−子供部屋−
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)

 

4月30日

 

フランスソワーズはすこぶる不機嫌だった。
レースが終わって、パドックでジョーがマスコミに捕まっている間もずっと膨れている。

「おい、フランソワーズ。そんな顔してると撮られるぞ」

頭のてっぺんをつつかれ、鬱陶しそうに頭を左右に振る。

「――別にいいもん」
「いいもん、じゃないだろ。ジョーの迷惑も考えろ。ハリケーンジョーの恋人がこんな顔してましたーってスクープされたら」
「・・・恋人じゃないもの」
「――ったく。拗ねるなよ」
「拗ねてないわ」
「じゃあ、あれだ。ヤキモチか」
「やっ・・・妬いてなんかいません!」
「そうかぁ?」
「もうっ、うるさいっ!大体、何でお兄ちゃんがここにいるのよっ!」

そう――迎えに来たと言われ、すっかり「二人で」ここへ来るのだと思っていたのに。
なのにジョーは、ジャンも一緒にと誘ったのだった。

ジョーにしてみれば、今回の事は兄ジャンの言葉がなければ実現しなかったことであり、しかも――なんとなく――今回の自分とフランソワーズの件は、有耶無耶にしていたらそれで終わっていた可能性もあったのだと背筋が薄ら寒くなったのだ。そして、そうならなかったのはひとえにジャンのお陰であり、いわば恩人のようなものであるのだ。
レースに招待することは至極最もなことに思えた。
だから、三人でやって来たのだったが。

「全く、ジョーもジョーよ!どうして一番にお兄ちゃんに抱きつくのよっ」

表彰台の真ん中、つまり優勝したジョーが、待っていたクルーの中の誰の元に真っ先に駆け寄るか――は、スタッフ全員一致で「彼自ら迎えに行った勝利の女神」と思いこんでいたのだったが、なんと彼はその女神をすり抜け、女神の兄の元に駆け寄ったのだった。

「絶対、そっちのケがあると思われたわよ!全世界的に!」
「まさか。お前、それの心配をしているのか?」
「だって・・・」

うつむいて爪を噛むフランソワーズの頭にてのひらを置いて、兄は軽くぽんぽんと撫でた。

「ほら、フランソワーズ。爪なんか噛んでたらジョーに嫌われるぞ」

膨れたまま横を向く妹に苦笑しつつ、兄は目を細める。

「全く、小さい頃と同じだな――」

 

***

 

「すみません、お待たせしましたっ」

息せき切ってジョーが戻ってきたのは、それから約30分後だった。

「――あれ?フランソワーズ?」

いつもは満面の笑みで迎えるはずの彼女は、そっぽを向いたままなのだった。

「何膨れてるんだい?」
「知らないっ」

ジョーは問うようにジャンを見た。ジャンは苦笑しつつ、

「お前が一番に俺に抱きついたのが気に入らないんだと」
「ええっ」
「それでずっと拗ねてるんだ」

ジョーはじっとフランソワーズを見た。
フランソワーズはジョーを見ない。頬を膨らませたまま。
ジョーが少し屈んでフランソワーズの顔を覗きこむ。と、フランソワーズは避けるように反対を向く。
もう一度ジョーが顔を覗きこむ。が、それでもフランソワーズは彼を避けた。

「・・・ぷっ」

堪らず、ジョーが噴き出した。

「なっ、何よっ」

フランソワーズは一瞬にして頬を朱に染め、きっとジョーを睨みつけた。

「ひとの顔見て笑うなんて失礼よっ」
「だってさ、とてもあのジゼルと同一人物とは思えないっ・・・・」

ジョーは肩を震わせ、笑い死んでいる。

「ひどっ・・・ジョーのばか!もう、嫌いっ。帰るっ」
「待て、って」
「イヤ。待たない」
「だから、待て、ってば」

元々本気で帰るつもりではないフランソワーズは、あっという間にジョーの胸の中に捕らわれた。

「――全く・・・。言っただろ?俺は、あの「ジゼル」が君だとしたら、どこか遠く感じてしまう、って」
「・・・そうだったかしら?」
「そうだよ。もちろん、あっちの君も凄くキレイで俺は好きだけど、こうして膨れっ面になるフランソワーズの方がほっとする」
「・・・ばか」

気を利かせたのか、兄の姿はどこかへ消えていた。
だから、しばらくは――

 

***

 

その夜、ジョーの部屋で彼のノートパソコンを立ち上げたフランソワーズは、画面を見て気絶しそうなくらい驚いたのだった。

「うわっ、何勝手に見てるんだよっ」
「ちょっと検索したいことがあったから、借りるわねって言ったじゃない」
「聞いてないぞ」
「言ったもの!それより、何よコレ!!」
「何、って、その・・・」

「・・・ジゼル」
「それはわかってるわ。そうじゃなくて、どうしてこれがあなたのパソコンのトップになってるの、ってこと」
「い、いいじゃないかっ、そんなのっ」

じっと見つめるフランソワーズの視線から逃げるように、ジョーは前髪の奥に隠れた。

「・・・こうしていれば、いつでも会えるだろ?だから――」

 

 

 

*****
いちおう、今回のお話のエンディングということで。
そもそもの発端はこのチラシだったので、どうしてもこちらにも飾りたかったのです。


 

4月25日

 

ジョーはフランソワーズの肩に顔を埋めていた。頬に触れる彼女の髪がくすぐったくて少し笑った。

「ジョー?どうかした?」
「ん・・・なんでもないよ」

顔を上げようとするフランソワーズを抱き締め、自分から離れることを許さない。

温かかった。

自分の中の醜いものを全部吐き出して、後はからっぽだった。
ただの八つ当たりに他ならない自分の言葉が奔流となってフランソワーズを呑み込んだ。が、彼女はそれに呑まれはせず、じっとジョーの言葉を受け止めた。
実際、そうすることで少しはすっきりするだろうと半ばやけくそだったのだが、後に残ったのは深い自己嫌悪だった。
本当は全部わかっている。何故、彼女が連絡を寄越さなかったのか。わかりすぎるほど、わかっているのに。
なのに、目の前の光景に逆上し言わなくてもいい事まで言ってしまった。
こんな小さい男は――嫌われても仕方がない。

しかしフランソワーズはジョーの言葉を聞いても、そこから去ったりはせずジョーを抱き締めたのだった。
フランソワーズは何も言わない。ただ抱き締めるだけ。
真っ黒いものを吐き出し、からっぽになったジョーの心に、少しずつ柔らかくて温かいものが入って来た。
温かくて――ほっとする。

寒い日に差し出されたホットミルクのような。
洗いたてのシーツの上のような。
カーテンを開けたときに降り注ぐ眩しい白い光のような。

温かくて、気持ちよくて、泣きたくなるくらい嬉しくて。

自分が求めていたのはこれだった。

いつもすぐそばに当たり前のようにあったから、なくなったりはしないといつの間にか勝手に思い込んでいた。
だから、いざそれが自分ではない他の者へ向けられたとなると――本当に、死ぬほど辛かったのだ。
それが全て誤解にすぎないとわかってはいても。

「――フランソワーズ」
「・・・なあに?」
「寒くない?」
「ええ、平気よ。どうして?」
「いや・・・」

寒くないならいいんだ、と口の中で呟いてから、改めてジョーは問うた。

「・・・さっき、外を見ている時何か考え事してた?」
「――えっ」
「ため息ついただろう?だからちょっと」

気になって。

フランソワーズは身体を少し離し、今度こそジョーの瞳を見ることに成功した。
大好きな褐色の瞳。
が、それは――ゆらゆらと視線が安定せず、自信のない迷子のような瞳だった。およそいつものジョーではない。
例えるならば、それはずっと昔の彼のようだった。まだ――出会った頃のような。

 

***

 

「・・・見てたの」
「うん」
「そう・・・見られちゃったのね」

フランソワーズはジョーの瞳を覗きこむ。ジョーの視界は彼女の蒼い瞳に占められてゆく。

「あれはね。――いつ日本に帰ろう、って思ってたの」
「・・・そうなんだ」

ジョーは一瞬、気持ちが高揚しかけた。何しろ「自分がいる日本へいつ帰る」か考えていたというのだから。が、すぐに自分を戒めた。――違う。だったらどうしてため息をついたんだ?

「あ、・・・もう。違うわよ。ジョーったら」

みるみるくもったジョーの顔にフランソワーズはくすくす笑い出した。落ち込んだことがすぐにばれたジョーは甚だ不本意であり、仏頂面のままである。

「そうじゃないわ。ため息ついたのはね、・・・日本に帰ってもあなたはいないんだったわ・・・って思ったから」

そうして寂しくなった時に、ジョーがそこに居ることに気がついたのだった。

「日本は好きよ。パリも好き。でもね、ジョーがいなかったらどっちも――それほど好きじゃない、ってことに気がついたの」

フランソワーズの指がジョーの頬を撫でる。

「だって、私が帰るところはここだもの」
「・・・ここ?」

きょとんと首を傾げるジョーに、フランソワーズはちょっと唇を尖らせた。

「もう。鈍いのね。ジョーのそば、ってことよ」
「・・・僕の」
「そう。ジョーがいなかったら、日本に帰ってもしょうがないなーって思ってたの」

わかった?とジョーの鼻先をつついた。「俺」から「僕」に戻ったなと思いながら。

「――そうか」
「そうよ」
「・・・そうなんだ」
「そうなのよ」

どちらからともなくくすくす笑い出し、最後にはふたりで笑い合っていた。

「――で、ジョーはどうしてここにいるの?」
「ん――?」
「レースが終わったばかりでしょう?まさかパリにいるなんて思ってなかったもの。次のレースはすぐなのに」
「う――ん。そうだね」

それは、君が公演を無事に終わらせたのを見届けるためだよ――と、つい先刻までは言うつもりだった。
が、気が変わった。

「やあね。どうしてにやにやしてるの?」
「公演は全部終わったんだよね?」
「ええ、そうよ」
「ツアーも全部」
「ええ」
「じゃあ、しばらくは自由だ」
「ええ」
「――なら、決まりだ」

ジョーはフランソワーズを抱き締めると立ち上がった。腕にそのまま抱き上げて。フランソワーズは驚いてジョーの首筋に腕を回す。

「や、ちょっとジョー」
「――部屋に戻るよ」
「ええ、でも・・・降ろして。恥ずかしいわ、誰かに見られたら」
「ダメ」

言いながら、ジョーはアパルトマンへ歩を進める。

「だって、自分で歩けるのに」
「・・・靴、履いてないくせに」
「えっ」

素足だった。

「え、あれ?おかしいわ、どうして――」
「それに、そんな薄着でいたらダメだろ」
「薄着じゃないわ、ちゃんとストールを羽織って――」

羽織っているつもりだったが、いつどこで失くしたのか、その肩は何にも覆われていなかった。
つまり、フランソワーズは薄い部屋着のまま飛び出してきたことになる。
かあっと顔が熱くなった。何しろ、ジョーの元へ一目散だったとしても、この姿は――

「――まあ、僕としてはサービスかなって思わないでもないけどね」

フランソワーズはジョーの首筋にしがみついたまま顔を上げられない。
何しろ、サービスしたつもりは全くないのに、自分の今の格好ときたら、キャミソールワンピース一枚だったのだから。それも、薄地の。

「・・・ばか。あなたが泣いたから、それで」
慌てちゃったんだもの。

という声は小さくて、ジョーには聞こえない。否、聞こえているのかもしれないがジョーは黙って聞き流したのだろう。
ともかく、答えはなく、代わりに妙に明るい声でジョーが言った言葉にフランソワーズは目を丸くした。

「迎えに来たんだから、早く準備してくれないと困る」
「迎え?・・・準備?どういうこと?」
「うん。次のレースに一緒に来て貰う」
「え。――ええっ!?」
「――別に、イヤだったらいいけど」

覗き込んだ褐色の瞳は、いつもの――強い意志の見える、いつものジョーの瞳だった。先ほどまでの不安な色は払拭されている。

イヤなわけないじゃない。

ジョーのどこか意地悪な言い方に、フランソワーズは頬を膨らませ――そう言う代わりに、

「急に準備って言われても困るわ。女の子はそんなに簡単に荷造りできないのよ」

と言った。

「ふん。きみは荷造りが早くて上手いくせに」
「ファーストフードみたいに言わないでくれる?」
「意味が違うだろ。それとも――」

ジョーは立ち止まるとまじまじとフランソワーズを見つめ、そうしてそっと唇を重ねた。一瞬だけ。

「――ん。美味いのは同じだな」
「・・・もうっ。ジョーこそ意味が違うじゃないっ」

楽しげなジョーの笑い声が響くなか、フランソワーズは彼の肩にもたれ、ぎゅっと目を閉じた。

 

だって、私の帰る場所はあなたの腕の中だもの。
いつだって、どこだって――

 

***

 

リビングでふたりを迎えたのは、渋面を作った兄ジャンだった。

「――お前らな。どうしてもっと静かに会えないかな」

すみません――と、小さく答える恋人同士だった。

 

 

 

***
そんなわけで、第4戦のバーレーンGPはフランソワーズも一緒です。ナントカ間に合いましたっ


 

4月24日

 

――本当にもう。どうしてこういう事って一度に起こるのかしら。

窓を開けて空を見て、ジョーの事を考え、これからどうするか考えていた時、まさにその当人が目の前にいて驚いたのだった。
しかし、ジョーと声をかける前に、バレエの師が現れて更に驚いた。
昨夜の打ち上げでフランソワーズは二次会で辞したから、他の者がその後どうしたのかは知らない。が、目の前の師はフランソワーズの見るところ――ただの酔っ払いだった。そういう目で周囲を探すと、彼より数百メートル後方にバレエ団の女性数人が固まって歩いているのが見つかった。きっと一緒にいたのだろう。つまり夜通し飲んで今帰りというわけだ。そのまままっすぐ帰ればいいのに、何故彼がここにいるのか、その理由をフランソワーズはあまり考えたくなかった。

適当に相槌を打っている間にここから去ってくれるだろうと思っていた。しかし、中々願いは聞き届けられず、更にはずっと目の隅で捕捉していたジョーの様子が段々おかしくなっていくことに気持ちは焦った。
ゆらりと立っていたジョーが建物の影に身を隠し、そして――もたれた壁伝いに座り込んだのだ。あと一歩で、彼お得意の姿勢になるところだ。

ちょっと――冗談じゃないわ!

酔っ払いが帰るまで待つつもりだったのが、事態は急変した。

ああもう、ジョーったら!

身を翻し、玄関ドアを派手に開閉し階段を駆け下り――後で他の住人から苦情がくるだろうなと頭の隅で思いながら――まっすぐジョーの元へ到達し、そして抱き締めた。

最初からこうしていれば良かった。
そうすれば、ジョーはきっと――少なくとも、こんな言葉を言いはしなかっただろうから。

――浮気。

彼の唇から流れ出す言葉。
それは全て誤解だったが、フランソワーズは口を挟まず黙って聞いた。
彼が本気でそう言っているとはこれっぽっちも思っていない。そして、それはおそらく事実だろうとわかってもいる。
では、何故ジョーはフランソワーズを糾弾し続けているのだろうか?

その答えは、彼自身の言葉の中にあった。

パリに行くのを内緒にしていた事、「ジゼル」の事を黙っていた事。連絡を一切しなかった事――が、寂しくて仕方なかったのだ、と。
勿論、フランソワーズだって彼と同じくらい寂しかった。が、それでもきっと――ジョーはとても我慢して、そして――ここでさっきの光景を見てしまったのだ。それで――こうなった。

フランソワーズには、ジョーの言葉はただ「寂しい」の繰り返しにしか聞こえなかった。

――いつまでたっても甘えるのが下手なんだから。

寂しいなら素直にそう言えばいいのに、それを言ったら自分の弱点を晒すとでも思っているのだろうか。
軽いじゃれあいの時には簡単に寂しいと口にするくせに、本当に寂しい時はそれを言わない。
言ってもどうしようもないと、言っても仕方がないと思っているのだろうか。

おそらく、彼の生い立ちがそうさせるのだろう。

だからフランソワーズは、まず、ジョーを抱き締めた。
寂しいと言えずに、それを心にしまいこんで泣いている子供を抱き締めるように。

ここで、私のことを信じてないのと怒るのは簡単だった。
でも、それをしてはいけない。
ジョーはフランソワーズのことを信じてないわけがないのだから。
だから、彼が今言っている事は全て言葉通りの意味ではないのだ。

――本当に、手のかかるひと。

いったい、どのくらいの愛情を示せば彼は不安にならずにいてくれるのだろう。
それを考えると気が遠くなりそうだったが、それでもフランソワーズはきっぱりと言う。

いいわ、いくらでも言うから。
ジョーが安心して、もういいよと言うまで――言っても――言い続けるから。

だから、今回のことは少しだけ反省した。あくまでも「少し」だけ。
自分だって寂しかったのだから、連絡しなかったのはお互い様だと思っているからだ。
しかし。
今度からは、離れても、どんなに忙しくても、何があっても、ジョーから連絡がこなくても。それでも、自分からは連絡しようと心に決めた。本当は会うのが一番いいのだけど、それが毎回できるとは限らないから。
メールよりも電話よりも、何よりジョー本人が一番大事だというフランソワーズ。そんな彼女に自分自身を届けたジョーは、それをちゃんとわかっていたのかもしれない。
が、そう仕向けたのは実は兄ジャンだったから、ジョーがフランソワーズのことをもっと理解するにはあともう少し時間が必要なようだった。
まだまだ彼女の兄には敵わない。

 


 

4月23日

 

ジョーは突然両肩を上から押さえられ、同時に後頭部をイヤというほど壁に強打し顔をしかめた。
痛いなんでもんじゃない。本当に目から火花が出た。
が、それでも全く攻撃あるいは防御姿勢をとらなかったのにはわけがある。

ジョーは壁を背に座り込んでいたが、その首には白い腕が巻きつけられていた。

「――フランソワーズ」

攻撃も防御もしなかったのは、相手がフランソワーズだとわかっていたからだった。
もちろん、すぐにわかったわけではない。が、肩を押さえられる刹那、よく知っている蒼い色が見えたのだ。

何度も何度も名を呼ばれ、そして頬に柔らかい頬が押し付けられる。その頬が濡れていたから、泣いているのかもしれない。
ジョーはおそるおそる腕を上げて、彼女の背中へ回した。壊れ物を扱うように。抱き締めはしない。ただ添えるだけ。
心中、穏やかではなかった。釈然としないのだ。
彼女は彼と見つめ合って、たった今ここで、まるで恋人同士の密会のように話していたのではなかったか。
しかし、視線を上げてその場所を見ても「彼」の姿は見えなかった。影も形もない。
ジョーは内心首を傾げながら、それでも食い下がった。
――大体、君は俺のほうなんか見てなかったし、気付いてもいなかったじゃないか。
だからジョーは、余計に疎外感と打ち捨てられたような寂しさを感じていたのだ。

「ジョー?」

蒼い瞳が正面に回り込み、ジョーの視界いっぱいに広がる。

「・・・大丈夫?」
「え、何が」
「だって、泣いてる」

まさか。

慌てて手を上げ頬に触れてみる。濡れていた。

「――あれ」
「泣き虫ね?」

笑いを含んだ声で言われ、ジョーは憤慨した。

「それはっ・・・」
君だってそうだろう?それにこれは俺じゃなくて君の涙だ。

と、ジョーが言うより早く、フランソワーズは彼の頬に唇をつけた。

「・・・誤解してるでしょう?」

何をとは訊かない。

「ジョーったら、突然現れるんだもの。驚いたわ」

そう言われた瞬間、頭に血が昇った。

「悪かったな、突然来て。そうじゃなければばれなかたのに残念だったな」
「ばれなかったって、何が?」
「――浮気」

ジョーはフランソワーズの顔を見ないで口早に続けた。

「いったい、いつからなんだ?気付かなかった俺も俺だけど、隠すのうまいなフランソワーズ。今年からか?去年からか?全然、わからなかったよ」

フランソワーズは口を挟まない。

「だからパリに来ていることも、公演のことも言わなかったんだろう?「ジゼル」をやるのも隠して。――何も・・・連絡しないで」

吐き出すように続けるジョーだったが、言っているうちに不覚にも鼻の奥がつんとしてきて内心動揺していた。

「ヤツと会うのに忙しかったから、電話もメールもしなかったんだろう?ったく、俺も馬鹿だよな。フランソワーズは今、集中して頑張っているんだと勝手に信じて」

フランソワーズは何も言わない。ただ、ジョーの首に回していた腕を解き、彼の頬の涙を指先で拭うだけだった。
彼女が否定してくれると思っていたジョーは、いくら待っても彼女が何も言わないので――もしかしたら、これは本当にそういう事だったのだろうかと――ずっと彼女を信じていた自分の馬鹿さ加減に情けなくなった。

――誰かを信じるなんて、するもんじゃない。――柄にもないことをするから、こういう目に遭う。

胸の奥が真っ暗で黒い闇に呑み込まれた。

 

***

 

「言いたい事はそれだけ?」

フランソワーズの声に、ジョーは内に沈み込んでいた意識を外に向けた。
じっとフランソワーズを見つめる。
糾弾されていたはずのフランソワーズは、ジョーから目を逸らさずじっと見つめ返した。穏やかな表情で。

「・・・それから?」

心の中にぐるぐると黒くて汚いものが渦巻いて、ジョーは言葉に詰まった。何をどう言葉にすればいいのかわからない。

「――もう、いい」

そう言って、俯いて、前髪で表情を隠そうと身を引いた。が、フランソワーズはそれを許さず片手で彼の前髪をかきあげた。

「なっ・・・」
「――私も同じよ」
「同じ?何が」
「寂しかったのは一緒」
「何言って――」

しかし、蒼い瞳に盛り上がる涙の粒を認め、ジョーは黙った。
フランソワーズはゆっくり微笑んだ――が、それは一瞬で、すぐに口元が歪んでしまい、同時に両頬に涙がこぼれ落ちた。

「ジョーのばか。もうっ・・・何言ってるのよ」

そうして彼の肩に顔を埋める。

「さっきまでテレビの中でバトルをしていたひとがいきなり目の前にいるのを見て、どんなに驚いたと思ってるの?」
「えっ・・・」
「どうしてパリにいるの、ってわかるわけないじゃない」
「――俺のレース、見てたんだ」
「当たり前でしょう。どうして見ないなんて思うの」
「・・・」
「あんな雨の中を事故も起こさず走るなんて凄いわ、って、会ったら絶対言わなくちゃって思ってたんだから」
「――凄くないよ」
「凄いわよ」
「やめてくれ。――勝てなかったんだから。ドライバーとしても俺は」

吐き捨てるように言った途端、フランソワーズの蒼い瞳がジョーを睨む。

「私のジョーの悪口言わないで。あんなコンディションの悪いレースを完走して、しかも4位になったんだから!」
「表彰台を逃したのに?」
「それのどこがいけないの?手抜きでもしたって言いたいの?」
「――手抜きなんてしていない」
「だったら。全力を出し切ってベストを尽くしたレースだったんでしょう?それのどこがいけないの?どこが――イヤなの?頑張ったの、知ってるもの。ジョーの・・・私の大事な人の悪口を言わないで」
「うん・・・ごめん」

確かに、レースの内容は満足のいくものだった。ただ、結果を残せなかった事が残念だったのだ。

「――フランソワーズ」
「何?」
「その・・・さっきのことだけど」

――本当に、心変わりしたわけじゃないのか。

訊きたいけれど、口に出して確認するのが怖い。だから、別のことを訊くことにした。

「俺が居るのにいつ気付いた?」

フランソワーズはきょとんと目を丸くした。

「・・・最初からよ?決まってるじゃない」
「え、だって」
「目の前に先生がいなかったら、あのまま飛び降りてあなたの元に行けるのにって、先生が邪魔で仕方なかったのよ」
「飛び降りて、って」
「ええ。そんなのどうってことないもの」
「だ、ダメだ。バレリーナなんだから、足を怪我したらどうする」
「・・・しようと思っただけよ。――それでね。先生が酔っ払ってるのはわかったから、このまま早くどこかに行ってくれないかしらって適当に話していたら、ジョーったら急にしゃがみ込んじゃうんだもの。もう、心臓が止まるかと思ったわ――」

そうして再度、ジョーの肩に額をつける。
今度はジョーも彼女の背中に腕を回して抱き締めた。

「・・・さっきまで、本当にあなたなのか自信がなかったの。でも――やっぱり、ジョーだわ。寂しがっていじけるところなんか特に」
「――別にいじけてなんか」
「寂しかったって泣いたじゃない」
「泣いてなんかっ・・・」
「いいの。大丈夫。私も寂しかったんだから。――あなただけじゃないわ」

 


 

4月22日

 

「あら・・・一体、どうしたの?」

フランソワーズの声に、ジョーは一歩踏み出した。
半分身を隠していた建物の影から。全く、彼女は目聡いなあと思いながら。

 

***

 

大事な妹を泣かせた罰だ。お前なら、できるよな――?

挑発とも思えるジャンの言葉に苦笑しつつも頷いたのは、ジョーだった。
仕事とフランソワーズ。どちらも取れと兄は言っているのだ。それが妹を任せる男の条件だと。
言われるまでもなかった。
ジョー自身、いつも思うのは、胸を張ってフランソワーズの隣に立つことだったから。
何があろうと、彼女が「このひとで良かった」と誇れるような、そんな男でありたい。そのためには、仕事も彼女もどちらも手を抜かない。安心しない。甘えない。
兄の出した課題は、まさにそれだった。
自身の勝利。そして妹の舞台の成功を見届けろ、と。
前ニ戦が納得のゆくレースではなかった上、全力を出せていない。そんな無様なレースをもう見せるなと兄は言っているのだ。ジョーとしても、これは他人に言われるまでもない事であった。次こそ勝利を。そう決めていた。
それに関しては自分の力に依るものであったから、頑張り次第で何とでもなりそうだったが、他方に関しては――それは物理的に無理だろうとジョーは思った。
妹であるフランソワーズの舞台の成功を見届けろ――つまり、パリの最終公演を見届けろ、と。
それはどう頑張っても、時間的・距離的に不可能であった。何しろ、レース直後にパリへ向かうとしても、その日の23時の便にしか間に合わない。パリ着は翌日の5時。とうに公演は終わっている。どうしたって無理だった。
しかし。
かといって、あっさり諦める気にはジョーはなれなかった。
むしろジャンが「たぶん無理だろうけどな」と言外に滲ませたとあっては、どうしても彼を驚かせたい。
何とかふたつの課題を叶えたい。
だから、レース終了後の慌しい中、時間の遣り繰りをして――荷物などはスタッフに頼み込んで直接現地へ送ってもらうことにして――ジョーは単身、パリへ行くことに成功したのだった。
しかし、それだってタッチ&ゴーである。ほんの数時間だけの滞在。
だから本当に、フランソワーズの顔を見て、ただ、お疲れさまとか頑張ったねとか――亜麻色の髪に指を絡め、蒼い瞳を見つめて言うだけ――それだけのためにやって来たのだった。

朝5時のパリ着だったから、当然花屋など開いているわけもなくジョーは手ぶらだった。
あまりに早く着きすぎたため、訪ねて起こしてしまうのも憚られた。何しろ彼女はジョーがここに来ることを知らないのだ。だから、彼女たちが起きてくるであろう時間まで、ただ待つつもりだった。
が、アパルトマンの前まで来た時、まるで彼がやって来るのを知っていたかのように窓が開いてフランソワーズが姿を現した。以心伝心とはこういう事を言うのだろうかとジョーは嬉しくなった。
そうして、満面の笑みで一歩踏み出した。
――の、だが。

 

***

***

 

フランソワーズは眼下の人物に眼を留め、一瞬、心がざわついたもののすぐに気持ちを落ち着けた。
何故、彼がここにいるのかはわからない。
が、しかし、実際にここにいるからには何かわけがあるのだろう。
だから笑顔を作って問うた。

「あら・・・一体、どうしたの?」

と。

 

***

 

目の前の亜麻色の髪の持ち主を見つめ、ジョーは踏み出した足を止めた。

波打つ金色の髪は背中から腰まで流れ、それをひとつに束ねている長身の男。
その横顔には見覚えがあった。忘れるわけがない。彼はフランソワーズの相手役であり、更に言えば彼女の師でもあるのだ。
しかし。
何故、いまここに彼がいるのだろうか。こんな早朝に、彼女の部屋を見上げているなど普通ではない。

上階と地上とで見つめ合うふたりの姿を見つめ、ジョーはただ立ち尽くしていた。
こんなのはまるで――秘密の逢瀬に招かれてもいないのにやって来てしまったようではないか。
思えば、フランソワーズがこんな時間に起きているのも不思議な話ではある。しかも、窓が開いたタイミングはまるで約束していたかのようではなかったか。

ジョーはすっかり出て行くタイミングを失っていた。

 

***

 

「ちょっと通りかかったものだから」

金髪の男が柔らかな声で答える。優しい声音のフランス語であった。

フランソワーズはその言葉に一瞬、声を詰まらせた。が、ジョーの見るところ、それは迷惑そうな様子ではなかったし、怒っているようでもなく、ただ思いがけない事態に感激しているようなそんな様子だった。
片手で胸元を押さえ、呼吸を整える仕草。
そうして、白かった頬が赤みを増してゆく。
まるで薔薇が咲いたかのように血の通ってゆく様は、ジョーも滅多に見たことがなかった。
フランソワーズはこんなに――綺麗だったろうか。

――僕は見たことがない。こんな表情をする彼女は。

「そう――嬉しいわ。待って、いま下に行くから」
「いや、いいんだ。本当に通りかかっただけで、もしかしたら起きているかと思っただけだから」
「でも」
「いいんだ。こうして偶然会えるとは思っていなかったし。・・・もっとも、ずっと言おうと思っていた事があったのは確かだけどね」
「・・・何かしら」
「今回の公演の成功は君の力だ。――ありがとう」
「そんな、私の力なんて・・・」
「もっと自信を持つんだ、フランソワーズ」
「――はい」

見つめ合い、熱く語る二人を前に、ジョーは声もなかった。

――僕は・・・俺は。何のためにここまで来たんだ。こんな――光景を見るためか。

違うはずだった。
本当なら、今頃そこに立って彼女と話しているのは自分のはずであった。少なくとも――彼ではない。

建物の影に回り込み、二人の姿を自分の視界から消した。
――見たくない。
できればこの数時間を巻き戻して、無かったことにしてしまいたかった。
まさか、こんな――

本気で彼女が彼と親密な関係であるとは思っていなかった。が、それでも小さな疑惑は生まれてしまう。
いくら、信じている愛していると唱えても、それでも――いや、むしろ、その分だけ、生まれた疑惑はあっという間に育ってしまう。

・・・フランソワーズ。
だから、連絡もしてこなかったのか。
だから――パリに行くことも、「ジゼル」をやることも、何も教えてくれなかったのか。

心のどこかでは、そんなはずはない、全て誤解だ落ち着けと言い聞かせる自分がいる。が、いま、心の大部分を占めるのは、真っ暗くて重くて冷たいものだった。
フランソワーズと一緒にいる時はいつも、真っ白くてふわふわして温かいものが胸に広がるのに、こんな思いを抱くのは初めてだった。

ジョーは壁を背にしてずるずると滑り、地面に座り込んだ。

――何でだよ。フランソワーズ・・・

もし彼女が自分以外の男を愛したって、いい。ただ、それなら絶対にその姿を見せないで欲しかった。
突然やって来た自分が悪いとはいえ、こんな光景に遭遇するとは自分はいったいどんな悪い事をしたというのだろう。
ここまで来る間じゅう、彼女の事ばかり考えていた。それ以外は本当に考えていなかった。
愛しくて、会いたくて、声を聞きたくて。
触れられなくても、蒼い瞳に自分が映ればそれで良かった。
その声で、自分の名を呼んでくれればそれだけで良かったのだ。

 

***

***

 

――どうして彼がここに。

内心の動揺を押し隠し、フランソワーズは会話を続けた。
鼓動が速くなって、冷えていた身体が熱くなってゆく。血が――熱い。
胸元に手をあてて息を整える。

本当は、今すぐここから飛び降りて彼の元へ走りたい。が、そんな事をしたら彼を驚かせてしまうから我慢した。

どうしてここに――いるの?

手が震える。
やっぱり、このままここに居るのなんて耐えられない。
彼が目の前にいるのに。

「フランソワーズ。それで、実は今度の――」

彼が話し始めた瞬間、フランソワーズの心は決まった。まるで突然、心臓を掴まれたように本当に――胸が苦しくなったのだ。
息ができない。胸が痛い。
いま彼を抱き締めなければ自分はこのまま死んでしまうかもしれない。

「待って。今――そこへ行くから」

言い捨てると身を翻した。
兄が起きてしまうかもしれないが、どうでも良かった。そこまで思い遣る心の余裕は既に無い。
勢いそのままに玄関のドアを開け、階段を二段飛ばしで駆け下りる。そして、アパルトマンの外扉を開けて走り出す。

目の前には彼の姿があった。

「フランソワーズ?いったい、どうし」

驚いている彼の元へ駆け寄った。

 

***

 

ジョーはぎゅっと目を閉じた。
何も見たくない。
何も聞きたくない。

早く――早く二人とも俺の前から消えてくれ。

けれどもそれは無理な相談だった。何しろ、ここに居るべきではないのは誰あろう、ジョー自身なのだから。

消えるべきなのは・・・俺、だ。

苦い思いと共に立ち上がる。
立ち上がろうと、した。
が、その肩を上から押さえつけられた。

 

***

 

フランソワーズの師は、彼女が突然自分の元へ駆け寄ったので大層驚いたのだったが、そのまま彼女がスピードを緩めず脇目もふらず自分のそばを通り抜けて行ったので、苦笑しながらその後ろ姿を目で追った。
そうして、彼女の向かう先を見つめた。

やはり――。

またか。

何度目だろう。彼女が彼を選ぶのは。
いや――選ぶのではなく、おそらく「決まって」いるのだろう。既に。

まあ・・・いいさ。
本当に、偶然通りかかっただけなのだから。

一晩飲み明かし、酔い覚ましにと歩いて帰る途中、ふと思いたってこの道を通ってみたのだった。
ただそれだけで――他意はなかった。

肩をすくめると、そのまま振り返らず自分の家へと歩き出した。

 

***

***

 

あまりにも突然のことだった。彼の姿が目に入ったのは。
よく知っている金色に近い栗色の髪。そして、大好きな褐色の瞳。

何故かわからないけれど、彼はすぐ建物の影に隠れてしまったのでフランソワーズは動揺した。
今、目の前に師がいなければ、ここから飛び降りて行けるのに――と、唇を噛んだ。
彼が何か話しているが、フランソワーズは適当に話をあわせるだけで、意識は建物の影に立っている褐色の瞳の彼に向いている。
胸がドキドキして苦しい。
全身の血が逆流する。
細胞のひとつひとつが、彼に会いたいと渇望する。

もうこれ以上は限界だった。

なぜ、すぐそこに彼がいるのに、私はここにいるのだろう?

そう思うのと、彼が座り込むのが同時だった。
後は――わけがわからなくなり、フランソワーズはただ走り出していた。

 

 


 

4月20日

 

ジョーはその寒さに、思ったより薄着で来てしまったと頭の隅で後悔した。が、状況を考えれば、それも仕方のない事だったろう。何しろ今、ここにこうしているのもよく間に合ったものだと我ながら感心するのだから。
とりあえず――歩を進めた。
花屋なんて開いてないよなと思いながら。

 

***

 

フランソワーズは眠れないまま朝を迎えていた。
昨日、終了した公演は大成功だった。その後の取材や打ち上げ等で家に帰ったのは真夜中過ぎ。その後、寝ずに待っていた兄と少し飲んで――そのままずっと起きている。
眠気は全くない。それでも少しは眠ろうとベッドに横になったりもしたのだが、神経が興奮したままなのか一向に眠りの訪れる気配はなかった。もっとも、神経が興奮しているわけは終演後だからというだけではないことをじゅうぶんわかってはいたのだけれども。
つい先刻まで、F1の中国グランプリを観ていたのだった。録画していたものだ。
自分が舞台で頑張っていた頃、――多少の時間のずれはあるとしても――彼も頑張っていたのだと知るのは嬉しかった。
公演が終了しても、レースが終わっていても、未だにお互いに連絡はいっさいしていないし、きてもいなかったけれど、それでも良かった。大丈夫だった。

――だって。ジョーがどんなに頑張ったのかわかるもの。

画面越しではあったけれど、彼の顔を見ればわかる。自分を信じて戦う男の顔。そして、おそらく――フランソワーズも頑張っているであろうと信じてくれている。
それだけで良かった。

夜が明けて、薄く霧のかかっているパリの街は4月にしては肌寒かった。早朝だからというのもあるだろう。
フランソワーズは部屋着の上にストールを羽織ると、窓を開け放した。ひんやりした空気に一瞬、身をすくませたものの、徐々に慣れてくる。
深呼吸した。
そして、空を見つめ――考えた。

――いつ、日本に帰ろうか。

思わず微笑んでいた。日本に「帰る」と自然に出てきた言葉。それは意外でもなんでもなく、本当に無意識に出た言葉だった。
日本に居るときは「パリに帰る」と言っている。だから、自分には「帰る」国が、ふたつあるということなのだろう。パリと日本と。
しかし。
いつ日本に帰ろうかと思ったすぐその後で、やや気持ちが落ち込んだ。
――違う。
自分が帰りたいのは、本当は「日本」ではなくて・・・「ジョーのいる日本」なのだ。ジョーと日本はセットであった。だから、彼がいないならば日本に「帰る」ことにはならない。
一番帰りたいのは、――帰る場所は。

フランソワーズは笑みを消し、深く息をついた。

ジョーは今、日本にはいない。
今頃、次のレース開催地へ向かっていることだろう。
シーズン中、しばらく会えないのはいつものことである。だからいい加減慣れてもいいはずなのに、何故かどうしても慣れなかった。毎回、寂しいと思ってしまう。いったい、自分はいつからこんなに寂しがりになってしまったのだろうか。
今回のように公演とレースが重なっているときは、いい。でも、そうでは無い時は・・・

――もう少し、パリに居ようかな。

ジョーがいない日本に急いで帰る必要はなかった。レッスンもしばらく休みだから、もう少しここにいても何の問題もない。
しかし。日本にはGWというものがある。ゆっくりしていると、返って帰る事ができなくなってしまう危険性があった。もしかしたら既に航空券を入手することは難しいかもしれないのだ。
フランソワーズはもう一度息を吐き出すと、やっぱり早々に日本へ帰ろうと思った。ジョーがいなくても、それでも自分は彼の帰ってくる場所へ帰るのだ。
いい加減冷えてきたので、窓を閉めようと手を伸ばした時に気がついた。

――誰かいる。

窓の下から、じっとこちらを見つめている。

 

***

 

しばらく会っていなかったけど、でもやっぱり可愛いなぁ・・・とジョーはしみじみ思っていた。
チラシの「ジゼル」の彼女は本当に綺麗で、思わずずっと眺めてしまうのだが、やはりどうしても自分の恋人とは思えず、寂しい思いを抱いてしまう。だから、久しぶりの「実物」の姿はなんとも感慨深いものがあった。
じっと窓外を見つめるその姿。

――何を考えているんだろう。

きりりとした真剣な瞳。あの瞳は今、何を見ているのだろうか。
その彼女が、ふっと視線を落としため息をついた。聞こえるはずもないのに、ジョーにはそのため息がとても大きく悲しく聞こえた。

――フランソワーズ?

 


 

4月18日

 

「凄かったなぁ。ファンション、お前、大人になったなぁ」

公演2日目が終わった。
終演後、フランソワーズは兄と一緒に帰ったのだが、その間じゅう兄ジャンは興奮冷めやらずといった風情で「凄いなあ」を繰り返すのだった。フランソワーズとしては、嬉しい反面、照れくさくて仕方なかった。

「大人になった、って・・・だって私、大人だもん」
「そうやって膨れるとまだまだ子供だけどな」
「もうっ。うるさいわよ、お兄ちゃん」

ジャンはひとしきり笑ってから、改めてフランソワーズを見つめた。

「・・・去年の12月の公演もこういう感じだったのか?」

観に行けなかったジャンとしては、いまその代わりに観れているとしてもやはりその出来が気になるのだった。

「うーん・・・どうなのかしら。両方、観てくれたひとがそばにいればわかると思うんだけど」

日本とパリとでは客層は全然違う。両方の公演を観ているひとなんて皆無のはずだった。

「そうか。でも――うん。俺はお前を自慢に思うよ」

静かに言う兄に、フランソワーズは胸が熱くなった。ふっと浮かんだ涙を隠すように、兄の腕に寄り添う。

「ジョーのヤツも観たいだろうなぁ」
「今頃は中国でレース中よ」

確か今日は予選のはずだった。
あの日、電話で声を聞いて以来、やっぱり音信不通になってしまっていた。ジョーから電話もメールもこない。しかし、こちらからも連絡をしていないのだから、お互い様だった。
でも、寂しくはない。

「でもさ」

言い募る兄に、フランソワーズはにっこり笑んだ。

「ジョーは12月に観てるから、いいの。それに今はレースに集中しているから、私もバレエに集中して一緒に頑張るの」
「そうか」

どこか諦観しているような笑みではなく、本当に心から「一緒に頑張る」と言っている笑顔のフランソワーズにジャンはほっとした。
以前なら。「寂しい」とごねたり、変に強がったりする子だった。それが今は――ずいぶん大人になったような気がした。それは嬉しいことでもあり、少し寂しくもあった。

「レースは観なくていいのか」
「どうして?」
「どうして、って・・・」

きょとんと問い返すフランソワーズにちょっと黙って。

「・・・ヤツはあまり調子が良くないだろう。お前だって心配じゃないのか」
「全然」
「全然?」
「ええ。・・・何か変?」
「――イヤ」

――本当に強がって言っているのではないのだろうか。

兄は妹が実は上手に虚勢を張っているだけではないかと疑う。が、まっすぐ前を見ている妹の横顔は強がっているわけでもなく兄に演技をしているわけでもなさそうだった。そういう顔をしていればすぐにわかる。何しろ、感情を露わにしていた幼い頃から彼女のことを見ているのだから。

 

***

 

兄の視線を感じたが、フランソワーズはただまっすぐ前を見据えていた。
ジョーのことが気にならないわけではない。が、今はそれよりも自分のことを優先しなければならなかった。
――ジョーとはそう約束しているのだから。
お互いに「自分のなかの大事なもの」が一番であり、相手のことはそのずっと下位でいいと、そう決めている。
相談したわけでも、口に出して約束を交わしたわけではないが、――そう約束しているつもりでいる。
自分がバレエを二の次にしてジョーのことを心配しても彼は喜ばない。反対に、彼がレースをおろそかにして自分のことを心配しても、ちっとも嬉しくなんかないからだ。自分と仕事とどっちが大事なのなどと言う質問をする愚かな恋人にはなりたくないし、絶対にならない。

だって私はどちらも選ぶんだから。

どちらも大事だから、どちらも諦めない。
それは、通常の倍以上頑張らなくてはならないことを示している。それでも、どちらも選べないから選ばない。両方とも――取る。
だから、頑張る。

そう決めていた。
それはおそらく、ジョーもそうだと思うから。

 

***

 

予選を終えた後、ひとり自室でジョーは心を決めていた。

どう頑張っても、間に合うようには着けるわけがない。優勝したら尚更だ。
もし優勝も入賞もしなかったら――ということは考えない。
レースの前に、勝利以外のことを考えたりなどしないのだ。

――翌日の早朝か。

レース期間中、自分の時間を取れることなど殆どない。しかも次のレースは一週間後なのだ。
しかし。
それでも。

どちらか一方だけ――とは考えない。

俺は両方取る。
勝利も、――

 


 

4月14日

 

――全く、無茶な事を言ってくれる。

ジャンとの通話を終えた後、ジョーの唇には笑みが浮かんでいた。

結局、フランソワーズとはまともな会話をしていない。
しかし、それでも十分だった。とりあえずは――少なくとも――声は聞けたのだから。

先刻まで感じていた孤独感は既に無く、身体を襲っていた冷えも感じられない。
今は不思議なくらい気力に満ち溢れていた。

そして――ジャンの台詞である。

『お前はフランソワーズを泣かせたんだから、当然罰を受けるべきだろう?だったら・・・』

確かに、自分はフランソワーズを泣かせてしまった。だから、彼女の兄であるジャンが、妹を泣かせた相手に対し強い態度に出るのは当たり前の事であり・・・

本来なら、ジョーはジャンの申し出にもっと困ってもいいはずだった。
それは無理だ、と。物理的に不可能である、と。できない、と。
しかし、ジョーは彼女の兄に対し「できません」と言いたくはなかった。あっさり負けを認める気にはならなかった。
できるわけないだろうけどな、と言外に滲ませた声を聞いて思わず言っていた。
できます。
と。
それに対しジャンはひとこと「そうか」と言っただけだった。が、これで男同士の約束は成立した。
ジョーにとっては無理難題に違いなかったが、ずうっと前にジャンに言った通り、自分はどちらかを選ばなくてはならなくなった時両方を選ぶと、どちらかを後回しにしたりはしないと心に決めている。
例えば、フランソワーズと要救助者どちらかしか救う時間がないとしても、それでも絶対にどちらも見捨てないし順序もつけないと決めているのだ。
それは、ジョーにとって彼自身を支える信念のひとつなのだから。

――本当に・・・ジャンも無茶な事を言う。だけど・・・やってやる。

ジョーの唇に浮かんだ笑みは苦笑に近いものだったが、それは徐々に不敵な笑みへと変わっていった。

 

***

***

 

兄にジョーを横取りされたフランソワーズは、すこぶる不機嫌だった。
まだ何も話してないのに酷いわお兄ちゃんとの声に、その前からずいぶん時間をかけていたくせに何も話してなかったお前らが悪いと兄は答えた。
確かにそれは事実だった。ジョーとあれこれ話す時間はじゅうぶんにあったはずなのに、声が詰まって会話にならなかったのは他でもない自分のせい。
だから、兄に当たるわけにもいかず、フランソワーズは自室にこもっていた。

兄とジョーとの遣り取りを聞こうと思えば聞けたが、そうはしなかった。
日常生活では自分の力を使うことはしたくない。

けれども、やっぱりもう少しジョーと話したかったなと未練がましく携帯電話を見つめる。
今日の帰り道、すっかり寂しくなっていた気持ちは既に無い。ジョーとほんの少ししか話してないとはいえ、彼の声を聞き、名を呼ばれた彼との時間は、こんなにも自分を元気にさせるのかと不思議に思うくらいだった。
これで、もうしばらくは――頑張れるだろう。

パリ公演は今週の金曜日から三日間だった。

 


 

4月13日

 

無理な話ではあるけれど、言ってみるのは自由だ。

言ったら最後、歯止めがきかなくなるだろうとジョーは頭の隅でちらりと思ったが、思った時にはもう言っていた。

「会いたいよ。フランソワーズ」

そうして、言っている途中で感極まって、鼻にかかった涙声になってしまった。
我ながら情けない。たった数週間、会っていないだけなのに。
しかし、今回は会っていないだけではなく、声も聞けずメールもせず完全な音信不通だったのである。後によく耐えられたよなと思うほどの。

「私も。――会いたいの。ジョー」

一方のフランソワーズも、ジョーの思惑とは全く無関係に言ってしまっていた。素直な気持ちを口にしたら、少しは落ち着くだろうかと思いながら。

 

***

 

携帯電話を忘れるな――というフランソワーズのメモ。それは以前、ジョーが忘れていったためにフランソワーズと音信不通になり辛い思いをしたことに起因する。だから、今度は絶対に忘れるなとそのための注意書きだった。
それがベッドサイドにあったのは、以前そこに忘れたからだった。
おそらくレースの途中にここに戻ってくることもあるだろう。そしてフランソワーズが一緒にいないことももちろん当然考えられることであり、その場合、携帯電話を持ったか否か出発前に確認してくれる人はいない。だから、忘れないようにという、これはフランソワーズの配慮だった。
客観的にみれば、ただのそういうメモである。
が、ジョーにとってはそれ以上の意味があった。
つまりこれは――自分のことを気にかけてくれる人が居る証拠であり、ここで彼の帰りを待ち、そして送り出す時までその存在を示すものだった。
しかも、携帯電話を忘れて辛かったのは何よりジョー自身であったとわかってくれていて、だからこそ注意を喚起してくれているのだ。
そんな存在はフランソワーズしかおらず、ただのこのメモ紙がまるでフランソワーズそのものなのだとジョーは思った。だから――泣いた。
マシンの方が大事なんて嘘だ。レースができるのだって彼女がいればこそなのだ。なのに、――連絡もせずに一体何をやっているのか。
勝手に彼女を遠くに感じて落ち込んで。でも、それでもいいかと自分の気持ちを誤魔化して。そんな異常な心でレースに臨んだとしても良い結果がでるわけがない。
なぜ自分に何も知らせずパリに行ってしまったのか、どうしてジゼルをやることを教えてくれなかったのか――等々を思うと置いてけぼりにされたような、仲間はずれにされたような寂しい気持ちになった。そしてそんな気持ちになったのを認めたくなかったから――十代の自分ではなく今は大人なのだから――そんなの平気だと、知らされなくても全然構わないさと格好つけた。自分の本心を押し隠して。
だから。
他愛のないメモだったけれど、それを読んでジョーは押し隠していた気持ちにとうとう嘘をつけなくなってしまった。
全ての感情が押し寄せた。
自分を思ってくれているフランソワーズが確かに存在しているのだという嬉しさと、それなのに自分には何も予定を知らせてはくれなかった寂しさと。
どうしていま自分はここに独りでいるのか。
どうして独りきりで、戦っているのか。
独り。
そう思った瞬間にとても寒くなって――凍えそうだった。
いま、フランソワーズの声を聞かなければ死んでしまう。真剣にそう思い、彼女を渇望する気持ちは切実だった。
パリが今何時でもいい、フランソワーズが寝ていても、レッスン中でも、なんでもいい。電話に出るまで掛け続けるつもりだった。

「――フランソワーズ」

きみがいないと僕は――

 

***

 

会えなくても平気。
そう思わなければ、寂しくて寂しくて仕方なかったのだ。
だから、自分の気持ちを誤魔化して、ジョーなんかいなくても自分は平気なのだと、やっていけるのだと――思い込んだ。
でも。
パリの街を歩いては彼を思い出し、セーヌ河を見ては彼の姿を思い描き――パリは自分の故国なのに、ジョーがいるのが当たり前のように彼の姿がちらついた。
離れて初めて、彼の存在がいかに大きかったか思い知らされた。
そんなのはドラマや小説の中の大袈裟な表現だとばかり思っていた。でも、違った。
落ち込んだり、悲しい気持ちになったり、挫けそうになった時、そばに居て欲しいと思うのはジョーだけだった。
友人と食事をしたり他愛もない話をしたり。それはそれで気分転換にはなった。
でも。
フランソワーズの力を信じ、支えて励ましてくれるのはジョーでなくてはダメだった。
いくら兄が同じことを言っても違うのだ。
それは、おそらく――自分も彼の力を信じているから。
彼が頑張っているから自分も頑張る。頑張れる。
けれど。
それは、テレビで彼の姿を観たり、新聞で彼の記事を読んだりして間接的に受け取るのではなく、本当は直接会って声を聞いて、彼をそばに感じていたかった。

ジョーの声を聞いて、ほっとして、嬉しくて、――胸が詰まった。
これではいけないわと、正直に素直に今の気持ちを話せば少しは落ち着くだろうと、会いたいと言った。
が、自分の思惑通りにはならなかった。
むしろ、独りでいる寂しさが胸に広がった。

「ジョー、私」

パリにいるのを内緒にしていたのではなくて、ただ予定を伝えるタイミングがなかっただけなの。
先刻のジョーの「今パリにいるんだろう?」の声に寂しくて拗ねている色が混じっていたので、フランソワーズは誤解を解こうと慌てて言った。
言おうとした。
が。

結構派手にくしゃみをしてしまった。

そういえば、シャワーを浴びてタオルを巻きつけただけの格好だった。
髪もすっかり冷えてしまっている。

「フランソワーズ?」

大丈夫かいというジョーの声を遠くに聞きながら、もう一回盛大なくしゃみ。

「――ごめんなさい。実はいま」
裸なの――と言おうとして、そこまで報告しなくてもいいかと思いなおした。

「あの、その」

何て言おう?

逡巡している間に手から電話を抜き取られ、それと同時に肩にガウンがかけられた。
視線を巡らせると、そこには兄が立っていた。ウインクひとつ。そうして電話の向こうの彼に話しかけた。

「もしもし、ジョーか?俺だ」

 


 

4月12日

 

「・・・ふ、」

フランソワーズ――

そう言うつもりが、胸が詰まって声にならない。

「もしもし、ジョー?」

繰り返し名を呼ばれる。が、情けなくも声が出ない。
電話を持っている手が震える。その手をもう片方の手で支えながら。

「・・・ジョー?」

心配そうな声が響く。

「・・・ふ、ふら」

咳払いをひとつして声を整える。

「――フランソワーズ・・・」

そういえば、ここしばらく――声に出して名前を呼んでいなかった。
改めて音にしてみると、なんて心地良いのだろう。
目の前にいなくても、呼んでみればよかった。そうすれば、こんなに動揺せずにいられたかもしれないのに。

「ジョー?大丈夫?どうしたの?何があったの」

矢継ぎ早に質問されるが、どれもうまく聞き取れない。

「別に・・・どうもしない」

答える声は、やっぱりか細くて。フランソワーズでなければ何度も聞き返すところだったろう。

「――いま、どこにいるの?」
「日本」
「じゃあ、・・・真夜中でしょう?ダメじゃない、寝なくちゃ」
「――うん・・・」

そうなんだけど。
でも。

「その、――メモがあった」
「・・・え?」
「それ、読んだから」
「読んだから、って・・・」

 

***

***

 

懐かしい。

まず、そう思った。
そんなに長い間聞いていなかったわけではないけれど、それでも――ジョーの声が懐かしくて胸が詰まった。
ちゃんと言葉になっていない声だったけれど、それでも全然構わなかった。

「・・・ジョー?」

耳をすませるけれど、聞こえてくるのはジョーの息遣いだけでまともな会話になりそうになかった。
でも、この電話の向こう側には彼が居る。
途切れ途切れのジョーの言葉でわかったのは、彼は今日本にいるということだけだった。
そういう君こそ、今どこにいるの――という質問がくると身構えていたが、一向に訊かれない。自分が今どこにいるのか問われないということは、彼が居るのはギルモア邸ではないということである。
それで――メモ。
合点がいった。

「・・・たいしたこと書いてないのに」

メモを読んだから電話してきた――とは思えない。そんなことは書いていないからだ。ただ、それを読んだから思い出したとは言えるかもしれない。
だとしたら、それを見るまで自分のことは全く思いだしていなかったのだろうか。

一瞬、寂しさがよぎったが、むしろ、そういう状況であって欲しいと願っていたのは自分に他ならなかったから、フランソワーズは軽く頭を振ってその考えを振り払った。

「でも――思い出したんだ?」
「うん。・・・ごめん」
「どうしてごめんなの?」
「・・・何も連絡しなかったから、だから」
「そんなの、」

気にしてないわ――と言いかけて、不意に胸が詰まった。
大好きなのに。
誰よりも大切なひとなのに。
なのに、この数週間、話さなくても平気だった。なんとも思わなかった。会いたいとも寂しいとも、何にも。
ジョーに対してニュートラルな思いでいたなんて信じられなかった。
だから、きっと嘘なのだろう。
本当は話さなくて平気――ではなく、会いたくて、話したくて、寂しくて仕方なかったはずだった。
けれど、それはいくらそうであってもどうしようもないことだったから、自分で自分の心を守るために防御した。無意識に。会わなくても平気なのだと、そう思い込ませていた。

「・・・フランソワーズ?」

急に黙り込んだのを心配したのか、ジョーの声が少し大きくなった。
名前を呼ばれたのが嬉しくて、フランソワーズは更に声を出せない。いま何か答えたら泣いているのがばれてしまう。

「いま、パリにいるんだろう?」
「えっ・・・」

どうして知っているの。

「また『ジゼル』をやるんだね。今度はジャン兄も観られるね」

どうして――ジョーは色々知ってるの?

 

***

 

こちらが少し落ち着いたぶん、今度は電話の向こうのほうが怪しくなっていた。
不自然にフランソワーズの声が途切れ、逆にジョーは落ち着いた。彼女が泣いているなら、自分が泣くわけにはいかないではないか。

フランソワーズが落ち着くのを待ちながら、ジョーは手のなかのメモ紙を見つめる。

本当に――救われた。

他愛もないひとこと。
だけど。

レースのことやマシンのことだけを考えているのは楽しかった。
いくら辛い事があっても、やはり好きなのだ。
が、それでもやはり、どんどん落ち込んでゆく気持ちはどうしようもなく――今までそれを自分ひとりでどう打破していたのかもわからなくなってきていた。
おそらくここ数日は酷かったのだろうと思う。自分でも何を言い何をしてきたのか記憶が曖昧だし、スタッフと何か話した記憶もない。ただ――自分は独りきりで戦っているのだと思い始めていたのは事実だった。
冷静になるのは大事だったけれど、必要以上に心を醒ますことはないはずだった。
何も感じず、ただこなすだけ。
そんなことで――うまくいくはずがない。

そんな中、フランソワーズの書いたメモを見つけた。
それは偶然だったのか、必然だったのかはわからない。

ただ、――このままではいけないと――こんな状態は不自然なのだと――気がついた。

 

『携帯電話を忘れないように!』

 

以前、携帯電話を忘れて行って、凄く辛かったことを思い出した。
そして、フランソワーズが会いに来てくれてとても嬉しかったことも。

――会いたいな。

けれどもそれはやはり、無理な話だった。

 


 

4月11日

 

日本でジョーが自宅マンションに帰り着いたその頃。パリのフランソワーズはレッスンを終えてアパルトマンに帰る途中だった。
パリ公演の「ジゼル」。日本で演ずるのより感慨深いものがある。

昔の仲間や友人も観に来るだろう。そして――何故、急に姿を消したのかと問い質すだろう。
それを思うと気が重い。うまく誤魔化して、はぐらかすことができるだろうか。
しかし、今回は幸か不幸か味方がいた。日本公演で相手役だった師が今回のパリ公演でもパートナーなのだ。
いくらか事情を知っている彼が、おそらくカバーしてくれることだろう。

ずっと夢だった「ジゼル」。
思い描くだけで叶うことなどないだろうと諦めていた。その夢が――叶った。

今まで自分に自信が持てなくて、配役を決める時もどこか萎縮したり、おどおどした態度になってしまっていた。普段の練習と比べると最悪だ。そんなだったから、重要な役を割り振られることは稀だった。
誰もが言ったものだ。いったい、どうしたのかと。普段のあなたなら全く問題なく主役の座を射止められるのに。
だから、「ジゼル」など夢のまた夢。ましてや主役など踊る日がくるとは思っていなかった。
いつか踊れたらいいな。
「いつか」は「いつか」であり、永遠に来ないものだと思っていた。
それが今。
夢が叶う。

セーヌ川のほとりを歩きながら思う。

自分に自信をくれたのは、ずいぶん前に、ここを一緒に歩いたひとだった。
強い瞳で「君ならできる」と信じさせてくれた。何より、自分が自分の力を信じなければいけないと教えてくれた。
たくさん練習したのだから、大丈夫。あとは自分を信じろと言ってくれた。
それはどんなに心強かったことだろう。
普段は逆の立場なのに、彼の強い瞳と自分を信じてくれている彼の思いが嬉しかった。

その彼はいま、ここにはいない。

遠いアジアの地で自分自身の夢のために頑張っている。

――だから、私も頑張らなくちゃ。・・・・。

気合をいれるつもりで胸の裡で言ったものの、足はいつしか止まっていた。
アパルトマンに帰る道ではなかった。ここは――

あの日、パリにはもう帰らないと決めた場所。

ジョーとふたりでパリに来て、そして――彼と待ち合わせた場所だった。
帰る前に友人に会いたいと言ったフランソワーズをひとりで行かせてくれた。おそらく彼はあの時、もしかしたらフランソワーズは戻って来ないのではないかと思っていたのだろう。彼の名を呼んで駆け寄ったとき、一瞬、意外そうな目をしていたのが忘れられない。
寄り沿って歩いた帰り道。
もうパリに戻れなくても、彼がいればいいと思って歩いた道。
今いるのは、あの時の場所だった。

けれども、ジョーはここにはいない。

 

 

――連絡しなくても平気だなんて、嘘だ。

 

そんなの、忘れたふりをしていただけで、

思い出すと会えないのが辛いから。だから。

 

セーヌ川の水面が光るのは、街灯を反射しているせいではなかった。

 

 

***

 

 

キッチンでコーヒーを淹れながら、手の中で携帯電話を弄ぶ。

――電話してみようか。

でも。

ジョーとはずいぶん話していない。もちろんメールも送っていない。思えば随分薄情な恋人であった。
今も「恋人」と呼べるなら。
――そう呼んでもいいのだろうか。
わからない。

何しろ、彼にはパリ公演があることも、パリに来ていることも言っていないのだ。
なぜ言わなかったのか――は、わかっている。
ジョーは開幕戦以来落ち込んでいたから、第2戦に集中するのを妨げたくなかったのだ。
もちろん、フランソワーズが何を言っても彼の邪魔になどなるわけがないとは思ってはいたけれど、それでも、レース以外の雑音はできるだけ彼の耳には入れたくなかった。
そして、おそらくそれでよかったのだろう。
その証拠に――ジョーから電話もメールもきていない。つまり彼はいま、レースの事しか考えていないということだ。
それで良かった。

ジョーはいまどこにいるのだろう。

電話しようと思っても、いざ掛ける段になると中々先へ進めない。
彼がいまどこにいるのかによって時差が違ってくるし、もしも既に中国の方へ行っているならば、おそらく今は真夜中のはずだ。
眠っている彼の邪魔をしたくはない。
しかも、何か用があるというわけでもないのだ。

ため息をついて電話を置くと、そのままバスルームへ向かった。兄に一言声をかけて。
コーヒーの事はすっかり忘れてしまっていた。

 

 

***

 

シャワーを浴びて頭をすっきりさせようという思惑は失敗した。
ギルモア邸に居る頃は、「あっちむいてホイ」対決でどちらがどちらの髪を洗うのか決めていた。「対決」とはいってもそこはその時の状況によって「手抜き」をするのも暗黙の了解だった。つまり、どちらかが落ち込んでいたり疲れていたり、甘えたいモードの時は――相手に構ってあげられるようにもっていくのだ。
そのうち、勝ったほうがどうなのかなんてルールはすっかり忘れてしまったものだけど。だけど、湯気のなか、他人からみればどうでもいい話をしながら笑い合うのはとても楽しくて、幸せで、ほんのちょっとの嫌なコトもあっという間にどうでもよくなって消えてしまう。そんな空間が好きだった。

でも、いまここに彼はいない。

 

 

***

 

 

電話と言われ、手に取ったそれは「犬のおまわりさん」を奏でていた。
日本の子供番組で知った童謡。泣き虫なのがそっくりだからと着信メロディーに決めた。泣き止まなくて、一緒に泣いてしまうのもそっくりねと笑い合った。

――迷子の子猫ちゃん。

それは・・・

 

「もしもし、ジョー?」

 


 

4月10日

 

意外と平気なものなのかもしれない。

今まで、こんなに離れた事はなかったからわからなかっただけで、実は二人とも遠距離恋愛に向いていたのかもしれない。

と、言うより。

いなくても大丈夫――なのかもしれない。

 

 

***

 

中国グランプリまでまだだいぶ日があるため、ジョーは一旦日本に帰ってきていた。
明後日からエンジンのテストの為、またすぐに出発する。だからギルモア邸には戻らず自宅マンションに帰ることにした。

「ただい・・・」
ただいま、と言おうとして、真っ暗い室内を見つめ黙った。
すっかり癖になっていて、自分しかいないとわかっていてもつい言ってしまう。
小さくため息をつくと、ジョーは玄関ドアを閉めた。

真っ暗な部屋。
静かで。
――誰もいない。

無造作に荷物を置くと、リビングのブラインドを全て上げた。
外を見ると、今夜は満月だった。
ギルモア邸と比べると、格段に周囲が明るいため青白い月の光はここまでは届かない。

改めてベランダに出てみる。
やはり、月は遠い。
ギルモア邸で見る海の上で輝る月と同じものとは思えないくらい遠くに感じる。

ジョーは手すりにもたれ、煙草に火を点けた。
吐き出される煙はため息とともに漂っていく。

思うのは、今季のレースの事だった。

 

煙草を喫い終わるとジョーは室内へ戻った。
トランクを開けて洗濯物を出すと、そのままランドリールームへ消えた。
しばらくしてリビングに戻ると、今度はノートパソコンを取り出し電源を入れる。起動するまでの間、キッチンでコーヒーを淹れることにした。が、実はコーヒーメーカーの使い方がわからない。ので、缶ビールに変更する。
数口飲んで待っている間にパソコン画面が明るくなり――フランソワーズが現れた。
しかし、対面するジョーは眉ひとつ動かさない。
それもそのはず、このフランソワーズはジョーの知らない彼女なのだ。
今年のスプリングツアー『ジゼル』のチラシ。
先日見つけて、何となくパソコンの壁紙指定にしていた。

しばらく彼女を見つめたが、特に何の感慨も抱かず、メールチェックを開始した。

 

***

 

一時間後。

パソコンを閉じ、ランドリールームを覗いて――洗濯が済んで乾燥に切り替わっている事を確認し、バスルームへ向かった。手早くシャワーを浴びて出てくると、タオルを腰に巻いただけの格好でベッドルームへ向かい――そのままドアを開けてベッドにダイブした。
面倒だからこのまま寝てしまおう・・・と、ごろんと寝返りを打ちながら、器用に上掛けをめくり、そのまま身体を滑り込ませる。ベッドサイドにある時計で時刻を確認しようと視線を巡らせ、それに気付いた。

「・・・?」

手を伸ばし、指先でつまむと目の前に持ってくる。が、暗くてよく見えなかったので――強化されているとはいえ、真っ暗闇で小さな文字を読むというのは、「眼」の微調節が必要であり、疲れている今それをやるのはきつかったのだ――軽く舌打ちすると半身を起こし、サイドライトを点灯した。

それは小さなメモ紙だった。

ジョーはそれに目を通した。

たった数行の短いメモだったけれど、ジョーは何度も繰り返し読んだ。

何度も何度も。

そして、読んでいるうちに何故か――視界が滲んできた。
あれおかしいな、と思っている間に、手元に水滴が落ちて驚いた。顔に手をやると頬が濡れている。手の甲で乱暴に拭いた。が、何故かそれは後から後から流れてくるようだった。

急に深い寂寥感に襲われた。

寒い。

そういえば、何も着ていなかったと思い出し、パジャマを引っ張り出して身につけた。が、それでも寒さは消えなかった。
物理的な寒さではなく、これは――自分が最もよく知っている、孤独という名の寒さだった。

ひとりの時は平気だった。
しかし、この寒さは、いったん誰かがそばにいる温かさを知ってしまうと耐えるのが難しくなる。
そんな寒さなのだ。

ジョーは唇を噛み締めると、手の中のメモ紙を大事に胸ポケットにおさめ、ベッドルームを出た。
そうして導かれるように、リビングのテーブル上に放置していた携帯電話を手に取っていた。

フラップを開け、そのまますぐに電話をかける。

今何時だとか、相手はいまどうしているのかなど、そんなのはどうでもよかった。今のジョーは、こうすることでしか救われないのだから。

耳に響くコールを数えながら、ジョーの身体はすっかり冷え切っていた。胸ポケットの部分だけを除いて。

 

 

***

 

パリのアパルトマンに響く、携帯電話の着信メロディー。
特徴的なそれは、何かの歌のようでもあったが生憎ジャンは知らなかった。

「ファンション、電話っ」

怒鳴ってみたものの返事はなく、そういえばバスルームに行ったっけと思い出す。
無造作にキッチンテーブルに放置されている電話はしつこく音楽を奏で続ける。

「――出ちまうぞ」

ひょい、と電話をつまみ上げ――誰からの電話なのか確認して顔をしかめた。

「・・・ったく」

そのまま電話には出ず、特徴的な音楽を流し続けるそれのストラップを指にひっかけ軽く振り回しながらバスルームに向かった。

「ファンション、・・・」

しかし、バスルームからは水音が響くだけである。

「おーい、フランソワーズっ」
「なあに、お兄ちゃん」

――あいつ。自分の愛称をすっかり忘れてやがる。

小さい頃は、「ファンション」と呼ぶと可愛く笑ったものだった。が、その笑顔が失われてから長い。
今ではもう自分がそう呼ばれていたことすら憶えていないのではないだろうか。
そう思うと胸の奥が苦しくなる。
だから、・・・考えないことにしている。が、たまにそれが事実として突きつけられるとやっぱり辛かった。

「――電話だぞ」
「誰から?」
「知らん。自分で出ろ」
「えー」

しつこく音楽が流れる携帯電話をドアのそばに置くと、踵を返してリビングに戻って行った。

 

***

 

 

バスルームのドアのそばで、携帯電話は鳴り続ける。

フランソワーズは手早く身体を拭くとタオルを巻きつけドアに手をかけた。
そして初めて、着信メロディーが聞き取れた。――日常生活では耳のスイッチも眼のスイッチも入れていない。

「・・・あ」

この音楽は。

 

 

***

 

 

ジョーはコールを数え続けている。絶対に切らない。
相手が出るまでは何度だって掛けるつもりだった。
例えそれが相手にとって迷惑なものであったとしても、まるで自分が――ストーカーのようだと思っても――構わなかった。

そんなことはどうでもいい。

自分は今、この相手と話さなければきっと――

 

 

 

***

 

「・・・迷子の迷子の」

子猫ちゃん。

フランソワーズは着信メロディーに合わせて口ずさみながら電話を手に取った。

 

 


 

4月9日

 

「――そういえば、ジョーはどうしてる?」

夜遅くに帰って来た妹に、兄ジャンは何気ない風に問いかけた。
彼は先日のジョーのレースとインタビューを見て以来、フランソワーズにあれこれ訊きたい気持ちを抑え、妹が自分から話してくれるのを待っていたのだが、一向に何も言う様子のないその姿にしびれを切らしていた。

「ジョー?」

スプリングコートを脱いで掛けながら、フランソワーズは小首をかしげてきょとんと兄を見た。

「どうって、何が?」
「何が、って・・・」

新聞を読んでいるふりをして妹の帰宅を待ち構えていたジャンは、それを握り締めたままソファから立ち上がった。

「だから。その――、今度の公演はヤツも来るんだろう?チケットとか、大丈夫なのか?」
「ええ。だって来ないもの」
「来ないぃい?」

フランソワーズはちら、と一瞬ジャンを見つめたが結局何も言わず自室へ向かった。

「え、あ、おい、フランソワーズ」
「疲れてるの。もう休むわ」

振り向きもせずそう言って部屋へ消えた妹に、残された兄はただ混乱していた。

――なんなんだ。ジョーが見に来ない、ってどういうことだ。

ジャンとしては、いつジョーがここに来るのか秘かに楽しみにしていたのだが、すっかりそのあてが外れた。

それに――なんだ、あの態度は。恋人の話なんだぞ。もうちょとこう・・・嬉しそうな顔をするとか何とか、あるだろう?

思えば、フランソワーズはパリに来てからずっと――ジョーの事は話していなかった。

・・・ケンカでもしたのだろうか。

しかし、それならすぐわかるし、ケンカならば逆にうるさいくらい喋るのが常だった。

いったい・・・何が起こってるんだ?

 

***

 

きっと、こうやって忘れていくんだわ。
まるで、そう・・・私がパリで暮らしていくと決めたかのよう。

フランソワーズは自分の部屋でベッドに腰掛け、じっと携帯電話を見つめていた。
兄に訊かれるまでもない。
ジョーがいまどうしているのか、一番知りたいのは自分なのだから。

しかし。

――タイミングを逸してしまった。

今回のツアーで「ジゼル」をやることも、パリ公演があるということも、そして今、自分はパリにいるという事も。
どれもこれもジョーには言えていない。

ジョーが新しいマシンにナーバスになっているから。
大事なレース前だったから。

・・・と、言い訳をするなら、その項目は幾つも挙げることができる。が、「今になっても」連絡していないことの理由にはならない。

せめて、ジョーから何か連絡がきていれば。

違ったのかもしれない。
が、彼がシーズンインしたらこちらから連絡をしてはいけないというルールなぞ作ってはいないのだ。
話したければ話すし、彼が話せない状況であれば我慢する。逆にジョーからも何の遠慮もなく電話がかかってくる。ただ声が聞きたいからとか、おやすみと言いたかったから等々。それが常だった。

しかし。

今回は妙に――連絡し辛いのだ。
声を聞きたくないわけではない・・・が、聞かなくてもいいかな、と思うし、実際、聞かなければ聞かないで何とかなってしまっている。
おそらくジョーもそうなのだろう。だから連絡がない。
お互いに意地を張っているわけでも何でもないのに、音信不通になるのは初めてだった。
しかもそれが、意外に耐えられる。全然、平気だった。

フランソワーズはジョーと連絡がとれないことよりも、それが平気な自分がショックだった。
日本に居るときは、あんなにそばにいたのに。離れたら毎日寂しくてどうかなってしまうと本気で思っていたのに。
なのにそれが――全然、平気だなんて。
そんな自分がショックだった。

・・・ジョーもそうなのかしら。

だから、彼からも全く連絡がこないのだろうか。

しかし。

今までだったら、そう思った途端に寂しくて辛くていられなくなったはずなのに、今は――全然、平気なのだった。
もしかしてジョーも、自分と連絡がとれなくても全然構わないのかもしれない。
そう思っても、そうかもねと納得してしまう。
それも、ショックだった。

――案外、私たちって・・・

一緒にいなくてもいいのかもしれない。

 

 


 

4月8日

 

雷雨のためレースが中断したまま終わった――というのを知ったのは、レースが終わってずいぶん経ってからだった。
いくら公演が近く練習で忙しいとはいえ、それはあまりにも冷たいのではないだろうか。

フランソワーズは携帯電話を見つめ、ため息をついた。
ジョーからの電話はもちろん、メールもない。
こちらからもいっさい連絡はしていなかった。
完全な音信不通状態。完璧な。
こんなのは初めてだった。

 

***

 

『――どうした?どうしたんだ、ハリケーン・ジョー!!全く精彩を欠いたこの走り!!』
『ああっと、スピンです!!このミスは痛い!』
『第2戦もノーポイント!!王者・ハリケーンジョー!栄光のカーナンバー1が泣いている!!』

 

試合の記録画像を見直し、ジョーはため息をついた。

・・・全く、派手に言ってくれる。
どうしたのか、だって?そんなのこっちが知りたいよ。

マシンは順調な仕上がりを見せていた。ただ、カーズを搭載するのかどうかでほんの少しだけ揉めた。
前回のようなクラッシュやリタイヤをされては、データが取れない。だったらカーズは後回しにして、とりあえずエンジンのデータを取ることに集中したほうがいいのではないか――
ジョーのドライビングテクニックを疑問視するむきもあった。また大事なマシンを壊されたら堪らないという声もあった。
信頼しているスタッフにそう思わせてしまった自分の無様なレースに、ジョーは唇を噛んだ。
何も言い返せない。言えない。
ベストな走りすらできていないのだ。マシンと自分が微妙に噛みあわない。

――なぜだ。

走るのが好きだから、誰よりも速くなりたかった。そして昨年はチャンピオンになった。
その驕りだろうか?自分より速い者はいないと無意識のうちに天狗になっていたのだろうか。

そんなことは――ない。

と思うものの、わからなかった。
今は、ステアリングを握るのもどこか不安な感じがするのだ。

次のレースは二週間後。場所は中国。
フランスからは遠い地であった。

しかし、今、ジョーの頭の中には恋人のことなど浮かんでこなかった。
フランスも。バレエも。ジゼルも。パリにいるであろうフランソワーズも。何も。

 

 


 

4月4日

 

――スプリングツアー?

ジゼル?

そんなの――聞いてないぞ。

 

***

 

マレーシアグランプリのサーキットでフリー走行を終えて明日の予選を待つのみ、となったジョーは、夕食後ホテルの一室でパソコンを前に凝固していた。
いつもは車関係のことしかネットサーフィンしないのに、今日に限って何故か――フランソワーズの公演関連を見てみたくなったのだ。
いつも日にちは適当にしか覚えてないから、それを確認しようと思ったのかもしれない。
もしかしたら、どれかに行けるかもしれない、と思ったのかもしれない。
ともかく、チェックしてみたところだった。

フランソワーズの所属するバレエ団では、毎年春に公演をする。それは一箇所だけではなく複数箇所であり、更に一箇所の公演は3日から5日間行われるのだった。

去年は広島まで行ったんだよなぁ・・・花束を持って。

ふと思い出して小さく笑う。
エンジンのテストで鈴鹿に戻っていたから、できたワザだった。
とはいっても、チケットを持ってなかったし、実際観る時間もなかったわけだけれども――終演後のフランソワーズに会って、花を渡して――それだけだった。

あの頃は彼女の公演は観られなかった。とても心穏やかではいられなかった。
が、それを昨年冬の公演「ジゼル」で克服した。

――ジゼルか。

うっかりジャン兄に知らせるのを忘れていたため、散々愚痴られたのだ。
だから、次の機会は必ず知らせようと心に留めている。
しかし、次に「ジゼル」を上演するのはいつなのか――は、皆目わからなかった。

それが――スプリングツアー。ジゼル。

パソコンの画面に映し出されたチラシ――おそらくポスターだろう――は、スプリングツアーでジゼルを上演することを知らせていた。
しかも。

――パリ公演?

それも、聞いていなかった。
が、しかし。

3月に彼女があれこれ悩んでいたのも、これが決まっていたからかもしれなかった。
日程を見ると、おそらくフランソワーズはもうパリに行っていると思われた。電話でもメールでも何も言っていなかったけれど。
どうして何も言わないんだろう・・・と思いかけ、それはそうだろう、と思いなおす。
フランソワーズはおそらく、ジョーの事を心配している。前回、レースでクラッシュしてリタイヤをしているからだ。
開幕戦でそんな失態は初めてだったから、ジョーは落ち込んだ。それは、本人が思っているより重症だったのだろう。
だから、おそらく――余計な話はしないようにと気を遣って、フランソワーズは今どこにいるのか、これからどこへ行くのかを言わなかったのだろう。

・・・馬鹿だなぁ。

そんなに心配しなくても大丈夫なのに。

携帯電話を手にとり、彼女の番号を呼び出す。が、コール10回でも出なかった。少しがっかりして携帯のフラップを閉じる。伝言は苦手だから残さない。

小さくため息をついて、再び目の前のパソコン画面へ目を遣る。

――フランソワーズ。

画面のなかの彼女は、やっぱり――別人のようだった。美しく、ジゼルそのもので。ジョーのよく知っている彼女ではない。
それが少しだけ寂しくて、彼女の声を聞きたくなったのだけど。