒頭では、太一の自信を支えるものはボクシングだった。 つまり、太一はボクサーであり、ボクサーとしての能力があり、実際にボクシングをやっていた。
それが太一の自信の拠り所だったから、太一は一人の人間としての自立していた、あるいは自立しようとしていた。
そして交通事故で挫折し葛藤する。 「何をすりゃいいんだ」という問いに対する答えが得られなくて苛立ち、何もできないと思い込み、そして実際に(パチンコと飲酒を除けば)何もしない。
文字通り自分の脚で立てなくなったばかりか、精神的な自立をも失ってしまう。
しかし、テキ屋で露店をやったり合気柔術を学んだりするうちに、再び自立への道を歩みはじめる。 新しい状況に置かれた自分がすべきことを知り、何をできるかを知り、それを実際にやるからだ。
前半では、ボクシングを失った太一の陰鬱な屈折ぶりをしっかり描いている。 しばらくそれが続いて、なかなか合気柔術が出てこないので、ちょっとくどく感じないこともない。 しかしそれだけに、失意のドン底から太一が立ち直っていく後半の展開には爽快感がある。
人物描写にも、前半から後半へ入るに従って変化が見える。 前半の登場人物はそれぞれに悩みを抱えている。 それに対して、後半に登場する合気柔術の先生、サワ子、テキ屋のおじさんなどは、はっきりと自立した人間として描かれている。 また、前半の登場人物もそれぞれに自立していく過程が描かれる。 それによって映画全体の雰囲気も明るくなっていく訳だが、それだけではなく、こうした登場人物の配置によって、主人公・太一のあるべき姿が観客に自然な形で提示されているのだと思う。
格闘技映画……とは言いながら、障害者が主人公ということもあって、話の展開は比較的地味。
別にこれと言ったライバルが登場する訳ではないし、好きな女の子を窮地から救い出すとかいったドラマチックな展開も無い。 全国大会に出て優勝するなどというハリウッド的な派手さとも無縁だ。
とは言っても、元ボクサーという設定も生かした格闘場面はそれなりに面白かった。
という訳で、あくまで「日本の青春映画」という作り。
そうであれば、ラストにあるのが単純なウハウハではなく旅立ちなのも納得できるなぁ。
主役の加藤晴彦は、挫折から立ち直る車椅子の元ボクサーを好演。 体格はちょっと「らしくない」が。
彼の支えになるイカサマ師のサマ子を生き生きと演じたともさかりえも良かった。
石橋凌に対しては「裏社会の男」的な役者というイメージがあったんだが、「マジメなだけが取り柄のサラリーマン」が意外に合ってて妙に感心した。
脇役・端役が無駄に豪華になってるのも楽しめる。
ということでもう一度結論を。 面白いから観なさいって。
2002-12-31