―子供部屋―
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)
10月25日 ジョー、惚れ直したわ。さすがハリケーンジョーね! 真夜中過ぎのギルモア邸のリビングで、フランソワーズは口の中で小さく繰り返していた。 ううん。それとも、ただ「お疲れ様」って言うだけのほうがいいかしら。 頬に指をあてて天井を見る。が、もちろん目に映るのは天井ではない。いや、映っているのは確かに天井なのであるが――彼女が見ているのは遠くの地にいるハリケーンジョーの姿だった。もちろん、彼女の目をもってしても実際に「見える」わけではないので、あくまでも「イメージ」である。 ベストを尽くした。が――及ばなかった。 いつも勝っていたわけではないし、みっともなく負けた事だってある。だから困ることはないはずなのだ。が、しかし。追い上げて追い上げて、あと一周あったら表彰台をものにしていたであろう走り。頑張ったけれど足りなかった。届かなかった。 でも、約束は守ったんだから。 フランソワーズは大きく頷いた。 そうよ。10台は抜いたんだから、惚れ直したって言ってもいいのよ! うんうんと大きく頷いたところで携帯電話がメロディを奏で、フランソワーズの心臓が跳ねた。 「もしもし、ジョー?」 *** 10分後。 結局、「惚れ直した」も「お疲れ様」も言えなかった。 フランソワーズはただぼうっと立っていた。携帯電話を持った腕もそのまま固まってしまったかのよう。 「・・・ええと・・・どうしよう?」 まだジョーの声が耳に響いている。 「――ということで、待ってるから」 待ってる、って何を? 「二週間空くけど、ちょっと帰れないし。――でも、フランソワーズに会いたいからさ」 そんなこと、今まではっきり言ってくれたことは・・・なくもないけれど、でも、レース直後に言ったことはなかったような気がする。 「予定、何かあった?あったらキャンセルできる?うん?大丈夫。――そう。なら、明日にでも」 いつになく強引であった。 そんなわけで一方的にジョーに決められ、まくしたてられ――レースの話など一切しなかったのである。 「・・・レースの後、よ、ね?」 とてもそんな感じではなかった。 「・・・あと一戦はチャンピオンレースと関係ないから・・・?」 重圧から解放された――と、いうことなのだろうか。しかし、それにしてはそんな爽快感も彼の口調からは窺えなかった。 「ともかく準備しなくちゃ」 10月22日 ジョーが自分を「俺」と言うのは――あまり良い兆候ではない。 フランソワーズは落ち着かなく、リビングをうろうろと彷徨った。 やはり予選グリッドが下位なのがショックだったのだろうか。――確かに、今回奇跡の逆転劇でもない限り、彼の二連覇は難しいだろう。ジョーではないが、本当に15台もしくは16台を抜いて表彰台に立たなければ、彼のワールドチャンピオンへの夢は断たれる。その夢を繋ぐためには、なんとしても表彰台に乗ることが必要だった。 落ち込んでいるようには思えなかった。レースを諦めてもいなかった。前向きなところはいつもの彼だったし、多少、弱気な部分もあったように感じるけれど、それでもそれ以上に意気は上がっているようでもあった。 フランソワーズは自分に当てはめて考えてみた。 彼はいつも自分を信じ、信じきれるくらいの努力も重ねてきたし努力することを惜しまなかった。 自分を信じろ。 強い目で熱く語った。フランソワーズが少しでも弱気になると何度も言った。 僕のフランソワーズは強い子だろう? ジョーが信じてくれていると思うと心強かった。 しかし。 ジョーが・・・不安になっている? まさかと頭を振る。 だってジョーは、レースにはいつも強気だったし自分の走りに自信を持っていたわ。 だから、不安に陥るハリケーンジョーなど有り得ない。 しかし。思えば彼は随分巧妙に「信じてるから」という言葉を引き出しはしなかったか。 ――誰かにそう言ってもらわなければ自信が持てないくらい、弱気になっているのだろうか。 およそいつものジョーらしくない。 ジョー。 信じているから。 もっと何度も何度も言えば良かったと思った。 10月18日 「えっ?ここで終わり??」 真夜中である。 「ええっ、嘘」 いくら赤旗中断で生中継の時間がなくなったからって、本当に放送を終わりにしなくてもいいと思う。 「これじゃ、結果がわからないじゃないの!」 ――とはいえ。 「・・・まぁ、ジョーのグリッドは決まったけど・・・」 屈辱のQ1ノックアウト。今季最低の17番グリッドであった。 「せめてちらっとでも映れば」 ほんの一瞬の表情でも、見ればわかる――たぶん。 おそらく不機嫌なのは間違いないだろう。何しろ、思った走りが全く出来なかったのだから。 「・・・・」 フランソワーズはしばし考えた。 ――ジョーなら大丈夫よ。頑張って。 なんて月並みな言葉だろう。大丈夫などと根拠がないのに言ってみたところで気休めにもならない。が、かといって全く違う話をして彼の気分転換をさせるには――現実はあまりに重いように思えた。 では、電話などしないほうがいいのだろうか。 それもイヤだった。 今年の初めに決めたはずだった。お互いにどんな状況でも、声が聞きたくなったら我慢せず電話をすること。と。 ――そうよ。あの時、・・・本当は凄く寂しくて悲しかったんだから。 フランソワーズは深呼吸すると携帯電話を取り出し、彼の番号を押していた。 *** 「あれ?フランソワーズ。どうしたんだい?」 電話の向こうの声は予想外に明るかった。ので、フランソワーズは出鼻を挫かれた気分になった。 「どう、って・・・」 生中継だったことをすっかり忘れていた。こちらの放送は終わっても、予選はまだ続いているのだ。 「ん、いいよ。もう俺の出番はないから」 さらりと言われ、二の句が継げなくなる。 「参ったよ。凄い雨でさ。イエローフラッグだけならまだしも、レッドになるんだもんなぁ。中断中断で大変なんだ。 妙に明るく話すジョーは、いつもより饒舌だった。 「ただでさえ雨は嫌いなのに参ったよ」 そうだった。彼は雨が嫌いなのだ。たぶんそれも――あったのだろう。と、勝手に思う。 「二連覇は難しいかもしれないな」 気軽に言われ、なんだか彼が投げ遣りになっているような気持ちになって、フランソワーズの心は波立った。 「・・・ジョー?」 しかし。 レースを最初から諦めてしまうジョーなど未だかつて見た事がない。のであれば。 「――心配症だなあ、フランソワーズは」 電話口でくすくす笑われる。 「落ち込んでると思った?」 そうなのだ。おそらく、「今季最低グリッド」という実況アナウンサーの声に、落ち込んでしまったのは自分のほうだったのだろう。だから勝手に悪い方悪い方へ考えてしまった。 「そりゃ、後ろの方っていうのはこの悪天候では不利かもしれない。水しぶきで前が殆ど見えなくなるからね。 とはいえ、17番手である。 「さっきも言ったけど、二連覇は難しいと思う。でも諦めたわけじゃないよ?」 そうだった。 「・・・フランソワーズ?聞いてる?そこにいる?」 良かった、ジョーは元気だわ――と電話を切ってしばらくしてからだった。 10月17日 ――調子が悪い。 ここにきてどこがどうなってしまったのかわからないが、自分で自分の身体がままならない。 ともかく全身が重かった。 しかし。 かといって体調が自然によくなる気配もない。 ――情けない。 あるいは。 もしかしたら本当は不具合などなくて、ただ単に――勝負に対する緊張感と恐怖感からそう思っているだけなのかもしれない。 二連覇がかかっているというだけで怖気付くなど・・・まさか。 そう。ワールドチャンピオン連覇がかかっているのだ。 自分を信じてここまできた。だから、今日のレースだって自分を信じるだけなのだ。 ――しかし。 その自分の力が足りないのではないかと一度疑ってしまったら、不安は次々と襲ってくる。 今まで考えないようにしていた嫌な思い出ばかりが甦ってくる。 ジョーは頭を抱えていた。 悩んでいる時でも迷っている時でもないはずなのに。 10月13日 空港でジョーは周囲の者がやたらに電話したりメールしたりするのを不思議そうに見つめていた。 「どうした?ぼーっとして」 わざとらしく言われるのにジョーは軽く唇を尖らせた。 「別にかわいそうじゃないよ。慣れてるし」 ジョーは喉の奥でけっと言うと歩き出した。 「コーヒーでも飲んでくるよ」 携帯メールを見ながら女メカニックが追う。 「だったら愛の深さについて勝負しようじゃないか」 ジョーが舌打ちすると、女メカニックはそこらにいたスタッフを数人つかまえた。 「ほら。コイツらも参戦するってさ」 *** 「・・・何、ソレ」 ジョーはフランソワーズに同意を求めるよう言う。が、しかし。 「とってもいい企画じゃない!」 ジョーは携帯電話を耳から離すと深くため息をついた。 ――言うんじゃなかった。 ちょっと考えればわかるはずだった。フランソワーズがこの企画を面白がらないわけがない、と。 悪乗りするところ、アイツと同じだもんなぁ・・・。 古株女メカニックとフランソワーズ。意外にも波長が合うのだった。 大体さ。メールの数で愛の深さを測るなんて、おかしいんだよ。そんなものでわかるはず―― 携帯電話が振動してメールの着信を知らせた。 ――ジョー?愛の深さは測れないって思ってるでしょ?でも私の愛は日本海溝よりも深いわよっ(ハート) 「・・・・・・」 がっくりと肩を落とし、その手から携帯電話がぽろりと落ちた。 こういうメールがずっと続くのかよっ・・・勘弁してくれよ。 *** 「で、本当に勝負してるんすか」 ホテルのバーで飲んでいるメカニックたち。昼間、らぶらぶ度勝負とやらに巻き込まれた若いメカニックが問う。 「そんな勝負、めんどくさくてやってられないよ」 女メカニックはくくくっと喉の奥で笑った。 「たまには彼女にちゃんとメールしろ、ってことさ」 ね?お嬢ちゃん。 *** ――愛の数は、そうねぇ・・・ゴビ砂漠の砂の数より多いわ。自信あるの(はーと) 「・・・」 ――ねぇ、ジョーは?私ばっかりつまんないわ(泣き顔) 「・・・」 次々に着信するフランソワーズのメールに脱力していたジョーは、携帯電話を握り直すとポツポツとメールを打ち始めた。 *** 「ん・・・と。次は愛の広さにしようかしら・・・ジョーったら返事を書いてくれないからつまらないわ」 フランソワーズはベッドにうつぶせになってメールを打っていた。 「私の愛の広さ、は・・・銀河系より、も・・・・」 そこへメールが着信した。 「ん!ジョーだわっ!」 何しろ彼からの着信音は全て「迷子の子猫ちゃん」である。確かめなくてもすぐにわかる。 「もうっ、打つのに何時間かかってるのよ――ん?ヤダ、ジョーったら!!」 ほんの二行のそれを見て、フランソワーズはベッドの上をごろごろ転がった。 「ヤダ、もう・・・ジョーのばか」 *** ――もう勘弁してください・・・×××。 *** しばらく返信がなかったので、ジョーはやれやれこれでやっとゆっくり眠れるとベッドに仰向けに転がった。 「いい加減にもう寝ようよ、フランソワーズ・・・」 開いた画面にはたったひとこと。 ――おやすみの×を送るわね(はーと) 「・・・フランソワーズ」 ジョーはいったん手をぱたんとベッドの上に落としたが、数秒後にもう一度顔の前に持ってきて携帯電話の画面を見つめた。メール画面を終了し、待ち受け画面にする。 「――オヤスミ」 そうしてそっと唇をつけると目を閉じた。 10月12日 フランソワーズは携帯電話の液晶画面を見つめ、ため息をついた。 「もう・・・ジョーったら、多過ぎ・・・」 液晶画面に表示されているのは受信メールだった。画面いっぱいに差出人が同じ名前のメールが並んでいる。しかも、恐ろしい事に日付も同じなのだ。 「こんなの、らぶらぶを通り越してちょっと怖いわよ」 ジョーからのメール。今日一日で30通になるだろうか。 ジョーはいったいどうしてしまったんだろう? もしかしたら、ジョーの携帯を誰かが勝手にいじっているのでは?とも思ったけれど、しかし、文面はジョーに間違いなかった。 ――これから飛行機に乗るから。 実況中継である。 ――ゆうごはんは美味しかった。 フランソワーズの返信などあってもなくても関係ないのだろうか。 もう一度ため息をつくと、ジョーの番号を呼び出してボタンを押した。 「――ジョー?わたし」 コール一回で相手が出た。 「ああ、フランソワーズ。どうしたんだい?」 歯切れが悪い。 「ね。いったい何があったの?」 甘えん坊モードなのだろうか。 「・・・らぶらぶ度勝負だったんだよ」 何、それ? 10月8日 次のレースで表彰台を逃せば二連覇が遠のく。正念場であった。 「あなたの恋人はやっぱり車ね」 とため息混じりに言われても、ただ頷くしかなかった。 「しょうがないわよね。ジョーは車が大好きなんだもの」 ベッドに腰掛けて雑誌を読んでいるジョーの背中に自分の背中を預け、フランソワーズは話す。 「あ、でも怒ってるんじゃないのよ。そうじゃなくて――嬉しいの」 フランソワーズがくるりと身体を反転し、ジョーの肩越しに彼の顔を覗きこむ。 「・・・好きなことに没頭できる状況って、幸せなことでしょう?」 一瞬顔を見合わせてくすりと笑う。 「――でも」 甘えるようにジョーの首筋に腕を回す。彼にこんな真似をしてなんともないのは世界広しといえど、フランソワーズただひとりだった。例えばジェットがこうやっていつでも彼の首を絞めることができる位置にいたら、彼の命は風前の灯だろう。 「僕は車が一番じゃないからね」 フランソワーズが一番だと言って叱られたのだった。 「私なんてずうっと後でいいの。ジョーにとって大事なものを一番にしなくちゃ」 ジョーは雑誌を脇に放ると、背中にいるフランソワーズの腰に手をかけ自分の膝の上に導いた。 「どうしてイヤなんだい」 私を中心にものごとを決めるなんて、そんなの―― 「・・・ねえ、フランソワーズ」 ジョーはフランソワーズをそうっと抱き締めると頬にキスした。 「例えばレース中に君に何かあったとする。そんなこと考えたくもないけど、例えばね。そうしたら僕は迷わずリタイヤするよ」 フランソワーズはちょっと黙って考えた。 「だから、フランソワーズがいつでも一番さ」 欠伸混じりに言って、ジョーはそのままごろんと横になった。フランソワーズは考え込んだままである。 「・・・本当にそうなのかしら」 フランソワーズはうるさそうにジョーの指を除けると、そのまま彼の身体に体当たりした。 「もうっ・・・勝手にひとを殺さないで頂戴」 10月5日 「セーフティーカーが入っちゃうんだもんねぇ」 フランソワーズが溜め息混じりに吐き出した言葉は、そのままテーブルの上に鎮座した。 「ね。食べる?」 自分の前のチョコレートパフェからひとくち掬ってジョーに差し出す。 「疲れている時は甘いものを食べると元気が出るのよ」 しかしジョーは微動だにしない。フランソワーズは肩をすくめると、行き場を失ったスプーンを口に入れた。 「いいじゃない、ポイントは取れたんだから」 やっとジョーがこちらを見たので、フランソワーズは笑顔になった。 「なあに?」 ヤキモチやきのジョーのことだから、浮気なんてするなと怒るだろう。期待して次の言葉を待った。 「明日は晴れるかな」 全然、脈絡のないことだった。 何よそれ! まなじりを決し、口を開く。 「あのね、ジョー。もっと他に」 しかし最後まで言えなかった。何故ならジョーが立ち上がったからだ。 「行くよ」 そしてフランソワーズの腕を掴み、強引に立ち上がらせる。 「え、ちょっ」 チョコレートパフェが。 「疲れている時は甘いものがいいんだろう?」 ぐっとフランソワーズを掴んだ手に力を込め、引き寄せる。 「君だ。行くよ」 さっき言ったこと、全部ちゃんと聞こえてたんじゃない! ジョーに引きずられながら、理不尽な思いに囚われる。 もう。 ジョーのばか。 浮気なんてするわけないでしょ。 ** レース後、カフェでお茶を飲んでいたのだった。が、その時間をジョーは無言で過ごし、フランソワーズは結果的に独り言を言って過ごした。 「まったく、両手にひと抱えなんてとんでもない!」 ジョーが口の中で呟いている。 「浮気するだって?フン。本当にできるもんなら、やってみろ、ってんだ」 掴まれた腕が痛い。 「あなたがいなくても大丈夫だ?んなわけないだろっ」 ちらりとこちらを見られる。フランソワーズは腕が痛いと訴えようとしたものの、ジョーの険悪な瞳に黙った。 「――フランソワーズ」 どこへ向かっているのか、スタスタ歩くジョーの速度は変わらない。女性の歩く速度などまるっきり無視している。 「はい、なんでしょう」 即答しないフランソワーズにジョーの足が止まった。そして改めてフランソワーズを睨みつけた。 「あのね。僕が大丈夫じゃないんだよ、わかってる?」 やっと――いつものジョーに戻ったから。 10月4日 予選は大荒れだった。 「・・・あのさ、フランソワーズ」 ナナメ45度で見上げられ、ジョーはうっと言葉に詰まった。じいっと見つめる蒼い双眸に、諦めたように息をつく。 「・・・もう、好きにしてクダサイ・・・」 予選終了後のパドックである。 しかし。 パドックに出た途端、ジョーの腕に巻きついてぴったりくっついてきたフランソワーズ。歩きにくいこと甚だしい。しかも、これではまるで自分はフランソワーズに捕らえられた何かみたいな感じでもあるのだ。 ――シンガポールグランプリとは全然違うじゃないか。 などと思って見たりもする。 「――ねぇ、フランソワーズ」 ヤレヤレ、とジョーは肩を落とした。 ――イヤ、見張られてるのかな。 しみじみと隣の金色の頭を見つめる。ふんわりと花の香りがして、ちょっと和んだ。 「――でもさ、フランソワーズ。そろそろ離れないとマスコミの格好の餌食に」 言いかけるとフランソワーズの足がぴたりと止まった。 「いててて」 鼻息も荒くジョーに詰め寄ると、フランソワーズは柳眉を逆立てて言い放った。 「まさか去年の日本グランプリのデキゴトを覚えてないっていうんじゃないでしょうね!?全世界に向けて「今夜は離さないよ」なんて言ってくれちゃったのはどこのどなたさんでしたっけ?」 そうして再びジョーの腕をきゅっと抱き締めた。 「――でも今年のジョーはおりこうさんなんだから、どうすればいいのかわかるわよね?」 妙に優しげな声で言う。 「え・・・」 そんなわけで、今日のハリケーンジョーは「ヤキモチ大魔神に捕らわれたレーサー」となった。
既にレースは終わっており、テレビも消してあるので部屋に戻ってもよさそうなものだったが、いま、彼女の頭は別のことでいっぱいだった。従って、「それ」以外のことはきれいさっぱり消えてしまっている。
そのハリケーンジョーはがっくりと肩を落としている――か、あるいは控え室でたいく座りを決め込んでいる――か。あるいは、妙にはしゃいでいる――か。
どれとも全く予想がつかなかった。何しろこんな事は初めてだったから。
何かが足りなかった。
ベストを尽くしたという満足感はあるだろう。が、結果には絶対に納得がいっていないはずなのだ。それも、振り返れば予選での順位が大きくものをいったとなれば、その悔しさはいかほどであろうか。
4位というのも中途半端だった。大きく後退していたなら、諦めもつくだろう。が、あと少し――ほんの少しというところで二連覇への道は閉ざされてしまった。
そう、確かにジョーは彼女との約束を守った。後方から追い上げたのだから。
大きく深呼吸をしてから笑顔をつくって電話に出た。
落ち込んでもなく、かといって妙に陽気でもない、いつものジョーの声だった。
それはそれで安心したのだけど、その声が繰り出した内容は意外なものだった。
フランソワーズの予定など把握していないジョー。だから、今回公演がなかったのはただのラッキーなのだろう。
まさかそれを見越して「来い」と言っているわけではなさそうだから。
しかし。
首を傾げつつ、フランソワーズはやっと手を下ろし携帯電話を畳んだ。
ともかく、彼が珍しく命令口調で「来い」と言うからには、行くしかないだろう。断る理由はなかったし、多少ひっかかるものがあるとしても、フランソワーズもジョーに会って話したかった。
そうすれば、勝負は最終戦へ持ち込まれる。もしも表彰台を逃せばその時点で、ジョーの負けが決定するのだ。
そんな大事なレースなのに、――「俺」?
では一体何だというのだろう?
例えば・・・そう、主役がかかっている時。自分は何を考えて踊るだろうか。
不安と期待と半々で。でも、そんな不安な気持ちを追い遣ってくれるのが普段の自分の練習だった。あんなに練習したのだから大丈夫。と、練習量が自分の自信を裏打ちし支えていた。だから、不安になったとしても「あの部分はあんなに練習したし、絶対に大丈夫」と繰り返し自分に言い聞かせた。悪いことは考えない。考えると、「失敗した時の記憶」ばかり反芻してしまい、結果として同じ過ちを繰り返してしまうのだから。
――しかし。
そう思えるようになるまで、随分かかったのもまた事実だった。
緊張して緊張して、そして。
失敗した時のことばかり、うまくいかなかったときのことばかり、記憶から掘り起こして。そして結局はそれに捕まり、何をしてもうまくいかないように思え――失敗するのだった。
それは全て、自信を持てなかったから。誰よりも自分が自分自身を信じ切れなかったから。
まさにそれが敗因だと――教えてくれたのはジョーだった。
天才的なドライビングテクニックも、確かに天性のものがあるだろう。しかし、それだって全くコースに出ず走らなければ、その形質が発現することはないのである。
走ることが好きで、走っている自分が好きで――だから走る。
テクニックがどうという前に、ともかく色々なセッティングで走りデータを持ち帰り次回に生かす。そうしてみんなと作り上げてゆく。彼はその過程をもこよなく愛していた。
もちろん、だからといって心の負担を全て彼に負わせるくらい依存してしまうことは自分のプライドが許さなかったし、ジョーもそれは望んでいなかった。あくまでも、自分の荷物は自分で背負って自分の足で歩く。彼はそんなフランソワーズが好きだったし、フランソワーズもそんなジョーだったからこそ好きになったのだった。
今はその彼が、どうもいつもと違うようなのだ。
有り得ないはずなのだ。
やはり二連覇がかかっていると、色々な思いが交錯するものなのだろうか。
フランソワーズは、ワールドチャンピオンという意味がもしかしたら自分はちゃんとわかっていないのかもしれないと思った。もしかしたら、二連覇という言葉の重みさえも。
フランソワーズはリビングの大画面テレビの前でひとり呆然としていた。
最低限の明るさに絞られた部屋の中、ぎりぎりまで下げられた音声。しかしそれをキャッチするのは彼女にとって造作もないことだった。
フランソワーズはクッションを抱き締め身をよじった。
テレビでは皮肉にもQ1までは放送してくれたのだ。が、当然のことながらインタビューなどは見られない。
だから、彼がどんな思いを抱えているのか憶測するしかなかった。
ノックアウトになった5台のうち3台はクラッシュによるタイムロスだった。が、ジョーは違う。だから単純に「遅かった」のだろう。それも信じられなかった。
予選が終わったいま――厳密にはQ2がまだ続いているはずだが、彼にとっての予選は終わったのだから――ジョーはいまどんな気持ちでいるだろうか。
怒っているだろうか。
それとも落ち込んでいるだろうか。
いずれにせよ、負の感情に支配されていることは間違いないだろう。
電話するにしても・・・出てくれるだろうか。いや、それ以前にいったい何を言うつもりなのだろうか自分は。
別のことを考えて。と言ってみたって、そんなのは無理だと誰だってわかる。
なにしろいま彼がどうであれ――自分は彼の声が聞きたいのだから。
いま向こうは夜中だろうか、寝ているだろうか、食事中だろうか、レース中だろうか、レッスン中だろうか。
そんなことを思い気遣って、結局電話しなくなってしまうのはもうやめようと決めたのだ。
「いま予選の真っ最中なんだ」
「え!あ、そ、そうよねっ、ごめんなさい、切るわ」
そうそう、なんと今季最低の17番グリッドだよ。ここにきてこれだもんなあ」
こんなの――およそいつものジョーらしくない。レースを最初から諦めてしまうなど、そんな彼は見た事がなかった。なのに、今のこの発言はなんなのだろう。
「うん?なんだい?」
「あの――」
おそらく、彼は――レースを最初から諦めてしまうことなどできないのではないだろうか。少なくとも、自分はそういうジョーしか見たことがないし、彼がレースやマシンに向かう姿勢を疑ったこともなかった。
だからきっと、弱音に聞こえたのは――ジョーが落ち込んでいるだろうと勝手に思いこんだ自分のせい。
おそらくジョーは落ち込んでなどいない。
では、そういう心構えで先入観無くさきほどの彼のセリフを聞いたらどんな印象を持つだろうか。
「二連覇は難しいかもしれないな」の意味は。
「えっ・・・」
「あのさ。――俺を見くびるなよ?」
だけど、そんなの初めてじゃない。何度も経験していることだ」
「うん・・・」
「確かに表彰台は難しいかもしれない。でも、要は・・・抜けばいいんだろ?――そのくらい、やってやるさ」
ジョーは決して諦めない。どんな時でも。
そう。先刻の「二連覇は難しいかもしれないな」は、「でも頑張るよ」という意味が含まれているのだろう。たぶん。
「えっ、あ」
「――なんだ。急に黙るから」
「あ、・・・ううん。ちょっと考えてたの」
「何を?」
「ジョーのこと」
「俺?」
「そう」
「ふうん・・・何を考えてたんだろう。気になるな」
「ふふっ。10台抜いたら凄いなあ、って」
「10台?」
「ええ。惚れ直しちゃうわ、きっと」
「たった10台でそんな簡単に惚れ直すなよ」
「少なかった?」
「少ないね」
「おまけしてちょっと少なめに言ったのよ。あなたがプレッシャーを感じるといけないから」
「それはお気遣いどうも。でもちょっと少なすぎないかい?」
「んー・・・じゃあ、15台」
「もう一声」
「16台。って全部じゃない」
「よし。それでいこう」
「全部?」
「そう。まぁ期待しててくれたまえ」
「ん・・・そうね。まぁちょっと多いかなって思わなくもないけど、でも――ジョーなら出来るわ。きっと」
「だろう?」
「ふふっ。応援してるわ」
「応援?そんなの要らないよ。応援されなくたって勝てるものは勝てる」
「自信過剰ね。でもいいわ。だったら応援はしない。信じてるから」
「うん。・・・抜いたら惚れ直す?」
「惚れ直すわ」
「よーし。気合いいれるぞ」
「でも、無理しちゃイヤよ」
「それは出来ない相談だ。無理しなくて勝てるもんか」
「リカバーできる範囲の無理にしてちょうだい、ってこと。無理と無茶は違うんだから」
「了解」
「誰よりも速く帰ってきてね」
「もちろん。約束するよ」
彼が自分を「俺」と言っていたことに気がついたのは。
機械系統のトラブルではないだろう――と、思う。
そういえば、ここのところメンテナンスをさぼっていたなと思い出したけれども既に遅い。
自分にはいま、そんな時間的猶予もないし何しろ日本から遠く離れているのだから。それに、もしも本当にどこかの不具合ならこんなものではすまないだろう。たぶん。
いつにない倦怠感が身体を覆っている。自分の腕を持ち上げるだけで酷く疲れる――ような、気がする。これが果たして気のせいなのか本当に疲れているのかわからない。
博士に電話して聞いてみる気にはなれなかった。
もしもこれが機械のトラブルなのだとしてもどうしようもない上に、レースを控えたいま、それを勝敗の理由にはしたくなかった。
例えばレース中に――通常では有り得ないが――勝負を諦めるようなことがあったら。きっと「いま自分の身体は故障しているのだから仕方ない」と理由をつけてしまうだろう。肉体的な部分ではなく機械の部分の故障なのだから、負けたって仕方ない、自分のせいではなく不可避だったのだからと。
それだけはしたくなかったし、そんな風に理由を探してしまう自分というのも許せない。
だから、もしも本当に機械の不具合なのだとしても、いまそれを知りたくはなかった。
もちろん、傍目にそれとわかるような不具合ではないが、それでも自分の中ではいつもより僅かに反射神経が鈍くなっているような気がしたし、動体視力や判断力といったものまで――鈍くなっているような気がして仕方なかった。
そうは思いたくなかった。
だから、その可能性は頭の隅に追いやった。
そのプレッシャーに負けそうになっているなど、断じて認めるわけにはいかない。
自分はそんなプレッシャーなどとは無縁ではなかったか。
クラッシュした時の自分のミスはこうだった。あの時の追い越しはここが駄目だったからああなってしまった。あそこのブレーキングは今でも納得いっていない。なぜこうできなかったのか。もしかしたら、自分には最初から力なんてなくて勘違いしてここまできただけで、昨年ワールドチャンピオンになったのだって何かのまぐれなのかもしれない――
こんな状態で走れるわけがない。
しかし、あと数時間で予選が始まってしまう。
その肩を叩かれ振り返ると、馴染みの女メカニックがいた。
「うん――いや。みんなよく電話したりメールするなと思ってさ」
「うん?普通じゃない?」
「そうかな」
「ジョーはしないの?」
「別に用はないし。・・・メンドクサイし」
「ま!かわいそう、お嬢ちゃん」
「ふふん。本当にそうかしらねぇ」
「・・・何が言いたい?」
「お嬢ちゃんだって女の子よ?カレシからの電話やメールが嬉しくないわけないでしょう?」
「フランソワーズはそういう子じゃないんだ」
「そうかなあ。私だったら嬉しいけど?――ほら、旦那から返信」
「・・・随分旦那も暇なもんだな」
「ふん。愛よ、愛」
「おい、ちょっと待て、って」
「勝負?」
「ああ。メールして返事がきた数」
「・・・くだらないこと考えるなあ」
「あら、自分が不利だと思ってるの?だったらハンデあげましょうか?」
「要らないよ」
「ほら。勝負する気まんまんじゃない」
「ええっ、なんすか、それ」
「愛の深さを勝負するのよっ」
「愛の深さぁ?」
「名付けてらぶらぶ度勝負!」
「だろう?変だよな」
「――はぁ?」
「らぶらぶ度勝負でしょう?愛の深さを測るなんて素敵だわ!」
「え。いや、そうじゃなくて」
「まだ勝負はついてないんでしょう?」
「ああ、たぶん」
「だったら私、これから早速お返事するわ!」
「えっ」
「だって、知ってたら全部ちゃーんと返信したのに、ジョーったらなんにも言わないんだもの!」
「いや別にそれは」
「せっかくジョーが柄にも無くマメにメールしてくれてるんだから、私もちゃんと答えなくちゃ!」
「柄にも無く、って、おい」
「じゃあ、切るわよ?メール書かなくちゃ」
「おいちょっと」
「じゃあね!」
「・・・」
ジョーは嫌そうに液晶画面を見つめ、しぶしぶメールを開いた。
「まさか!」
「えっ、でも島村さん・・・」
満面の笑みで身体を起こし、ベッドに正座するように座り、いそいそとメールを開く。
しかし、再度携帯電話が振動し眉をしかめた。
普段は滅多にメールなどしてこないし、返信なんて期待するだけ無駄だったから、ジョーから立て続けにメールがきたときは嬉しかった。いそいそと返事を打った。するとまたすぐメールがきて、それに返事をするとまたすぐメールがきた。
いい加減、鬱陶しくなって携帯を部屋に置きっ放しにして家事をしていた。
そして今、自室に戻ってメールを開いたらこの状態だったのだ。
内容はどれも他愛の無いことばかりである。
――いま着いたよ。
――ホテルがけっこう豪華でびっくりした。
――疲れたから今から寝る。
――いま起きた。寝すぎたようだ。
最初こそ「気をつけてね」だの「お疲れ様」だの、ほかにもあれこれ打っていたフランソワーズだったが、コメントだって語彙が尽きる。
では、放置していた間のメールがどうなのかというと、これがまたマイペースなのだ。
――これからシャワー浴びて寝ようかな。
――ちょっと出かけてくる。
――帰って来た。
「どう、って・・・こっちが聞きたいわよ」
「うん?」
「いったいどうしたの?」
「何が?」
「メール。何?実況中継?」
「・・・うーん・・・まぁ、そんな感じ、・・・かな?」
「別に何もないよ」
「だって、ジョーらしくないわ。いつもは全然メールしないくせに」
「うーん・・・そうだよなぁ・・・」
「そうよ」
「そうだよね」
「そうよ」
「そうだよなぁ」
「いったいどうしたの?」
「うん・・・」
フランソワーズは姿勢を正した。近くにいるならまだしも、遠く離れての甘えん坊モードは手がかかるのだ。
しかし、ジョーの答えはフランソワーズの想定範囲を越えていた。
正直言って、ここのところのジョーはレースのことで頭がいっぱいだった。何をしてもどんな時でもマシンのことが頭から離れない。
だからフランソワーズに
「――うん?」
「だってね」
「――車と私とどっちが好きなのとか言わないんだ?」
「言わないわよ。ジョーだって、バレエと僕とどっちが好きなんだいって訊かないじゃない」
「そうだね」
「そうよ」
「なあに?」
「あら」
「優先順位はずっと同じさ」
「・・・それって駄目よって前に言ったじゃない」
「だから――なんでわからないかなあ」
「だってイヤなんだもの」
「イヤだぁ?」
「ええ」
「聞き捨てならないな」
「だってそうしたらジョー・・・私に何かあったら大変なことになるでしょう」
「なるね」
「それは困るの」
「どうして」
「だって、」
「駄目よ、そんなの」
「何故だい?――いいかい?僕の代わりに走れるレーサーなんてごまんといる。でも、島村ジョーはひとりしかいない。誰も君の恋人の代わりになはれない」
「でも、レースってひとりでやっているわけではないでしょう?」
「それはそうさ」
「あなたのためのセッティングだったりするわけでしょう。それを全部放棄してしまうなんて、そんな無責任なジョーはイヤよ」
「――うん。確かに無責任だといわれても仕方ない。それが理由で解雇されるかもしれない。でも、僕は後悔したくないんだ。もしレースを続けて、一生君に会えなくなってしまったとしたら・・・車が大嫌いになるかもしれないし、二度と走りたくないと思うかもしれない。――ね?だから、君を一番に考えることはいいことなんだよ」
その姿を片肘ついて見つめ、指先で彼女の髪をくるくる弄ぶ。
「そ。当たり前のことだから、敢えて言わないだけ」
目の前のジョーに変化はない。今の彼女の言葉など聞こえなかったのだろう。
それを言えば、先刻からのフランソワーズの話などなにひとつ届いていないのだ。
フランソワーズは頬杖ついてぼーっと窓の外を眺めるジョーを見つめ、口を開いた。
少しビターなチョコレートだった。
「・・・」
「次のレースの楽しみが増えたわ」
「・・・」
「精一杯戦ったんでしょう?」
「・・・」
「次はブラジルね」
「・・・」
「遠いから行けないわ。残念だけど」
「・・・」
「でも、気持ちはいつも一緒にいるわ」
「・・・」
「ジョーもそうでしょう?」
「・・・」
「二週間あるから、向こうに行くまで少しゆっくりできるわね」
「・・・」
「あ、でも、すぐ行くのだったかしら」
「・・・」
「浮気しないでね」
「・・・」
「私はするかもしれないけど」
「・・・」
「どうせ無理だと思ってるでしょう。意外ともてるのよ、私」
「・・・」
「ちょっと歩けば両手にひと抱えよ」
「・・・」
「だから安心してちょうだい。あなたがいなくても大丈夫だから」
「フランソワーズ」
しかし。
彼の前の、手付かずのコーヒーが揺れる。
「早く」
「だってまだ」
「え?ええ」
「僕は疲れているんだ。だから、甘いものが必要だ」
「ええ。だから、チョコレート」
「そんなものじゃ効かない。僕に必要なのは」
「え、でも」
「・・・浮気するなんて宣言する不実な恋人にはお仕置きが必要だ」
「お仕置き、って・・・」
知ってるくせに。
そして今、その時間は終わりを告げ、こうしてフランソワーズはジョーに腕を掴まれたままレジを通り――ジョーが釣りは要らないよとばかりに千円札を二枚置いて通過した――どこかへ拉致されようとしていた。
だからフランソワーズは小走りにならなければいけなかった。
「僕がいなくても大丈夫と言ったね?」
「ええ、言いました」
「大丈夫じゃないだろ?」
「・・・ええと」
「・・・たぶん」
「たぶんじゃないよ。それに僕は怒ってるのに、どうして笑ってるんだよ!」
「さあ。どうしてかしらね?」
「知るかっ」
「――嬉しいからじゃない?」
が、それとは関係なくマイペースなひとがひとり。
フランソワーズである。
「なあに?」
「その・・・もうちょ、っと、離れない?」
「イヤ!」
「いやあ、でもさ」
「イヤったらイヤ!」
「フランソワーズ」
「ジョーは離れたいの?」
「いや、そうじゃないケド・・・」
「だったらいいでしょ?」
赤旗中断されつつもタイムを出したジョーであったが、ギアボックスの交換で結局グリッドは降格となっていた。
ピットではフランソワーズが待っていた。昨年の日本グランプリではイヤイヤ居たものだったが、今年は自ら進んで待機してくれている。どういう心境の変化なのだろうと思いつつも、ジョーは嬉しかった。
顔見知りの人々が笑いながらすれ違う。気まずく恥ずかしい思いを抱くジョーだったが、フランソワーズはにこにこしながら手を振っており余裕だった。
フランソワーズがなぜこのような暴挙に出たのかは、わかっていた。例の携帯電話待ち受け画面事件である。
仕方ないわと言いつつも、ジョーを取られたみたいでイヤなの、とぽつりと言ってするりと腕を組んできた。
だからジョーとしては何も言えずにいるのであったが。
あの時は、ジョーが女性と一緒にいてもまったく意に介さず、むしろ妬いてくれないのかと心配になったほどだったのだ。それが今は、あの時のフランソワーズとこのフランソワーズは別人なのではないかと思うくらいのヤキモチやきに変身している。
「なあに?」
「この格好って変じゃなかな」
「そうお?」
「だってホラ・・・まるで僕が君に捕らわれたみたいじゃないか」
「だってそうだもの」
「そう、って」
「ジョーは私のだもの。っていう意思表示」
「・・・別にそんなのしなくても」
「甘いっ。ジョーは甘いわ!自分がとんでもなく人気者だっていうの、わかってないでしょ!」
「・・・多少は人気者かもしれないけど」
「多少じゃないわ、とんでもなく、よ」
「とんでもなく、ねぇ・・・」
ヤキモチ大魔神のフランソワーズは可愛いけれども、こうしてずっとくっついていられると見張られているような気分になってしまう。
おお、やった。さすがにフランソワーズもマスコミの前では気を遣うだろう。とほっとしたのも束の間、フランソワーズは身体ごとこちらに向き直ると、両手でジョーの頬を左右に引っ張った。
「マスコミの餌食ですって!?いったい、どの口がそう言ってるの!」
「痛いよフランソワーズ」
「ふんっ」
「い、いやあ、それは」
「それが今さら、マスコミの餌食!?遅いわよっ」
「え、う、そうだね」
「そうよっ」
「ね?」
「・・・ハイ・・・」
10月2日
「ごめん、フランソワーズ!」 振り返ったフランソワーズの目に映ったのは、顔の前で拝むように両手のひらを合わせているジョーの姿。 「・・・ジョー?どうしたの」 フランソワーズの声に顔を上げたジョーは、次の瞬間膝を折っていた。 「何?どうしたの?」 フランソワーズも床にしゃがみこみ、優しくジョーの背中をさすった。 「ジョー?」 思いつめたような褐色の瞳がフランソワーズを見る。 「浮気してるんだ!」
***
日本グランプリを控えた週だった。 「あの・・・ジョー?」 わけがわからず、フランソワーズはただ呆然としていた。 「あの・・・浮気、って?」 とりあえず定石通りに訊いてみる。 「ジョー?」 するとジョーは携帯電話を取り出しフランソワーズに示した。 「なあに?携帯がどうかしたの?」 言われるままに開いた液晶画面には、楽しげなカップルの姿があった。お互いに相手の体に腕を回し、満面の笑みである。 「まあ!やだわ、ジョーったら!恥ずかしいじゃない・・・んん?」 てっきり自分たちかと思いきや、女性の髪が金色ではない事に気が付いた。 黒髪だった。 「ジョー?これって」 知らない顔である。 「・・・浮気って・・・」 フランソワーズが立ち上がった。 「あのぅ、フランソワーズ?」 次の瞬間、ジョーに電気スタンドが飛んできた。 「うわっ」 慌てて受け止める。が、今度は本やクッション、手元にある雑多なものが雨あられと降り注いだ。 「浮気者っ!!ばかっ!!嫌いっ!!」 ひとこと叫ぶたびに二つ以上のものが飛んでくる。 「いや、だからゴメンって」 頬をかすめる置き時計。背後で何かが割れた音がした。 「いや、だからそれができないんだって」 DVDが連投される。 「スポンサーの会長の孫が僕のファンで、グランプリ中は待ち受けをこうしてろって」 投げるものがなくなって、フランソワーズは傍らのソファに手をかけた。 「うわっ、フランソワーズ、ちょっと待って」 ジョーは慌てて駆け寄り、フランソワーズを抱き締めた。 「ブレイク、ブレイク。信じてよフランソワーズ」 フランソワーズの手からソファが離れ、床に重い音が響いた。 「ほんとだよ。でも初めに言っておかないと誤解するだろう?」
***
「・・・それにしても、ワガママな孫を持っているのって大変よねえ」 たくさんのキスのあと、フランソワーズを抱き締めながらジョーが言う。背中から腕を回し、フランソワーズの首に頬を寄せるようにして。 「ん・・・でも、ちょっとわかる気もする」 液晶画面を指先で撫でる。 「きっと、凄く好きなのよ。ハリケーンジョーが。だから、どんな手段を使っても会いたかったんだわ」 ジョーはちょっと顔をしかめた。 「だから、ちょっとだけわかるの。」 肩に回されたジョーの腕に頬を寄せる。 「他のひとより、少しでも近くなりたいっていう気持ち」 どちらからともなく微笑んで。 「・・・片付けようか」 周囲は台風一禍の惨状だった。
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