―子供部屋―
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)
12月31日 「もうっ。あんなに気をつけて、って言ったのに」 フランソワーズは乱暴にジョーの額に手を置いた。 「痛いなぁ。病人にデコピンするなんてどういう了見だい?」 油断大魔神。それは新しい表現だなと思いながら、ジョーは大きくため息をついた。 「・・・そうだよなぁ。あんなに我慢した僕の日々はなんだったんだ」 本当にもう。とフランソワーズはジョーの頬に手をおいてそっとそのラインを辿った。 「・・・どうして今頃インフルエンザになるのよ」 今朝になって、ジョーが発熱したのだった。 熱を帯びて赤くなった頬。潤んだ瞳。甘えるような声。 「ええと。何か食べなくちゃ駄目ね。何が食べられそう?」 ジョーは唸ると上掛けを鼻の頭まで引き上げ、その縁からじっとフランソワーズを見つめた。 「なあに?」 なんだか手玉にとられている気がするのは気のせいだろうか。それとも熱のせいだろうか。調子が出ない。 「どこにも行かないの、知ってるでしょう?気兼ねしているわけじゃないのよ?だって・・・もともとお正月は一緒にゆっくり過ごす予定だったんだし、それにあなたと一緒にいたいんだもの。・・・だめ?」 やっぱり調子がでない。きっと病気のせいだろう。そうでなければ、フランソワーズに押されっぱなしになるわけがないのだ。・・・いや、そうでもないかな? 12月30日 当番は免除されてます 「ジョー、先に起きて」 ジョーは口の中で小さく唸った。 「基本的にジョーは食事当番を免除されているけれど・・・でも、イレギュラーで当番をかって出るのは大歓迎よ!」 問題は、俺の作ったものを食べる勇気のあるヤツがいるかどうかなんだけど。 「フランソワーズが手伝ってくれるなら作れると思うよ?」 こう言えばフランソワーズはきっと「しょうがないわねぇ」と言いつつも一緒に来てくれるだろう。 しかし、蒼い瞳は細められてジョーを探るように凝視していた。 「え。な、なにかな」 フランソワーズは体の向きを変えてうつぶれせになり、自分の腕に顎を載せた。 「・・・あなたと一緒じゃ何にもできないからよ」 ため息とともに吐き出す。 「酷いなぁ。俺だって本気を出せば手伝いくらいちゃんと」 ぴしりと言われジョーは黙った。 「胸に手をあててよおーっく思い出してみて。自分がいったい何をしてきたのか」 天井を見つめ、本当に手を胸に当てて考え込んでいる風のジョー。フランソワーズはそんな彼をちらりと見つめ今一度ため息をついた。 「・・・わからないなぁ。別に何もしてないと思うけど」 ジョーは体を反転させるとフランソワーズの背中から彼女に腕を回した。 「んっ、ジョー。重いい」 それが「料理の邪魔」なんじゃない・・・ 背中が温かい。 ・・・しょうがないんだから。 フランソワーズは背中がくすぐったくて身をよじった。背中のジョーが少し笑ったみたいだったから、自分もつられて笑ってしまった。 ――本当に、もう。 いったい今は何時だろうか。そろそろ邸内も起き出してくるだろう。自分はここでこのままジョーといちゃいちゃしていてもいいのだろうか。 しかし。 ・・・もう年末のお休みだし。私だってたまには寝坊してもいいわよね?ジョーと一緒に寝坊するなら、きっとみんな気を遣ってくれるはずだし。・・・それはちょっと恥ずかしいけれど。でもいいの。決めたわ。今日はずうっとジョーと一緒に居るの。一緒に遊んで一緒におしゃべりして、そして・・・ 「ジョー?」 そうしてジョーはフランソワーズの首筋に唇を寄せた。 12月27日 君だけは きみはどういう女の子だったんだろう。 僕はたまに――何かの折にふっとそう思うことがある。 きらきらと輝いて。 好きなひとはいたのかな。 そんなきみに会ってみたかった――というのは無理な相談であり、そもそも会えるわけもなかったけれど。 僕の知らないきみ。 そんなきみを見て、僕はきっと恋に落ちるだろう。焦がれて焦がれて、でも手が届くはずもなくて、辛く切ないやりきれない日々を送るのだろう。 うん。 それでいい。 僕の知らないきみだったら、きっと僕のことなんか気がつきもしないだろう。 僕の大切なきみ。 きみだけはいつまでも輝いていて欲しい。 僕と出会う前のきみの輝きが、どうぞ失われませんように。 僕の闇がきみを翳らせたりしませんように。 僕は胸のなかで祈りを捧げ――捧げる対象なんていやしなかったから、自分自身に誓ったようなものだけど――そうして目を閉じた。 *** *** 「ジョー!待った?ごめんなさい、レッスンが長引いてしまって」 息を弾ませ駆け寄ってきたフランソワーズ。頬が赤い。 「別に走ってこなくたっていいのに」 対する待ち合わせの相手のジョーはそっけなく言い放った。ちらりとフランソワーズの頭のてっぺん辺りを見たきり視線は彼女から離れ宙を彷徨う。 「だって、ジョーったら平気で何時間も待てる変な人種でしょう――あら?」 変な人種で悪かったな、君のことなら何時間でも待てるんだからしょうがないだろ・・・と声には出さず胸の裡で言った時、蒼い双眸がこちらを注視したことに気付いた。 「ジョー?」 先刻までの可愛らしい甘えるような声とは一転した険を含んだ声。 「またケンカしたの!?」 フランソワーズがジョーの右手をがっしと掴み、持ち上げる。 「ほら、ここに痣ができてる。いったい何をしたの?また誰か殴ったの?」 暴力反対、と言うフランソワーズにジョーは冷たく言った。 「――俺のせいじゃねーよ」 痣だけではなく擦り傷もあり、微かに血が滲んでいた。 「ええと、タオルが奥のほうにあったはずだわ」 肩にかけたバッグの底をさぐってフランソワーズはタオルまたはハンカチを探した。が、レッスン後に急いで着替えた上に無造作に着替えを突っ込んできただけだったから、タオルの行方は杳として知れなかった。 「いいよ、こんなの」 フランソワーズはジョーの右手を持ったまま、その手の甲にある傷をぺろりと舐めた。 「なっ・・・!」 ジョーが慌てて手を引く。が、離さない。伊達にバレエで鍛えているわけではないのだ。そこらの女の子とは筋力が違う。 「離せっ、何をするっ」 まるで乱暴な男子のような言い草にジョーは少なからずショックを受けた。見たところ可憐な少女なのに。とてもこんな雑なことをするように見えないのに。 「・・・意外とオトコマエだな。フランソワーズ」 上目遣いに意味ありげに見つめるフランソワーズにジョーは知らず頬が熱くなるのだった。 *** *** 「・・・・」 ジョーはぱっちりと目を開けた。 僕とフランソワーズは・・・付き合い始めたばかり、っていう設定なのかな。 押されっぱなしで不良形無しだなぁと思ったところで、隣のフランソワーズが身じろぎした。どうやら目を覚ましたらしい。 「おはよう」 フランソワーズはじっとジョーの顔を見ている。 「なに?何かついてる?」 オトコマエなフランソワーズとオトメなジョー。 *** 12月26日 「フランソワーズ。その・・・重いんだけど」 ジョーはわざとらしく咳払いをすると、断固として背を伸ばした。 「ともかく、退いてくれないかな。年賀状が書けないじゃないか」 フランソワーズは唇を尖らせるとジョーの背中から体を起こした。 *** インフルエンザからすっかり立ち直ったフランソワーズであったが、ジョーの仕事関係のクリスマスパーティにもバレエ仲間のクリスマス会にも出席できなかった。それは仕方がないとわかっていても、残念である思いは消えず、インフルエンザに罹ることなく元気いっぱいのジョーに八つ当たりを始めていた。退屈なのもあった。もちろん、ジョーにインフルエンザがうつらなくてよかったわとも思ってはいたのだけれど。 ジョーの背中に乗りかかるようにして彼の首筋にぐるりと腕を回して。 「何よ、年賀状って」 例年なら今頃はパリにいるはずだった。が、インフルエンザ罹患によりフランソワーズはギルモア邸で年末年始を過ごすことになってしまった。兄ジャンは至極残念がったがそういうわけなら仕方がないと納得した。 「・・・書いてるんだよ、実は。投函してからパリに行ってたんだ」 フランソワーズは疑わしそうにジョーの後頭部を見つめ――こうして話している間も彼は年賀状の宛名を書く手を休めていないのである――彼の肩越しに問題のブツに目をやった。 「・・・ジョーって字が綺麗ね?」 ジョーは苦笑した。 膨れっ面で甘えるのってどうなんだろう? べたべた絡みつくフランソワーズが不快というわけではなかったが、ジョーとしては苦笑するしかなかった。 「・・・何笑ってるのよ」 膨れたままジョーの背中に背を預けたものの、ともかく年賀状を書く邪魔はやめたようなのでジョーはこれ幸いと宛名書きに集中することにした。 しばらくして。 「・・・ねぇ、ジョー?」 ジョーはくるりと椅子を回すと、背中で拗ねてるフランソワーズに向き直った。そのまま腕を伸ばして彼女を捕らえ、膝の上に抱き締める。 「・・・構ってあげないからってそんなに拗ねなくてもいいじゃないか」 あといったい何枚あるのか。 *** 12月22日 「・・・ジョー。風邪ひくわよ?」 フランソワーズがそっとジョーの肩に手を置いた。 「ジョー?」 小さく耳元で名を呼ぶが、その名の主は目を覚ます気配がなかった。 「・・・ほんとにずっと廊下にいるなんて」 呟いて腰を伸ばすとフランソワーズは胸の前で腕を組んでしばし考えた。 *** インフルエンザに罹患しているからとジョーを締め出して約2日。 そして熱もすっかり下がり、元気いっぱいに部屋を出たところで、フランソワーズの部屋の壁に背を預け廊下に座り込んで眠っているジョーに遭遇したというわけである。 *** フランソワーズはしばし考え、そして――おもむろに組んでいた腕を解いた。 「ジョー?」 もう一度呼んでみる。が、起きる気配は感じられなかった。 フランソワーズは廊下の前後を見回し、誰もいないことを確かめると屈んでジョーの両脇に腕を差し入れた。 「・・・サイボーグも体重が増えることってあるのかしら」 太ったようには見えないけれど、以前に抱えた時にはこれほど重くは感じなかった。あるいは、あの時は火事場のバカ力というのが発動していたのか。 「・・・重いぃ」 なかばひきずるようにして部屋の中へ踏み込む。 「――全く、無茶するなぁ」 後頭部を強打する。とぎゅっと目をつむったフランソワーズ――何しろ両手が塞がっているのだから、受身も取れないのだ――の、耳に妙にのんびりとした声が聞こえた。 「いくらきみが力持ちだって無理があるだろ?」 痛く――は、なかった。寸でのところで、ジョーの手のひらがフランソワーズの後頭部を庇うように覆っており、彼に押しつぶされるはずが守られるように体の無事が確保されていた。 「ジョー!」 確かに、誰が見てもフランソワーズを押し倒している最中のジョーという図だった。 「いいじゃないか。誤解じゃないって言えばいいんだから」 ジョーの褐色の瞳に見据えられ、フランソワーズは肩の力を抜いた。 「もう・・・ずるいわ」 そのまま流されそうになったけれど。 「でも・・・せめてドアを閉めてくれないかしら?」 全開のドア。 「あのさ。ドア閉めるけどいいかい?」 第三者の声。 「えっ」 フランソワーズがジョーの肩越しにドアを見るが、答えを待たずにドアが閉じられたところだった。 ――もうっ。だから言ったのに。 恥ずかしさで頬が燃える様だった。 「気がきくなぁ、ピュンマ」 のんびりしたジョーの声。 「ばかっ」 12月20日 「インフルエンザ?A型?」 ドア一枚を隔てて部屋の中と部屋の外。 「え。だってきみ、ワクチンを打ったって言ってなかったっけ」 ため息とともに吐き出したのはその部屋の主であるフランソワーズだった。彼女からはドアの前でおろおろしているジョーの姿がはっきりと見えているのだが、生憎ジョーにはそういう機能はなかったから彼女の声しか聞こえない。 「ともかく、入れてくれよ」 別にうつったって大したことじゃない。そう言おうとしたジョーの声は大音量の拒絶により遮られた。 「知らないの?A型は感染力が強いから問題になってるのよ!」 ドアにもたれるようにうなだれるジョーを見つめ、フランソワーズは更に熱が上がりそうだった。 「・・・ジョー?あのね。私たちは精密機械でしょう。特に――アナタは。だから・・・ちょっとしたホコリや雑菌のせいで簡単に不具合が起こるのよ」 私は生身の部分が多いから、そんなに危険ではないのよ――と言うのは憚られた。 「大体、どうしてワクチンを打ってないんだ」 何て答えようかと考えている間にジョーは新たな問題点を指摘した。ちょっと怒っているみたいだった。 「優先順位で言えばフランソワーズは上だろう?」 何歳なんだよ? という疑問が頭に浮かんだ途端、ジョーは固まった。 イワン・・・あいつはいったい何歳なんだ? 「・・・ね?生年月日を確認されると困るのよ。だからカルテを作ってないし、そもそも保険証だって」 ・・・親じゃないけど、世間的にはそういうことになっている。ついでに言うと、近所の商店街では二人は夫婦ということになっていた。 「ともかくインフルエンザなの。ちゃんとテストしてもらったから間違いないのよA型で」 心配している気持ちが微妙に空回りしているジョーである。ちなみに他の住人はそれほど心配していない。 「・・・本当に平気?」 ジョーが心配、いや不安になっているのはそこ? ダメダメ。ジョーのあの目にほだされるわけにいかないわ。 かといって、「アナタがいなくても平気よ」などと言おうものなら、ドアのそばでたいく座りしてしまうだろう。それも一晩中。 「・・・じゃあ、声だけでも聞かせて」 彼の中でどう折り合いをつけたのかわからないけれど、次善の策が講じられたようなのは確かだった。 「ずっとここにいるから」 ずっと? 「・・・寒いわよ?」 そんなわけで、フランソワーズの部屋の前で歩哨をすることになったジョーだった。
「いばるんじゃないの。油断大魔神のくせに」
「我慢の仕方が足りなかったんじゃないの」
「うーん・・・」
「大体ね。発症する前の潜伏期っていうの知ってる?その間に接触していたら既にもう感染してるのよ」
「そんなこといったって。それじゃあ数多の感染症を予防するなんてできないじゃないか」
「ばかね。だからワクチンっていうのがあるんじゃない」
「あ。そうか」
「そうよ」
「うーん・・・きみと接触したのは治ってからだったんだけどなぁ」
全身の関節痛と倦怠感が伴っており、博士の簡易テストで新型インフルエンザだろうと診断された。単純に季節性インフルエンザのA型なのかもしれないが、そこまで精密な診断はできない。
ともかく、ジョーはインフルエンザに罹患したために外出禁止となってしまい、ついでに言うとフランソワーズの時のように彼の自室から出ることも解熱するまで許されなかった。
ただ、彼にとって幸運だったのは、フランソワーズが既にインフルエンザに罹患していたため免疫ができており、彼の部屋への出入りが許されているということだった。
フランソワーズはそんなジョーにちょっとだけ落ち着かなくなった。普段より掠れたその声は妙に色っぽいのだ。
「・・・食欲ない」
「駄目よ。食べなくちゃ。ちゃんと食べて抵抗力をつけなくちゃ」
「・・・ごめん」
「何が?」
「これで正月はどこも行けなくなったから」
「あら、そんなの平気よ。もともとは私のせいなんだし。・・・初詣はジェットとピュンマとハインリヒと一緒に行こうかしら」
「ええっ」
「なあんてね。嘘に決まってるでしょう。あなたを置いて行ったりなんかしないわ」
「・・・別に遠慮しなくても行けばいいじゃないか」
「あら、寂しいくせに」
そばにいて欲しいのか、自分に構わず外出して欲しいのか、ジョーは自分の考えがまとまらなかった。
黙り込んだジョーを見つめ、フランソワーズは笑うと額と額をくっつけた。亜麻色の髪がジョーの頬をくすぐる。
「だめってわけじゃ」
「そばにいたら、邪魔?」
「そんなわけない」
「じゃあ、・・・ずうっとここにいてもいい?」
「・・・いいけど、退屈すると思うよ?僕はきっと寝ちゃうだろうし」
「退屈じゃないわ。ジョーの寝顔を見るの好きだもの」
「・・・」
手玉にとられているのか、手のひらの上で転がされているのか考えてみたけれど、どっちでもいいやとジョーは目をつむった。
「ええっ、やだよ」
「いいじゃない、たまには早起きして朝ごはんの用意くらいしてもばちは当たらないわ。仕事だってお休みなんだし」
「・・・俺に何か作れ、と?」
「だって簡単でしょ?今日は和食の予定だったから、ごはんはもう炊き上がってるはずだし、生卵にノリがあればおっけーよ。あとはお味噌汁を作るだけだもの」
「味噌汁なんか作ったことないよ」
「誰も凝ったものなんか期待してないから大丈夫よ」
そう思ったものの、それは声に出さなかった。代わりにイイコトを思いついたからだ。
ジョーは自分の名案ににんまりした。
そして、なんだかんだいってフランソワーズに殆ど作ってもらえばいう事なし――
「・・・ジョーと一緒にキッチンに立つの?」
「うん」
「・・・二人だけで?」
「他に誰も起きてこなかったらそうなるかな」
「だったらその案は却下。私は行きません」
「ええっ、なんでだよ」
「だって、・・・あなた、どうして自分にキッチン入室禁止令が適用されたのか覚えてないの?」
「さあ?」
「さあ、って・・・」
「したことないでしょ?」
「うーん・・・」
「さんざんお料理の邪魔をしてきたくせに?」
「うん――だってさ」
「だってさ。フランソワーズが意地悪言うから」
「意地悪なんていってないじゃない」
「そうかな。だって俺は何も悪いコトなんてしてないし・・・こういうイイコトしかしてないよ」
「ちょっと、ジョー」
フランソワーズは半分諦めの境地だった。
彼は、「だから」キッチン入室禁止になったのを全くもってわかっていなかったのだ。
だとすれば、何故自分はキッチンに入ってはいけないのだろうと理不尽な思いに囚われていたに違いない。が、彼がキッチンに足を踏み入れる機会なんぞ殆どなかったから、入室禁止といわれてもさほど打撃を受けてはいなかったのだろう。
以前、迂闊に「ジョー、いいところに来たわ。ちょっと味見してちょうだい」などと声をかけて散々な目に遭ったのだ。
しかも、それが本気で嫌だったのかというと、実はそうでもなかったからそんな自分が悔しくもあった。
ジョーの体温を感じつつ背中にいる彼の様子を肩越しに窺う。
するとそこには、既に朝食の件など100万光年先の彼方にいってしまっているジョーがいた。いま彼にはそれよりももっともっと重大なコトがあるようだった。目の前に。
「うん?」
「おなか空かないの?大丈夫?」
「うん、平気。別のものを食べるから」
ブラックゴーストに攫われる前のきみ。ちょっぴり気が強くて、たぶん・・・けっこうお転婆?
バレエを愛しバレリーナを夢見てレッスンに通い、家族と幸せに暮らすパリの街。
ケーキが好きで、おしゃべりが好きで、カフェで友人と何時間も過ごすような普通の幸せな毎日。
きっとそんな感じだったのだろう。
明日を見つめて。
ボーイフレンドは?
恋人は?
片思い、それとも進行形?あるいは失恋だってしただろうか。
でも・・・そう、もしも時間をほんの少しだけ逆行できるのならば、そんなきみを見に行ってもいい。
それは今でもそうなのだけど。それでも今は手を伸ばせばすぐに触れられるくらい近くに居て、何の間違いか僕のそばにいたいと言ってもくれる。それは優しいきみの勘違いに過ぎないよと僕が何度言っても聞いてくれないから、僕は自分の胸のなかだけで言うことにしている。
きみがいま、こうして僕の隣にいるのはただの勘違いで同情なんだよ。って。
でも僕は――それでも、こうしてきみがそばに居てくれるのなら、それでいいと思っている。
棲む世界が違いすぎる。
きらきらまばゆいばかりのきみの世界と闇に閉ざされ冷たく荒んだ僕の世界。絶対に交わることはない。
こうしていま隣に居てくれるのが何かの間違いで、きみはいつかそれに気付いて去ってゆくのだとしても――僕は自分の闇にきみを引き込まないように常に細心の注意を払わなくてはならない。
隣に眠る大事なきみのぬくもりを感じながら。
「なに」
「してないよ」
「嘘。だったらどうしたのよ、この手」
「なんでもないよ、離せよ」
「もうっ、そういう言い方やめて」
「むこうが絡んできたんだ」
「だからって・・・もうっ。血が出てるじゃない」
「駄目よ。黴菌がはいったらどうするの」
「黴菌なんかに負けないさ」
「もうっ、ああ言えばこう言うんだから!タオルも見つからないし、もうっ!」
「何って消毒。しょうがないでしょ、舐めておけば治るわ」
「な、舐めておけば、って・・・」
「そうよ。バレエって擦り傷とか日常茶飯事ですもの。慣れてるの」
「ふうん」
「でも普段はひとの傷を舐めたりしないわよ。ジョーだけですからね?特別扱いするの」
妙にリアルな夢だった。
どう見てもサイボーグではない、15歳くらいの自分とフランソワーズ。
場所はおそらくパリの街だろう。
そのくらいの年齢の時に外国にいるなんて有り得ない。なんとも現実味のない夢であった。が、現実味がないから夢なのだろうとジョーは納得して再び目をつむった。
昨夜眠る前に、サイボーグとして出会う前のフランソワーズはどんな女の子だったんだろうと思っていたから、こんな夢を見たのだろうか。なんだか楽しそうなふたりだった。
ジョーは再び目を開けると小さく言った。
「おはよう、ジョー」
「ううん。・・・変な夢を見たの」
「変な夢?」
「ええ」
「怖い夢?」
「ううん。・・・ジョーが出てくるの」
「それが変な夢?」
「だって、パリなのよ。それも・・・ずうっと前の。まだ学校に行っていた頃みたいな」
「・・・ふうん」
「ジョーったらケンカばっかりしててね。問題児なのよ」
「僕がパリの学校に通ってるのかい」
「そうよ。そして私たちは付き合ってるの。デートだってするのよ」
「ふうん・・・」
「でもね、私はバレエのレッスンもあって忙しくて、なかなか会えないの。夢のなかではレッスンが長引いちゃってジョーを2時間も待たせることになったんだけど、でもね。ジョーはずうっと待ち合わせ場所で待っててくれたの!不良なのに、寒い中、ずうっと」
「・・・冬なんだ?」
「そうよ!雪が降ってるパリってすごーく寒いんだから!なのにジョーったらずうっと待っててくれたのよ!普通なら、帰っちゃうと思わない?」
「・・・そうだね」
「でも待っててくれたの。嬉しかったわ。――ね、ジョーってそんな少年だった?」
「うん?」
「私と会う前のジョー。不良だけど、実は誠実ですごーく照れやさん。でもって意外とオトメ」
「・・・うるさいな。夢だろ、そんなの。何時間もひとを待つなんてしたことないよ」
「そう?」
「そ。きっとフランソワーズ限定だよそんなの」
「ふうん・・・惚れた弱味?」
「だろ?きっと。知らないけどな」
もしかしたら、本当にそんなふたりだったのかもしれない。
そんな二人も見てみたかったなという願望をこめて。
「ま。私が重いですって?」
「いやその、」
そんなわけで、自室で机に向かってなにやら作業中のジョーを背後から急襲したというわけだった。
傍目から見れば羽交い絞めである。他のメンバーが見たら驚いただろう。何しろ「あの009」が第三者にそんなポジションを取らせるわけがないのだから。
しかし、もちろんフランソワーズは別である。
別であった。がしかし、全体重を乗せられて潰されるのは話が違う。
「毎年書いてるだろ」
「書いてないわよ。いつも年末はパリに行ってるでしょ?」
一番納得していないのは当の本人のフランソワーズであり、ここ日本で暴れる彼女の説得係となったジョーは一番の被害者であった。インフルエンザウイルス・A型が憎かった。
「嘘ばっかり」
「ほんとだって」
「そうかな」
「お世辞に決まってるでしょ」
「・・・フランソワーズ。そういうやる気が失せる言い方するなよ」
何しろ、フランソワーズの機嫌はずっと悪いのだ。不本意ながら彼を部屋から追い出したりしなければならなかったことを差し引いても、今までの離れていた時間と空間がどうにも気に入らなかったらしく、治ってからはずっとジョーから離れないのだ。
「なんでもありません」
「私のこと笑ってるでしょ」
「笑ってないって。ホラ、年賀状書かなくちゃいけないし」
「何でしょう」
「私にも出してね。年賀状」
「同居しているひとには出さないものなんだよ」
「出してくれたっていいじゃない。ジョーからもらいたいんだもの。ハリケーンジョーのサイン入りでしょ?」
「それは印刷」
「いいの。ジョーの写真にサインが入ってるの、欲しいんだもの」
「・・・実物がいるからいいじゃないか」
「イヤ」
「フランソワーズ」
「部屋に飾るの。ジョーがいなくても大丈夫なように」
「あのね」
「だって、ジョーは私より年賀状が大事みたいなんだもの」
「そりゃ仕事だからね。・・・終わったらフランソワーズに付き合うから」
「いつ終わるの?」
「いちおう、・・・今夜中には」
「・・・年賀状は25日までに出しましょうって郵便局のひとが」
「聞こえないな」
宛名くらいは直筆でと決めているジョーであったが、毎年そう決めた自分をほんの少し恨めしく思うのだった。
年賀状の宛名書きは・・・終わってません(涙)
もっとも、フランソワーズとて一歩も部屋から出なかったわけではない。しかし、ジョーは律儀に彼女との約束を守り、指一本触れないどころか一メートルほどの間隔を空けたまま近付いては来なかった。
しかし。
当の本人フランソワーズとしては、迷惑きわまりなく落ち着かないことこの上なかった。
まるで幽鬼の如く自分の背後をついてくるジョー。何を話すわけでもなく、ただ――背後にいるのだ。
みんなにからかわれても、平然と「うん。護衛」と答えるのは立派だったが、ギルモア邸の中でいったいどんな危険な目に遭うというのだろう。護衛なぞ必要ないし、更に言えば彼が不審者に気付くよりも早くフランソワーズの目と耳が発見しているはずなのだから。
とはいえ。
あっさりとジョーが去ってしまったら、それはそれできっと寂しかっただろうから――たぶん、これでよかったのだろう。
まったく、自分たちは何てメンドクサイのだろうとフランソワーズは実感した。そんな2日間だった。
仕方がない。
そして、まるで介護をするかの如き力学的法則を用いて軽々と彼を抱え上げたのだった。
力学的法則により抱え上げるのは簡単だったけれど、いざ抱えてみるとそれはそれは重かった。何しろ彼の体重は80キロを超えるのだ。いくら軽量化された金属を用いられているからとはいえ、体内に原子炉まであるのだから、これでもきっと軽く造られた最先端のサイボーグなのだろう。が、いまそんなことはどうでもよかった。
彼を抱えたことは初めてではないが、それにしても思いのほか重かったのは参った。
抱えたジョーの体が重い。
ひきずった彼の両足が部屋に敷いてあるラグに引っかかり、フランソワーズはそのまま仰向けにひっくり返った。
ポジションだけ見れば、ジョーに押し倒された格好である。
「おはよう」
「起きてたの?」
「うん。いま起きた」
「もうっ」
「きみのピンチに起きない僕じゃないだろう?」
「それは・・・そうかもしれないけれど」
「そうかもしれない、じゃなくて、そうなんだよ。具合はどう?」
「ええ。もうすっかりいいわ」
「じゃあ、もう入っていいんだね」
「ええ。だからいま中に入れていたところだったのよ。・・・ねぇ、ちょっともう退いてくれない?」
「んっ?」
「ん?じゃなくて。こんなところ、誰かに見られたら誤解されるわ。ジョーに襲われてる、って」
「ええっ、ちょっとジョー」
「せっかくいい体勢なんだからさ」
「んー?」
「・・・開けっ放しは恥ずかしいわ」
「う?・・・うん」
「ねぇ、ジョーったら」
しかしジョーはせっかくの「いい体勢」を放棄する気はないようだった。
「そうなの、だから入っちゃ駄目」
片方は恋人の姿が見えており、もう片方には声しか聞こえない。
「それは季節型のほうよ」
「駄目だったら」
「インフルエンザの程度っていうのを見ないとわからないだろ」
「大丈夫よ。ちゃんと特効薬を飲んだから」
「だったら――」
「それでも熱が下がるまでは駄目なの。うつるわよ?」
「別にうつったって・・・」
「駄目っ!!」
「知ってるよ。でも弱毒性だろ?だから――」
「それでも駄目。しばらくこっちに来ないで」
「・・・フランソワーズぅ・・・」
ちょっと可哀相かもしれないと思わないこともない。が、ここで彼を部屋に入れてはいけないのだ。
「だけど――だから心配なんじゃないか」
別に生身部分が多いことを自慢に思っているわけでもないし、かといって僻んでいるわけでもない。
「・・・違うわよ。私はずうっと後じゃないと回ってこないの」
「何でさ。1歳未満の子供のいる家族は打てるだろ」
「・・・だって、イワンは1歳未満じゃないもの」
「じゃあ」
「それは僕の保険で大丈夫だろう?」
「それでも、よ。ニセモノの生年月日が書かれているけれど、実際にはその年齢と彼の成長とが合ってない・・・でしょう?たぶん。お医者さんが診たら絶対にわかっちゃうわ」
「小児科じゃなければ大丈夫だろ」
「そんなはずないでしょ。それに子供は小児科じゃないと打ってもらえないし。その親だって」
「でも」
「お薬ももらったし、飲んだし、大丈夫。明日にはきっと熱も下がるから。――ね?」
「・・・でも」
「ええ」
「僕がいなくても?」
「え・・・」
フランソワーズは目を丸くしてドアの外を見つめた。するとドア越しにこちらを向いている褐色の瞳と目が合ってしまった。その切なく寂しそうな瞳に思わず立ってドアを開けに行きたくなってしまう。が、ここは我慢だった。
大体、どうしてほんの数日が我慢できないのだろう?
シーズン中は一週間や二週間会えないのも平気なくせに。
ある意味、鬱陶しいといえば鬱陶しいことこの上ないのだけれど、残念ながらフランソワーズもジョーから離れるのは本意ではなかったから――嬉しかった。
しかし、それとこれとは別である。
「えっ?」
「平気」
「だって」
「迷惑?」
「そんなことないわ」
「じゃあ、決まりだ」
安心するどころか、返って気になってフランソワーズは眠れなかったのだが、それは秘密である。
12月6日
「寒いわねぇ」 棒読み且つ鸚鵡返し。 「・・・ジョーさん?」 にやにや笑いを浮かべるその顔を疑わしそうに見つめると、フランソワーズは言った。 「だったら、いちにのさんで言ってみる?いま何を考えていたのか」 するとジョーがほんのりと頬を染めて口の中で小さく言った。 「だってさ。もしかしたら、・・・そのう・・・凄くプライベートなコトかもしれないじゃないか」 背中を思い切り叩かれ、ジョーはむせた。 「んだよ、ひどいなぁ」 フランソワーズはにっこり笑った。 「だったらいいでしょう?いちにのさんで言っても」
***
「――ひどいよなぁ。こんな冷たいカノジョっているだろうか」 むくれたジョーをなだめるのは並大抵のことではない。 午前6時。 年末ジャンボ宝くじ である。 繋いだ手は温かいが、既に鼻先は冷えて感覚がない。 「ショック、って・・・そんなにショックじゃないでしょう?」 フランソワーズはジョーの手を引っ張った。 「だって、・・・寒いんだもの」 フランソワーズがいちにのさん、で言ったのは 「手袋したいな」 であった。 「だって、・・・どうしてじかに繋ぐのじゃないとイヤなの?寒いんだから、手袋くらいしたっていいじゃない」 ジョーはそれでも繋いだ手を離さない。 「――わかった。じゃあ、手袋をするのはいいよ」 いそいそとバッグから手袋を取り出したフランソワーズは、ジョーの言葉に顔を上げて――そしていきなり背中から彼に抱き締められ目を丸くした。 「え、と、ジョー?」 そういった矢先に前に並んでいるおじいさんグループと目が合った。 「ほら。別に恥ずかしくないだろう?」 確かに、周囲は微笑ましそうに彼らを見るだけで、特にどうということもなさそうだった。 「こうでもしてないと冷たい恋人を持った僕は寒くて死んでしまう」 そんなことを繰り返しながら、――おじいさんグループにおにぎりをお裾分けされたりしながら――宝くじを買えたのは二時間後だった。
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