−子供部屋−
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)

 

5月31日

 

「――怒るわよ?」

僕は、急に冷えた身体といきなり明るくなった室内と、それから大音量の声にさらされ目を開けた。
カーテンを開けた室内には溢れるほどの陽光が降り注ぎ、そして目の前には真っ蒼な――

「うわっ」

僕は転がるようにベッドから飛び降りた。
いや、実際に転がり落ちたのだろう。床の上にいやというほど尻を打ちつけたから。
そんな僕に目をくれず、金色の髪と蒼い瞳を持った人物は容赦なく僕のベッドからシーツを剥がしてゆく。
そして、ちらりと一瞥をくれた。

「・・・それも脱ぎなさい」
「へ?」

不得要領な僕に指をつきつけ、それは僕の着ているものへ向けられていた。
着ているもの――しわくちゃになったパジャマ。それを脱げと言う。

「は・や・く」

寝起きではっきり働かない頭では順序立ててものを考えるのは難しかったから、僕は言われるままにパジャマを脱いだ。上衣を脱いで渡し、次に下も。
パンツ一丁となった僕は、開け放たれた窓を恨めしく見遣った。裸でいるにはまだちょっと早い季節。こんな姿でいるのは寒くて凍えそうだった。――というのは大袈裟だけど。
しかし、蒼い瞳の持ち主はそれだけでは満足しなかった。更に指先が僕のパンツを示している。

「え。これも脱ぐの」
「当たり前でしょ」

当たり前?

「いや。だけど――」

言い淀む僕に、勝手知ったる他人の部屋、金髪の人物は慣れたようにクローゼットを開けて畳んだ下着を取り出した。

――ああ、着替えろとそういう訳か。

しかし。

成り行き上、パンツを受け取ったものの、いまこの瞬間に着替えろというのだろうか。
僕は、目の前に仁王立ちになった彼女に目を向けた。

「は・や・く」

にっこり笑んでいるその顔は、可愛い――と言えなくもなかったが、やはりどこか怒っているようで、その笑顔はいつもより数段、怖かった。
綺麗な人が怒ると怖いんだな・・・とぼんやり思った。
その綺麗だけど怒ると怖い人は、目を逸らすこともなく僕を見つめている。
着替えろと言ったものの、席を外すとかそういうことは全く考えてないようだった。

「――あのさ。フランソワーズ。いくら見慣れてるといってもその、目の前で着替えろというのはどうかと思うよ?」

しかし、答えはない。
手を差し出したまま早くと無言で促すだけだ。

――まあ、いいけどね。別に減るもんじゃないし。

と、パンツに手をかけた瞬間、「危険」と頭の中に警報が鳴った。

「――!」

僕は彼女を横抱きにすると、開いている窓から外へ身を躍らせた。
着地すると同時に――ギルモア邸が爆発した。

「!!」

いったい何がどうしたというのだ。

――博士は。

他のみんなは。

――無事なのだろうか。

爆風から庇っているフランソワーズの髪がもみくちゃになっている。
そのうなじを見るともなく見つめ――

僕はフランソワーズから跳び退った。

 

違う。

 

僕のフランソワーズではない。

 

だったら一体、彼女は――

 

何者だ?

 

 

***

***

 

 

「ジョー。気分はどう?」

「・・・最悪」

 

ぼそっと言って、ベッドから足を下ろす。まだ完全に自分のものになっていない身体は鉛のように重かった。
ゆらりと揺れた僕の体を支えるように、フランソワーズが優しく手を添える。彼女は実は怪力の持ち主なのだ。
オモテからはそうとは見えないけれど、実はソコが隠されたちからというわけであって、その意外性こそが彼女の武器でもあり――

「コラ。いま妙なこと考えたでしょ?」

軽く睨むように見つめるその瞳の蒼さに僕は息をついた。
今度こそ――本物だ。

「・・・別に。妙なことじゃないよ。ただ、ひとは見かけによらないなって思っただけさ」
「何よそれ」
「君が力持ちだってこと」
「!!もっ、ばかっ」

支えていた手をそのまま僕を突き飛ばすのに使うなんて、頭もいいよな――と妙に感心しながら、僕はベッドに仰向けに倒れた。

「・・・ひどいなぁ。もっといたわれよ」
「起きてすぐソレってどうなの?いたわって欲しかったら、もうちょっと殊勝になったらいかが?」
「殊勝ですよ、僕は」

ああ、頭の芯がずきずきする。まだ眩暈もおさまらない。
そのままベッドに倒れている僕を、フランソワーズは少し心配そうに覗き込む。

「――大丈夫?」
「大丈夫なわけないだろ。・・・だから、脳内検査はイヤなんだ」

そう。
今回はちゃんと前もって脳内検査をするといわれていたけれど、それでもやっぱり覚醒時の気分は最悪だった。
いつもは忘れているはずの悪夢も、うすぼんやりと憶えているから余計にたちが悪い。

――フランソワーズに繰り返し命を狙われるなんて、全く冗談もいい加減にして欲しい。

ふんとフランソワーズから視線をそらせ、そのまま横を向いてベッドに伏せる。僕は気分が悪くて調子も良くないんだぞとアピールするかのように。
果たして、彼女は急に態度を軟化させた。

「・・・ジョー?」

心配そうに名を呼び、僕の首筋に細い指で触れる。

 

――

 

待っても、体内に警報は響かなかった。――当たり前か。こっちは本物のフランソワーズなのだから。

・・・でも。

彼女の指が触れた途端、僕は向きを変えて腕の中に彼女を抱き締め捕らえた。

「んっ、やっ、何よ急にっ」

じたばたする彼女。やっぱり――本物なのだろう。たぶん。
僕は腕を解かず、胸の上に彼女を抱き締めたまま考えていた。
フランソワーズに命を狙われたり、目の前でストリップさせられたり。・・・・細部は既に曖昧になってきているし、いずれこの記憶はきれいさっぱり消えてしまうのだろうとわかっていても、考えずにはいられない。
夢は夢でも、これがもし僕の深層心理が見させているものなのだとしたら。
僕は――フランソワーズになら、命を奪われてもいいとそう思っているということなのだろうか。

ふっと口元が緩んだ。
だって、そんなことは全く――構わない。
もしもフランソワーズが僕の命を欲しいというのなら、いつだってくれてやる。
だからきっと、この夢は僕の願望でありそうなってもいいということであるのだろう。

・・・でも、待てよ。

だとしたら。
ストリップもそうなのか・・・?

僕の腕から逃れようとじたばたしているフランソワーズ。
腕を緩めると、あっという間に僕から逃れた。寂しいなぁ。

「――もうっ。ふざけないで、早く着替えてちょうだい!」
「・・・へ?」
「早く服を着て、って言ってるの!そこに置いてあるから!」

示す方を見ると、ジーパンとシャツが畳んで置いてあった。

「・・・持ってきてくれたんだ?」
「当たり前でしょう。その格好で邸内をうろうろされても困るのよ」
「・・・僕は困らないし、ジェットもピュンマも困らないと思うケド」
「私が困るの!」
「ふうん?――見慣れてるのに?」

いちおう、パンツははいているから全裸ではない。だからそんなに気まずい格好でも珍しい格好でもないはずなのに、フランソワーズは頬を染めるとそばにあったジーンズとシャツを一掴みにして僕に投げつけた。

「ばかっ!!もう、知らないっ!!」

――だよな。

これがいつものフランソワーズの反応だ。
怒ってメンテナンスルームを後にするその姿を目で追って、僕はやっと安心した。

 

もう悪夢のことは忘れていた。

 


 

5月30日

 

その日、僕はかなり疲れていたのだろう。
ひとごとのような言い方なのは、憶えていないからだった。
どうしてあんなに疲れていたのかわからない。が、疲れていたのは確かだった。
何しろ、夕食後にはもう瞼がくっつきそうで、風呂に入っても眠ってしまわないよう大変な努力を要したのだから。
そんな状態だったから、風呂から上がってすぐにベッドに倒れこんだ。
普段の僕にしては、ずいぶん早い時間だったと思う。

 

――人の気配で目が覚めた。

目が覚めた――というより、正確には意識が覚醒したと言うべきだろうか。
何しろ、文字通り「目が覚めた」わけではなくて、瞼は閉じたままだったのだから。
ぐっすり眠り込んでいたはずなのに、突然、意識だけが覚醒した。

こんなことは珍しいことではない。
僕にとってはごくごく当たり前のことだった。

僕の体には危険回避プログラムがセットされている。
これに気付いたのは、身体を機械にされて数年経った頃だっただろうか。
どうやら博士も、そんなものはプログラミングされていないと思っていたようでメンテナンスでも言及された事はなかった。
だから、初めて気付いた時は僕も含め全員が驚いたものだった。
もっとも、僕は最初からこういうもんだと思っていたから、それが常態ではない――少なくとも他の仲間には搭載されていない機能だと知って驚いたのだけど。
ともかく、そのプログラムによって、僕は危険が迫っていると感知した瞬間に覚醒するようできている。
もちろん、ずっとそれが続くと睡眠を取れないわけで、日常生活ではその感度を最低ラインに下げてはいるのだけど。そんなわけで、ギルモア邸であっても、遠征中であっても、僕は半径5メートル以内に誰かあるいは何かの気配を感知したら、瞬時に覚醒する。
何故「5メートル」なのかは知らない。
おそらく、僕の機能なら5メートルの距離があればどうにかできるという意味なのだろう。
そんなもの、跳躍ひとつで僕に到達するものもたくさんあると思うけれど、それでもその瞬間に覚醒していれば除けられる――そういう反射神経が搭載されているのも事実だった。

そんなわけで、僕は覚醒した。
が、ギルモア邸でそうなるのは非常に珍しいことだった。
何故なら僕は、この邸内に寝起きをする者たちに対してはシステム解除設定をしていたからだ。
もちろん、このプログラムのセッティングを僕自身がどうにかできるわけではない。ただ、「学習」させただけだった。
つまり、この体格――身長・体重・体温・脈拍数・呼吸数・・・――の者は大丈夫なのだと。
だから、この家に住む者の誰が部屋に入ってきても、僕は眠っていることが可能である。

しかし、それが――覚醒した。

いったい、どういうわけだ。
何が起こっている?

僕は静かにドアを開けて部屋に滑り込んでくる気配に神経を集中させた。
目を開かなくてもある程度の情報は得られる。体型、歩幅、危険物を持っているか否か、そして――殺意の有無も。

そんなことを思ったのはほんの少しの間で、謎の人物の情報が脳に処理された瞬間、僕は緊張を解いた。
なぜなら、部屋に入って来たのは僕のよく知っている人物であり、最も警戒する必要のない人間だったから。
だから僕は目をつむったまま、眠っている体勢を解かなかった。

その人物は、そのまま僕の傍までやって来てそしてそっと上掛けをめくった。
僕の首筋に細い指が触れる――刹那、僕は頭の中に警戒の二文字が煌いて身を翻した。
謎の人物の手首を掴みねじりあげ、床の上に組み伏せる。ほんの一瞬の出来事だった。

「・・・痛いわ、ジョー」

床の上から苦鳴が洩れる。愛らしいその声はいつもと変わりが無く、少し拗ねたようなよく知っている声だった。
しかし。

「――お前は誰だ」
「誰って、ジョー。酷いわ」
「・・・・」

僕は黙って身体の下の人物を見つめた。
床の上に広がる金色の髪。白い腕。

しかし。

「放して、ジョー」

これは僕の――よく知っている彼女ではない。

「ジョー?どうしたの」

 

違う。

 

「いい加減にしてちょうだい。怒るわよ?」

 

違う。

 

絶対に、これは――

 

 


 

5月29日

 

「――ただい」
「おかえりなさいっ」

ただいま、と全部言い切らないうちに胸に柔らかい塊がぶつかってきた。

「――わ、フランソワーズ。いったい、なに?」
「心配してたのよっ。本当は空港までお迎えに行きたかったんだけど、博士が許してくれないんだもの」

ジョーの胸に鼻をすりよせ、両手をいっぱいに伸ばして抱きついている。

「・・・ああ、それはそうだろう。空港はウイルスが」
「平気なのにっ、そんなの!」

甘えるようにジョーの胸にくっついたまま、鼻にかかった声で言う。

「ジョーも帰ってくるの、遅いわっ。すっごくすっごく、心配したんだから!」
「んー・・・これでもすぐ飛行機に乗ったんだけど」
「電話くらいしてもいいじゃない」
「――あ」

忘れてた・・・。

ともかくジョーは、フランソワーズを胸にくっつけたまま苦労して靴を脱いだ。そうして、まずは手洗いとうがいをするべく洗面所に向かう。
が、フランソワーズは胸にぴったりとくっついたまま離れない。

「ちょっと――フランソワーズ」
「イヤっ」
「でも、手を洗えないよこのままじゃ」
「・・・」
「ほら。うがいもしないと」
「・・・ジョーは寂しくなかったの?」
「ん?」
「いつもモナコは一緒に行ってたのに。なのに、今回はひとりだったのよ?」
「んー・・・」

寂しいか寂しくないかと訊かれれば、答えはもちろん決まっている。が、ともかく今はフランソワーズを剥がすのが先決だった。
背中に回っている腕に手をかけ、ゆっくりと引き剥がす。が、フランソワーズは剥がれない。ジョーの手をうまくかいくぐって再びぴったりとくっついてしまう。

「・・・フランソワーズ」
「イヤ」
「――あのさ」

ジョーは天を仰いで息をつくと続けた。

「うがいしてからじゃないと、ちゅーできないんだけど?」

途端。
フランソワーズはあっという間にジョーの胸から剥がれた。効果覿面であった。
そうして、ジョーがうがい手洗いをしている間は、彼のシャツの裾を握り締め、ただひたすら待っていた。

そして、手を拭き終わるのと同時に――ジョーはフランソワーズの腰を抱き寄せ、幾分乱暴に唇を重ねていた。

 

***

 

「――でね、博士の学会発表が近いから、ジョーのメンテナンスを明日からしたい、って」
「えー」

ジョーは仰向けに倒れた。もちろん、胸にフランソワーズをくっつけたままである。

ジョーの部屋だった。
夕食後――それはもう、ジョーの好きなもの尽くしの食卓だったのだ――ジョーの部屋でコーヒーを飲むことにして二人揃ってやって来ていた。が、すぐにコーヒーはどうでもよくなってしまい、フランソワーズはジョーにぴったりくっついて離れず、ジョーも彼女を抱き寄せ髪を撫でながらの会話であった。ベッドに腰掛けて。
そうしてそのまま仰向けに寝転がったのだった。

「明日から、って・・・それってつまり、2日に分けてやるってこと?」
「そうよ」

大袈裟に顔をしかめるジョー。その頬を指先でなぞりながら、フランソワーズは続ける。

「だって、他に博士の都合のいい日がないんだもの。ジョーだってそんなにゆっくりしてられないし」
「それは、そうだけど」

明日からかぁ、ううむ。と唸ったジョーの唇にフランソワーズの人差し指が触れる。

「だから、明日は早く起きなくちゃだめよ?色々と準備があるんだから」
「――早起き」
「そう。明日は脳内検査だから、――きゃっ」

そうか、早起きかと言いながら、ジョーはフランソワーズを抱き締めるとごろんと寝返りをうってうつぶせになった。
先刻の二人の位置関係と逆である。

「じゃあ、早く寝ないと駄目だね」
「早くって?」
「早くは早くだよ」

とりあえず、明日から二日間はメンテナンスだった。 

 

 


 

5月28日

 

モナコグランプリでは4位に終わったジョーだったが、本人は満足していた。
悔いの残るレースではなかった。自分もチームスタッフも、やれるべきことは全て遣り尽くしての4位なのだ。
6番グリッドからのスタートで順位を上げてのゴールは評価されるべきであろう。しかも、前2台はクラッシュリタイヤなどではなく、オーバーテイクしたのだから。オーバーテイクが殆ど不可能なモンテカルロサーキットでは奇跡に等しい所業だった。
だから、ポールトゥウィンを決めたドライバーよりも、F1ファンから熱い声援を受けたのはハリケーンジョーであった。

そのジョーは、レース後すぐに機上の人となった。
モナコに長居はしたくない。まして、フランソワーズがいないとなれば尚更である。彼女を安心させるためにも、一刻も早く帰りたかった。

しかし、そんな彼を待っていたのは、彼がすっかり忘れていた年に一度のアレだった。

そう――モナコグランプリの後、といえばアレである。

おそらく、そう決まったのはあの砂漠の一件の後からだったろう。
あの時、重症を負ったがためにオーバーホールする羽目になった。結果、一年後に行われた再チェックがいつの間にか年に一度のアレに置き換わっていったのだろう。
ジョーとしてはいい迷惑だった。
が、フランソワーズにとっては僥倖だった。
何しろジョーは、年一度のアレが大嫌いなのである。
もちろん、本人はソレが必要であることはじゅうぶんわかっている。が、それでも――出来れば何とかやらずに済まないだろうかと常々考えているようなのだ。
理由は簡単。
脳内検査がイヤなのだ。
しかも、イヤな理由というのが、「怖い夢を見るから」。
そんなの、みんな見てるわよ。でもすぐ忘れちゃうし、実際誰も覚えてないでしょう?とフランソワーズが言っても聞き容れようとしない。
そんなだったから、「モナコグランプリの後」と時期を決めるのはちょうど良かったし、何よりジョーも「モナコのあとなら」と割りとすぐ観念するのである。

しかし。
ジョーはソレを直視したくがないために、きれいさっぱり忘れてしまっているというのも常だった。
ちなみに、アレとかソレとか曖昧なのは、ジョーがソレを忘れているからである。

 

***

 

――ヤだなぁ・・・。

ギルモア邸に着いて、そうしてやっと思い出したジョーは、いっそのことこのまま回れ右して帰ってしまおうかと本気で迷った。
玄関前である。

もちろん、理性では避けて通れないことくらい百も承知である。
精密機械であればあるほど、メンテナンスは必要になってくるものだし、ジョーの場合は本来ならば年一度ではなく半年に一度行われて然るべきなのだ。
それを色々と理由をつけて逃げているから、年一回のソレは何としても受けなければならなかった。自業自得である。

ギルモア邸の玄関前でぐずぐずと考える。

――フランソワーズがいなかったら、サボタージュできるのに。

サボタージュという言葉はポタージュと似てる。と思った途端に腹が鳴った。空腹なのである。身体は正直だった。
小さく息をつくと、諦めたように肩をすくめドアを開けた。

 

 


 

5月23日

 

「大丈夫だって。心配症だなぁ、フランソワーズは」

電話の向こうから聞こえてくる呑気な声にフランソワーズの気は逆立った。

「もう!心配して何が悪いのよっ」
「だって、大丈夫だから」
「そんな「根拠のない大丈夫」なんて要らないわ!」
「だって、本当に大丈夫だから」
「――ああもう、本当に油断しないでね?周りに気をつけて、それから知り合いの顔を見つけても簡単に近付いていったら駄目よ、それに久しぶりだねって誘われてもいったんはお断わりすること。絶対にふらふらついて行かない。いいわね?」
「わかってるよ――うるさいなぁ」
「なんですって!?」

小さい声で言ったのにフランソワーズにはもちろんキャッチされ、ジョーは小さく肩をすくめた。

「だから。大丈夫だよ、そんなに心配しなくても」
「だって・・・モナコなのよ?」
「うん。だから?」
「だから、・・・」

言い淀むフランソワーズにジョーは優しく言った。

「大丈夫。ちゃんと気をつけるよ」
「本当よ?約束してね」
「うん」

――それに、もしも何かあったとしても。

「ジョー?」
「なに?」

・・・きっとフランソワーズは迎えに来てくれるはずだから。

「行かないわよ、私」
「――え」
「え、じゃないわよ。どうして日本に残っていると思ってるの」
「だって、ドルフィンだったら関係ないじゃないか」
「使うわけないでしょう。ドルフィン号なんて」
「え、でも」
「迎えになんか行きません。だから、ぜーったいトラブルに巻き込まれないでよね?」
「・・・うん」
「何よその自信のなさそうな声は」
「いや・・・だってさ」

望むと望まざるに拘らず、ジョーがヤッカイゴトに巻き込まれるのは彼のせいではないのだから。いわば、不可抗力である。フランソワーズの心配もわかるけれど、こればっかりは気をつけようがない。
が、言ってみれば、ジョーは前科があるといえばあるのだから、彼女の言う通り気をつけるのはやぶさかではなかった。

「うん、まぁ、極力気をつけるよ」

 

***

 

毎年、ふたり揃って行っていたモナコグランプリ。当然、今年もそのつもりであり、ジョーの誕生日が終わってすぐ荷造りを始めたのだったが。
急遽、フランソワーズは行かないことになった。

止めたのはギルモア博士である。
父親代わりでもある彼の言葉はゼロゼロナンバーサイボーグにとっては絶対であった。その彼が行ってはいけないと言うからには従わないわけにいかない。
当然、フランソワーズは食い下がった。が、本来、研究者であり頑固者でもある博士は負けなかった。何時間でも何日でもひとつの事象を追及し続ける根気と熱意を持ち合わせている老齢の研究者に小娘が叶うわけがない。
結局、しぶしぶながらフランソワーズは日本に残ることになったのだった。

その理由は、新型インフルエンザウイルスの蔓延であった。

メンバー中、最も生身に近いフランソワーズを心配しての措置である。何しろ、F1レースともなれば各国から老若男女問わず集結するのだ。感染の確率は格段に高いであろう。
マスクをするし、手洗いもうがいもちゃんとするからと言っても、博士はマスクなんぞ気休めだと首を縦に振ることはなかった。
だったら、ジョーだって同じだと言うと、彼は免疫力も強化されているからフランソワーズとは違うという。
そんなことない、彼は去年インフルエンザに罹患したと言うと、それでも一日で治ったと言われた。
確かに、特効薬なしで自力で彼は治ったのだった。
フランソワーズとしては黙するしかなかったのだが、彼女が最も頭にきたのは、味方だと思っていたジョーが博士の側についたことだった。彼も、今回は日本に残れと言う。だから、フランソワーズとしては甚だ不本意ではあったけれど、承諾するしかなかったのだ。

 

***

 

「・・・新型って言ったって、弱毒性なのに。ただ感染力が強いっていうだけでしょう」

ジョーとの通話を終えたあとの携帯電話に呟いてみる。

「どっちにしろ、健康でちゃんと栄養も睡眠もとっていればウイルスなんかに負けないのに」

弱毒性ということは、つまりはそういうことなのだ。
ただ、問題は、蔓延することによりヒト―ヒト感染を繰り返しウイルスが変異することである。こうして耐性をもつウイルスになったら特効薬が効かなくなる危険性がある。
それは、じゅうぶんわかってもいた。

でも。

どうしてよりによってこの時期に。

フランソワーズにしてみれば納得がいかないことこの上ない。個人的な事情であって、ウイルスの蔓延との関連性があるはずもないとわかっているけれど、それでも両者が合致したのは気に入らなかった。

「まさか・・・ネオブラックゴースト?」

いやまさか、それはないだろう。彼らは――消滅したはずなのだから。

しかし。

こうして世界各地でほとんど時期を同じくして発生するなど、何か――作為がありはしないだろうか。

「・・・まさか、ね。彼らがいたとしても、できるのは、せいぜいマスクを買い占めてネットで高値で売ることくらいよ」

 


 

5月16日

 

朝からケチャップやらソースやら醤油まみれになったジョーは、それでも上機嫌だった。何しろ腕には複数枚のDVD。それも主演女優は彼の最愛のひとであるフランソワーズなのだから。
自分の撮ったのはもちろん、一番可愛く綺麗に撮れているのに間違いないのだけれど、では他の者が撮影した彼女はどんな感じなのか、他の男の目から見たフランソワーズは。・・・と思いは尽きない。できれば、いますぐ自宅マンションに飛んで帰って、じっくりゆっくり観てみたかった。が、もちろん、そんな事ができるはずもない。
フランソワーズの機嫌が悪いのだ。
彼女はどうやら、ジョーが他のメンバーから「エッチなDVD」を貰ったものだと信じているようなのである。
ジョーとしては不本意極まりないのだが、かといってこれは全部きみだよと言ってみたところで結果は同じのような気がして言えなかった。つまり、エッチなDVDなら早晩取り上げられるだろうし、もしも全部フランソワーズの映像なのだとしても恥ずかしいわとか何とか言われて取り上げられてしまうだろう。
だったら、とりあえずは何も言わず、そう、夜中にこっそりひとりで見てみたほうがずっといい。あるいは遠征先に持って行ってしまってもいい。ともかく「今」ならまだ、フランソワーズの意識はDVDよりも別な方へ向いているのだから。

 

***

 

ジョーの自宅マンションに揃ってやって来たのは昼過ぎだった。
途中で食材等の買い物もすませてある。
ジョーのマンションへ向かう、となってからずっと、フランソワーズはハイテンションだった。すっかり朝のDVDの件も忘れてしまっている。彼女には、それより何より、もっと大きなイベントが控えているのだった。

「ジョー。今年のプレゼントはちょっと違うわよ」
「え。――なんだろう」
「後のお楽しみ」

そんな事を話しながら、笑い合って。

「――そうだ。蒼いリボン、要るよね?」

それは昨年のジョーの誕生日に「プレゼントは私」とフランソワーズが首に巻いていたものだった。ジョーはそれを大事にとってあるのだ。フランソワーズは何度も捨てろと言ったのだけど、これを巻いたらいつでもきみは僕のもの、と適当なコトを言ってジョーは決して捨てさせなかった。
そのリボンは、マンションの部屋に着いて早々にジョーが持ち出してリビングのテーブルの上に置いてある。

キッチンで食材を冷蔵庫に納め終わったフランソワーズは、そのリボンを見つけてため息をついた。

「ジョー。今年はこれは使わないのよ」
「どうして」
「だって、・・・言ったでしょう。今年のプレゼントはちょっと違うわよ、って」
「違うって・・・どんな」
「あなたがリクエストしたんじゃない」
「リクエスト?」
「ほら。この前電話で。・・・ちゃんとした仕様の、って。――忘れちゃったの!?」
「え。う。いや・・・覚えてるよ。うん」
「――アヤシイ」

睨む蒼い瞳から目を逸らし、ジョーはともかく蒼いリボンを自分の手に巻きつけて――放置しておけば捨てられてしまう――灰皿を手にベランダに逃げた。

 

***

 

――ちゃんとした仕様、って何だろう・・・?

一雨きそうなグレイの空にぷかりと煙の輪を吐き出して。

まさか、あれじゃないよな・・・?

確かに、前回電話で何かリクエストしたのは覚えている。が、それは――フランソワーズのとんちんかんな答えで諦めたはずではなかったか。いや、それとも――彼女に真意が伝わったのだったか。
ジョーは低く唸ると髪をかきあげ、空を見つめた。
グレイの空は好きではなかった。

――なんだか、今日は・・・

気分が塞いでくる。と言ったらフランソワーズは怒るだろうか?

かといって、ひとり部屋にこもってDVDを観ていたら何て言われるのかわかったものではない。ともかく、締め出されたフランソワーズはごねてごねて天を呪いジョーを呪い世界中を呪うだろう。
可愛いフランソワーズの映像を――自分の撮ったぶん以外はどんなのかわからないが、たぶん可愛いのは間違いない――見尽くして堪能して、今日という日を過ごすのも悪くは無い。ひとりだったら。
でも。
実物がそばにいるのに映像を観るというのも変な話である。

――結局。

自分はフランソワーズが一番なんだなあと思うのだった。

 

***

***

 

プレゼントのタイミングはどうしたらいいのだろう?

フランソワーズはずっと考え込んでいた。頭のなかでは何度も何度もシミュレーションを重ねているが、どれもこれも納得がいかなかった。

ジョーにいったん外出してもらおうかしら。そして、出迎えて――

いやいや、それでは前回と同じ演出で面白くない。それに、玄関先でどうこう・・・というのもできれば避けたかった。
もしもそういう感じに雪崩れ込むことになるのなら。

いちばん不自然じゃない時といえば、それは当然の如く食事の時である。が、せっかく作った数々の料理を――今日のためにレパートリーも増やして練習してきたのだ――食べる代わりに自分が食べられてしまうのはいただけない。
彼にはちゃんと全部食べてもらわなくては。

でも――だったら、いつがいい?

うかうかしていると今日という日が終わってしまう。
だったら。

 

***

 

ジョーは煙草を一本吸い終わって、灰皿を手に部屋へ戻った。
否。戻ろうとした。
ベランダからリビングへ入ろうとサッシに手をかけ、一歩室内に踏み出して――固まった。

「・・・フランソワーズ?」

目の前にフランソワーズが立っていた。笑みを浮かべ、頬を紅潮させて。

「――ええと。・・・どうしたんだい?」

我ながら変な質問だと思う。どうしたも何もないだろう。ここにフランソワーズがいるのは何の問題もないのだから。
しかし。

「別にどうもしないわよ、ジョー」

恥ずかしそうにもじもじと両手の指先を合わせながら、

「でも、私としては、その・・・、ジョーがエッチなDVDを観るのは納得いかないというか、あ、観てもいいのよ、別に。ええ。どうぞ、観て頂戴。でも、そっちに集中されてしまうのは悲しいというか、何というか・・・で。だから、その」
「――だから?」
「だから・・・そのう」
「・・・何?」

険しいジョーの顔に、フランソワーズは一歩退いた。
――怒ってる。の、だろうか。

ジョーは無言で灰皿をテーブルの上に置くと、あっという間にフランソワーズの目の前に到達していた。

「だから――何?フランソワーズ」
「だ、だから」

肩の上に流れている髪をひと房掴み、ジョーはそれをそうっと彼女の背中に払い除けた。
途端に露わになる白い肩。
そして、その肩に指先を這わせ――ゆっくりと背中に回した。

「・・・フランソワーズ」
「何かしら」
「・・・これって」
「なあに?」
「もしかして――」

フランソワーズはジョーが耳元で囁いた途端に真っ赤に染まった。

「だ、だって、前にジョーがっ・・・」
「――うん。そうだね」
「だから、それに電話で言ってたし、だから・・・」
「――うん。憶えてるよ」
「嘘。さっきは忘れたって言ってたじゃない」
「まさか。忘れるわけないじゃないか。――期待していたんだから」
「・・・ほんと?」
「うん。――この白いの、見たことないけど、可愛いね」
「ほんと?」
「うん。似合うよ」
「良かった。・・・選ぶの、悩んだのよ。とっても」
「――そうなんだ」
「だって、透けたら恥ずかしいし」
「僕はそれでも構わなかったけれど」
「ばか。・・・だって、やっぱりそれなりに品があるほうがいい、し」
「・・・フランソワーズらしいね」

フランソワーズを抱き締め、髪を撫で背中を撫で――あちこち撫でていたジョーはちょっと身体を離した。

「――うん。いいね。可愛い」
「ほんと?」
「うん。・・・ちょっと後ろ向いてみて」
「え。――こう?」
「うん・・・ふうん。なるほど」
「なるほど、って・・・何が?」
「いや――」

振り向いたフランソワーズはくすくす笑うジョーを認め、怒ったほうがいいのか照れたほうがいいのか、判断に困った。何しろ笑われている――の、だから。

「何か変?」
「いや。――これってつまり、僕のってことだよね」
「・・・そうね」
「今年のプレゼントはちょっと違うって、つまりこういうことだったのか」

触れもせずただ上機嫌で微笑むジョーの視線が絡みついて、フランソワーズは落ち着かなかった。

で――このあと、どうすればいいのだろう?

まさかこのままキッチンでお料理とかそんなことはないだろう。それはいくら何でも。

「で・・・どうしようか」
「どう、って・・・」
「――うん。せっかくだから、映像に残す、とか」
「えっ、イヤよ、ジョーったら!」
「嘘だよっ・・・」

言うと、ジョーは真っ赤になって顔を覆っているフランソワーズを抱き上げた。

「もったいないけど、もらうよ。プレゼント。それに、いつまでもそんな格好じゃ寒いだろ」

白いエプロン一枚しか身につけていないフランソワーズは、ジョーの腕のなかで小さく頷いた。

 

***

 

去年があれで今年がこれで。
で――来年は、いったいどんなプレゼントが待っているのだろう。

目を閉じてジョーの胸にぴったり寄り沿っているフランソワーズを見つめ、その腕に体温を感じながらジョーは考えていた。
もちろん、こういうことではなくても、フランソワーズが用意してくれるものなら何でも良かった。が、やっぱり、一番欲しいものといえばフランソワーズ自身だったから――身体だけではなく、彼女の心も何もかも全て――来年もその次もこういうのがいいなと思った。

そうして、そんな自分にふっと笑みが洩れる。

――今までは、誕生日プレゼントなど要らないと思っていたのに。

こんな幸せな気持ちになるなんて思ってもいなかった少年時代。
誰かに生まれてきた事を祝ってもらって、何度も抱き締めてもらって、そして――誕生日という日が嫌でなくなる日がくるなんて。

「・・・フランソワーズ」

 

 


 

5月15日

 

とりあえず、部屋の鍵をかけて――ジョーにまた邪魔されないように――更にそれだけでは安心できず、チェストを動かしてドアの前に置いた。
これでヨシ。
もしも誰かがいきなりドアを蹴破っても、ともかくチェストが盾にはなってくれるはずだ。そのチェストが破壊されるまで数秒しか保たないとしても、それでもその数秒が自分を守ってくれる。

・・・この邸は危険がいっぱいだわ。

胸の裡で言ってから、いざ。と試着を始めた。

 

***

 

「・・・・」

鏡の前でフランソワーズは無言だった。
確かに試着して良かったとは思う。が、やっぱりしなかったほうが幸せだったかもしれない――とも思うのだ。

シンプルなアイボリー。
そんなにひらひらしてはおらず、デザインも至ってシンプルであった。
だから、もちろん普通の用途にも使えるはずであり、その場合には「けっこうカワイイ」部類に入るのかもしれないとも思えるのではあったが。
いかんせん。
思っていたよりも丈が短かったのだ。
もちろん、そんなに短いわけではない。が、それでもフランソワーズが想像していたよりはじゅうぶんに短かったのだ。
前回試したものより、ほんの数センチではあるけれど、――あの時と今回は違うのだ。
何しろ、前回は丈など考慮にいれなくてもすんでいた。が、今回は。

――ちゃんとした仕様。

なのだから。

もちろん、今は試着段階なのでズルをしている。
が、それでもじゅうぶんにこの姿は恥ずかしかったし――やはり、どうあっても丈が短いというのは大問題だった。

ともかく、後ろもチェックしてみる。

心配な部分はなかった。
問題は、やはり丈のようだった。

ちょっと屈んでみる。
前屈みになると、ちょっとだけ丈が上がった。うしろから見れば、・・・
フランソワーズはぱっとまっすぐ立つと、今度は腰を降ろしてみた。座るぶんには何ら問題もなかった。が、やはり丈が気になった。

・・・もう。これってやっぱり元の設定に無理があるんだわ。

それに――微かに寒い。
今日の気温が低めだからとはいえ、やはりこの姿ではかなり寒いものがある。長時間は難しそうだった。
が。
そもそも長時間この姿のままでいること自体、有り得ないだろうとは思うのではあるが。

 

 


 

5月14日

 

「ダメっ。入って来ないで!」

フランソワーズの部屋をノックし、返事があったのでドアを開けて一歩踏み込もうとしたジョーは、部屋の主の怒声に押され、踏み込もうと片足を上げたまま固まった。

「え。いまいいよって返事したじゃないか」
「だって、ジョーだと思わなかったもの」
「何だよそれ。僕はダメってことかい」
「そうよ」

ジョーは片足立ちのままぐらりと揺れた。

「ひっ酷いなあ。おっとっと」
「何よ、おっとっと、って・・・」

ジョーが入って来た途端にベッドの上に身を伏せて何かを彼の視界から遮っていたフランソワーズは、ジョーの不可思議な声に振り返った。そうして片足立ちのジョーを見つけ目を丸くした。

「・・・なにしてるの」
「何って」
「フラミンゴの練習?」
「うん、そう。――って、そんなわけないだろ!」

ジョーは上げていた足を下ろすと憤然と胸を張った。

「どうして僕は入ったらダメなんだよ」
「どうしても、よ。もうっ、入って来ないで、ったら!」
「ふん」

ジョーは鼻を鳴らすとフランソワーズの静止に構わず、ずかずかと入ってきた。

「ちょっと、ダメよ!」

フランソワーズは胸の前に掻き抱くようにしてジョーから何かを隠し、再びベッドに伏せた。
その隣にジョーがベッドを軋ませて腰掛ける。

「何、隠したの」

フランソワーズの背中を指先でつつく。

「いいの、ジョーには関係ないから」
「・・・ふうん?」
「もうっ、早く出て行って!」
「いやだね」
「ジョー!」
「・・・何を隠してるのか気になる」

そう言うと、ジョーはフランソワーズの顔を覗きこむように身を屈めた。

「ね。何隠したの」
「教えません」
「ねえ」
「・・・もうっ!お誕生日まで待てるでしょう?」
「――誕生日」
「そうよ。そのプレゼントなんだから」
「・・・プレゼント」

頬を染めたままベッドに伏せているフランソワーズ。その顔を屈んで覗き込んでいるジョー。
ジョーの前髪の隙間から見える褐色の瞳がすうっと笑んだ。

「――なんだ。だったらそう言えばいいのに。そうしたら、僕だって強引に見ようとはしないさ」
「・・・本当かしら」
「本当だ、って」

言うと立ち上がってくるりとフランソワーズに背を向けた。

「ふうん・・・そうか」
「そうよ。これから試着するんだから」
「・・・試着?」

眉間にシワを寄せ、思わずフランソワーズを振り向こうとしたが何とか意志の力で堪えた。
お誕生日のお楽しみ、とフランソワーズが言ったのだ。だったらあと数日、どうにか待つくらいできるだろう。
いったい何をどう試着するんだろうなと頭のなかであれこれ楽しい想像をめぐらせ、ジョーは上機嫌で部屋を出て行った。
残されたフランソワーズはほっと息をつくとそうっと身を起こした。

「・・・もう。ジョーのせいでしわくちゃになっちゃったわ」

あとでアイロンをかけなくちゃ。
そう思いながら広げてみる。
ジョーには試着と言ったけれど、果たして試着なんか必要なのだろうかとちょっと考えながら。

でも――恥ずかしいのは私だもの。ちゃんとチェックしておかなくちゃ。

大きく頷くと立ち上がった。

 


 

5月13日

 

ジョーが帰国した。
レースが終わってから、なぜ帰ってくるまで時間がかかったのかというと、あれこれマシンの設定をスタッフと詰めていたからだった。
本当はまだまだ続く予定だった。が、昨年のことがあったから、スタッフとしても安全策をとるつもりでジョーを帰した。
それを特例ととるかどうか。
ともかくジョーは今日、ギルモア邸に着いたのだった。

「お帰りなさい」

いると思っていなかった人物に出迎えられ、ジョーは目を丸くした。

「あれ?フランソワーズ?」

確か、バレエのレッスンが始まっているはずではなかったか。

「今日はお休みなの」
「ふうん・・・」
「・・・ジョー?」

靴を脱いで上がったジョーを引きとめ、下からじっと褐色の瞳を凝視する蒼い双眸。

「・・・なんだい?」
「ううん。――なんでもないわ」

今年は――大丈夫なようだった。
毎年、誕生日が近付くとジョーはどこか不機嫌そうな具合が悪そうな、自分で自分の感情の収拾がつかないようなそんな症状に襲われる。そんな時は目を見ればすぐわかるので、フランソワーズは必ず彼の瞳をじっと見つめることにしていた。

――うん。大丈夫ね?ジョー。

 

***

 

夕食後の後片付けを終えたフランソワーズは、ジョーが珍しくウッドデッキに出ているのに目を留めた。
真っ暗な海に向かって前庭に作られているデッキ。リビングの照明が微かに届いてはいるものの、それは手すりにもたれて向こうを見ているジョーの背中を微かに浮かび上がらせる程度だった。後は闇に包まれている。

「・・・ジョー?」

ジョーは自分には暗闇が合っている――と勝手に思っている。けれども、フランソワーズはそうは思わない。ジョーには暗闇が似合うのではなく、彼が頑なにそこから出て来ないだけなのだ。
だから、いつも彼がそこにわだかまっているのを手を引いて連れ出す。それが彼女の役目だった。

しかし。

今回は闇から引っ張り出すのではなく、一緒に闇に溶けた。

「・・・何を見てるの?」
「――海」

ジョーの隣に立って、同じ方向を見つめ。そうして放った質問だった。が、あまりにも予想通りの返答に微かに眉間にシワが寄る。

「それはわかっているわ。何が見えるの、っていう意味よ」
「――別に。何も見えないよ。・・・僕には」

最後の「僕には」が気になった。

「・・・何を考えてたの?」
「いや・・・何でもないよ」

一拍間を置いて、フランソワーズは頷いた。

「・・・そう」

それ以上追求しない。
ジョーが何も言いたくないなら、それでいいのだ。別に――どうしても知りたいというわけではなく、元々は彼の隣にいるためのきっかけの問いだったのだから。
だから。
答えなど、なんでもいい。

しばらく無言で何も見えないような漆黒の海のほうを眺める。
並んで立っているのに、隣には誰がいるのかわからないくらい暗かった。

ふと――不安になった。
いま、隣にいるのはいったい誰なのだろう?
本当に、自分のよく知っている人物なのだろうか。

「・・・ふ」

フランソワーズ。とか細い声で言いかけた。
が、そこへ妙に明るい声が被さった。

「ふふん。ジョーの負けね!」
「・・・えっ?」
「先に寂しくなったジョーの負けよ」
「負け、って」
「――寂しくなっちゃったんでしょう?」
「別に寂しくなんか」
「――いいから。そうだよ、って言っちゃいなさい」

そうしてフランソワーズはジョーの腕に自分の腕を絡ませる。頬をぴったりと肩に寄せて。

「他には誰も聞いてないわ」
「・・・」
「小さい声なら、私にしか聞こえないから」
「・・・うん」

 


 

5月12日

 

フランソワーズは甚だ疑問だった。自分自身に。
もう何十回、自問自答しただろう?
目の前の商品をためつすがめつ見つめ、裏地を吟味し自分の肩にあてて。そうしてまた同じ質問を自分にするのだ。

――私、どうしてこんなことしてるのかしら?

手元には既に何着もの「候補」がある。が、いずれも決め手に欠けるような気がして決められない。

――しかも、「決め手」って何なのよ。

小さくため息をつく。
そうして今度は心の隅に押し遣った「答え」を仕方なく引っ張ってくるのだった。

・・・でも、最初にしたのは私だし。――そうよ。するなら徹底的に、よ。うん。それにお誕生日だもの。去年と同じがいいって言われてもすっきりしないわ。だったらバージョンアップするしかないじゃない。たぶん・・・たぶん、ジョーもそう言っていた――そう、そうよ!ジョーもソレを指していたに違いないわ。だって、ちゃんとした仕様って言ってたし。

うん。

ひとつ納得したところで、再び手元のソレに意識を移す。改めて数枚を肩にあて、うーんと唸る。
鏡の中の自分は、フランソワーズの目には自分だけでなく隣に立つジョーも一緒に見えるのだ。だから、彼の隣にいる自分が可愛いかどうかが凄く気になった。ジョーの目に可愛く映らなければ意味がないのだ。
だから、真剣に吟味しているのだった。

・・・決められない。

やっぱり、いつもの友人たちを連れてくれば良かったかしら?

がしかし、すぐにその考えを打ち消した。

ダメダメ、絶対、どうして買うの、どうして迷うの、って散々言われるに違いないもの。
そんなの、――そんなの、答えられるわけないのに。

やっぱり自分ひとりで選ばなくては。と気合をいれる。
そう、これは自分ひとりの戦いでもあるのだ。

 

***

 

――これはレースがヒラヒラしてて可愛いけど・・・新婚さんみたいね、ふふっ・・・じゃなくて、そう、ちょっと「いかにも」よね?

ベビーピンクにレースがついたソレを却下する。

それから、これ・・・は。やっぱり柄物は難しいかしら。お花の方がいいかしら。・・・アヒルはないわね。

黄色地にアヒルが散っているのも却下する。

そうするとやっぱりシンプルなの?でも――地味じゃないかしら。あ、それともワンポイントとか。・・・ドレスっぽいのもいいかもしれない。アリスちゃんがしていたようなの。

それだったらちょっと得意だった。何しろ兄に小さい時から「アリスちゃんと似てる」と言われているのだ。
しかも、あれだったらフランソワーズもそんなに恥ずかしくはなく、それでもジョーの望む条件を満たしているような気もする。

そうね。・・・そうしようかしら。

 

 


 

5月11日

 

「ただいま」
「お帰りなさい。――速かったわね?」
「うん」

電話での会話である。
フランソワーズが深夜、彼のレースを観終わった直後にかかってきたのだった。その相手はいま優勝を決めたひと。

「――フランソワーズがここにいないのが悔しいな」
「あら、どうして?」
「久しぶりの優勝を見せたかったのに」
「見てたわよ」
「テレビだろ」
「ええ」
「――そうじゃなくて、さ」

フランソワーズにはフランソワーズの生活のリズムがあって、予定があって――と、わかってはいても、つい思ってしまう。いつも彼女が隣にいてくれたら、と。
他のチームの選手がガールフレンドやステディな彼女を連れているのを見ると、わけもなくイライラしたりする。
これは自分勝手な思いではあるけれど。心の中で「フン。フランソワーズのほうがもっともっとキレイで可愛いぞ」なんて思ってみたりしてやっと溜飲を下げる始末。

「・・・ジョーったら。もうすぐ会えるのに」

――そうだけど。

「それに、次はモナコでしょう?一緒に行くの、忘れたの?」

忘れてなどいない。
毎年必ずモナコグランプリにはフランソワーズも一緒に行くのだから。

「・・・フランソワーズが楽しみにしているのはショッピングのほうだろう?」

毎年、店ごと買うくらいの買い物をしているのだ。

「あ。酷いわ、ジョー。あなたと一緒にいるのが楽しみなのよ?」
「ふん。どうだかな」
「ひっどーい。もう、知らないっ」

くすくす笑うジョーの声。電話越しのそんな声がくすぐったくて嬉しくて愛おしい。

「ね。いつ帰ってくるの?」
「うん。すぐ帰るよ」
「待ってるわ」
「うん。――ねえフランソワーズ?」
「え?」
「誕生日のプレゼント、本当に・・・」

楽しみにしてるから。

「やっ、もうっ、ジョーったらそればっかり!」
「え。だって去年からずっとこの日を待ってたのに」
「待たなくてもいいじゃない。私はいつでも・・・」

あなたのものなのに。

「一日限定っていうのがいいんだ、って言ってたのは誰だい?」
「・・・そんな事言ってないわ」
「言ってたよ。それは昨日の話でしょうって」
「・・・よく憶えてるのね」
「記憶力いいから」

嘘ばっかり!
とは声にしないで胸の裡で思うだけにする。何しろ今日は勝者なのだし、もうすぐ誕生日のひとなのだから。

「――で、フランソワーズ」

急に改まった真面目な声に一瞬びくんとする。けれどもすぐに携帯電話を握り直し、頬を引き締めて返事をする。
なにか――起こったのかもしれない。

「はい」
「――その件だけど」
「その件、って・・・?」
「――誕生日の」
「・・・ああ」

別に事件とかそういうのではないんだ?
ほっとして緊張を解いたものの、だったらどうして急にジョーは真面目な声音になったのだろうと思う。
だから首をちょこっと傾げて彼の言葉を待った。

「僕としては、その・・・」
「・・・蒼いリボンでしょう?」

ジョーはずうっと大事にとってあるのだ。

「いや、それはそう・・・なんだけど」
「なあに?」
「・・・その、マンションの方に行くだろう?」
「ええ。そうね」

その日は二人きりで過ごす。これも毎年決まっていること。

「・・・その時に、さ」
「?」
「ええとその、前みたいなの、って・・・」
「前みたいなの?」
「――うん。できれば、ちゃんとした仕様のを見てみたい、なあ・・・って」
「いいわよ。お誕生日だし」
「ほんとっ!?」
「ええ。優勝もしたし。重ねてお祝いしてあげる」

ジョーは無言でガッツポーズをとった。フランソワーズには見えないのでちょうど良かった。

「ディナーのフルコースでしょう?頑張るわ」
「――え?」
「え?・・・そうでしょう?何?違う話?」
「――あ、いや・・・。そのだな」
「ん?」

ジョーの頭の中にはその姿が乱舞しているのに、それをどう言えばいいのかすっかり混乱してしまっていた。
ストレートに言うのも憚られるし、かといってこのままではフランソワーズは気付いてもくれないかもしれない。
まさかわかっていてわからないフリをしているとも思えなかった。

「・・・ええと」

さて、何て言おう?

 


 

5月10日

 

「去年と同じ、――って」

電話を切ってから後も、フランソワーズはそれを持って見つめたままだった。軽く眉間にシワが寄る。

「もうっ・・・事あるごとにこれなんだからっ」

昨年のジョーの誕生日以来、何かにつけて彼は「同じもの」がいいと言う。クリスマスも、バレンタインデーも。
確かに、年数回しか彼が公然とプレゼントを要求できるイベントなどありはしなかったし、それでも今まではそんな要求すらなかったのだから、本当ならこれは喜ばしい進歩と考えても良いことではあった。
しかし、ひとつのことに固執するというのはいいことなのかどうか、それについてはわからない。しかも、そもそものきっかけが自分にあった場合には。
もちろん、それによって彼の中にあった「誕生日」に対する嫌悪は多少なりとも減ったのだろうとは思う。自ら「次の」誕生日には、と口にするくらいには。だからきっと、これは彼にとってはマイナスにはなっていないはず――そう思いたかった。

 

***

 

「何が不満なの?いいじゃない、仲良しで」

レッスン後のいつもの喫茶店でいつものように、フランソワーズと友人たちが他愛もない話を展開する。
今回は、「ハリケーン・ジョー」の誕生日が近いので――自然にその話になった。

「嫌よ。もう騙されないわ」

アイスコーヒーのストローを弄びながら、フランソワーズがつんと顔を背ける。

「まあ、怒りなさんな。いいでしょうが。おかげで楽しく熱いバースデーを過ごせたんだからさ」
「楽しく熱い、って・・・」
「だってそうだったんでしょう?」
「・・・言わない」

探るように顔を覗きこまれるのを、首を左右に振って除けながら、

「もう!私たちのことはいいでしょう。他の話をしましょうよ」
「あらら。だって音速の騎士の誕生日だよ?フランソワーズが興味なくても、私たちにはあるの」

ねーっとフランソワーズを覗く全員が顔を見合わせ大きく頷き合う。

「・・・関係ないじゃない」
「あ。言ったわね。ファンを大事にしなくちゃダメでしょうが」
「・・・本当にファンならね」

あなたたち、私をからかって遊びたいだけでしょう――とフランソワーズはじっとりと睨みつける。が、誰も彼女の視線を受け止めず、ケーキを食べることに専念している。

「問題です。島村ジョーの今日のレースのスターティンググリッドは何番でしょう?」

むっつりとフランソワーズが質問を投げる。昨夜の予選をちゃんと見ていれば当然答えられる問題である。
本当に「ファン」ならば。

「そんなの、知らないわよ」
「予選は観ない派なの」
「録画したからこれから観るわ」
「ええと、3番だったっけ?」

口々に返ってくる答えにフランソワーズはため息をついた。

「もうっ・・・全然、ファンじゃないじゃない!」
「ファンだってば。本戦はちゃーんと観るし」
「予選じゃあんまりアップにならないもの」
「本戦だってアップになんかなりません」
「あら、そうだったっけ?」

それでも、日本に彼のファンが多いのは確かであり――しかも女性――放送時には前後に彼のアップのインタビューが盛り込まれているのが常だった。

「ちゃんと見てないのはフランスソワーズでしょう?本戦ではたくさんインタビューされてるのに」
「いいの。見慣れてるから」
「うっひゃー、ごちそうさまっ」

すまして言って、ケーキを口に運ぶ。
確かにみんなの言う通り、インタビューが放送される時間は長い。そのどれもが彼のアップであり、しかも角度の違う映像もあるということはいったい何台のカメラが彼に用意されているのか。

・・・まあ、確かにカッコイイけど。

声には出さず胸の裡で言って、ケーキと一緒に飲み込む。
見慣れているとは言っても、レーサーをしている時の彼を見慣れているのかというとそうでもないのだ。
いくら普段の彼や防護服姿の彼を見慣れているといっても、レーサーとなると違うのだった。
実際に現場で観るときもそうだが、画面越しに観るときもつい・・・見惚れてしまう。けれどもそれを他人に言うのは悔しかったから自分の胸にだけしまっておく。まさか、テレビを観ながら胸の前で手を組み合わせぼうっと見惚れているなと言えやしない。
しかもジョーは、それも仕事のうちだから仕方ないといえば仕方ないのであるが、常に満面の笑みというわけではなく、厳しく真剣な横顔を見せた後に、涼やかに微笑むのだ。それも、ほんの一瞬、唇が緩む程度の。
まるで計算されていると思えてしまうその笑みは、それでも「営業スマイル」とはほど遠い。そして、彼はそういう「営業スマイル」などできるひとではないのだ。だからそれは、カメラを通して彼を応援しているひとたち全てに向けられている彼の本心から表れた笑みであり――そう思うと、ちょっとだけ寂しくなる。それも常だった。
レーサーの彼は素敵だけど、素敵すぎて遠いひとのように思えて寂しい。そんなこと、とてもジョーには言えないけれど。

「・・・グリッドは2番。フロントローなんだから、今晩ちゃんと見てください」

憮然としながら言うフランソワーズ。その顔を見つめ、友人たちは笑いを堪えながら真面目に頷いてみせるのだった。

――まったく、フランソワーズってからかいがいがあるんだから・・・。

 

***

 

「えっ、ジョー?何で・・・何やってるのよ」

帰宅したフランソワーズを待っていたかのように鳴った携帯電話。その着信メロディーはジョーだったから、まさかと思いつつ出たのだけれど。

「何って、電話してるけど?」
「そうじゃなくてっ・・・そろそろレースでしょう?」
「うん。もうすぐだね」
「電話してる暇があったら」
「なんで」
「なんで、って・・・」

どうしてレース前の貴重な時間を電話なんかで消費するの。

「さあ。なんででしょう?」

笑みを含んだ楽しげな声。

「そんなの知らないわよ。・・・もうっ、切るわよ?」
「いいけど、今切ったらまたすぐかけるよ」
「ええっ?」
「なんで電話したと思う?」
「そんなの、わかるわけないでしょう」
「そう?」
「そ・・・」

そうよ、と言いかけ止まってしまう。
今までの経緯で、そういえば――会いたいのを我慢するとか、声が聞きたいのに我慢するとか、諸々の我慢するというのをやめることにしたのであった。

それで――電話?

「あの、ジョー?」
「ん?」
「その、・・・」
「――うん。そうだよ」

フランソワーズの頬が熱くなる。本当は、レース直前とも言える時間に私事で時間を遣うなど褒められることではないでしょうと怒るべきなのだろうが、何も言えなくなった。

「もう我慢しないことにしたんだ。だからさ、――言ってよ。いつもみたいに」
「いつも、って・・・」

レースの前に言うことはいつも決まっていた。

「早く。それを聞かないと行けない」

急かすように言われる。

――いつもみたいに。

「・・・誰よりも早く帰ってきてね」

私のもとに。

 

 


 

5月9日

 

「もしもし。――俺」
「俺じゃわかりません」
「・・・僕」
「ジョー?」
「・・・。何で俺っていうとわからないんだよ」
「だってわからないもの」
「フランソワーズ」
「はいはい、本当はわかってました!だって、迷子の子猫ちゃんだもの」
「――その着メロ、やめろって言っただろ」
「いいじゃない、わかりやすくて」
「・・・ヒトのまで設定するんじゃねーよ」
「あら、そんな言葉遣いをする知り合いなんて私にはいませんことよ」
「・・・メンドクサイなあもう」
「ジョー。聞こえてるわよ?いいじゃない。どうせあなたはいつも着信はブルブルにしてるんでしょ」
「・・・そうだけど」
「だったら別に構わないでしょう?」

ジョーの携帯電話のフランソワーズの着信メロディ。それは、勝手にフランソワーズが設定した「森のくまさん」なのだった。

「――なんで森のくまさんなんだ」
「くまさんと会うからに決まってるでしょ」
「誰が」
「私」
「お嬢さんっていうのがフランソワーズ?」
「ええそうよ。だから、くまさんはジョーなの」
「・・・・」

ちなみに、フランソワーズがジョーの携帯をいじったのは後にも先にもこれだけであった。ジョーが人物ごとに着メロ設定をしていないと知り、せめて自分だけでもと設定したのだ。が、ジョーは基本的に音を消しているので、着信は常に振動音であり、フランソワーズからだろうが誰からだろうが、着信メロディーが鳴ることは殆どなかった。

ジョーはしばし、どうして自分がくまさんなのか考えた。
先刻から、どうにも話が変な方向へ転がり、なかなか本題に入れない。

「ジョー?どうかした?」
「・・・いや。別に」
「で、何か用事があったんでしょう?」
「え。あ。――うん」
「何かしら」
「・・・うん」
「あ。今日って確か予選よね。頑張ってね」
「うん」
「――ほどほどに」
「なんだよ、ほどほど、って」
「だって無理してクラッシュしたら嫌だもの」
「こら。誰に向かって言ってる」
「去年のワールドチャンピオンだけど?」
「・・・」
「音速の騎士さん。――レースが終わったら、日本に帰ってこれるんでしょう?」
「うん」
「好きなもの、たっくさん用意して待ってるから」
「うん。楽しみにしてるよ」
「――で、ジョーの用事は?」
「え。・・・うん。その」
「はい」
「来週だけど」
「・・・ジョーのお誕生日ね」
「うん。その年一回のイベントだけど」
「大丈夫よ。一緒にいられるわ」
「うん。――そうだけど、その」
「なあに?」
「・・・去年と同じがいい」
「――去年と?」
「うん」
「それでいいの?」
「うん。それが、いい」

 

ともかく、自分の意志は伝えたぞ――とジョーはほっとした。

自分の誕生日というもの自体に全く興味がなかったしどうでも良かったけれど、実は昨年からちょっとだけ楽しみになった。今までの自分からは想像もできない。自分の誕生日が楽しみ、などと。
けれども、ちょっとだけ楽しみになっているのは事実だったから、その楽しみを確保しなければと電話をしたのだった。

昨年の誕生日祝いと同じものを得るために。

とはいえ。
電話した目的はそれだけではなく、――実はその用件さえもどうでもいいといえばどうでもよかった、いやそうでもないか――のだが、真の目的は、フランソワーズの声を聞くこと、ただそれだけであった。だから、話の内容なぞどうでも良くて、できるだけ会話を続けること、フランソワーズにたくさん喋ってもらうこと、たくさん名前を呼んでもらうことだけが望みだった。

これから予選である。

ジョーはフランソワーズの笑い声と自分の名を呼ぶ声音を思い出し、口元に笑みを浮かべた。
これで、戦える。胸にフランソワーズがいるならば。