−子供部屋−
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)
11月29日 ここのところ、ほぼ連日フランソワーズはレッスンに通っている。ジョーの送迎なしで。 だから、今度は自分が彼女の力になりたい。 すれ違いばかりでも、同じ家に住んでいるのに会えない日が続いても――我慢した。 *** 「――ねぇ、ジョー?」 久しぶりの逢瀬――というのは大袈裟に過ぎなかったけれど、それでもお互いにとっては何週間も会ってないような気分だった。 フランソワーズがジョーの顎のラインを指でなぞりながら、甘えたように呼ぶ。 「――ん。なに?」 腕のなかの彼女を抱き締め直し、額にキスしてからジョーは蒼い瞳を覗きこんだ。 「来週、配役が決まるの」 口元を歪めて嫌そうな顔をするジョーの鼻をぎゅっと掴む。 「もうっ。いっつもそんなカオするんだから!」 彼が観に来ないわけは知っているけれど、もしかしたらと期待してみるのは毎回の事だった。そうして断られるのも。 「――役についたら、っていうのが気に入らない」 けれども今回は少し展開が違っているようだった。 「え?・・・もしかして、来てくれるの?」 何しろ、彼女の憧れの「ジゼル」である。 「ほんと?」 体の向きを変えて、ジョーの胸に肘をついて顔を覗きこむ。フランソワーズの髪が頬をかすめてジョーはくすぐったそうに笑った。 「うん。――ただし、条件がある」 ジョーは見つめてくる蒼い瞳をしっかりと見つめ返した。 「役についたら、じゃなくて――役につくから、観に来いというべきだ」 褐色の瞳の強さに、一瞬フランソワーズは口がきけなくなった。 「・・・でも」 目を逸らすフランソワーズの顎に手をかけて自分の方を向かせ、ジョーは優しく言った。 「そんなことないよ。――フランソワーズはちゃんと力を出し切って、主役を取る」 一瞬、顔を寄せて、ジョーはフランソワーズの頬に唇をつけた。 「――違うよ。きみは絶対に諦めない。強い気持ちを持っている。いつでも」 ジョーの褐色の瞳を見つめて。 「・・・絶対にジゼルを踊るから、観に来てくれる?」 頬を紅潮させて、輝く蒼い瞳。 「もちろん。行くよ」 11月27日 まだ11月だというのに、街は既にクリスマスモードに入っていた。 だって、ジョーがいるとゆっくりお店を見れないんだものっ。 アクセサリーショップや、可愛い雑貨の置いてあるお店、それから手ごろで可愛い家具の置いてある店や洋服店。 だから男の人ってダメよねぇ。選ぶ楽しみ、っていうのがわかってないんだから。 ジョーだけを指して「男の人ってダメよねぇ」と言っているわけではなかった。何しろ、同居している成人男性はまだまだ複数居るのだから。 今年のクリスマスはどうしようかしら。 いつもは、ジョーと一緒にパリに帰る。 でも・・・。 去年のことを思うとなんだか気が重くなった。 またお兄ちゃんと別々なのかなぁ。・・・いくら「兄離れ」しなさい、って言われても、はいそうですかって訳にはいかないのに、お兄ちゃんもジョーも全然わかってないんだから。 とはいえ。 ん、でも、ジョーと二人だけで歩いたパリの道もなかなかロマンチックで良かったわ・・・ そう思うと、やっぱりお兄ちゃんはいなくてもいいかなとも思う。 あ、でもっ。そうしたら、おせち料理とか作らなくちゃいけないの? 弾んでいた足が止まる。 あんな難しい、日本の料理の究極を、私が作る?!――そんなの、無理っ。 街にはクリスマスプレゼントの下見に来たはずだったのに、つい本屋で「おせち料理」の本を見てしまうフランソワーズだった。 もうっ・・・。絶対、無理!! ***** 一方、ジョーはその頃。 ・・・ヒマだなぁ・・・ リビングでテレビを見るのにも飽きて、自室でネットをしていたのだけどそれも飽きて、ベッドに寝転がって雑誌を読んでいた――が、意識は他へ向かいがちだった。 まだ外に出るな、って言われてもなぁ・・・留守番も飽きたよ。 今日、ひとりで出かけたフランソワーズの姿を思い出す。 ジョーはダメよ、って嬉しそうに言っちゃってさ。いったい、どこで何してるんだか怪しいもんだ。 電話して構ってもらおう――と、携帯を開いたものの、結局通話ボタンは押せなかった。 ――そういえば、クリスマスプレゼントの下見の下見、って言ってたな。 下見の下見、っていったい何だと思いつつ、フランソワーズの姿を思い出す。 ・・・ふん。変なのに声を掛けられても知らないぞ。 拗ねたように横向きになる。 クリスマスプレゼントか・・・ 何をあげたらいいのかまだ決まっていないけれど、うすぼんやりと構想はあった。毎年そうだが、ジャン兄と相談して決めているのだ。何しろ、ふたりの連動企画モノは年に一度のクリスマスだけなのだから。 フランソワーズは何をくれるんだろう? 誕生日の時みたいにリボンを巻いたフランソワーズでいいのにな・・・と思いながら目を閉じた。 *** 「はあ?何言ってるの、ジョー?」 呆れたように細めた蒼い瞳に、ジョーはむっとして言い放った。 「別に、そんなに変なことを言ったつもりはないけど」 買い物から帰ったフランソワーズは、真っ先にジョーの部屋にやって来ていた。そして、外がどんなに寒かったのかと、そろそろジョーのポスターも見かけなくなってきたことを報告していた。 「あれは、お誕生日だったから特別なの!普段はしません!!」 どうしてこんなことでジョーがごねるのか、フランソワーズは天を仰いだ。 「大体、リボンもないのに」 加速装置を使ったのかと思うくらいの早業で、ジョーはベッドから降りると机の引き出しからソレを取り出した。 「じゃーん!」 むこうのジョーの部屋に置いてあったはずなのに、どうしてここにあるのだろうと呆然とした。 「・・・わざわざ持ってきたの」 目の前の満面の笑みを浮かべたジョーに、わざと大きくため息をつく。 「・・・・そんなの、やりません」 私はイヤだわ・・・!と、ジョーの胸に頬を寄せた。 「プレゼントしなくたって、いつでも私は」 11月24日 「――フランソワーズ。もういいだろう?」 ジョーの懇願するような声が響く。 「ダメよ。あなたはあと・・・そうね、二週間くらいは外に出ちゃだめ」 楽しそうに言うフランソワーズに唇を尖らせ、ジョーは小さく呟いた。 「・・・そういう意味じゃ、ないんだけど」 その声がフランソワーズに届いていたのかどうか。 もっと優しくしてくれてもいいと思うんだけどなぁ・・・ 「何か言った?」 ひょい、と蒼い瞳が覗き込む。 「別に」 ぎくりと顔を強張らせると、フランソワーズは呆れたようにジョーを見てから、再度お湯をかけた。 「――目に入る」 目をこすりながら文句を言うジョーの前髪をかきあげて、その額にそっと唇をつけた。 「・・・もう。ジョーはばかね」 フランソワーズの手を振り払いながら、拗ねた声でジョーが言う。 「二週間経っても、まだクリスマスは終わってないわ。だから、一緒にイルミネーションを見に行けるのよ?」 うるさいなぁと横を向いたジョーの髪を撫でる。 今日の「あっちむいてホイ」勝負は、フランソワーズの圧勝だった。だから、ジョーの髪を洗う権利を手にしたわけだが、どうもジョーがわざと負けたように思えてならない。 ――甘えんぼね。 ジョーは出かけられなくても、反対に自分は連日レッスンがあるのだった。 だから、いつもよりも構って欲しいみたいで拗ねる日が多い。 「ジョー?」 そっと手を重ねる。 「私、いつものようにジョーと一緒にお出掛けするの、楽しみにしてるのよ」 こちらを見ない横顔に言ってみる。
ジョーとしては、車から降りなければ誰も自分に気付かないのだから、せめて送り迎えはさせてくれというところだったが、今はレッスンの時間が不定期だから、こっそり迎えに行くということもできずにいた。
連日のレッスン。
フランソワーズはいま、バレエの事しか考えていないようだった。
帰ってきても、ジョーに会わずに寝てしまうこともしばしば。
ジョーは甚だ不本意ではあったけれど、自分もオンシーズンにはレースのことしか頭になかったから、フランソワーズの気持ちも十分にわかっていた。レッスンで疲れているのだから、すれ違いが多くなっても仕方ないと我慢した。
フランソワーズが言うには、今は公演前の大事な時期であるという。
ということは、既に公演に向けてのレッスンに入っているのかというとそうではなく、配役を決める時期だということらしい。
彼女の気合いが入るのは当然だった。なにしろ、演目は「ジゼル」。フランソワーズが憧れてやまない演目だった。
もちろん、初めて踊るわけではない。今までだって、バレエ団としての演目に無かったわけではない。が、「ソロ」を踊りたいという夢は叶えられていない。だから、今度こそという強い気持ちがあった。
ジョーはそんな彼女を心から応援していた。
夢は手に届かないうちは単なる夢に過ぎないけれど、もうちょっとで掴める、という所まできたら、あとは自分の強い思いだけなのだ。自分はそうしてワールドチャンピオンを勝ち取った。
もちろん、自分ひとりの力ではなく信頼できるスタッフや――何より、フランソワーズの存在があったからこそだった。
会えなくても、いつでも自分を信じてくれているひとがいる。
そう思うだけで、そう伝えられる度に、気持ちが温かくなり頑張る力が湧いてくるのだった。
だから、レッスンが休みの今日は朝からずうっと一緒にいた。
「そうか」
「・・・役についたら、観に来てくれる?」
「えー」
真面目な声で言われて、フランソワーズは瞳を丸くした。
「うー・・・・ん」
ジョーとしても、彼女の夢が叶う舞台なら観に行くのはやぶさかではなかった。
「条件?」
「さっきフランソワーズが言ったみたいなのはダメだ。気に入らない」
「さっき言ったの、って・・・」
「役についたら、って言っただろう」
「ええ」
「そんなのダメだ」
「どうして?」
これが――チャンピオンになった男の瞳なのだろう。強い意志と断固とした決意、揺るがない自信が見える。
「何が心配?」
「・・・村娘のソロが踊れればいいなって思っているのよ?」
「いいな、じゃなくて絶対踊る。だろ?」
「・・・・うん」
「それも、村娘のソロじゃなくてジゼルを踊る」
「っ、そんなの無理よ」
「何故?」
「だって、私にはまだきっと無理――」
「無理じゃない」
「でも」
「無理って自分で決めたらそこで終わりだ。――僕のフランソワーズはそんな子じゃない」
「・・・そんなの、ジョーは私を買い被りすぎよ」
「でも」
「きみはいつでもそうだっただろう?僕が挫けそうになっても励ましてくれた」
「だけど」
「敵に囲まれて諦めそうになっても、活路を見出してくれた」
「・・・それが私のちからだから」
「そうじゃない」
「そんなこと・・・」
「大丈夫。――きっと、フランソワーズは夢を叶える。僕はそう思う」
「・・・でも」
「でも、じゃないだろ?――ホラ。いつもみたいに言えよ」
「だって、ジョー」
「だって、じゃない」
「だけど」
「だけど、じゃない」
その奥にある彼の自分に対する気持ちが見えたような気がして、フランソワーズはちょっと黙った。
自分のなかの気持ち。夢を夢だけで終わらせたくない気持ちと、その夢を応援してくれるひとがいると知る気持ち。
これで頑張れないとしたら――それは、自分じゃない。
その強い視線にジョーはにっこり笑った。
ひとり買い物に出たフランソワーズは、隣にジョーがいないのを寂しく思い・・・思ったりはせず、どちらかというと浮かれていた。軽くスキップなんかもして。
どれもこれも、ジョーが一緒だとゆっくり見ることはできなかった。
その誰もが同じ行動しか取らず、ジョーはちょっとはマシな方だった。――惚れた弱味である。
そうして兄と3人で年を越すのだった。
だったら、パリに帰らず日本で過ごしてもいいわけで・・・
それにジョーは、きっと――苦心して作っても、甘いのしか食べないのに決まってるんだから!!
イヤイヤ、ちゃんとパリに行きますから。・・・たぶん。
小さく舌打ちして、仰向けに寝転がる。じっと天井を見つめて。
ハーフコートを着て、ブーツを履いて、ふわふわのマフラーをして。寒くないのかと思うような短い丈のスカートで。
可愛かったなぁ、一緒に歩きたかったなと思うのと同時に、そんなカッコで行くのかよ?とも思ったのだった。
「変なことでしょう?」
ベッドで大の字になって天井を見つめながら聞いていたジョーは、フランソワーズの報告がひと段落したところで、さっきの自分の思いつきを言ってみたのだった。
さっきの思いつき――つまり、リボンを首に巻いたフランソワーズを。
「クリスマスだって誰かの誕生日じゃないか」
「誰か、って・・・」
「それなら大丈夫っ」
蒼いサテンの細いリボン。
「・・・・・・・」
「うん」
「・・・・どうして」
「何かの時に使えるかと思って」
「・・・・・何かの時って何」
「ホラ、クリスマスとか、さ」
「えーっ」
「・・・だって、『プレゼント』よ?」
「そうだよ?」
「一日限定なのよ?」
「うん・・・?」
「ジョーはそれでいいの?」
「え」
あなたのなのに。
それは湯気と一緒になって、バスルームに満ちてゆく。
フランソワーズは鼻歌をやめず、ジョーの髪を洗う手も休めなかった。
「ええーっ。二週間??」
「そ。世間がクリスマスに興味を移す時期になれば、おそらく大丈夫だから」
「・・・フランソワーズはそれでいいの」
「ん?」
「どこにも行けなくて」
「あら、私は行けるもの」
髪を洗う手が止まったと思うと、予告もなくお湯を頭から浴びせられジョーは閉口した。
「――いま、優しくないとか思ったでしょ?」
「え」
「なんだよ突然」
どうも外出禁止令が出てから、ジョーはフランソワーズと接する時は拗ねモードになるようだった。
そんな彼をじっと見つめ、フランソワーズは彼の鼻をつんとつついた。
「別にそんな事言ってないじゃないか」
「そう?」
人工毛髪なのに、寝癖がつくのって不思議だわ・・・と思いながら。
構って欲しいと全身からにじみ出ているようだった。
次回の公演は「ジゼル」。どうしても役につきたかった。
そんな自分の思いを十分知っているジョーなのだが、いつもと逆の、フランソワーズが不在で自分は家にいるという状況はなかなか慣れないようだった。
それは全く気にならなかったけれど。
拗ねて怒っているはずの彼の頬が、嬉しそうに緩んだ。
11月21日
「ただいまーっ」 玄関で声がしたと思ったら、その声の持ち主はあっという間にリビングのドアを開けていた。 「ううっ、寒かった」 まるで潜伏中の逃亡犯のような言われようである。 「・・・とっくに冷めていると思うけどなぁ」 びし、っと人差し指をたててジョーの鼻の頭をつつく。 「今や『時の人』なのよ?裸だって見られちゃってるし、両目だって見られてるんだから」 フランソワーズの言葉に不満そうに唇を尖らせ、ジョーは拗ねた。 「・・・送り迎えくらいさせてくれたっていいじゃないか」 フランソワーズを一人で歩かせる事自体が何よりも心配だったのだが、それを言うと彼女が怒るので――ジョーは言葉を飲み込んだ。 「――冷たい手だね」 何を言っても拗ねたままのジョーに苦笑する。 「・・・これなら、わかるでしょ?」 そのまま頬をジョーの頬に押し当てた。 「――冷たい」 お互いの肌の冷たさと温かさを分け合って。そうして同じ体温になってゆく・・・・ところだったが。 「えー。コホン」 至近距離から気まずそうな咳払いがしたので、頬を寄せ合っていたふたりはびくっと体を震わせた。 「誰っ?」 「・・・僕だよ」 二組の視線にうんざりしながら、ピュンマがソファから立ち上がった。 「あのさ。最初から僕はここに居たんだけど――っていうか、ジョー。お前な。フランソワーズが帰ってきて嬉しいのはわかるけど、オセロの勝負中だっていうことすっかり忘れてないか?」 そうでした・・・とジョーが小さく言った時には、ピュンマは既にリビングを後にしていた。毎日、フランソワーズが帰ってくるたびに繰り広げられる同じような光景にうんざりしながら。
***** |
11月18日
「で?」 ジョーは前髪を掻き上げて、じっと見つめた。その褐色の双眸からは何も読めなかったので、フランソワーズは思わず一歩後退しかけ、けれどもこれじゃいけないわと自分を叱咤し踏みとどまった。 「で?じゃないわ。どうして言ってくれなかったのよ!私がどんなに驚いたかわかる?」 そうしてジョーの目の前に中吊り広告を広げてつきつける。 「・・・言ってなかったっけ?」 一瞬いたずらっぽく煌いた褐色の瞳をフランソワーズは見逃さなかった。 「も、ジョーのばか!」
***
迎えに行くよというジョーの電話を一方的に切って、レッスンのあと一目散にギルモア邸に帰って来たフランソワーズは、リビングで談笑中のジョーを捕まえて部屋へ引っ張ってきたのだった。 「酷いよなぁ。迎えに行くって言ったのに、さっさと電話を切るんだもんなぁ」 何しろ街中に彼のアラレモナイ姿が溢れているのだ。当の本人が呑気に現れたら、一体どういうことになるのか。 「なんで冗談なんだよ。あーあ、帰りにメシでも食って、ドライブでもして――って予定だったのに」 自分で言って、頬が熱くなるのがわかる。 「ハダカじゃないよ。ちゃんと着てる」 街中に溢れているポスターと、テレビで流れているCMは若干違いがあるのだった。 「テレビのほうがずうううっとやらしいわ!」 フランソワーズはジョーの髪をぐしゃぐしゃっと両手でかき混ぜた。 「わ、何するんだよ」 ジョーの頭を両手で挟み、自分の方に向かせて――そして、言葉に詰まる。真っ赤に染まる頬。 「――いやっ。何だか言うのも悔しいっ」 ジョーのばかばか、と言いながらなおもジョーの髪をくしゃくしゃにする。 「コラ、フランソワーズ。いったい・・・」 彼女の両手を掴んで自由を奪ったジョーの瞳に映ったのは、いままさに泣きそうな顔のフランソワーズだった。 「えっ、なに?」 ぎょっとして慌てて手を離すと、フランソワーズはがばっとジョーの首筋に抱きついて――そのままの勢いで、ジョーをベッドの上に押し倒した。 「えっ?フランソワーズ?」 けれども、フランソワーズは首筋に抱きついたまま何も言わない。動かない。 「・・・フランソワーズ?」 おそるおそる腕を伸ばして彼女をそうっと抱き締める。 「・・・、・・・・・」 小さい小さい声で言われた言葉。 「なに?」 やっぱり聞き取れない。 「フランソワーズ。聞こえないよ」 『ばか』だけ聞き取れて、ジョーは苦笑した。そうっとフランソワーズの髪を撫でる。 「・・・そんなに怒るなよ」 いきなりフランソワーズが体を起こした。蒼い瞳の端には涙の粒。 「ジョーのこういう格好を知ってるのは私だけだったのに!!」 ジョーの胸に両手をついて、じいっとその瞳を覗きこむ。 「酷いわ、こんなのっ・・・・私だけが知ってるジョーだったのに」 ジョーがみんなのジョーになっちゃうっ・・・と顔を真っ赤にして泣き出したフランソワーズに、ジョーはやれやれと体を起こした。そのまま、彼女を胸に抱き締めて。 「――大丈夫だよ。僕は誰のものでもない」 鼻をすするフランソワーズの髪に優しくキスをして、そうっと耳元で囁いた。 「――だって、きみしか知らないよ?」
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「・・・・・・・ば。バカじゃないのっ」 どうしてこんな事を真顔でさらっと言うひとが自分のカレシなんだろう? 褐色の双眸を見つめつつ、フランソワーズはしみじみと思うのだった。
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11月17日
考えてみれば、クリスマス商戦緒戦である。 冷静にそう思ってはみるものの、街中に溢れるジョーのポスターに、フランソワーズはくらくらしてきた。 ――あら。意外といいかも。 でもジョーに似合うかどうかは別問題だわ・・・
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「ジャーン!!」 擬音とともに目の前に広げられたそれに、フランソワーズは数度瞬きをした。 「・・・どうしたの、これ」 先程駅で見たポスターが何故か更衣室にあるのだった。 「――ねぇ?」 フランソワーズのロッカーに貼ってあったのは、電車の中吊り広告で、いま更衣室にあるポスターよりも随分小さかった。が、ジョーが写っていることには変わりがない。 「・・・別に、欲しくないわ」 じっとりと絡みつく視線をまともに受けて、フランソワーズはややたじろいだ。 「い、いいわよ、別に」 頬を膨らませ、むっつりと黙ったフランソワーズの手に無理矢理それを持たせた。 「いいから、持ってなさい、って。後でじっくり見るぶんには誰も何にも言わないからさ」 とりあえず、そうっと手元に目を落とす。 「・・・・っ」 今朝からあちこちで目にしていたものの、改めて身近で見るとまた格別だった。 ――ち、違うわ。格別、って何なのよ。こんなの、私はよく見ているから慣れているし・・・ けれども、一体ジョーはいつの間にこういう仕事をしていたのだろうかと思うのだった。
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11月16日
ジョーって有名人なんだなぁ・・・って思うのは、彼の姿をいつも通る場所で見かけた時。
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今日は午前中からレッスンだった。 ギルモア邸の前の長い坂道を降り切ったところに、一時間に5本しか走らないバスの停留所がある。 よく知っているひとがいる。――たくさん。 島村ジョー。別名、ハリケーン・ジョー又は音速の騎士。 そのひとが駅構内の壁という壁に――いる。 ――なにこれ。・・・聞いてないわよ、ジョー。 傍らには嬌声を上げて壁から剥がす女子高生のグループ。よく見てみれば、あちこち剥がされた後がたくさんあった。 「・・・・」 軽く肩をすくめ、改札を通り電車に乗った。そして再び声を失った。 中吊りの彼はあっという間に――それこそ、見ている間に外されてしまう。 軽くため息をついて視線を車外へ移す。 もうっ、心臓に悪いわ!! 隣の女子高生たちは戦利品を広げて見入っている。 「かっこいいよねー!」 ・・・残念ながら、ジョーはつけてないわ。そういうのは。 心の中で返事をする。 大体、こういう仕事もしていたなんて――聞いてないわよ、ジョー。 そう――街は島村ジョーがモデルを務めているある製品の新作ポスターで埋められていたのだった。
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11月14日
「――抱っこ」 両手を伸ばし、甘えるようにジョーを見つめるフランソワーズ。 「ええっと・・・」 ジョーはキョロキョロと周囲を見回し、リビングに自分たちの他に誰もいないことを確認した。 「――フランソワーズ。いいかい?ここは僕のマンションじゃなくて、ギルモア邸だ」 いまここには誰もいなくても、ギルモア邸内には博士をはじめ、みんな居るのだ。そうっと移動したとしても、途中で誰かに会わないとも限らない。それが他のメンバーならいいが、もしも博士に会ってしまったら・・・ 「だって・・・ズルイ」 その時はキスの最中だったはずだ――とジョーはげんなりした。せっかくうまくいったと思ったのに。 「――見てたのか」 「女優さんは抱っこしたのに」 むう・・・と唸って、フランソワーズは眉間に皺を寄せた。 「ジョー、ずるい」 軽く唇を尖らせたフランソワーズにヤレヤレと息をついた。 全くどうして僕は彼女にはこう甘いんだろうな―― 「――わかった。だけど、どこで誰に会っても僕は知らないよ」 腕を伸ばしたジョーに笑顔で身を任せ、自分は彼の首筋に腕を回した。 「――加速装置を使えば一瞬でしょ?」 ジョーは一瞬、天井を見つめ――次の刹那に加速装置を噛んだ。
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11月13日・その2
嫌がるジョーの腕を掴み、テレビの前に陣取った。 「こういうのは一緒に観るから楽しいのよ?」 そうしてフランソワーズが腕に寄り添ったので――ジョーは身動きが取れなくなった。 「・・・観てもツマラナイよ、きっと」 ジョーは無言で顔をしかめた。既に先刻から嫌そうな不機嫌な顔をしているから、更にしかめたその表情は―― 「何変な顔してるの」 見つめたフランソワーズも思わず噴き出すほどだった。 「――だから。いいよ。僕は」 腰を浮かしかけたジョーの腕に抱きついてソファに戻す。 「・・・フランソワーズ。勘弁してくれよ」 べーと舌を出したフランソワーズにヤレヤレと息をつく。そして――目を瞑った。無の境地に身を置くために。
***
フランソワーズが楽しみにしていたのは、例の「好きな食べ物4種のうちに食わず嫌いの一品があり、それを当てる」コーナーである。今日の放送は「レーサー・島村ジョー」がゲストなのだった。 ジョーは登場から、とりあえずはにこやかに話しており――おそらくいま画面を見つめているであろうファンを釘付けにしていた。もちろん、フランソワーズもそのひとりである。 スタイリストが選んだのは、爽やかなブルーのシャツに、濃紺のジーンズだった。 「・・・ヤダ。ジョー、かっこいい・・・」 腕を掴まれた先でウットリ呟かれ、ジョーはぎょっとして隣を見た。 「――フランソワーズ?」 ジョーはこういう状態のフランソワーズを見るのは――初めてではなかったが、久しぶりですっかり忘れていたので驚いた。 「・・・本物はこっちなんだけど」 コーナーは淡々と進んでいる。対戦相手の若手女優はジョーのファンらしく、先程から頬を染めて言葉もでてこないようだった。お互いにお土産を披露しても、うっとりと「そのケーキ屋さん、行ってもいいですか?」と呟くだけで。 「相変わらずもてますねー。ハリケーン・ジョー」 ポツリと言われ、これは妬いてるのか、だったらやっかいだなと声の主を見つめると、全くやっかいな状況ではなく、楽しそうににこにこしているのだった。 「・・・楽しそうだね」 そうして勝負が始まった。 が。 ジョーが卵焼きを口にしたところで――なんとコマーシャルが挟まれたのだった。 「・・・とんでもないこと?」 ちらりと隣を見るが、当の本人は目を瞑ったままこちらを見ない。 「・・・最初のお料理でしょう?いきなりコマーシャルなんて変よね?」 アヤシイ。とじいっと見つめてみるが、彼はその視線を受けても全く動じず目を閉じたままだった。 そうこうしているうちに画面が切り替わり、ジョーが卵焼きをひとくち食べたシーンが映った。 ジョーはひとくち食べた途端に眉間に皺を寄せ、手元の卵焼きの側面をのぞいたのだった。 「参りました」 と言ったのである。 「――え!?」 まだ一品目である。実食タイムでも何でもないのだ。なのに勝手に「参りました」? 当然、そこにいる進行役も相手女優もスタッフもパニックになった。 と。 『※本当は島村さんの嫌いなものはプリンでした』 「ジョー?なによこれ」 ジョーは目を瞑ったままである。 「だって、卵焼きでしょ?いったいナニがあったのよ」 画面に大写しにされた「ジョーの食べた卵焼き」を見つめ、フランソワーズは目を丸くした。 すると、そこで情報が届いたらしく、 「お砂糖よ?」 フランソワーズはきょとんとして答えた。 「・・・みりんで味付けなんて、知らないもの。でも・・・甘いのは甘かったんでしょ?どうしてちゃんと食べなかったのよ」 ぼそり、と低い声が答える。 「それにしたって、大人なんだから空気を読まなくちゃだめじゃない」 さすがにそのあとはやっつけ仕事のようになっていた。 「――まぁ、予想通りといえば予想通りの展開だったわ、・・・ってことよね」 フランソワーズは自分に言い聞かせるように言った。 ――もう。私のレシピじゃないと駄目、ってどういうことよ。 遠征中はそれなりに現地の食べ物をちゃんと食べているのだ。だから、どうしても「フランソワーズのゴハン」でなければならないということはないはずだった。 「卵焼きは別なんだよ」 そんなフランソワーズの心中を読んだかのようにジョーが言う。 「フランソワーズのじゃなきゃイヤだ」 確かに、遠征先でそれが出ることは殆どない。 「・・・もう。仕方ないひと」
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二人はその後、お互いを見つめることに夢中で全く注意を払っていなかったのだが、画面では「ジョーの罰ゲーム」が行われていた。 ――が、ギルモア邸のリビングには、唇を「喋る事」以外に使うのに一生懸命なふたりしかいなかった。
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11月13日
ジョーはいま一度、周囲を見回した。 「もうっ!ジョーったら!」 ふわふわのファーに顔を縁取られ、上質なカシミアをまとったフランソワーズが現れた。 「ね、これどう?」 くるりと彼の前で一回転。そしてもう一度ポーズをとる。 「・・・いいんじゃない?」 するとフランソワーズはつんと唇を尖らせた。 「またそう言う。――駄目よ。そういうの禁止」 ああ、そうですか・・・というジョーの呟きはもちろん黙殺される。 「だからさ。好きなブランドの店でゆっくり選べばいいじゃないか」 銀座本店で選ぶのを勧めたのだが。 「イヤよ。たくさんのショップのを色々見て、自分の好みでしかも安いのを探したいの!」 ジョーは図星だったので、そのまま黙った。 「大体ね」 ひとさしゆびをぴんと立てて、ジョーの鼻先を指差す。 「何でも気に入ったのを買えばいい、っていう金銭感覚、よくないわよ?何とかしなくちゃ駄目。そりゃ、アナタは余るほどお金があるのでしょうけど、――いい?あるから、って使っちゃったら、来年になって泣くことになるのよ?」 契約を継続することになっているから、別に路頭に迷ったりはしないけどな――と、思う。 「そう、来年。いい、ジョー。住民税っていうのがアナタにはかかってるのよ」 「あったり前でしょ!誰がその手続きをしてると思ってるの。ジョーは年俸制だから、お給料の天引きじゃないんだから」 妙に詳しいフランソワーズをぼんやりと見つめ、で、今それがこの状況にどう関係あるのかと考える。 「だから、欲しいのは一着なんだから、気に入ったからってあれこれ買う必要なんてないの。わかった?」 ああ、そういう話だったな――とジョーは思い、大きくため息をついた。フランソワーズの前で。 「もうっ。さっきは欠伸、今度はため息。・・・ジョーったら、私と居るのがそんなにつまらないの?」 フランソワーズと一緒に居るのがつまらないとか退屈というわけでは断じてなかった。 「じゃあどうしてそんなに眠そうなのよ?」 百貨店の婦人服売り場に来てから、軽く2時間は経っているだろうか。 ――さっきのコートと今のコートのどこがどう違うっていうんだよ? 何度もそう思ったものの、声に出しては言えなかった。もし言ったら、その10倍は返ってくるはずだからだ。それも、ジョーの知らない用語を並べられ、嬉々として言うのに違いないのだ。 各ショップの店員たちも、ジョーには全く注意を払っていなかった。 「で、これどうかしら?」 きらきらした目で見つめられる。 「・・・」 何か意見を言わなければと思いつつも、いったい何を言ったら彼女はこの苦行から自分を解放してくれるのかわからなかった。 「ね。どう?」 繰り返し訊かれる。困ったな・・・と思っているところへ、フランソワーズと店員の会話が耳に入った。 「この色、気に入ってるんだけどよく出ているのかしら」 「フランソワーズ。僕はそれが気に入った」 フランソワーズと店員が同時にジョーを見る。が、二組の瞳に見つめられてもジョーは動じない。 「今までで一番似合ってるし、僕はきみにそれを着て欲しい」 じっと見つめる先の褐色の瞳の持ち主は、にこにこと笑んでいる。 「・・・でも」 実は、フランソワーズの心が決まった時のキーワードは「でもどうしよう・・・」なのだった。そして、そこで強く勧めれば必ずそれに決まるということも知っていた。 「ねっ、フランソワーズ?」 微かに頬を染めて、フランソワーズは小さく「じゃ、これにする」と呟いた。
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ストレンジャーに戻ってほっとしたジョーは急に元気になった。傍らのフランソワーズも、気に入った一着を購入して上機嫌だった。 「どうする?湾岸をドライブとか――それとも、もうちょっと遠出する?」 ちらりと隣のジョーを見つめ。 「あんまり遠出すると時間までに帰って来られないでしょう?それは困るわ」 むしろそれが狙いなのだ――とは言えなかった。 「だって、今夜でしょ?ジョーが出るの。ちゃーんと録画もしなくっちゃ」 録画するならいいじゃないか、後でゆっくり見れば。と思いつつ、それも言い出せないジョーだった。 「ね?一緒に見ましょうね」 イヤ、僕は別に見たくない。という声は、当然の如く無視される。 とある番組の人気コーナーの放送が今夜だった。今日のゲストは島村ジョー。
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11月11日
「ジョー?何見てるの」 随分間近で可愛い声がしたのと同時に、目の前に差し出されたのはデコラティブなポッキーだった。 「はい、あーん」 わけがわからないものの、言われるままに素直に口を開けると、デコラティブなポッキーは口の中へ入った。 「美味しい?」 ポッキーというお菓子は、棒状のスナック菓子にチョコレートがコーティングされているものと信じて疑わないジョーは、いま口のなかに広がるそれが、どう味わってもイチゴなのが解せなかった。 「じゃ、私も」 ジョーがポッキーに関する疑問を口にする前に、彼が食べているそれを反対の端からかじりだしたフランソワーズ。 「?!」 どんどんこちらに向かって進んでくる。 「――ほんと。美味しい。ね?」 にっこり彼女が笑ったときには、ジョーの口の中のイチゴ味はすっかり消えてなくなっていた。
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自室で机に向かい、パソコン画面に見入っている時だった。 「・・・あら?なにこれ・・・」 ジョーに構わず、彼の目の前に展開されているパソコン画面を見つめる。 「ん・・・?――えっ?ヤダ、ジョー、これって」 頬をさっと朱に染め、振り返ったフランソワーズの視線の先にいるのは、もちろんジョーである。が、彼はまだ先程のフランソワーズの行動に動揺しており――頬を染めて呆然としたまま我を忘れているのだった。 「――え。あ」 ちら、と横目で画面を見る。 「――まだまだずうっと先よ?」 「てっきり車の資料でも見ていると思ったのに」 蒼い瞳に凝視されて、照れたように視線を逸らす。 「だけどホラ、きみの夢だったんだし、それが実現しそうなんだろう?」 そう言って、フランソワーズはそうっとジョーの肩におでこをつけた。 「『ジゼル』のストーリーなんて、・・・あなたが知ったら何ていうかわかってるもの」 ジョーのパソコン画面に展開されていたのは、バレエ「ジゼル」に関する資料だった。 「僕は別に何も」 そう言うと、ジョーはフランソワーズの手に握られたポッキーの箱を奪い取り、中から一本取り出した。 「――ほら、フランソワーズ。食べないと僕が全部食べちゃうよ?」 言いつつ、端っこと端っこから食べるお菓子の味は、今度こそちゃんとふたりともきっちり味わうこととなった。
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11月9日 (続きじゃなくてスミマセン・・・)
「――ね。好きなものをここに書くようになってるわよ?」 フランソワーズがジョーに向かって紙をつきつける。仁王立ちで。 ここはギルモア邸。 「もう、ジョー?ちゃんとこっち向いて」 けれどもこちらを向かないジョーにフランソワーズは大きくため息をついて言い放った。 「わかったわ。じゃあ「好きなもの」のところに嫌いなものばっかり書いちゃうからね!」
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ジョーがとある番組のコーナーに出演するのが決まったのが2日前。 「お土産を持っていかなくちゃならないのよ」 どれを選んでも、絶対そのネーミングに絡んで何かネタにされるような気がしてならないジョーだった。 「んー、そうねぇ・・・」 一方フランソワーズは、自分が出るわけでもないのにテンションが高かった。どうやら好きな番組のひとつらしい。 「『食べ頃のきみは僕のもの』とか」 一瞬ジョーを見つめ、何か言いたそうに口を開き――閉じた。 「・・・ええと、じゃあ・・・『恋の始まりはアップルパイ』は?好きでしょう、アップルパイ」 実は先刻から「好きなもの」を書く欄にフランソワーズが何か書こうとすると――「僕の好きなのは、フランソワーズの作った卵焼き」「あ、違うよ。好きなのはフランソワーズの作ったハヤシライス」「だから違うって。僕の好きなのは――」と延々と続き、必ず「フランソワーズの作った」という言葉を入れるよう訂正されるのだった。 「いいよ、適当に書いておいて」
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11月7日
――またか。 先程から、左の頬に張り付くような熱い視線を感じる。 F1レーサー、島村ジョー。ニックネームは「ハリケーン・ジョー」もしくは「音速の騎士」。 そんなわけで、仕事柄「見られる」ことには慣れていたが、そろそろ世間が自分を忘れてきたこの頃は、内心ほっとしていたのだった。 「・・・・」 頭を掻き毟りたい心境。 コーヒーカップを持ち上げかけ空だったことに気付き、仕方なく水の入ったコップに手を伸ばす。目の前に広げた車の雑誌も、既に5回読んだ。いまテストされればどの記事も暗誦できそうな気がする。
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「ジョーって男の人にももてるのね?」 フランソワーズにそう言われた時は呆然とした。 「えっ、なん・・・」 ね?と蒼い瞳に見つめられ、ジョーは慌てて首を横に振った。 「ち。違うよ、それはっ」 口元を歪め、嫌そうに答える。 「それとも・・・慌てるってことは、実はそうだったりして」 フランソワーズの髪を洗う手を止め、シャワーでシャンプーを流す。 「俺がきみ以外のひとに目がいくとまだ思ってるわけ?」 濡れた髪を除けて、じっと蒼い瞳が褐色の瞳を見つめる。 「・・・ううん。だってジョーは私に夢中なんでしょう?」 ちゅっと洗い髪にキスをして、ジョーはフランソワーズを抱き締めた。 「・・・フランソワーズ」 むにっと頬をつままれる。 「いてて」 大森林での出来事は――特に、地雷原をジョーを横抱きにして跳んだ武勇伝は禁句なのだった。
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――遅いなぁ。 フランソワーズを待つことは苦ではなかったが、いまこの店にいること自体が苦痛になってきていた。 テーブルの上には、フランソワーズおすすめのケーキが手付かずで残っている。 「絶対、これ頼んでね」 ――というわけで、彼女のためにキープしているのだ。「キスだけが知ってる秘密」という名を冠したチョコレートケーキ。 ・・・オーダーする身になってくれよ。 最初はメニューを指でさしてみせたのだが、先刻から熱い視線をジョーに送っているウエイターは、ちゃんとフルで音読しないと受けられませんとしれっと言ったのだった。 なんなんだよ、キスだけが知ってる秘密、っていうのは。 フランソワーズが面白がってわざとそれを選んだのをジョーは知らない。
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11月5日
ジョーのそばにいるといつも泣きたくなる。 「・・・フランソワーズ?」 がっくりとうなだれるジョーの肩をヨシヨシと撫でるしかなかった。 「ゴメン。・・・僕が」 ため息をひとつ。 「・・・じゃあ、少し休んだらもう一度」 いつものことだった。帰国した時はいつも。 「――それにしても、作りすぎだよ、フランソワーズ」 テーブルの上に乗り切らないくらいの料理がそれぞれの皿に山盛りになっていた。 「じゃあ、ちょっと寝たら?・・・眠そうよ?」 瞳を丸くしたフランソワーズを抱き寄せる。 どんなに抱き締めても、見つめても、名を呼んでも全然足りないなんて知ったら、きっと――
「ジョー?・・・眠ったの?」 本当に眠っちゃったら寂しい。っていうのはやっぱりワガママかしら?
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11月4日
ゲートを通り、出てきたその人は黒いパンツに白いシャツ姿だった。カートを使わず、大きなトランクを簡単そうに運びながらスタッフに手を振り、大きなあくびをひとつ。 思わず一歩進もうとして上げた足がそのまま固まった。 どこからか湧いて出た若い女性の群れにその彼は呑まれ――両手に花ならぬあらゆるところに花をはべらせ、カメラにおさまった。その撮影会は永遠に終わらないように思えた頃、やっと解放された。 今度こそ、と思い、大きく手を挙げ名を呼ぼうとして――再び固まった。 目的の人物をじっと見つめる。が、もちろん彼は全く気付く様子もない。 その彼は、たった今彼の名を呼んだ栗色のロングヘアーの女性につかまっていた。 「・・・・え」 目の前の情景に混乱し、思わず声が出た。 そのまま、彼は彼女の腰に手を添えて促すように歩き出す。どうやら一緒に帰るようだった。 「・・・嘘。――どうして」 彼に会えると弾んでいた気持ちが急速に落ち込んでゆく。 「・・・ジョー」 ポツリとこぼれるようにその名を呼んだ。 すると、不意にその彼が足を止め――サングラスを外し、辺りを見回した。 「・・・ばか」 無意識に呟く声は、簡単に空港内のざわめきに消されてしまう。 「やっぱりフランソワーズだ!」 満面の笑みで彼女の身体に腕を回し、ぎゅうっと抱き締める。 「びっくりした!マボロシじゃないよね?」 確認するかのようにキスの雨が降る。 「ん、ヤ、ちょっと」 「――ほんとにフランソワーズだ」 微かに離れた隙に呼吸を整える。 「あの」 「僕のフランソワーズだよね?」 会話にならない。 「嬉しいなぁ。どうして言ってくれなかったんだい?」 キスの雨はやまない。 「嫌だな、ずるいぞ内緒にするなんて。びっくりして心臓が止まるかと思ったんだぞ」 「ね。ジョー。あのひとは」 そう言いかけた時、野太い声が割って入った。 「ったく、節操ないわね、アンタって!」 ・・・誰? 栗色の長い髪。の――野太い声? ??? フランソワーズの頭にクエスチョンマークが乱舞する。 「うるさいな、節操ないのはそっちだろう?」 ――え? 「ね、ジョー、私の声――」 ・・・・・。 「ね?フランソワーズ?」 投げられたキスに嫌そうな顔をするジョー。その腕の中でいまの遣り取りを聞き、フランソワーズはとある人物に心当たった。 「・・・ね、ジョー。今のひとって、もしかして・・・」 言えるもんですか。 ジョーの元チームメイトの元レーサー。当時はジョーととても仲が良く、パートナーとしても最高の二人だったと聞く。 「・・・ジョーのこと好きなのかな」 さっきの雰囲気はとてもそうは思えなかったけれど。 「ね、私の声が聞こえたってほんと?」 自分でも聞こえないくらい小さな声だったのに。 「――聞こえるよ。フランソワーズの声で呼ばれたら」 呼吸の間にキスをひとつ。 「ね。もう一度呼んで」 そうして彼の顔を見上げ―― 「おかえりなさい」
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11月3日
「ええ、わかったわ。――大丈夫よ。心配しないで」 くすくす笑いながら電話をしているフランソワーズを見つめ、ここギルモア邸のリビングには異様な空気が流れていた。 「――ええ。そうなの・・・えっ?」 つんつんと肩をつつかれ、フランソワーズは初めて周りに人がいることに気がついたかのように瞳を丸くした。 「あ、ううん。何でもないの」 電話を代われというジェスチャーに、小さく首を横に振る。 「でね、そうそう、どっちに帰ってくるかしらと思って――あ、」 横から電話をひったくられ、フランソワーズは頬を膨らませた。 「もうっ、せっかくジョーと話してるのに」 そう苦笑いしたのはピュンマ。 「フランソワーズ?どうした」 どうやらこちらも、フランソワーズとの会話を中断させられ御立腹のようだった。 「――オマエさ。こっちには帰ってくるな」 隣で聞いていたフランソワーズはびっくりしてアルベルトを見て、次にピュンマを見た。ピュンマとジェロニモはうんうんと頷いている。 「――あのな。よおく聞けよ?――こっちには何人も人がいる。博士だっているし、イワンもいるんだ。そこへオマエとフランソワーズがその、なんだ、トコロ構わず仲良くしていると色々と問題が起こるんだよ」 過去にそういう場面に遭遇したことはなかったが、それはおそらく単に運が良かったのと――ソレっぽい空気の時は避けていたからだった。 「トコロ構わず、って・・・」 電話の向こうでジョーが絶句する。 「僕たちは別に」 それは確かにそうだったので――ジョーはしぶしぶ承諾した。 「もしもし、ジョー?」 フランソワーズに代わると、 「聞いてた?――うん。むこうに帰るから」 帰ったら、ずーっとずーっとちゅーしようね? 「口内炎も治ったし。大丈夫」 もう、ジョーのばか。――でも、好き。
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11月2日
「会いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会い」 通話ボタンを押した途端、流れてくる言葉の奔流にフランソワーズは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。 「ジョー・・・よね?」 会話にならない。 「ジョー?ねえ、どうし」 しばし耳を澄ませて待ってみる。 「・・・ジョー?」 おそるおそる声をかける。本当に故障だったらどうしようと思いながら。 「ね。今の呪文はいったい・・・」 意味がわからない。 「・・・ジョー?大丈夫?」 最終戦を控え、緊張しているのだろうか。 「あんまり大丈夫じゃないな。フランソワーズのせいで」 そんな時間にジョーと話はしていなかった。 「寝てたんでしょう?」 レース前に夜更かしするような人ではない。 「ああ、寝てたね」 威張ったように言われても困る。何しろ、彼の夢に出演した覚えはないし、彼が勝手に出演させただけなのだから。 「会いたいなーって一回言っても駄目で。しょうがないから、ずーっと言ってる」 朝からずっとこんな具合に連呼していたのだろうか? 「でも、それって他のひとから見たら、危ない人って思われるわよ?」 変なカップルである。 「平気だよ。みんな慣れてるから」 いったい彼は、サーキットで何をやっているのだろう? 「本当は、ちょこっと加速してそっちに行っちゃおうかと思ったんだけど」 ちょっと黙って。 「頑張ってね」
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