−子供部屋−
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)
3月29日 レースが終わったといっても日本に戻る時間はなかった。 *** ジョーから電話が来た時、生憎フランソワーズはレッスン中だった。 「――もしもし?ジョー?いったいどうし」 お互いに同時に喋り出す。 「ええ、大丈夫よ」 けれども、お互いともちゃんと聞き取り律儀に相手に返事をする。が、それだって声が被っているのだった。 「・・・今年から、カーズっていういわばブーストみたいなシステムが導入されたんだけど」 それはちょっと前に彼から聞いて知っている。 「そのシステムの不具合で――」 クラッシュしたのだという。 「え・・・だって、そのシステムは」 呆然とフランソワーズが聞き返す。 「あなたにはどうってことないはず――」 確かにそのはずだった。 「・・・加速と減速の具合がわからなかった。普段、慣れているから逆に――」 「でも、まだ緒戦よ?まだまだこれからじゃない。第2戦だってすぐだし!」 いっそのこと『カーズ』システムを外した方がいいのではないか――とチーム内の声もあった。 「ジョー?」 物思いに沈んだジョーの耳に、心配そうな声が響く。 「あなたケガはしてないの?身体は大丈夫?」 サイボーグなのだから。と沈んだ声で続けようとしたが遮られた。 「もうっ、馬鹿なこと言わないの!そんなの関係ないでしょう?」 フランソワーズは考えるように、ちょっと虚空を見つめ 「――今日は、美味しいものたくさん食べて、たくさん寝なさい。いいわね?」 ジョーの健康管理及びメンタル面のフォローアップはフランソワーズの役目なのだ。いつだって。 「・・・おっかないね」 *** 通話の最後にやっと、ジョーの笑い声が聞こえてフランソワーズは満足して携帯電話をしまった。 「――ふうん?今のって音速の騎士?」 耳元で声がしてぎょっとして振り返った。 「・・・違うわよ」 にやにや笑っている複数の顔を一瞥し、フランソワーズはロッカーを開けた。 「またまたあ」 フランソワーズは着替える手を休めない。 「だから、ジョーじゃないって言ってるでしょ」 声だけで応対する。不機嫌そうに。 「そうかなぁ。声が色っぽかったけど?」 ぐっと詰まったフランソワーズに、けれども一転して彼女たちは心配そうに言う。 「・・・クラッシュしたって聞いたけど。無事なの?」 「そう。なら良かった。なんか難しいらしいじゃん、今季のマシン」 難しいのだった――が、ジョーにはなんてことない。 ――明日、朝一番に電話しよう。 少しは元気な声が聞けるかもしれない。 **** 3月28日 ジョーは朝から機嫌が良かった。 「機嫌がいいな。今日は期待できそうか?」 スタッフとの遣り取りも自信に満ち溢れている。 「おっ、言ったな」 メカニックがジョーの言葉に反応する。険悪な雰囲気はない。全員がベストを尽くそうと士気があがってきているのだ。 「言ったさ。今日は絶対にポールをとる」 言い切ったドライバーに歓声があがる。 *** ――フランソワーズ。 きみは、僕にとってきみが何よりも大事で優先順位の常にトップに位置していると言ったら怒ったよね。 僕の全てはきみと共にある。 もしもきみが僕の前からいなくなったら、――僕の世界は終わる。 おそらく僕は、きみが僕を思ってくれるその何倍も何倍もきみが好きだ。 きみのために――頑張る。 ・・・なんて、そんなことは口が裂けても言えやしないけれど。 ――ともかく、フランソワーズ。 だから。 *** 新しいマシンでの予選タイムアタックは波乱含みだった。 3月26日 新エンジンのテスト走行が早めに終わったジョーは、サーキットをぶらぶらと歩いていた。昼休みである。最近、ジョーはこの昼休みはサーキットコースに出て過ごすことが多い。何故なら、食堂や休憩室、ピットに残っていると――大抵の者がメールをしたり電話をしたりしているからである。携帯電話を忘れて傷心のジョーとしてはとてもじゃないが居られるわけがなかった。 「・・・ジョー?」 ――誰かが呼んでいる。 ジョーは顔を上げてコース内を見回した。 「――ジョー?」 ――また聞こえた。 「ジョー!」 今度は先刻よりもはっきりと聞こえた。 ――え。 まさか。 目をこすってみた。 けれども、目をこすってもその姿は消える事無くフェンスの向こう側からこちらをじっと見つめているのだった。 「・・・フランソワーズ・・・?」 ぼうっとした頭で口にしたのは、ここにいるのは有り得ない彼女の名前だった。 「ジョー。良かったわ、会えて。ジェットに連れてきてもらっちゃった」 小さく肩を竦めて言う姿。 ――フランソワーズ? ――本物? 「――フランソワーズ!」 ジョーは思わずフェンスを飛び越えていた。何メートルあるのか、気にしてなどいない。軽々とジャンプひとつで飛び越えるとあっという間にフェンスの向こう側へ到達し――次の刹那にはマボロシかもしれない彼女を抱き締めていた。 「・・・フランソワーズ!」 本物だった。 彼女の髪の香り、彼女の柔らかい身体の感触、彼女の体温。 「おい。落ち着けよ」 呆れた声とともに肩をつつかれる。今まさにフランソワーズの唇へ到達しようとしていたジョーはうるさそうに声の主の方を睨みつけた。 「――なんだ、ジェットか。ここで何してるんだ」 ジェットはわざとらしく大きく息をつくと髪をかき上げた。 「お前な。人の話を全然、聞いてないだろ」 ジェットはちっと舌打ちをすると、ジョーの腕の中を指差した。 「ともかく。俺がここにいることを忘れるな。フランソワーズに会えて嬉しいのはわかるが、もうちょっと落ち着け」 そう言われて改めて腕の中の彼女を見てみると、真っ赤になって俯いていた。ジョーの胸におでこをくっつけ、ジェットの視線から逃れるように。 ・・・可愛いなぁ。 ジョーの口元に笑みが浮かぶ。 「・・・あのね。ジョー」 胸の辺りで声がする。 「携帯電話を届けに来たの。ないと困るでしょう?」 そう言って、ジョーの胸をちょっと押して彼と身体を離そうとする。が、ジョーの腕は解けない。 「ん、ジョー。ちょっと離して」 可愛く唇を尖らせた彼女。その唇に一瞬唇を重ね、ジョーは腕を解いた。が、しっかり手を繋ぐことは忘れない。 「はい」 言われるままにバッグを覗いてみると、そこには―― 「・・・お弁当?」 だからジョーにもおすそ分けで――と小さく言いかけたフランソワーズの背後から、ジェットのけっと言う声が聞こえる。それを肩越しに睨みつけながら、フランソワーズは続ける。 「本当は電話しようと思ったんだけど、そのう・・・お弁当を作りすぎちゃったし、それに――」 ジョーの視線を感じ、フランソワーズは段々語尾が小さくなり最後は消えてしまうくらいの小さな声になっていた。 「・・・だから、ジェットに無理言って連れてきてもらったの」 僕も会いたかったよ。フランソワーズ。 *** *** その数時間前。 「――お前。今日は花見か何かだったか?」 キッチンの入り口にもたれ腕組みをしたままジェットが言う。 「俺の勘違いでなければ――確か今日、ジョーのところへ連れて行く約束だったはずだが」 途端にぱあっと顔を輝かせたフランソワーズを見て、ジェットは小さくため息をつく。 「わかってるならいいが――だったらソレはいったい何事なんだ?」 いったい何人分の用意なのかとジェットでなくとも思うほどの量だった。三段重の他にデザートが入っていると思しき容器が複数個。 「あっちでパーティでもするのか?」 それが何か?とさらりと言われ、ジェットは言葉に詰まった。 なんなんだ、これは――コイツら、これが普通だって言うのか?――どうかしてやがるぜ。 「ね。それより、ジェットこそ準備はできてるの?」 ごめんなさい――と、慌ててエプロンを外すフランソワーズ。 「行くぞ」 そんなわけで、大量の「お弁当」を持ってアタフタと出て行った二人なのだった。 「――行った?」 リビングのソファに座りコーヒーを飲んでいたピュンマはくすりと笑った。 「内緒のつもりなんてカワイイね」 アルベルトは苦虫を噛み潰したかのような渋面を作る。 「これ以上、被害の拡大を防ぐためだろ」 ジョーと全く連絡の取れなくなったフランソワーズ。 「ま、ジェットもまだまだコドモだね」 あまり年は違わないはずなのにな――と言い掛けたアルベルトに、笑顔で「違うだろ」と言うピュンマだった。 3月25日 初日からジョーはへこんでいた。 これから二週間以上の音信不通か・・・ ジョーは大きくため息をついた。 *** フランソワーズと全くの音信不通、というのは初めてではなかった。 が――甘かった。 既に一週間が過ぎていたが、ふとした時に彼女のことを思い出してしまう。そして寂しい思いに浸ってしまう。 深く深くため息をついた。 *** ――もう何日、「フランソワーズのごはん」を食べてないんだろう? 食堂でランチセットを前にして悲しくなった。 「帰ってきたら、ジョーの好きなものをたくさん作ってあげる。だから、楽しみにして頑張って」 と返ってきていたのだ。 けれども今は、それを聞くことは叶わない。 たったそれだけの事なのに、けれどもジョーにとってはたったそれだけの事が大きかった。 今頃、フランソワーズは何をしてるんだろう。 ――案外、僕のことなどとっくに忘れているのかもしれない。 *** 写真の一枚でも持ってくれば良かった。が、以前、フランソワーズ自身に彼女の写真を財布から抜き取られていたので手元にはない。だから携帯電話の中の画像だけだったのだ。せめてプリントしておくのだったと悔やまれる。 既に10日が過ぎていた。 それは、あっという間のような、遥か遠い話のような、どちらのようでもあった。 3月23日 空港から電話があった。 「どちらにしろ、こちらからはしばらく連絡できないと思うから、いいよ」 どうやら、行く先は山奥で――サーキットのある場所なんて大抵人里離れた不便なところなのだ――携帯電話の圏外になるらしい。だから、持って行っても意味はないとジョーは明るく笑って言った。 でも――それでは連絡が取れない。 「うん。滞在先の電話にかけてくれればいいよ。リビングに連絡先を書いて置いておいたから、後で見て」 滞在先になど、よほどの用がない限り電話をかけにくいこと甚だしい。 黙り込んだフランソワーズにジョーは明るく言う。 「すぐだよ。二週間なんて、さ。レースが終わったらすぐ帰るし」 声が聞きたくなったらどうするの?ううん、会いたくなったら?せめて声だけでも聞けないと寂しくてどうかなってしまうかもしれない――そんな思いが頭の中に渦を巻いた。が、フランソワーズは言葉にせずそれらを胸の奥にしまいこんだ。 ――ジョーは平気なんだ。私と二週間連絡が取れなくても。 確かに、ジョーにとってはあっという間だろう。 しかし。 ジョーとは違い、こちらの二週間は違う。 ――私は平気じゃないわ。 けれども、それを素直に口にするのは悔しかった。 だから、平気な声で言った。 「わかったわ。何かあったらそこに電話するわ」 3月22日 F1の開幕戦が来週に迫っていた。 そんなわけで、ジョーは今日本にはいない。 お互いに頑張ろうねと言い合って、ジョーが出発してからかれこれ一週間になった。 だから、そのどちらも無理な状態に陥るなどは夢にも思っていなかったのである。 それは、ジョーが出発して数時間後のことであった。 今どのあたりにいるのだろう、そろそろ飛行機に乗る頃かしらとジョーに電話をかけたフランソワーズは、部屋のどこかから聞きなれた着信メロディーが流れてきて非常に驚いた。 「ば・・・バッカじゃない!」 電話を忘れて行かれたら連絡など取れるわけがない。 携帯電話なしで遠征なんて――不便に決まってる。 新たに携帯電話をレンタルするといっても、電話番号メモリーの移し変えようがない。 もう――ジョーのばか。 3月17日 行ってもいいよ ――そう言ってからの、彼の唇から溢れ出す言葉の奔流に呑まれそうになり、フランソワーズは声を張り上げていた。 いいえ、行かないわ! *** 「――え?行かない、ってどう・・・」 何で。 どうして。 「フランソワーズ!よく考えたのか?きみの、――これはチャンスなんだぞ」 僕がそう仕組んだからだ。 「でも――ジョーには悪いけど、私はどこにも行かないわ。ずっと――ここにいる」 「――!」 覚悟していた。 僕が――きみと一緒に居たいから、きみを言葉の罠にかけてここに――僕のそばに居ると自分で選択したように思わせてきたということを。 きみは、本当は・・・パリに帰りたいはずなのだから。 サイボーグであるという悲しい記憶を消してしまいたいきみに。 生身の人間に戻りたいと泣いた夜。僕はただ抱き締めていることしかできなかった。 だから――僕には勝手にどこへでも行けときみは言うのか。 そう、確かに――きみが日本に残るのもパリへ行くのも、僕には全く関係がない君自身のことなのだ。 フランソワーズの言葉は続く。 「――ね?だから、ジョー。私のことは心配しなくていいのよ?ちゃんと――ひとりでも頑張れるから。だから、あなたはあなたの、自分自身のためにしたい事をして」 ――え? 「私が日本に残るって言ったから、ずっとあなたはどこにも行けなかった。・・・でも、もういいの。もう十分なの。だから、良い機会だから――あなたには自分自身のために、本当にしたかったことをして欲しいの。私のことなんて気にしなくていい」 *** 辛かった。 そう――もう終わりにしなくてはいけない。 ジョーのことを思うのなら。 ジョーはジョーの思うように――私のそばにいることなんかじゃなくて――自分のために、頑張って欲しいの。 ・・・彼の欲しいと思っているものも、手にはいるだろう。 そのためには、私がここに彼を縛り付けていてはいけない。 でもさすがに、それは口に出しては言えなかったから、私はただ――後は黙っていた。 「――それで・・・きみはどうするつもり?」 ジョーの声が響く。 「ここで、日本で頑張るわ。パリに行っても日本に居ても、大好きなバレエはできる。もちろん、パリにはお兄ちゃんがいるから、一緒にいたいとは思ったわ。でも・・・それ以上に私は日本が好きなの。ここで、博士やイワンやみんなと一緒に過ごすのが好きなの」 あなたが居るから、ここに残る――と、言ったのだ。 *** 「それは違うよフランソワーズ」 まだだ。フランソワーズは僕の言葉の呪縛から完全には抜け出せてはいない。 「あの時、きみは自分の意志で言ったんじゃないんだ。全ては僕が――きみがそう言うしかないように誘導した。僕がきみを罠にかけた。だから、きみは行けなかった。行ったら僕に対し罪悪感を感じるように――そういう罠をかけたんだ」 フランソワーズが黙る。 僕はとうとう言ってしまった。 「・・・どうして」 きみと一緒に居たかったからだ。 「じゃあ、ジョーはいまどうしたいの?」 いまは。 「――僕は、フランソワーズがそうしたいと思ったことをして欲しいと思ってる」 それしかできないけれど、それこそが僕自身の最大の望みでもあるのだから。 *** *** 「――そう。じゃあ、・・・そうさせていただくわ」 そう言って、フランソワーズはにっこり微笑んだ。 「私はここで日本でバレエを続けていく。もし世界へ出ることになっても、帰ってくる場所はここよ。他には行かない」 いったん言葉を切って、視線を手元に落とす。が、すぐにまっすぐにジョーの目を見つめた。 「・・・ジョーに会いたいから」 フランソワーズはジョーから目を逸らさず続ける。 「ジョーが日本にいてもいなくても関係ない。だって私の気持ちは変わらないから。私は自分の気持ちを大事だと思うし、失いたくない。だから、ジョーに会いたいと思う気持ちを我慢したくないの。パリとモナコに別れたら、きっとお互いにすれ違って、そのうち全然会えなくても平気になっちゃうかもしれない。そんなのイヤなの。だから、日本にいれば――少なくとも全くのすれ違いにはなりにくいわ。だから、私はバレエと自分の気持ちを大事にするためにここに残るの。 「じゃあ・・・」 ジョーはしばしフランソワーズの顔を見つめ――そうして、大きく息をついた。 「――わかった。それがきみの意志なら、僕は何も言えない。ただ、ひとつだけを除いて」 ジョーはにっこり笑うとフランソワーズへ両手を広げ、抱き締めた。 「・・・きみがそばにいるってことだよ」 3月16日 お互いを縛った言葉の鎖。 これを解くには、何をどうしたらいいのだろう? *** ――私は、どうしたいんだろう? バレエの師にパリで踊ってみないかという話をもらってから既に2週間が経っていた。 しかし、この2週間、ずっと考えに考えても――答えは出なかった。 フランソワーズは自分の部屋のバルコニーに出て、ひとり眼前の海を見つめていた。潮風になぶられた髪が顔にかかるのもそのままに。 ――どうするの? パリに―― 行くの? 行かないの? パリには兄がいる。ずっと一緒に兄妹で暮らせる。そして、好きなバレエもできる。 日本にはジョーがいる。博士もイワンもいる。運命を共にしてきた――そして、これからも共にするはずの人たちがいる。サイボーグである事実は変わらないから、もしも違う場所で生きるようになってもメンテナンスのたびに帰ってくることになるだろう。 パリに行ったら、ジョーには今までのようには会えない。 今までのように会えなくなったら、いつか――忘れてしまうかもしれない。 ネオブラックゴーストと戦う前のように、自分の生活はバレエだけになり、彼のことも他の仲間のことも全て過去にして生きてゆくことだってできるかもしれないし、事実そうなるのだろう。たまにメンテナンスの時に会うくらいの。 それだけのことだった。 日本に残ることに関して、大きな理由なんかない。むしろ、パリへ行くことのほうがたくさん良い事が待っているような、未来が開けているような、そんな気がした。 ・・・私が日本に残る意味なんてないんだ。 あの日、彼を縛った自分の言葉。 それだけで、自分もジョーも、おそらく自由になれる。 ワールドチャンピオンの彼は、モナコかイタリアか――本来、居るべきはずだった場所で、あるべき姿で。 お互いに、一番大事なものはなんなのか。 お互いに依存するのではなく。 いなければ何もできない、と、相手のせいにするのではなく。 自分の足で立って。 胸を張って、ちゃんとひとりの人間として、彼と向き合うためには――自分で決めなければいけない。 自分は個人であって、誰かに従属しているわけではない。 私は、――私の。 自分の人生を歩いてゆくのだから。 だから―― ――私は、どうしたいんだろう? *** 同じ頃、ジョーはガレージにいた。ストレンジャーの整備である。 フランソワーズがどうするのか。 それは、彼女自身が決めることである。 あの日、彼女に言わせるように放った言葉の罠。 ――フランソワーズ。もう、いいんだ。 枷をはずす言葉を。 きみを縛った言葉の鎖を外すためには、きみがひとこと言えばいいだけなのだから。 ただひとこと。 ――行くわ。 と。 そうすれば魔法は解ける。 自分の意思で残ったわけではないきみ。 だから。 もう、いいんだよフランソワーズ。 僕のことなど考えるな。 ただ一緒にいたいと願った、弱くてずるい男なのだから。 そんな情けない男のことなんか、考えるな。 自分がどうしたいのか、それだけを考えてくれ。 一生の別れではないけれど、でも、バレエを愛するきみのことだ。世界は全てそれが中心に回るだろう。 それでいい。 悲しいのも寂しいのも、一瞬だけだ。 僕はきみが何よりも大事だから――きみの夢や、きみがしたいと思ったことをして欲しいと思う。 *** 結局、ジョーは整備に集中できずにガレージを出た。 何をどうしていても、フランソワーズのことばかり考えてしまう。 しばしぼんやりと眼前の海を眺める。 蒼い海。 フランソワーズの――蒼。 きみがいなくなったら、僕はこの蒼さが嫌いになるだろうか? それとも、この蒼に焦がれて焦がれて――毎日海ばかり見てしまうのだろうか? フランソワーズがいなくなるのは辛い。 ・・・フランソワーズ。 言ってくれ。 ――行くわ。 と。 *** しかし、彼女は言ったのだ。 ――私は行かないわ。 と。 3月15日 「僕はたぶん・・・向こうには行かない」 数年前、僕はそう言った。 「きみはどうするの」と先に訊いておきながら、彼女の答えを待たずに自分の結論を先に言った。 そうしないと怖かったからだ。 訊いておいて、いざ答えを聞く段階になると不安で不安でどうしようもなくなった。 勝手なもんだ。 パリに行って欲しかったのか。 日本に残ると言って欲しかったのか。 ――どちらも違う。 僕は・・・きみがどちらかを選択するその理由のなかに、僕自身が関与しているのかどうかを知りたかったのだ。 ――ジョーに未練はないから、パリに帰るわ。 ――ジョーが日本に残るなら、私も残るわ。 彼女がパリを選択するなら前者であり、日本に残るのなら後者の理由。そうであって欲しかった。 だから、あの時も――そうだったのだ。 今思えば、なぜフランソワーズを相手にそんなことをしたのかわからない。 あの時の僕は。 ・・・絶対に、フランソワーズと離れたくなかったんだ。 一緒に居るためなら、なんだってするつもりだった。 だから、彼女は今も――あの時の、僕の言葉の鎖にがんじがらめに縛られたまま、ここにいる。 彼女が日本にずっと居るのは、自分の意思ではない。 僕が、彼女を操作したからだ。 自分から「日本を離れる」とは絶対に言えないように。 僕が、そうした。 F1レーサーである僕が不本意ながら日本を拠点に活動しているのは、きみがあの時「日本に残る」と言ったからだよ? ――しかし。 もう限界だ。 これ以上、彼女を他人の意思でここにいさせるわけにはいかない。 彼女のために。 僕は、彼女から僕自身を切り離す。 今までごめん。 でも、そばに居てくれてありがとう―― 3月13日 数年前。 ネオブラックゴーストとの闘いが終わり、それぞれ故国に帰るかどうするか――という話になった。 「きみは・・・どうするんだい?」 ふたりで海岸を散歩している時に、不意に繋いでいた手を離し海を背にジョーは言った。 「どう、・・・って」 即答できない。 「家族がいるんだから、帰ったほうがいい」 あくまでも穏やかに。 ――日本に居て欲しい。 ――僕と一緒に居てくれないか。 ――パリに行くなんて言わないでくれ。 そう言って欲しいと思ってしまうのはただのワガママなのだろうか? 「ジョーは・・・どうするの?」 気がついたら問うていた。 「・・・そうだなぁ」 言うとフランソワーズにくるりと背を向け、海の向こうを見つめた。 「――どうするかな」 「・・・あなたはレーサーだものね」 風が強い。声が流されてゆく。 「F1のひとって、モナコとかイタリアとか・・・そのほうが都合がいいんでしょう?」 ジョーは引き止めない。残れとも行くなとも言わない。 ジョーがいない日本。 「――私」 パリに帰るわ。 そう、伝えるつもりだった。 けれど。 「僕はたぶん・・・向こうには行かない」 一瞬早く、聞こえたジョーの声。 「・・・えっ?」 その真意はわからない。 だけど。 「私も――行かないわ」 風で声が流される。 「・・・日本に残る。あなたと」 そう言葉にする代わりに、そうっとジョーの背中におでこをつけた。 *** おそらく、あの時に決まってしまったジョーの未来。 ジョーは何も言わなかったけれど、きっとなぜフランソワーズが「日本に残る」と言ったのか気付いていたはずだった。 だから、――ただそれだけのために、彼は日本に居るのだ。 私が、彼を縛ってしまった。 ジョーは、私がそう言えば日本に残らざるを得ないとわかっていたから。 彼の自由を奪っておいて、今さら自分は海外に拠点を置くために日本を出ます――なんて、いえるわけがない。 3月9日 行ってもいいよ。 と、彼は言った。 *** 「・・・え?」 フランソワーズは思わずジョーを見つめた。びっくりしたような真ん丸の目で。 「・・・ジョー・・・?」 問い返す声が掠れてうまく出て来ない。 「聞こえなかった?・・・行ってもいいよ、って言ったんだよ?」 ひとりでぺらぺら喋るジョーを見つめ、フランソワーズはいったん口を閉じ、そうして―― 「もうっ!!話を聞いてちょうだい!!」 大音量で言い放った。 「わ。な、何?フランソワーズ」 ジョーが耳を押さえて驚いたように彼女を見る。 「どうして聞いてくれないの?」 *** フランソワーズにその話が舞い込んだのは二週間前のことだった。 「パリを拠点に活動しないか、って・・・」 パリの有名なバレエ団から引きがあったのだ。なんでも、フランソワーズの『ジゼル』を観て以来どうしても忘れ難く、こちらで踊って欲しいというのだった。 「いいお話でしょう?もちろん、ムッシュウ・アズナブールの口添えもあったかもしれないけれど、でも、それは些細なことよ。いくらなんでもコネがきくような甘い世界ではないの。あなた自身の技術とセンスが認められたのよ」 フランソワーズは突然の話に眩暈がした。 「確かあなたのご実家はパリにあるのでしょう?ちょうどいいじゃないの。御家族のもとから通えるかもしれないし。ともかく、世界のプリマへの第一歩になるのは間違いないわ」 それは確かにそうであったし、いつかは歴史あるホールの舞台で踊ってみたいとも思っていた。 「不思議そうね?でもこれは、そんなに急な話じゃないわ。『ジゼル』から二ヶ月も経っているのよ。そして、あの時のあなたは世界へ出てもじゅうぶんやっていけると思えたわ」 確かに考えなかったわけではない。が、どんなに雑誌やテレビでそう言われても、フランソワーズにとってはあまりに遠い絵空事のようにも思えた。 「ともかく、いいお話なのだからじゅうぶん考えて決めてね?」 通っているバレエ団の先生にそう言われて以来、ずっと考えているのだった。 自分はいったい、どうしたいのか? こればかりはジョーに相談などできるものではなかった。 パリに拠点を置く。 ジョーと離れる。 そんなこと――言えない。 何故なら。 彼がそれをしないのは、ひとえに自分のせいなのだから。 3月8日 フランソワーズがずっと何か考え込んでいるのはわかっていた。 ――僕は本当は意気地無しなんだ。 カッコつけて色々言っても、それは・・・フランソワーズ。きみがそばにいるからできること。 でもね。 やっぱり、きみがいないと頑張る気がおきないよ。――と言ったら、きみは怒るだろうか? いっそのこと、僕が本当にコドモだったら良かったのに。 だけど、僕は大人だから。 それに、何よりきみは・・・きみにとって、その話は、たぶん、きみのためになることなのだから。 僕はきみが大事だから。 僕の大事なものはきみしかいない。 だから。 きみが大事だから、僕は ――きみを手放す。 大丈夫だよ。別に一生の別れってわけじゃない。会おうと思えばいつでも会えるのだから。 だから、行っていいんだよ。フランソワーズ。 こんな枷など断ち切ればいい。 そんなことくらいで、僕はきみを思う気持ちまで断ち切ったりはしない。 大丈夫だから。 フランソワーズ。 3月1日 「早いわねぇ・・・もう3月よ、ジョー」 並んで見つめる眼下は海。 「・・・桜はさすがにまだ早いよね」 別に誰かに聞かれたくない話をしているから、外に出ている訳ではない。話すことといったら天気などのどうでもいいことばかりだったのだから。 わかりすぎている話はしたくない。 「・・・もうすぐお雛様ね。桃の節句って言うんでしょう?」 クリスマスツリーなどはその日を過ぎても年内は飾られているものだ。日本ではそうもいかないけれど。 「お嫁に行くのが遅くなるらしい」 つまらない事を言っちゃったなぁ・・・とジョーはため息をついた。 「・・・一年が経つのって早いのね」 結局、話は堂々巡って元に戻る。 「ついこの間、年が明けたと思ったのに」 本当に話したいのはそんなことではない。 「3月って日本では年度末なんだよ。色んなことの総決算の月」 4月、という言葉にお互いちょっと緊張して。でもお互いにそれを気付かれないように会話を続ける。 「まぁ、僕の場合はどんなヤツと同じクラスになるか、そっちの方が気になった」 でもきっと、ジョーは乱暴者ではなく話しのわかる不良だったのだろう・・・とフランソワーズは想像する。 「・・・まぁ、懐かしくはないけど」 ううんとジョーが伸びをする。 今日も肝心の話はできなかった。
ジョーは少し残念に思いながらも、仕方のないことだと納得していた。何しろ、今季からレギュレーションが変わったせいで、色々な微調整が山積しているのだ。
それらは、開幕戦前に概ね済んではいるのだが、実際に走らせてみないと――レースをしてみないと――わからないことも多いのだった。
だから、仕方ない。
今のジョーにとって、フランソワーズとマシンとの比率は8割以上マシンだった。
ただ。
落ち込んでいる時は別である。
今日は昼間にレースの放送があるとわかっていたから、それは録画予約してある。実際にリアルタイムに結果がわからないのは残念だったけれど、目前に迫った公演も考えなくてはならない。
先日、ドルフィン号を駆ってジョーには会ったばかりなのだし。たくさん、笑ったし、キスもしたし、抱き締めたし、いいわよね――と思っている。
だから、レッスン後の更衣室で携帯電話の着信履歴を見た時は驚いた。
ジョーから立て続けに3件入っていたのだ。メッセージは残されていない。つまり、直接じゃないと話せないということだ。メールはどうか、とチェックしてみるがジョーからはきていない。
いったい何があったのだろう――と首を傾げていると、まさにその彼から電話がきた。
「フランソワーズ。いま時間ある?」
「――うん。実は・・・」
でも気にしない。
ジョーのやや暗い声に、これは結果が思わしくなかったのだとフランソワーズは身構えた。
何を聞かされても動じないように、お腹に力をいれて。
「ええ」
開幕戦からクラッシュするというのは、ジョーにとっては晴天の霹靂だった。
しかも、『カーズ』のシステムは、普段加速装置を使っている彼にとって有利なものとなるはずだった。
多少は、それはズルになるだろう・・・とは思ったが、割り切った。悩んだからといって、サイボーグである自分が生身になるわけではないのだ。
しかし、実際には
甘くみていたのだ、とジョーは思う。
「――うん・・・」
それが、今日の自分の無様なレースに起因していることは明らかであり、つまりは全て自分の責任だった。
「うん。だって僕はさいぼ」
「・・・あるよ」
「ないわ。いい?ケガをしなくっても、衝撃は受けるし、何より精神的にショックでしょう?」
「・・・そうかな」
「そうよ。だから――」
「・・・」
「考えるのは、明日!ね?そうしなさい」
命令口調で言われるそれにジョーはちょっとだけ笑った。
「そうよ、言うこときかないと怒るわよ?」
すっかり忘れていたけれど、ここは更衣室だったのだ。咄嗟に、自分は「サイボーグ」という言葉は口にしてなかったわよね――と確認する。
「今日、レースだったもんね。どうだったの彼」
「色っぽい、って・・・そんな声出してません」
「そうお?甘えたみたいな感じだったけど?」
「甘えてません」
「ほうら。やっぱり相手はハリケーンジョーじゃない!」
「ええ。ぴんぴんしてるわ」
落ち込んでいたけれど。
彼が落ち込んでいることだけがフランソワーズは心配だった。
「カーズ」ってKARSでいいんでしたっけ・・・?
システムがアニメ「サイバーフォーミュラ」のようでびっくり。アニメに近付くF1。
スタッフがいち早く気付いて、彼に何かあったのかと尋ねてもにこにこしながら「うん、ちょっとね」と言うだけで、誰にも明かさない。秘密なのだ。ジョーとしても、差し入れがあったからとか――甘い卵焼きを食べたからとか――カノジョに会ったからとか――は、言えない。そんな単純な事で簡単に機嫌が良くなってしまうなど知られたくはなかった。だから秘密なのだが、中には薄々気付いている者もいた。
それはともかく、ジョーはすこぶる上機嫌だった。
「ああ。もちろん。任せてくれ」
今季からマシンが全面的に変わり、今までのアドバンテージはなくなったと言っても過言ではない。
だから、カーナンバー1のワールドチャンピオンといってもそれは既に過去の話だった。ただマシンに「1」がついているだけ。それだけだった。
昨日のフリー走行はマシンのトラブルで一回しか走れなかった。だから、今日の予選は殆どぶっつけ本番のような状態である。いつもなら不安要素が満載であり、かなりのプレッシャーを感じるところだったが今日のジョーは違っていた。
チームの目標はひとつだった。
だけど、それは事実なんだから仕方がない。
きみがあんまり怒るから、そうじゃないよ、僕はマシンが一番大事だよ――と言ったけれど、それは嘘。
それこそ、レースやマシンなんてどうでもよくなって、・・・全ては無意味な世界に変わる。
だって、きみがいなくて僕がどうやって居ればいいと言うんだい?
きみがいるから、僕は頑張れる。
僕はきみが誇れるような男になりたい。胸を張って他人に紹介できるような――きみの隣に立ってもきみが恥ずかしくないような男になる。
結局、ハリケーン・ジョーのチームは3番グリッドからのスタートとなった。
いずれコースには出て砂利など取り除いたり、イメージトレーニングをしたりする必要はあったから、ジョーが外で過ごすというのもそれほど不自然でもなかったのだ。
空耳だろうか。
聞きなれた声のようでもあり、そうでもないような気もした。つまり、わからない。
首を傾げ、再び歩き始める。
今度はどうも――よく知っている声のように思えた。が、そんなはずはないから、恋しさのあまりとうとう幻聴を聞くようになってしまったかと苦笑した。
もう一度周囲を見回すと――フェンスの向こう側に、よく知っている蒼い瞳の持ち主が見えた。
笑顔で手を振っている。
幻聴の次は幻視かと思うと落ち着かない。自分はこんなに想像力が豊かだったろうか、いや、これはきっと身体の不具合に違いない、帰ったら博士に診てもらわなければ――
ジョーは吸い寄せられるようにふらふらと近付いて行った。
ここに居る訳がない。何しろ彼女は今日本で、公演のためのレッスンに明け暮れているはずで・・・
それから、――彼女の額、彼女の頬、彼女の耳、彼女のくちび
「何ってお前――」
「何が」
「だから。俺が連れて来たんだ、ってさっきフランソワーズが言っただろうが」
「――そうなのか?」
ジェットにそう言われたものの、いま腕の中に居る会いたくて仕方なかった人物を見ると、彼のことなど幾千万キロ彼方へ飛んでいってしまう。どうでもよかった。例え、彼がいなければ会えなかったとしても。有り体に言えば――邪魔だった。
「うん。・・・このためにわざわざ?」
「あ、ううん。違うの」
「嫌だ」
「でも、・・・ん、もう」
フランソワーズは背後に置いてあったバッグを掴んで引き寄せ、そうしてジョーへ差し出した。
「何?」
「見て」
「ええ。ちょっと作りすぎちゃったから」
ジョーに会いたかったから。
「――そう」
ギルモア邸のキッチンは凄い事になっていた――というのは、後にジェットが語ったことである。
当のフランソワーズにとっては「凄い事になっている」という意識など全くなかったのだった。
「えっ?違うわよ?」
「・・・だよな」
「ええ!」
「・・・何って、お弁当よ?」
「そりゃそうだろうけどよ」
「しないわよ」
「だったらその量は何事だ」
「ん?・・・ジョーのお弁当だけど」
「ああ。さっきからオマエ待ちだ」
「え。あら」
「待って。この格好じゃ・・・。それに、髪も直したいし、お化粧も」
「う――いいって。大丈夫だ、って」
「でも」
「大丈夫だ、って。いつもより綺麗だし、そんなに気になるなら行く途中でどうにかすればいいだろ」
「でも」
「――ったく!こんなことでドルフィン号を出すなんて誰かに知れたら――」
が。
ギルモア邸の兄組がそんなことなど先刻お見通しだった事にはどちらも気付いていなかった。
「ああ。行ったようだな」
「はん」
確かに、そんな事は初めての事態ではなかった。それに、今回は彼女にもやるべきこと――バレエのレッスン――があったのだから、気が紛れているうちに忘れてしまうだろうとメンバーは楽観視していた。
が、連日甘い卵焼きばかり出され、甘いハヤシライス、甘いカレーライス等々のローテーションには閉口した。
言ってもフランソワーズは上の空で、ジョーの好きなモノばかり作っている。
だから、これは緊急措置なのだった。
とはいえ、ジェットもフランソワーズも「内緒で」うまくいったと思っている。が、これは巧妙に仕組まれた兄組の作戦なのだった。
サーキットの場所を熟知しているジェットに操縦させるよう話を持って行くのは、彼らにとっては赤子の手をひねるかのように簡単なことだった。
何しろ、周りのスタッフはメールをしたり電話をしたり、家族や恋人との時間を満喫しているのだから。
携帯電話を忘れてきたのは失敗だった。
圏外だ――なんて、いったいどこの誰から聞いた話だっただろう?
国内ならともかく、海外ではそんなもの関係ないのに。衛星経由の通信なのだから――と、気付いたのはこちらに入ってからすぐだった。
フランソワーズには、何かあったら電話して、と言ったものの、ジョーとしては「勤務先」の電話を私用で使うのは躊躇われた。しかも、電話が置いてあるのは事務所の中なのだ。そこで愛を囁くわけにもゆかない。
ミッションで別働隊にいる時などは、連絡がとれなくなることなど日常茶飯事なのだから。
彼女と思いが通じ合う前は、日本とフランスに離れており連絡などもしなかった。全然、平気だった。
だから、今回も大丈夫だと思った。
仕方がないので、寂しさを紛らわすために――フランソワーズとの一日を思いだし、頭のなかで記憶を再生し反芻してみることにしたら、意外とうまくいった。
フランソワーズの笑顔、フランソワーズの声、フランソワーズの体温。ちゃんと憶えている。
が、しかし。
それも段々と危うくなってきた。
彼女を忘れてはいないけれど――寂しいのだ。
実際に声を聞きたい。抱き締めたい。
虚しく宙を掻き抱き、気付くと自分の体を抱き締めている。
今まで食欲がなくなるくらい切なく悲しくなったことはない。何しろ、「フランソワーズのごはんが食べたい」とメールや電話で言えば
だからその言葉通り、フランソワーズのごはんを楽しみにして頑張るのが常だった。
仕事中は平気だった。マシンのことやセッティングのこと、ミーティング、テスト走行――考えることはたくさんあった。
だから、問題は休憩時間や夕食後の自由時間だった。
自分だけ、外部と連絡が取れないのだ。それは不自由極まりなく、ストレスが溜まることこの上なかった。
しかも、ここには公衆電話は置いていない。日本と比べて公衆電話の設置は格段に少ないのだ。
あと数日で開幕戦だ。それが終われば――
最近では、いっそ加速装置を使って一瞬帰ってしまおうかなどと不穏な事まで考え始めている。
実際に実行したら、フランソワーズに叱られるのはわかっているけれど。
焦っているかと思いきや、ジョーは至って冷静だった。
「見て、って・・・」
ジョーの声が聞きたいから――などと言って電話するなどできるわけがない。
F1が開幕してしまえば、彼の恋人の座はあっけなくマシンに奪われてしまうのだから。
それが寂しいと思いつつ、それでいいとも思う。彼の中心にあるのはマシンであり、自分であってはならないのだ。
いくらレッスンが続くとはいっても、それとこれとは別なのだ。
役になりきるのと、日常生活とを切り離す術はとうに得ている。だから、どんなにバレエを愛していても――そればかりにはならない。ジョーを思っていても彼ばかりの世界にはならないように。
だから、レッスンが終わって部屋に帰ればきっと、ジョーのことを思うのだろう。今どうしているのかと。
そして、バレエの公演も。
フランソワーズも忙しい日々を過ごしており、殆どレッスン室に缶詰状態である。
その時は二人とも楽観視していた。
離れていても、今は文明の利器である携帯電話があるのだから、と。
会うのが無理でも声を聞くことができる。毎日電話すればいいだけのことだ――と。
もしも、時間が合わなくてそれも無理ならメールがあるさ、とも。
探してみると、ベッドの脇に無造作に放置されていた携帯電話。
ジョーのものだった。
しかも、いままさにそれを携帯していないことを教えようにも連絡手段がないのだ。
彼が自分で気付くまで待つしかない。
関係各所への連絡やら何やらはどうするつもりなのだろう?
結局、不便になることは間違いないのだ。
****
開幕は次の週末なんですね。すっかり忘れてました(汗)
「文字通り、行かないのよ」
「なっ」
「・・・ええ。考えたわ」
「だったらどうして」
「――そうね。私がまたここに残ったら、ジョーはどこにも行けないものね?」
「なに言って――それは僕が」
「ふら」
「でもね。でも・・・ジョーは行ってもいいのよ?私がここに残る意味は、ジョーがいるからじゃないもの」
きっと、フランソワーズは気付いてしまうということを。
でも、それは本当のきみの意志ではない。
バレエを続けるにしても、パリは必要十分条件を満たしている。家族もいる。そして、日本から離れ、仲間とも離れれば――距離と時間が忘れさせる。自分がサイボーグであるということを。
だから本当は、僕はきみが望むように――きみのために、きみを解放してあげなくてはいけなかった。
もっと前に。
だけど。
実は簡単なことだったんだ。
僕がきみを手放せばいい。
きみと一緒に居たいなどと思わずに。そんな利己的な思いだけできみを縛った僕をきみは憎むだろうか?
僕がいてもいなくても、きみがここに残るのはきみの自由なのだ。
「フランソワーズ、ちょっと待って」
「ううん、だめ、言わせて。――ごめんなさい。今まで気付いていたのに、・・・わざと言わなかった」
でも、いざ言ってしまうと不思議なくらい気持ちが落ち着いた。
彼を早く解放してあげなくてはいけない。
ちょっと伸ばしにしてきたけれど、それももう――終わり。
生きていきたい場所で。生きてゆく仲間と一緒に。
そうして、きっといつかは・・・
この声は、私の気持ちがちゃんと彼に伝わって――うん。わかったよフランソワーズ――と言っている、声。
「・・・そう」
「それに――ここにいれば、時々は・・・ジョーにも会えるでしょう?」
「えっ?」
「ジョーだって、年に数回はここに帰ってくるのよね・・・?だから、少なくとも年に何回かは顔を見られるわ。でもね、パリに行ったらそう簡単には会えなくなっちゃうかもしれないもの。そんなのイヤなの」
「いや、だけどフランソワーズ。僕は――」
「違うの。間違えないで、ジョー。私は――自分がそうしたいから、ここに居るの。それはずっと前にここに残ると決めた時からずっとそう。ただ、以前は怖くて言えなかった。だから、あなたがここに残らざるを得ないように――」
「・・・罠?」
「そう。――きみがいなくなったら、僕が日本にいる意味がない・・・と。本当は他の国へ行きたいのにフランソワーズが残ると言ったから行けなくなった。と。・・・でもそれは全部、嘘なんだ。きみは僕に無理矢理そう思いこまされてきただけで」
自分のこずるい言葉の罠を。
全てを。
「え?」
「どうしてそんな罠を仕掛けたの?・・・それが罠だったとして、だけど」
「それは――」
もしも、あの時きみがパリへ行っていたら、きっとすぐに僕は忘れられていただろう。
そんなことは――想像もしたくなかったのだ。
「・・・うん」
「だって」
「フランソワーズ、でもっ・・・」
「ううん。聞いて、ジョー。・・・バレエなんて、どこでだってできるわ。もちろん、限界はあるとは思う。だけど、だからって大事なものを捨てることなんてできない」
「・・・大事なもの?」
「ええ。だって、大事だもの。ジョーを思う自分の気持ちが」
そう決めたのよ」
「ジョーのために残るんじゃないの。自分のために残るのよ。だから、ジョーは私のことなんか気にしなくていいの。どこでも自分の思う所で――頑張ってきて」
「なあに?」
「・・・どうして僕にどこかへ行けって言うんだい?」
「えっ・・・だって、ジョーはそうしたいとずっと思っていたんでしょう・・・?」
「まさか。一度だってないよ」
「嘘」
「ホント」
「だって、レーサーなのよ?」
「うん。レーサーだね」
「だったら、イタリアとかモナコとかっ・・・」
「うん。興味ないね」
「だって、そのほうがレースをするのに環境が」
「僕にとっていちばん環境がいいのって何だか知ってる?」
いくらなんでも長すぎる。いい加減にどうするのか答えなくてはならなかった。
ずっと憧れだったパリのホールでいずれ踊ることもできるだろう。自分の頑張り次第では。
そして、自分の生活は兄とバレエのことでいっぱいになり――いつの日か、サイボーグであることも忘れるだろう。
ただの、仲間。
有事がなければ、ただの――知り合い。運命を共にすることだって、ない。
意味があるとすれば、それに対する責任だけだ。
彼を自分と日本に縛り付けた言葉。
だったら、それを解除するためには――ひとこと、私は行くわ。と、言えばいいのではないのだろうか?
自由になって――本来、いるはずだった場所で、あるべきだった未来へ旅立ってゆける。
車のことが一番で。彼の一番大事なものはそれなのだから。
それを考えなければならない。
自分がどうしたいのか。
どうなりたいのか。
きちんと、自分で決めなければならない。
思考を補助してもらわなければ何もできないというわけでもない。
何も考えたくないときは、こうして過ごす。だから最近は、ここにばかり居る。
自分がとやかく言うことではないし、そんな権利もない。
彼女はそれに嵌り、そうして――自分という枷を背負い、放たれた言葉の鎖に縛られた。
だから、気付いてくれ。
きみはあの時、なぜ日本に残ってしまったのか――巧みな僕の言葉の罠に嵌っていたことに瞬時に気付くだろう。
そうして、僕と共に過ごした日々が真っ赤な偽りに過ぎなかったということにも。
いま、きみが何をどう考えようと僕には口を出す権利などない。
はっきりときみに、一緒にいたいからここに居て欲しいとすら言えなかった。
まっすぐ言ってはねつけられるのが怖かった。
僕は、そうしてきみが出した結論なら――その未来に僕がいなくても、受け容れるから。
そういう日々を過ごしていくうちに、きっと僕のこともサイボーグだということも忘れてゆく。
新しい環境に慣れれば、こんな過去などすぐに消える。
カッコつけていても、結局は彼女の出す答えが気になって気になって仕方ないのだ。
きみを思い出すからと。
でも、そんな自分のせいで彼女が自分自身の夢を諦めるのを見るほうが、もっともっと辛かった。
そうして、彼女の「ほんとうの答え」を封印した。
話の流れで言えば、おそらく彼女はパリに帰るとそう言っただろう。そうなるように僕が仕向けた。きみには家族がいるのだからと御丁寧に念押しして。
それでも僕は待っていたのだ。きみの口から「日本に残る」という言葉が出るのを。
いったい、僕はきみにどうして欲しかったんだ?
――ジョーと遠距離でも全然平気だから、パリに行くわ。
――離れ離れになっても、今までと同じよ。私がパリに帰ってどこか変なところでもあるのかしら?
――あなたと一緒にいたいから、ここにいる。
――離れたくないから、私は日本に残るの。
だけど結局、どちらの結論も聞く勇気がなかったから姑息な手段に出た。
即ち、
「僕は向こうには行かない」というのは「F1レーサーである自分がイタリアもモナコも選ばず日本に残ると言ってるんだ。その意味、わかってるよね?」――ということになる。
だから、
「この僕が行かないんだから、きみがパリへ行くのだって許さない」
つまり、
「当然きみは僕と日本に残るよね」――ということになる。
ちょっとした思考の操作。
そんなものは、僕にとって造作もないことだった。今まで生きてきて微小な賞罰で済んでいるのは全てこれがあったからだ。女性に対して受けの良い見た目と、何故か好まれるこの声。自分では死ぬほど嫌いなものばかりだけど、生きてゆくためには役に立った。流言飛語を相手は簡単に信じ、最終的に僕は自分の望むものを手に入れた。
誰よりも大切で、彼女に対しては嘘を吐くなんてできないし、やろうとも思わない。
なのに、思考を誘導した。
そして事実、なんでもやった。手段を選ばなかった。
もし言えば、僕に対する罪悪感に苛まれるように。
僕があっさり日本を出たら、きみは何のためにここにいるのかわからなくなってしまうだろう?だから僕は、不本意ながら――日本にいるんだ。きみのせいで。だから、きみはどこにも行ってはいけないよ。僕を日本に縛り付けている張本人であるきみは、どこにも行ってはいけないんだ。・・・そうだろう?フランソワーズ・・・
なにしろ、集まるときに全ての縁故を切ってきた者も中にはいるのだ。故国へ戻ったからといって何ができるというものでもない。だったらむしろ、日本に居た方が――そう考えるのは至極最もなことだった。
だから、誰が帰って誰が残るのか――の、意思確認が必要だった。
いくらギルモア邸は全員が居住するのに全く問題がないといっても、それなりに準備は必要なのだ。
「パリに帰るのかい?」
「・・・・」
優しい声で言う恋人を見つめ、フランソワーズはただ無言だった。
そう願ってしまうのは、ただの・・・
潮風が髪を乱して通り抜けてゆく。
春なのに、指先まで冷たかった。
故意に目を逸らすジョー。
フランソワーズの目を見ない。
「――うん?」
「――まあね」
「日本には・・・いないんでしょう?」
「・・・わからない」
「わからない?」
「まだ決めてないんだ」
「・・・そう」
もし残れと言ったら、自分自身も日本にいなくてはならないから。
だから言わない。
つまり、――おそらく彼は、日本には残らないつもりなのだろう。
彼がいないなら、ここに留まる理由はなかった。
「――うん。たぶん、行かないな」
何故行かないのか。
何故、日本に残るつもりなのか。
祖国だから――という理由は単純過ぎた。ジョーにとって、日本という国には辛い思い出しか残っていないはずなのだから。
ジョーに声が届いたのかどうかわからない。
彼はさっきと変わらず、海の向こうを眺めたままだった。
一緒に居たいから――
フランソワーズの言葉によって、他の選択肢が全て消えてしまった。
あなたと一緒に居たいから日本に居る。
そう言われてしまったら、どこにも行けるわけがない。
もしも彼が国外へ行ってしまったら、フランソワーズが日本に残る意味は全くなくなってしまうのだ。
フランソワーズの発した言葉の鎖があるがために、身動きがとれずに。
そんな自分勝手なことを言えるわけがないのだ。
ジョーはそんな様子のフランソワーズを見つめ、優しく微笑んだ。
「ええ。聞こえたわ。・・・でも」
「こちらのことは気にしなくてもいい。何とかなるさ」
「あの」
「まだ返事はしていないんだろう?」
「・・・そうだけど、でも」
「きっと、きみは素敵なプリマになるよ。もちろん、今だってそうさ。だけど、世界を見るのはいいことだ」
「待って」
「きみにはその技術とセンスがある。――そう認められたんだ。もっと自信を持たなくちゃ」
「そうじゃなくて、」
「あの『ジゼル』は本当に良かったもんなぁ。うん。バレエのことをよく知らない僕でもそう思うんだから、関係者だったら絶対だよ」
フランソワーズは頬を上気させ、半ば怒ったようにジョーを睨みつけた。
「いや、だって」
「まるで私が行くのが当然みたいにひとりであれこれ決めちゃって」
「いや、でも」
「何よ、私がいなくても平気だ、ってそんなに言いたいの?」
「ちが」
「だったら生憎だったわね。私は行きませんから!」
「――え!?」
とはいえ、これはあまりにも突然の話だった。
何しろ、自分自身がどうしたいのか――なんて、自分で考えて答えを出すしかないのだから。
ということは、つまり、日本を去ることに他ならない。
ということは、更には――ジョーと離れることを意味している。
F1レーサーである彼こそが、海外を拠点に活動して然るべきなのだから。
本来ならば、ヨーロッパ――イタリアやモナコ――に、居るべきひとなのである。
そしてそれが何であるのかも・・・たぶん、僕はわかっている。
本当なら、僕から切り出してやるのが最も良い方法なのかもしれない。
だけど。
もちろん、きみがいないと何も出来ないなんてコドモのようなことは言わないよ。
だって僕はちゃんとした大人なんだからね。
そんな情けないことは言えない。
そうしたら、行かないでってすがりついて泣いたって許される。
分別のある大人はそんな事はしないんだ。――してはいけないんだ。
僕の一存でどうこうできる問題ではない。
そう言ったらきみはまた怒るだろうけれど、でも、ごめん。これだけは譲れない。
僕はきっと、きみの背を押すだろう。
今はまだできないけれど、でも――必ずそうするから。
不本意ながら日本に留まってしまったきみを解放するのが僕の役目。
たかが地球の上のことじゃないか。
他の星や他の銀河系へ行ってしまうわけじゃない。うんと近いよ。
僕のことなど気にしないで。
「うん。そうだね」
今日は曇り空で肌寒いのだけれど、二人並んでバルコニーに居た。手すりにもたれて海を見る。
「今は梅じゃないかしら」
「もう散ってない?」
「そんなに早くはないでしょう」
そして、そのどうでもいいことも尽きると沈黙が支配する。
そんな事の繰り返しだった。
「うん。お雛様が終わったらすぐ仕舞わないといけないんだよ」
「あら、どうして?」
「ふうん・・・そうなの」
「迷信だけどね」
まったく、どうしてそんな話をしてしまったんだろう?自分たちにはソウイウコトは関係ないのに。
「うん。・・・早いね」
でも、話したくない。少なくとも、今はまだ。
「・・・入学式が4月なんでしょう?」
「クラス替えもね。毎年、4月って何だか不安だったなぁ」
「お友達とばらばらになるかもしれないから?」
「・・・それもあるけど」
「どうして?」
「・・・縄張り争いとかさ」
「ま。不良ね?」
実際に不良と呼ばれる人種と付き合った事はないから、よくわからなかったけれども。
それが合図だったかのように、お互いに寒いねと言いあって中に入った。