−子供部屋−
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)
5月31日 「――怒るわよ?」 僕は、急に冷えた身体といきなり明るくなった室内と、それから大音量の声にさらされ目を開けた。 「うわっ」 僕は転がるようにベッドから飛び降りた。 「・・・それも脱ぎなさい」 不得要領な僕に指をつきつけ、それは僕の着ているものへ向けられていた。 「は・や・く」 寝起きではっきり働かない頭では順序立ててものを考えるのは難しかったから、僕は言われるままにパジャマを脱いだ。上衣を脱いで渡し、次に下も。 「え。これも脱ぐの」 当たり前? 「いや。だけど――」 言い淀む僕に、勝手知ったる他人の部屋、金髪の人物は慣れたようにクローゼットを開けて畳んだ下着を取り出した。 ――ああ、着替えろとそういう訳か。 しかし。 成り行き上、パンツを受け取ったものの、いまこの瞬間に着替えろというのだろうか。 「は・や・く」 にっこり笑んでいるその顔は、可愛い――と言えなくもなかったが、やはりどこか怒っているようで、その笑顔はいつもより数段、怖かった。 「――あのさ。フランソワーズ。いくら見慣れてるといってもその、目の前で着替えろというのはどうかと思うよ?」 しかし、答えはない。 ――まあ、いいけどね。別に減るもんじゃないし。 と、パンツに手をかけた瞬間、「危険」と頭の中に警報が鳴った。 「――!」 僕は彼女を横抱きにすると、開いている窓から外へ身を躍らせた。 「!!」 いったい何がどうしたというのだ。 ――博士は。 他のみんなは。 ――無事なのだろうか。 爆風から庇っているフランソワーズの髪がもみくちゃになっている。 僕はフランソワーズから跳び退った。 違う。 僕のフランソワーズではない。 だったら一体、彼女は―― 何者だ? *** *** 「ジョー。気分はどう?」 「・・・最悪」 ぼそっと言って、ベッドから足を下ろす。まだ完全に自分のものになっていない身体は鉛のように重かった。 「コラ。いま妙なこと考えたでしょ?」 軽く睨むように見つめるその瞳の蒼さに僕は息をついた。 「・・・別に。妙なことじゃないよ。ただ、ひとは見かけによらないなって思っただけさ」 支えていた手をそのまま僕を突き飛ばすのに使うなんて、頭もいいよな――と妙に感心しながら、僕はベッドに仰向けに倒れた。 「・・・ひどいなぁ。もっといたわれよ」 ああ、頭の芯がずきずきする。まだ眩暈もおさまらない。 「――大丈夫?」 そう。 ――フランソワーズに繰り返し命を狙われるなんて、全く冗談もいい加減にして欲しい。 ふんとフランソワーズから視線をそらせ、そのまま横を向いてベッドに伏せる。僕は気分が悪くて調子も良くないんだぞとアピールするかのように。 「・・・ジョー?」 心配そうに名を呼び、僕の首筋に細い指で触れる。 ―― 待っても、体内に警報は響かなかった。――当たり前か。こっちは本物のフランソワーズなのだから。 ・・・でも。 彼女の指が触れた途端、僕は向きを変えて腕の中に彼女を抱き締め捕らえた。 「んっ、やっ、何よ急にっ」 じたばたする彼女。やっぱり――本物なのだろう。たぶん。 ふっと口元が緩んだ。 ・・・でも、待てよ。 だとしたら。 僕の腕から逃れようとじたばたしているフランソワーズ。 「――もうっ。ふざけないで、早く着替えてちょうだい!」 示す方を見ると、ジーパンとシャツが畳んで置いてあった。 「・・・持ってきてくれたんだ?」 いちおう、パンツははいているから全裸ではない。だからそんなに気まずい格好でも珍しい格好でもないはずなのに、フランソワーズは頬を染めるとそばにあったジーンズとシャツを一掴みにして僕に投げつけた。 「ばかっ!!もう、知らないっ!!」 ――だよな。 これがいつものフランソワーズの反応だ。 もう悪夢のことは忘れていた。 5月30日 その日、僕はかなり疲れていたのだろう。 ――人の気配で目が覚めた。 目が覚めた――というより、正確には意識が覚醒したと言うべきだろうか。 こんなことは珍しいことではない。 僕の体には危険回避プログラムがセットされている。 そんなわけで、僕は覚醒した。 しかし、それが――覚醒した。 いったい、どういうわけだ。 僕は静かにドアを開けて部屋に滑り込んでくる気配に神経を集中させた。 そんなことを思ったのはほんの少しの間で、謎の人物の情報が脳に処理された瞬間、僕は緊張を解いた。 その人物は、そのまま僕の傍までやって来てそしてそっと上掛けをめくった。 「・・・痛いわ、ジョー」 床の上から苦鳴が洩れる。愛らしいその声はいつもと変わりが無く、少し拗ねたようなよく知っている声だった。 「――お前は誰だ」 僕は黙って身体の下の人物を見つめた。 しかし。 「放して、ジョー」 これは僕の――よく知っている彼女ではない。 「ジョー?どうしたの」 違う。 「いい加減にしてちょうだい。怒るわよ?」 違う。 絶対に、これは―― 5月29日 「――ただい」 ただいま、と全部言い切らないうちに胸に柔らかい塊がぶつかってきた。 「――わ、フランソワーズ。いったい、なに?」 ジョーの胸に鼻をすりよせ、両手をいっぱいに伸ばして抱きついている。 「・・・ああ、それはそうだろう。空港はウイルスが」 甘えるようにジョーの胸にくっついたまま、鼻にかかった声で言う。 「ジョーも帰ってくるの、遅いわっ。すっごくすっごく、心配したんだから!」 忘れてた・・・。 ともかくジョーは、フランソワーズを胸にくっつけたまま苦労して靴を脱いだ。そうして、まずは手洗いとうがいをするべく洗面所に向かう。 「ちょっと――フランソワーズ」 寂しいか寂しくないかと訊かれれば、答えはもちろん決まっている。が、ともかく今はフランソワーズを剥がすのが先決だった。 「・・・フランソワーズ」 ジョーは天を仰いで息をつくと続けた。 「うがいしてからじゃないと、ちゅーできないんだけど?」 途端。 そして、手を拭き終わるのと同時に――ジョーはフランソワーズの腰を抱き寄せ、幾分乱暴に唇を重ねていた。 *** 「――でね、博士の学会発表が近いから、ジョーのメンテナンスを明日からしたい、って」 ジョーは仰向けに倒れた。もちろん、胸にフランソワーズをくっつけたままである。 ジョーの部屋だった。 「明日から、って・・・それってつまり、2日に分けてやるってこと?」 大袈裟に顔をしかめるジョー。その頬を指先でなぞりながら、フランソワーズは続ける。 「だって、他に博士の都合のいい日がないんだもの。ジョーだってそんなにゆっくりしてられないし」 明日からかぁ、ううむ。と唸ったジョーの唇にフランソワーズの人差し指が触れる。 「だから、明日は早く起きなくちゃだめよ?色々と準備があるんだから」 そうか、早起きかと言いながら、ジョーはフランソワーズを抱き締めるとごろんと寝返りをうってうつぶせになった。 「じゃあ、早く寝ないと駄目だね」 とりあえず、明日から二日間はメンテナンスだった。
カーテンを開けた室内には溢れるほどの陽光が降り注ぎ、そして目の前には真っ蒼な――
いや、実際に転がり落ちたのだろう。床の上にいやというほど尻を打ちつけたから。
そんな僕に目をくれず、金色の髪と蒼い瞳を持った人物は容赦なく僕のベッドからシーツを剥がしてゆく。
そして、ちらりと一瞥をくれた。
「へ?」
着ているもの――しわくちゃになったパジャマ。それを脱げと言う。
パンツ一丁となった僕は、開け放たれた窓を恨めしく見遣った。裸でいるにはまだちょっと早い季節。こんな姿でいるのは寒くて凍えそうだった。――というのは大袈裟だけど。
しかし、蒼い瞳の持ち主はそれだけでは満足しなかった。更に指先が僕のパンツを示している。
「当たり前でしょ」
僕は、目の前に仁王立ちになった彼女に目を向けた。
綺麗な人が怒ると怖いんだな・・・とぼんやり思った。
その綺麗だけど怒ると怖い人は、目を逸らすこともなく僕を見つめている。
着替えろと言ったものの、席を外すとかそういうことは全く考えてないようだった。
手を差し出したまま早くと無言で促すだけだ。
着地すると同時に――ギルモア邸が爆発した。
そのうなじを見るともなく見つめ――
ゆらりと揺れた僕の体を支えるように、フランソワーズが優しく手を添える。彼女は実は怪力の持ち主なのだ。
オモテからはそうとは見えないけれど、実はソコが隠されたちからというわけであって、その意外性こそが彼女の武器でもあり――
今度こそ――本物だ。
「何よそれ」
「君が力持ちだってこと」
「!!もっ、ばかっ」
「起きてすぐソレってどうなの?いたわって欲しかったら、もうちょっと殊勝になったらいかが?」
「殊勝ですよ、僕は」
そのままベッドに倒れている僕を、フランソワーズは少し心配そうに覗き込む。
「大丈夫なわけないだろ。・・・だから、脳内検査はイヤなんだ」
今回はちゃんと前もって脳内検査をするといわれていたけれど、それでもやっぱり覚醒時の気分は最悪だった。
いつもは忘れているはずの悪夢も、うすぼんやりと憶えているから余計にたちが悪い。
果たして、彼女は急に態度を軟化させた。
僕は腕を解かず、胸の上に彼女を抱き締めたまま考えていた。
フランソワーズに命を狙われたり、目の前でストリップさせられたり。・・・・細部は既に曖昧になってきているし、いずれこの記憶はきれいさっぱり消えてしまうのだろうとわかっていても、考えずにはいられない。
夢は夢でも、これがもし僕の深層心理が見させているものなのだとしたら。
僕は――フランソワーズになら、命を奪われてもいいとそう思っているということなのだろうか。
だって、そんなことは全く――構わない。
もしもフランソワーズが僕の命を欲しいというのなら、いつだってくれてやる。
だからきっと、この夢は僕の願望でありそうなってもいいということであるのだろう。
ストリップもそうなのか・・・?
腕を緩めると、あっという間に僕から逃れた。寂しいなぁ。
「・・・へ?」
「早く服を着て、って言ってるの!そこに置いてあるから!」
「当たり前でしょう。その格好で邸内をうろうろされても困るのよ」
「・・・僕は困らないし、ジェットもピュンマも困らないと思うケド」
「私が困るの!」
「ふうん?――見慣れてるのに?」
怒ってメンテナンスルームを後にするその姿を目で追って、僕はやっと安心した。
ひとごとのような言い方なのは、憶えていないからだった。
どうしてあんなに疲れていたのかわからない。が、疲れていたのは確かだった。
何しろ、夕食後にはもう瞼がくっつきそうで、風呂に入っても眠ってしまわないよう大変な努力を要したのだから。
そんな状態だったから、風呂から上がってすぐにベッドに倒れこんだ。
普段の僕にしては、ずいぶん早い時間だったと思う。
何しろ、文字通り「目が覚めた」わけではなくて、瞼は閉じたままだったのだから。
ぐっすり眠り込んでいたはずなのに、突然、意識だけが覚醒した。
僕にとってはごくごく当たり前のことだった。
これに気付いたのは、身体を機械にされて数年経った頃だっただろうか。
どうやら博士も、そんなものはプログラミングされていないと思っていたようでメンテナンスでも言及された事はなかった。
だから、初めて気付いた時は僕も含め全員が驚いたものだった。
もっとも、僕は最初からこういうもんだと思っていたから、それが常態ではない――少なくとも他の仲間には搭載されていない機能だと知って驚いたのだけど。
ともかく、そのプログラムによって、僕は危険が迫っていると感知した瞬間に覚醒するようできている。
もちろん、ずっとそれが続くと睡眠を取れないわけで、日常生活ではその感度を最低ラインに下げてはいるのだけど。そんなわけで、ギルモア邸であっても、遠征中であっても、僕は半径5メートル以内に誰かあるいは何かの気配を感知したら、瞬時に覚醒する。
何故「5メートル」なのかは知らない。
おそらく、僕の機能なら5メートルの距離があればどうにかできるという意味なのだろう。
そんなもの、跳躍ひとつで僕に到達するものもたくさんあると思うけれど、それでもその瞬間に覚醒していれば除けられる――そういう反射神経が搭載されているのも事実だった。
が、ギルモア邸でそうなるのは非常に珍しいことだった。
何故なら僕は、この邸内に寝起きをする者たちに対してはシステム解除設定をしていたからだ。
もちろん、このプログラムのセッティングを僕自身がどうにかできるわけではない。ただ、「学習」させただけだった。
つまり、この体格――身長・体重・体温・脈拍数・呼吸数・・・――の者は大丈夫なのだと。
だから、この家に住む者の誰が部屋に入ってきても、僕は眠っていることが可能である。
何が起こっている?
目を開かなくてもある程度の情報は得られる。体型、歩幅、危険物を持っているか否か、そして――殺意の有無も。
なぜなら、部屋に入って来たのは僕のよく知っている人物であり、最も警戒する必要のない人間だったから。
だから僕は目をつむったまま、眠っている体勢を解かなかった。
僕の首筋に細い指が触れる――刹那、僕は頭の中に警戒の二文字が煌いて身を翻した。
謎の人物の手首を掴みねじりあげ、床の上に組み伏せる。ほんの一瞬の出来事だった。
しかし。
「誰って、ジョー。酷いわ」
「・・・・」
床の上に広がる金色の髪。白い腕。
「おかえりなさいっ」
「心配してたのよっ。本当は空港までお迎えに行きたかったんだけど、博士が許してくれないんだもの」
「平気なのにっ、そんなの!」
「んー・・・これでもすぐ飛行機に乗ったんだけど」
「電話くらいしてもいいじゃない」
「――あ」
が、フランソワーズは胸にぴったりとくっついたまま離れない。
「イヤっ」
「でも、手を洗えないよこのままじゃ」
「・・・」
「ほら。うがいもしないと」
「・・・ジョーは寂しくなかったの?」
「ん?」
「いつもモナコは一緒に行ってたのに。なのに、今回はひとりだったのよ?」
「んー・・・」
背中に回っている腕に手をかけ、ゆっくりと引き剥がす。が、フランソワーズは剥がれない。ジョーの手をうまくかいくぐって再びぴったりとくっついてしまう。
「イヤ」
「――あのさ」
フランソワーズはあっという間にジョーの胸から剥がれた。効果覿面であった。
そうして、ジョーがうがい手洗いをしている間は、彼のシャツの裾を握り締め、ただひたすら待っていた。
「えー」
夕食後――それはもう、ジョーの好きなもの尽くしの食卓だったのだ――ジョーの部屋でコーヒーを飲むことにして二人揃ってやって来ていた。が、すぐにコーヒーはどうでもよくなってしまい、フランソワーズはジョーにぴったりくっついて離れず、ジョーも彼女を抱き寄せ髪を撫でながらの会話であった。ベッドに腰掛けて。
そうしてそのまま仰向けに寝転がったのだった。
「そうよ」
「それは、そうだけど」
「――早起き」
「そう。明日は脳内検査だから、――きゃっ」
先刻の二人の位置関係と逆である。
「早くって?」
「早くは早くだよ」
5月28日
モナコグランプリでは4位に終わったジョーだったが、本人は満足していた。 そのジョーは、レース後すぐに機上の人となった。 しかし、そんな彼を待っていたのは、彼がすっかり忘れていた年に一度のアレだった。 そう――モナコグランプリの後、といえばアレである。 おそらく、そう決まったのはあの砂漠の一件の後からだったろう。 しかし。
***
――ヤだなぁ・・・。 ギルモア邸に着いて、そうしてやっと思い出したジョーは、いっそのことこのまま回れ右して帰ってしまおうかと本気で迷った。 もちろん、理性では避けて通れないことくらい百も承知である。 ギルモア邸の玄関前でぐずぐずと考える。 ――フランソワーズがいなかったら、サボタージュできるのに。 サボタージュという言葉はポタージュと似てる。と思った途端に腹が鳴った。空腹なのである。身体は正直だった。
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5月23日
「大丈夫だって。心配症だなぁ、フランソワーズは」 電話の向こうから聞こえてくる呑気な声にフランソワーズの気は逆立った。 「もう!心配して何が悪いのよっ」 小さい声で言ったのにフランソワーズにはもちろんキャッチされ、ジョーは小さく肩をすくめた。 「だから。大丈夫だよ、そんなに心配しなくても」 言い淀むフランソワーズにジョーは優しく言った。 「大丈夫。ちゃんと気をつけるよ」 ――それに、もしも何かあったとしても。 「ジョー?」 ・・・きっとフランソワーズは迎えに来てくれるはずだから。 「行かないわよ、私」 望むと望まざるに拘らず、ジョーがヤッカイゴトに巻き込まれるのは彼のせいではないのだから。いわば、不可抗力である。フランソワーズの心配もわかるけれど、こればっかりは気をつけようがない。 「うん、まぁ、極力気をつけるよ」
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毎年、ふたり揃って行っていたモナコグランプリ。当然、今年もそのつもりであり、ジョーの誕生日が終わってすぐ荷造りを始めたのだったが。 止めたのはギルモア博士である。 その理由は、新型インフルエンザウイルスの蔓延であった。 メンバー中、最も生身に近いフランソワーズを心配しての措置である。何しろ、F1レースともなれば各国から老若男女問わず集結するのだ。感染の確率は格段に高いであろう。
***
「・・・新型って言ったって、弱毒性なのに。ただ感染力が強いっていうだけでしょう」 ジョーとの通話を終えたあとの携帯電話に呟いてみる。 「どっちにしろ、健康でちゃんと栄養も睡眠もとっていればウイルスなんかに負けないのに」 弱毒性ということは、つまりはそういうことなのだ。 でも。 どうしてよりによってこの時期に。 フランソワーズにしてみれば納得がいかないことこの上ない。個人的な事情であって、ウイルスの蔓延との関連性があるはずもないとわかっているけれど、それでも両者が合致したのは気に入らなかった。 「まさか・・・ネオブラックゴースト?」 いやまさか、それはないだろう。彼らは――消滅したはずなのだから。 しかし。 こうして世界各地でほとんど時期を同じくして発生するなど、何か――作為がありはしないだろうか。 「・・・まさか、ね。彼らがいたとしても、できるのは、せいぜいマスクを買い占めてネットで高値で売ることくらいよ」
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朝からケチャップやらソースやら醤油まみれになったジョーは、それでも上機嫌だった。何しろ腕には複数枚のDVD。それも主演女優は彼の最愛のひとであるフランソワーズなのだから。
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ジョーの自宅マンションに揃ってやって来たのは昼過ぎだった。 「ジョー。今年のプレゼントはちょっと違うわよ」 そんな事を話しながら、笑い合って。 「――そうだ。蒼いリボン、要るよね?」 それは昨年のジョーの誕生日に「プレゼントは私」とフランソワーズが首に巻いていたものだった。ジョーはそれを大事にとってあるのだ。フランソワーズは何度も捨てろと言ったのだけど、これを巻いたらいつでもきみは僕のもの、と適当なコトを言ってジョーは決して捨てさせなかった。 キッチンで食材を冷蔵庫に納め終わったフランソワーズは、そのリボンを見つけてため息をついた。 「ジョー。今年はこれは使わないのよ」 睨む蒼い瞳から目を逸らし、ジョーはともかく蒼いリボンを自分の手に巻きつけて――放置しておけば捨てられてしまう――灰皿を手にベランダに逃げた。
***
――ちゃんとした仕様、って何だろう・・・? 一雨きそうなグレイの空にぷかりと煙の輪を吐き出して。 まさか、あれじゃないよな・・・? 確かに、前回電話で何かリクエストしたのは覚えている。が、それは――フランソワーズのとんちんかんな答えで諦めたはずではなかったか。いや、それとも――彼女に真意が伝わったのだったか。 ――なんだか、今日は・・・ 気分が塞いでくる。と言ったらフランソワーズは怒るだろうか? かといって、ひとり部屋にこもってDVDを観ていたら何て言われるのかわかったものではない。ともかく、締め出されたフランソワーズはごねてごねて天を呪いジョーを呪い世界中を呪うだろう。 ――結局。 自分はフランソワーズが一番なんだなあと思うのだった。
*** ***
プレゼントのタイミングはどうしたらいいのだろう? フランソワーズはずっと考え込んでいた。頭のなかでは何度も何度もシミュレーションを重ねているが、どれもこれも納得がいかなかった。 ジョーにいったん外出してもらおうかしら。そして、出迎えて―― いやいや、それでは前回と同じ演出で面白くない。それに、玄関先でどうこう・・・というのもできれば避けたかった。 いちばん不自然じゃない時といえば、それは当然の如く食事の時である。が、せっかく作った数々の料理を――今日のためにレパートリーも増やして練習してきたのだ――食べる代わりに自分が食べられてしまうのはいただけない。 でも――だったら、いつがいい? うかうかしていると今日という日が終わってしまう。
***
ジョーは煙草を一本吸い終わって、灰皿を手に部屋へ戻った。 「・・・フランソワーズ?」 目の前にフランソワーズが立っていた。笑みを浮かべ、頬を紅潮させて。 「――ええと。・・・どうしたんだい?」 我ながら変な質問だと思う。どうしたも何もないだろう。ここにフランソワーズがいるのは何の問題もないのだから。 「別にどうもしないわよ、ジョー」 恥ずかしそうにもじもじと両手の指先を合わせながら、 「でも、私としては、その・・・、ジョーがエッチなDVDを観るのは納得いかないというか、あ、観てもいいのよ、別に。ええ。どうぞ、観て頂戴。でも、そっちに集中されてしまうのは悲しいというか、何というか・・・で。だから、その」 険しいジョーの顔に、フランソワーズは一歩退いた。 ジョーは無言で灰皿をテーブルの上に置くと、あっという間にフランソワーズの目の前に到達していた。 「だから――何?フランソワーズ」 肩の上に流れている髪をひと房掴み、ジョーはそれをそうっと彼女の背中に払い除けた。 「・・・フランソワーズ」 フランソワーズはジョーが耳元で囁いた途端に真っ赤に染まった。 「だ、だって、前にジョーがっ・・・」 フランソワーズを抱き締め、髪を撫で背中を撫で――あちこち撫でていたジョーはちょっと身体を離した。 「――うん。いいね。可愛い」 振り向いたフランソワーズはくすくす笑うジョーを認め、怒ったほうがいいのか照れたほうがいいのか、判断に困った。何しろ笑われている――の、だから。 「何か変?」 触れもせずただ上機嫌で微笑むジョーの視線が絡みついて、フランソワーズは落ち着かなかった。 で――このあと、どうすればいいのだろう? まさかこのままキッチンでお料理とかそんなことはないだろう。それはいくら何でも。 「で・・・どうしようか」 言うと、ジョーは真っ赤になって顔を覆っているフランソワーズを抱き上げた。 「もったいないけど、もらうよ。プレゼント。それに、いつまでもそんな格好じゃ寒いだろ」 白いエプロン一枚しか身につけていないフランソワーズは、ジョーの腕のなかで小さく頷いた。
***
去年があれで今年がこれで。 目を閉じてジョーの胸にぴったり寄り沿っているフランソワーズを見つめ、その腕に体温を感じながらジョーは考えていた。 そうして、そんな自分にふっと笑みが洩れる。 ――今までは、誕生日プレゼントなど要らないと思っていたのに。 こんな幸せな気持ちになるなんて思ってもいなかった少年時代。 「・・・フランソワーズ」
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5月15日
とりあえず、部屋の鍵をかけて――ジョーにまた邪魔されないように――更にそれだけでは安心できず、チェストを動かしてドアの前に置いた。 ・・・この邸は危険がいっぱいだわ。 胸の裡で言ってから、いざ。と試着を始めた。
***
「・・・・」 鏡の前でフランソワーズは無言だった。 シンプルなアイボリー。 ――ちゃんとした仕様。 なのだから。 もちろん、今は試着段階なのでズルをしている。 ともかく、後ろもチェックしてみる。 心配な部分はなかった。 ちょっと屈んでみる。 ・・・もう。これってやっぱり元の設定に無理があるんだわ。 それに――微かに寒い。
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5月14日
「ダメっ。入って来ないで!」 フランソワーズの部屋をノックし、返事があったのでドアを開けて一歩踏み込もうとしたジョーは、部屋の主の怒声に押され、踏み込もうと片足を上げたまま固まった。 「え。いまいいよって返事したじゃないか」 ジョーは片足立ちのままぐらりと揺れた。 「ひっ酷いなあ。おっとっと」 ジョーが入って来た途端にベッドの上に身を伏せて何かを彼の視界から遮っていたフランソワーズは、ジョーの不可思議な声に振り返った。そうして片足立ちのジョーを見つけ目を丸くした。 「・・・なにしてるの」 ジョーは上げていた足を下ろすと憤然と胸を張った。 「どうして僕は入ったらダメなんだよ」 ジョーは鼻を鳴らすとフランソワーズの静止に構わず、ずかずかと入ってきた。 「ちょっと、ダメよ!」 フランソワーズは胸の前に掻き抱くようにしてジョーから何かを隠し、再びベッドに伏せた。 「何、隠したの」 フランソワーズの背中を指先でつつく。 「いいの、ジョーには関係ないから」 そう言うと、ジョーはフランソワーズの顔を覗きこむように身を屈めた。 「ね。何隠したの」 頬を染めたままベッドに伏せているフランソワーズ。その顔を屈んで覗き込んでいるジョー。 「――なんだ。だったらそう言えばいいのに。そうしたら、僕だって強引に見ようとはしないさ」 言うと立ち上がってくるりとフランソワーズに背を向けた。 「ふうん・・・そうか」 眉間にシワを寄せ、思わずフランソワーズを振り向こうとしたが何とか意志の力で堪えた。 「・・・もう。ジョーのせいでしわくちゃになっちゃったわ」 あとでアイロンをかけなくちゃ。 でも――恥ずかしいのは私だもの。ちゃんとチェックしておかなくちゃ。 大きく頷くと立ち上がった。
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5月13日
ジョーが帰国した。 「お帰りなさい」 いると思っていなかった人物に出迎えられ、ジョーは目を丸くした。 「あれ?フランソワーズ?」 確か、バレエのレッスンが始まっているはずではなかったか。 「今日はお休みなの」 靴を脱いで上がったジョーを引きとめ、下からじっと褐色の瞳を凝視する蒼い双眸。 「・・・なんだい?」 今年は――大丈夫なようだった。 ――うん。大丈夫ね?ジョー。
***
夕食後の後片付けを終えたフランソワーズは、ジョーが珍しくウッドデッキに出ているのに目を留めた。 「・・・ジョー?」 ジョーは自分には暗闇が合っている――と勝手に思っている。けれども、フランソワーズはそうは思わない。ジョーには暗闇が似合うのではなく、彼が頑なにそこから出て来ないだけなのだ。 しかし。 今回は闇から引っ張り出すのではなく、一緒に闇に溶けた。 「・・・何を見てるの?」 ジョーの隣に立って、同じ方向を見つめ。そうして放った質問だった。が、あまりにも予想通りの返答に微かに眉間にシワが寄る。 「それはわかっているわ。何が見えるの、っていう意味よ」 最後の「僕には」が気になった。 「・・・何を考えてたの?」 一拍間を置いて、フランソワーズは頷いた。 「・・・そう」 それ以上追求しない。 しばらく無言で何も見えないような漆黒の海のほうを眺める。 ふと――不安になった。 「・・・ふ」 フランソワーズ。とか細い声で言いかけた。 「ふふん。ジョーの負けね!」 そうしてフランソワーズはジョーの腕に自分の腕を絡ませる。頬をぴったりと肩に寄せて。 「他には誰も聞いてないわ」
|
5月12日
フランソワーズは甚だ疑問だった。自分自身に。 ――私、どうしてこんなことしてるのかしら? 手元には既に何着もの「候補」がある。が、いずれも決め手に欠けるような気がして決められない。 ――しかも、「決め手」って何なのよ。 小さくため息をつく。 ・・・でも、最初にしたのは私だし。――そうよ。するなら徹底的に、よ。うん。それにお誕生日だもの。去年と同じがいいって言われてもすっきりしないわ。だったらバージョンアップするしかないじゃない。たぶん・・・たぶん、ジョーもそう言っていた――そう、そうよ!ジョーもソレを指していたに違いないわ。だって、ちゃんとした仕様って言ってたし。 うん。 ひとつ納得したところで、再び手元のソレに意識を移す。改めて数枚を肩にあて、うーんと唸る。 ・・・決められない。 やっぱり、いつもの友人たちを連れてくれば良かったかしら? がしかし、すぐにその考えを打ち消した。 ダメダメ、絶対、どうして買うの、どうして迷うの、って散々言われるに違いないもの。 やっぱり自分ひとりで選ばなくては。と気合をいれる。
***
――これはレースがヒラヒラしてて可愛いけど・・・新婚さんみたいね、ふふっ・・・じゃなくて、そう、ちょっと「いかにも」よね? ベビーピンクにレースがついたソレを却下する。 それから、これ・・・は。やっぱり柄物は難しいかしら。お花の方がいいかしら。・・・アヒルはないわね。 黄色地にアヒルが散っているのも却下する。 そうするとやっぱりシンプルなの?でも――地味じゃないかしら。あ、それともワンポイントとか。・・・ドレスっぽいのもいいかもしれない。アリスちゃんがしていたようなの。 それだったらちょっと得意だった。何しろ兄に小さい時から「アリスちゃんと似てる」と言われているのだ。 そうね。・・・そうしようかしら。
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5月11日
「ただいま」 電話での会話である。 「――フランソワーズがここにいないのが悔しいな」 フランソワーズにはフランソワーズの生活のリズムがあって、予定があって――と、わかってはいても、つい思ってしまう。いつも彼女が隣にいてくれたら、と。 「・・・ジョーったら。もうすぐ会えるのに」 ――そうだけど。 「それに、次はモナコでしょう?一緒に行くの、忘れたの?」 忘れてなどいない。 「・・・フランソワーズが楽しみにしているのはショッピングのほうだろう?」 毎年、店ごと買うくらいの買い物をしているのだ。 「あ。酷いわ、ジョー。あなたと一緒にいるのが楽しみなのよ?」 くすくす笑うジョーの声。電話越しのそんな声がくすぐったくて嬉しくて愛おしい。 「ね。いつ帰ってくるの?」 楽しみにしてるから。 「やっ、もうっ、ジョーったらそればっかり!」 あなたのものなのに。 「一日限定っていうのがいいんだ、って言ってたのは誰だい?」 嘘ばっかり! 「――で、フランソワーズ」 急に改まった真面目な声に一瞬びくんとする。けれどもすぐに携帯電話を握り直し、頬を引き締めて返事をする。 「はい」 別に事件とかそういうのではないんだ? 「僕としては、その・・・」 ジョーはずうっと大事にとってあるのだ。 「いや、それはそう・・・なんだけど」 その日は二人きりで過ごす。これも毎年決まっていること。 「・・・その時に、さ」 ジョーは無言でガッツポーズをとった。フランソワーズには見えないのでちょうど良かった。 「ディナーのフルコースでしょう?頑張るわ」 ジョーの頭の中にはその姿が乱舞しているのに、それをどう言えばいいのかすっかり混乱してしまっていた。 「・・・ええと」 さて、何て言おう?
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5月10日
「去年と同じ、――って」 電話を切ってから後も、フランソワーズはそれを持って見つめたままだった。軽く眉間にシワが寄る。 「もうっ・・・事あるごとにこれなんだからっ」 昨年のジョーの誕生日以来、何かにつけて彼は「同じもの」がいいと言う。クリスマスも、バレンタインデーも。
***
「何が不満なの?いいじゃない、仲良しで」 レッスン後のいつもの喫茶店でいつものように、フランソワーズと友人たちが他愛もない話を展開する。 「嫌よ。もう騙されないわ」 アイスコーヒーのストローを弄びながら、フランソワーズがつんと顔を背ける。 「まあ、怒りなさんな。いいでしょうが。おかげで楽しく熱いバースデーを過ごせたんだからさ」 探るように顔を覗きこまれるのを、首を左右に振って除けながら、 「もう!私たちのことはいいでしょう。他の話をしましょうよ」 ねーっとフランソワーズを覗く全員が顔を見合わせ大きく頷き合う。 「・・・関係ないじゃない」 あなたたち、私をからかって遊びたいだけでしょう――とフランソワーズはじっとりと睨みつける。が、誰も彼女の視線を受け止めず、ケーキを食べることに専念している。 「問題です。島村ジョーの今日のレースのスターティンググリッドは何番でしょう?」 むっつりとフランソワーズが質問を投げる。昨夜の予選をちゃんと見ていれば当然答えられる問題である。 「そんなの、知らないわよ」 口々に返ってくる答えにフランソワーズはため息をついた。 「もうっ・・・全然、ファンじゃないじゃない!」 それでも、日本に彼のファンが多いのは確かであり――しかも女性――放送時には前後に彼のアップのインタビューが盛り込まれているのが常だった。 「ちゃんと見てないのはフランスソワーズでしょう?本戦ではたくさんインタビューされてるのに」 すまして言って、ケーキを口に運ぶ。 ・・・まあ、確かにカッコイイけど。 声には出さず胸の裡で言って、ケーキと一緒に飲み込む。 「・・・グリッドは2番。フロントローなんだから、今晩ちゃんと見てください」 憮然としながら言うフランソワーズ。その顔を見つめ、友人たちは笑いを堪えながら真面目に頷いてみせるのだった。 ――まったく、フランソワーズってからかいがいがあるんだから・・・。
***
「えっ、ジョー?何で・・・何やってるのよ」 帰宅したフランソワーズを待っていたかのように鳴った携帯電話。その着信メロディーはジョーだったから、まさかと思いつつ出たのだけれど。 「何って、電話してるけど?」 どうしてレース前の貴重な時間を電話なんかで消費するの。 「さあ。なんででしょう?」 笑みを含んだ楽しげな声。 「そんなの知らないわよ。・・・もうっ、切るわよ?」 そうよ、と言いかけ止まってしまう。 それで――電話? 「あの、ジョー?」 フランソワーズの頬が熱くなる。本当は、レース直前とも言える時間に私事で時間を遣うなど褒められることではないでしょうと怒るべきなのだろうが、何も言えなくなった。 「もう我慢しないことにしたんだ。だからさ、――言ってよ。いつもみたいに」 レースの前に言うことはいつも決まっていた。 「早く。それを聞かないと行けない」 急かすように言われる。 ――いつもみたいに。 「・・・誰よりも早く帰ってきてね」 私のもとに。
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5月9日
「もしもし。――俺」 ジョーの携帯電話のフランソワーズの着信メロディ。それは、勝手にフランソワーズが設定した「森のくまさん」なのだった。 「――なんで森のくまさんなんだ」 ちなみに、フランソワーズがジョーの携帯をいじったのは後にも先にもこれだけであった。ジョーが人物ごとに着メロ設定をしていないと知り、せめて自分だけでもと設定したのだ。が、ジョーは基本的に音を消しているので、着信は常に振動音であり、フランソワーズからだろうが誰からだろうが、着信メロディーが鳴ることは殆どなかった。 ジョーはしばし、どうして自分がくまさんなのか考えた。 「ジョー?どうかした?」
ともかく、自分の意志は伝えたぞ――とジョーはほっとした。 自分の誕生日というもの自体に全く興味がなかったしどうでも良かったけれど、実は昨年からちょっとだけ楽しみになった。今までの自分からは想像もできない。自分の誕生日が楽しみ、などと。 昨年の誕生日祝いと同じものを得るために。 とはいえ。 これから予選である。 ジョーはフランソワーズの笑い声と自分の名を呼ぶ声音を思い出し、口元に笑みを浮かべた。
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