−子供部屋−
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)

 

11月29日 

 

ここのところ、ほぼ連日フランソワーズはレッスンに通っている。ジョーの送迎なしで。
ジョーとしては、車から降りなければ誰も自分に気付かないのだから、せめて送り迎えはさせてくれというところだったが、今はレッスンの時間が不定期だから、こっそり迎えに行くということもできずにいた。
連日のレッスン。
フランソワーズはいま、バレエの事しか考えていないようだった。
帰ってきても、ジョーに会わずに寝てしまうこともしばしば。
ジョーは甚だ不本意ではあったけれど、自分もオンシーズンにはレースのことしか頭になかったから、フランソワーズの気持ちも十分にわかっていた。レッスンで疲れているのだから、すれ違いが多くなっても仕方ないと我慢した。
フランソワーズが言うには、今は公演前の大事な時期であるという。
ということは、既に公演に向けてのレッスンに入っているのかというとそうではなく、配役を決める時期だということらしい。
彼女の気合いが入るのは当然だった。なにしろ、演目は「ジゼル」。フランソワーズが憧れてやまない演目だった。
もちろん、初めて踊るわけではない。今までだって、バレエ団としての演目に無かったわけではない。が、「ソロ」を踊りたいという夢は叶えられていない。だから、今度こそという強い気持ちがあった。
ジョーはそんな彼女を心から応援していた。
夢は手に届かないうちは単なる夢に過ぎないけれど、もうちょっとで掴める、という所まできたら、あとは自分の強い思いだけなのだ。自分はそうしてワールドチャンピオンを勝ち取った。
もちろん、自分ひとりの力ではなく信頼できるスタッフや――何より、フランソワーズの存在があったからこそだった。
会えなくても、いつでも自分を信じてくれているひとがいる。
そう思うだけで、そう伝えられる度に、気持ちが温かくなり頑張る力が湧いてくるのだった。

だから、今度は自分が彼女の力になりたい。

すれ違いばかりでも、同じ家に住んでいるのに会えない日が続いても――我慢した。

 

***

 

「――ねぇ、ジョー?」

久しぶりの逢瀬――というのは大袈裟に過ぎなかったけれど、それでもお互いにとっては何週間も会ってないような気分だった。
だから、レッスンが休みの今日は朝からずうっと一緒にいた。

フランソワーズがジョーの顎のラインを指でなぞりながら、甘えたように呼ぶ。

「――ん。なに?」

腕のなかの彼女を抱き締め直し、額にキスしてからジョーは蒼い瞳を覗きこんだ。

「来週、配役が決まるの」
「そうか」
「・・・役についたら、観に来てくれる?」
「えー」

口元を歪めて嫌そうな顔をするジョーの鼻をぎゅっと掴む。

「もうっ。いっつもそんなカオするんだから!」

彼が観に来ないわけは知っているけれど、もしかしたらと期待してみるのは毎回の事だった。そうして断られるのも。

「――役についたら、っていうのが気に入らない」

けれども今回は少し展開が違っているようだった。
真面目な声で言われて、フランソワーズは瞳を丸くした。

「え?・・・もしかして、来てくれるの?」
「うー・・・・ん」

何しろ、彼女の憧れの「ジゼル」である。
ジョーとしても、彼女の夢が叶う舞台なら観に行くのはやぶさかではなかった。

「ほんと?」

体の向きを変えて、ジョーの胸に肘をついて顔を覗きこむ。フランソワーズの髪が頬をかすめてジョーはくすぐったそうに笑った。

「うん。――ただし、条件がある」
「条件?」
「さっきフランソワーズが言ったみたいなのはダメだ。気に入らない」
「さっき言ったの、って・・・」
「役についたら、って言っただろう」
「ええ」
「そんなのダメだ」
「どうして?」

ジョーは見つめてくる蒼い瞳をしっかりと見つめ返した。

「役についたら、じゃなくて――役につくから、観に来いというべきだ」

褐色の瞳の強さに、一瞬フランソワーズは口がきけなくなった。
これが――チャンピオンになった男の瞳なのだろう。強い意志と断固とした決意、揺るがない自信が見える。

「・・・でも」
「何が心配?」
「・・・村娘のソロが踊れればいいなって思っているのよ?」
「いいな、じゃなくて絶対踊る。だろ?」
「・・・・うん」
「それも、村娘のソロじゃなくてジゼルを踊る」
「っ、そんなの無理よ」
「何故?」
「だって、私にはまだきっと無理――」
「無理じゃない」
「でも」
「無理って自分で決めたらそこで終わりだ。――僕のフランソワーズはそんな子じゃない」
「・・・そんなの、ジョーは私を買い被りすぎよ」

目を逸らすフランソワーズの顎に手をかけて自分の方を向かせ、ジョーは優しく言った。

「そんなことないよ。――フランソワーズはちゃんと力を出し切って、主役を取る」
「でも」
「きみはいつでもそうだっただろう?僕が挫けそうになっても励ましてくれた」
「だけど」
「敵に囲まれて諦めそうになっても、活路を見出してくれた」
「・・・それが私のちからだから」
「そうじゃない」

一瞬、顔を寄せて、ジョーはフランソワーズの頬に唇をつけた。

「――違うよ。きみは絶対に諦めない。強い気持ちを持っている。いつでも」
「そんなこと・・・」
「大丈夫。――きっと、フランソワーズは夢を叶える。僕はそう思う」
「・・・でも」
「でも、じゃないだろ?――ホラ。いつもみたいに言えよ」
「だって、ジョー」
「だって、じゃない」
「だけど」
「だけど、じゃない」

ジョーの褐色の瞳を見つめて。
その奥にある彼の自分に対する気持ちが見えたような気がして、フランソワーズはちょっと黙った。
自分のなかの気持ち。夢を夢だけで終わらせたくない気持ちと、その夢を応援してくれるひとがいると知る気持ち。
これで頑張れないとしたら――それは、自分じゃない。

「・・・絶対にジゼルを踊るから、観に来てくれる?」

頬を紅潮させて、輝く蒼い瞳。
その強い視線にジョーはにっこり笑った。

「もちろん。行くよ」

 


 

11月27日

 

まだ11月だというのに、街は既にクリスマスモードに入っていた。
ひとり買い物に出たフランソワーズは、隣にジョーがいないのを寂しく思い・・・思ったりはせず、どちらかというと浮かれていた。軽くスキップなんかもして。

だって、ジョーがいるとゆっくりお店を見れないんだものっ。

アクセサリーショップや、可愛い雑貨の置いてあるお店、それから手ごろで可愛い家具の置いてある店や洋服店。
どれもこれも、ジョーが一緒だとゆっくり見ることはできなかった。

だから男の人ってダメよねぇ。選ぶ楽しみ、っていうのがわかってないんだから。

ジョーだけを指して「男の人ってダメよねぇ」と言っているわけではなかった。何しろ、同居している成人男性はまだまだ複数居るのだから。
その誰もが同じ行動しか取らず、ジョーはちょっとはマシな方だった。――惚れた弱味である。

今年のクリスマスはどうしようかしら。

いつもは、ジョーと一緒にパリに帰る。
そうして兄と3人で年を越すのだった。

でも・・・。

去年のことを思うとなんだか気が重くなった。

またお兄ちゃんと別々なのかなぁ。・・・いくら「兄離れ」しなさい、って言われても、はいそうですかって訳にはいかないのに、お兄ちゃんもジョーも全然わかってないんだから。

とはいえ。

ん、でも、ジョーと二人だけで歩いたパリの道もなかなかロマンチックで良かったわ・・・

そう思うと、やっぱりお兄ちゃんはいなくてもいいかなとも思う。
だったら、パリに帰らず日本で過ごしてもいいわけで・・・

あ、でもっ。そうしたら、おせち料理とか作らなくちゃいけないの?

弾んでいた足が止まる。

あんな難しい、日本の料理の究極を、私が作る?!――そんなの、無理っ。
それにジョーは、きっと――苦心して作っても、甘いのしか食べないのに決まってるんだから!!

街にはクリスマスプレゼントの下見に来たはずだったのに、つい本屋で「おせち料理」の本を見てしまうフランソワーズだった。

もうっ・・・。絶対、無理!!

 

*****
イヤイヤ、ちゃんとパリに行きますから。・・・たぶん。

 

一方、ジョーはその頃。

・・・ヒマだなぁ・・・

リビングでテレビを見るのにも飽きて、自室でネットをしていたのだけどそれも飽きて、ベッドに寝転がって雑誌を読んでいた――が、意識は他へ向かいがちだった。

まだ外に出るな、って言われてもなぁ・・・留守番も飽きたよ。

今日、ひとりで出かけたフランソワーズの姿を思い出す。

ジョーはダメよ、って嬉しそうに言っちゃってさ。いったい、どこで何してるんだか怪しいもんだ。

電話して構ってもらおう――と、携帯を開いたものの、結局通話ボタンは押せなかった。
小さく舌打ちして、仰向けに寝転がる。じっと天井を見つめて。

――そういえば、クリスマスプレゼントの下見の下見、って言ってたな。

下見の下見、っていったい何だと思いつつ、フランソワーズの姿を思い出す。
ハーフコートを着て、ブーツを履いて、ふわふわのマフラーをして。寒くないのかと思うような短い丈のスカートで。
可愛かったなぁ、一緒に歩きたかったなと思うのと同時に、そんなカッコで行くのかよ?とも思ったのだった。

・・・ふん。変なのに声を掛けられても知らないぞ。

拗ねたように横向きになる。

クリスマスプレゼントか・・・

何をあげたらいいのかまだ決まっていないけれど、うすぼんやりと構想はあった。毎年そうだが、ジャン兄と相談して決めているのだ。何しろ、ふたりの連動企画モノは年に一度のクリスマスだけなのだから。

フランソワーズは何をくれるんだろう?

誕生日の時みたいにリボンを巻いたフランソワーズでいいのにな・・・と思いながら目を閉じた。

 

***

 

「はあ?何言ってるの、ジョー?」

呆れたように細めた蒼い瞳に、ジョーはむっとして言い放った。

「別に、そんなに変なことを言ったつもりはないけど」
「変なことでしょう?」

買い物から帰ったフランソワーズは、真っ先にジョーの部屋にやって来ていた。そして、外がどんなに寒かったのかと、そろそろジョーのポスターも見かけなくなってきたことを報告していた。
ベッドで大の字になって天井を見つめながら聞いていたジョーは、フランソワーズの報告がひと段落したところで、さっきの自分の思いつきを言ってみたのだった。
さっきの思いつき――つまり、リボンを首に巻いたフランソワーズを。

「あれは、お誕生日だったから特別なの!普段はしません!!」
「クリスマスだって誰かの誕生日じゃないか」
「誰か、って・・・」

どうしてこんなことでジョーがごねるのか、フランソワーズは天を仰いだ。

「大体、リボンもないのに」
「それなら大丈夫っ」

加速装置を使ったのかと思うくらいの早業で、ジョーはベッドから降りると机の引き出しからソレを取り出した。
蒼いサテンの細いリボン。

「じゃーん!」
「・・・・・・・」

むこうのジョーの部屋に置いてあったはずなのに、どうしてここにあるのだろうと呆然とした。

「・・・わざわざ持ってきたの」
「うん」
「・・・・どうして」
「何かの時に使えるかと思って」
「・・・・・何かの時って何」
「ホラ、クリスマスとか、さ」

目の前の満面の笑みを浮かべたジョーに、わざと大きくため息をつく。

「・・・・そんなの、やりません」
「えーっ」
「・・・だって、『プレゼント』よ?」
「そうだよ?」
「一日限定なのよ?」
「うん・・・?」
「ジョーはそれでいいの?」
「え」

私はイヤだわ・・・!と、ジョーの胸に頬を寄せた。

「プレゼントしなくたって、いつでも私は」
あなたのなのに。

 


 

11月24日

 

「――フランソワーズ。もういいだろう?」

ジョーの懇願するような声が響く。
それは湯気と一緒になって、バスルームに満ちてゆく。
フランソワーズは鼻歌をやめず、ジョーの髪を洗う手も休めなかった。

「ダメよ。あなたはあと・・・そうね、二週間くらいは外に出ちゃだめ」
「ええーっ。二週間??」
「そ。世間がクリスマスに興味を移す時期になれば、おそらく大丈夫だから」
「・・・フランソワーズはそれでいいの」
「ん?」
「どこにも行けなくて」
「あら、私は行けるもの」

楽しそうに言うフランソワーズに唇を尖らせ、ジョーは小さく呟いた。

「・・・そういう意味じゃ、ないんだけど」

その声がフランソワーズに届いていたのかどうか。
髪を洗う手が止まったと思うと、予告もなくお湯を頭から浴びせられジョーは閉口した。

もっと優しくしてくれてもいいと思うんだけどなぁ・・・

「何か言った?」

ひょい、と蒼い瞳が覗き込む。

「別に」
「――いま、優しくないとか思ったでしょ?」
「え」

ぎくりと顔を強張らせると、フランソワーズは呆れたようにジョーを見てから、再度お湯をかけた。

「――目に入る」

目をこすりながら文句を言うジョーの前髪をかきあげて、その額にそっと唇をつけた。

「・・・もう。ジョーはばかね」
「なんだよ突然」

フランソワーズの手を振り払いながら、拗ねた声でジョーが言う。
どうも外出禁止令が出てから、ジョーはフランソワーズと接する時は拗ねモードになるようだった。
そんな彼をじっと見つめ、フランソワーズは彼の鼻をつんとつついた。

「二週間経っても、まだクリスマスは終わってないわ。だから、一緒にイルミネーションを見に行けるのよ?」
「別にそんな事言ってないじゃないか」
「そう?」

うるさいなぁと横を向いたジョーの髪を撫でる。
人工毛髪なのに、寝癖がつくのって不思議だわ・・・と思いながら。

今日の「あっちむいてホイ」勝負は、フランソワーズの圧勝だった。だから、ジョーの髪を洗う権利を手にしたわけだが、どうもジョーがわざと負けたように思えてならない。
構って欲しいと全身からにじみ出ているようだった。

――甘えんぼね。

ジョーは出かけられなくても、反対に自分は連日レッスンがあるのだった。
次回の公演は「ジゼル」。どうしても役につきたかった。
そんな自分の思いを十分知っているジョーなのだが、いつもと逆の、フランソワーズが不在で自分は家にいるという状況はなかなか慣れないようだった。

だから、いつもよりも構って欲しいみたいで拗ねる日が多い。
それは全く気にならなかったけれど。

「ジョー?」

そっと手を重ねる。

「私、いつものようにジョーと一緒にお出掛けするの、楽しみにしてるのよ」

こちらを見ない横顔に言ってみる。
拗ねて怒っているはずの彼の頬が、嬉しそうに緩んだ。

 


 

11月21日

 

「ただいまーっ」

玄関で声がしたと思ったら、その声の持ち主はあっという間にリビングのドアを開けていた。

「ううっ、寒かった」
「おかえり。だから迎えに行くって言ってるのに」
「冗談でしょ。ほとぼりが冷めるまであなたはここから出ちゃ駄目よ」

まるで潜伏中の逃亡犯のような言われようである。

「・・・とっくに冷めていると思うけどなぁ」
「あなたは自分のことがわかってないのよ」

びし、っと人差し指をたててジョーの鼻の頭をつつく。

「今や『時の人』なのよ?裸だって見られちゃってるし、両目だって見られてるんだから」
「裸や両目なんて別にどうでもいいじゃないか」
「だーめ。外に出たら絶交よ?」
「えーっ」
「いいの?」
「ヤダ」
「だったら、しばらくこのままおうちから出ないでね?」

フランソワーズの言葉に不満そうに唇を尖らせ、ジョーは拗ねた。

「・・・送り迎えくらいさせてくれたっていいじゃないか」
「イヤよ」
「・・・・・・・・・・・・だって、帰ってくるまで心配だし」
「ここは日本よ?どこよりも平和な国なのよ?いったい何が心配なの?」
「何が、って・・・」

フランソワーズを一人で歩かせる事自体が何よりも心配だったのだが、それを言うと彼女が怒るので――ジョーは言葉を飲み込んだ。
その頬に、そっと手が添えられた。

「――冷たい手だね」
「そうよ。外はすごーく寒かったんだから。秋を通り越して冬になっちゃったみたい」
「・・・・ふうん。僕は一歩も外に出られないからわからないな」

何を言っても拗ねたままのジョーに苦笑する。
いつもなら、「寒いなら僕があたためてあげる」くらいの事は言ってのけるのに。

「・・・これなら、わかるでしょ?」

そのまま頬をジョーの頬に押し当てた。

「――冷たい」
「ジョーはあったかいわ」

お互いの肌の冷たさと温かさを分け合って。そうして同じ体温になってゆく・・・・ところだったが。

「えー。コホン」

至近距離から気まずそうな咳払いがしたので、頬を寄せ合っていたふたりはびくっと体を震わせた。

「誰っ?」
「誰だっ」

「・・・僕だよ」

二組の視線にうんざりしながら、ピュンマがソファから立ち上がった。

「あのさ。最初から僕はここに居たんだけど――っていうか、ジョー。お前な。フランソワーズが帰ってきて嬉しいのはわかるけど、オセロの勝負中だっていうことすっかり忘れてないか?」

そうでした・・・とジョーが小さく言った時には、ピュンマは既にリビングを後にしていた。毎日、フランソワーズが帰ってくるたびに繰り広げられる同じような光景にうんざりしながら。
早く世間が「ハリケーンジョー」を忘れてくれればいいのになと願うのだった。

 

*****
・・・あれっ?いつの間にやら「ピュンマ様のお部屋」??


 

11月18日

 

「で?」

ジョーは前髪を掻き上げて、じっと見つめた。その褐色の双眸からは何も読めなかったので、フランソワーズは思わず一歩後退しかけ、けれどもこれじゃいけないわと自分を叱咤し踏みとどまった。

「で?じゃないわ。どうして言ってくれなかったのよ!私がどんなに驚いたかわかる?」

そうしてジョーの目の前に中吊り広告を広げてつきつける。

「・・・言ってなかったっけ?」
「聞いてないわ。大体、何なのその格好」
「ん?――別に?」

一瞬いたずらっぽく煌いた褐色の瞳をフランソワーズは見逃さなかった。

「も、ジョーのばか!」

 

***

 

迎えに行くよというジョーの電話を一方的に切って、レッスンのあと一目散にギルモア邸に帰って来たフランソワーズは、リビングで談笑中のジョーを捕まえて部屋へ引っ張ってきたのだった。
フランソワーズの部屋の可愛い花柄のベッドカバーの上に腰掛け、ジョーは全く悪びれず彼女を見つめていた。

「酷いよなぁ。迎えに行くって言ったのに、さっさと電話を切るんだもんなぁ」
「迎えに来るって、冗談でしょ?」

何しろ街中に彼のアラレモナイ姿が溢れているのだ。当の本人が呑気に現れたら、一体どういうことになるのか。
全くわかっていないジョーに、今更ながら頭痛がしてくるフランソワーズだった。

「なんで冗談なんだよ。あーあ、帰りにメシでも食って、ドライブでもして――って予定だったのに」
「しばらくジョーは外出禁止!」
「ええっ。なんでだよ」
「『なんでだよ?』それはこっちの台詞です。大体、テレビでも流れているじゃないの。アナタの、その――ハダカが」

自分で言って、頬が熱くなるのがわかる。

「ハダカじゃないよ。ちゃんと着てる」
「でも、そう見えないでしょ!」
「バカだなあ、真っ裸なわけないじゃないか」
「当たり前でしょっ。もうっ」

街中に溢れているポスターと、テレビで流れているCMは若干違いがあるのだった。

「テレビのほうがずうううっとやらしいわ!」
「・・・色っぽいとかセクシーって言葉を使って欲しいな」
「セクシー?色っぽい?誰が?」
「僕」
「ん、もーーーーっ!!」

フランソワーズはジョーの髪をぐしゃぐしゃっと両手でかき混ぜた。

「わ、何するんだよ」
「だって悔しいもの!」
「悔しいって何が」
「――だって!!」

ジョーの頭を両手で挟み、自分の方に向かせて――そして、言葉に詰まる。真っ赤に染まる頬。

「――いやっ。何だか言うのも悔しいっ」

ジョーのばかばか、と言いながらなおもジョーの髪をくしゃくしゃにする。

「コラ、フランソワーズ。いったい・・・」

彼女の両手を掴んで自由を奪ったジョーの瞳に映ったのは、いままさに泣きそうな顔のフランソワーズだった。

「えっ、なに?」

ぎょっとして慌てて手を離すと、フランソワーズはがばっとジョーの首筋に抱きついて――そのままの勢いで、ジョーをベッドの上に押し倒した。

「えっ?フランソワーズ?」

けれども、フランソワーズは首筋に抱きついたまま何も言わない。動かない。

「・・・フランソワーズ?」

おそるおそる腕を伸ばして彼女をそうっと抱き締める。

「・・・、・・・・・」
「・・・えっ?」

小さい小さい声で言われた言葉。

「なに?」
「・・・・・。・・・・」

やっぱり聞き取れない。
強化された聴覚を持つジョーでも聞こえないくらい、それはそれは小さい声だった。

「フランソワーズ。聞こえないよ」
「・・・・・・知らない。ジョーのばか」

『ばか』だけ聞き取れて、ジョーは苦笑した。そうっとフランソワーズの髪を撫でる。

「・・・そんなに怒るなよ」
「・・・・・・・・・・・・だって」
「ん?」
「だって!」

いきなりフランソワーズが体を起こした。蒼い瞳の端には涙の粒。

「ジョーのこういう格好を知ってるのは私だけだったのに!!」

ジョーの胸に両手をついて、じいっとその瞳を覗きこむ。

「酷いわ、こんなのっ・・・・私だけが知ってるジョーだったのに」

ジョーがみんなのジョーになっちゃうっ・・・と顔を真っ赤にして泣き出したフランソワーズに、ジョーはやれやれと体を起こした。そのまま、彼女を胸に抱き締めて。

「――大丈夫だよ。僕は誰のものでもない」
「だってっ・・・みんな、持ってるのよ、この・・・こんな格好のあなたを」
「うん。でも仕事だよ?」
「わかってるけどっ・・・でも、ヤなのっ・・・」

鼻をすするフランソワーズの髪に優しくキスをして、そうっと耳元で囁いた。

「――だって、きみしか知らないよ?」
「何が?」
「・・・・・・・・それはね、」

 

******

 

「・・・・・・・ば。バカじゃないのっ」
「でも、そうだろう?」
「知らないっ。ジョーのばか。えっち」
「えっちじゃない方がいい?」
「・・・・・そんなこと言ってないじゃない」

どうしてこんな事を真顔でさらっと言うひとが自分のカレシなんだろう?

褐色の双眸を見つめつつ、フランソワーズはしみじみと思うのだった。

 

****
ポスターはこちらからどうぞ→


 

11月17日

 

考えてみれば、クリスマス商戦緒戦である。
各社がこぞって新製品の発表をしたり、コラボ企画をしたり、ともかく目を引くことをする時期なのだ。
だから――

冷静にそう思ってはみるものの、街中に溢れるジョーのポスターに、フランソワーズはくらくらしてきた。
バレエ教室のある最寄り駅前で配られた新製品のサンプルを軽く振ってみる。

――あら。意外といいかも。

でもジョーに似合うかどうかは別問題だわ・・・
けれども、宣伝しているモデルにそれが似合うかどうかなんてあまり関係ないのだろうかとあれこれ考えながら教室のあるビルへ入った。

 

***

 

「ジャーン!!」

擬音とともに目の前に広げられたそれに、フランソワーズは数度瞬きをした。

「・・・どうしたの、これ」
「今朝ちょいとくすねたのよ」
「くすねた、って、それって犯罪・・・」
「まま、硬いこと言いっこナシ、よ。大目に見てよフランソワーズ」
「・・・ハイハイ」

先程駅で見たポスターが何故か更衣室にあるのだった。
それも一枚や二枚ではない。壁に貼ってあったり、こうして手で持って広げられていたり・・・

「――ねぇ?」
「んー?」
「どうしてここに貼ってあるの」
「ああ、それはフランソワーズのぶんだから」
「私?」
「そ。そりゃアナタは普段見慣れているでしょうけれど、こういうポーズをとっている図っていうのも貴重じゃない?」
「・・・・」

フランソワーズのロッカーに貼ってあったのは、電車の中吊り広告で、いま更衣室にあるポスターよりも随分小さかった。が、ジョーが写っていることには変わりがない。

「・・・別に、欲しくないわ」
「またまた、お嬢さん。これ、間違いなく今年の大ヒット商品になるわよ!もっと喜びなさいよ」
「でも、この広告は要らない」
「持ってなさい、って」
「いりません」
「・・・じゃあ、本当に他の子にあげちゃうわよ?」

じっとりと絡みつく視線をまともに受けて、フランソワーズはややたじろいだ。

「い、いいわよ、別に」
「ほんっとうにあげちゃうわよ?」
「いいわよ?」
「ふーーーーん。いいんだ。音速の騎士のアラレモナイ姿が他の子の手に渡っても」
「あ、あられもない、って、そんな」
「だってそうでしょーが」
「これはオシゴトよ?」
「でも、目の保養になる、って思わない?」

頬を膨らませ、むっつりと黙ったフランソワーズの手に無理矢理それを持たせた。

「いいから、持ってなさい、って。後でじっくり見るぶんには誰も何にも言わないからさ」
「・・・・」

とりあえず、そうっと手元に目を落とす。

「・・・・っ」

今朝からあちこちで目にしていたものの、改めて身近で見るとまた格別だった。

――ち、違うわ。格別、って何なのよ。こんなの、私はよく見ているから慣れているし・・・

けれども、一体ジョーはいつの間にこういう仕事をしていたのだろうかと思うのだった。
何しろ、一切何も言っていなかったのだ。

 


 

11月16日

 

ジョーって有名人なんだなぁ・・・って思うのは、彼の姿をいつも通る場所で見かけた時。
シーズン中は何度もテレビで観るのに、オフになっていつも隣に彼が居ると「彼は有名人」だということをすっかり忘れてしまう。ジョーもジョーで、そんなのお構いなしに外を歩くから、余計に感じないのかもしれない。
実際、ジョーの言う通り「そんなに気付く人なんていないさ」だったけれど。
でも今日は違う。
だって、ほら、ここにこうしていてもジョーの姿が目に入ってしまう。どちらを向いてもジョー。ジョーばっかり。

 

***

 

今日は午前中からレッスンだった。
だから、ジョーを起こさずにフランソワーズはギルモア邸を後にした。
ジョーを起こすのに時間がかかるのと――たまには電車で行ってみたい時もあるのだ。ジョーの送迎は嬉しいけれど、いつもいつもそうだとたまに息苦しくなる時がある。だから今日は電車を使った。ジョーには内緒で。

ギルモア邸の前の長い坂道を降り切ったところに、一時間に5本しか走らないバスの停留所がある。
ここは都会のはずなのに――と、時刻表を見るたびにいつも思う。が、こんな誰も住んでいない辺鄙なトコロへバスが通っているというだけでも有り難かった。
バスに乗って最寄の駅までは約20分。そしてバスを降りて、駅の構内へ足を踏み入れ――フランソワーズは声もなく立ち止まった。

よく知っているひとがいる。――たくさん。

島村ジョー。別名、ハリケーン・ジョー又は音速の騎士。
先日ワールドチャンピオンになった男。
そして今は、部屋でまだ眠っている――昨夜、ピュンマとゲームをやりすぎて私に叱られたひと。

そのひとが駅構内の壁という壁に――いる。

――なにこれ。・・・聞いてないわよ、ジョー。

傍らには嬌声を上げて壁から剥がす女子高生のグループ。よく見てみれば、あちこち剥がされた後がたくさんあった。

「・・・・」

軽く肩をすくめ、改札を通り電車に乗った。そして再び声を失った。
何故ならそこにもいたのだ。
ジョーが。

中吊りの彼はあっという間に――それこそ、見ている間に外されてしまう。
車内の広告スペース全部がハリケーン・ジョー一色だった。

軽くため息をついて視線を車外へ移す。
流れてゆく景色はいつもと変わらず、フランソワーズはやっとものを考える時間ができたとほっとした。
が、それも束の間。
とあるビルの上にある大看板にソレがあったときには、冗談ではなく腰が抜けるかと思った。

もうっ、心臓に悪いわ!!

隣の女子高生たちは戦利品を広げて見入っている。

「かっこいいよねー!」
「私絶対、これ買う!そしたらポスターがついてくるかもしれないもん」
「ジョーもつけてるのかなぁ」
「ヤダ、そしたらお揃いジャン!!」

・・・残念ながら、ジョーはつけてないわ。そういうのは。

心の中で返事をする。

大体、こういう仕事もしていたなんて――聞いてないわよ、ジョー。

そう――街は島村ジョーがモデルを務めているある製品の新作ポスターで埋められていたのだった。

 

 


 

11月14日

 

「――抱っこ」
「抱っこ?」

両手を伸ばし、甘えるようにジョーを見つめるフランソワーズ。

「ええっと・・・」

ジョーはキョロキョロと周囲を見回し、リビングに自分たちの他に誰もいないことを確認した。
そうして、少し屈んでソファの上のフランソワーズをじいっと見つめた。

「――フランソワーズ。いいかい?ここは僕のマンションじゃなくて、ギルモア邸だ」
「知ってるわ」
「じゃあ、わかるね?・・・抱っこして部屋まで連れて行ったら、何を言われるか」

いまここには誰もいなくても、ギルモア邸内には博士をはじめ、みんな居るのだ。そうっと移動したとしても、途中で誰かに会わないとも限らない。それが他のメンバーならいいが、もしも博士に会ってしまったら・・・

「だって・・・ズルイ」
「何が」
「・・・さっきの女優さんは嬉しそうに抱っこしてたくせに」

その時はキスの最中だったはずだ――とジョーはげんなりした。せっかくうまくいったと思ったのに。

「――見てたのか」
「見てたわ」
「・・・キスの途中だったのに?」
「ちょっとした休憩よ」
「き・・・」
休憩・・・って。

「女優さんは抱っこしたのに」
「あれは、仕方なくだよ。――負けたから、罰ゲームだったし」
「そんなの関係ないわ。だから、――抱っこ」
「・・・フランソワーズを抱っこするのは罰ゲームじゃないだろう?」

むう・・・と唸って、フランソワーズは眉間に皺を寄せた。

「ジョー、ずるい」
「ずるくない。フランソワーズがずるい」
「ずるくないわ。ジョーの方が100倍ずるい」
「ずるくないよ。何だよその100倍、って」

軽く唇を尖らせたフランソワーズにヤレヤレと息をついた。

全くどうして僕は彼女にはこう甘いんだろうな――

「――わかった。だけど、どこで誰に会っても僕は知らないよ」
「大丈夫よ」

腕を伸ばしたジョーに笑顔で身を任せ、自分は彼の首筋に腕を回した。

「――加速装置を使えば一瞬でしょ?」
「え。かそく・・・」
「ねっ?」

ジョーは一瞬、天井を見つめ――次の刹那に加速装置を噛んだ。
部屋に着いた時はお互いに裸なんだよなあと思いながら。

 


 

11月13日・その2

 

嫌がるジョーの腕を掴み、テレビの前に陣取った。

「こういうのは一緒に観るから楽しいのよ?」

そうしてフランソワーズが腕に寄り添ったので――ジョーは身動きが取れなくなった。

「・・・観てもツマラナイよ、きっと」
「そんなことないわよ。だってジョーが出るのよ?楽しいに決まってるじゃない」
「そんなのわからないじゃないか」
「だから観るんでしょう?」
「・・・」

ジョーは無言で顔をしかめた。既に先刻から嫌そうな不機嫌な顔をしているから、更にしかめたその表情は――

「何変な顔してるの」

見つめたフランソワーズも思わず噴き出すほどだった。

「――だから。いいよ。僕は」
「だーめ」

腰を浮かしかけたジョーの腕に抱きついてソファに戻す。

「・・・フランソワーズ。勘弁してくれよ」
「私は一緒に観たいの。・・・そばにいてくれないの?」
「・・・イヤ、そういうわけじゃ」
「私と一緒に居るのがイヤなんだ」
「だから違う、って」
「ひどいわ、ジョー」
「・・・わかったから。泣きまねはやめろ」

べーと舌を出したフランソワーズにヤレヤレと息をつく。そして――目を瞑った。無の境地に身を置くために。

 

***

 

フランソワーズが楽しみにしていたのは、例の「好きな食べ物4種のうちに食わず嫌いの一品があり、それを当てる」コーナーである。今日の放送は「レーサー・島村ジョー」がゲストなのだった。

ジョーは登場から、とりあえずはにこやかに話しており――おそらくいま画面を見つめているであろうファンを釘付けにしていた。もちろん、フランソワーズもそのひとりである。

スタイリストが選んだのは、爽やかなブルーのシャツに、濃紺のジーンズだった。
ただそれだけのシンプルな服装なのに、ジョーはいつもより数割増しに見えていた。

「・・・ヤダ。ジョー、かっこいい・・・」

腕を掴まれた先でウットリ呟かれ、ジョーはぎょっとして隣を見た。
フランソワーズはというと、画面を凝視したまま隣にいるジョーには目もくれない。

「――フランソワーズ?」

ジョーはこういう状態のフランソワーズを見るのは――初めてではなかったが、久しぶりですっかり忘れていたので驚いた。

「・・・本物はこっちなんだけど」
「あら、テレビのジョーだって本物でしょ?」
「う、まぁそうだけど」
「もうっ、聞こえないから黙ってて」

コーナーは淡々と進んでいる。対戦相手の若手女優はジョーのファンらしく、先程から頬を染めて言葉もでてこないようだった。お互いにお土産を披露しても、うっとりと「そのケーキ屋さん、行ってもいいですか?」と呟くだけで。
ジョーが爽やかに「いいですよ。僕はこの「恋の始まりはアップルパイ」が特に好きです」と言った途端、かあっと全身を赤く染めて撃沈した。
それはもう、誰がどう見ても彼女は勝負にならないと確信するほどのめろめろぶりだったのだ。

「相変わらずもてますねー。ハリケーン・ジョー」
「・・・」

ポツリと言われ、これは妬いてるのか、だったらやっかいだなと声の主を見つめると、全くやっかいな状況ではなく、楽しそうににこにこしているのだった。

「・・・楽しそうだね」
「だって楽しいもの」

そうして勝負が始まった。
ジョーが選んだ料理4品は以下の通り。
「卵焼き」「プリン」「スパゲティナポリタン」「ハヤシライス」(注:もちろん選んだのはフランソワーズである)
この4品の中に一品だけ嫌いなものがあるのだという。
ジョーのメニューを見て、早速それに言及される。卵料理とケチャップ料理しか食べないのか?と。
それをしれっといなしたジョーは、相手女優に一品目に「卵焼き」を指定され、満面の笑みで口に運んだ。
これはいわゆるサービスのようなものだった。何しろ、彼の好きなものは「卵焼き」というのはけっこう知られている事実であり――当然、ジョーのファンである相手の女優もそれを知っていたから、最初にそれを指定したのだった。

が。

ジョーが卵焼きを口にしたところで――なんとコマーシャルが挟まれたのだった。
しかも、「この後とんでもないことが!」のテロップつきで。

「・・・とんでもないこと?」

ちらりと隣を見るが、当の本人は目を瞑ったままこちらを見ない。

「・・・最初のお料理でしょう?いきなりコマーシャルなんて変よね?」
「・・・」
「ジョー?寝てるの?」
「・・・」

アヤシイ。とじいっと見つめてみるが、彼はその視線を受けても全く動じず目を閉じたままだった。

そうこうしているうちに画面が切り替わり、ジョーが卵焼きをひとくち食べたシーンが映った。
――と。

ジョーはひとくち食べた途端に眉間に皺を寄せ、手元の卵焼きの側面をのぞいたのだった。
そして――うえっと顔を歪め、水をごくごく飲むと、いきなり

「参りました」

と言ったのである。

「――え!?」

まだ一品目である。実食タイムでも何でもないのだ。なのに勝手に「参りました」?

当然、そこにいる進行役も相手女優もスタッフもパニックになった。
なにやらジョーに向かって話しているものの、ジョーは顔をしかめたまま水を飲むばかり。

と。
画面に更にテロップが入った。

『※本当は島村さんの嫌いなものはプリンでした』

「ジョー?なによこれ」
「・・・」

ジョーは目を瞑ったままである。
その彼の肩をがくがく揺らし、フランソワーズはなおも問う。

「だって、卵焼きでしょ?いったいナニがあったのよ」
「・・・」
「大好きなはずじゃ――」

画面に大写しにされた「ジョーの食べた卵焼き」を見つめ、フランソワーズは目を丸くした。
てっきり中に何か入っていた――ネギとかシラスとか――と予想をつけていたのに、それには何も入っていなかったのだ。
そうして、画面では。
『確か、島村さんの好きなものは卵焼きというのは有名ではなかったでしたっけ?』
『――そうなんですけど、これ・・・甘くないんで』
『え?』
『僕は甘いのじゃないと駄目なんですよ』
『甘い・・・ちょっと失礼』
進行役がはしっこをちょこっと食べてみる。
『――甘いですけど』

すると、そこで情報が届いたらしく、
『――ああ、なるほど。これは、みりんで甘みをだしているということですね。きっと島村さんがいつも食べてらっしゃるのは』

「お砂糖よ?」

フランソワーズはきょとんとして答えた。

「・・・みりんで味付けなんて、知らないもの。でも・・・甘いのは甘かったんでしょ?どうしてちゃんと食べなかったのよ」
「・・・ちょっとしょっぱかったんだよ」

ぼそり、と低い声が答える。

「それにしたって、大人なんだから空気を読まなくちゃだめじゃない」
「・・・いちおう、ちょっとは我慢したんだよ。だけど、いつもののつもりで食べたら全然違っていたから・・・」
「もう。ほら見て?番組が台無しじゃない」

さすがにそのあとはやっつけ仕事のようになっていた。
(ちなみにジョーが嫌いなのは「バニラビーンズの入ったプリン」だった。砂が入ってるように見えて嫌だ、と)

「――まぁ、予想通りといえば予想通りの展開だったわ、・・・ってことよね」

フランソワーズは自分に言い聞かせるように言った。
大体、ジョーをこんなコーナーに出させたのは自分なのだ。が、ジョーは食べ物にちょっとした偏りがあるから、こういう番組は無理のはずだったのだ。

――もう。私のレシピじゃないと駄目、ってどういうことよ。

遠征中はそれなりに現地の食べ物をちゃんと食べているのだ。だから、どうしても「フランソワーズのゴハン」でなければならないということはないはずだった。

「卵焼きは別なんだよ」

そんなフランソワーズの心中を読んだかのようにジョーが言う。

「フランソワーズのじゃなきゃイヤだ」

確かに、遠征先でそれが出ることは殆どない。
きっぱり断言するジョーを困ったように見つめ、フランソワーズはそっと彼に寄り添った。

「・・・もう。仕方ないひと」

 

***

 

二人はその後、お互いを見つめることに夢中で全く注意を払っていなかったのだが、画面では「ジョーの罰ゲーム」が行われていた。
何も芸はできない、という彼の言葉に困った一同が彼に強要したのは、本日全く対決にならず、ただ来て食べただけとなった相手女優が彼のファンであるということに添って、彼女をお姫様抱っこする、というものだった。
画面の中で、スタッフ女性の悲鳴のなか、ジョーは軽々と相手女優を抱き上げていた。

――が、ギルモア邸のリビングには、唇を「喋る事」以外に使うのに一生懸命なふたりしかいなかった。

 

 


 

11月13日

 

ジョーはいま一度、周囲を見回した。
居づらいというわけではないが、退屈で疲れてきていた。勧められるまま、椅子に腰掛けてみたものの、座らなければよかったかもしれないと後悔に似た思いに襲われる。何しろ、このままここにこうしていたら、間違いなくいずれ眠ってしまうだろうから。
数分がたち、ふわぁと大きな欠伸をしたところで――

「もうっ!ジョーったら!」

ふわふわのファーに顔を縁取られ、上質なカシミアをまとったフランソワーズが現れた。

「ね、これどう?」

くるりと彼の前で一回転。そしてもう一度ポーズをとる。

「・・・いいんじゃない?」
「んー。さっきのとどっちがいいと思う?」
「どっちも似合ってたよ。両方買えば?」

するとフランソワーズはつんと唇を尖らせた。

「またそう言う。――駄目よ。そういうの禁止」
「気に入ったなら買えばいいじゃないか。買ってやるよ?僕が」
「いりません。自分で買うの!」

ああ、そうですか・・・というジョーの呟きはもちろん黙殺される。

「だからさ。好きなブランドの店でゆっくり選べばいいじゃないか」

銀座本店で選ぶのを勧めたのだが。

「イヤよ。たくさんのショップのを色々見て、自分の好みでしかも安いのを探したいの!」
「だから、僕が買うよ、って言ってるじゃないか」
「駄目。そんな親切そうに言ったって、どうせジョーはメンドクサイからそうしようって言ってるだけでしょ?」

ジョーは図星だったので、そのまま黙った。

「大体ね」

ひとさしゆびをぴんと立てて、ジョーの鼻先を指差す。

「何でも気に入ったのを買えばいい、っていう金銭感覚、よくないわよ?何とかしなくちゃ駄目。そりゃ、アナタは余るほどお金があるのでしょうけど、――いい?あるから、って使っちゃったら、来年になって泣くことになるのよ?」
「・・・来年?」

契約を継続することになっているから、別に路頭に迷ったりはしないけどな――と、思う。

「そう、来年。いい、ジョー。住民税っていうのがアナタにはかかってるのよ」
「・・・住民税」
「そう。一年遅れで請求されるから、ある時に使いきっちゃうとその次の年に払えなくなっちゃうのよ?」
「・・・そんなこと、よく知ってるね」
外国人なのに――とは心の中で付け加える。

「あったり前でしょ!誰がその手続きをしてると思ってるの。ジョーは年俸制だから、お給料の天引きじゃないんだから」

妙に詳しいフランソワーズをぼんやりと見つめ、で、今それがこの状況にどう関係あるのかと考える。

「だから、欲しいのは一着なんだから、気に入ったからってあれこれ買う必要なんてないの。わかった?」

ああ、そういう話だったな――とジョーは思い、大きくため息をついた。フランソワーズの前で。

「もうっ。さっきは欠伸、今度はため息。・・・ジョーったら、私と居るのがそんなにつまらないの?」
「いや、そういう訳じゃ――」

フランソワーズと一緒に居るのがつまらないとか退屈というわけでは断じてなかった。

「じゃあどうしてそんなに眠そうなのよ?」
「それは・・・」

百貨店の婦人服売り場に来てから、軽く2時間は経っているだろうか。
『たくさんのショップのを色々見て、自分の好みでしかも安いのを探したいの』というフランソワーズは、ジョーが勧めた銀座本店巡りを簡単に却下して、ここに来ているのだった。
確かに色々な種類があるようだった。もちろん、ジョーにはどこがどう違うのかさっぱりわからず、さっきからフランソワーズが同じものばかり試着しているようにしか思えないのだったが。
ともかく、婦人服売り場の各ショップのコートを吟味し、試着し、ジョーに見せるのを延々と繰り返している。
これはジョーにとって久しぶりの苦行だった。こうなると知っていれば、今日ここにいなくてもいい理由を準備していたのに、出かける時にフランソワーズは「今日はコートを買いたいの。ジョー、つきあってもらえる?」と可愛く小首を傾げてじっと自分の瞳を覗き込んできただけだった。だから、てっきり「買うつもりのコート」は既に決まっているものと思っていた。誤算だった。

――さっきのコートと今のコートのどこがどう違うっていうんだよ?

何度もそう思ったものの、声に出しては言えなかった。もし言ったら、その10倍は返ってくるはずだからだ。それも、ジョーの知らない用語を並べられ、嬉々として言うのに違いないのだ。

各ショップの店員たちも、ジョーには全く注意を払っていなかった。
あれこれ試着するフランソワーズとなにやら楽しげに額を突き合わせ、次々にコートを持ってくるのだ。
すっかり忘れ去られ、ぽつねんとショップの中にたたずむジョーだった。このショップのように椅子を勧めてくれるところは稀だった。

「で、これどうかしら?」

きらきらした目で見つめられる。

「・・・」

何か意見を言わなければと思いつつも、いったい何を言ったら彼女はこの苦行から自分を解放してくれるのかわからなかった。
「ああ似合う似合う、すごーく似合う」「凄いな、見違えたよ」「それ可愛いね」「うん、綺麗だね」・・・・既に語彙は尽きていた。が、褒め言葉しか言わないということに細心の注意を払うのは忘れない。何しろ、以前同じようなシチュエーションで「うーん。それはあまり似合わないよ」と深く考えずに口を滑らせた時は大変だったのだ。いったいどこがどう似合わないのか、まずいのか、それを述べない限り許してくれない。そんなの適当に言っただけだったので、ジョーは進退窮まったのだった。

「ね。どう?」

繰り返し訊かれる。困ったな・・・と思っているところへ、フランソワーズと店員の会話が耳に入った。

「この色、気に入ってるんだけどよく出ているのかしら」
「こちらは一点ものですので、これだけですよ」
「えー、そうなんだ・・・このリボンも可愛いし、デザインも気に入ったけど」
でもどうしよう・・・もうちょっとあれこれ見てからのほうがいいかしら。と、小さく聞こえた。ので、ジョーは天の助けとばかりに立ち上がって笑みを作った。

「フランソワーズ。僕はそれが気に入った」
「えっ?」

フランソワーズと店員が同時にジョーを見る。が、二組の瞳に見つめられてもジョーは動じない。

「今までで一番似合ってるし、僕はきみにそれを着て欲しい」
「・・・ジョー」

じっと見つめる先の褐色の瞳の持ち主は、にこにこと笑んでいる。

「・・・でも」
「僕はそれがいいな」
「・・・・・・・・・・・・そう?」
「うん」

実は、フランソワーズの心が決まった時のキーワードは「でもどうしよう・・・」なのだった。そして、そこで強く勧めれば必ずそれに決まるということも知っていた。

「ねっ、フランソワーズ?」
「・・・ほんと?」
「うん。もうそれ以外考えられない」
「・・・そんなに似合ってる?」
「うん。他のコートを着ているフランソワーズなんて浮かばない」

微かに頬を染めて、フランソワーズは小さく「じゃ、これにする」と呟いた。

 

***

 

ストレンジャーに戻ってほっとしたジョーは急に元気になった。傍らのフランソワーズも、気に入った一着を購入して上機嫌だった。

「どうする?湾岸をドライブとか――それとも、もうちょっと遠出する?」
「んー・・・そうね。でも」

ちらりと隣のジョーを見つめ。

「あんまり遠出すると時間までに帰って来られないでしょう?それは困るわ」

むしろそれが狙いなのだ――とは言えなかった。

「だって、今夜でしょ?ジョーが出るの。ちゃーんと録画もしなくっちゃ」

録画するならいいじゃないか、後でゆっくり見れば。と思いつつ、それも言い出せないジョーだった。

「ね?一緒に見ましょうね」

イヤ、僕は別に見たくない。という声は、当然の如く無視される。

とある番組の人気コーナーの放送が今夜だった。今日のゲストは島村ジョー。

 


 

11月11日

 

「ジョー?何見てるの」

随分間近で可愛い声がしたのと同時に、目の前に差し出されたのはデコラティブなポッキーだった。

「はい、あーん」

わけがわからないものの、言われるままに素直に口を開けると、デコラティブなポッキーは口の中へ入った。

「美味しい?」
「ん・・・?」

ポッキーというお菓子は、棒状のスナック菓子にチョコレートがコーティングされているものと信じて疑わないジョーは、いま口のなかに広がるそれが、どう味わってもイチゴなのが解せなかった。

「じゃ、私も」

ジョーがポッキーに関する疑問を口にする前に、彼が食べているそれを反対の端からかじりだしたフランソワーズ。

「?!」

どんどんこちらに向かって進んでくる。
そして。

「――ほんと。美味しい。ね?」

にっこり彼女が笑ったときには、ジョーの口の中のイチゴ味はすっかり消えてなくなっていた。

 

***

 

自室で机に向かい、パソコン画面に見入っている時だった。
音もなくドアが開き、そうっと足音をしのばせて入って来た人物がいたのは。もちろん、それが誰なのかはわかっていたので、ジョーは特に警戒もせず意識の外に「危険」の文字を押し出していた。
だから、本当に彼女がそばへやって来るまで気付かなかったのだ。彼女が何しにこの部屋に来たのかなんて。

「・・・あら?なにこれ・・・」

ジョーに構わず、彼の目の前に展開されているパソコン画面を見つめる。

「ん・・・?――えっ?ヤダ、ジョー、これって」

頬をさっと朱に染め、振り返ったフランソワーズの視線の先にいるのは、もちろんジョーである。が、彼はまだ先程のフランソワーズの行動に動揺しており――頬を染めて呆然としたまま我を忘れているのだった。

「――え。あ」
「もう。どうしてこんなの見てるの?」
「こんなの、って」
「恥ずかしいじゃない」
「だって僕はよく知らないから」
「だけど」

ちら、と横目で画面を見る。

「――まだまだずうっと先よ?」
「でも、そろそろ始まるんだろう?」
「そうだけど、でも・・・」
ジョーがこんなの見るなんて、と小声で呟く。

「てっきり車の資料でも見ていると思ったのに」
「まぁね。最初はそうだったんだけどね」

蒼い瞳に凝視されて、照れたように視線を逸らす。

「だけどホラ、きみの夢だったんだし、それが実現しそうなんだろう?」
「実現なんて、そんなの・・・まだまだずうっと先の話よ?」
「それでもさ。だけど僕はストーリーも全然知らないから」
「いいのよ、知らなくても」

そう言って、フランソワーズはそうっとジョーの肩におでこをつけた。

「『ジゼル』のストーリーなんて、・・・あなたが知ったら何ていうかわかってるもの」

ジョーのパソコン画面に展開されていたのは、バレエ「ジゼル」に関する資料だった。
年明け早々にフランソワーズのバレエ教室で、その演目のレッスンが始まるのだ。そして今はその準備段階。
ジョーとしてはそれを彼女から聞いて以来、ややテンションが上がっていた。何しろ、以前パリに行ったときに「ジゼルは私の夢」と語ったフランソワーズを忘れていない。だからここは応援したかった。彼女の夢が叶う可能性があるのなら、自分は何だって協力を惜しまないつもりである。時期もちょうどシーズンオフだし、そのために割く時間はたくさんあった。
それにはまず、「ジゼル」という演目のストーリーを知らなければならなかった。が、上演するバレエ団により解釈に違いがあるらしい。と、そこまで読んだ時に、フランソワーズがやって来たというわけだった。

「僕は別に何も」
「嘘。絶対、こんなお話許せない、って思ってる」
「思ってないよ」
「ううん。思ってる」
「思ってないってば」
「絶対、思ってる」
「思ってないよ。・・・ああもう、めんどくさいな」

そう言うと、ジョーはフランソワーズの手に握られたポッキーの箱を奪い取り、中から一本取り出した。

「――ほら、フランソワーズ。食べないと僕が全部食べちゃうよ?」
「えっ・・・そんなのダメ」
「だったら、――ん?」
「・・・もう、これ私のなのに」

言いつつ、端っこと端っこから食べるお菓子の味は、今度こそちゃんとふたりともきっちり味わうこととなった。

 

*****
「ポッキーの日」だったので。


 

11月9日 (続きじゃなくてスミマセン・・・)

 

「――ね。好きなものをここに書くようになってるわよ?」
「いいよ、適当に書いておいて」
「そうはいかないわよ。自分の好きなものくらいわかるでしょ?」
「きみの方が詳しいだろ」
「んー、そうじゃなくて!自分で「好きなもの」と「嫌いなもの」がわかってなくちゃ勝負にならないじゃない」
「いいんだよ、あんなの出来レースなんだから」
「まぁ。レーサーのあなたがそんな事言うなんて思わなかったわ」

フランソワーズがジョーに向かって紙をつきつける。仁王立ちで。
対するジョーはメールチェックに余念がない――ように、フランソワーズに背を向けている。

ここはギルモア邸。
数日前にふたりは一緒に帰ってきたのだった。

「もう、ジョー?ちゃんとこっち向いて」
「いいよ、フランソワーズに任せるよ」
「駄目よ。いくら面倒だから、って・・・」

けれどもこちらを向かないジョーにフランソワーズは大きくため息をついて言い放った。

「わかったわ。じゃあ「好きなもの」のところに嫌いなものばっかり書いちゃうからね!」

 

***

 

ジョーがとある番組のコーナーに出演するのが決まったのが2日前。
連絡がきたときに咄嗟にジョーは断りかけたのだが、そばで聞いていたフランソワーズが大喜びしたのでしぶしぶ承諾したのだった。
以来、そのコーナーについて延々と彼女から聞かされている。

「お土産を持っていかなくちゃならないのよ」
「お土産?」
「そう。自分のお気に入りのものを持っていくの」
「・・・そんなのないなぁ」
「『Audrey』のケーキにすればいいじゃない」
「・・・それはきみのお気に入りだろ」
「いじゃない。ジョーだって好きでしょう?」
「・・・どれを持っていくの」

どれを選んでも、絶対そのネーミングに絡んで何かネタにされるような気がしてならないジョーだった。
大体自分は、そういうトークは苦手である。何か面白いことを言えるわけでもなく、珍しいエピソードを語れるわけでもない。

「んー、そうねぇ・・・」

一方フランソワーズは、自分が出るわけでもないのにテンションが高かった。どうやら好きな番組のひとつらしい。

「『食べ頃のきみは僕のもの』とか」
「却下」
「あらどうして?」
「そんなの、からかわれるに決まってるだろ」
「平気な顔していればいいじゃない」
「・・・きみの話になるよきっと」

一瞬ジョーを見つめ、何か言いたそうに口を開き――閉じた。

「・・・ええと、じゃあ・・・『恋の始まりはアップルパイ』は?好きでしょう、アップルパイ」
「フランソワーズの作ったのが、ね」
「――もう。ジョーったら、そればっかり」

実は先刻から「好きなもの」を書く欄にフランソワーズが何か書こうとすると――「僕の好きなのは、フランソワーズの作った卵焼き」「あ、違うよ。好きなのはフランソワーズの作ったハヤシライス」「だから違うって。僕の好きなのは――」と延々と続き、必ず「フランソワーズの作った」という言葉を入れるよう訂正されるのだった。
そして「キライなもの」というと、「フランソワーズが作ったのじゃないゴハン全部」というふざけた答えが返ってくる。
なので、フランソワーズは用紙を取り上げたというわけだった。

「いいよ、適当に書いておいて」
「・・・適当に?」
「うん」
「・・・本当に適当でいいの?」
「いいよ。メンドクサイし」
「・・・知らないわよ?」

 

***
某番組のコーナーです。後日、ジョーが出演します。


 

11月7日

 

――またか。

先程から、左の頬に張り付くような熱い視線を感じる。
もうひとくちコーヒーを飲もうとカップを持ち上げ、それがとうの昔に空になっていることに気付き、心のなかで舌打ちをする。おかわりを頼もうにも、何しろ・・・

F1レーサー、島村ジョー。ニックネームは「ハリケーン・ジョー」もしくは「音速の騎士」。
今季王者になってからはメディアの露出も多く、いっとき「時の人」であった。
が、それも数週間のことであり、今ではすっかり忘れ去られているようだった。そもそもモータースポーツ自体がここ日本では有名ではないのだ。何しろレースでさえ真夜中に放送される。

そんなわけで、仕事柄「見られる」ことには慣れていたが、そろそろ世間が自分を忘れてきたこの頃は、内心ほっとしていたのだった。
だからこうして、素顔でカフェにいても別にどうということもなく――もちろん、携帯をこちらに向ける女子もいたが、パパラッチの姿はなく、ジョーはぼんやりと撮られるに任せていた。
が。
先程から、それらと全く違った熱い視線を感じている。それは店に入った時から始まっており――ここで小一時間過ごしても変わることがなく、むしろますます絡み付いてくるようだった。
ちらり。と視線を飛ばす。と、一瞬その熱い視線は外れる。が、再び意識をこちらに戻すと同時にひたっと見つめてくるのがわかる。

「・・・・」

頭を掻き毟りたい心境。

コーヒーカップを持ち上げかけ空だったことに気付き、仕方なく水の入ったコップに手を伸ばす。目の前に広げた車の雑誌も、既に5回読んだ。いまテストされればどの記事も暗誦できそうな気がする。
ゆっくりと水を飲みながら、まっすぐに向けられる視線のほうを盗み見る。
やっぱり、何度見てもどう考えても――その視線の持ち主は男性だった。

 

***

 

「ジョーって男の人にももてるのね?」

フランソワーズにそう言われた時は呆然とした。

「えっ、なん・・・」
「だってほら。ずうっと前のミッションの時もそうだったし、この前空港でも」

ね?と蒼い瞳に見つめられ、ジョーは慌てて首を横に振った。

「ち。違うよ、それはっ」
「ふふっ、慌てなくても大丈夫よ?ジョーが男の人に興味があるなんて思ってません」
「・・・当たり前だ」

口元を歪め、嫌そうに答える。

「それとも・・・慌てるってことは、実はそうだったりして」
「コラ。ったく、何を言い出すんだか」
「だって、ジョーはもてるから・・・心配」
「・・・ばかだなぁ」

フランソワーズの髪を洗う手を止め、シャワーでシャンプーを流す。

「俺がきみ以外のひとに目がいくとまだ思ってるわけ?」
「ん・・・」

濡れた髪を除けて、じっと蒼い瞳が褐色の瞳を見つめる。

「・・・ううん。だってジョーは私に夢中なんでしょう?」
「そうだよ」
「だから、何にも心配しなくていいのよね?」
「その通り」

ちゅっと洗い髪にキスをして、ジョーはフランソワーズを抱き締めた。

「・・・フランソワーズ」
「ん、駄目よジョー。またのぼせちゃうでしょう」
「いいよそんなの」
「駄目よ。のぼせたあなたを運ぶのにどれだけ苦労したと思ってるの」
「――きみは力持ちだろう?・・・ホラ、僕を抱えて三段跳び」
「ジョー!」

むにっと頬をつままれる。

「いてて」
「それ以上言ったら、絶交だからね!」

大森林での出来事は――特に、地雷原をジョーを横抱きにして跳んだ武勇伝は禁句なのだった。

 

***

 

――遅いなぁ。

フランソワーズを待つことは苦ではなかったが、いまこの店にいること自体が苦痛になってきていた。
何しろ、来た時から店員と思しき男性にじいっと熱く見つめられているのだから。
しかし、店を出ようにもフランソワーズに電話をすることもメールをすることも出来ずにいた。彼女はいま、目の前のビルにあるバレエ教室でレッスンの真っ最中なのだ。それを待つために、ここカフェ「Audrey」に来ているのだった。

テーブルの上には、フランソワーズおすすめのケーキが手付かずで残っている。

「絶対、これ頼んでね」
「ええっ。甘そうだし、嫌だよ」
「何もジョーに食べてなんて言ってないわ。私が食べるのよ」
「来てから頼めばいいじゃないか」
「遅くなると売れちゃうんだってば!」

――というわけで、彼女のためにキープしているのだ。「キスだけが知ってる秘密」という名を冠したチョコレートケーキ。

・・・オーダーする身になってくれよ。

最初はメニューを指でさしてみせたのだが、先刻から熱い視線をジョーに送っているウエイターは、ちゃんとフルで音読しないと受けられませんとしれっと言ったのだった。

なんなんだよ、キスだけが知ってる秘密、っていうのは。

フランソワーズが面白がってわざとそれを選んだのをジョーは知らない。

 


 

11月5日  

 

ジョーのそばにいるといつも泣きたくなる。
幸せすぎて・・・なんていう陳腐なものではもちろんなくて、むしろその反対。
悲しくて哀しくて切なくて。
ずうっと手を握っていないとどこかへ行ってしまうような気がして。
声を聞いていないと不安で。
その目に見つめられていないと落ち着かなくて。
そんな私を、ジョーは欲張りって笑うけれど。
だけど、それを全部満たしても胸の奥にある痛みは消えない。

「・・・フランソワーズ?」
「ん。なあに、ジョー?」
「・・・ゴメン。もう無理っ・・・」
「ええっ、もう?」
「うん・・・ゴメン」
「だって、約束したのに」
「うん」
「頑張る、ってさっき言ったじゃない」
「うん――言ったけど、無理なものは無理」
「もうちょっとなのに」
「う・・・ん。そうなんだけど」
「ほんとにもう駄目なの?」
「・・・・・・・うん」

がっくりとうなだれるジョーの肩をヨシヨシと撫でるしかなかった。

「ゴメン。・・・僕が」
「ん・・・。いったん、やめる?」
「――いったん?」
「ええ。ほら、少し休めば大丈夫になるんじゃない?」
「――え」
「ね?」
「ね?って・・・」
「だって、このままじゃ・・・。どうするの?」
「どうする、って、そうだなぁ・・・」

ため息をひとつ。

「・・・じゃあ、少し休んだらもう一度」
「頑張ってみる?」
「ん。――約束だから、ね」

いつものことだった。帰国した時はいつも。
だから慣れているはずだったのに、何故か今日は駄目だった。

「――それにしても、作りすぎだよ、フランソワーズ」
「だって、ジョーが言ったんじゃない。食べても食べてもなくならないくらい、フランソワーズのゴハンを食べたい、って」

テーブルの上に乗り切らないくらいの料理がそれぞれの皿に山盛りになっていた。
いつもなら、このくらいの量は軽くいけるジョーだったのだけど、さすがに遠征の疲れが出てきていた。
王者となってほっとした、というのもあるし、無事にシーズンを終えた、というのもあった。
でも何より一番ほっとしたのは――

「じゃあ、ちょっと寝たら?・・・眠そうよ?」
「うん。そうする。――けど、少し運動すればもうちょっと食べられると思うんだけど?」
「運動?」
「そう、運動――」

瞳を丸くしたフランソワーズを抱き寄せる。
まったくきみは何て可愛いんだろう?
きみは僕の太陽だ――なんて、陳腐な例えはしないけれど、でも・・・そう、やっぱりきみは僕の太陽なのかもしれない。
だってきみがいなくちゃ何も始まらないのだから。
ずうっと抱き締めていたい。きみの見るもの聞くもの全てを共有して、誰よりも何よりもきみの一番近くにいたい。
きみ自身よりも近くに。
だけど、どんなに抱き締めても、囁いても、見つめても、それは無理なことで――かといって、無理だからやめるというのも出来ない相談だった。
駄々っ子のようにきみから離れない僕を、きみはどう思うんだろう?
――ねえ、フランソワーズ?
一緒にいるのに不安になる僕をきみはどう思う?

どんなに抱き締めても、見つめても、名を呼んでも全然足りないなんて知ったら、きっと――

 

「ジョー?・・・眠ったの?」
「・・・起きてるよ」
「ん。起こしちゃったわね」
「起きてたから大丈夫」
「――ねぇ、ジョー?」
「ん」
「ちょっと寝たら?、って言ったけどね、」
「うん」

本当に眠っちゃったら寂しい。っていうのはやっぱりワガママかしら?

 

******
注:あくまでも「子供部屋」です。大丈夫です。


 

11月4日

 

ゲートを通り、出てきたその人は黒いパンツに白いシャツ姿だった。カートを使わず、大きなトランクを簡単そうに運びながらスタッフに手を振り、大きなあくびをひとつ。
明らかに寝起きとわかる、ぼんやりした瞳だったが、なぜかそこだけトクベツに見えた。

思わず一歩進もうとして上げた足がそのまま固まった。

どこからか湧いて出た若い女性の群れにその彼は呑まれ――両手に花ならぬあらゆるところに花をはべらせ、カメラにおさまった。その撮影会は永遠に終わらないように思えた頃、やっと解放された。
軽く手を振りその群れに会釈をしてから、今度は周囲を警戒し、おもむろにサングラスをかけた。
が、そのほうが凄く目立っているということには全く気付いていない。

今度こそ、と思い、大きく手を挙げ名を呼ぼうとして――再び固まった。
頭上に挙げた手の行き場を失い、なんだか体操をしているおねえさんみたいになってしまった。
いくらバレリーナだからといって、ここで踊ってごまかすわけにもゆかない。
何故ならここは、空港なのだから。

目的の人物をじっと見つめる。が、もちろん彼は全く気付く様子もない。
それはそうだった。彼は、彼女がここにいるとは夢にも思っていないのだから。

その彼は、たった今彼の名を呼んだ栗色のロングヘアーの女性につかまっていた。
なにやら親しそうな気配を漂わせ、彼女は彼にピッタリと寄り添い、彼はあろうことかその腰にそっと手を添えている。

「・・・・え」

目の前の情景に混乱し、思わず声が出た。
彼が他の女性に触れるなど見たことがない。――こんな普通の日常では。

そのまま、彼は彼女の腰に手を添えて促すように歩き出す。どうやら一緒に帰るようだった。

「・・・嘘。――どうして」

彼に会えると弾んでいた気持ちが急速に落ち込んでゆく。
今まで空港に内緒で迎えに来たことはなかった。「迎えに行くわ」と約束した時はすぐに自分に気付いて抱き締めてくれたのに。それが今は、他の見知らぬ女性と寄り添って、どこかへ消えようとしている。

「・・・ジョー」

ポツリとこぼれるようにその名を呼んだ。
いま、自分が発声したのもわからないくらい、小さな声だった。
自分に気付かず、出口へ向かう背中をただ見つめていることしかできなかった。

すると、不意にその彼が足を止め――サングラスを外し、辺りを見回した。
隣のロングヘアーの彼女が訝しそうに彼を見て何かを話す。が、それに首を振り、彼はトランクとロングヘアの彼女を放置し、足早に空港内へ戻って来た。

「・・・ばか」

無意識に呟く声は、簡単に空港内のざわめきに消されてしまう。
ゆらりと視界が揺れた時、目の前に褐色の瞳が出現した。

「やっぱりフランソワーズだ!」

満面の笑みで彼女の身体に腕を回し、ぎゅうっと抱き締める。

「びっくりした!マボロシじゃないよね?」

確認するかのようにキスの雨が降る。

「ん、ヤ、ちょっと」
「ヤダ。待てない」
「だって、そ――ん!」

「――ほんとにフランソワーズだ」
「もうっ・・・ちょっと待って」

微かに離れた隙に呼吸を整える。

「あの」
あのひとは誰なの?と訊きたいのに何故か喉が詰まって続かない。

「僕のフランソワーズだよね?」
「ん、ジョー、聞いて」
「返事してフランソワーズ。ね、僕のフランソワーズだよね?」

会話にならない。

「嬉しいなぁ。どうして言ってくれなかったんだい?」
「だ・・・って」

キスの雨はやまない。

「嫌だな、ずるいぞ内緒にするなんて。びっくりして心臓が止まるかと思ったんだぞ」
「・・・私だって」
心臓が止まるかと思った。さっきの光景を前にして。

「ね。ジョー。あのひとは」

そう言いかけた時、野太い声が割って入った。

「ったく、節操ないわね、アンタって!」

・・・誰?

栗色の長い髪。の――野太い声?

???

フランソワーズの頭にクエスチョンマークが乱舞する。
何しろ、目の前の女性の発した声は、深い深いバリトンの――男の声だったから。

「うるさいな、節操ないのはそっちだろう?」
「しっかしまぁ、この人混みの中でよく見つけたね?」
「当たり前だ。僕がフランソワーズの声を聞き漏らすなんてありえない」

――え?

「ね、ジョー、私の声――」
「俺には聞こえなかったけど?」
「聞こえてたまるか。僕はフランソワーズに呼ばれたら、どこだって絶対にわかるんだ」

・・・・・。

「ね?フランソワーズ?」
「・・・・・」
「・・・あれ?」
「どれ。――ま、可愛い。泣いちゃってるじゃない。・・・ふぅん。これが噂の「音速の騎士の女神」」
「やめろよ。見るなよ」
「いいじゃない。減るもんじゃないし」
「減る」
「けち」
「フランソワーズは僕のなんだからな!」
「ハイハイ。誰も獲りませんよ。もう・・・トランクここに置いとくからね?――じゃあねっ」
「ああ。あとで電話する」
「期待しないで待ってるわ」

投げられたキスに嫌そうな顔をするジョー。その腕の中でいまの遣り取りを聞き、フランソワーズはとある人物に心当たった。

「・・・ね、ジョー。今のひとって、もしかして・・・」
「――ん。あ。わかっちゃった?」
「・・・うん」
「言うなよ?」
「言わないわよ」

言えるもんですか。

ジョーの元チームメイトの元レーサー。当時はジョーととても仲が良く、パートナーとしても最高の二人だったと聞く。
その彼が引退して、今は――女性になっているなど、言えるわけがなかった。

「・・・ジョーのこと好きなのかな」
「んー、あくまで男同士で、だろ」
「・・・そうかしら」

さっきの雰囲気はとてもそうは思えなかったけれど。
でも。

「ね、私の声が聞こえたってほんと?」
「もちろん。――疑ってる?」
「・・・だって」

自分でも聞こえないくらい小さな声だったのに。

「――聞こえるよ。フランソワーズの声で呼ばれたら」

呼吸の間にキスをひとつ。

「ね。もう一度呼んで」
「・・・ジョー」
「もう一回」
「ジョー」
「もう一回」
「・・・もう」

そうして彼の顔を見上げ――

「おかえりなさい」

 


 

11月3日

 

「ええ、わかったわ。――大丈夫よ。心配しないで」

くすくす笑いながら電話をしているフランソワーズを見つめ、ここギルモア邸のリビングには異様な空気が流れていた。
いまリビングにいるのは、アルベルト、ピュンマ、ジェロニモの3人。(ここのところ、ジェットの姿が見えないのは遠征中だからである)その3人が、楽しそうに会話中のフランソワーズをただじっと見つめているのである。が、フランソワーズは全く意に介していない――というより、おそらく周りのことは何も見えていないのだろう。
実は、彼女が携帯電話だというのに、自室ではなくリビングで話しているのには訳があった。

「――ええ。そうなの・・・えっ?」

つんつんと肩をつつかれ、フランソワーズは初めて周りに人がいることに気がついたかのように瞳を丸くした。

「あ、ううん。何でもないの」

電話を代われというジェスチャーに、小さく首を横に振る。

「でね、そうそう、どっちに帰ってくるかしらと思って――あ、」

横から電話をひったくられ、フランソワーズは頬を膨らませた。

「もうっ、せっかくジョーと話してるのに」
「帰ってきたらいくらでも話せるだろ」

そう苦笑いしたのはピュンマ。
さて、彼女の電話をひったくったのは誰かと言うと――

「フランソワーズ?どうした」
「もしもし、ジョーか」
「――誰だ」
「おいおい、いきなり殺気立つなよ。仲間の声くらいわかるだろう?」
「・・・アルベルトか?」
「おう」
「・・・・・いったい何の用だ」

どうやらこちらも、フランソワーズとの会話を中断させられ御立腹のようだった。

「――オマエさ。こっちには帰ってくるな」
「え?」
「自分のマンションに帰ってから、改めてこっちに来たほうがいい」
「――何だって」
「安心しろ。フランソワーズもそっちに行かせるから」

隣で聞いていたフランソワーズはびっくりしてアルベルトを見て、次にピュンマを見た。ピュンマとジェロニモはうんうんと頷いている。

「――あのな。よおく聞けよ?――こっちには何人も人がいる。博士だっているし、イワンもいるんだ。そこへオマエとフランソワーズがその、なんだ、トコロ構わず仲良くしていると色々と問題が起こるんだよ」

過去にそういう場面に遭遇したことはなかったが、それはおそらく単に運が良かったのと――ソレっぽい空気の時は避けていたからだった。
それはアルベルトだけではなく、他の住人もみんなそうであり――それが続くと大変疲れるのだった。

「トコロ構わず、って・・・」

電話の向こうでジョーが絶句する。

「僕たちは別に」
「ああ、はいはい。そうだな。――だから、自分の家にいろ。落ち着くまで。な?」
「だけど」
「邪魔がはいらなくていいだろう?」

それは確かにそうだったので――ジョーはしぶしぶ承諾した。
が。

「もしもし、ジョー?」

フランソワーズに代わると、

「聞いてた?――うん。むこうに帰るから」
「わかったわ」
「・・・邪魔が入らないんだってさ」
「そ。そうね」
「この前言ったこと覚えてる?」
「・・・え。そんなの、忘れたわ」

帰ったら、ずーっとずーっとちゅーしようね?

「口内炎も治ったし。大丈夫」
「大丈夫、って・・・」

もう、ジョーのばか。――でも、好き。

 

 


 

11月2日

 

「会いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会い」

通話ボタンを押した途端、流れてくる言葉の奔流にフランソワーズは怪訝そうに眉間に皺を寄せた。

「ジョー・・・よね?」
「ウン。会いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会いた」
「ね。いったい何事・・・」
「い、会いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会」

会話にならない。
一応、相手がジョーであることは確認できたので、イタズラ電話ではないとほっとする。
が、ある意味イタズラ電話なのかもしれなかった。

「ジョー?ねえ、どうし」
「いたい、会いたい、会いたい、会いたい、会いた」
「・・・壊れちゃったの?故障?」
「い、会いたい、会いたい、会いたい、会い」
「もー。ジョーってば」
「たい、会いたい。・・・・」

しばし耳を澄ませて待ってみる。
けれども相手は沈黙したままだったから、とりあえず「会いたい」の連呼はおさまったようだと判断する。

「・・・ジョー?」

おそるおそる声をかける。本当に故障だったらどうしようと思いながら。

「ね。今の呪文はいったい・・・」
「呪文、って、フランソワーズ」
「だって、イキナリよ?訳がわからないじゃない」
「何で。そのままの意味だけど?」
「・・・会いたい、って?」
「うん、そう」
「だったら、一回言えばたくさんじゃない」
「駄目だったんだよ。足りなくてさ」

意味がわからない。

「・・・ジョー?大丈夫?」

最終戦を控え、緊張しているのだろうか。

「あんまり大丈夫じゃないな。フランソワーズのせいで」
「私!?」
「うん。――酷いよなぁ。ほんと」
「・・・・・・・何にもしてないのに」
「したよ。昨夜から今朝にかけて」

そんな時間にジョーと話はしていなかった。

「寝てたんでしょう?」

レース前に夜更かしするような人ではない。

「ああ、寝てたね」
「だったら」
「なのにさ。勝手に夢に出てくるんだもんなぁ」
「・・・・は?」
「おかげでこっちは、朝から会いたくてしょうがないって訳だ」
「訳だ、って・・・」

威張ったように言われても困る。何しろ、彼の夢に出演した覚えはないし、彼が勝手に出演させただけなのだから。

「会いたいなーって一回言っても駄目で。しょうがないから、ずーっと言ってる」
「・・・ずっと?」
「そう、ずっと。そうすると少し落ち着くんだ」
「・・・・・そう」

朝からずっとこんな具合に連呼していたのだろうか?

「でも、それって他のひとから見たら、危ない人って思われるわよ?」
「きみだってイタイ人じゃないか」

変なカップルである。

「平気だよ。みんな慣れてるから」
「慣れてる、って・・・」

いったい彼は、サーキットで何をやっているのだろう?

「本当は、ちょこっと加速してそっちに行っちゃおうかと思ったんだけど」
「え、冗談でしょ?駄目よそんなの。何キロあると思ってるの」
「うん。だからやめた。――怒られそうだったし」
「そりゃ怒るわよ。だって最終戦の前よ?」
「そうなんだよなぁ・・・」
「フロントロー獲得でしょ?」
「二番グリッドだけどね」
「いいじゃない。問題ないでしょ?」
「まあね」

ちょっと黙って。

「頑張ってね」
「うん。――フランソワーズ?」
「なあに」
「会いたい」
「・・・私も」