愛の言葉@

 

「――うん、そう。・・・そうだよ」

開け放した窓から潮風が入り込んでくる日曜の午後。
先日、入梅宣言をして以来雨の降っていないこの地区は、暑くも無く寒くも無くいたって過ごしやすい天気だった。
僕は朝からリビングに陣取ってパソコンと格闘していた。
何故自室でやらないのかというと、ひとり部屋に篭っているのも飽きてきてしまったのだ。
だから、ひとけのあるリビングで色んな輩からの妨害を受けつつ――それも楽しんで――ここにいるというわけだった。
リビングから続く前庭に出ているウッドデッキでは、携帯電話を片手にジェットが先刻から電話中である。
おそらく、誰かに聞かれないようにデッキに出たのだろうが、生憎、風とともに彼の声は全てこちらに流れ込んできていた。

「ば、違うよ、・・・ベイビー、いい子だから」

どうやら相手は恋人らしい。いつになく声音も真剣であり、ふだんの彼とは大違いだった。
――否、ちょっと違うな。
彼は普段から常に熱くて真剣な野郎なのだ。そこにあの二人と言う要素が加わると途端に悪ふざけのちょっかいを仕出すというだけで。

「・・・ああ、そうだよ。そう――スイートハート、わかってるじゃないか。あたりまえだよ」

愛してるよ――と低い声とチュっというキスの音がして、数秒後にはジェットが姿を現した。

「電話じゃなくて会えばいいのに」

僕が言うのに顔をしかめる。

「何だ、聞いてたのか」
「聞こえたんだよ。全部」
「・・・あ、そ」

微かに頬を赤らめ、携帯電話を胸ポケットに無造作に突っ込むと大股にリビングを突っ切って行ってしまう。
普段、彼はジョーをからかってばかりいるけれど、僕から見れば、ジェットもじゅうぶんからかいがいがありそうなんだよな。
でも、実はそんな悠長なことを言っている場合ではなく、ジェットもジョーも、フランソワーズも、例の写真週刊誌の誤報で大変な目に遭っていた。
おそらく、今の電話も誤解した彼女をなだめていたというところなのだろう。

僕はエンターキーを押すと、椅子の背にもたれて大きく伸びをした。
一区切りついたのでコーヒーでも淹れようかと思いながら。

すると、フランソワーズが眉間にシワを寄せて何か深刻そうに考えながらやって来た。
何だか嫌な予感がする。
彼女が僕に気付く前にと、僕は席を立ってパソコンを閉じ抱えて部屋を出ようとしたのだが――

「ねえ、ピュンマ。ちょっと聞いてちょうだい」

――遅かった。

「え、あ、――うん。何かな」

僕の抱えているパソコンを見つめ、フランソワーズが心配そうな瞳をこちらに向ける。

「――オシゴト中?」
「えっ、いや・・・もう終わったよ」
「本当?」
「ああ」

・・・仕方ないじゃないか。すがるような蒼い瞳に勝てるヤツがいるなら教えて欲しい。
例え、どんなクダラナイ事だろうと、ヤッカイなメンドクサイ事だろうと、「忙しいから」なんて言って断る事などできやしないのだ。

「いったいどうしたんだい?」

僕は諦めて、再び椅子に座りなおした。抱えていたパソコンをテーブルに置く。
フランソワーズは僕の対面に座ると顔を上げた。

「ね。どうしたらジョーも言ってくれるかしら?」
「・・・何を?」

話が見えない。いつものことだけど。

「愛の言葉よ」
「・・・愛の言葉ぁ?」

なんだなんだ、いったい何が起こってるんだ。

「それは・・・僕にじゃなくてジョーに直接聞いてみればいいんじゃないかな?」
「だって。私が言っても言ってくれないもの」

知るか。

「フランソワーズが言っても駄目なら、僕が言ったところでどうしようもないよ」

話は終わりだという風に立ち上がる。がしかし、これで引き下がるお嬢さんではないのだ。

「・・・意地悪」

フランソワーズは頬を膨らませるとじっとりと僕を見つめた。
――出たぞ。必殺の「拗ねモード」。頼むから、ジョーだけに限定して欲しい、このワザは。

「意地悪って・・・だってさ。実際、そんなの僕が何て言って彼に言わせるっていうんだい?それに。僕が言ったからジョーが言っても、嬉しくないだろう、そんなの」
「・・・そうだけど。でも」

フランソワーズはテーブルの上に置いた指先で小さく丸を描く。

「・・・さっき、ジェットがここにいたでしょう」
「ああ」

正確には、「ここ」ではなくて「デッキ」だが。

「・・・聞こえちゃったの。声」

――まぁ、聞こえるだろうな。
フランソワーズの部屋はほぼ真上だし、窓を開けていたら嫌でも耳に響くだろう。

「そうしたらね、ジェットが――彼女にたくさん、言っていたから」
「・・・そうだっけ?」
「・・・ベイビーとか、スイートハートとか、・・・愛してる、って」
「――まあ、確かに」

言っていたけど、それをジョーに求めるのは酷じゃないだろうか。そう思ったので続けて言ってみる。

「でもさ、ジョーは日本人でジェットはアメリカ人なんだし、文化の違いってあるんじゃないのかな」
「凄いわ、ピュンマ。私まだ何も聞いてないのにどうしてわかったの!」

・・・あのね。何年、相談係をやってると思う?

「無理だと思うよ?」
「だって、言って欲しいんだもの。そりゃ・・・ジェットみたいに素敵には言ってくれないと思うけど」
「わかってるじゃないか」
「でも聞きたいんだもの。ジョーの口から」

おいおい。それはかなりの難問だろうよ?

「ジェットが言うみたいなのじゃなくていいの。日本風でいいの」
「・・・日本風?」

って何だろう?

「――あのさ、フランソワーズ。そもそも日本の文化ってそういうのは口にしないみたいなところがあるんじゃないかな。該当する言葉って思いつかないんだけど」
「・・・『僕の可愛いナントカちゃん』みたいなのでいいの」
「僕の可愛い――」

僕は、ジョーがそう言うところを想像してみたけれど、どうしても思い浮かばなかった。あの仏頂面でこのセリフを言うのか?ジョーが?無理だろう!むしろまだ「スイートハート」の方が・・・・言わない、か。

「――あのさ。フランソワーズ」

僕はため息をつくと真面目な顔を作った。

「それより、君の国の言葉で言ってもらったほうがいいんじゃないかな」
「え?フランス語で?」
「そう」

それのほうがまだ言う確率が高いだろう。

「だってジョーはフランス語なんて知らないわ」
「だからだよ」
「だから?」
「そう――知らないからこそ、「ちょっとこれ言ってみて」が利く」
「でも、言ってみて、なんて・・・」
「同じことだよ。言わせたいんだろう?
「う・・・ん。そうだけど」

何やら考え込む風情のフランソワーズ。しばらく視線が手元に落ちる。

「フランソワーズだって、実はフランス語で言ってくれたほうが嬉しいだろう?」
「それは・・・そうだけど」
「メモか何かに書いて、これ読んでみてとか何とか言ってみればいいんじゃないかな」
「・・・そうね」

ジュテームくらい、もしかしたら知ってるかもしれないけど、マ・シェリは知らないと思うぞ。

フランソワーズは顔を上げると笑みを浮かべた。膨れっ面は消えていた。助かった。

「ん。そうしてみるわ!ピュンマ、ありがとうっ」
「どういたしまして」

健闘を祈る。

 


 
愛の言葉A

 

「マ・シェリ、フランソワーズ?」
「駄目よジョー。もっと感情を込めて」
「・・・マ・シェリ――って、あのさ。いい加減教えてくれないか。どういう意味なのか」
「嫌よ。ちゃんと言えるようになるまで駄目」
「・・・フランソワーズ」

困った顔のジョーを引き連れてリビングに戻ってきたフランソワーズ。
僕はといえば――すっかり油断していたといえよう。何故なら、先刻フランソワーズが去ってから、今日はきっともうあの二人は降りてはこないだろうと高をくくっていたのだから。
だから、本当ならとうに部屋へ引き上げていたはずがこうしてリビングでコーヒーを飲んでいるという訳だった。

「ほら、もう一回言って?」
「・・・マ・シェリ、フランソワーズ」

ぼそぼそと口の中で棒読みするジョー。フランソワーズはいったい何をどうしたいんだろう?
僕が彼に視線を向けると、ジョーは大きくため息をついた。

「ピュンマ。君ならわかるだろう?マ・シェリってどういう意味なのか」

もちろん知っている。何故なら、フランソワーズに入れ知恵したのは僕だからな。
しかし、口を開く前に蒼い瞳に睨まれた。つまり――黙ってろ、ってことなのだろう。はいはい、言いませんよ。

「ジョー。ちゃんと言えるようになったら教えてあげるって言ったでしょう?」
「いや、だって意味もわからず言うのって何だかキモチワルイし」
「キモチワルイ?」
「ほら、知らないうちに何かの呪文を言わされてるのかもしれないじゃないか」
「私がそんなことをジョーにさせるというの?」

両手を腰にあててジョーを下から睨みつけるフランソワーズ。ううむ。僕としては全面的にジョーに同意するのだが。

「――させるだろう、いつも」
「いつもじゃないわ」
「同じだろ。いつも「試しに言ってみて」って」
「だって、怖いじゃない。何かあったら」
「僕だったらいいっていうのかよ」
「だってジョーは男だもの」
「男女差別反対。君の方が僕よりよっぽど強いくせに――いててて」

ばかだなぁ、ジョー。そんな事言ったらつねられるに決まってるじゃないか。ったく、学習しないヤツ。
ジョーはフランソワーズに思い切りほっぺたをつねられ涙を浮かべた。

「いいから。言って。マ・シェリ、って」
「・・・マ・シェリ」
「そのあとにフランソワーズってつけるのを忘れないで」
「・・・フランソワーズ」
「はい、続けて言ってみて」
「・・・マ・シェリ、フランソワーズ」
「・・・棒読みだわ。もう、全然だめ」

フランソワーズは腰にあてていた両手を下ろすと、下を向いて爪先で絨毯を軽く蹴った。

「・・・もう。ジョーに言って欲しいだけなのに」
「だから、いったい何を」
「何、って・・・」

「愛の言葉を言って欲しいんだそうだ」

!?

フランソワーズがきっと僕を睨む。違うよ、僕が言ったんじゃないってば。

僕が無言で頭を横に振っていると、声の主はリビングの戸口から姿を現した。

「・・・ハインリヒ」

きみ、いったいなぜ経緯を知っているんだ。

「どうやらジェットの電話を聞いていたらしいな。――駄目じゃないか、盗み聞きなんて」

入ってくるなりハインリヒはフランソワーズの頭に手を置いて、くしゃっと撫でる。

「盗み聞きじゃないわ。聞こえちゃったのよ」

対するフランソワーズは頬を膨らませ、口の中で小さく言う。

「同じことだろ。大体、ジョーに愛の言葉を言わせようなんて無理に決まってるだろうが」
「だって、言って欲しいんだもの」
「――なんだ、言ってもらってないのか?ん?」

フランソワーズとハインリヒの視線がジョーに集中する。

「・・・え?僕?」

きょとんと自分を指差すジョー。

「えっ、何・・・愛の言葉??」
「そうだ、ジョー。お前の言葉が足りないから、このお嬢さんはご機嫌斜めだ」
「フランソワーズのご機嫌が斜めなんていつものことだよ」
「酷いわ、ジョー!」
「ほーら」

ハインリヒはそんな二人をやれやれと見つめると、フランソワーズの頭にかけていた手を彼女の肩に下ろし、そして――

「――!!」

彼女の耳元に何かを小さく呟いた。途端に真っ赤に染まるフランソワーズ。心なしか瞳が潤んでいるみたいだ。

「っ、ハインリヒっ・・・」
「このくらい言って貰え」
「だっ・・・、でもジョーはっ・・・」

ジョーはというと、眉間に縦皺を刻み――うわー、やだなぁこの顔――いまにも世界中を壊してしまいかねない雰囲気で、フランソワーズとハインリヒの間に割り込んだ。

「僕のフランソワーズに触るな」

地を這う低音は――とてもジョーの声とは思えない。

「ふん。お前の何だって?」
「僕の――俺の大事な可愛いフランソワーズに――触るな」

・・・俺の大事な可愛いフランソワーズ。
にこりともしない剣呑な顔つきだったが、ともかく――フランソワーズの願いは叶った・・・の、かな?
でも色気も何もないしなぁ。これじゃあ駄目だろう。

そう思ってフランソワーズを見ると。

「・・・モン・シェリ、ジョー・・・!」

――あれ?

いいのか?

フランソワーズ。雰囲気も何もないぞ、ヤツには。ほら、こんな怖い顔してるし、色気も何もあったもんじゃ・・・

けれどもフランソワーズはきらきらした瞳でヤツを見つめており――それはもう、いま世界にはふたりしかいないと言わんばかりの見惚れっぷりだった。

「フランソワーズ。いったいハインリヒに何を言われた」
「ね。もう一回言って」
「だから、何て言われてそんな赤くなって」
「モン・シェリ、ジョー、お願い。もう一回」
「・・・モン・シェリって――」
「愛しいジョーっていう意味よ?」
「・・・愛しい?――ああ、そうか。じゃあ、マ・シェリっていうのも?」
「ええ、そうよ」
「ふうん・・・そうか、――マ・シェリ、フランソワーズ」
「うふっ・・・モン・シェリ、ジョー」

あのう・・・ここは二人しかいない世界ではないのですが。

「――可愛いフランソワーズ」
「私のジョー」

そのまま二人の顔が近付いて――うわあっ。
まさに唇がくっつくかという寸前で、彼らのおでことおでこが派手な音をたててぶつかった。

「いったーい!もう、何よっ」
「うるさいぞ。お前ら、ちっとは周りに気を遣え」

ハインリヒが苦虫を噛み潰したような顔で割って入った。彼の両手はふたりの後頭部を掴んでおり、どうやら互いに頭突きをする羽目になったのは彼の制裁のようだった。

「ったく、サカリのついたウサギでもあるまいに、ところ構わず」
「・・・だってウサギだから仕方ないじゃないか」
「ああん?何だって?」
「ウサギのバケモノなんだよ」
「誰が」

ジョーは黙ってフランソワーズを指差した。

その後のことは、僕は知らない。