ウサギ@

 

のどかな日曜日の午後。事の発端はフランソワーズのひとことだった。

「ね。ウサギ。可愛いわねぇ」

確か、ひとりでバラエティー番組か何かを見ていたのだったと思う。よく憶えていないけれど。
何しろ、リビングの大画面テレビを独り占めしているフランソワーズの隣にいるジョーは、全く我関せずといった具合に膝の上に広げた雑誌に目を落としたままだったから。
だったら何故彼がそこにいたのかというと、フランソワーズが彼の腕を抱き締めたまま離さなかったからだった。
全く、いつもながら仲の良いことで何よりだ。
奴らの仲良し度がここギルモア邸の平和度を左右するといっても過言ではない。
で、僕は何をしていたのかというと、ちょうど博士の書斎から目的の本を見つけぱらぱら見ながら戻って来たところだった。

フランソワーズの言葉に大画面を見ると、そこには確かに可愛らしいウサギの姿があった。
どうやら動物ものの番組らしい。フランソワーズはこういうのが好きでよく見ている。珍しい動物の特集があると連れて行けとジョーにねだって困らせているけれど。でも後日、必ず揃って出掛けるからそれはそれでいいのだろう。

「ふうん・・・可愛いね」

ジョーが何も相槌を打たないので、仕方なく僕が応えた。そうしないとこのお嬢さんは膨れてしまうのだ。
それはそれで可愛いのだけど、夕ごはんに影響が出る。

「でしょう?ここって広いから、飼っても全然大丈夫よねっ」
「・・・そうだね」

世話をちゃんとするならね。と心の中で付け加える。
もちろん、彼女はちゃんとするだろう。が、公演で留守にすることもあるし、何より僕たちにはいつ何時何があるのかわからない。

「つがいで飼ったら、寂しくないわよねっ?」

僕の相槌に顔を輝かせ、フランソワーズは両手を組み合わせ明後日の方を見つめる。斜め45度くらい上空を。

――つがいで、ねぇ・・・。

僕は言った方がいいのか考えあぐね、ちょっと黙った。

「そうしたら、ちっちゃいウサギもできるでしょう?可愛いわよねっ」
「・・・そうだね。でもきっと、どんどん増えると思うよ」
「あら、どうして?ウサギって一度に何羽も産むのだったかしら」
「うーん・・・それはそうなんだけど」

根本的に問題があるんだな、これが。

「でも、4・5匹くらいだったら全然大丈夫よ」
「――ねぇ、フランソワーズ」
「なあに?ピュンマ」
「ウサギってさ、意外と繁殖力があるんだよ」
「あら、そうなの?」

大画面は既にウサギの話ではなくなっていたが、フランソワーズは次の動物はどうでもいいようだった。
僕の言葉に目をきらきらさせて話の続きを待っている。

「うん。だから、つがいでなんか飼ったら大変なことになるよ」
「・・・大変なこと?」

ああ、どうしてこういう話になってしまったんだろう。
若い女の子にしてもいい話なのだろうかと思いつつ、でも学術的には全く問題がない話ではあったので、僕は先を続けた。

「そう。ウサギってね、つがいで同じ檻の中に入れておくと、いつまでも交尾をするんだよ」
「いつまでも?」

意味がわからないとフランソワーズが蒼い瞳をくるんとさせる。
隣のジョーは微動だにしないから、眠っているのかもしれない。

「うん。メスから出るフェロモンに反応するのかな。ともかくオスは何度も何度も交尾をするんだ」
「・・・何度も何度も」
「そう。それはもう、擦り切れて血が出るくらいまで容赦なく、ね」
「・・・・」

口を少し開いて絶句するフランソワーズ。ほらね。やっぱりするべきじゃなかった。
しかし、一瞬黙った後、フランソワーズが発した言葉は僕の想像を超えたことだった。

「す・・・凄いわ!」
「え」

何が?
ウサギの精力のことだろうか。
いや、まさか。
そんな言葉を彼女の口から聞くのはちょっとなんだか抵抗があった。話を始めたのは僕だったけれど。

「繁殖力が強いってことは、それだけ種族保存に対する強い気持ちがあるということでしょう?」
「・・・そうだね」
「ということは、よ。生きたいっていう気持ちが強いということになるわよね?」
「そうなるか・・・な?」
「ええ!あんなにちっちゃくて可愛いのに!」

いやん、可愛いっとまるでジョーの腕がウサギであるかのようにぎゅうっと抱き締め、フランソワーズはにこにこご満悦だった。
これはもしかしたら、ウサギをつがいで飼う流れになってしまうのだろうか。
僕はそれを想像し背筋が寒くなった。
だってさ――いったい、何羽になるんだ?最終的には。確か、累計では――年間、数十羽だったはず。
ウサギに埋め尽くされたギルモア邸を思うと眩暈がした。

そんな僕の思いに全く気付かず、フランソワーズはそのままジョーに矛先を向けた。

「ねっ、ジョーもそう思わない?」
「何が」
「もうっ。聞いてなかったの?ウサギは凄いって話よ!」
「――ああ。交尾の話」

さらりと言うジョーに聞いている僕の方が焦る。
おい、もっと考えろよ。相手は女の子なんだからさ。

しかしその心配は無用だった。
――というか。
矛先がジョーに向いた時に、僕は席を立つべきだったんだ。今となってはもう遅いけれど。

「凄いわよねっ。人間には到底無理な話よね」

するとジョーはなぜかちょっとむっとした顔をした。膝の上の雑誌を閉じて傍らに置く。

「無理?」
「ええ。人間にはそこまでの繁殖力はないんじゃないかしら」
「何で」
「だって、つがいで一緒にいさせても必ず繁殖するとは限らないでしょう?」
「それは、ウサギは所詮本能で生きる動物だから」
「まっ!それってウサギに凄く失礼だわっ」
「だって動物だろ。だから節操なく何度も何度も交尾するんだよ」
「酷いわっ。そんな言い方!――何よ、自分にできないから、ってウサギの悪口言わなくてもいいじゃないっ!」

おいおい、フランソワーズ。自分が何を言っているのかわかってるかい?
僕はぎょっとして彼女を見つめた。が、数瞬後には更に驚くこととなった。

「へぇ。僕にはできないって言うんだな?」
「そうよ!ウサギに謝ってよ!」
「できたらウサギに謝らなくてもいいってことだよな」
「できるわけないでしょ、ジョーなんかに」
「できるさ」
「できないわ」
「できる」
「できない」
「できるったらできる!」
「できないったらできない!」

・・・・ジョー。お前、自分が何を言っているかわかってないだろ。というか、何故ウサギと張り合おうとするんだ。

「――だったら、証明してやる」
「あら、どうやって?」

ジョーは立ち上がると怒った顔のまま乱暴にフランソワーズの腕を掴んだ。

「一緒に来ればわかるよ」
「何よ怖い顔して。ジョーには無理よ」
「うるさい、無理じゃないっ」
「ぜーったい、無理っ」

そうして言い合いながら、ふたりはリビングを後にした。

後に残ったのは、つけっ放しのテレビから流れる動物番組の陽気な声。
僕はそれを消すと、静寂のなか、なんだか居辛くなって出かけることにした。それも――なるべく早く。
ついでに博士とイワンも連れて行こう。あるいは、どこかに泊まったほうがいいかもしれないななんて思いながら。

 


ウサギA

 

翌日の朝。
そうっとキッチンを覗いた僕は、元気いっぱいのフランソワーズを確認した。
コーヒーメーカーの湯気の向こうで鼻歌なんぞ歌っている。

「あ。ピュンマ、おはようっ」
「おはよう――早起きだね」

ううむ。
この言い方は適当だっただろうか。
何しろ、こいつらがあの後どう過ごしていたのかは知りようがないのだから。
あの後――ふたりが二階へ消えてから。僕は博士とイワンを連れて箱根へ避難したのだった。何も知らない博士は、たまにはいいのうって温泉を堪能していた。イワンは・・・どっちにしろ夜の時間だったから、あまり関係なかったかもしれない。

「ええと・・・手伝うよ」
「あら、大丈夫よ」
「・・・そう?」

確かに元気いっぱいのフランソワーズだった。
かといって、昨夜はどうしてたのか・・・とか、身体は何ともないのか・・・とはとてもじゃないけど訊けやしない。
だから、こう言うにとどめた。

「その、ジョーのヤツは?」
「まだ寝てるわ」
「そうか」

普段から朝寝坊のジョーだったから、新しい情報は得られなかった。

「・・・でもね。ジョーったら」

フランソワーズは何か思い出したのかくすくす笑い出す。

「全然、寝ないんですもの、困ったわ。私がいくら言ってもきかないの」

・・・ええと。

それって・・・

「でも付き合う必要はないでしょう?だから、先に寝ちゃったの」

うん?

「そうしたら、怒っちゃって。大変だったわ。拗ねて」

・・・ううむ。これはどう受け取ればいいのだろう・・・

「あ、でも――ごめんなさい。きっとピュンマも怒るわよね?」
「え、何が」
「先にしちゃって」
「し・・・」

しちゃって、って何をだ。
っていうか、僕には関係ないだろう、フランソワーズ。

「新作だったのに、ね?」
「は?」
「ほら、発売されたばかりのゲーム。ジョーったら、確かピュンマの部屋にあったはずだ、って勝手に」
「・・・・」
「ごめんなさい」
「ええと・・・楽しかった?」
「ええ。ジョーったら全然やめないのよ」
「・・・そう」

つまりこいつらは一晩中ゲームで遊んでいたとそういうわけなのだろうか?
あのウサギの話はどうなったんだろう。

僕は首をかしげながら、キッチンを後にした。
だから、背後でフランソワーズが小さく舌を出しているのには――全然、気付かなかった。

 

***

 

首をかしげながらリビングへ行くと、しばらくしてゆらりとジョーがやって来た。
ボサボサの髪と、心なしか少し疲れたような表情。――いや、これは確実に疲れているな。やつれていると言ってもいいかもしれない。ったく、ゲームするにもほどがあるぞ、ジョー。
ジョーは僕の視線を受けたまま、まだ半分眠っているようなぼんやりとした状態でゆらゆらふわふわと歩を進め、ソファに崩れるように倒れこんだ。

「おい、ジョー。お前・・・大丈夫か」
「・・・大丈夫じゃない。死ぬ」
「死ぬ、って・・・大袈裟だなぁ。そんなに良かったのか?」

新作のゲームソフトはそんなに楽しかったのだろうか。ううむ、僕も早くやりたいぞ。

ジョーは僕の声に突然身体を起こした。目の周りがほんのり赤くなっている。

「そ、何てこと訊くんだ、ピュンマっ」
「だって寝てないんだろう?」

寝ないで遊ぶくらい夢中になってたくせに。

「そ。そうだけどっ・・・!」

何を焦ってるんだコイツは。――変なヤツ。

「フランソワーズが言ってたぞ。全然やめなくて大変だった、って」
「た――」

ジョーは何故か耳まで赤く染まった。そうしてきっと僕を睨みつける。
おいおい、何だか怖いぞジョー。一体何事だ?

「ち、違うっ・・・大変だったのは、こっちの方だ!」
「・・・そうなのか?」
「ああ。――ったく。ウサギはどっちだよって話さ」
「――ウサギ?」

・・・あれ?

もしかして、・・・何だかヤヤコシイ話になってたりして。

「大体、ウサギったって、オスが凄いのかもしれないけど、よく考えたらそれを全部受け止めるメスだって凄いって事になるだろう?」
「・・・そだね」
「くそっ・・・騙されたっ」

騙された・・・って、誰に?
何を?

「――あのさ、ジョー」

僕はひとつ咳払いすると、改めて質問した。

「君たちは昨夜、ゲームをしてたんだろう?新作の」
「ゲーム?」

案の定、ジョーの眉間に皺が寄る。

「いったい、何の話だピュンマ」

ああやっぱり。
勘弁してくれよ。

「イヤ・・・」

言いにくい。
言いにくいぞ。
が、やっぱり言わないわけにはいかない。何しろ、このままおかしな会話が永遠に続くはずがないのだから。

「昨夜はずっと二人で新作のゲームをして遊んだって、聞いたもんだから。――フランソワーズに」

その途端。
今の今まで、眠そうにしていたジョーが傍目にもわかるくらいしゃっきりと覚醒した。
ついでに顔色も、赤から青に一瞬で変わった。お前はリトマス試験紙か。

「やばいっ・・・!」
「やばい?」

ジョーはああっと小さく叫ぶと頭を抱えた。

「ううっ、そうだった、ゲームをしていたことにしようって決めてたんだった」

うわあ、どうしようと煩悶しているジョーに、僕は何だか脱力した。
いくら博士がせっついても、やっぱりもうちょっとゆっくりしてくるべきだった。せめて昼過ぎくらいまでは。
そうすれば、いま目の前にいる迂闊野郎をどうしてやろうか悩むこともなかったのに。

そこへタイミング良く、コーヒーを載せたトレイを持ってフランソワーズがやって来た。
ジョーは咄嗟にソファに突っ伏して寝たふりを敢行。
僕は仕方なく笑みを浮かべた。が、少し引きつっていたかもしれない。

「あらジョー。起きたのね」

明るく言って、コーヒーをテーブルに並べてゆく。

「ねぇピュンマ。博士もごはん食べるかしら」
「いや・・・いらないと思うよ」

調べたいことができたと言って、今朝一番で宿を出て、そのあと地下へ直行したくらいだ。まだ上がってこないから、何か熱中しているのだろう。

「おなかが空いたら来るだろうから、放っておいていいんじゃない」
「そうね。そうするわ。ピュンマは食べるでしょう?」
「うん」
「ジョーは?――ああもう、そんな所で寝ちゃダメよ」

しかしジョーは微動だにしない。本当に眠ったのかもしれない。

「全くもう。しょうがないわね。ゲームのしすぎよ?」

フランソワーズは両手を腰にあてて言い放つ。その姿は、やはりどう見ても元気いっぱいで、ボロ雑巾のようなジョーとは対照的だった。
思わずじっと見ていると、気付いたフランソワーズは少し頬を染めた。

「なあに?ピュンマ」
「イヤ・・・フランソワーズってウサギに似ているなと思って」
「ウサギ?」

きょとんと蒼い瞳を丸くしてこちらを見つめる姿はやっぱり可愛くて、その可愛らしさはテレビで観たウサギに勝るとも劣らない。

「――似ているんじゃなくて、ホンモノのウサギのバケモノだ」

小さな声でジョーが言う。ソファに突っ伏していてくぐもった声の上に更に潜めているから、近くにいる僕にだってやっと聞こえるくらいの大きさだった。

――ウサギのバケモノ?

眩しいほどの陽光を背にしたフランソワーズにジョーの声が聞こえてたのか聞こえていなかったのかはわからない。わからないけれど、ウサギのバケモノらしき彼女はにっこり微笑んだ。

「コーヒーが冷めちゃうわ。早くいただきましょう」