1.水着を買いに
「――入っちゃ駄目っ!!」
今まさにドアノブに手をかけようとしたジョーは、ドアの向こうからまるで見えるかのようにかけられた声にびくっとして手を引っ込めた。 まるで見えるかのように。 ――見えるんだったっけ。そういえば。 改めて彼女のちからに思いを馳せ・・・気持ちが少し暗く沈んだ。 「もー!絶対に入って来ないでよっ」 ジョーは手を引っ込めた姿勢のまま、ついでに一歩身体も引いた。 「・・・フランソワーズ」 ここにこうしてただ突っ立ってるというのも――いたたまれなかった。 「フランソワーズ、あの」 ジョーはほうっとため息をついて、所在なげにただただ立ち尽くすのだった。 それにしても、居心地の悪さといったら過去に経験したことがないくらいだった。ため息しか出て来ない。 ――ちゃんと着替えてしまうまで。 いくら自分が彼女の――着替えの途中や、一糸纏わぬ姿を散々見ているとはいっても。 とはいえ、彼女が着替え終わった後もその姿を自分の前に晒す気でいるのかどうかは確信が持てないのだった。
***
ドアの前に立ち尽くしてどのくらい経っただろう。 「――まぁ、本当によくお似合いで」 もちろん、先程からこのような会話は続いていたのだけど、ジョーの気持ちが落ち着いたのか彼の耳に聞こえてきたのは、ほんの数秒前からなのだった。 ――楽しそうだな。 いったい中では何が起こっているのか。 ・・・なんだかなぁ。 「さ、じゃあ色違いを持ってきますね」 急にドアが開いて――あやうくジョーの額を直撃するところだった――中から女性が出てきた。 「・・・あら」 ジョーの姿を認め、ふふっと含み笑いをする。 「ちょっと覗いてごらんなさいな。素敵ですよー?」 コロコロ言いながら、どん、とジョーの背中を一押しして行ってしまう。 「あの・・・フランソワーズ?」 小さく言われ、指先でそうっと目の前のカーテンを開けた。 「――あ」
後ろ姿だった。 室内は思っていたよりも狭く、周囲には試着したであろうものが散乱していた。数時間前に、フランソワーズが店内で嬉々として手に取った数々の――水着。 もう夏は終わりに近いというのに、やっぱりどうしても泳ぎに行きたい。そうフランソワーズが訴えたのは数日前だった。超銀組と山に遊びに行ってからすぐのことである。どうやら、本当は海またはプールに行きたかったらしいのだ。 それでも、そう言ったりはしなかったフランソワーズが 「いいなぁ。私も海かプールに行きたいな」 ジョーの首筋にかじりつき、散々ねだったのはある一本の電話のあとだった。 「スリーがね、すっごく楽しかった、って」 旧ゼロ組は海に行って、あれこれ遊び倒して来たらしい。 「真っ白いビキニを着たんですって!いいなぁ。私も着たいぃ」 そんなわけで、根負けして――何しろジョーが彼女に「お願い」されて勝ったためしはないのだった。
「――白じゃないんだ?」 真っ白いビキニ。と言っていたわりには――いま、彼女が身につけているのは、深い深い蒼だった。 「・・・変じゃない?」 ゆっくりとこちらを向く。 「――!!!」 何だこれは。 「・・・ジョー?・・・やっぱり変かしら」 何か言ってとじっとジョーを見つめる、水着と同じ蒼い瞳。 「・・・・変じゃないよ」 とりあえずオウム返しに答えるのが無難だろうと思いつつ返事をする。 心配・・・と、いうより。
「本当はね、こっちと迷ってるの」 ジョーの言葉にうっすらと頬を染めて、傍らの水着を手にとり胸にあてる。ピンク色のそれも、今彼女が着ているものと布地の割合は殆ど変わりがなかった。所詮、申し訳程度にしか身体を覆っておらず――したがって、そんな少ない面積で何をどうしろというのか――と考えてしまうのだった。 「ね。ジョーはどっちがいいと思う?」 ――難問だった。が、幸か不幸か、ジョーはこういう質問には慣れていた。 「どっちもいいと思うよ」 ちらり。とジョーを見つめる蒼い瞳。 ――やられた。 迂闊だった。 やはり、長時間待たされた後では反射神経も思考も鈍るらしい。 「――両方着るとしたら、・・・一日目と二日目とか、日にちを変えないと。あ、でも・・・プールだったら、昼間はピンクで、夜は蒼・・・っていうのもいいわよね?」 プール。 待て。 考えろ。 迂闊に答えるな。 フランソワーズに見つめられたまま、めまぐるしくシミュレーションをする。 海、で――二日に分けた場合と・・・プールで昼と夜。どちらも泊まるにしても・・・――いや、待てよ。会員制なら、あるいは―― 「・・・そうだな。太陽の光じゃないほうがきっと・・・その蒼いのが映えるんじゃないかな」 ヨシ。 「本当?じゃあ、プールね?――夜の」 嬉しそうに微笑むフランソワーズを見つめ、会員制のホテルのプールなんてあったかな?と瞬時に考える。 「じゃあ、@*ホテルがいいな。――前に行ったことがあるでしょう?」 ――そう、だった・・・か、な? 咄嗟には思い出せないのだった。 ――やられたな。 旧ゼロ組からの電話云々というよりも。きっとフランソワーズは最初から作戦を立てていたに違いない。 「・・・でも、その水着じゃ泳げないだろう?」 すっと手を伸ばし、ジョーの首に腕を巻きつける。 「――大丈夫よ。だって、あなたと一緒なんだから」
色違いの水着を手に、先程の女性店員は――しばらく待たされることになったのだった。
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2.プールにて
「わぁっ・・・キレイ」 ガラス越しに太陽光が差し込む会員制のプール。某ホテルの一角にあるそこは、ゆったりとしたクラシック音楽が流れ、人影もまばらだった。 「ジョー。寝に来たんじゃないのよ」 とはいえ、昨夜は殆ど眠っていない。 「全くもう」 今朝、ジョーを起こしに彼の部屋に行ったものの、そこはモヌケのカラで、ベッドには寝た形跡もなかった。 ――我ながら、ちょっぴり大胆だなって思うけど・・・それもこれも、ジョーと一緒だから、って頑張ったのに。 自分の隣で秘かに御機嫌ナナメになっているフランソワーズに気付かず、ジョーは油断なく室内全体に目を走らせた。 ――よし。ネオ・ブラックゴーストらしき影は無いな。 遊びに来たはずのホテルのプール。 実は、プールに遊びに来たと思わせて、それだけではないのだった。 「ジョー、どこ見てるの?」 隣のジョーの視線を追い、・・・そこに水着姿の妙齢の女性グループを見つけた。いずれもフランソワーズのように布地の少ない水着を着用しているが、フランソワーズよりも出るところは出ているのだった。 「・・・・」 ちらりと自分の肢体に視線を巡らせ、改めてジョーの横顔を見つめる。 「いてててて」 再び女性グループに視線を向ける。 「・・・眺めがいいなぁって」 悪びれずに頬を緩める彼を見つめ、フランソワーズは大きく息をついた。 「もうっ・・・知らないっ」 そのまま近くのテーブルに向かい、来ていたパーカーを脱ぐとさっさとプールに入った。 ――あの女性グループ。何だか変だ。 泳ぐわけでもなく、かといってのんびり何かをするでもなく――ジョーと同じように周囲へ視線を走らせているのだった。 目の前を美しい肢体が完璧なフォームで行ったり来たりする。 ――何よ、コレ。 フランソワーズがひとり意地になって泳いでいる間、ジョーは彼女の姿を目で追いつつも周囲への警戒は怠らなかった。特に、先刻から気になっている女性グループ。どうみても、何かが不自然だった。 ――でも、盗撮とは関係なさそうだよなぁ。普通はそういうのって男だろ? そう思うが、いや油断してはいけないと自分を戒める。 ――フランソワーズにも一応、注意するように言っておくか。 そう思い身体を起こす。――が。 いや。彼女には「見える」のだから、下手に注意しなくても大丈夫か。 言ってしまえば彼女は「休暇を楽しむ」なんてことはしなくなってしまう。「003」になって、出来る限りジョーをサポートするだろう。 だからジョーは、フランソワーズには何も言わなかった。 一度起こしかけた身体を再び背もたれに戻す。 さて。――どうするか。 何気ない風を装って、女性グループに近付くのは簡単だった。 組織が関与しているとすれば、あまりにも稚拙な部隊である。こんな素人集団、すぐにばれるし情報を洩らす可能性だって大きい。が、そう見せかけているだけとも考えられた。 ――仕方ない。――行くか。 のんびりと身体を起こす。 ジョーが動き始めたその頃、フランソワーズは妙な集団に捕まっていた。 「先刻から美しい人が泳いでいるなと気になっていたんですよ。――マドモアゼル、とお呼びしてよろしいでしょうか? 背泳ぎでターンしようとしていたフランソワーズの前に立ちはだかった男性集団だった。 いわゆるイケメンってやつね。 フランソワーズは心の中で呟いた。 私だって、そういう言葉を使えるわ。 知ったばかりの言葉を使えた自分が凄いと思った。 許可を取らずに声をかけてきた不躾な奴らに冷たい視線を浴びせる。 マドモアゼルだなんて。そんなの礼儀でも何でもないって知らないの?――コドモ、って意味なのに。 返事をせず、再び泳ぎだそうとするところを別の人物に遮られる。 「逃げなくても、私達は何もしませんよ。あなたのあまりの美しさに目を奪われてしまっただけですから。もし良ければお茶でもいかがでしょう?そろそろ休憩が必要では」 フランス語で答えて煙に巻いてしまおうかとも思ったが、余計にメンドクサクなりそうだったのでやめた。 「連れ、ですか?」 左手の指輪が見えるように、髪を直す。 「そのひとって、もしかしてあそこに居る――」 言って、彼らの指差す方を見つめた。 ジョー?何してるの? 一見、女性に囲まれているように見えるが、ジョーが自分から積極的にその輪に入っていっているのはフランソワーズの目には明らかだった。 ――有り得ない。 そもそも、ジョーが「ナンパ」などという行為をするわけがない。――そんなことができるわけがないのだ。 だって、いつも――時には鬱陶しくなるくらい、私しか見てないのに。 彼が自分から注意を逸らす時。それは、戦いの場に他ならなかった。 と、いうことは。 事件――? 「ふじん・・・けいかん?」 ジョーは瞳を丸くした。 「警察の方なんですか」 そんなジョーの声に、3人の女性はくすりと笑みを洩らした。 ホテルのプールに盗撮をする輩が出没している。 ――なんだ。とっくに警察が動いていたんじゃないか。 ジョーはほっとしたものの、なぜそんな情報がピュンマやジェロニモにわからなかったのか不思議だった。 「ごめんなさい。じろじろ見ちゃって。――レーサーの島村ジョーに似ているひとがいるな、って思ったものだから」 モータースポーツが趣味なのだという。 「――本人よね?」 声を潜め、内緒話をするようにジョーの方へ身を寄せる。 「はい」 別に内緒にする必要もなかったから、ジョーは素直に頷いた。 「やっぱり。――ね?アタシの勝ち」 他の二人に勝ち誇ったように胸を張る。 「夕食はまかせたわよ」 どうやら賭けの対象にされていたらしい。 「――そういえば連れの方がいたわよね。もしかして・・・噂のバレエのひと?」 さすがにそれは答えられなかった。 「ああ、ごめんなさい。いいのよ言わなくて。ただ――」 すっと右手を水平に伸ばし、プールの向こう側を指差した。 「――困っているみたいだけど?」 つられてそちらを見たジョーは、そのまま身を翻し、水泳選手のような完璧なフォームでプールに飛び込んだ。 「・・・あらら」 こちらはプールサイドを回って目的地へ向かった。 *** ここに来たのは事件絡みだったのだろうか。 フランソワーズは内心、考え込んでいた。 でも・・・そうならそうとジョーは言うはずだわ。 それがない。と、いうことは、事件かと思ったのは自分の気のせいであり――ということは、つまり、彼が女性グループに近付いたというのは。 ジョーが私の目の前で他の女性に好意を示す? でも、そうではなかったのだろうか。 ――まさか。 自分のなかに沸いてくる疑問を片端から否定していても、ふっとそれに囚われそうになる。 でも・・・そういえば、ここに来てから私の方を一度も見なかった。他のひとの方ばかり見て。 一緒に泳ごうともせず、面倒そうにデッキチェアに寝転んでいた姿が脳裏に浮かぶ。 ――ううん。違うわ。私と一緒にいるのが退屈なのではなくて、昨夜寝てないから眠かっただけ。そうに決まってる。 とはいえ、いま自分の目の前で――他の女性と話し込んでいるのは紛れも無くジョーそのひとだった。 「お連れの方は忙しいようですね。――こんな美しい人を放っておくなど信じられない」 ジョーから目を逸らし、目の前のひとを見つめる。 ――そうよね。私だって、ジョー以外のひとと話しちゃいけないってことはないわよね? 全く興味は無かったけれど、たまにはジョーにやきもちを妬かせてみるのもいいかなと思った。 何よ、ジョーなんか。 「いかがですか?ちょうどカフェも空いているようですし」 傍らのカフェを目で示す。 「――そうね」 ジョーなんか。 「少しだけなら」 そう答えた瞬間。 目の前に濡れた背中が出現した。水中から。 「――なんだお前」 先刻まであくまでも慇懃な物言いだった彼らの口調が急に変わった。 「邪魔するな」 フランソワーズはいきなり視界を遮られ、ただ呆然としていた。 フランソワーズと彼らの間に突然出現した濡れた身体の持ち主は――当然の如く――ジョーだった。 しかし。 彼らの周囲の空気は一変していた。 両者の視線が空中で絡み合った。 「――悪いね。彼女はそういう子じゃないんだ」 こいつらは一体、何者だ? フランソワーズを背に庇いながらもめまぐるしく考える。 「残念だけど、彼女は君達と一緒には行かない」 微かに後退しつつ言う声には、ほんの僅かに硬質さが欠けていた。さきほどより。 ――こいつらの目は・・・落ち着かない。 何故だかわからないが、既に勝敗が決しているような気もした。 「行くわ」 ――え? 軽い水音を立てて、彼の背から姿を現す白い身体。 「フランソワーズ?」 軽くひとかきでジョーを追い越し前に出る。 「――行きましょ」 つんとして言う彼女に、今がどういう状況か瞬時に把握したらしい彼らは少し身体を退いた。 「いや・・・やっぱりやめとくよ。うん」 急に及び腰になった目の前の彼らの変貌ぶりに驚きつつも、ジョーはフランソワーズの後頭部を見つめた。彼女はちらりともこちらを見ない。 「・・・フランソワーズ?」 呼んでも返事がない。それどころか、そのまま彼らの元へ行ってしまいそうだったので――ジョーは思わずフランソワーズの腕を掴んでいた。 「離して」 このひとたち。 蒼い瞳にひたと見つめられた彼らは――先刻のジョーの視線よりも身が竦むのを感じていた。 「あ、いや・・・僕達はちょっと急用が」 言ってどんどん後退してゆく。ジョーの視線を受け止め跳ね返していた彼らが。 こんな――ややこしそうな痴話ケンカなんぞに巻き込まれてたまるか。 「あーらら。あなたたち、何やってるのかと思ったら――署のイケメン軍団もかたなしね」 上から声が降ってきた。 「ナンパ失敗」 指差され、けらけらと笑われる。 「うるせーな」 その言葉に小さく悪態がつかれる。 ・・・署?――上司?てことはつまり、こいつらは・・・警察の人間? ジョーは彼らの遣り取りを聞きつつ、なぜ自分が負けそうになったのかわかってきた。 「全く。少年課にいるからってそんな言葉遣いまでしなくてもいいのに」 ・・・ああ、やっぱり。 少年課。 「・・・すみません。ホラ、フランソワーズ。迷惑かけちゃ駄目だろう?」 言って強引に彼女の二の腕を掴んで引き寄せる。 「すみません。失礼します」 頭を下げながら、フランソワーズの手を引き反対側の縁に向かう。 「ジョー。痛い」 途中、抗議の声が上がったが黙殺した。 縁に着いてから、投げ出すようにフランソワーズの腕を離した。 「ったく。何やってるんだ」 ――私のことなんてどうでもいいくせに。 小さく呟いてみる。 「ん?なに?聞こえないな」 そのまま縁に手をかけプールから上がってしまう。 何よ、ジョーなんか。ずっと放ったらかしだったくせに、私が他の誰かと一緒にいると怒って。そんなのまるで――自分のおもちゃを取られるのが嫌なだけの子供みたいじゃない。もう飽きて放っておいたおもちゃなのに、他人が触ると許せない。・・・ただのコドモ。私はおもちゃじゃないわ。 自分の荷物が置いてあるところに戻り、手早く荷物をまとめる。パーカーをはおってタオルを畳んで―― 「――帰るの?」 背後からジョーの声がかかる。 「帰るわ」 あくまでも背を向けたまま。ジョーの顔は見ない。 「まだ青いほうの水着を見てないんだけど」 手が止まる。 「今着てるのも凄く似合っているけどさ、・・・青いのの方がフランソワーズっぽくていいな」 ――何よそれ。だったらどうして、最初からそう言わないのよっ・・・ 「フランソワーズ?」 何が? 「・・・指輪」 指輪? 思わず振り向いていた。ジョーを見る。 「・・・無いわ」 いつもつけていると言っていた指輪は、彼の胸元には無かった。 「いつもつけてるって言ったのに・・・」 ひどいわジョー。という言葉は発されずに消えた。 「――たまにはね」 ゆっくりとジョーの左手に触れる。 「・・・どうして」 ホテルを予約したのはピュンマとジェロニモだった。全て手配したからといってジョーには何も見せてくれなかった。 「だから、たまには・・・だよ」 改めて言われるとやはり照れる。 フランソワーズはジョーの左手を握ったまま――彼の胸に額をつけた。 「もうっ・・・ばか」 でも好き。
「そうだね」
チェックインを済ませてからここにやって来た二人は、一歩入ってその光景にしばし見惚れた。
50メートルプールの水はあくまでも蒼く、ところどころに観葉植物と思しきオブジェが配置されている。
デッキチェアは絶妙の間隔で配置されており、隣のテーブルの会話は聞こえないようになっていた。
ゆったりとした音楽のせいか、そこはかとなくアンニュイな雰囲気が漂っている。
つられてジョーも何だか眠くなってきた。大きく欠伸をしていると、隣にいるフランソワーズに睨まれた。
「わかってるよ」
彼女のせい――ではなく、昨夜はピュンマやジェロニモとゲーム対戦をしていたからだった。
一体部屋の主はどこへ行ったのだろうと思案しているところにジェロニモが通り過ぎ、彼ならピュンマの部屋で死んでいると教えてくれたのだった。
行ってみると、確かに死んでいた。
凍りつくくらいの冷気に包まれて、ゲーム端末を手に倒れている二名の成人男性。
アルコールと食べ物の臭いが充満している部屋の戸口で仁王立ちになり、どうしたものかと一瞬考え、エアコンのスイッチをオフにした。そのままドアを閉め、待つこと30分。
汗だくになって転がるように部屋から出てきたところを捕獲したのだった。
そうしてシャワーを浴びさせ、着替えさせて、やっとの思いでここまで来た。
彼の分の荷物を詰めておいて本当に良かった。と、フランソワーズは自分で自分を褒めた。
しかし。
チェックインしてプールに来てからも、ジョーはどこかぼんやりしていていまひとつ覇気がない。
何しろ、フランソワーズの水着姿を見ても何にも反応がないのだ。
水着を買いに行った時の試着室での動揺など微塵もなく、もしかしたらその時に「水着姿のフランソワーズ」に対して、免疫を獲得してしまったのかもしれなかった。
改めて、自分の姿に目を走らせる。
淡いピンク色のセパレート。チューブトップをさらに細くしたようなトップスに、腰の脇の細い紐が解けたら簡単に脱げてしまうように見えるボトム。いずれにせよ、どちらも申し訳程度に体を覆うだけの、布地のエコに成功していた。
なのに、何にも言わないし、ちらっとも見ないってどういうことよ?
従業員、プール監視員・・・カップル、親子連れ。
海や他のプールと比べれば格段に少ない人数だったけれども、それでも警戒しチェックしておくのに越した事はない。
何しろ今日はフランソワーズを連れているのだ。しかも、こんな無防備な姿の。
肩に掛けたフランソワーズのバッグの中に、タオル類などにまぎれてレイガンを入れてあるにしても丸腰というのは不安要素だった。
けれどもジョーはリラックスするのとは程遠い気分だった。
昨日、ピュンマとジェロニモから聞いた情報によると、ここのところホテルのプールに盗撮隊が出没しているのだという。
何度捉まえてもどこからともなく湧いてくる。もしかしたら、背後に何か巨大な組織が関与しているのかもしれない。
そういう話だった。
ジョーとしては、今更ネオブラックゴーストもないだろう・・・とは思うものの、「盗撮」などをする輩には我慢がならなかった。しかも、それらは水面下でネット上にその「作品」を掲載し、売買もしているのだという。
到底許せることではなかった。だから今回、できればそれらの情報も得ようと調査も兼ねて乗り出したのだった。
フランソワーズは、昨夜はジョー達がゲームで遊んで徹夜したと信じている。が、実はそうではなかったのだ。
もちろん、ゲームをしなかったわけではないが。
にやついているその横顔に完全に機嫌を損ねて、フランソワーズは構わず彼の耳を引っ張った。
「ジョーのえっち」
「エッチって」
「どこ見てるのよ、もう!!」
「どこ、って・・・」
ジョーはフランソワーズの後ろ姿を見送って、ウエイターに飲み物を注文するとデッキチェアに寝そべった。
大きく欠伸をする。いかにものんびりと余暇を楽しんでいるように見える。が、視線は――周囲への警戒を怠らない。
しかし、すぐにそれとわかるような行動を取るなどと、まるで素人であり、とても背後に組織が関与しているとは思えなかった。
ジョーとしては、盗撮などという行為は到底許せるものではなかったが、それは警察の仕事であって――自分は、その背後にネオブラックゴーストの気配があるのかどうかだけを調査するつもりだった。
気配がなければ、フランソワーズとゆっくり余暇を楽しむことができる。
そのつもりだった。
――フランソワーズだった。
ジョーとのんびり仲良く過ごそうという思惑が外れ、半ば意地になって泳いでいる。殆ど個人メドレーのノリだ。
平泳ぎの時に、そうっとジョーの方を見てみた。
ジョーは、まっすぐにこちらを見ていたのでほっとしたのも束の間、彼の意識が自分に向いていない事に気付き、怒髪天を突いた。
自分の方を見ながら――別のことを考えている。
フランソワーズにはわかるのだ。
もしやさっきの女性グループに注意を向けたままでいるのかと、彼女らの方を見てみる。すると、彼女たちもなぜか――ジョーの方を気にしているようだった。
同性だからと油断させて――接近する輩かもしれない。女性同士であれば、プール以外でもどこでも不審がらずにいられるのだから。
そんなつもりはなかった。
彼女には――むしろ、知らないで居て欲しかった。
こんなところまで来て「003」になれとは絶対に言いたくない。
盗撮と関係があるのかどうか。背後に組織が関与している可能性があるのかどうか。
それらを手っ取り早く知るには、彼女らに接近するのが一番だった。
傍らのパーカーを羽織ることもせず、水着姿のまま彼女たちの方へ歩を進めた。
とはいっても、危険性は全くない。
いわゆるナンパだった。
フランスの方、ですよね」
上背が高く、筋肉質で均整のとれた体をしている。そして――精悍な顔つき。
時々バレエ教室のあとにお茶をするグループに教えられた言葉だった。
彼女らの話では「ジョーくんはイケメンよね」ということだったが、フランソワーズとしては納得がゆかない。
「ジョーがイケメン?――イケメンって、そういう意味なの?」
「イケメンでしょう?ヤダ、フランソワーズったらわからないの?」
「・・・わからないわ」
それって、彼しか見てないからでしょう――と、からかわれたのだった。
未だに「ジョーがイケメン」なのかどうかはわからなかったが、いまここにいる彼らがその条件に当て嵌まっているであろうことはわかった。
が。
かといって、泳いでいるのを邪魔されたのはまた別問題だった。
「――生憎ですけど、連れがおりますので」
「ええ。そうですわ」
が、それで怯むような輩ではなかった。
「ええ」
が、そこは、さっきまで彼がいたデッキチェアではなく――
ジョーがナンパ。
しかも、自分が一緒に居る時に。
そして、自分が一緒に居る時に他の女性を見るなんて、そんなこともあるわけがなかった。
そのため、日々警戒しており、今日の午前中にそれも無事に排除できたばかりだという。
何故なら、彼らのハッキングの腕はかなり確かなものだったから。
今回の情報もそうやって手に入れたという話だった。だから、「ホテルのプールに行くならついでに」と依頼されたのだけれども。
心中首を傾げつつも、とりあえずこれで――お役御免だった。
警察がそういうことをしてもいいのだろうか――と、ジョーは思った。
「・・・」
「行っちゃったね」
「私たちも行こう?」
偶然ここに来ることが決まったとばかり思っていたのに、そうではない?
そんなの――そんなの、有り得ない。
だってジョーは、私以外は目に入らないんだから。――いつも、そう言っているんだから。
フランソワーズが同じ空間にいるにもかかわらず、他の女性に興味を示しているのだろうか。
それとも、フランソワーズがそこにいるいないは関係なく、彼女が知らないだけで実はそういうことは日常茶飯事だったのだろうか?
そんな訳ないじゃない。
何にも言わないし。一緒に居ても退屈そうだった。――欠伸なんかしちゃって。
もし彼が本当に妬くなら、ではあったが。
フランソワーズがここから消えても、もしかしたら――気付いてくれないかもしれない。
そう思うことは悲しいことだったけれど、今は悲しさよりも怒りの方が勝っていた。
このプールに併設されているそれは、プールに来たひとたちが休憩するために設けられたものであり、水着姿のまま入ることができるようになっていた。
何にも言ってくれないし。大体、今日はずうっと――私の話なんて聞いてなくて、返事もしてくれてなかった。
これじゃ一緒に来た意味がないじゃない。
「どけ」
ということはつまり、彼らの視界からもフランソワーズの姿が消えたということである。
彼女を背に庇い、男性グループと正面から対峙している。
睨みつけるその瞳は暗く、視線は相手の生殺与奪の権は自分が握っている事を知らしめていた。
フランソワーズに近付く者全てに彼から向けられる視線。
それは、名も知らない、うっかり彼女に声をかけてしまった者に始まり、彼女のバレエ教室のペアを組む男性、果てはゼロゼロナンバーの仲間たちにも及んだ。知人かそうでないかの区別は全く無い。
ジョーにとって、「フランソワーズに近付く者」は全て同等なのだった。
だから、ゼロゼロナンバーたちは不用意には彼女の近くに寄らない。ジョーが不在の場合は特に。
彼女と話し込んでいるところを帰宅した彼に発見されたら最後、しばらくは使い物にならなくなる。恐怖で。
しかも、当のフランソワーズ自身は全くそれに気付いていない。何しろ彼がそういう目をしている時、彼女は大抵彼の背に守られているのだから。
ジョーの視線をマトモに受けたら、大抵の者はすぐに戦意を喪失する。時にはゼロゼロナンバーたちでさえ。
だから、彼の目を初めて見た彼らがどういう反応をするか――は、ジョーにとってはあまりにもよく見た光景のはずであり、簡単な相手のはずだった。
ジョーの視線を真正面から受けているが、負けていない。それどころかむしろ――それを凌駕するような強い視線。
「今更彼氏面しても遅いな。彼女を放っておいて向こうで他の女と遊んでいたのはどこのどいつだ」
「彼女も君を見限って、僕達と一緒に行くところだったんだ。邪魔しないでもらえるかな」
自分の視線を受けてもびくともしない。そんな相手なぞ、今まで出会ったことはなかった。サイボーグとして戦ってきた中でさえ。
が、それと同時に――随分昔に見たような気もしていた。
そして、それが合っているのならば・・・自分に勝ち目はないということも。
昔出会ったのと同じ目を持つ者。それが、過去と同じ種類の者であればそれは――いわゆる天敵に違いなかった。
が、それでもジョーは退かない。何しろ、彼が今守っていると思っているのは大切な・・・
「邪魔しないで」
「そうだな。せっかく彼氏が来たんだし、うん、彼氏と一緒に行ったほうがいいよ」
「フランソワーズ」
「イヤ」
「だけど」
「ジョーとなんか一緒に行かない。私はこのひとたちと一緒に行くの」
「そ。そうなんだ。悪いけど」
先程の迫力は微塵もなく、今は、ただ一刻も早くこの場を去りたいと望むだけだった。
見ると、さきほどジョーと話し込んでいた女性グループ3名がこちらに回って来ていたのだった。
「ま。お下品な言葉遣い。――上司に対してその態度。いくら非番とはいえ許さないわよ」
今やジョーとフランソワーズはすっかり蚊帳の外なのだった。
警察の人間が苦手というわけではない。が、ただ一種類の警察官だけは――昔から駄目なのだ。
街中ですれ違ってもわかってしまう。彼らの身体から滲むオーラは強大で、その前にジョーは成す術もないのだ。
それは、昔ジョーがさんざんお世話になった因縁の課なのであった。
いくらジョーの視線が怖いといっても、彼らにしてみれば、所詮は不良少年の目つきとしか映らないのである。
それはある意味そうだったから、ジョーが負けを悟るのも当然の帰結だった。
「何って、ジョーに関係ないでしょ」
「関係なくないだろ」
「知らない。ジョーなんか」
「へぇ・・・いいんだ?」
「何が」
「・・・・」
「まだ一緒に泳いでないし。いくらなんでも帰るのは早すぎると思うけど?」
「知らない」
「――まだ気付かない?」
目の前に掲げられたのは、ジョーの左手。――指輪が嵌っている。
あんなに嫌がっていたのに。
だから、フロントで「御夫婦で御予約の島村様ですね」と言われた時は天地がひっくり返るかと思った。
だからそれらしく見えるように仕方なく――と、いうのでもなかったが、こういうきっかけでもなければ指に嵌めることなど無いだろうなぁと思い、胸元の鎖から外したのだった。
3.夜のプールで
このホテルのプールは夜の12時まで開いている。 ところどころに灯りが燈ってはいるものの、全体的には暗く、外の月の光がゆらゆらと反射している。 「・・・お昼とは違うわね」 静かだった。 昼間の出来事については、お互い話題にしていなかった。 一方、フランソワーズは。 「――ん?何?」 優しい瞳で見つめるこのひとを自分はちゃんと見ているのだろうか? そう思ってはいても、堂々巡って結局は同じところに戻ってしまう。 ――昼間のプールであの女のひとたちと何を話していたの? 自分でもつまらないことを気にしていると思う。が、気にしていないふりをしても、やはり考えてしまうのだ。 ジョーのことを言ってられない。私だって、独占欲が強いわ―― どうしてこんなに独り占めしたいのだろう?今でもじゅうぶん過ぎるくらいに独り占めしているのに。 私とジョーが同じひとりの人間だったらいいのに。 そうすれば、彼の見るもの、考えること、全てが同時にわかる。 「・・・あの、ジョー?」 いい加減、飽きずにじっと見つめてくるジョーの視線に耐えられず俯いてしまう。 「ん?」 そんなに見たら。私の心の中まで見えてしまいそうで。 「だって、何?」 答えないフランソワーズにジョーは笑みを洩らした。 「昼間、ちゃんと見れなかったから足りない。だからそのぶん。――蒼いほうがやっぱり似合うね。うん」 カワイイ、と小さく付け加える。 「ちゃんと見れなかった、って・・・どうして?」 ジョーも答えない。 「・・・他の女の人に夢中だったから?」 はっとして口を押さえる。言うつもりはなかったのに、勝手に言葉がつるっと出てきてしまった。 「あの・・・」 何だか嫌味っぽく言ってしまったから、てっきりジョーが怒るか機嫌が悪くなるかすると思っていたが、暗に相違して嬉しそうな声音のジョーだった。 「そっかぁ。気になるんだ。そっか」 嬉しそうに何度も「そっか」を繰り返す。 「あの・・・ねぇ、ジョー。その、ヤキモチ妬いてるのよ?ジョーが話した人に」 途端にジョーは笑い出した。そして、隣にいるフランソワーズを抱き締めた。 「思う訳ないだろっ・・・まったく。――あのね。あの人たちは婦人警官」 半分は嘘ではない。 「それで話しかけたんだけど――なんだ、妬いてたのかぁ。フランソワーズ」 どうしてそんなに嬉しそうなんだろう――と思いつつも、ジョーの説明にとりあえずは納得して・・・ほっとした。 「そうよ。やきもち妬きなのはあなただけじゃないの」 ジョーを見つめ、彼の鼻をつつく。 「私だって、妬くときは妬くのよ?」 最強のサイボーグの僕が、常に負けを喫するのはきみだけなんだから。 とはいえ、彼女にはずうっと負けていたいと思うジョーだった。 *** 「――あ。そうだ。忘れてた」 見つめる蒼い瞳をじっと見て――ジョーは軽くフランソワーズの額を中指ではじいた。 「いったーい。どうしてデコピンするのっ」 そして、彼女を引き寄せ額に唇をつける。 「――許せないな。寿命が縮んだ」 ジョーが見つめると、フランソワーズはいたずらっぽく笑って小さく舌を出した。 「だって、引き止めるでしょう――あなた」 読まれてる。のが、何だか悔しい。 「・・・もし引き止めなかったら行ってたってわけ」 「ジョーの泣き顔は見たくありません」
なので、二人は夕食後にもう一度プールへやって来た。昼間の分の埋め合わせもあった。
貸切状態かと思いきや、意外にも利用者はいて、むしろ昼間より少し多いような感じだった。そして殆どがカップルだった。
「そうだね。オトナの時間、ってやつかな」
カップル同士とはいえ、アヤシゲな事をしているような様子もなく、ゆったりとした時間を楽しんでいるようだった。
ジョーとしては、当初懸念していた「事件」のことをフランソワーズに話すつもりは全くなかった。
知らなくていい。そう思っている。自分が何を抱えて日々過ごしているのかなど――彼女にわざわざ伝えなくてもいい。
それが、ネオブラックゴースト絡みなら尚更だった。もし、「本当に事件」になって、メンバー全員の協力が必要になったなら、その時に言えばいい。普通の日常生活で、少なくとも彼女だけは――忘れていて欲しいのだ。
夕食を共にしながら、昼間の事は気になったものの――実はジョーが自分の事をちゃんと見てくれていたことに気付かなかった自分を反省していた。しかも、拗ねて怒って、彼の指輪にも気付かなかった。
どうしてジョーのことになるとすぐ変な方に変な方に考えがいってしまうのか、自分でも持て余している。
ジョーのことをちゃんと見ているつもりなのに、実は全然見えていないのではないか?
かといって、ジョーに改めて聞くのも、自分が凄いやきもちやきであることを宣言しているようで嫌だった。
身体も心も、全部知りたい。何を考え何を見つめ何を思っているのか――全部。
けれども、そうもいかなかったから、できる限りの時間を空間を共有していたかった。
「・・・あんまり見ないで。――恥ずかしいわ」
「どうして」
「だって・・・」
こんな――ジョーのことばっかり考えているのなんて、ジョーが知ったらどう思うだろう?
「・・・・」
「・・・ん」
「えっ?」
「僕が話していた人たちが気になる?」
「・・・・」
「本当に?フランソワーズ」
「うん」
「・・・呆れないの?」
「何で」
「ココロが狭いなぁ・・・とか」
「婦人警官?」
「そ。ちょっとね。ここのプールの警備について聞きたい事があってね」
「ん・・・覚えておくよ」
「怖いわよ?」
「知ってる。僕も負ける」
まさにきみこそが、最強のサイボーグであり、ゼロゼロナンバーのリーダーであり・・・
「なに?」
「昼間、僕以外の男について行くって言ったから」
「・・・ごめんなさい」
「ほんっとうにあっちに行くつもりだった?」
「――ううん」
「う。む・・・」
「まさか。だって行ったりしたら」
泣くでしょう?あなた。
「・・・そんなに泣かないよ?」
「私以外のひとに見せないで」
「・・・うん」