「迷子の子猫」
〜「ジゼル」パリ公演〜
――スプリングツアー? ジゼル? そんなの――聞いてないぞ。
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マレーシアグランプリのサーキットでフリー走行を終えて明日の予選を待つのみとなったジョーは、夕食後ホテルの一室でパソコンを前に凝固していた。 フランソワーズの所属するバレエ団では、毎年春に公演をする。それは一箇所だけではなく複数箇所であり、更に一箇所の公演は3日から5日間行われるのだった。 去年は広島まで行ったんだよなぁ・・・花束を持って。 ふと思い出して小さく笑う。 あの頃は彼女の公演は観られなかった。とても心穏やかではいられなかった。 ――ジゼルか。 うっかりジャン兄に知らせるのを忘れていたため、散々愚痴られたのだ。 それが――スプリングツアー。ジゼル。 パソコンの画面に映し出されたチラシ――おそらくポスターだろう――は、スプリングツアーでジゼルを上演することを知らせていた。 ――パリ公演? それも、聞いていなかった。 3月に彼女があれこれ悩んでいたのも、これが決まっていたからかもしれなかった。 ・・・馬鹿だなぁ。 そんなに心配しなくても大丈夫なのに。 携帯電話を手にとり、彼女の番号を呼び出す。が、コール10回でも出なかった。少しがっかりして携帯のフラップを閉じる。伝言は苦手だから残さない。 小さくため息をついて、再び目の前のパソコン画面へ目を遣る。 ――フランソワーズ。 画面のなかの彼女は、やっぱり――別人のようだった。美しく、ジゼルそのもので。ジョーのよく知っている彼女ではない。
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雷雨のためレースが中断したまま終わった――というのを知ったのは、レースが終わってずいぶん経ってからだった。 フランソワーズは携帯電話を見つめ、ため息をついた。
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『――どうした?どうしたんだ、ハリケーン・ジョー!!全く精彩を欠いたこの走り!!』
試合の記録画像を見直し、ジョーはため息をついた。 ・・・全く、派手に言ってくれる。 マシンは順調な仕上がりを見せていた。ただ、カーズを搭載するのかどうかでほんの少しだけ揉めた。 ――なぜだ。 走るのが好きだから、誰よりも速くなりたかった。そして昨年はチャンピオンになった。 そんなことは――ない。 と思うものの、わからなかった。 次のレースは二週間後。場所は中国。 しかし、今、ジョーの頭の中には恋人のことなど浮かんでこなかった。
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「――そういえば、ジョーはどうしてる?」 夜遅くに帰って来た妹に、兄ジャンは何気ない風に問いかけた。 「ジョー?」 スプリングコートを脱いで掛けながら、フランソワーズは小首をかしげてきょとんと兄を見た。 「どうって、何が?」 新聞を読んでいるふりをして妹の帰宅を待ち構えていたジャンは、それを握り締めたままソファから立ち上がった。 「だから。その――、今度の公演はヤツも来るんだろう?チケットとか、大丈夫なのか?」 フランソワーズはちら、と一瞬ジャンを見つめたが結局何も言わず自室へ向かった。 「え、あ、おい、フランソワーズ」 振り向きもせずそう言って部屋へ消えた妹に、残された兄はただ混乱していた。 ――なんなんだ。ジョーが見に来ない、ってどういうことだ。 ジャンとしては、いつジョーがここに来るのか秘かに楽しみにしていたのだが、すっかりそのあてが外れた。 それに――なんだ、あの態度は。恋人の話なんだぞ。もうちょとこう・・・嬉しそうな顔をするとか何とか、あるだろう? 思えば、フランソワーズはパリに来てからずっと――ジョーの事は話していなかった。 ・・・ケンカでもしたのだろうか。 しかし、それならすぐわかるし、ケンカならば逆にうるさいくらい喋るのが常だった。 いったい・・・何が起こってるんだ?
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きっと、こうやって忘れていくんだわ。 フランソワーズは自分の部屋でベッドに腰掛け、じっと携帯電話を見つめていた。 しかし。 ――タイミングを逸してしまった。 今回のツアーで「ジゼル」をやることも、パリ公演があるということも、そして今、自分はパリにいるという事も。 ジョーが新しいマシンにナーバスになっているから。 ・・・と、言い訳をするなら、その項目は幾つも挙げることができる。が、「今になっても」連絡していないことの理由にはならない。 せめて、ジョーから何か連絡がきていれば。 違ったのかもしれない。 しかし。 今回は妙に――連絡し辛いのだ。 フランソワーズはジョーと連絡がとれないことよりも、それが平気な自分がショックだった。 ・・・ジョーもそうなのかしら。 だから、彼からも全く連絡がこないのだろうか。 しかし。 今までだったら、そう思った途端に寂しくて辛くていられなくなったはずなのに、今は――全然、平気なのだった。 ――案外、私たちって・・・ 一緒にいなくてもいいのかもしれない。
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意外と平気なものなのかもしれない。 今まで、こんなに離れた事はなかったからわからなかっただけで、実は二人とも遠距離恋愛に向いていたのかもしれない。 と、言うより。 いなくても大丈夫――なのかもしれない。
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中国グランプリまでまだだいぶ日があるため、ジョーは一旦日本に帰ってきていた。 「ただい・・・」 真っ暗な部屋。 無造作に荷物を置くと、リビングのブラインドを全て上げた。 改めてベランダに出てみる。 ジョーは手すりにもたれ、煙草に火を点けた。 思うのは、今季のレースの事だった。
煙草を喫い終わるとジョーは室内へ戻った。 しばらく彼女を見つめたが、特に何の感慨も抱かず、メールチェックを開始した。
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一時間後。 パソコンを閉じ、ランドリールームを覗いて――洗濯が済んで乾燥に切り替わっている事を確認し、バスルームへ向かった。手早くシャワーを浴びて出てくると、タオルを腰に巻いただけの格好でベッドルームへ向かい――そのままドアを開けてベッドにダイブした。 「・・・?」 手を伸ばし、指先でつまむと目の前に持ってくる。が、暗くてよく見えなかったので――強化されているとはいえ、真っ暗闇で小さな文字を読むというのは、「眼」の微調節が必要であり、疲れている今それをやるのはきつかったのだ――軽く舌打ちすると半身を起こし、サイドライトを点灯した。 それは小さなメモ紙だった。 ジョーはそれに目を通した。 たった数行の短いメモだったけれど、ジョーは何度も繰り返し読んだ。 何度も何度も。 そして、読んでいるうちに何故か――視界が滲んできた。 急に深い寂寥感に襲われた。 寒い。 そういえば、何も着ていなかったと思い出し、パジャマを引っ張り出して身につけた。が、それでも寒さは消えなかった。 ひとりの時は平気だった。 ジョーは唇を噛み締めると、手の中のメモ紙を大事に胸ポケットにおさめ、ベッドルームを出た。 フラップを開け、そのまますぐに電話をかける。 今何時だとか、相手はいまどうしているのかなど、そんなのはどうでもよかった。今のジョーは、こうすることでしか救われないのだから。 耳に響くコールを数えながら、ジョーの身体はすっかり冷え切っていた。胸ポケットの部分だけを除いて。
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パリのアパルトマンに響く、携帯電話の着信メロディー。 「ファンション、電話っ」 怒鳴ってみたものの返事はなく、そういえばバスルームに行ったっけと思い出す。 「――出ちまうぞ」 ひょい、と電話をつまみ上げ――誰からの電話なのか確認して顔をしかめた。 「・・・ったく」 そのまま電話には出ず、特徴的な音楽を流し続けるそれのストラップを指にひっかけ軽く振り回しながらバスルームに向かった。 「ファンション、・・・」 しかし、バスルームからは水音が響くだけである。 「おーい、フランソワーズっ」 ――あいつ。自分の愛称をすっかり忘れてやがる。 小さい頃は、「ファンション」と呼ぶと可愛く笑ったものだった。が、その笑顔が失われてから長い。 「――電話だぞ」 しつこく音楽が流れる携帯電話をドアのそばに置くと、踵を返してリビングに戻って行った。
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バスルームのドアのそばで、携帯電話は鳴り続ける。 フランソワーズは手早く身体を拭くとタオルを巻きつけドアに手をかけた。 「・・・あ」 この音楽は。
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ジョーはコールを数え続けている。絶対に切らない。 そんなことはどうでもいい。 自分は今、この相手と話さなければきっと――
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「・・・迷子の迷子の」 子猫ちゃん。 フランソワーズは着信メロディーに合わせて口ずさみながら電話を手に取った。
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日本でジョーが自宅マンションに帰り着いたその頃。パリのフランソワーズはレッスンを終えてアパルトマンに帰る途中だった。 昔の仲間や友人も観に来るだろう。そして――何故、急に姿を消したのかと問い質すだろう。 ずっと夢だった「ジゼル」。 今まで自分に自信が持てなくて、配役を決める時もどこか萎縮したり、おどおどした態度になってしまっていた。普段の練習と比べると最悪だ。そんなだったから、重要な役を割り振られることは稀だった。 セーヌ川のほとりを歩きながら思う。 自分に自信をくれたのは、ずいぶん前に、ここを一緒に歩いたひとだった。 その彼はいま、ここにはいない。 遠いアジアの地で自分自身の夢のために頑張っている。 ――だから、私も頑張らなくちゃ。・・・・。 気合をいれるつもりで胸の裡で言ったものの、足はいつしか止まっていた。 あの日、パリにはもう帰らないと決めた場所。 ジョーとふたりでパリに来て、そして――彼と待ち合わせた場所だった。 けれども、ジョーはここにはいない。
――連絡しなくても平気だなんて、嘘だ。
そんなの、忘れたふりをしていただけで、 思い出すと会えないのが辛いから。だから。
セーヌ川の水面が光るのは、街灯を反射しているせいではなかった。
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キッチンでコーヒーを淹れながら、手の中で携帯電話を弄ぶ。 ――電話してみようか。 でも。 ジョーとはずいぶん話していない。もちろんメールも送っていない。思えば随分薄情な恋人であった。 何しろ、彼にはパリ公演があることも、パリに来ていることも言っていないのだ。 ジョーはいまどこにいるのだろう。 電話しようと思っても、いざ掛ける段になると中々先へ進めない。 ため息をついて電話を置くと、そのままバスルームへ向かった。兄に一言声をかけて。
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シャワーを浴びて頭をすっきりさせようという思惑は失敗した。 でも、いまここに彼はいない。
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電話と言われ、手に取ったそれは「犬のおまわりさん」を奏でていた。 ――迷子の子猫ちゃん。 それは・・・
「もしもし、ジョー?」
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「・・・ふ、」 フランソワーズ―― そう言うつもりが、胸が詰まって声にならない。 「もしもし、ジョー?」 繰り返し名を呼ばれる。が、情けなくも声が出ない。 「・・・ジョー?」 心配そうな声が響く。 「・・・ふ、ふら」 咳払いをひとつして声を整える。 「――フランソワーズ・・・」 そういえば、ここしばらく――声に出して名前を呼んでいなかった。 「ジョー?大丈夫?どうしたの?何があったの」 矢継ぎ早に質問されるが、どれもうまく聞き取れない。 「別に・・・どうもしない」 答える声は、やっぱりか細くて。フランソワーズでなければ何度も聞き返すところだったろう。 「――いま、どこにいるの?」 そうなんだけど。 「その、――メモがあった」
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懐かしい。 まず、そう思った。 「・・・ジョー?」 耳をすませるけれど、聞こえてくるのはジョーの息遣いだけでまともな会話になりそうになかった。 「・・・たいしたこと書いてないのに」 メモを読んだから電話してきた――とは思えない。そんなことは書いていないからだ。ただ、それを読んだから思い出したとは言えるかもしれない。 一瞬、寂しさがよぎったが、むしろ、そういう状況であって欲しいと願っていたのは自分に他ならなかったから、フランソワーズは軽く頭を振ってその考えを振り払った。 「でも――思い出したんだ?」 気にしてないわ――と言いかけて、不意に胸が詰まった。 「・・・フランソワーズ?」 急に黙り込んだのを心配したのか、ジョーの声が少し大きくなった。 「いま、パリにいるんだろう?」 どうして知っているの。 「また『ジゼル』をやるんだね。今度はジャン兄も観られるね」 どうして――ジョーは色々知ってるの?
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こちらが少し落ち着いたぶん、今度は電話の向こうのほうが怪しくなっていた。 フランソワーズが落ち着くのを待ちながら、ジョーは手のなかのメモ紙を見つめる。 本当に――救われた。 他愛もないひとこと。 レースのことやマシンのことだけを考えているのは楽しかった。 そんな中、フランソワーズの書いたメモを見つけた。 ただ、――このままではいけないと――こんな状態は不自然なのだと――気がついた。
『携帯電話を忘れないように!』
以前、携帯電話を忘れて行って、凄く辛かったことを思い出した。 ――会いたいな。 けれどもそれはやはり、無理な話だった。
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無理な話ではあるけれど、言ってみるのは自由だ。 言ったら最後、歯止めがきかなくなるだろうとジョーは頭の隅でちらりと思ったが、思った時にはもう言っていた。 「会いたいよ。フランソワーズ」 そうして、言っている途中で感極まって、鼻にかかった涙声になってしまった。 「私も。――会いたいの。ジョー」 一方のフランソワーズも、ジョーの思惑とは全く無関係に言ってしまっていた。素直な気持ちを口にしたら、少しは落ち着くだろうかと思いながら。
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携帯電話を忘れるな――というフランソワーズのメモ。それは以前、ジョーが忘れていったためにフランソワーズと音信不通になり辛い思いをしたことに起因する。だから、今度は絶対に忘れるなとそのための注意書きだった。 「――フランソワーズ」 きみがいないと僕は――
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会えなくても平気。 ジョーの声を聞いて、ほっとして、嬉しくて、――胸が詰まった。 「ジョー、私」 パリにいるのを内緒にしていたのではなくて、ただ予定を伝えるタイミングがなかっただけなの。 結構派手にくしゃみをしてしまった。 そういえば、シャワーを浴びてタオルを巻きつけただけの格好だった。 「フランソワーズ?」 大丈夫かいというジョーの声を遠くに聞きながら、もう一回盛大なくしゃみ。 「――ごめんなさい。実はいま」 「あの、その」 何て言おう? 逡巡している間に手から電話を抜き取られ、それと同時に肩にガウンがかけられた。 「もしもし、ジョーか?俺だ」
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――全く、無茶な事を言ってくれる。 ジャンとの通話を終えた後、ジョーの唇には笑みが浮かんでいた。 結局、フランソワーズとはまともな会話をしていない。 先刻まで感じていた孤独感は既に無く、身体を襲っていた冷えも感じられない。 そして――ジャンの台詞である。 『お前はフランソワーズを泣かせたんだから、当然罰を受けるべきだろう?だったら・・・』 確かに、自分はフランソワーズを泣かせてしまった。だから、彼女の兄であるジャンが、妹を泣かせた相手に対し強い態度に出るのは当たり前の事であり・・・ 本来なら、ジョーはジャンの申し出にもっと困ってもいいはずだった。 ――本当に・・・ジャンも無茶な事を言う。だけど・・・やってやる。 ジョーの唇に浮かんだ笑みは苦笑に近いものだったが、それは徐々に不敵な笑みへと変わっていった。
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兄にジョーを横取りされたフランソワーズは、すこぶる不機嫌だった。 兄とジョーとの遣り取りを聞こうと思えば聞けたが、そうはしなかった。 けれども、やっぱりもう少しジョーと話したかったなと未練がましく携帯電話を見つめる。 パリ公演は今週の金曜日から三日間だった。
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「凄かったなぁ。ファンション、お前、大人になったなぁ」 公演2日目が終わった。 「大人になった、って・・・だって私、大人だもん」 ジャンはひとしきり笑ってから、改めてフランソワーズを見つめた。 「・・・去年の12月の公演もこういう感じだったのか?」 観に行けなかったジャンとしては、いまその代わりに観れているとしてもやはりその出来が気になるのだった。 「うーん・・・どうなのかしら。両方、観てくれたひとがそばにいればわかると思うんだけど」 日本とパリとでは客層は全然違う。両方の公演を観ているひとなんて皆無のはずだった。 「そうか。でも――うん。俺はお前を自慢に思うよ」 静かに言う兄に、フランソワーズは胸が熱くなった。ふっと浮かんだ涙を隠すように、兄の腕に寄り添う。 「ジョーのヤツも観たいだろうなぁ」 確か今日は予選のはずだった。 「でもさ」 言い募る兄に、フランソワーズはにっこり笑んだ。 「ジョーは12月に観てるから、いいの。それに今はレースに集中しているから、私もバレエに集中して一緒に頑張るの」 どこか諦観しているような笑みではなく、本当に心から「一緒に頑張る」と言っている笑顔のフランソワーズにジャンはほっとした。 「レースは観なくていいのか」 きょとんと問い返すフランソワーズにちょっと黙って。 「・・・ヤツはあまり調子が良くないだろう。お前だって心配じゃないのか」 ――本当に強がって言っているのではないのだろうか。 兄は妹が実は上手に虚勢を張っているだけではないかと疑う。が、まっすぐ前を見ている妹の横顔は強がっているわけでもなく兄に演技をしているわけでもなさそうだった。そういう顔をしていればすぐにわかる。何しろ、感情を露わにしていた幼い頃から彼女のことを見ているのだから。
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兄の視線を感じたが、フランソワーズはただまっすぐ前を見据えていた。 だって私はどちらも選ぶんだから。 どちらも大事だから、どちらも諦めない。 そう決めていた。
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予選を終えた後、ひとり自室でジョーは心を決めていた。 どう頑張っても、間に合うようには着けるわけがない。優勝したら尚更だ。 ――翌日の早朝か。 レース期間中、自分の時間を取れることなど殆どない。しかも次のレースは一週間後なのだ。 どちらか一方だけ――とは考えない。 俺は両方取る。
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ジョーはその寒さに、思ったより薄着で来てしまったと頭の隅で後悔した。が、状況を考えれば、それも仕方のない事だったろう。何しろ今、ここにこうしているのもよく間に合ったものだと我ながら感心するのだから。
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フランソワーズは眠れないまま朝を迎えていた。 ――だって。ジョーがどんなに頑張ったのかわかるもの。 画面越しではあったけれど、彼の顔を見ればわかる。自分を信じて戦う男の顔。そして、おそらく――フランソワーズも頑張っているであろうと信じてくれている。 夜が明けて、薄く霧のかかっているパリの街は4月にしては肌寒かった。早朝だからというのもあるだろう。 ――いつ、日本に帰ろうか。 思わず微笑んでいた。日本に「帰る」と自然に出てきた言葉。それは意外でもなんでもなく、本当に無意識に出た言葉だった。 フランソワーズは笑みを消し、深く息をついた。 ジョーは今、日本にはいない。 ――もう少し、パリに居ようかな。 ジョーがいない日本に急いで帰る必要はなかった。レッスンもしばらく休みだから、もう少しここにいても何の問題もない。 ――誰かいる。 窓の下から、じっとこちらを見つめている。
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しばらく会っていなかったけど、でもやっぱり可愛いなぁ・・・とジョーはしみじみ思っていた。 ――何を考えているんだろう。 きりりとした真剣な瞳。あの瞳は今、何を見ているのだろうか。 ――フランソワーズ?
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「あら・・・一体、どうしたの?」 フランソワーズの声に、ジョーは一歩踏み出した。
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大事な妹を泣かせた罰だ。お前なら、できるよな――? 挑発とも思えるジャンの言葉に苦笑しつつも頷いたのは、ジョーだった。 朝5時のパリ着だったから、当然花屋など開いているわけもなくジョーは手ぶらだった。
*** ***
フランソワーズは眼下の人物に眼を留め、一瞬、心がざわついたもののすぐに気持ちを落ち着けた。 「あら・・・一体、どうしたの?」 と。
***
目の前の亜麻色の髪の持ち主を見つめ、ジョーは踏み出した足を止めた。 波打つ金色の髪は背中から腰まで流れ、それをひとつに束ねている長身の男。 上階と地上とで見つめ合うふたりの姿を見つめ、ジョーはただ立ち尽くしていた。 ジョーはすっかり出て行くタイミングを失っていた。
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「ちょっと通りかかったものだから」 金髪の男が柔らかな声で答える。優しい声音のフランス語であった。 フランソワーズはその言葉に一瞬、声を詰まらせた。が、ジョーの見るところ、それは迷惑そうな様子ではなかったし、怒っているようでもなく、ただ思いがけない事態に感激しているようなそんな様子だった。 ――僕は見たことがない。こんな表情をする彼女は。 「そう――嬉しいわ。待って、いま下に行くから」 見つめ合い、熱く語る二人を前に、ジョーは声もなかった。 ――僕は・・・俺は。何のためにここまで来たんだ。こんな――光景を見るためか。 違うはずだった。 建物の影に回り込み、二人の姿を自分の視界から消した。 本気で彼女が彼と親密な関係であるとは思っていなかった。が、それでも小さな疑惑は生まれてしまう。 ・・・フランソワーズ。 心のどこかでは、そんなはずはない、全て誤解だ落ち着けと言い聞かせる自分がいる。が、いま、心の大部分を占めるのは、真っ暗くて重くて冷たいものだった。 ジョーは壁を背にしてずるずると滑り、地面に座り込んだ。 ――何でだよ。フランソワーズ・・・ もし彼女が自分以外の男を愛したって、いい。ただ、それなら絶対にその姿を見せないで欲しかった。
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――どうして彼がここに。 内心の動揺を押し隠し、フランソワーズは会話を続けた。 本当は、今すぐここから飛び降りて彼の元へ走りたい。が、そんな事をしたら彼を驚かせてしまうから我慢した。 どうしてここに――いるの? 手が震える。 「フランソワーズ。それで、実は今度の――」 彼が話し始めた瞬間、フランソワーズの心は決まった。まるで突然、心臓を掴まれたように本当に――胸が苦しくなったのだ。 「待って。今――そこへ行くから」 言い捨てると身を翻した。 目の前には彼の姿があった。 「フランソワーズ?いったい、どうし」 驚いている彼の元へ駆け寄った。
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ジョーはぎゅっと目を閉じた。 早く――早く二人とも俺の前から消えてくれ。 けれどもそれは無理な相談だった。何しろ、ここに居るべきではないのは誰あろう、ジョー自身なのだから。 消えるべきなのは・・・俺、だ。 苦い思いと共に立ち上がる。
***
フランソワーズの師は、彼女が突然自分の元へ駆け寄ったので大層驚いたのだったが、そのまま彼女がスピードを緩めず脇目もふらず自分のそばを通り抜けて行ったので、苦笑しながらその後ろ姿を目で追った。 やはり――。 またか。 何度目だろう。彼女が彼を選ぶのは。 まあ・・・いいさ。 一晩飲み明かし、酔い覚ましにと歩いて帰る途中、ふと思いたってこの道を通ってみたのだった。 肩をすくめると、そのまま振り返らず自分の家へと歩き出した。
*** ***
あまりにも突然のことだった。彼の姿が目に入ったのは。 何故かわからないけれど、彼はすぐ建物の影に隠れてしまったのでフランソワーズは動揺した。 もうこれ以上は限界だった。 なぜ、すぐそこに彼がいるのに、私はここにいるのだろう? そう思うのと、彼が座り込むのが同時だった。
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ジョーは突然両肩を上から押さえられ、同時に後頭部をイヤというほど壁に強打し顔をしかめた。 ジョーは壁を背に座り込んでいたが、その首には白い腕が巻きつけられていた。 「――フランソワーズ」 攻撃も防御もしなかったのは、相手がフランソワーズだとわかっていたからだった。 何度も何度も名を呼ばれ、そして頬に柔らかい頬が押し付けられる。その頬が濡れていたから、泣いているのかもしれない。 「ジョー?」 蒼い瞳が正面に回り込み、ジョーの視界いっぱいに広がる。 「・・・大丈夫?」 まさか。 慌てて手を上げ頬に触れてみる。濡れていた。 「――あれ」 笑いを含んだ声で言われ、ジョーは憤慨した。 「それはっ・・・」 と、ジョーが言うより早く、フランソワーズは彼の頬に唇をつけた。 「・・・誤解してるでしょう?」 何をとは訊かない。 「ジョーったら、突然現れるんだもの。驚いたわ」 そう言われた瞬間、頭に血が昇った。 「悪かったな、突然来て。そうじゃなければばれなかたのに残念だったな」 ジョーはフランソワーズの顔を見ないで口早に続けた。 「いったい、いつからなんだ?気付かなかった俺も俺だけど、隠すのうまいなフランソワーズ。今年からか?去年からか?全然、わからなかったよ」 フランソワーズは口を挟まない。 「だからパリに来ていることも、公演のことも言わなかったんだろう?「ジゼル」をやるのも隠して。――何も・・・連絡しないで」 吐き出すように続けるジョーだったが、言っているうちに不覚にも鼻の奥がつんとしてきて内心動揺していた。 「ヤツと会うのに忙しかったから、電話もメールもしなかったんだろう?ったく、俺も馬鹿だよな。フランソワーズは今、集中して頑張っているんだと勝手に信じて」 フランソワーズは何も言わない。ただ、ジョーの首に回していた腕を解き、彼の頬の涙を指先で拭うだけだった。 ――誰かを信じるなんて、するもんじゃない。――柄にもないことをするから、こういう目に遭う。 胸の奥が真っ暗で黒い闇に呑み込まれた。
***
「言いたい事はそれだけ?」 フランソワーズの声に、ジョーは内に沈み込んでいた意識を外に向けた。 「・・・それから?」 心の中にぐるぐると黒くて汚いものが渦巻いて、ジョーは言葉に詰まった。何をどう言葉にすればいいのかわからない。 「――もう、いい」 そう言って、俯いて、前髪で表情を隠そうと身を引いた。が、フランソワーズはそれを許さず片手で彼の前髪をかきあげた。 「なっ・・・」 しかし、蒼い瞳に盛り上がる涙の粒を認め、ジョーは黙った。 「ジョーのばか。もうっ・・・何言ってるのよ」 そうして彼の肩に顔を埋める。 「さっきまでテレビの中でバトルをしていたひとがいきなり目の前にいるのを見て、どんなに驚いたと思ってるの?」 吐き捨てるように言った途端、フランソワーズの蒼い瞳がジョーを睨む。 「私のジョーの悪口言わないで。あんなコンディションの悪いレースを完走して、しかも4位になったんだから!」 確かに、レースの内容は満足のいくものだった。ただ、結果を残せなかった事が残念だったのだ。 「――フランソワーズ」 ――本当に、心変わりしたわけじゃないのか。 訊きたいけれど、口に出して確認するのが怖い。だから、別のことを訊くことにした。 「俺が居るのにいつ気付いた?」 フランソワーズはきょとんと目を丸くした。 「・・・最初からよ?決まってるじゃない」 そうして再度、ジョーの肩に額をつける。 「・・・さっきまで、本当にあなたなのか自信がなかったの。でも――やっぱり、ジョーだわ。寂しがっていじけるところなんか特に」
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――本当にもう。どうしてこういう事って一度に起こるのかしら。 窓を開けて空を見て、ジョーの事を考え、これからどうするか考えていた時、まさにその当人が目の前にいて驚いたのだった。 適当に相槌を打っている間にここから去ってくれるだろうと思っていた。しかし、中々願いは聞き届けられず、更にはずっと目の隅で捕捉していたジョーの様子が段々おかしくなっていくことに気持ちは焦った。 ちょっと――冗談じゃないわ! 酔っ払いが帰るまで待つつもりだったのが、事態は急変した。 ああもう、ジョーったら! 身を翻し、玄関ドアを派手に開閉し階段を駆け下り――後で他の住人から苦情がくるだろうなと頭の隅で思いながら――まっすぐジョーの元へ到達し、そして抱き締めた。 最初からこうしていれば良かった。 ――浮気。 彼の唇から流れ出す言葉。 その答えは、彼自身の言葉の中にあった。 パリに行くのを内緒にしていた事、「ジゼル」の事を黙っていた事。連絡を一切しなかった事――が、寂しくて仕方なかったのだ、と。 フランソワーズには、ジョーの言葉はただ「寂しい」の繰り返しにしか聞こえなかった。 ――いつまでたっても甘えるのが下手なんだから。 寂しいなら素直にそう言えばいいのに、それを言ったら自分の弱点を晒すとでも思っているのだろうか。 おそらく、彼の生い立ちがそうさせるのだろう。 だからフランソワーズは、まず、ジョーを抱き締めた。 ここで、私のことを信じてないのと怒るのは簡単だった。 ――本当に、手のかかるひと。 いったい、どのくらいの愛情を示せば彼は不安にならずにいてくれるのだろう。 いいわ、いくらでも言うから。 だから、今回のことは少しだけ反省した。あくまでも「少し」だけ。
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ジョーはフランソワーズの肩に顔を埋めていた。頬に触れる彼女の髪がくすぐったくて少し笑った。 「ジョー?どうかした?」 顔を上げようとするフランソワーズを抱き締め、自分から離れることを許さない。 温かかった。 自分の中の醜いものを全部吐き出して、後はからっぽだった。 しかしフランソワーズはジョーの言葉を聞いても、そこから去ったりはせずジョーを抱き締めたのだった。 寒い日に差し出されたホットミルクのような。 温かくて、気持ちよくて、泣きたくなるくらい嬉しくて。 自分が求めていたのはこれだった。 いつもすぐそばに当たり前のようにあったから、なくなったりはしないといつの間にか勝手に思い込んでいた。 「――フランソワーズ」 寒くないならいいんだ、と口の中で呟いてから、改めてジョーは問うた。 「・・・さっき、外を見ている時何か考え事してた?」 気になって。 フランソワーズは身体を少し離し、今度こそジョーの瞳を見ることに成功した。
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「・・・見てたの」 フランソワーズはジョーの瞳を覗きこむ。ジョーの視界は彼女の蒼い瞳に占められてゆく。 「あれはね。――いつ日本に帰ろう、って思ってたの」 ジョーは一瞬、気持ちが高揚しかけた。何しろ「自分がいる日本へいつ帰る」か考えていたというのだから。が、すぐに自分を戒めた。――違う。だったらどうしてため息をついたんだ? 「あ、・・・もう。違うわよ。ジョーったら」 みるみるくもったジョーの顔にフランソワーズはくすくす笑い出した。落ち込んだことがすぐにばれたジョーは甚だ不本意であり、仏頂面のままである。 「そうじゃないわ。ため息ついたのはね、・・・日本に帰ってもあなたはいないんだったわ・・・って思ったから」 そうして寂しくなった時に、ジョーがそこに居ることに気がついたのだった。 「日本は好きよ。パリも好き。でもね、ジョーがいなかったらどっちも――それほど好きじゃない、ってことに気がついたの」 フランソワーズの指がジョーの頬を撫でる。 「だって、私が帰るところはここだもの」 きょとんと首を傾げるジョーに、フランソワーズはちょっと唇を尖らせた。 「もう。鈍いのね。ジョーのそば、ってことよ」 わかった?とジョーの鼻先をつついた。「俺」から「僕」に戻ったなと思いながら。 「――そうか」 どちらからともなくくすくす笑い出し、最後にはふたりで笑い合っていた。 「――で、ジョーはどうしてここにいるの?」 それは、君が公演を無事に終わらせたのを見届けるためだよ――と、つい先刻までは言うつもりだった。 「やあね。どうしてにやにやしてるの?」 ジョーはフランソワーズを抱き締めると立ち上がった。腕にそのまま抱き上げて。フランソワーズは驚いてジョーの首筋に腕を回す。 「や、ちょっとジョー」 言いながら、ジョーはアパルトマンへ歩を進める。 「だって、自分で歩けるのに」 素足だった。 「え、あれ?おかしいわ、どうして――」 羽織っているつもりだったが、いつどこで失くしたのか、その肩は何にも覆われていなかった。 「――まあ、僕としてはサービスかなって思わないでもないけどね」 フランソワーズはジョーの首筋にしがみついたまま顔を上げられない。 「・・・ばか。あなたが泣いたから、それで」 という声は小さくて、ジョーには聞こえない。否、聞こえているのかもしれないがジョーは黙って聞き流したのだろう。 「迎えに来たんだから、早く準備してくれないと困る」 覗き込んだ褐色の瞳は、いつもの――強い意志の見える、いつものジョーの瞳だった。先ほどまでの不安な色は払拭されている。 イヤなわけないじゃない。 ジョーのどこか意地悪な言い方に、フランソワーズは頬を膨らませ――そう言う代わりに、 「急に準備って言われても困るわ。女の子はそんなに簡単に荷造りできないのよ」 と言った。 「ふん。きみは荷造りが早くて上手いくせに」 ジョーは立ち止まるとまじまじとフランソワーズを見つめ、そうしてそっと唇を重ねた。一瞬だけ。 「――ん。美味いのは同じだな」 楽しげなジョーの笑い声が響くなか、フランソワーズは彼の肩にもたれ、ぎゅっと目を閉じた。
だって、私の帰る場所はあなたの腕の中だもの。
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リビングでふたりを迎えたのは、渋面を作った兄ジャンだった。 「――お前らな。どうしてもっと静かに会えないかな」 すみません――と、小さく答える恋人同士だった。
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フランスソワーズはすこぶる不機嫌だった。 「おい、フランソワーズ。そんな顔してると撮られるぞ」 頭のてっぺんをつつかれ、鬱陶しそうに頭を左右に振る。 「――別にいいもん」 そう――迎えに来たと言われ、すっかり「二人で」ここへ来るのだと思っていたのに。 ジョーにしてみれば、今回の事は兄ジャンの言葉がなければ実現しなかったことであり、しかも――なんとなく――今回の自分とフランソワーズの件は、有耶無耶にしていたらそれで終わっていた可能性もあったのだと背筋が薄ら寒くなったのだ。そして、そうならなかったのはひとえにジャンのお陰であり、いわば恩人のようなものであるのだ。 「全く、ジョーもジョーよ!どうして一番にお兄ちゃんに抱きつくのよっ」 表彰台の真ん中、つまり優勝したジョーが、待っていたクルーの中の誰の元に真っ先に駆け寄るか――は、スタッフ全員一致で「彼自ら迎えに行った勝利の女神」と思いこんでいたのだったが、なんと彼はその女神をすり抜け、女神の兄の元に駆け寄ったのだった。 「絶対、そっちのケがあると思われたわよ!全世界的に!」 うつむいて爪を噛むフランソワーズの頭にてのひらを置いて、兄は軽くぽんぽんと撫でた。 「ほら、フランソワーズ。爪なんか噛んでたらジョーに嫌われるぞ」 膨れたまま横を向く妹に苦笑しつつ、兄は目を細める。 「全く、小さい頃と同じだな――」
***
「すみません、お待たせしましたっ」 息せき切ってジョーが戻ってきたのは、それから約30分後だった。 「――あれ?フランソワーズ?」 いつもは満面の笑みで迎えるはずの彼女は、そっぽを向いたままなのだった。 「何膨れてるんだい?」 ジョーは問うようにジャンを見た。ジャンは苦笑しつつ、 「お前が一番に俺に抱きついたのが気に入らないんだと」 ジョーはじっとフランソワーズを見た。 「・・・ぷっ」 堪らず、ジョーが噴き出した。 「なっ、何よっ」 フランソワーズは一瞬にして頬を朱に染め、きっとジョーを睨みつけた。 「ひとの顔見て笑うなんて失礼よっ」 ジョーは肩を震わせ、笑い死んでいる。 「ひどっ・・・ジョーのばか!もう、嫌いっ。帰るっ」 元々本気で帰るつもりではないフランソワーズは、あっという間にジョーの胸の中に捕らわれた。 「――全く・・・。言っただろ?俺は、あの「ジゼル」が君だとしたら、どこか遠く感じてしまう、って」 気を利かせたのか、兄の姿はどこかへ消えていた。
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その夜、ジョーの部屋で彼のノートパソコンを立ち上げたフランソワーズは、画面を見て気絶しそうなくらい驚いたのだった。 「うわっ、何勝手に見てるんだよっ」 ![]() 「・・・ジゼル」 じっと見つめるフランソワーズの視線から逃げるように、ジョーは前髪の奥に隠れた。 「・・・こうしていれば、いつでも会えるだろ?だから――」
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