「レンタル」
フランソワーズは祈るような気持ちで胸の前で組み合わせた手に力を入れた。 ――絶対、大丈夫・・・!ううん、きっと・・・ 今日は「ジゼル」の配役が発表される日。 「ジゼル」の主役。 このために連日遅くまでレッスンをしてきた。 でも、今日は違う。 ジョーが頑張ってワールドチャンピオンになったことも後押しした。 だから、頑張った。 今までは「やっぱり無理かもしれない」と思うたびに心が挫けていった。 自信もあったし、手応えもあったように思う。 私の夢。いつか「ジゼル」を踊ること。 今まで「ジゼル」という演目には何度も関わってきた。村娘のソロも踊った。けれどもやはり、一番願うのは・・・ 「――ジゼルは」 神様! ぎゅっと目を瞑った。息を止めて。 「フランソワーズ・アルヌールさん」 周りの友人がわあっと声をあげた。 「私・・・本当に?」 信じられず、ぽかんとしたまま小さな声が洩れる。 「本当ですよ」 思わず涙がこみ上げたが、まだ泣く場面ではないと自分を戒める。 「はい・・・!頑張ります!」 はっきりと言う。お腹に力を入れて宣言する。 「それから、今回は特別にフランスからダンサーをお招きしました。今度のジゼルは彼の解釈でいこうと考えています。――フランソワーズ、あなたのお相手よ」 一同がざわりと揺らめいて、先生の視線を追う。 「うそっ・・・」 さざ波のようにざわめきが広がってゆく。 「みなさん、既に御存知かもしれませんね。紹介します。ムッシュウ・アズナブール!」 流暢な英語で話されるその声をフランソワーズは聞いていなかった。 「アズナブール先生・・・!」 いま目の前にいる人物を信じられない思いで見つめた。 「フランソワーズ。もう「先生」はやめてくれないか」 こちらもフランス語で話す。笑みを浮かべて。 「――探したよ。突然、いなくなってしまったからね」 「・・・それは」 なぜ突然いなくなったのかを言えるはずもない。 「いや、いいんだ。こうして再会できたのだから、何も言わないでおくよ。――フランソワーズ。会いたかった」 熱く見つめられ、フランソワーズは半歩足を引いた。そしてある可能性に気付く。 「まさか、私が今回ジゼルに選ばれたのは、先生の・・・」 確か以前にも似たようなことがあった。あの時も疑ったものだ。自分に好意を持っているから、職権濫用したのではないか、と。 そんな彼女の心中を読んだのか、アズナブールは険しい顔で言い放った。 「誤解するな。私はそんな甘い男ではない。いくら古い知り合いとはいえ、水準に達していない者を抜擢するような事は絶対にしない」 *** 「フランソワーズ、ムッシュウ・アズナブールと知り合いなの?」 更衣室では大騒ぎだった。 着替え終わり、バッグを肩にかけてロッカーの扉を閉めたフランソワーズは、振り返った先のいくつもの期待に満ちた顔に大きくため息をついた。 「・・・みんな帰らないの?」 そうそう、と全員が頷く。 「いったい、ムッシュウ・アズナブールと何を話してたの?」 フランソワーズはどれにも答えず、微笑んだだけだった。 「でも、ムッシュウ・アズナブールといえばこの業界では有名人よ。知らない人はいないわ。それがこんな小さなバレエ団に来るなんて、不思議じゃない?いくらゲストとはいえ」 口々に話されることを聞きながら、最後の言葉にはっとしたフランソワーズは思わず口を開いていた。 「チケットが手に入らないなんて、困るわ」 だって、ギルモア邸のみんなの分が。 「ばかねー、大丈夫よ!私たちにはちゃーんとチケットが必要な分だけ用意されてるんだから」 ばし、と背中を叩かれ、フランソワーズは咳き込んだ。 「ヤダ、そんなの心配していたわけじゃないわ」 顔が赤くなる。 「まー、この子は何てわかりやすいの!」 そんな風に見えているのだろうかとちょっと不安になった。 「でも、レッスンが始まったら――わからないわよ?だって、ずうっと二人で練習することになるんだし」 ぐるりと首に腕を巻かれる。 「えっ、そんな・・・そんなこと」 にんまりとした顔で見つめられ、フランソワーズはますます頬を染めてうつむいた。 「・・・ええ。早くジョーに伝えたいの。・・・ジゼルを演じるんだ、ってこと」 小さい小さい声で恥ずかしそうに言う。 「たくさん、応援してくれて、心配してくれてたから。だから・・・」 首に巻かれた腕をそっと外し、肩からずり落ちていたバッグを掛け直し。軽く頭を振って、頬にかかった髪を払う。 「だから、早く帰りたいの!!お先にっ」 そうして、あっと言う間に包囲網を突破した。 「ああっ、フランソワーズ!」 その声を背中で聞きながら、フランソワーズは小走りに廊下を抜け、ビルの階段を駆け足で下った。 ビルを出て、駅へ向かう。今日もジョーは迎えに来てはいない。まだ外出禁止令を解いていないのだ。 とはいえ。 いま、何してるかしら。 思いついて、携帯を取り出してフラップを開く。通話ボタンを押そうとした時、昔よく聞いた声が耳朶を打った。 「フランソワーズ。ちょっといいかな?」 フランス語だった。 「・・・アズナブール先生・・・」 携帯を閉じてバッグにしまう。という行動は無意識だった。けれども、瞳はじっと相手を見つめたまま。 「久しぶりだし、ちょっと話したいんだが時間はあるかい?」 ――久しぶり。 なんてものではなかった。いったい何年経ったのだろう? 「あの、すみません。今日はちょっと急いでいるので」 曖昧な笑みを浮かべ、一歩下がる。 「フランソワーズ。もちろん、いきなり会って動揺するのはわかる。しかし、私たちは明日から組むんだし、今から打ち解けていたほうがいいと思わないか?」 でも、今は。 「そんなに緊張しないで欲しい。――フランソワーズ?」 優しく微笑むその瞳が好きだ――と、思っていた。 私はあの時、ジョーを選んだ。 戦いに引き込まれるのは嫌だった。迎えに来た褐色の瞳の持ち主は、フランソワーズが嫌なら来なくてもいいのだと繰り返し言った。だから、当然そうするつもりだった。なのに、気付いたら空港にいた。 ――あの時。私が選んだのは、アズナブール先生ではなく、ジョー・・・・。 ずっと忘れるしかないと思っていた。彼に会えるのは戦いの時だけなのだから。だから、平和な日々に心を埋もらせて、彼のことは考えないようにしていた。例え、いつも胸の奥に自分をじっと見つめる褐色の瞳があったとしても。 私の心の奥にはいつもジョーがいた。 忘れようと思っていたのに、忘れたつもりだったのに、結局はその思いを大事にしまい込んでいただけだった。 「フランソワーズ。踊るのに組むというのがどういうことか、君はよく知っているはずだ」 彼が何を言っているのかは十分にわかっていた。 「でも――すみません。今日は本当に時間がないんです」 相手役と演目について詰めて話し合うのは大切なことだ。それは十分、わかっている。明日からレッスンが始まるのだから、その前日の今日のうちにお互いの解釈を確認しあうことが必要だった。 「あの、明日レッスンに入る前だったら時間が取れるので、その時に」 レッスンは午後からなので、午前中なら時間がある。 「・・・フランソワーズ。きみはいつからバレエを軽く考えるようになってしまったのかな」 軽く首を傾げ、表面上はあくまでもにこやかに諭される。 「軽くなんて考えてません」 そんなことより何より。 *** リビングをうろうろと歩き回り、うっとうしいと注意されたのは一回や二回ではなかった。 「そんなに気になるなら、行ってくれば?」 ピュンマがため息とともに言う。 「行くってどこへ?」 あっさりと当然のように言われ、ジョーは顔を赤らめた。 「だけど、外に出たらダメだと言われてるんだ」 戸口から硬質の声が響く。 「――アルベルト」 もちろん、言われなくても自分でもそう思っていた。が、心配しているのはフランソワーズなのだ。 「でもさ」 ピュンマがにやりと笑う。こういう顔の時は、何か悪知恵を働かせている。 「フランソワーズも今日は違うんじゃないかと思うけどな」 にやにやしながらジョーを見る。 「誰より先に会いたいひと・・・?」 考え込む様子のジョーに、ピュンマは笑いを引っ込めると神妙な顔でため息をついた。 「・・・お前はバカか。彼女の会いたいひとってお前以外にいるわけないだろ?」 アルベルトがピュンマの向かいのソファにどっしり腰を降ろす。 「そんなのんびりしてていいのか?浮かれたフランソワーズは何をやらかすか知らないぞ」 ジョー以外は全員知っているのだ。浮かれたフランソワーズが何をやらかすのかを。 「大袈裟だなぁ。ちょっとくらい浮かれたって何にも心配いらないよ」 にこにこ笑うジョーを気の毒そうに見つめる二組の瞳。 「――知らないぞ。ケーキをやまほど買ってきたって、俺は手伝わないからな」 そう言われてもぴんとこない。 「フランソワーズがそんな真似するわけないだろう?」 くすくす笑うジョーだったが、対するアルベルトとピュンマはじっと彼を見つめ無言だった。 「――ともかく。鬱陶しいから、つべこべ言わずに行ってこいよ」 大量のDVDを抱えて入って来たアメリカ人が、話の流れもわからないまま言い放つ。 「これからDVDを観るんだから、お前がうろついてると邪魔なんだよ」 ジョーはひどいなぁとぶつぶつ呟きながら、 「そんなにみんなが言うなら・・・しょうがないな」 そう言って、車のキーを手に取った。 *** ギルモア邸を猛スピードで遠ざかってゆくストレンジャーを見つめ、リビングにいた三人は大きく息をついた。 「全く。どうしてあんなに素直じゃないんだ」 つまり―― 『みんなが迎えに行けとうるさくて』自分は迎えに来たのだ。という大義名分。 運転しながら、ジョーは我ながら良い言い訳を思いついたと悦に入っていた。 ――フランソワーズ。僕は信じてる。きみが主役を――ジゼルを実力で勝ち取るってことを。 「ジゼルに決まったのよ、ジョー!」 今となっては、外出禁止令を破ることなど大したことではなくなっていた。 構うもんか。 嬉しい気持ちを早く聞きたかった。彼女が役を逃すなんて、これっぽっちも考えていない。 僕のフランソワーズは、絶対に夢を叶える。 亜麻色の髪。白い肌。彫りの深い顔立ち。琥珀色の瞳。 その手がそっと伸ばされた。 「フランソワーズ。ともかく――」 いま目の前にいる人は、昔自分が好きだと思い込んでいたひと。 その伸ばされた腕が途中で止まった。 何事かと振り返ったフランソワーズの目に映ったのは、金髪に近い栗色の髪と褐色の瞳の持ち主だった。 「ジョー!」 どうしてここにいるのかなどという疑問は、一瞬頭をよぎったがそのまま手放した。 「ジョー!聞いて!私、ジゼルを踊るの!」 満面の笑みで見つめる。頬を上気させて、きらきらした瞳で。 「ん、フランソワーズ、落ち着いて」 嬉しさ全開で体当たりしてきたフランソワーズをぎゅっと抱き締め返しながらも、いちおうここは公道なんだからと周囲に目を配る。 「ジョー。一緒に喜んでくれないの?」 腕のなかから、拗ねたような怒ったような声が響く。 「んっ?」 フランソワーズに視線を戻す。 「――嬉しいに決まってるだろ?」 額と額をくっつけて。 「でも、あんまり嬉しそうじゃないもの」 そう言われても、なおも不満そうなフランソワーズに苦笑する。 「――だから、気になって一刻も早く知りたくて、迎えに来てしまった」 フランソワーズの髪にそっとキスをして、そうして――目の前の人物に目を移す。 ジョーの不穏な気配に気付いたフランソワーズは、彼の胸から体を引いて振り返った。 「・・・あ」 そういえば、アズナブール先生がここにいたんだったわ・・・! ジョーに会えた事が嬉しくて、会いたいと思っていたら彼が呼ばれたかのように現れたのが嬉しくて。だから、彼以外のものはすっかり頭から消えてしまっていた。 「あの、紹介します。こちらは、島村ジョー。私の・・・お付き合いしている人です」 フランソワーズの声は双方に聞こえていたのかどうか。 ――この彼は、どこかで見たような気がする。 アズナブールは目を細め、記憶を手繰った。 ――どこかで。・・・確か、あれはパリの―― フランソワーズが突然姿を消した前日に見かけたような気がした。が、確信はない。 一方、ジョーは。 ・・・どこかで見たような気がする。 こちらも記憶を手繰る。 あれは・・・パリだろうか? 直接会ったわけではない。だったら忘れるはずがない。フランソワーズの友人であれば。しかも男性ならば。 後でフランソワーズに訊けばいい。 いま問題なのは、この場の妙な空気なのだから。 じっと相対しつつもお互いに一言も発しない。 もし、先生が前のような――私に対する好意が残っているのなら、面倒なことになるかもしれない。 そう懸念した。 けれども、アズナブールを見つめ、どうやらそうではないらしいと見当をつけた。 「――フランソワーズ、きみは・・・」 アズナブールはそう言いかけたものの、いま自分の目の前で起こった出来事をどう言ったらいいのかわからなかった。 ――彼以外は何も見えないのか。 「白い舞い」と呼ばれる三大バレエのうちの一つが「ジゼル」である。 「私たちのジゼル」 その甘美な響きにフランソワーズは夢中になった。 *** 何度目かのダメ出しをされたその日、レッスンの後アズナブールは落ち込むフランソワーズを誘い、静かなカフェに行った。 コーヒーが運ばれてからしばらくして、やっとフランソワーズは顔を上げた。 「――フランソワーズ」 まっすぐこちらを見つめる強い瞳を見ることができず、フランソワーズはカップを置くと手元を見つめた。 「私はこの「ジゼル」に賭けている」 深く諭すようなフランス語が響く。 「成功すれば、間違いなく私のタイトルの一つになるからだ。――が、しかし、これは同時に君にとってもチャンスのはずだ」 フランソワーズは手をぎゅっと握りしめた。 「私は君が世界へ出てゆくための手助けをしたい。そのために日本に来たのだ」 そんな理由で日本に来たなど、にわかには信じ難かった。 「本当だ。フランソワーズ、君は必ずプリマになる。そのためには、もっと世間に知ってもらうことが大切だ」 フランソワーズはやっと顔を上げた。 「本当に私が」 アズナブールはフランソワーズの不安そうなまなざしを受け止め、小さく頷いた。 「だから君に無様なジゼルを踊らせたくない」 フランソワーズの頬がさっと赤くなった。 無様なジゼル・・・。それは、私のことだわ。 「――大丈夫だ。私がついている」 アズナブールはフランソワーズの手にそっと触れた。 「私が君に、そんなジゼルを踊らせはしない。私を信じて一緒に創ってくれないだろうか?新しいジゼルを」 ジョーに「君は強い子だ」と言われてもなお、不安は消えなかった。 「大丈夫だ。何のために私がいる?」 そうして、彼が出した提案にフランソワーズは同意した。 「私たちのジゼル」を成功させるために。 目標は一つだった。 *** 「――ねぇ、ジョー。お願いがあるの」 その日の夜遅く。 「お願い?」 対するジョーは微かに鼻にしわを寄せる。 「ええ。一昨日からジゼルのレッスンに入ったんだけど・・・」 散々、ダメ出しをされているのだという。 「それで、今日はとうとうアズナブール先生にも呼び出されてしまって、叱られたの」 相手役ではあっても、やはりフランソワーズにとっては「先生」なのだ。 「本気でジゼルをやる気があるのか、って」 ジョーは無言でフランソワーズの髪を撫でる。 「それで、色々話し合って――決めたの。でも、それにはジョーの協力が必要で」 その「協力」の内容を聞いて、ジョーは目を瞠った。 「・・・本気?」 ジョーの肩に頬を寄せていたフランソワーズが身体を起こす。じっと正面からジョーの瞳を見つめる。 「――協力してもらえる?」 ジョーは少しの間、目を閉じて黙った。不安そうに見守るフランソワーズが何か言おうと口を開いた時、やっとジョーは目を開けた。 「いいよ。――わかった。協力する」 けれども、喜ぶかと思いきや、フランソワーズは心配そうにジョーの顔を両手で挟んだ。 「だって、・・・大丈夫、ジョー?」 苦笑まじりに言って、フランソワーズを抱き寄せる。 「むしろ僕は、君の方が心配だよ」 全ては憧れだった「ジゼル」のため。 「途中で挫けたら許さないからな」 その一言に、一瞬、フランソワーズの顔が歪む。 「――ひとりでも頑張れる、フランソワーズ?」 「ジゼル」の上演まであと3週間だった。 フランソワーズが公演のためのレッスンに入ってから一週間が過ぎた。 「――オイ」 ジェットが隣のピュンマの脇腹を肘でつついた。 「アイツの好きな卵焼きが登場しなくなって一週間になるぞ」 ピュンマがまじまじと隣のアメリカ人を見る。 「ヒマだなぁ」 だからって、あの二人を観察しなくてもいいだろ・・・と、ピュンマはため息をついた。 朝食の席である。 誰がどう見ても冷戦状態だった。 「ごちそうさま」 フランソワーズが立ち上がる。 「行ってきます」とにっこり笑んで小さく手を振り、「いってらっしゃい」と応えるのはいつもピュンマとジェットだった。 最初の数日は、誰もが「いつものケンカ」だと思っていた。だから明日には、すっかり仲直りをしているはず――と。 しかし、一日経っても二日経っても、二人の冷戦状態が緩和する気配はみえず、むしろ更に温度が下降しているようだった。 ――これはただのケンカではない。しかし、だったら何が――? 誰にも何もわからなかった。 「これってまさか・・・、・・・・イヤ、ありえないな」 ポツンと洩らした言葉に反応したのはピュンマ。 「――やっぱりそう思うか?」 アルベルトとピュンマの会話をそばで聞いていたジェットはイライラと髪をかきむしった。 「ダーッ。何だよ、二人して。はっきり言えよ」 が、二組の冷たい視線を浴びて黙った。 「何だよ、オイ・・・」 思わず声を潜める。 「お前、本当に何もわからないのか?」 アルベルトが苦々しく言う。 「わかるも何も、俺にはあの二人が別れたんじゃねーかって事くらいしか思いつかねーよ」 大体、どちらかがどちらかに振られた――となれば、わからないはずがないのだ。 しかし。 「・・・嘘だろ。マジかよ」 円満に別れた――という事なのかもしれなかった。 本当に、「別れた」? *** 「ごちそうさま」 静かな声がして、ジョーを除く他の者は彼の存在を思い出した。 「ジョー、ちょっといいか」 フランソワーズとケンカでもしたのか。 と、言いかけた言葉が舌の上で凍った。 「・・・いや、なんでもない」 ――なんて目をしてやがる。 「そう」 途端にジェットに対する興味を失い、ジョーはキッチンへ向かった。 「――なんだ、アイツ」 いつもなら、ジョーがそういう目をしていると必ずフランソワーズが気づいて、そしてジョーを抱き締める。 「・・・まさか、スルー?」 ジョーを見ないフランソワーズ。 それは、いつぞやの――ジョーがフランソワーズを見なくなった時ととてもよく似ていた。 「おい、待てよ。それって例の王女様の件だろう?」 しかし。 「・・・とうとう、フランソワーズに『本当の相手』というのが現れた。ってとこか」 いつも彼女たちが決まって口にしていた『本当の相手』の存在。 しかし。 「本当の相手、って・・・ジョーじゃないのかよ?」 ――僕のフランソワーズ。 ベッドに仰向けに寝転がり、天井に向けて両手を伸ばす。その先に望むものがあるかのように。 *** クリスマスムード一色の街。 ポケットに両手をつっこみ、あてもなくただ歩く。 誰も彼に気付かない。 首をすくめ、猫背気味に歩く。 ――フランソワーズ。 *** どこをどうやって帰ってきたのか覚えていなかった。そもそも、何をしに街まで行ったのかもわからない。 あの亜麻色の髪に指を絡めて抱き寄せたのは、いつのことだっただろう? ――僕の、フランソワーズ。 ぎゅっと手を握りしめる。 あの幸せだった一瞬を、そのままとっておけたらよかったのに。永遠に。 けれども、直視しなければならない現実というものがある。 彼女は、その相手にも自分に言ったのと同じように同じ言葉を言うのだろうか。 伸ばしていた手がだらりとベッドの上に落ちる。 ぎゅっと目を瞑る。 ――フランソワーズ。 今は、僕のものではない。 *** *** 「フランソワーズ、どうかしたのか?」 優しい声が耳に響いて、フランソワーズははっと物思いから覚めた。 「何でもないわ」 にっこり笑う。そして、回した腕に微かに力をこめる。 「ねぇ、それよりこの後どうする?――」 クリスマスムード一色の街。 ――ジョーかと思った。 先刻、歩いている時に見かけた金髪に近い栗色の髪。 「フランソワーズ、聞いてるかい?」 柔らかなフランス語で訊かれる。 にっこり笑むと、その頬に唇をつけた。軽く。 「ごめんなさい。ちょっと考えごとをしていたの」 少し怒ったような声に変わる。 「どうもダメだな。――集中しなければ。ん?」 そうして、軽くキスを交わす。 「――ねぇ。最近のフランソワーズって何だか変じゃない?」 そんな言葉が交わされるようになったのは、「ジゼル」のためのレッスンが始まってしばらくしてからだった。 「相手役だから、仲良くしているだけじゃない?」 フランソワーズはここにはいない。 「確か、元カレ・・・ってことだったわよね?」 いないのだった。 「・・・フランソワーズは、ムッシュウ・アズナブールと一緒に帰ってるのよね?」 相手役と恋に落ちる――なんて、少女漫画の世界だけだと思っていたのに。実際に目の当たりにするとは誰も思ってもいなかった。 「ん、まぁ、でも、いいんじゃない?別にあの子がジョーくんと結婚してたってわけでもないし」 フランス人同士だから、話が合うだけだろう――と思っていた周囲の予想は外れた。 彼女を優しくまっすぐ見つめるアズナブール。 誰がどう見ても、彼女が「元カレ」に心変わりしたのは明らかだった。 *** 「毎回送ってくれなくてもいいのに」 ベンツの助手席で、やや頬を膨らませて拗ねたように言う。 こうしてレッスン後に送ってくるのは一度や二度ではなかった。 「――迷惑?」 硬い声にはっとして首を振る。 「いいえ。そんなことないわ」 それには答えず、外の景色に目を遣る。 「フランソワーズ。集中しろと言ったはずだ」 小さく頷くアズナブールの腕にそっと触れる。 「・・・だめね、私。もっとちゃんとしなくちゃ」 二度目の問いは無視できなかった。 「大丈夫です。私・・・」 車が停まる。ギルモア邸の玄関前だった。 「着いたよ、フランソワーズ」 じっと見つめる琥珀色の瞳。 *** 「・・・・・」 何度目だっただろう? 見るんじゃなかった。 ともすれば、激情にかられ階段を駆け下り、ふたりの前に行ってしまいそうな気持ちを抑えるのは易しいことではなかった。 これは、自制心との戦いだ。 まもなく車が去り、少ししてから階段を昇る足音が聞こえてくる。 こんなことがずっと続いている。 ノックされないドアを見つめ、いっそのことこちらから開けてしまえとも思う。それはとても簡単なことなのだから。 が、しかし。 ――これは、僕の自制心の問題だ。このくらい、制御できなくてどうする? とはいえ、手を伸ばせば届くところに彼女がいるのに触れられない――という状況はまるで拷問だった。 「ジゼル」の公演が始まった。 「言葉に尽くせないってどんな意味だよ?言葉にしてもらわないと俺たちにはわからないだろう?」 ウットリとあさってのほうを向くグレートに、小さく「けっ」と喉の奥で言いふてくされるジェット。 「まぁまぁ、ジェット。言わずともわかるだろう?チケットはとっくに完売なんだしさ。当日券だってすぐになくなるって話だし」 冷静に判断するのはアルベルト。 「いや!!いやいやいや、違うのだ!今はフランソワーズ目当ての輩がごまんといるのだぞ」 真剣に言い募るグレート。彼の物言いは茶化すことが多いのだが、今回は全くそのような気配がなく、むしろ己の芸術的センスにのっとって話しているようだった。 「ともかく、あの「ジゼル」は間違いなく本年度のトップになる。話題性も十分だが、何よりフランソワーズが世界へ羽ばたく第一歩になるだろう」 *** *** 自分に与えられた小さな部屋。 ――ジゼル。私は・・・ フランソワーズは初日が成功をおさめたことなど、どうでも良かった。そんな事より、昨日より今日、今日より明日の自分のほうに興味があった。 いま、彼女の心にあるのはバレエのことだけであり、自分がサイボーグであることも全て忘れた。 ノックの音がして、フランソワーズは立ち上がった。鏡に映る自分をちらりと見つめる。 「――アズナブール先生・・・」 アズナブールはにっこり笑って、フランソワーズの額に唇をつけた。 「――私のジゼル」 *** *** 最終日の午後、ギルモア邸には気もそぞろな男ばかりが集まっていた。 リビングはスーツで正装した男たちでいっぱいだった。いつもの赤い服をブラックタイに着替えて。 「ええと、車を出すのはジェロニモとアルベルトでいいな?」 ジェロニモのSUVとアルベルトのワゴンに分乗することになっている。 「花の担当は誰だ?」 ピュンマが仕切って確認をとってゆく。 「俺だ」 ジェットが挙手をする。 「よし。そろそろ行くか」 午後7時開演ではあるが、早めに着いておきたいのだ。 「で・・・」 誰ともなく、天井に目を走らせる。 ジョーはどうするのか、と。 「――行かないだろ。熱々のふたりを観にわざわざ」 彼が今までフランソワーズの踊る姿を観たことはなかった。 「・・・ま、放っておこうぜ」 ぞろぞろと移動し始めた一同と、二階から降りてきたジョーが玄関で出会った。 「ジョー?お前も行くのか?」 ジョーは正装しており、更に手には花束が握られていた。 「行くさ。約束したからね」 それはフランソワーズと別れる前の話だろう? と、誰もが思っても怖くて口にはできない。 「ああ、心配しなくても僕はストレンジャーで行くから大丈夫だよ」 いま、彼の運転する車に乗りたい者などいるのだろうか。 凝固する一同を置いて、ジョーは靴を履いてドアを開けた。 「じゃ、あとでまた」 ゆっくりと閉じてゆくドアを前に、誰もがどう反応すればいいのかわからずにいた。 「――変な奴。付き合っている時は観に行かなくて、別れたら行くのか」 そうだったなと頷きながら、一同もギルモア邸を後にした。 綺麗だった。 やまないカーテンコール。 冷静に観れた――と、ジョーは思う。 以前は絶対ダメだった。とても観られなかった。一度観て懲りた。 ――観に来るのは約束だったもんな。 観客席に灯りがついて、ざわざわと席をたち出てゆく人の波。 「おい、ジョー」 名前を呼ばれ、はっと我に返る。 「なに?」 アルベルトの声に席を立つ。 「もちろん、行くさ」 *** *** 終演後の楽屋は賑やかだった。互いに健闘を讃えあい、成功した舞台に涙した。 「フランソワーズ」 自動的に足が止まった。まるでそういう決まりであるかのように。 「――今日のきみは最高だった。ありがとう」 いつものように彼の胸に顔を埋めるフランソワーズ。 「――先生」 フランソワーズはその瞬間、弾かれたようにアズナブールの胸から離れた。 「いいえ。あなたは私にとって、これからも先生です。――今までもそうだったように」 ぎゅっと手を握りしめる。 「――怖いんです」 怪訝そうに眉が寄る。 「怖い、って何がだね?」 しかし、フランソワーズは首を横に振った。 「わかりません。先のことなんて」 舞台が終わったいま、フランソワーズの胸には不安が渦巻いていた。 「・・・怖いんです」 *** *** どんな顔をして会えばいいんだろう? 花束を抱え廊下を進みながら、ジョーはずっと考えていた。 いまさら、どんな話をすればいいのだろう。 大体、こうして中廊下を通って楽屋へ向かうのも初めてなのだ。 ――フランソワーズの部屋はどこだ? 他のメンバーたちとはどこかではぐれてしまった。だからジョーはひとり、キョロキョロしながら歩いていたのだが。 「島村さん?!」 背後から驚いたような声がかかり、立ち止まった。 「――え、っと・・・きみは」 そう自己紹介しながらも、驚いた顔でジョーを見つめることはやめない。 「あの、フランソワーズの部屋はどこかな?」 確かフランソワーズは彼とは別れたはず。 「あの、・・・こういうことを言うのは筋違いかもしれないですけど、いったいフランソワーズに何の用なんですか?」 険を含んだ声で言われ、ジョーはたじろいだ。 「何の用、って・・・花を」 ジョーは真剣なその顔をしみじみと見つめ、――そしてくすりと笑みをこぼした。 「放っておかないよ。ちゃんと観たと彼女に説明しなければ。――フランソワーズの部屋はどこだい?」 しばし無言で考え、結局彼女はフランソワーズの控え室の場所をジョーに告げた。 「ありがとう」 にっこり笑って言い、背を向けて歩き出したその後ろ姿をじっと見つめ――なにか起きそうだと考える。 「――ねぇ、いまのひとって」 近くにいた友人が肩に手をかける。 「うん。フランソワーズの元カレ。音速の騎士よ」 そして、ジョーの後を追い、フランソワーズの部屋へ向かった。 *** *** 徐々に人が減ってゆき、完全なる「関係者以外立ち入り禁止」区域になった。 ――フランソワーズ・・・! 花束を持つ手に力が入る。 僕の姿を見て驚くだろうか。 舞台での彼女の姿がフラッシュバックする。 ジョーの心に不安が芽生える。 まさか、フランソワーズは。 そう思いかけ、すぐに否定する。 そんなはずはない。――違う。フランソワーズは・・・ 思わず足を止めた。 「フランソワーズ!!」 驚いたように振り向くその顔を見つめたのは一瞬だった。 「ジョー!?」 一歩足を後退させただけで踏みとどまったアズナブールは、ジョーを認めて唇の端を上げた。 「乱暴だな」 それには取り合わず、ジョーは胸にフランソワーズを抱き締め言い放った。 「フランソワーズを返してもらいます」 一ヶ月前。 「フランソワーズ。きみはこのままではジゼルを踊ることはできない」 そう宣言されて、フランソワーズの世界は静止した。 レッスンのあと、アズナブールに連れられてカフェに来ていた。テーブルを挟んで向かい合って座っている。 「・・・そんな」 しわがれた声も、とても自分のものだとは思えない。 「ジゼルだけではない。他のどんな演目も無理だ」 険しい瞳で見据えられ、フランソワーズは胸が詰まり息が苦しくなった。 「何故だかわかるか?――きみはこの世界にたった一人の人間しか見えていないからだ」 そんなことない――と否定したいのに声が出ない。 「そんなきみに「演じる」ことができるとは思えないのだ。ジゼルを降りるなら、今のうちだ。早いほうがいい」 ジゼルを降りる。そんなこと、思ってもいなかった。 「――それは、私のテクニックの問題なのでしょうか」 それならば仕方がない。確かに、ダメ出しは多く、何度やってもうまくなったという自信はなかった。 「違う。そうではない。そうであればダメ出しなどしないでとっくの昔に降ろしている。――そうではなく、きみの表現する役ができてないと言っている」 あまりにも直接的な物言いにフランソワーズは声もない。 「きみの心のなかにいるのは、いつでもあの彼ではないのかね?全てのキャラクターを演じるときも、彼にあてはめて考えていないかね?そうであれば、演じる役はどれもみな同じ。素のままのきみ自身に他ならない。演じているつもりでも、演じていないのだ」 確かにその通りだった。かといって、それをどうすればいいのかわからない。 「――ならば、しばらく「演じる」ことに専念してみる必要がある」 例えば、ドラマなどで犬猿の仲を演じる同士は普段からも反目しあい挨拶もしないという。役になりきるために。 「これから約一ヶ月の間、彼を忘れてジゼルに集中する。できるかね?」 一ヶ月もジョーと話さないなど考えられなかった。 「フランソワーズ。いいかね。きみは今のままでは何も演じることはできない。が、「演じる」ことがどういうことなのか、どうすれば役に集中し演じることができるようになるのか。その集中の仕方を学ぶ必要がある」 ジョーを? 「そんなの、無理です」 いったん、言葉を切る。 「――彼が迎えに来たから、一緒に行ったんだね?フランソワーズ」 それを肯定することは、あの当時、お互いに思い合っていると信じていた事が事実ではなかったとアズナブールへ伝えることになる。 「・・・私、」 困ったような、憐れむような表情のフランソワーズがその答えだった。 「そんなに大事な彼を、演技とはいえ忘れることができるかな、フランソワーズ」 自信がなかった。だから、答えることができない。 「もちろん、これには彼の協力が必要だ。ちゃんと許可をとらねば、いくら私と恋人役を演じても台無しだ。きちんと説明して、彼に協力を仰げるかい?」 わからない。 「一ヶ月、きみを私に預けて欲しいと伝えてくれないか」 黙ったままのフランソワーズに更に言葉を重ねる。 「きみのために必要な事なのだ」 彼が本当にきみを思うのであれば――承諾するはずだ。 それができない男なら、私はきみを・・・ *** その日の夜。 話があると言われ、フランソワーズの部屋へ行ったものの一向に用件を切り出す様子がない彼女にジョーは訝しげな視線を向けた。 「――フランソワーズ。話ってなに」 フランソワーズはジョーの声にびくんと肩を揺らした。 「何か言いにくいことなのかい?」 そうしてゆっくりと顔を上げ、ジョーの瞳をじっと見つめた。 「――相談があるの」 言ってごらん?と促す褐色の瞳に安心し、フランソワーズは今日のアズナブールとの会話をジョーに話して聞かせた。 事情を知り、ジョーは目を瞠り――けれども、真剣な様子のフランソワーズに、これはちゃんと考えなければならないと肝を据えた。 これから一ヶ月間、フランソワーズは自分のものではなくなる。 それは、考えただけでも耐え難いことだった。 しかし。 間違いなく、この「ジゼル」でフランソワーズは変わる。変わるべきだとバレエ団は思っているのだ。 伸びる実力がない者にダメ出しをする者はいない。 ジョーはよく知っていた。自分も厳しい勝負の世界に身を置いているのだから。 いま、フランソワーズが成長するために必要なのは、自分という枷を外すことだった。 「――わかった。いいよ」 勝負の世界に立つ彼女に、自分の庇護は要らない。それをちゃんとわかっているのだ。彼女の師である彼は。 「本当に?」 僕のフランソワーズ。 「きみを一ヶ月間、貸し出すことに同意します」 誰が貸しっぱなしにするものか。 「・・・私が、演技の世界から戻れなかったら?」 フランソワーズの不安そうな声にジョーは苦笑した。 「ばかだなぁ。忘れるわけないだろう?――僕の顔を見れば、すぐに思い出すよ。フランソワーズが僕を忘れるわけがない」 フランソワーズの両肩に手をかけ、正面からじっと見つめる。 「ちゃんと僕を見て。――そんなに僕を信じられないかい?」 誰よりもきみが大切だから。 「――でも・・・ジョー、大丈夫?私がそばにいなくても」 僕がそばにいなくても。 「――泣いちゃダメよ?」 お互いに会えなくても。それは必要な事なのだから。 お互いに、頑張る。 「・・・約束よ?」 お互いに頑張る。 「ああ。・・・期限は最終公演が終わるまで――で、いい?」 そうして、最後のキスを交わした。 明日からは知らない者同士になるのだ。 アズナブールはじっとジョーを見つめ、そしてその腕に大事そうに抱き締められているフランソワーズを見つめた。 アズナブールは軽く息を吐いてから、改めてジョーの顔を見た。 「――乱暴なのは感心しないな。女性を扱うときはもっと優しくしなければ」 芸術家のアズナブールから見れば、レーサーである自分など、ただの粗野な男としか映らないのに違いない。 ジョーはフランソワーズを抱き締めている腕を静かに解いた。 二人の男の視線が正面からぶつかる。 数瞬後、ジョーは大きく息をつき、肩の力を抜いた。 「・・・素晴らしい舞台でした」 ジョーの言葉をアズナブールは軽く肩を竦めて受け流す。 「今までありがとうございました」 ジョーから花を受け取り、くすりと笑む。 「きみも頑張ったな」 ジョーはしぶしぶといった風情で頷いた。 「今までが間違っていたとは思いませんが、・・・でも、――ええ。大丈夫です」 アズナブールは一歩前に出て、二人の遣り取りをじっと聞いていたフランソワーズを見つめた。 「――先生」 フランソワーズは無言で頷く。その肩にそっとジョーの手が置かれる。 「あの、・・・ありがとうございました」 にっこり笑む。が、フランソワーズに触れはしない。 「またいつか、きみのジゼルを見せてくれ」 それだけ言って、歩き出すアズナブールをフランソワーズとジョーは並んで見送った。 「きみたち、打ち上げには行かないのかね?」 びくんと弾かれたように姿勢を正すその姿にアズナブールは苦笑した。 「早く着替えてこないと遅れるぞ」 アズナブールを見つめ、更にはその背後の二人を見つめ。 「あの、いったい」 両手で彼女たちの背中を押して促しながら。 ――全ては「ジゼル」のためとはいえ・・・ あわよくば、って思っていたけどね。 *** *** アズナブールの姿が見えなくなり、ジョーとフランソワーズはいまここにお互いしかいないことを突然意識した。 何とも不思議な気分だった。 「あの・・・ジョー?」 おずおずとフランソワーズが声をかける。遠慮がちに。 「舞台、観てくれたのね」 そう言ってジョーはちょっと笑った。 ジョーの胸に飛び込みたい。 しかし、二人の間にあるこの緊張感は何だろう?一種のよそよそしさを醸し出している。 ジョーがすぐそばにいるのに。 胸を黒く覆ってゆく不安は消えない。むしろ、更に気持ちが沈んでゆき冷たくなっていくようだった。 ――ううん。ジョーは大丈夫。一ヶ月離れたからって私のことを好きでなくなるはずがない。 不安な気持ちを一生懸命否定する。ジョーを信じる気持ちを喚起して。 「――フランソワーズ」 掠れたような喉が詰まったような変な声で呼ばれた。 「・・・触っても、いい?」 ** ジョーは隣に佇むフランソワーズを見つめ、思案した。 ――とはいえ。 いま傍にいるフランソワーズは、先刻まで舞台にいたバレリーナであり、舞台上では他の男の恋人だった。一途に思い続け、逞しくも彼を守り愛を貫いた。 違う。僕はフランソワーズを信じているし、こうして今も彼女のことを・・・・ 抱き締めたい。 そうするにはどうすればよかったのだろう? 気付くと問うていた。 「・・・触っても、いい?」 言った途端に舌を噛んで死んでしまいたくなった。全く、何を言い出すのだろう?こんな台詞、今まで一度だって言ったことはない。わざわざ許可をとるような、聞きようによっては何だか変質者のような。 「――今の、ナシ!!何でもないっ」 思わず身を引いて言い放つ。 「何よ、ナシ、って」 対するフランソワーズは睨むように目を細めた。 「いいわよって言うつもりだったのに。――触りたくないの?」 フランソワーズの台詞に瞬時にパニックになる。 ささ触る、ってどこ、を? ひとりでパニックを起こしているジョーに構わず、フランソワーズはネクタイに手をかけてぐいっと引いた。 「ぐっ。おい、いったい何を――」 そうしてジョーの唇は柔らかいものに覆われた。 「たっ・・・ちょっと、ふら」 パニック中のジョーは更にパニックを起こし、そのまま後退した。が、ネクタイを引くフランソワーズの手は緩まない。 「もー!黙って!」 一瞬、唇を離し、至近距離から蒼い双眸が睨みつける。 「私とチューするのが嫌なの?」 そのまま再び唇が塞がれる。上唇を軽く噛むように触れられ、そして下唇をなぞられ。 「――もう。ジョーってば。ちゃんとして!」 ジョーが言葉を発した途端、狙いすましたようにフランソワーズはキスを深めた。 ――フランソワーズ・・・ フランソワーズが身を引こうとした時、今度はジョーが彼女の身体を引き寄せ、抱き締めた。 「んっ。ジョー・・・」 そうして今度はジョーから彼女へ。 *** 「ああ、こっちだこっち。――ったく、知ってる知ってるって全然違うほうへ行くんだからなあ」 フランソワーズの控え室へ向かう途中、場所を知っているというグレートの言葉を信じ、すっかり迷っていたギルモア邸の一行がやっと目指す場所に着いた。 が。 「うわっ。何だありゃ」 廊下の先には、ちょうどジョーの唇を奪ったフランソワーズの姿があった。そのままジョーが壁に押されて。 「――ほう。やるじゃないか」 一行が見守る中、今度はジョーがフランソワーズの唇を奪った。 「お、反撃か?」 え? 最後の台詞はギルモア博士だった。 「ええと、まあその、何だ。何があったのか知らねえが元通りってことだな」 再び視線が二人に集まる。 「・・・放っておきましょう。いつ離れるかわかったもんじゃありませんぜ」 二人を置いて、引き返す一行。
一番広いレッスン室にバレエ団員全員が集められていた。自然に先生の周りを囲むように幾重にも人垣ができる。
フランソワーズは3列目のほぼ中央に立っていた。そして、じっと「その時」を待つ。
主役のジゼルを狙っている者は多い。主役を踊るのにふさわしい実力も拮抗していた。つまり、誰が踊ることになってもおかしくないのだ。
憧れの役への思い入れは強い。自分なりの解釈を持つためにいくつもDVDを観て、本も読んだ。
幼い頃から、憧れて憧れて、何度も諦めそうになった。
村娘の踊りを踊るたびに、いつかソロで踊りたいと願ってきた。しかし、ずっと頑張ってきたけれど、届かなかった。
自分の力でやり遂げた人を憧れるだけではなく、自分もそれを叶えられる人になりたいと思った。
でも今は、支えてくれる人がいる。
自分を信じて思うようにやるだけだと、何度も強い視線で繰り返し話してくれた。
ともすれば、特別扱いしてくれるその腕にただ甘えてしまいたくなった。けれども彼はそれを許してはくれなかった。
僕の知っているフランソワーズは強い子なんだ。必ず自分の夢を自分の力で叶えられる。そう言って、優しく背中を押した。振り返れば、優しい笑みを浮かべ小さく頷いて。
その彼への気持ちと、彼の自分への気持ちを胸に大切に抱き締めて頑張ってきた。
だから「きっと」「絶対」夢は叶うと信じている。
「やったわね!」
「やっぱりそうだと思ってたわ!」
口々に祝福の言葉を言いながら、フランソワーズの肩を叩いたり背中を押したり。
その問いに優しく答えが返った。
「先生・・・」
夢が叶ったら、そこで終わりというわけではない。まだまだ先は長い。今はスタートラインに立っただけなのだから。
その蒼い瞳はキラキラとして、既に熱い決意が宿っているのだった。
レッスン室の一番後ろ、壁に寄りかかってひっそりと立っていた人物は、先生の声に体を起こした。
「ええっ、あのひとってまさか」
そう、彼は今、ヨーロッパで最も注目を集めているバレエダンサーだった。
彼がゆっくりとこちらに向かって歩を進めた。人波が左右に分かれて道を作る。
そして、先生の隣に立ったその人を見て、フランソワーズは言葉を失った。
「宜しくお願いします」
ゆっくりと唇が開き、そこから洩れた言葉はフランス語だった。
しかし、アズナブールは答えを求めているわけではなさそうだった。
自分の実力でとれた役だと思っていただけに、他人の力添えがあったと知らされるのは辛かった。
けれども、そんな役ならいらない。――と、言えない自分が情けなかった。
どんな経緯であっても、「ジゼル」は「ジゼル」なのだ。それを演じることを許された権利を捨てることはできない。
「先生・・・」
「君は主役を実力で勝ち取った。それは本当だ。むしろ私は、君の踊りに魅入られてしまったのだから」
「同じフランス人だもの、バレエをしている限りどこかで会うこともあったんじゃない?」
「でも凄いよねー!あのムッシュウ・アズナブールと組むなんて!」
今日は配役が発表になっただけで、公演前の本格的なレッスンは明日からである。
だったらさっさと帰ればいいものの、誰もがフランソワーズに「謎のムッシュウ・アズナブール」の話を聞きたがり、一向に帰る気配はなかった。
「ばかね、こんな凄いことを放ってさっさと帰れるもんですか」
「そうよ、フランソワーズったらフランス語で話してるから、何言ってるのか全然わからなかったもの」
「何って・・・別に」
「別に、って顔じゃなかったわ。特にムッシュウ・アズナブールが」
「熱く見つめちゃってさ。――もしかして、ただの知り合いじゃなかったりして!」
「もしかして元カレ、とか?」
「ええーっ。ムッシュウ・アズナブールが?いくらなんでもそれはありえないでしょ」
「わからないわよー。二人とも同じ国にいたんだから、案外・・・ねぇ」
「そうよね。・・・先生達の誰かが親しいのかしら?」
「だって、知ってる?ムッシュウ・アズナブールが踊るっていうだけで、既にチケットが売れてるってこと」
「ええっ、それホント?だって配役が決まったのは今日よ?」
「そんなの関係ないんだ、って。彼が出るだけで、業界関係者は席を確保するのに走ったっていうんだから」
「チケットの正式な発売は来週でしょう?」
「だから、一般の人の手には入りにくいらしいのよ」
「それって・・・凄いことなのか、良くないことなのかわからないわね」
「凄いことに決まってるじゃない」
「そうそう、業界関係者のひとたちに売るのは、ずうっと後ろがはしっこのほうよ」
「・・・そうなの?」
「そう。だから、愛しい音速の騎士の分もちゃーんとあるから、心配しないの!」
「ああもう、これじゃあいくらムッシュウ・アズナブールがアプローチしたって無理ね」
「アプローチ、ってそんな・・・」
何しろ、みんなが勝手にしている憶測は――事実だったのだから。
「いやいや、この子は彼しか目に入ってないって!ね?フランソワーズ」
「あるでしょう?」
そしてまっすぐ前を向いて、笑顔を作った。
「もうっ。何て逃げ足が速いの!」
みんなに言った通り、一刻も早くジョーに伝えたかった。ちゃんとジゼルを勝ち取ったということを。
そして、彼の後押しがあったからこそ頑張れたのだと――抱き締めて、自分がどんなに心強かったのかを伝えたかった。
ジョーへの思いが溢れ、彼に会うことだけしか考えられなかった。
が、今日だけは迎えに来てもらえば良かったなと思う。そうすれば、いますぐに彼の腕に飛び込めたのに。
だがしかし、もしも自分の願う結果になっていなかったら――ジゼルを踊ることができなかったら――そう思うと、やはりジョーに「今日は迎えに来て」とは言えなかった。自分の力が足りなかったと知った時に、そこに彼がいたら絶対に甘えてしまう。それだけは避けたかった。頑張った自分を無条件に慰めるという役割を彼に課すことはプライドが許さない。
自分自身の問題なのだ。それを、彼に甘えて慰めてもらって、頑張ったねと頭を撫でてもらって――それで終わり。にしてしまったら、これから先、なにひとつ自分の力では進めなくなってしまう。
自分の大事な「バレエ」に、そんな甘えた考えは要らなかった。
嬉しい気持ちの時は、彼と――ジョーと一緒にいたかった。
迎えに来て、って言ったら、すぐ来てくれるかな。
思わず止めた足の先には――
その相手はフランソワーズのほうへ歩を進めながら、にっこり笑んだ。
友人たちが軽く冗談のように「元カレ」と言っていたけれど、それは確かにそうだった――かもしれない。
少なくとも、当時は彼のことを好きだと思っていた。
しかし。
「それは・・・・そうですけれど」
でも。
気付かないように、見ないように、考えないように。もう二度と会うことのない人なのだから。どんなに思っても、彼に会う時はサイボーグ003としてなのだ。
そうして、平和な日々の象徴のようにアズナブールとの日々を大切に守ってきた――つもりだった。
彼を好きだと、大切だと思っていた気持ちは、褐色の瞳の持ち主を前にした途端、なんともちゃちな一時しのぎの思いにしか思えなかった。本当に「好き」と思うのとは全然、違っていた。自分は彼を好きなのだと思いたかっただけだったのだ。
だから、ジョーが目の前にいて、彼の姿を見て、声を聞いた瞬間、自分は本当は誰を思っていたのかわかってしまった。
「先生・・・」
「私はそう教えたはずだが?」
だけど。
しかし。
「しかし、きみは打ち合わせも嫌だという。相手役と話すのが大切なのはわかっているはずだろう?」
「そうですけど、でも」
今日、自分がジゼルに決まったことを一刻も早くジョーに伝えたかった。
彼はきっと、一緒に――もしかしたら、自分以上に喜んでくれるはず。
何しろ、昨夜から気を揉んで落ち着かなかったのは彼のほうだったのだから。
けれどもジョーは、注意されても上の空で、何度も何度も腕時計を覗き込み、いらいらとリビングをぐるぐる歩いているのだった。
「フランソワーズのいるところに決まっているだろ。他にどこに行くつもりなんだい?」
「なに情けない事言ってるんだ。堂々と外を歩いて何が悪い」
「案外、大丈夫なもんだぞ。お前はあのポスターやCMのように裸じゃないんだし、わかりっこない」
そして、ジョーにとってフランソワーズの命令は絶対だった。彼女が「外出禁止」というなら、そうするしかないのだ。
何しろ、それに従わなかった場合は――考えたくもないが――彼女の部屋へ行くことも、彼女がジョーの部屋へくることもなくなるのだ。一週間の間。そんなことは二度と耐えられないだろう。一度やって懲りている。
「違うって何が?」
「今日は配役が決まるんだろ?嬉しい報告なら、誰より先に会いたいひとがいるんじゃないか?」
「あ。そうか」
「そうかじゃないぞ」
「卵の大量買いをしても、お前が責任とるんだぞ」
「DVDって何の?」
「今季レースの復習」
「えっ、それなら僕も」
「ダメだ」
「いいじゃないか、一緒に観たって減るもんじゃないし」
「悪いが、チャンプと一緒に観られるほど心が広くないんだよ。――ともかく、お前はフランソワーズを迎えに行って来い。このままだとアイツが何をやらかすか考えたくもねぇ」
「大義名分がないと行けなかったんだろう?ちょうど良かったじゃないか」
「バカだなぁ。その大義名分を作ってやったんだ、って」
何しろ、昨夜から落ち着かず何も手につかなかったのだ。
自分のレースの方がまだ気楽だった。全ては自分のちからにかかっているのだから。
だから、自分以外のひとの大事な局面というのは苦手だった。ただ心配するだけで何もできない。それが大切に思っているひとだから尚更だった。
と、自分の首筋に腕を回す満面の笑みのフランソワーズしか思い浮かばない。
一週間、フランソワーズと二人っきりで会えなくたって、今日、いまこの時のフランソワーズに会えるならそれでいい。
長身ですらりとしており、しなやかな鍛えられた筋肉をまとっている。
更に言えば、その所作ひとつひとつが優雅だった。指先までも。
確かに、いま見てもその魅力は衰えていない――と、思う。
でも、それだけだった。
胸にせまってくるようなものは何にもなかった。
いまのフランソワーズにとって、彼はただの「相手役」にすぎなかった。
じっとフランソワーズの背後を見つめて。
いまここにいる彼――照れたように微笑んでいるその姿が目に入った途端、他の全てのことはどうでもよくなった。
彼との距離を数歩で縮めて、フランソワーズはその腕に飛び込んでいた。
たった今、眉間に皺を寄せ困った顔をしていた人物とは思えない。
そして、自分たちをじっと見つめる人物と目が合った。
蒼い瞳が不満そうにじっと見つめていた。
「そうかな。きみがジゼルに決まるって信じてたから、その確認ができて嬉しいよ?」
少し身を屈めて、フランソワーズの耳元で小さく言った。
外出禁止令が出ていたのにね。
いまのジョーとの遣り取りをずっと見られていたのかと思うと気まずかった。
「・・・よろしく」
「ジョー?こちらはアズナブール先生。今回のジゼルの相手役なの」
「・・・よろしく」
お互いに対峙したまま、フランソワーズのほうを見ない。
目の前の琥珀色の瞳をもつ男性は――フランソワーズと何かしら関連があったような気がして、記憶を手繰るのもざらざらした嫌な気持ちに覆われてゆく。
けれども、一向に記憶は甦らず――ジョーは思い出そうとするのを断念した。
凝固したような時間と空間。それに動きを足したのはフランソワーズだった。
ぎゅっと握っていたジョーのジャケットから手を離し、背後のアズナブールに向き直った。
相手役なのだから、揉めるようなことは避けたかったし、何より気まずくなるのは嫌だった。何しろ、せっかく得た「ジゼル」なのだから。
彼が見ていたのはジョーだったが、それもほんのわずかの時間。今はフランソワーズをじっと見ているのだが、その視線には好意とはほど遠いものが浮かんでいたのだ。
フランソワーズに恋人がいて、その相手をどこかで見たことがある。それも彼女が姿を消す前日に。――ということが問題なのではなかった。
もちろん、それも気にはなったが、それ以上に問題にしなければならないことがあった。
昔から、いくつものバレエ団で何度も上演されている演目ではあるが、その解釈は一つだけではない。
「純愛」の話であるという者もいれば、「悲恋」もしくは「裏切り」とみなす者もあり、多岐にわたる。
同じバレエ団の中でも、踊り手の解釈により変わるのだ。
だから、「ジゼル」は深い。――と、フランソワーズは思う。
自分の解釈としては、やはり「純愛」と信じたかった。
王子は村娘ジゼルとのアバンチュールを楽しんだのではなく、婚約者よりもジゼルを深く愛していたのだと思いたかった。
だから、自分の解釈を相手役のアズナブールに思い切って伝えたところ「私もそう思う」と同意を得られて驚いた。
更に、「私はこの解釈で踊る私たちのジゼルを成功させたい」と熱く語られた。
が、いざ合わせて踊るとなると、どうもピッタリいかず何度もダメ出しをされた。
これは単なる実力差――というものではなかった。
ひとつのテーブルを挟んで座る亜麻色の髪の外国人カップルはどうしたって人目を引く。
だから、外国人の多い街のカフェを選んだのだった。案の定、客も店員も、誰も彼らに注意を払わない。
冷めかけたカップを持ち上げ、ひとくち飲む。
「・・・まさか」
「・・・・・」
正面の相手をじっと見つめる。
「そうだ」
「新しいジゼル・・・」
「そう。純愛という名のジゼルだ。誰よりも愛らしく、しかし、相手の事情を知って身も世もないほど嘆くジゼル。それは全て、相手に対する愛情なのだ。その大きな愛を――純愛を演じきって欲しい」
「――自信がありません」
フランソワーズの場合、彼女の失敗は自分自身のみならず、バレエ団全体の失敗に直結するのだ。
「先生・・・」
「先生と呼ぶのはやめろと言ったはずだろう?」
ジョーの肩に腕を回して頬を寄せて、甘えるようにフランソワーズが言った。
彼女の言うお願いは、いつも予想を裏切る上に突拍子もないことが多いのだ。
心理的に身構えつつ、けれども表面上はあくまでも平静を保って彼女の言葉の続きを待つ。
「・・・そう」
彼女は慰めて欲しいわけではない。
「ええ。本気よ」
「・・・本気なんだね?」
「ええ。私の夢だもの」
「夢か・・・」
「ほんと?」
「ああ」
「本当に?」
「うん」
「大丈夫。任せなさい」
「私を信じてくれる?」
「もちろん」
「えっ?」
「本当に、大丈夫かい?」
「・・・自分で決めたことだもの。頑張るわ」
「・・・ん。ジョーがついてるもの」
「つきっきりって訳にはいかないよ、知ってるだろう?――僕がいなくても頑張れるよね?」
「・・・頑張る」
「んっ。それでこそ僕のフランソワーズだ」
最近のギルモア邸は異様な緊張感に包まれており、他のメンバーや博士も落ち着かなかった。
勿論それは、フランソワーズが緊張しているからそれが伝染した――などという甘いものではない。
ある一部の人間関係が急速に冷えていっていることに起因する。
そして今朝も、ギルモア邸には静寂のみが満ちていた。
「何だよ」
「そうだな。――って、数えてたのか?」
「いいじゃねーか。オフシーズンはやることがねーんだよ」
そして「あの二人」に視線を移す。
いつもなら、二人のケンカのようなじゃれあいに続き、あれこれ会話が交わされる賑やかな食卓だった。が、ここ一週間ほどは誰もが黙々と食べるだけだった。一刻も早くこの気詰まりな場所から立ち去りたいかのように。
向かい合って座っているくせに、一言も口をきかない。
「おはよう」と小さく交わすだけで、お互いの顔も見ず黙々と食事を進めている。
大体、朝食の席にちゃんとジョーがいることも七不思議のひとつだった。何しろ、自分で起きてくるのである。フランソワーズが起こしにいっている気配はない。
自力で起きれるんじゃないか――と、誰もが思っていた。が、口に出す者はいなかった。
自分の食器を手早くまとめてキッチンへ運び――そして出掛ける。
ジョーは彼女を見ない。
今までは、嬉々として彼女の送迎をしていたのに、今は全くその気配もない。彼女と接するのは必要最小限の連絡事項に限られているようだった。
あの二人のケンカは犬も食わないと知っていたから。
どちらかが怒っているというのでもなく、二人ともお互いに全く興味を示していないのだ。
フランソワーズが忙しいからジョーが拗ねているだけだろうと達観していたアルベルトも首を傾げた。
「ああ。他に考えようがない」
「――それだよ」
「へっ?」
「だから。あの二人が別れたんじゃないか、って話だ」
「まさか。それはないだろ」
例えば、ジョーが全く使い物にならないボロ雑巾化するとか、あるいは、フランソワーズが部屋にこもってずっと泣いているとか。
それは容易に想像できるし、特にジョーの場合は今までに数回そういう事があったのでわかるのだ。
いくらあの二人を子供扱いしようとも、それなりにあの二人も成長しているわけで――今までとてもそうとは思えなかったが――もしかしたら、普通の男女のように普通に静かに別れることができるようになっていたのかもしれない。そして、そう考えれば全て辻褄が合う。
ジョーを起こしに行かないフランソワーズ。
フランソワーズを送迎しようとしないジョー。
どちらも、この役だけは絶対に誰にも譲らなかった。なのにそれを簡単に放棄しているという事は、つまり・・・
ゆっくりと食器をまとめ立ち上がるジョーに、おそるおそる声をかけたのはジェットだった。
「なに?」
「お前・・・」
何故なら、こちらを向いたジョーの瞳がいつもと全く違っているのである。
穏やかな声だったから気がつかなかった。彼の目はいま、――ジェットが昔、アウトサイドでよく見た目とそっくりだった。
彼が出て行くまで静寂が支配する。
その後ろ姿が見えなくなってから、誰ともなく大きく息をついた。
「今のジョーは何をするかわからんな。――それにしても、奴の正面に座っていたフランソワーズがあの目に全く気付いていないってどういうことだ」
「気付いてないというか・・・ジョーの事を見ていないんじゃないか?」
それはもう、誰がいようと全く構わずに。一種の治療のように。他の誰かが気付く前に治してしまうこともしばしばだった。だから、フランソワーズがわからないわけがない。
なのに。
「嘘だろ。知ってて何もしなかったっていうのか」
「ああ。――浮気ではなく本気だったらしい、というヤツだ」
「ということは。――フランソワーズが誰かに本気になっているということか?」
「まさか。フランソワーズがジョー以外に目がいくもんか。そんなの見たことねーよ」
状況は全てそこへ収束していく。
彼ら二人があまりにも真剣にそれを考えているのを全員が知っており、「おいおい、それってお前らお互いのことなんじゃないか」と心の中で突っ込みをいれるのも常だった。
だから、メンバー間では『本当の相手』というのは、一種のジョークのようになっていた。
けれども、記憶の中にある亜麻色の髪の持ち主は、彼女と同じ亜麻色の髪を持つ男性に寄り添っていた。
あらゆるものがキラキラと輝いて見え、周りを行き交う人々もどこか嬉しそうな、楽しそうな感じがした。
雑踏は彼に優しくはなかったけれど、周囲のざわめきは迫りくる寂寥感を遠ざけてくれた。
数ヶ月前、この界隈を席巻した彼のポスターも、今は全て外されクリスマスにふさわしいものに替わっている。
ショーウインドウに映る自分の姿はまるで――荒んだ昔の自分のようで、ジョーは苦笑した。
その苦笑した顔の隣によく知っている顔が写った。
はっとして振り返ると、そこには仲睦まじくお互いの腰に腕を回してぴったり寄り添う外国人カップルの姿があった。
長身の男と華奢な女に共通するのは、白い肌と亜麻色の髪。
男性のそれは背中まで流れるように波打って。女性のはまっすぐで、肩にかかると外に向かってカーブを作り弾んでいる。
それは絵になるような美しい二人であり、周囲の人々も振り返り見惚れるほどだった。
美しいカップル。
幸せそうにお互いの瞳を見つめあい、頬を寄せるその女性の名は
ただ、もしも運命というものがあるのならば、彼にその光景を見せることが目的であったのかもしれない。
うんと昔のようにも思えたし、つい昨日の事のようにも感じられた。
この場所で「私はいつでもあなたのなのよ?」と小さく言って、自分を抱き締めた彼女。
その身体の温かさと、頬に触れた髪の愛おしさ。何より、心に流れ込んでくる温かいものが嬉しくて、誰にも渡さないようにぎゅっと抱き締めた。
今や彼女は自分ではなく、他の男の腕の中にいる。
行き交う家族連れや、身を寄せ合う恋人たち。
イルミネーションの瞬く街は、ロマンチックな雰囲気に満ちており、デートにはもってこいの場所だった。
あの色は見間違えようがない。
けれども、確かめるために目は使わなかった。そうやって確かめたところで、何をどうするわけでもないからだ。
フランソワーズは睫毛越しに静かに見上げた。自分と同じ色の肌を持つ人を。
「――またか。・・・フランソワーズ?」
額と額がくっつくほどに顔を寄せて。
「――ごめんなさい」
「今は私のことだけ考えてくれ」
「・・・そうするわ」
フランス人同士、仲直りの挨拶のようなものだった。
レッスン室はともかく、更衣室ではその話でもちきりだった。何しろ、話の中心は、新進気鋭のバレエダンサー、アズナブールなのだから。
「うーん。それにしても何だか変なのよね」
たった今、ジゼルのニ幕目のレッスンに入ったはずである。しばらくはここには来ない。
「たぶん。本人は何も言わないけど・・・そんなの、見てればわかるわよね」
「じゃあ、・・・やけぼっくいに火がついた、ってこと?」
「うーん・・・」
「だって彼女には音速の騎士がいるじゃない」
「最近、姿を見たひといる?」
ジョーがこのビルまで迎えに来たことは少なかったが、それでも全く来なかったわけではないし、来れば誰かが目にしていたし、何よりフランソワーズが嬉しそうにしているからすぐわかる。
それが、今はない。
「車に乗るのを見たわ」
「レッスンでも、長時間一緒よね?」
しかもフランソワーズは、誰が見ても「ジョーしか見えない」子だったのに。
「そ。そうよね。浮気じゃなくて本気だったら構わないわよね」
「ってことは、音速の騎士とは破局・・・?」
そういう親密度とは明らかに違うのだ。
その視線を嬉しそうに受け止めるフランソワーズ。
そんなフランソワーズに頬を緩ませ、ギルモア邸に車を走らせるアズナブール。
「――そうかな?」
いつもの見慣れた道。ギルモア邸までの景色。
「・・・ごめんなさい」
「そうだね。今は一緒にいる私のことだけ考えてくれ」
「はい」
「公演まであと少しなのだから」
「わかってるわ」
「――そうかな?」
「はい。――私、」
「わかってる。――そうだろう?」
フランソワーズはそうっと目を閉じた。
送られてくるフランソワーズが気になって、つい窓辺に行ってしまうのは。
毎回、こんな覗きみたいな真似はもうするもんかと思いつつも、エンジン音がすると反射的に行ってしまうのだった。
が、彼女が無事に帰宅したのを確認してほっと安心するのはほんの一瞬。
すぐに苦い後悔に変わる。
そして、自分の部屋を通り越してジョーの部屋の前で止まる。が、数秒後には自分の部屋へ戻ってゆく。
扉はノックもされない。
そうすれば、望むものが手に入るのだ。
だったら、ギルモア邸を出て自宅に帰ればいいとは思ったものの、そうすると本当に彼女の姿を見られなくなってしまう。
自分に向けられた笑顔でなくてもいい。自分にかけられた声じゃなくてもいい。
その笑顔を見られて、声を聞くことができる距離を手放す気にはなれなかった。
計3回の上演であり、ギルモア邸のみんなは最終日に観に行くことになっていた。が、フライングで既に観てきたグレートによれば、それはもう言葉に尽くせないほどの舞台だったという。
「んー、いやー。何と言えばいいのだろうか?あの「ジゼル」は彼女そのものであって、なおかつ彼女ではないような・・・」
「全然、わからねえ」
なんだかんだ言っても、メンバー全員がフランソワーズの「ジゼル」が気になって仕方がないのだ。
「それは、相手役の知名度によるんじゃないか?」
身内としての贔屓目など微塵もない。彼自身が彼女に魅せられてしまったかのような、熱い語りである。
「そんなに凄いのか?」
「凄いなんてもんじゃないさ。あの「ジゼル」を見たら、惚れてしまうよ。そして、泣く」
「泣く?」
「泣けるんだよ。まさに純愛。おお、彼女にふさわしい言葉ではないか」
静かに集中力を高める。
周囲の雑音は耳に入らない。
誰が何を言おうと関係なかった。
「フランソワーズ。大丈夫か?」
「ええ。今日もちゃんと集中できてます」
「そうか」
誰が車を出すだの、花束は手配してあるのかだの、服装はこれでいいのかだの、誰かが誰かに話しかけ、けれども誰もがちゃんとした答えができない。落ち着かないのだ。いよいよ我が家の紅一点、フランソワーズの舞台を観に行くのだから。
イワンは残念ながら、劇場にある託児所に預けるしかなかった。未就学児童の入場は禁止なのだ。
最初は置いていく予定だったが、イワンは留守番は絶対にイヤだとごねて、託児所でもいいから連れて行けと一歩も引かなかった。最も近い位置でフランソワーズをトレースしたいのだという。
彼は花束とは無縁のように見えてそうではなかった。女性に花を贈るのは慣れている。紳士たるもの、女性に花を贈るくらい当然のたしなみだと豪語しているのだ。傍らには、豪華な花束が用意されている。
「ああ、そうだな」
言葉にせずとも全員がわかっていた。
「そうだよな。大体、元々フランソワーズの舞台は観ないんだから」
「約束、って・・・」
「アイツの考えていることはわからんさ。昔からそうだろう?」
いや、そんな一言ではとても言い尽くせない。
輝くような笑みをこちらに向け、何度も膝を折って礼をするフランソワーズ。その隣には、当然のように彼女の手を取りエスコートするアズナブールの姿があった。
自分でも意外だったが、思っていたより平気だったのだ。彼女が舞台で他の男を見つめていても。
どうしたって、舞台の彼女にいらついてしまう。彼女が熱く見つめる先にいるもの全てが気になって気になって仕方なくなる。だから、観なかった。
しかし、今回は「ジゼル」である。彼女が憧れてやまない演目であり、しかも主役なのだ。観ないわけにはいかない。
それに――
それをジョーはぼんやりと見つめていた。
「これから楽屋に行くけど、お前はどうする?」
フランソワーズも例外ではない。友人たちと抱き合って泣いた。
それがひと段落したあと、フランソワーズは着替えるために自分の控え室に向かった。
その背に声がかかる。
「そんな、・・・先生にそう言っていただけると私・・・」
「頑張ったね、フランソワーズ」
「アズナブール先生・・・」
その髪をそうするのが当たり前のように優しく撫でるアズナブール。
ひとけのない廊下で、互いに見つめ合い、徐々にその距離が狭まってゆく。
「フランソワーズ。そう呼ばないと決めたはずだろう?」
じっと見つめている琥珀色の瞳。それを正面から見据える。
「フランソワーズ?」
「私・・・」
「怖い?」
「・・・・私のこと、もう好きじゃないかもしれない」
「何を言ってるんだ。好きに決まってるだろう?」
「フランソワーズ。――私を信じているのではなかったかね?」
「そうです。でも――」
それは徐々に心を黒く塗りつぶしていく。
何しろ、フランソワーズと最後に会って話したのは約一ヶ月前なのだ。その間、たまに顔を合わせることがあっても話したりなどしていない。もちろん、指いっぽんも触れてはいない。
今までは外の楽屋口で彼女を待っていた。
だから今、終演後の興奮に包まれ、声高に話す出演者やスタッフたちの間を縫って歩くというのは初めての経験だった。
「フランソワーズの友人です。前にもお会いしたことありますわ」
「――フランソワーズの」
「えっ?」
「いまさら彼女に会ってどうしようっていうんですか。もう放っておいてあげてください」
「教えると思ってるんですか?」
「思ってる」
「・・・・」
「ええっ!いったいいまさら何しに」
「さあね。花を渡しに行くみたいだけど」
「・・・まさか、修羅場になったりしないよね?」
「さあ、どうだか」
「だって確かさっき、フランソワーズを追ってムッシュウ・アズナブールがあっちの方へ行ってたもの」
「マジ?」
「うん」
「――だったら、私たちも行かないと!」
「ちょっと待ってよ、どうして?」
「フランソワーズを守るためよ!」
ジョーは教えられた通り、躊躇せずその境界を突破した。
――いや、約束していたのだから、来ると思っているはずだ。
しかし、その約束自体を覚えていなかったら?
全身全霊を傾けて愛を表現し、恋人の前では可愛らしく、村娘の中では毅然として。そして、恋人の事情を知り身も世もないほど嘆き悲しむその姿。まるで、全身から血が流れているかのようだった。
相手役を見つめるその瞳は愛が煌き、恋人の頬に触れる手には情感がこもっていた。
誰がどう見ても、ただの「相手役」とは思えない。明らかに、恋人同士のそれだった。
見つめる先にフランソワーズとその相手役の姿を認めたのだ。
こちらに背を向けているフランソワーズ。何かを話している様子の相手役の男。確か、名をアズナブールといっていた。その二人の距離が徐々に縮まり、フランソワーズの顎に手がかけられ顔が上向かされた瞬間。
ジョーは何も考えられず、地を蹴った。
ぐいっと彼女の肩を引いて、アズナブールと引き剥がす。勢い余って、アズナブールの胸を突く形になった。
全ての音が聞こえなくなり、目の前のアズナブール以外は全て白く染まった。
が、デートなどという甘い雰囲気は微塵もなく、先刻の「ダメ出し」の延長のようだ――と、フランソワーズは感じていた。
「演じることに専念・・・」
「そうだ。私は相手役であり、舞台ではきみの恋人だ。それを舞台で完全に演じきるためには、公演までの間、私と恋人の役を演じるといい」
「――恋人の役」
「そうだ。そして、あの彼を忘れる。彼と話すのも、彼のことを考えるのもだめだ。私ひとりに集中する。――できるか?」
ということは、恋人の役をするならば――
「・・・一ヶ月・・・」
不安がよぎる。
自分とアズナブールが、演技とはいえ恋人同士になったら――ジョーはどう思うのだろう?
「・・・集中の仕方」
「そうだ。これは誰もが会得しなければならない。が、簡単ではない。しかし、それができる者にだけ未来の扉が開かれる。現実世界と演技の世界の境界を引き、どちらも自在に操れるようにする。そこで初めて「演じた」ことになるのだ」
「・・・・」
「きみはまだそれができていない。だったら、現実世界を切り離す作業から始めなければならない。自分の心の中から、いつも気にかけている人物を消すことができなくては」
「消す?」
「無理ではない。きみならできる」
「でもっ・・・」
「誤解するな。これは、あくまでも演技という虚構の世界においての話だ。こちらの世界では、物語の中のことが全てであり、現実となる。いま実際にいる世界とは全くの別物なのだ。つまり、もうひとりの自分を演じることになる。
それは、現実世界の全てを忘れることではなく、一時的にこちらの住人になるということなのだ」
「・・・でも」
「フランソワーズ。私はね。それをきみに教えるために日本に来たのだ」
「まさか」
「本当だ。――きみの踊りを忘れたことはなかった。きみが突然姿を消してからもずっと探していた。・・・先日、きみの大事な人に会うまでは、何故きみがいなくなったのかわからなかった」
その時既に、フランソワーズの心にはジョーがいたのだと。
「答えなくていい」
アズナブールはふっと頬を緩めると、テーブルの上で両手を組み合わせた。
ソファに隣り合って座ってはいるものの、横目で窺ったフランソワーズは何か考え込んでいるようで難しい顔をしている。
「ううん。そんなことは・・・」
「相談?」
「・・・というより、お願いかもしれない」
「お願い」
演技とはいえ、別の男のものになるのだ。更にその間、自分と彼女は接触することはできない。
フランソワーズを見つめるのもダメ、話しかけることも、触れることも許されないのだ。
そんな日々に耐えられるだろうか?
それはおそらく、彼女の実力が世界レベルであるということに違いない。
何しろ、そのために相手役をわざわざ招致し、更には厳しいレッスンを課しているのだから。
もっと良くなる力を持っているから、厳しくするのだ。
自分の気持ちが、もしもフランソワーズを縛っているとするならば、いま彼女のために自分がしてあげられることは一つしかない。
そして、フランソワーズのために自分ができるのはこれしかないのだ。
一ヶ月間、フランソワーズを他人に託す。
フランソワーズがいなくても耐えられるかどうかはやってみなければわからない。が、こうして事情を知り、彼女を応援できるのならやってみるべきだと納得した。
「ああ。本当だ」
きみのためなら、僕は何だってする。――そう、決めているのだから。
「・・・一ヶ月が過ぎたら、ちゃんと取り戻しに来てくれる?」
「もちろん。当たり前じゃないか」
「僕がこちらの世界へ引き戻す」
「もし・・・あなたのことを忘れてしまっていたら?」
「でも・・・あなたが、私のことを好きではなくなったら?一ヶ月も誰かの恋人の演技をしているうちに、そんな女なんか嫌になってしまったら?」
「ならないよ」
「でも」
「フランソワーズ」
「信じてるわ。だけど、」
「フランソワーズ。僕がきみを貸し出すその意味がわかってる?」
大事なきみが成長するために必要なことだから。
だから、僕は――しばらくきみを他の男に託す。
不安がないといったら嘘になる。このままきみが戻らない可能性だって捨てきれない。
演技が真実になってしまうことだってある。演技の世界がそのまま現実世界へスライドすることも有り得るのだから。
だけど。
そんな危険性も全て、僕は引き受ける。
不安に苛まれるのは僕だけでいい。僕が我慢するだけで、きみが成長できるのなら。
大切なひとの成長を邪魔するような男でいたくはないんだ。
「フランソワーズこそ、大丈夫かい?」
「泣かないよ。我慢する。ただ、その代わり――頑張らなくちゃ許さない」
「・・・ん。頑張る。だから、ジョーも頑張って」
「うん。頑張るよ」
そばにいられない苦しさ。抱き締められない切なさ。会いたいと思う恋しさと、これから闘わなければならない。
期間中、決して話したりしないように。
知らない者同士のように。
どちらかが負けて話しかけてしまえば、全ての計画が崩れてしまうのだから。
「ええ。その時が来たら、ジゼルはフランソワーズに戻ります」
「僕のフランソワーズに?」
「あなたのフランソワーズよ。だから――必ず、取り戻しに来てね」
「――必ず」
「私がジゼルのままだったら、ちゃんとこちらの世界に引き戻してね」
しかし、フランソワーズはその視線に全く気付かない。何しろ、ジョーの胸に顔を埋めているのだから。
その琥珀色の瞳を見返す褐色の瞳。
そんな自分が力づくでフランソワーズを取り返せば、良い印象は持たれないだろう。
冷静にならなければ。
非難される材料を自ら提供してやる必要はないのだ。
彼の胸に埋まっていたフランソワーズは不安そうにジョーを見上げた。が、ジョーは彼女を見ず、アズナブールから目を離さなかった。
そして逡巡しているかのようにいったん視線を外し、再びアズナブールに視線を戻した時には微かに唇に笑みが浮かんでいた。
「ありがとう」
「僕はバレエをちゃんと観たのは初めてですが、・・・感動しました」
その彼の目の前に、ジョーは花束を差し出した。
「別に私は何もしていないよ」
「それでも、僕の気持ちです」
「――男性から花を贈られるというのは妙な気分だな」
「大した事ないです。――が、二度とごめんです」
「だろうな。――大丈夫だ。もうフランソワーズはわかっている。次回からは、どうすればいいのかちゃんとできるはずだ。独りでも」
「そう願いたいです」
「きみも、公演中の彼女にどう接したらいいのかわかったのではないかね?」
「――そうですね」
「それを聞いて安心したよ」
「きみの世界は明日から変わる。私はついていてやれないが、一人でも大丈夫だね?」
「・・・・」
「私は何もしていない。全てはきみの力だ」
その背に向けて、フランソワーズは頭を下げた。
アズナブールは、進む先にフランソワーズの友人たちを認めて微笑んだ。彼女たちは一様に心配そうな顔をしており、まだ舞台衣装も脱いでいない。
アズナブールが通りすぎるときも、何か言いたそうに口を開くが声は発せられなかった。
「えっ」
「え、ええ、そうなんです、ケド・・・」
「うん?――元々何も起きていないのだよ」
「え、でも・・・」
「――行かないのか?」
「あ、はい。でも、フランソワーズは」
「今日の主役は遅れて来る。――もし、来ればの話だが」
ジョーはフランソワーズの肩に掛けていた手をそっと外した。また、フランソワーズもジョーの腕に触れていた手を引いた。
「・・・ああ。約束だから」
「覚えていてくれたんだ」
「当たり前だろう?」
その顔を見つめ、フランソワーズは何だか泣きたくなった。
恋しい気持ちが全身にいきわたり、胸が締め付けられるようだった。
いまジョーの顔を見て、やっとジゼルからフランソワーズへ戻れたような気がする。
ジョーの腕に抱き締められたい。
二人の間にある僅かな空間を埋めるためには、何をどうすれば良かったのだろうか。
その距離の縮め方を忘れてしまった。
その不安の正体はわかっている。
一ヶ月離れているのはお互いに納得ずくだったとはいえ――本当に、ジョーが今でも自分を思ってくれているのかどうか自信がない。
全部、演技だったのよ。と言ったところで、彼がそう信じなければ意味がない。
ジョーを信頼できたからこそ、こんな無茶苦茶な提案も呑んだ。離れても大丈夫だと。自分を思う気持ちをジョーは失わない、と。そうでなければ最初からこんな相談はしなかった。
耐え難い一ヶ月を耐えた。そしていま、彼女は自分の傍にいる。――が。
先刻は無理矢理抱き締めてしまったけれど、本当にそれで彼女が嫌がっていないのか自信がなかった。
もしかしたら、本当に彼女はあの男に気持ちを移してしまったのではないか――と、思ったこともある。
その度に、いやそんなことはないと否定し続けた。
フランソワーズは、たった一ヶ月会わなくなったからといって――たった一ヶ月、他の男のそばにいたからといって――自分のことを忘れたりなんかしない。そう信じられなかったなら、そもそも協力なんてするはずもなかった。
フランソワーズに思われている自分――にも、自信を持っていた。彼女の気持ちを疑うなどできるはずもない。
そんな彼女に不安を覚えなかったかというと嘘になる。
もしかしたら、こっちが本物なのではないか?と舞台を観ながら何度も自問していた。そしてそんな自分が情けなかった。だから、いまこうしていても現実感が湧かないのだ。
その髪を撫でて、顔を埋めたい。そして、それから・・・
以前はどのように彼女と接していたんだろう?
かあっと全身が熱くなるのがわかる。
「い、いや!そんなことは」
「じゃあ、どうしてナシなのよ?」
「いや、だからそれは」
「じゃあ、私が代わりに触るっ」
「え・・・ええっ!?」
「黙るの!」
ジョーは背に壁が当たるのを感じ、更に再び唇が奪われるのを意識した。
「いや、でもっ・・・」
「いや、そんな訳では」
「だったらちゃんと応えて頂戴」
「こ、応えろ、って・・・」
「ちゃんと、って」
その感触に、ジョーのパニックはだんだん収まっていった。
「黙って」
「面目ない」
「へっ?」
「おおっ。何と大胆な」
「ジョーが襲われている・・・」
「こらジョー、しっかりせんかい!」
「そのようだね」
「博士、とりあえず張大人の店に行きませんか?」
「フランソワーズは打ち上げに行くだろうし、我々は我々で今日の成功を祝いましょうぞ」
「うむ。――ジョーはどうするかの」
「ジョー?」
その背後には、誰がどう見てもしばらく離れそうにない恋人同士の姿があった。
「で?お花はどこなの?」 唇を離して、ジョーの胸にうっとりともたれていたフランソワーズが身体を起こした。 「そうよ。お花を持って楽屋に来てくれるって約束したでしょう?」 ジョーの背後をきょろきょろ見回す。 「・・・花なんて。さっき先生にあげちゃったよ」 ぷいっと横を向くフランソワーズ。腕組みをして。 「知らない」 対するジョーも軽く頬を膨らませて拗ねる。 「だって、恋人からお花をもらうのって定番なのよ?女の子の永遠の憧れなのよ?」 それをわからないなんて。 「・・・今までさんざん持って来ただろう?」 オンナゴコロがわかってない、ジョーのばかばか、と彼の腕を拳で叩くフランソワーズ。その両手首を握りしめ、ジョーは彼女の耳元で囁いた。 「――記念なら、ドライフラワーなんかよりこっちの方が僕は好きだな」 そうしてジョーはフランソワーズを引き寄せ、舞台衣装の肩紐を少しずらし――胸元に唇をつけた。 「えっ?ヤダ、ちょっとジョー」 ちゅ。という音がして、微かに痛みが走り――ジョーが顔を上げたときには、白い肌にくっきりと赤い痕がついていた。 「――記念」 にやりと笑うジョーに、フランソワーズは真っ赤に染まった。 「きき記念、って・・・」 しょっちゅう貸し出されたらたまらないわ。 「私はいつでも、あなたのよ」
***
フランソワーズが着替えている間、ジョーは廊下の壁にもたれて待っていた。 「お待たせっ」 急いで着替えたのか、頬をピンク色に染め息を弾ませて現れたフランソワーズにジョーは息を呑んだ。 真っ白い一枚仕立てのカシミヤのコートを着て、淡いピンクのふわふわのマフラーをした彼女は信じられないほど可愛かった。今朝、この姿でギルモア邸を後にしたはずだったが、あいにくジョーはその姿を見送ってはいない。 「――ふ」 フランソワーズ。と呼ぶ声が喉に絡む。 「さ、行きましょ」 彼女の髪が頬を掠める。ふわっと漂う甘い香りに、ジョーは気が遠くなりそうだった。 「後で張々湖飯店にも行きたいな。ジョー、迎えに来てくれる?」 答えたものの、自分が何に答えたのかわかっていない。 「――そういえば、ジョーから今日の感想を聞いてなかったわ」 ジゼルを観ていた時の自分。 「――フランソワーズじゃなくて、ジゼルだなぁ・・・って」 だから、舞台で誰の恋人を演じようが平気だった――と、思う。 「・・・そう。ジゼルだったのね、あなたの目には」 もしもそう見えてなかったなら、完全なる失敗だった。この一ヶ月、頑張ってきたことが全て無駄になる。 「ジゼルって凄い話だなって思ったよ」 駐車場に着き、ストレンジャーの置いてある所へ向かう。 「――まぁ、解釈はたくさんあるみたいだけどね」 以前、ネットで調べたのだった。 「フランソワーズ。きみは助手席。向こうに回らないと」 ジョーの腕をがっちりと抱き締めたまま、フランソワーズは離れようとしないのだ。 「ほら。――遅れるよ?」 先刻まで笑顔で、――少しばかり饒舌だなと思うくらいテンション高く話していたのに、突然無口になって俯いたままのフランソワーズを持て余す。 「いったい、どうしたんだい?」 ぐす、と鼻をすする音がして、ジョーはフランソワーズが泣いている――かもしれないことに気がついた。 「フランソワーズ?」 俯いた顔を覗きこむけれども表情は見えなかった。 「ヤダ。・・・・行きたくない」 ジョーのジャケットの裾を掴み、いやいやをするように首を横に振る。 「・・・主役がいないとみんながっかりするよ?」 その頭をそうっと撫でる。 「イヤ。行かない」 その声にフランソワーズは顔を上げた。既に涙でぐちゃぐちゃだった。 「あーあ、そんなに泣かなくても」 フランソワーズの剣幕にジョーは驚いて口を閉じた。 「私が、さっきからどんなに不安だったかわかる?・・・もしかしたら、ジョーは、・・・・たとえ一ヶ月でも誰かの恋人になっていた女なんか嫌いになっちゃったかもしれない、って怖くて怖くて」 その瞬間、ジョーは渾身の力をこめてフランソワーズを抱き締めていた。 「――ジョー」 力の加減なんてできなかった。フランソワーズが壊れてしまうかもしれないとちらりと脳裏をよぎったけれども、壊れてしまっても構わない――とも思った。 「――ごめん」 しばらくしてからジョーがそうっと力を緩めた。思わず息をつくフランソワーズ。抱き締められている間、まともに呼吸ができなかったのだ。 「――我慢してたのに」 だから、家に帰るまでぎゅうっと抱き締めるのは我慢するつもりだったのに。 「利かなくなっても、私はいいわよ?」 妖しく微笑むフランソワーズに、ジョーは残っていた理性をかき集め、霞む頭をひとつ大きく振った。 「――フランソワーズ。そんなことを言ったらダメだ。きみはこれから打ち上げに行くんだから」 そう言ったジョーに不満そうに唇を尖らせ、フランソワーズは小さく言った。 「明日からなんてイヤ。どうして今晩から、って言ってくれないの?」 ジョーは一瞬目を瞠り――そうしてにっこり微笑んだ。 「――甘えんぼだなあ」
***
***
「ジゼル」は新聞のみならずバレエ関係雑誌各種にも特集された。中でも、主役を演じたフランソワーズ・アルヌール嬢を絶賛する記事が多かったのは言うまでもない。
|
「ええっ。違うんですか?」 驚いた顔で自分を見つめる一同に、アズナブールは苦笑した。 「――確かにフランソワーズは古い知り合いだ。でも、それだけだよ」 打ち上げパーティの会場であるホテルのホール。立食形式のそこは、関係者や報道陣などなど人でごった返していた。新進気鋭のダンサーであるアズナブールは、やっと報道陣から解放されたと思ったところでバレエ団のフランソワーズの友人たちにつかまっていた。先刻、フランソワーズを心配して後をついてきた子たちである。 「相手役だからね。仲良くはしていたけれど個人的なものではない」 それでも友人たちは納得せず、更に質問を重ねた。 「だって、フランソワーズとデートもしていたし、帰りだって毎日送っていたじゃないですか」 きっぱりと言い放つアズナブールに誰も何も言えなかった。 「フランソワーズのジゼルは良かっただろう?」 そこは誰もが納得するところだった。 「あのジゼルを引き出すための作戦だった。全て」 全てはこの舞台のための演技。それ以上でも以下でもない。
*** ***
ジョーはストレンジャーを止めると、張々湖飯店のドアをくぐった。 「おう、ジョー!こっちこっち」 個室のドアから、グレートが顔を覗かせ合図する。 「悪い。今夜は飲めないんだ。後でフランソワーズを迎えに行かなくちゃならないから」 ジョーは傍らのウーロン茶をコップに注ぎひとくち飲んだ。 「あのな、ジョー」 ビールを持ったまま身を屈めて声を潜めるジェットに不審げに目を向ける。 「その――なんだ。フランソワーズのことだが」 ジョーは目を瞠った。 「何だよそれ。変なこと言うなよ」 だったらこの一ヶ月のお前らの態度は何だ。と言いたいけれど言えず、ジェットはただ絶句した。 「――『別れた』なんて一言だって言ってないよ」 それは確かにそうだった。 「・・・お前ひとりがそういう妄想に浸っているってわけじゃないよな?」 フランソワーズを失ったジョーなど、いつ妄想の世界に生きても不思議ではない。 「嫌だなぁ。本当に、別れてないって」 それでも、心配そうにこちらを見つめる一同にジョーは大きなため息をついた。 「・・・あとでフランソワーズにも訊いてくれ」
*** ***
無理矢理ジョーに車に乗せられ、そして置いてきぼりにされたフランソワーズは、バレエ団の打ち上げ会場であるホテルの正面玄関に佇んでいた。軽く頬を膨らませて。 もうっ。ジョーのばか。 心の中で、今日何度目かの「ジョーのばか」を言ったあと、諦めてホテルの中へ入った。 「あ、フランソワーズ。遅いわよ」 口々に言われながら、それでも温かく迎えられる。 「まだ紹介されてないから、ぎりぎりセーフってところね」 それまでに何か食べよう――と、料理が並んでいるホール中央へ連れて行かれる。 「――さっき聞いたんだけどね」 料理を取りながら、口も動かす。 「アナタと先生、付き合ってるわけじゃないって本当?」 フランソワーズはさらりと答えて、ローストビーフはどこかと辺りを見回した。 「でも、仲良かったじゃない」 ローストビーフはシェフがひとりひとりに切り分けてくれているようだった。なので、フランソワーズはそちらの方へ向きを変えた。 「ただの知り合いって感じじゃなかったわ」 にこにこしながらローストビーフを切り分けてもらう列に並んでいたフランソワーズは、同じく列に並んだ友人を驚いて見つめた。一瞬、ローストビーフのことを忘れる。 「どう、って・・・何が?」 自分の番になっていたので、慌ててシェフからローストビーフの載せられた皿を受け取った。 「でも、フランソワーズ」 そう言って、フランソワーズは自分の左手を広げて見せた。 「ふふっ。さっきジョーが渡してくれたの」 離れたくないと駄々をこねるフランソワーズをなだめたのは、ジョーのジャケットのポケットに入っていたフランソワーズのリングだった。ジョーのぶんと一緒に入っていたのは何故なのか、そこまでは知らない。 「でね。ジョーも今、つけてくれてるの!」 ほら、こうしてればずっと一緒だろう?――と耳元で言われた。その声がこだまする。 「ああもう、ほらっ。フランソワーズ。ローストビーフが落ちるっ」
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数時間後。 「――行きたくない」 バレエ団の打ち上げや取材を全て終えた今、フランソワーズはやっと自由になれた。 「ちゃんと挨拶できた?」 主役をこなしたフランソワーズは関係者全員の前で挨拶をしなければならなかった。 「僕も聞きたかったなぁ」 先刻から、会話の合間にキスをするのではなく、キスの合間に会話をしている。 「――ほら、フランソワーズ。みんな待ってるよ?」 しぶしぶジョーから身体を引く。 「・・・どこにも行っちゃイヤよ?」 きみの目の届かないところなんてないじゃないか――とは言わず、ジョーは小さく頷いた。
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数週間後。
「ほら、フランソワーズ見てみろよ。――可愛いなあ」 ジョーの部屋で、フランソワーズはすこぶる不機嫌だった。 机の上のパソコン画面にはいくつもの記事が開かれており、ベッドの上には新聞各種や何冊もの雑誌が乱雑に置かれている。全てあの「ジゼル」の公演関係の記事が載っているページを開いて。 それらは全て、ギルモア邸のメンバー全員によるチームワークの結果だった。 「――ジョー?」 視線はパソコン画面に釘付けになっている。たったいまクリックしたところに新しい記事を発見したらしく、そのまま読み入ってしまう。 「ジョー、あのね」 最初の頃は、フランソワーズも自分の記事を見るのは楽しかったので、ジョーと一緒になってあちこち検索したものだった。が、それも慣れてくると――むしろもう見たくなく、ジョーにも見て欲しくないと思うようになっていた。 しばし静寂に包まれ、ようやくジョーはその静かさに気付いて顔を上げた。 「――あれ?フランソワーズ?」 首を巡らせ探すと――はるか遠くのベッドの端っこにポツンと座っている小さな姿。 「なんでそんなとこにいるの?」 けれども答えはない。 「フランソワーズ?」 こちらを見ようともせず、俯いたままのその姿にやっと――腰を上げた。 「・・・フランソワーズ?」 床に膝をつき、下からじっとフランソワーズの顔を覗き込む。そっと手を取って。 「どうしたんだい?」 けれども、なかなかその蒼い瞳を捕らえることはできない。 「・・・フランソワーズ?」 あまりにも小さい声で言われたので、聞き取れなかった。 「なに?ゴメン、もう一回言ってもらえる?」 そうしてやっと蒼い瞳と褐色の瞳が出合った。 「・・・ジョーは、ジゼルの方が好きなのよね?」 意味がわからない。 「あの、フランソワーズ?」 彼女が何を言っているのか、ジョーには理解不能だった。 「ジョーは、私よりジゼルの方が好きなんだわ――!!」 フランソワーズが両手で顔を覆った時にやっとジョーは理解した。 「・・・フランソワーズ。あのさ」 けれどもフランソワーズは聞かない。 「両方ともきみだろう?」 意を決したように俯いていた顔を上げてジョーを見る。 「ジョーをジゼルにとられちゃったみたいでイヤなの」 ジョーにしてみれば、どちらも同じフランソワーズであるし、ジゼルを演じているときの彼女も気になる――というのを彼女が知ればそれは嬉しいのではないだろうかと思っていたのだ。だから、彼女の言葉は青天の霹靂だった。 「とられっ・・・」 ジゼルもきみじゃないか。 とはいえ、確かにあの舞台では彼女はフランソワーズではなくジゼルだった。 「うーん・・・」 オンナノコってメンドクサイなあ。 「フランソワーズ。僕は確かにジゼルが好きだけど」 その言葉に、ジョーの腕のなかの身体がびくっと揺れた。ジョーは構わず、抱いている腕に力を込めた。 「その何倍も何倍もフランソワーズのほうが」 好きだよ。――と言うのはさすがに何だか照れる。今更だったけれど。 「・・・イヤだわ、ジョーったら」 そうしてジョーの身体に腕を回し、ぴったりと胸に寄り添った。
――という一連の事もお約束のように連日繰り広げられているのだった。 ギルモア邸も、ゼロゼロナンバーサイボーグも平和である。
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