−子供部屋−
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)

 

6月30日

 

先刻とは打って変わって、外出することに関し異様な熱意を持ってしまった恋人を隣に従え、フランソワーズは困っていたというのが本当のところだった。
ジョーが何故急に乗り気になったのかわからない。
それでも最初は、その気になってくれたのが嬉しくて、外出の支度をするのも楽しくて仕方なかったのだが。
どうも変だ。
既に外は激しい雨で、誘ったフランソワーズさえも躊躇うほどだった。
にもかかわらず、ジョーはフランソワーズの手を引くと意気揚々と踏み出したのである。
二人ともそれぞれに傘を手にしていたが、フランソワーズのは閉じられたままである。
開こうとした傘をジョーに取り上げられ、強引に彼の傘の中に入れられてしまった。
あなたの肩が濡れてしまうわという声にも耳を貸さない。そればかりか、フランソワーズの肩に腕を回し、しっかり引き寄せ「だったらこうすればいい」と涼しい顔で言ったのだった。
フランソワーズはただただ驚くばかりで声も出ない。
巻きついている腕が熱くて鬱陶しいが、見上げた先には鼻歌まじりの涼しい顔があるばかり。

――このひと、本物かしら?

どうにも別人のように思えてならなかった。

 

***

 

一方のジョーはというと、二人の熱々ぶりをアピールすることに異様な熱意を傾けていた。
ふだん、自分がフランソワーズに対してそっけないとか、淡白な態度を取っているとは思わない。が、しかし、対外的にどうかと問われれば、確かに多少大人しいであろうことは否めなかった。
何より、先刻、エレベーターホールで見たフランソワーズの寂しそうな背中が忘れられない。
更に言えば、その眼前を勝ち誇った笑みで通り過ぎた彼女。
自分の中の日本人気質とでもいうべきシャイな部分が、そのような副作用をもたらすとは思ってもいなかった。
だから、今日は一日、ともかくイヤというほどそばにいようと心に決めたのである。
何も難しいことではない。自分の心のままに行動すればいいだけの話である。
異国の地であるということも幸いした。いかに紳士の国といえど、やはり日本とは違う。多少の熱々ぶりは許されるだろう。そう判断した。昨日、優勝したという事実も作用したのかもしれない。勝利の美酒に酔いしれた一夜が明けても、まだその残滓は彼のなかで完全に消えてはいなかったのである。
全ては、ジョーのいつにない熱意を後押しした。

 

***

 

やっぱり変だわ、今日のジョー。

巨大な水溜りを前にして、まるでお姫様のように彼の腕に抱き上げられた時、フランソワーズの疑念は確信に変わった。
普段、外では決してやらない事を平然とこなすジョー。これはまったく異常事態である。どこかおかしくしたのに違いない。
そう思って、抱き上げられたぶん近くなった褐色の瞳を覗きこむ。

「ん?なに?」

しかし、優しく煌く瞳に返され、フランソワーズはあえなく撃沈した。

「・・・・・・・・なんでもないわ」
「そう?」

そのまま無言でジョーの首にかじりつく。とても顔を見ていられなかった。

――ずるいわ。いったい今日のあなたは何なの。

雨が降っているからイヤだときっぱり断ったくせに、数分後には行こうと誘う。しかも、土砂降りの雨なのに。
普段は相合傘だって自分からはしないくせに、まるでそうするのが当然のように同じ傘に収まって。
それだけではなく、鬱陶しいくらいべたべた触れてくる。手を離せば逃げてしまうだろうと言わんばかりに。
そして、今の瞳である。
いつもは頼んでも、渋々抱っこするのに今日は自ら抱き上げ、それも全く照れていない。
それこそ、今までこれ以外の方法なんてあったかなというくらいの態度で。およそ、いつものジョーとは言えない。

・・・さっき食べた朝ごはんに何か混じっていたのかしら。

けれども、食後までは確かにいつものジョーだった。
何が彼を変えたのかフランソワーズにはわからない。
しかし。

理由はわからないし、いつものジョーではないようだけど、それでもジョーはジョーである。もちろん偽者でもない。その証拠に、腕の温かさも抱き上げる時の癖も、いつもの彼と同じであった。
だから。

フランソワーズは黙ってそのまま身を任せた。何しろ――嬉しかったのである。
いつもは積極的に構ってはくれないジョー。それが今日は公然とこういうことをしてくれる。もちろん、恥ずかしくないと言えば嘘であるが、それでもそれを差し引いてもなお余りが出るくらい嬉しいのだ。
フランスで生まれ育ったフランソワーズとしては、一度くらい――そう、一生に一度でいいから、ジョーにこういう風に態度で示して欲しかったのだ。フランスの恋人同士がするように。

とはいっても。
水溜りを横断するだけにしては異様に時間が長いような気がして、そっと閉じていた目を開いてみた。
当然の如く、さっき目の前にあった巨大な水溜りは姿を消している。

「・・・ね、ジョー。もういいわ。下ろして」
「なぜ」
「なぜ、って・・・恥ずかしいわ」
「そう?」

ジョーは全く下ろす気がないようで、頬に笑みを張り付かせたままどんどん歩いていく。
フランソワーズはさすがに周囲の目が気になり始め、ジョーの腕の中で身をよじった。が、それでもジョーは離してくれない。

「ねえ、ジョー。目立つわ」
「ふうん」

興味がないという風に鼻を鳴らされ、フランソワーズは目を丸くした。

「ふうん、って、だってジョー」
「なに?」
「だって――」

あなたはF1パイロットで、ゴシップ記事はNGじゃなかった?

そんなフランソワーズの心の声が聞こえたのか、ジョーが答える。

「フランソワーズと仲良くしているのが何か問題あるかな?」
「え。・・・そういうワケじゃ・・・ない、ケド」
「だったら別にいいんじゃない?取材されるのもこっそり撮られるのもどうでもいいよ」
「どうでもいい?」
「ああ。だって別に悪いことしてるわけじゃないし」
「でも・・・恥ずかしいわ。ねぇ、下ろして」
「だからなぜ?僕はフランソワーズとこうしてても何も恥ずかしくなんかないよ」
「私は恥ずかしいわ」
「僕と一緒に居るのが?」
「そうじゃなくて。・・・もうっ。子供じゃないんだから、自分で歩けるって言ってるの!」
「うるさいなぁ。大人しくしてないと余計に目立つよ?」
「だって――あ」

聞き分けのないジョーにどうしたものかと思った時、行きたかった店が目に入った。

「ね、ジョー。このお店行きたかったの」
「うん?――ふうん」

そうしてやっと地に足をつくことができたフランソワーズ。大地を踏みしめるのがこんなに素敵なことだとは思わなかった。
しかし、一人で大地のありがたさを噛み締めたのはほんの一瞬で、すぐにジョーの腕が腰に巻きついた。当然のように彼の身体にぴったりとくっつけられる。

「あの、ジョー?」
「うん?」

本当に、今日のあなたって――

「なに?」

おそらく、これもジョーなのだろう。
あるいは、彼なりにフランソワーズに甘えているのかもしれない。
そう思うとフランソワーズは、とりあえず今日はこの状況を楽しむことに決めた。
こんなジョーには滅多にお目にかかれない。けれども、自分はこんなジョーがイヤではなくむしろ嬉しいのだから。

「・・・ううん。なんでもないわ」

そうしてフランソワーズもジョーの腰に腕を回し、二人仲良く店に入った。

 

***

 

入った途端、ジョーの脳裏に「女の戦い勃発」の文字が点滅した。何故なら、そこには昨日優勝争いをした彼とその彼女が居たのだから。

ジョーがすうっと頬を引き締め、フランソワーズの腰を抱いた腕に力を込めて「女の戦い」に備えた途端。

「あらやだ、もう来てたの」
「そうよ!フランソワーズったら遅いわ」
「きゃー、許してっ」

あっさりとジョーから腕を離し、ジョーの腕からすり抜け、恋人は「敵」であるはずの彼女へ駆け寄った。
そうして手と手を取り合い上記のような会話を交わしたのである。

「・・・あれ?」

「女の戦い」「敵」という文字がジョーの頭の中で乱舞する。

だってさっき、えらい挑戦的な目でフランソワーズを見ていたじゃないか。

納得がいかなかった。

「よお」

そんなジョーの肩を叩くF1パイロットの彼。

「お前もお供か?」
「う、まあ、そんなところだが――あの二人」
「ああ。ここで落ち合う予定だったんだってさ」
「はあ?予定?」
「ああ。エレベーターホールですれ違った時、そんなような事を言っていた」
「・・・・」

ジョーには挑戦的な勝ち誇った笑みに見え、更にフランソワーズの背中は寂しげにしょんぼりとして見えたのだが。
実はあの時、彼女は「先に行ってるね」とフランソワーズに笑みを向け、フランソワーズは「すぐ行くわ」と小さく手を振って答えていたのだった。

ジョーはがっくりと肩を落とした。
「女の戦い」などではなくて、ただの仲良し同士のお買い物だったのだ。何も自分が付き添ってくるほどの事では全く無い。
すっかり脱力して、帰って寝てようかどうしようか――と不穏な事を思い始めた時。
女同士仲良くショーケースを覗き込んでいたフランソワーズがふと顔を上げた。

「ジョー!ね、ちょっとこっちに来て!どっちがいいか一緒に見てくれる?」

小さく首を傾げて言うフランソワーズ。
それが可愛くて、――やっぱり帰るのはやめた。
そう、今日は一日フランソワーズと「熱々で過ごす」と決めたのだ。だから、それを全うしなくてはならない。
自分で勝手に決めたこととはいえ、男に二言はないのだった。

「――うん?どれとどれ?」

言いながら腕を広げてフランソワーズをすっぽりと胸の中に納めてしまう。

「ん。あのね、手前のとその後ろの――」

慣れないジョーの行動に耳まで赤くしたフランソワーズ。
ジョーはその横顔を満足そうに見つめるのだった。

 

 

***
「これ、誰?」と思いつつ。一生に一度くらい、こんなジョーがあってもいいかなと・・・マボロシかもしれませんが。


 

6月29日

 

ジョーは雨が嫌いだった。

それに理由を求めたこともある。
湿気やグレイの空が憂鬱な気分にさせるからだとか、好きな蒼い空が見えないからだとか、あれこれ――適当な理由を作ってみたりもした。
が、どうやらそんなに高尚な理由ではないだろうということに落ち着いた。
もっと直接的で誰からも同意を得られるだろう単純な理由。
そう――ジョーは、ジーンズの裾が濡れるのもスニーカーが濡れるのも、気持ちが悪くて嫌だったのだ。
それ以上でも以下でもない。

だから、そんな日に好き好んで外に出かけようと言うひとの気が知れない。
それが例えフランソワーズであっても。

断固として。

だから、きっぱりと言ったのだった。

「嫌だ」

それで話はお終いだというようにジョーは前髪をかきあげ椅子の背にもたれかかった。
今までテーブルに乗り出してフランソワーズを見つめ話を聞いていたのが、急に興味を失ったという風に。

「どうしてよ」

対するフランソワーズはジョーとの距離が広がったのが気に入らなくて、先ほどよりもテーブルに身を乗り出した。

「決まってる。雨が降ってるからだ」
「いいじゃない。傘をさせば」
「メンドクサイ」
「じゃあ、私が傘を持つわ、昨日みたいに。だったらいいでしょう?」
「嫌だ」
「どうして?相合傘なのよ?」

そんなのに騙されるもんか。とジョーは口を結んだまま何も言わない。

「雨の何がそんなに嫌なの?雨が降らなかったら、大地は潤わず作物だって育たないのよ」

フランソワーズの諭すような声にも耳を貸さず、じっとテーブルの上のコーヒーカップを見つめている。

「ジョー?聞いてる?」
「・・・ああ。聞いてるよ」

しかし、気の無い様子にフランソワーズの柳眉は逆立った。

「んもう!」

フランソワーズは胸の前で腕を組むと、ジョーと同じように椅子の背にもたれかかった。
これで二人の距離はますます広がった。数分前には、お互いの額がくっつきそうなくらいテーブルの上に身を乗り出し手を握り合っていた二人とはとても思えない。

「お買い物にも行かないでまっすぐ帰るつもり?」
「いけないかい?」
「だって――次のレースまで間があるでしょう」
「ああ」
「だから」
「だからって無理に買い物することないじゃないか」
「・・・そうだけど。でも・・・私、モナコに行けなかったから今年はお買い物をしてないのよ」
「別にいいじゃないか」
「ジョーはモナコでお土産買ってきてくれなかったし」
「あ。酷いなぁ。ちゃんと買ってきただろう、フランソワーズのお気に入りのボディソープとシャンプーのセット」
「・・・そうだけど」
「それも1ダース」
「・・・それは、嬉しかったけれど」
「だろう?」

ジョーは少し顔を上に向けて、どうだという風に勝ち誇った表情をした。
モナコグランプリは毎年フランソワーズも一緒に行くきまりになっていたが、今年は新型インフルエンザのせいでフランソワーズは行けなかったのだ。だから、ジョーはお土産に彼女のお気に入りの薔薇の香りのボディソープとシャンプーのセットを購入したのだった。これは日本にはなかなか入荷されないものであり、フランソワーズは毎回苦心して入手しているのである。それもこれも、ジョーが「いい匂いだね。フランソワーズに似合うよ」と罪な一言を言ったためだった。もちろん、言った当人はとっくに忘れており、それについても過去にひと悶着あったのであったが。

「でも、私はジョーと出かけたいんだもん」

拗ねたように唇を尖らせるのにジョーの表情が和らいだ。
もちろん、フランソワーズはその微妙な変化を見逃さない。

「・・・だめ?」
「ああ」
「どうしても?」
「うん」

けち。

と言って拗ねて怒って諦めるのは簡単だった。何しろ、雨の日のジョーは基本的に機嫌が悪く、懐柔するのは至難の技だったから。
しかし。

「そう・・・残念だわ」

あっさりと引いてみる。
案の定、ジョーは少し驚いたようだった。

「・・・ずいぶん簡単に諦めるんだな」
「だって、嫌なんでしょう?」
「ああ」
「だったら仕方ないじゃない。――せっかく、昨日の勝者とデートできる、って思ってたのに」
「・・・まぁ、それは残念だったな」
「自慢したかったのに」
「誰に?」
「昨日のレースを観ていた全てのひとに。このひとは昨日勝ったひとなのよ、って」
「・・・・」
「それでね、私の大事なひとなの、って」
「・・・・」
「見せびらかしたかったのに」
「――僕は見世物じゃないよ」
「そうよね。そういうと思ったわ。――いいわ、一人で出かける」

拗ねているのか、怒っているのか。
ジョーは判断に迷い、席を立ったフランソワーズを追いかけるのが数瞬遅れた。

エレベーターホールで追いつくと、ちょうどエレベーターが着いたところだった。
中からホテルの客が吐き出されてくる。
その中には、昨日フロントローで並び最後まで争ったF1パイロットとその彼女の姿もあった。
フランソワーズと軽く会釈をしてすれ違う――のだが、その彼女がこれ見よがしに彼の腕に寄り添い勝ち誇ったような笑いを頬にひらめかせたのを見て、ジョーは全てを理解した。

――そういえば、女の戦いとか・・・言われてたな。

昨日のグリッドでのことである。
同じ装いの二人の女性に視線が集まるのは当然と言えば当然だった。
ジョーとしては、そんなもの、自分たちの勝負にはまるっきり関係ないし、勝てばいいのだと思っていたから気にも留めなかったのだが。
女性陣としてはどうやらそうも言ってられないようだった。

こちらに背を向けているフランソワーズが何だかしょんぼりしているように見えて、ジョーは早足で追いつくとフランソワーズの手をとりエレベーターに乗り込んだ。
自分の部屋のあるフロアを押してドアが閉じると、驚いた顔で見上げているフランソワーズに微笑んだ。

「やっぱり一緒に行くよ」
「えっ、いいのよ無理しないで」
「無理してないよ」

そう――無理しているわけではない。
ただ単に、フランソワーズに惨めな思いをさせたくないだけなのだ。

「女の戦い」はまだ終わっていない。レースと無関係のそれは、レースの後こそ勝負の時なのかもしれなかった。

――いいさ。だったら、僕は今日、見世物でも構わない。

向こうは自慢するかのように恋人の腕を抱き締め、そしてフランソワーズに勝者の笑みを向けていた。
そんな戦いなどくだらないと思うのは簡単だったし、そんな戦いにのらなくてもいいのだろうとは思う。が、自分たちがいくらそう思ったとしても周囲はそうは受け取らない。きっと面白おかしく書き立てて、フランソワーズがそんなにジョーに思われてはいないのだと言うだろう。彼女サービスさえしない冷たい恋人を持った不幸、と。
フランソワーズはそんなことくらいには負けないだろうけれど、それでも不愉快な思いはするだろう。
だとしたら、自分がサポートするしかないではないか。

――ふん。誰も間に入れないくらい仲がいいんだってことを認めさせてやる。

いったい誰に?とは思わず、ジョーはなんだか燃えてきた。

「フランソワーズ。すぐに準備して出かけるぞ」

 

 


 

6月28日

 

「――え。フランソワーズ、何?その格好」

一足先にサーキット入りしたジョーと共に連れて来られたフランソワーズ。そう、今回は「ジョーのワガママ」な「心配」により一緒に来ているのだから、彼の状況がどんなものであっても彼はフランソワーズを片時も離さない。
しかし、フランソワーズにとってはいいメイワクだった。
もちろん、自分の事を心配しての行動であることはじゅうぶんわかっている。わかっているものの――いま現在「自由」がないというのは納得いかないことではあった。
レース当日、早朝からサーキット入りするジョーに無理矢理連れて来られたものの、フランソワーズはサーキットに特に用事はないのだ。もう少し寝ていたかったな・・・と思いつつ、マシンのセッティングをする人々の邪魔にならないようにピットガレージの隅っこに立っていた。
ジョーはマシンにかかりっきりで、おそらく彼女のことなど脳裏から消えてしまっているだろう。
これでは本当に「目の届くところにいる」というだけで、何の意味もないのではないかと思わないでもなかったが、かといってここを動けばすぐにジョーにばれてしまうのだ。
だから、着替えるために奥に行こうとした時もジョーが険しい顔で見るので「トイレまでついて来るつもり?」と言い放ち、やっと自由の身になったのだった。
心配してくれているのは嬉しい。でも、自分だって「003」なのだ。更に言えば、怪しい人物が近付いてくれば自分の方が彼よりも早く察知できる。そういうちからを持っているのだから。なのに「009」はそれを全く忘れているようなのが不思議だった。

――怪しい人物なんていないのに。

全てのひとを透視したわけではないが、少なくとも――機械の身体を持った人物や火器を隠し持っている人物も見当たらなかった。

ともかく、そんなことより何よりも。
今日はしなければならないことがある。もっとも、何故「しなければならない」のか、よくよく考えてみれば首を傾げてしまうのだったが。

そんなわけで、着替えてきたフランソワーズを見たジョーの第一声が冒頭の言葉だった。

 

呆然とフランソワーズを見つめているレーシングスーツ姿のジョー。
一瞬、周りの人々も手を止めて彼女を注視した。

「何、って・・・ヘン?」
「ヘンって言うか、つまりその」

丈の短いスカートにタンクトップ。もちろん臍は露出しているし、両肩も剥き出しである。
フランソワーズの白い肌によく映える緋色の衣装はジョーのスーツの色とよく似合っていた。

「・・・宣伝」

ポツリと小さく言う。

「宣伝?」

ジョーの眉間に皺が寄った。
フランソワーズが自分の左胸を指差す。

「ホラ。ここ」

そこには、確かにジョーのチームのスポンサーのロゴが描かれていた。

「ね?」
「ね?って・・・」

いったいどういうつもりだ。誰がフランソワーズにこんなことを頼んだんだ。
と、怒り出しそうなジョーの顔にフランソワーズは慌てた。

「あ、違うの、ジョー。待って。これはそのう、ええと、ファンサービスの一環なのよ」
「ファンサービスぅ?」
「ええそう。ほら、ジョーたちもレース前にファンの前に行くでしょう?それと同じ」
「・・・なんでフランソワーズがファンサービスなんてする必要があるんだ」
「ええ、そうなんだけど、ええと、その・・・そう、今日のフロントロー2チームでの企画なのよ」
「企画?」
「そう。ポールポジションのチームも、ええと――名前を聞いてなかったけど、彼女がこういう格好することになってるの」
「・・・ふうん」

納得したのかどうか。
曖昧に頷いたまま黙り込んだジョーを見つめ、フランソワーズはただハラハラしていた。
これで怒り出したりしたらどうしよう。当局へ抗議に行ったりとか――は、しないわよね?ううん、それよりレース前に変に動揺したりしてレースに集中できなくなったら――

「・・・コラ」

フランソワーズの頭にぽんと手が載せられた。

「その顔は、もしかして僕の事を疑っている?」
「えっ?」
「・・・企画モノに動揺してレースに集中できなかったらどうしようとか思ってるだろ」
「う」

鋭い。

「――まったく。動揺するわけないだろ、こんなことくらいで。そりゃ、少しは驚いたけどさ。・・・もっと驚くことを普段されているからこんなの全然平気になったよ」
「何よ、もっと驚くこと、って」
「裸にエプロンとか」
「っ!!」

耳元で言われたけれど、周りに聞こえていたりしないかと慌てて見回す。
が、レース前の喧騒で消されてしまっているのかこちらに注意している者はいなかった。

「・・・もうっ、やめてよ」
「あれのおかげで、ちょっとやそっとじゃ驚かなくなったよ。礼を言わなくちゃいけないかなあ」
「ばか」
「――まぁ、何があったか知らないけど、・・・ファンサービスっていうのは納得いかないけど、いいよ。フランソワーズが楽しいなら」

別に楽しくてこういう格好をしているわけじゃないわ。

と思ったけれど心の中に留める。

「――もうすぐだから。何をするのか知らないけど、その格好ということはグリッドに立つんだろ?」
「ええ」
「他のスタッフの邪魔にならないように」
「もちろんよ」

 

***

 

そんなわけで、イギリスGPの「直前インタビュー」は大いに盛り上がった。
何しろ、フロントローの二人が現在連勝中の彼と元チャンプで今季1勝のみの「音速の騎士」なのだ。
それだけでも優勝の行方を予想して楽しく盛り上がるのに、それぞれのパイロットの隣には彼らのステディな彼女が立っているのだから。

別名「女の戦い」と銘打たれたそれは、テレビ放送直前のコーナーでも取り上げられた。
そして、ワイドショーでは「ふたりのファッションセンス」の検証までなされたのだった。同じ衣装を身につけても、髪型やアクセサリーは異なるわけで、それぞれの着こなしについてあれこれ議論がなされたというわけだった。

しかし、何よりも盛り上がったのは――

「じゃあ、行ってきます」
「はい。いってらっしゃい。誰よりも早く帰ってきてね?」

と交わされた言葉。
それはいつものふたりのレース前の遣り取りなのだったけれど、まさかそれさえもピックアップされていたとは知る由もなかった。

またもや今年の流行語になりそうな気配だった。

 


 

6月27日

 

Q3が終わり、グリッドが決定した。
ジョーはピットにフランソワーズの姿が無いのに首を傾げた。

「――なあ、フランソワーズ知らない?」

メカニックに声を掛けるとあさってのほうを指差された。

「ずいぶん前に向こうに行くのを見たけど」
「そっか。サンキュ」

レーシングスーツはそのままに足早に向かった先はパドックだった。
金色の髪の女性を探す――が、見当たらない。
これが普通の時であればジョーもそんなに焦らないのだが、今回は事情が違う。何しろ、フランソワーズは何者かに狙われている――ような気がするのだ。そうでなければ、彼女の携帯電話に洗脳プログラムが着信するなどないのだから。明らかに誰かが故意に送ったのに違いなく、その「誰か」を知る手段は途切れていた。携帯電話会社にもデータが残っていなかったのだ。

「・・・!」

いくら心配だからとはいえ、もしかしたらここに連れてくるべきではなかったかもしれない。
ジョーは唇を噛んだ。
あるいは日本に居た方が――ギルモア邸の、みんなの居る場所に居た方が――安全だったのかもしれない。
それを、自分が安心したいからという勝手な理由でフランソワーズを目の届く範囲に置いた。
その判断が誤りだったのだとしたら。
それを見越しての「誰か」の策だったのだとしたら。
自分はまんまとそれに嵌った愚かな男だ。恋人を大切に思うあまり、目が曇ってしまっていたと言われても何も言い返せない。

「フランソワーズ!」

姿が見えない。
ただそれだけで世界が歪むようだった。
レース中とはいえ、もしも彼女に何かが起こっているのだとしたら、明日のレースなどどうでもよかった。
そんな事を言えば、おそらく解雇されるだろう。
でもジョーにとってはレースよりもフランソワーズの身の安全の方が大事だった。
いくら彼女が、自分は優先順位の下位でいいと言っても、それだけは譲れなかった。
ジョーのなかでフランソワーズが下位であるなど有り得ない。今までに一度も無かったし、これから先も無いだろう。そう断言できる。
彼女の居る世界だからこそ、自分は生きていける。
大前提に「彼女の居る世界」というのがまずあるのだ。だから、それが欠けたら、ジョーの世界はあっという間に瓦解するだろう。
レースをするのも、何をするのも、全ては彼女が居てこそなのだ。
そう言うと当のフランソワーズは怒るから、今まで言った事はないけれど。

「・・・フランソワーズ」

名を叫んで走り回って探したかったが、さすがに状況はそれを許さない。
気は急くが、ともかく――パドック内は関係者しかいないはず、と自分に言い聞かせ大股に歩いてゆく。
周囲には万遍なく目を遣って。

そのジョーの肩を何者かが掴んだ。

「っ!!」

思わず睨みつけると相手は手を引っ込めた。

「おいおい、おっかねえなあ」
「・・・なんだ」
「何だはないだろう」

ジョーと対峙していたのは、ジョーと同様にレーシングスーツ姿のF1パイロットだった。ジョーとは違い、今季5勝を上げていてドライバーズポイントも現在トップである。

「誰か探してるようだが」
「ああ。まあね」

じゃ、と手を振って行こうとするが阻まれる。

「待てよ。その剣幕だと探している相手というのは金髪の彼女じゃないのか」
「――そうだが、それが何か?」

顎を引いて低く答えるジョーに、相手は軽く肩を竦めた。

「実は俺も探してるんだ。あ、お前の彼女じゃなくて俺の。――姿が見えなくてね。 まぁ、どこかにいるんだろうとは思うんだが、何しろ――最近は妙な取材が多くってさ」

軽く鼻をこすって言うのにジョーも頷いた。

「勝つとそういうことも起きてくる」
「そうなんだ。だから、もしかしたらまたどこかで困ってるんじゃないかと思ってね」

そんなわけで、肩を並べて「彼女を探す旅」に出た二人だったが。
案外、あっさりと「彼女たち」は見つかったのだった。

 

***

 

Q3が終わる少し前。
パドックのとある一角で起きた騒動は既に粛清されていた。
騒動の主役2名は場所を移し、額をつき合わせて仲良く悩んでいた。

「ねぇ・・・これ、着るの?」
「みたいよ」
「でも、これってつまり」

二人が熱い視線を送っているのは、手に持っている衣装だった。
先ほど、元チャンプの妻から渡されたものだ。

「レースの前にドライバーがファンサービスするじゃない?その一環みたいなものだと考えれば」
「そうよね。一緒よね、たぶん・・・」

例えばモナコグランプリのようなチャリティー活動の一つだと考えれば。
しかし。

「でも――これってどう見てもファンへのサービスじゃ、ないわよね・・・?」
「ええ。どちらかというと、・・・ドライバーへのサービス・・・?」

どちらともなくため息をつくと仲良く肩を落とした。

「ドライバーへのサービスなんて、真剣勝負の世界でいったい何をしてるんだって叱られるわ」
「ええ。絶対、怒るわ」

パラソルを持ってグリッドに立つ。それは、グリッドガールをするのではなく、レース前にインタビューを受けるドライバーの隣に立つということを指す。
そんなことを勝手にしてもいいのかという二人の問いに元チャンプの妻はころころと笑った。

「大丈夫よー。そういうのも余興のひとつ。勝負の世界といったって、スポンサーがいてなんぼでしょう」

それは確かにそうだったが、いったいそれのどこがスポンサーと結びつくのかわからない。

「ほら。ここにロゴが入っているでしょう?ちょうどいい位置に立つとカメラにばっちり映るのよ」

そういう衣装がなぜここにあって、何故彼女が保有しているのか、謎は深まったが、ともかくそういうわけで二人に衣装が渡されたのである。

「・・・これ、短いわよね」
「短いっていうより、彼がマシンに乗り込んだら下から丸見えじゃない」
「でも乗り込む時はもういなくていいんじゃないかしら」

二人にはわからなかった。

フランソワーズが眉間に皺を寄せつつ顔を上げると、遥か彼方に褐色の瞳の彼の姿が見えた。
険しい顔をして眼光鋭く周囲を見回している。

「・・・ねぇ」
「何?」
「もしかして、予選終わったのかしら」
「えっ?」

彼女も顔を上げる。

「・・・そのようね」
「もう戻ったほうがいいんじゃないかしら。きっと心配しているわ」
「そうね」

と言っている間に、褐色の瞳が近付いてくる。
彼にここが見えているとは思えない。が、それより何より、彼には動物的な勘というものが備わっているのだ。フランソワーズは誰よりもよく知っていた。その証拠に彼の足はまっすぐこちらへ向かっているではないか。

――やばっ・・・急にいなくなったから心配してる。

ここはひとつ、発見されて何やってたんだと詰問されるよりは自分から懐に入ったほうがいい。

「ね。カレシがこちらに向かってくるの、見える?」

相手に問うと、彼女もフランソワーズの見ている方を見つめ青ざめた。

「ええ。・・・どうして二人揃っているのかしら」
「ウチのジョーはすっごく怒っているみたいなんだけど、あなたの方はどう?」
「・・・怒ってはいないようだけど――いえ、待って。笑ってる・・・ということは、あまり機嫌が良くないわ」
「ここで固まっていると良くないと思わない?」
「そうね」
「だから、ここは――」

 

***

 

「ジョー!」

金色の髪を捕捉した――と思ったら、その塊が自分の胸に頭突きをくらわせたので、ジョーは慌てて足を踏ん張った。
フランソワーズの突撃はけっこうきついのだ。

「ね、何位だったの?」
「えっ?」

突然の質問にジョーは瞬きした。

「え、と・・・2番」
「フロントローじゃない!」
「そうだけど」

それが?と続けるところを遮られた。

「凄いわ!明日は絶対勝つわね」
「いやあ、それはどうだろう。勝負は時の運というし」
「あら、運も実力のうちよ?」
「そりゃそうだけど、でもやっぱり実力が伴ってなければ運だってやってこないわけだし」
「やってくるのを待ってるんじゃなくて、こっちに引っ張り寄せなくちゃ」
「・・・無茶苦茶だなぁ」
「いいの。ジョーにはそれができるんだから!」

そうかなあ、そうなのと言いながらジョーのピットまで戻ってゆく。

いったい君はどこで何をしてたんだ、心配したんだぜ全く――というジョーの声は巧みに封じられてしまった。

 

 

***
まだイギリスGPです。


 

6月22日

 

「――何なの?言い掛かりはやめてもらえるかしら」

あくまでも悪びれずにこやかに言い放つ相手をひたと睨み据えて、フランソワーズは一歩前に出た。
周囲でカメラのフラッシュが光るが今の彼女にとってはどうでもいいことだった。

ジョーを侮辱した者は許さない。

それしか考えていなかった。

「謝りなさいよ」
「何の事?」
「わからないふりをしないで」
「だって本当にわからないもの」
「あなた、たった今、昨年のワールドチャンピオンを侮辱したのよ!」
「あら。そんなことしてないわ」
「嘘よ」
「だってそんな事言ってな――あ」

言ってない。と言い掛けて、不自然に口をつぐんだ。どうやら心当たりがあったらしい様子にフランソワーズはふんと笑った。

「ほら。心当たりがあるんじゃない」

ところが、そんなフランソワーズに彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべたのだった。

「心が狭いのねぇ。『過去のひと』と言うのってそんなに悪いことかしら?」
「ジョーは引退してないわ。現役よ」
「それがどうしたの?今季1勝しかしてないじゃないの」
「これから勝つのよ!」

足を踏み鳴らすフランソワーズ。普段の彼女には――実はそんなに珍しいことではなかったのだけど――衆人環視の元で感情を露わにするのは珍しいことだった。

「それはどうかしら?」

胸の前で腕を組み、ふふんと笑う相手に、フランソワーズはふっと肩の力を抜いた。
そして、冷笑を浮かべ言った。

「・・・いま勝っているからってそれがこれからも続くとは限らないでしょう。これから連戦連勝すれば誰でも簡単にトップになれるはずよ」

正論だった。が、今の彼女にとってそれは一番言っては欲しくないことであった。

「ウチの人は負けないわ!」

冷静さをかなぐり捨ててフランソワーズに詰め寄る。
報道陣の輪がどよめいて、取り巻く直径が少しずつ大きくなった。

「ジョーだって負けないわよ!」
「まあ。よくもぬけぬけと!」

今にもつかみ合いのケンカが起きそうだった。誰か、バケツ一杯の水を浴びせるひとはいないのか。
と、その時。

「いったい何の騒ぎ?」

円陣の遥か後方から凛とした声が響いた。
報道陣が二つに割れて道を作る。

そこを悠然と歩いてきたのは――

「・・・どなた?」

フランソワーズは思わず小声で訊いていた。

「前々回のワールドチャンピオンの妻」

それに対し、一時休戦なのか彼女も小さく答えていた。

ざわめいていた周囲がしんと静かになる。
元ワールドチャンピオンの妻は、構わずどんどん二人に近付いてくる。

「・・・まったく、あなたたち。危うく処分を受けるところよ」
「処分??」

二人の声が重なる。

「知らなかったの?・・・まあ。本当に危ないところだったわけね」

大袈裟に息をつくと、周囲にきつい目を向けた。

「誰も教えてあげなかったの?――面白がって高見の見物を決め込むなんて堕ちたものね」

報道陣がカメラを下ろし、記者もマイクのスイッチやレコーダーの電源を切った。一様にしゅんと下を向く。

「あなたたち、いい?」

改めて二人に向かい、諭すように続ける。

「ここは神聖なサーキットなのよ。そこで――しかも予選中に揉め事なんて起こしてごらんなさい。いったい誰に一番迷惑がかかると思うの。関係者全てが処分を受けることになるのよ。それも、こんなくだらないケンカで」

――処分。

その言葉は熱くなっていた二人にとって、まさに冷水を浴びせられたようなものだった。

「――私、そんなつもりじゃ・・・」

フランソワーズはごめんなさい。と頭を下げた。対する彼女も私こそとフランソワーズの肩を抱いた。
いっけん、和解したかのようだった。
しかし。

「・・・でも、そちらの彼女の言い分もわかるわ。大事なひとを過去の遺物扱いされたのでは怒るのも当たり前。正式に謝罪してもらうべきだわ」

彼女がぐっと詰まった。が。

「とはいえ、深く考えもせずに言った言葉。それもすぐ忘れるくらいの、軽い気持ちで言ったことにこだわりすぎるのは心が狭いわ。受け流すべきだったわね」

今度はフランソワーズが詰まった。

そんな二人を見つめ、元チャンプの妻はあでやかに微笑んだ。

「だから――ね?別の方法で勝負したらいいんじゃないかしら?」

――え?
別の方法で・・・勝負?

二人が顔を見合わせる。が、それに全く取り合わず妻は続ける。

「ケンカは良くないけれど、こんなに観客がいるんだから楽しい娯楽を提供するのも悪くない。いいじゃない、ねえみんな」

ざわざわと周囲が騒がしくなり――改めてカメラが構えられマイクが向けられた。

「いったいどのような方法で?」

ひとりの記者が質問した。

「そうねぇ・・・うーん。せっかくの綺麗どころなのだから、何かそれをアピールするようなものがいいと思うんだけど」
「だったら、ミスコンみたいなのは?」
「誰が投票するのかしら」
「関係者一同っていうのはどうでしょう?」
「それはちょっと煩雑だわ。――同じ衣装を着てグリッドに立つというのはどうかしら」
「そんなことできるんですか!?」
「グリッドガールではなくて、そうね・・・チームスタッフの一人としてパラソルでも持っていただこうかしら」

二人は唖然と妻を見つめ――そうしてがっくりと肩を落とした。
これは――対決ではなく、罰ゲームではないだろうか・・・と。

 

 

 

****
注:実際に「処分」があるのかわかりませんし、グリッドに立つことができるのかどうかも知りません。
あくまでも捏造で、事実とは無関係でありいっさい反映しておりません・・・ので、「ううん?」と思っても目を瞑って頂ければと思います。
*****
元チャンプの妻。まるで大岡裁きのようです・・・。


 

6月21日

 

予選が始まった。
古いサーキットであるここはジョーの好きなサーキットのひとつであり、その証拠に前回も前々回もポールトゥウィンを飾っていた。だから今回も――とは、ファンもスタッフも望むところであり、本人も当然そのつもりだった。

昨日の軟禁状態で不機嫌になったフランソワーズを考慮して、さすがに今日はそうはしなかったジョーだったが、そこまで気持ちが回らなかったというのもあるかもしれない。
ともかく、フランソワーズは今日はピットではなくパドックをぶらぶらしていた。
もちろん、予選は気になる。が、ガレージにいても自分の仕事はないのだ。ぴりぴりした空気の中では自分が異物であることはじゅうぶんにわかっている。
それに、ジョーはQ3まで進むのだから――それは当然のことと捕らえていた――それまでは、ともかく邪魔にならないようにしていようと決めていた。
かといって、うろうろとどこぞへ行くわけでもなく、ジョーのピットの裏にいるだけだったのではあるが。

そこで、パドックならでは――と言うのだろうか?フランソワーズはそう頻繁にレースに同行しているわけではなかったから、正確に判断はできかねるが――の光景が展開されていた。
つまり。
F1パイロットのゴシップ取材である。

フランソワーズは無言のうちにそっと建物の影に入ったのだが、どうやら狙われているのは自分ではなく、今季5戦連勝しているドライバーの彼女のようだった。
確かに話題にはなるだろう。
ドライバーがタイムアタック中にもかかわらず、その彼女は記者に囲まれており何やら話しているようだった。

「・・・・」

自分に取材がこないのも、パパラッチに追われることがないのも――ついこの前あったけれど――いいことではあったが、フランソワーズは内心複雑な気持ちになった。
と、いうのは。

――どうしてワールドチャンピオンのジョーはどうでもいいの。

確かに彼は、今季のドライバーズポイントに於いて未だに順位は下のほうである。それよりも、連勝しているドライバーに注目が集まるのは仕方のないことだといえよう。
しかし。

ジョーだって、悪い走りをしているわけじゃないわ。ううん、どんどん良くなっているし、むしろ感覚は研ぎ澄まされていっていると思うんだけど。

多少の贔屓目はあるとしても、そのへんを全くわかっていない報道陣には多少のいらだちさえ覚えるのだった。
だから、そのついでのようにその彼女も脚光を浴びているように見えるのは、何とも面白くなかった。
とはいえ、誓って、自分が矢面に立ちたいとは思わない。思わないが、――しかし。
報道陣の真ん中で、まるで女王のように振舞っている姿は気に入らなかった。
いくら連勝しているドライバーの恋人だといっても、それだけであるはずなのだ。どんなキャリアがあるにせよ、サーキットに来ている時はそんなものは関係ないはず。

『F1パイロットの彼女はみなさんとても綺麗ですね』
『そうですか?』
『ハリケーンジョーの彼女もそうですが』
『ハリケーン・ジョー?』

一瞬、間。

『彼はもう過去のひとでしょう。今季は違いますわ』

笑いを含んだ声にフランソワーズの耳がぴくりと動いた。
風にのって流れてきた会話とはいえ、ジョーの名がでると自然に耳のスイッチをいれて聞いてしまう。
この癖は良くないわと思いながらも、今回ばかりは聞いてよかったと思った。

――過去のひと、ですって!?

自分はともかく、ジョーを侮辱するなど許さない。
例え、冗談半分で言われたのだとしても、到底聞き逃せるものではなかった。

普段、フランソワーズは争いを好まず、誹謗中傷もさらりと受け流す平和主義者である。が、いったん「島村ジョー」が絡むとあっという間に頭に血が昇り、好戦的になってしまうのであった。
これはゼロゼロメンバーのみならず、ネオブラックゴーストも知ることであり、何よりも脅威に感じていることだった。

フランソワーズはまなじりを決し、断固とした態度で報道陣の輪の中へ突進した。
いま、報道陣の姿は彼女の目には入っていない。目標はただ一つ、輪の中心にいる女性のみ。

――こんなこと、絶対に許せないわ。正式に謝罪してもらわなければ。

面白おかしく記事に書きたてられたらと思うと、たかが一個人の一般人が「王者・ハリケーンジョー」について見下した態度をとることなど到底許せるものではなかった。

 

***

 

その頃、当のジョーはというと、早々にQ2進出を決めていた。
ガレージでフランソワーズの姿が見えないなと漠然と思ったものの、深く考えはしなかった。

 

***

 

「――ちょっと失礼!」

報道陣をかき分けながら――途中で気付いた記者連が道を譲り身体を引いたところを通りながら、フランソワーズは一時も目を離さなかった。
そうして輪の中心に到達した。

「ちょっといいかしら?」
「あなた――誰?」

対する女性はすうっと目を細め、値踏みするかのようにフランソワーズを上から下までじろじろと見つめた。
周囲の記者から、「ハリケーンジョーの恋人の」という声が飛ぶ。

「・・・ハリケーンジョーの彼女?」

フランソワーズは胸の前で腕を組んで立ち、負けじと対する女性を睨みつける。

「――あなた、が?」

くすりと笑われたのをきっかけに、腕を解くと拳に握った。

「さっきの発言、訂正して頂戴」
「さっきの発言・・・?」

なんだったかしら、と首を傾げるのがフランソワーズの癇に障った。

「お詫びしなさいと言っているのよ」

冷たい声で言い放つ。
自分の口から彼女の言葉を復唱するのは絶対にしたくなかった。

周りでケンカだケンカだと言う声が飛ぶ。が、フランソワーズには聞こえていない。

一触即発の事態だった。

 


 

6月20日

 

――もうっ。どうしてここから出ちゃいけないのよっ。

ピットの一角にしつらえられた椅子に座り、モニター画面を睨みつけるように観ながら、フランソワーズはいらいらと胸の前で腕を組んだ。

サーキットである。

本日はフリー走行だった。
コースとマシンのコンディションをチェックしながら、微調整がなされてゆく。本戦を前に慌しい雰囲気かつ張り詰めた空気が充満していた。
だからフランソワーズは、今日はピットには近寄らずに外からサーキットを見たり、ぶらぶらしていようと思っていた。が、腰を抱いたジョーの腕は緩むことがなく、半ば強引にピットへ連れて来られたのだった。そしてここに座らされ、一歩も出るなと厳命された。周りはジョーの腹心のスタッフばかりである。とても突破できるものではなかった。
既に携帯電話も取り上げられてしまっている。横暴だわ――と思ったものの、彼がそうする理由はフランソワーズにもちゃんとわかっていた。しかし。

ジョーの過保護。心配症。泣き虫。意地悪。すけべ。

最後のほうは正しくはないような気もしたが、言葉の流れである。
ともかく、フランソワーズはすこぶる不機嫌だった。

 

***

 

数時間後。

ピットに戻ってからもフランソワーズには目もくれず、セッティングについて話し合っていたジョーがやっと顔を上げてこちらにやって来た。
が、フランソワーズはつんと横を向いたまま彼を見ない。

「フランソワーズ。何、怒ってるんだい?」
「怒ってないわ。不機嫌なだけです」
「・・・同じことじゃないか」

ジョーは屈んでフランソワーズの顔を覗きこむ。が、フランソワーズはやはり顔を背けてこちらを見ない。

「・・・フランソワーズ」

ジョーがため息とともに名を呼ぶ。が、やはりこちらを見ない。

「――仕事がひと段落して戻ってきたカレシにこの仕打ちは酷いんじゃないだろうか」
「カレシがカノジョにこんな仕打ちをするでしょうか」
「ん?」
「ん?」

思わず二人の目が出会う。が、フランソワーズはすぐに逸らせた。

「ジョーのばか」
「何でだよ」
「何ででも、よ」
「・・・酷いなあ」

言って、ジョーは床に座り込んだ。

「・・・ふぅ。疲れた」

見ると、汗びっしょりである。

「路面温度はどんどん上がるしさ。我ながらよく頑張ったと思うよ、うん」

両腕を後ろについて天を仰ぐように前髪を振り払うジョー。
ちらりとフランソワーズの目が動いてジョーを見つめる。レース前に愚痴るなど彼には似つかわしくないことだった。

「フランソワーズの事は心配だったけど、ここに居るなら安心なんだから、って自分に言い聞かせてさ」

弱音だろうか。
いずれにせよ、なんともジョーらしくない。
フランソワーズの目とジョーの目が合う。

「・・・ほんとはずうっとそばにいないと心配で仕方ないんだよ。だけど、そんなことしたら君、怒るだろう?」
「当たり前です」
「だから。・・・我慢したのにさあ」

それなのに冷たいんだもんなぁ・・・と口の中で小さく言ってがっくり肩を落とした。

――まぁ、珍しい。

フランソワーズは内心とても驚いていたが、表面上は不機嫌な態度を崩さない。
ジョーはそんなフランソワーズの内面の動きを知ってか知らずか、俯いたまま何も言わなかった。

フランソワーズは手を伸ばすとそうっとジョーの髪に触れた。けれどもジョーは身じろぎひとつしない。
ただ、俯いている。

「・・・頑張ってたの、知ってるわ。ずっと――見てたもの」
「・・・本当に?」

拗ねているのか顔も上げないジョーに苦笑しつつ、フランソワーズは続けた。

「私の事なんて心配しなくても大丈夫だから、レースに集中すればいいのに」
「心配くらいしたっていいだろ」

憮然として言うのに、にっこり笑ってそして――身体を伸ばしてそうっとジョーの頬に唇をつけた。

頑張ったことと、フランソワーズを心配していたけれど我慢して走ったこと。それを褒めて欲しくて甘えるジョーに会えるとは思ってもいなかった。

レース前っていつもこうなの?

訊いてみたいような気もするが、訊かないほうがいいのかもしれない。
ともかく今は――普段は決して会えないジョーに会えた嬉しさを噛み締めることにした。心ゆくまで。

だって、こんなジョーって、・・・カワイイ。

音速の騎士でワールドチャンプのF1パイロット。
常にクールで涼やかに微笑み勝利を勝ち取る。けれどもファンには親切で思いやりのある態度で接するハリケーン・ジョー。
そんな彼がピットの一角でたいく座りで拗ねているなど誰が想像するだろうか?

フランソワーズはもう片方の頬にキスしてからジョーを放した。
対するジョーは名残惜しそうにフランソワーズに両腕を伸ばし抱き締めようとするのだが、それは断固として拒否するフランソワーズだった。

「・・・フランソワーズ」

ご褒美ちょうだい。と言っているように見えなくも無いジョーの表情に笑いを堪えつつ、

「だーめ。あなた汗びっしょりだもの。私まで汗くさくなっちゃうわ」

あからさまにガッカリした顔をするジョー。

「着替えてきてから、ね?」
「・・・うん」
「そうしたら、たくさんぎゅーってしてくれる?」
「うん!」

着替えてくると投げ出すように言い放ち、たった今の今まで目の前でたいく座りしていたワールドチャンピオンは、急に元気になって駆け出して行った。

 

***

 

翌日は予選だった。

が、それとは全く関係のないところでとあるバトルが勃発していた。――パドックで。(注:「パドック」とはピットの裏に相当します。関係者以外完全に立ち入り禁止の区域で、パスがないと絶対に入れません)


 

6月18日

 

「んー。やっぱりイギリスといえばハイティーよね」

満足そうに息をつくフランソワーズを見つめ、ジョーも同じようにため息をついた。

「・・・もう、いいだろう?」
「嫌よ」
「だってキリがないよ」
「だって持ってきてくれるんですもの」
「それは、食べてるからだよ」
「凄いわよね、食べてお皿が空になったらすぐ足してくれるの。日本で言うわんこそばみたいよね?」
「・・・ちょっと違う」
「そーお?」

言いながらも、フランソワーズはマフィンにクリームを塗る手を休めない。
ジョーは半ばうんざりしながら紅茶のカップを手にとった。この紅茶も、そういえばいったい何杯目だろう?

 

***

 

今週末はイギリスグランプリだった。
なぜかフランソワーズも一緒に来ている。
否。
なぜか、ではない。
その理由はジョーにとって当然と言って良いものだった。
それは。

フランソワーズの身の安全を守ること。

先日の洗脳騒ぎの一件以来、フランソワーズと離れることが苦痛になっていた。
自分と離れている時に何かあったら、きっと一生、ジョーは自分を許さないだろう。
それだけならまだしも、フランソワーズを永遠に失うことになったら?二度と会えなくなったら?
そんな事は、想像するだけでも世界が歪んでゆくようだった。
だからジョーはフランソワーズを半ば強引にここイギリスに連れて来たのだった。

当のフランソワーズというと、レッスンがあるのにジョーったら勝手ね――と責められることを覚悟で言ったジョーに対し、大喜びで彼に抱きついたのだった。
レッスンは?と問うと、一週間お休みを貰うから大丈夫と答えた。もちろん、その間は自分できちんとレッスンすることを忘れないという条件付きで。

そう、大喜びで同意したのであり、無理矢理連行したわけではなかったはずだった。
なのに。

「絶対、リッツでハイティーをするの!」

と頑張った。

「そんな時間ないよ」

嘘である。

「嘘よ、ちゃんとあるの知ってるもの」
「いや、だけどあそこは予約をしないと駄目だろう」

確か――かなり前に予約しておかないと駄目なはずだった。明日行きますと言って入れるような場所ではない。

「あら、大丈夫よ」
「・・・え」
「御心配なく。予約したから」
「・・・いつ」
「昨夜。ジョーが一緒にイギリスに行ってくれなきゃヤダヤダって泣いたあと」
「嘘つけ、泣いてなんかいないだろっ」
「泣いたくせに」
「泣いてない」
「いーえ、泣きました!」

そんなわけで旗色の悪くなったジョーは黙り込み――何しろ、泣いたのは本当だったから――ここイギリスのホテルリッツでフランソワーズとふたり、ハイティーをすることになったのだった。

 

***

 

「ねぇ、フランソワーズ」
「なあに?」
「残さないとキリがないよ?」

ハイティーのサンドイッチやマフィンや小さなケーキ等々は、なくなるとすぐにギャルソンの手によって補充されてゆくのだ。その手際はいったいいつの間にやったのかと思うような華麗なものであった。
日本の美徳である「全部食べる」ことをするとキリがないのである。何しろ、皿が空になると「足りない」と思われてどんどん足されてゆくのだから。もちろん、紅茶も同様で、どんどん新しいポットに替えられてゆく。

「だってまだ食べられるもの」
「・・・」

いったい幾つ目だよ?

フランソワーズの皿のケーキを見つめ、フランソワーズを見つめる。
なんとも嬉しそうにケーキを頬張るその姿に、やれやれと微笑んだ。
甘い物は好きだけど、そんなに量は入らないジョーはとうの昔にギブアップしていたのだが、フランソワーズはまだまだいけそうな雰囲気だった。

「そんなに食ったら太るぞ」
「平気よ」

すました顔で言う、その横顔を見つめ。
――そんなに甘いのを食べたらきみも甘くなっちゃうぞ。

甘い物は今日はもう要らないと思っていたけれど、フランソワーズだったらいけそうだった。

「ん、なあに?ジョー。ニヤニヤしちゃって」
「うん?――別に?」

 


 

6月14日

 

「そんなことより、」

ジョーが四方へ視線を飛ばしている間、彼の胸にぎゅうっと抱き締められていたフランソワーズはもぞもぞ身体を動かして彼の戒めから少しずつ自由になっていった。

「――そんなことって何だよ。洗脳されるところだったんだぞ」
「でも大丈夫だったでしょう。それより、」

ジョーの腕から身体を解き放つ。大きく深呼吸をひとつ。

「ああ、苦しかった。もう、ジョーったらきつく抱き締めすぎよ」
「別にいつも通りだ」
「嘘よ、いつもよりきつかったわ。壊れちゃったらどうしてくれるの」
「博士に言って直して貰う」
「もうっ。そんなことしたらみんなに叱られるのはジョーなんですからね?」
「何で。君を守っただけなのに」
「だって苦しかったもの」
「そのくらい我慢しろ」
「もうっ・・・」

ぎゅうっと手加減なく抱き締められて苦しかったのと痛かったのは確かだったけれど、でも――なぜ彼がそうしたのかはちゃんとわかっていたので、フランソワーズは少し背伸びをするとジョーの唇に唇をつけた。軽く、一瞬だけ。

「でも・・・ありがとう」

彼が心配してそうしたのはじゅうぶんわかっているのだ。

「だけど本当に大丈夫だったから」
「うん・・・」

それでも心配そうなジョーの頬に手を添えて、頬にもキスを送る。

「そんな顔しないで。大丈夫よ。ジョーの弱点は私じゃ、ない」
「え」
「でしょう?私はジョーの弱点になんかならないわ」
「いや、でも」
「もしも弱点になるのなら、その時は」

――弱点を消すだけだ。

「フランソワーズ!」
「・・・なんてね」

にっこり笑むと、フランソワーズはジョーの腕に腕を巻きつけた。

「今日はね、なんと車でお迎えに来たのです」
「車?」
「そう。この前買ったばかりのハイブリット」
「・・・運転手は誰」
「もちろん、私よ?」

ジョーは頬を強張らせて黙り込んだ。
黙って、先刻投げ出したままのスーツケースを手にとる。
そうして無言でフランソワーズと並んで歩く。

「あの・・・ジョー、どうかした?」

フランソワーズが顔を覗きこむがそちらを見ない。まっすぐ前方に目を向けたままである。

「みんな心配するけれど、私だって運転くらいできるのよ?」
「・・・」
「そんなに大きい車じゃないし、あ、だからって軽でもないから安全よ?」

ジョーが安全面について何か言う前に言ってしまう。

「・・・フランソワーズ」
「はい?」
「――車は無事?」

黙りこんでいた後の最初のひとことがそれだったので、フランソワーズは思わずジョーの腕を叩いていた。

「もうっ!酷いわ、ジョーったら!」
「だってさ。君の運転なんてそんなの怖くて怖くて僕はとてもじゃないが乗れない」
「ひっどーい!せっかくお迎えに来てあげたのに!」
「それは嬉しかったけどさ。それとこれとは別。――ん」
「何よ」

目の前に差し出された手のひらを訝しげに見つめる。

「車のキー」
「嫌よ。運転させないわ」
「いいから。――ほ・ら」
「嫌。だって、レース中のひとに普通車を運転させるわけにはいかないわ」

ジョーは小さく舌打ちすると手を引っ込めた。

「ああもう、だからストレンジャーを持ってきておくんだった!」

レース中はストレンジャーはギルモア邸の車庫から出ないように封印されているのである。

「駄目よ。前に乗って懲りたでしょう?」
「僕は別に懲りてないよ」
「私が懲りたの!」

レース期間中なのにストレンジャーを運転するという暴挙に出たジョーは、ギルモア邸に向かう坂道でまるでレースのようなハンドルさばきを見せそのままガードレールを突っ切って崖から海にダイブしたのだった。
後で聞けば、ストレンジャーでそのまま跳びたかったのだという。
確かに海面を無傷で滑空した。が、同乗していたフランソワーズは二度とごめんだった。

「たまには私の運転を見てくれてもいいでしょう?」

甘えたように言ってみるが、ジョーは憮然としたままだった。

「ふん。僕が教習所の教官だったら、絶対に君に○はあげない」
「横暴ね。私情がはいっているわ」
「みんなの安全のためだ」
「だから、大丈夫って言ってるじゃない。ここまで運転してきたんだし」
「それは周囲のひとたちの温かい心遣いに支えられているということになぜ気がつかないかなあ」

そんな話をしながら駐車場へ向かう。

フランソワーズは運転が心配だと説教を始めたジョーに微笑みつつ、そっと――心の裡でほっと息をついていた。
うまく話題を逸らせたことに。

――ジョーは心配しているけど、もう二度と――あんなことにはならないわ。

洗脳されかけたことは気になるものの、それでもフランソワーズには固く心に決めたことがあるのだった。

もしも私がジョーの弱点になるのなら、――ジョーに銃を向けることがあるのなら、その時は。
引き金を引けないジョーの代わりに自分で自分に引き金を引くだろう。おそらく躊躇わない。

――もう二度と、ジョーを危険な目に遭わせないわ。そう、決めたんだもの。

 

***

 

数分後。

ジョーは新たな脅威にさらされていた。

「ふふフランソワーズ、そこっ・・・ウインカー出して、――うわっ、逆だ逆っ!」
「もう、静かにして頂戴、気が散るでしょう!」
「いやしかし、ああほら、前っ・・・ば、近すぎるっ車間、車間っ」

いま、ジョーを危険な目に遭わせているのはフランソワーズに他ならなかった。

 

 


 

6月13日

 

「フランソワーズ!!」

一瞬の後にジョーが目の前にやって来たものの、フランソワーズの目は焦点が合っていない。
否、目の前のジョーが――見えていない。

「フランソワーズ!」

両肩を掴み揺すってみるが、フランソワーズは反応を寄越さない。

「・・・っ!」

唇を噛むと、ジョーはフランソワーズが握り締めたままの携帯を彼女の手からもぎとった。
液晶画面を見る。が、既に通話は切れた後だった。
履歴を見てみるが非通知設定になっており、いま彼女に電話してきたのが誰なのか知る事は叶わなかった。

「フランソワーズ!!」

再度、彼女の手を取り名を呼ぶ。
しかし、フランソワーズの動きは止まったままだった。

 

***

 

***

 

「・・・ああ、びっくりした」

のんびりした声が聞こえたのは、それから約5分後。
静止したままのフランソワーズを前に成す術もなかったジョーは驚いて顔を上げた。

「ふ、フランソワーズ・・・?」
「あ、ジョー。お帰りなさいっ」

首筋に抱きついてくるのを押し返す。

「お帰りなさいじゃないよ。いったい・・・」
「――そうよね」

フランソワーズは顎を引くと、じっとジョーの目を見つめた。

「さっきの電話・・・おそらく、播磨研究所の洗脳プログラムだと思うの」
「播磨研究所?洗脳?」
「ええ」
「え、ちょっと待って、いったい――」
「補助脳がなかったら危なかったわ」
「危なかったわ、って」
「――記憶させてたから」
「記憶?」

ジョーは鸚鵡返しに言葉を発することしかできない。何しろ、フランソワーズは淡々と話しているが、ジョーにとっては剣呑な内容なのだから。それも、初めて聞く話なのだ。

「記憶って・・・」

ジョーを見つめ、フランソワーズはいったん黙った。どう伝えようか考えているみたいに。

「――私、ずっと前に――洗脳されたことがあったでしょう?」
「・・・え」

目をみはるジョーに、ふっと淡く微笑む。

「――海底で」

それはフランソワーズにとって思い出したくない記憶だった。が、だからこそ忘れてはならないと――二度とこんな目には遭わないと決めたのだ。

「その時使われたのが、播磨研究所の洗脳プログラムだったの。だから、その時の記憶を解析して同じ電子音と信号についてはすぐに補助脳に切り替わるようにして、それで――憶えさせたの。全て。だから、」

大丈夫だったのよ――というフランソワーズの声はジョーの胸に埋もれた。

「いいよ、もう。何も言うな」
「でも」
「いい、って」
「だけど、この発信元をすぐ解析しないと」
「だからそれは後でするから!」
「でも」
「いいから!」

ジョーは渾身の力を込めてフランソワーズを胸に抱き締めた。全てのものから守るように。

――洗脳だって?何だよそれ。何だって――フランソワーズがターゲットになるんだ。

それが自分のせいとは考えたくなかった。
島村ジョーが009であることを知っている誰か。
その009の恋人が003であり、フランソワーズ・アルヌールであることを知っている誰か。
その誰かは、009の弱点は003であると知っているのだ。おそらく。
しかも。

――なぜ、フランソワーズの電話番号を知っている。

ジョーはフランソワーズを胸にしっかりと抱き締めたまま、周囲に目を走らせた。五感全てを使って検索する。が、怪しい影はついに見つからなかった。

 

 

*****
播磨研究所の洗脳プログラム(C)東のエデン。です。
でもって、海底での洗脳というのは・・・アレです。


 

6月11日

 

空港の到着ロビー。
出口から少し離れたところにフランソワーズはいた。ジョーの乗っている飛行機ははっきりわからないけれども、おそらくこのあたりの時間帯だろうとあたりをつけて。
予想では、たぶん――

出国してくる人波が途切れてきた頃、見慣れた金色に近い栗色の髪の持ち主の姿が見えた。
荷物は国際便からの客とは思えないくらいの小振りのスーツケースのみ。彼の背後に見えるそれは随分小さく見えた。
それを、まるで何も持っていないかのような気安さで引きながら。
少し進んだあたりで立ち止まり、大きく伸びをしながら豪快に欠伸をしている。およそ自分が有名人だという自覚は無い。

フランソワーズの唇に笑みが浮かんだ。
久しぶりの彼の姿は妙に懐かしくて――とはいっても数週間しか離れていなかったのだが――テレビ画面で見た彼のように現実感に乏しかった。まるで、あのワイドショーの続きを見ているかのような気分。
しかし、今は報道陣の姿もなくファンの集まる様子もなかった。誰も彼に気付いていない。
日本のF1人気なんてそんなもんさ――と、以前彼は笑って言っていたが、確かにそのようだった。
特に変装しているわけでもなく、いつものそのままの彼だった。サングラスや帽子などといったものはつけていない。
敢えて言うなら、まるで寝起きのようなぼさぼさの前髪だけが若干雰囲気を変えている。が、それでも、彼のこの髪型自体が彼の目印のようになっているといえばなっているのだった。
しかしそれでも、周囲は静かだった。

一歩踏み出そうとしたところで、携帯電話が振動した。
フランソワーズは視線をジョーに固定したまま電話を耳に当てた。

「もしもし――」

電話の向こうからは甲高い電子音。

「――」

その瞬間、フランソワーズの意識は停止した。

 

***

 

飛行機を降りた後、出国までの間ずっと報道陣につきまとわれ、ジョーはうんざりしていた。
元々は写真週刊誌の誤報であり、それだってもしかしたら発行部数拡大のためのわざと行われた誤報かもしれない。
それはそれで結構だったが、その誤報モデルに自分が選ばれたのがジョーとしては納得がいかなかった。
いい迷惑である。
複数連れ立って歩いている中の二人だけをピックアップし、さも二人きりで歩いているかのように捏造するのは彼らの常套手段とはいえ――フランソワーズが巻き込まれたことが気に入らない。
今まで、なし崩し的に「公認の仲」になってしまった故に報道されることもなきにしもあらずではあったが、こういう形のものは初めてだった。今までは、フランソワーズを傷つけるような報道はなされていない。がしかし、今回のこれはまるで――ジョー自身というより、フランソワーズがターゲットなのではないだろうか。しかも、「浮気疑惑」とは。
既にジョーの事務所が動いており、早晩、写真週刊誌相手に訴訟がおこるはずだったが、ジョーとしてはそれでも我慢ならないものがあった。

――何が「浮気」だ。

フランソワーズに対しそんな言葉を遣うこと自体が許せない。
そして。

――言うに事欠いて、相手がジェットだって?

片腹痛いとはこのことである。
実際、この写真の真相はというと、自分とジェットとフランソワーズの三人で、ジェットのレース後に食事に出たというただそれだけなのだから。
挨拶代わりにフランソワーズがジェットの頬にキスするのなぞ日常茶飯事である。特別なことではないのだ。
更に言うなら、問題のその瞬間だってジョーはフランソワーズの腰に手を回していたのだから。
そこをうまくカットして、まるで「密会」のように合成された写真。
気に入らなかった。

自分を中傷するだけならまだわかるが、その道具としてフランソワーズを使うなど――ジョーを敵に回すにはじゅうぶんだった。
しかし。
いったい、どんな悪意が自分とフランソワーズを狙っているというのだろうか。
それがわからない。
何しろ、以前とは違いフランソワーズ自身も今や有名人ではあるのだ。ジョーとは違う世界で着実に認められつつあるバレリーナとしての彼女。それを妬む者ももしかしたらいるのかもしれず、案外、今回の件はジョーではなく最初からフランソワーズがターゲットなのかもしれなかった。

そんなことをつらつら考えながらゲートを出て――さすがに報道陣はいない――やれやれと大きく伸びをした。
ついでに大きな欠伸もひとつ。

その視線の先に、思い人である当のフランソワーズの姿を見つけ、ジョーは沈んでいた気持ちが浮上した。
彼女は――報道を見て、そして心配して・・・来てくれたのだろうか?
そう思うだけで心が温かくなった。
ともかく、あんな報道など二人で一緒に笑い飛ばしてしまおう。

「――ふ」

フランソワーズ、と手を振ろうとして――異変に気付いた。
今の今まで目が合っていたフランソワーズ。
にっこり笑みを浮かべてこちらに向かってくるはずの彼女の動きが不自然に止まった。
耳に携帯電話を押し付けたまま。
そして。
彼女の目から光が失われ、明らかに――こちらを見てはいるものの、その目には何も映っていない。
携帯電話を持っている手が力なく下がる。

「――フランソワーズ!?」

ジョーはスーツケースを投げ出し駆け出した。

 

 


 

6月9日

 

「ねえ、フランソワーズ。ちょっと見てよ。大変よ!」

レッスン後の更衣室。
ワンセグ携帯を手に集まっている友人たちを横目にフランソワーズは黙々と着替えていたのだったが。

「ねえってば」
「興味ないわ」

彼女たちが釘付けになっているのはワイドショーだった。
今は午後2時。ちょうど各テレビ局が昼ドラからワイドショーに切り替わる時間帯である。

「だって、朝から凄い騒ぎで――あっ、始まった」

一瞬、痛いくらいの緊張感に包まれる更衣室。
フランソワーズは軽く肩をすくめると結っていた髪を解き頭を一振りした。

と、その刹那。

悲鳴ともつかない嬌声が更衣室を満たし、フランソワーズは顔をしかめた。

「ちょっと・・・いったい何なの?」
「だって、フランソワーズ!あなた朝のニュース見てないの?」
「見てないわ」
「だからそんな冷静でいられるのよ!いい?ハリケーンジョーが大変なことになってるのよ!」
「・・・ジョーが?」

眉間にシワを寄せるものの、特にジョーからは何も連絡がなかったなと思い巡らせる。

――うん。確かに何も言ってなかったわ。今朝の電話でも。

だからきっと、大したことではないのだろう。そう、昨年のチャンプがやっと優勝した、というところだろう。ニュースになっているとするならば。
もちろんそれは、フランソワーズにとっても大ニュースには違いなかったけれど、しかし――今朝、当の本人とさんざん喋った後なのである。だから、今さらニュースで彼を見たところでどうということはなかった。

「そうよ!スキャンダルよ、スキャンダル!」
「・・・スキャンダル?」
「浮気疑惑っ!」
「――浮気?」

きょとんと首を傾げるフランソワーズに、焦れたような友人たちの声が飛ぶ。

「もうっ!音速の騎士が困ってるのよ、あなたのせいで!!」

まるで加速装置を使ったかのような素早さで、フランソワーズは友人たちの輪に加わっていた。そして、差し出されたワンセグ画面をじっと見つめる。

そこには。

――ちょっと困ったような顔の、ジョーが居た。
彼に差し出される無数のマイク。場所は――空港だろうか。

『ええと、僕は別に・・・』
『でも島村さん。この写真のひとは熱愛中の彼女ですよね。間違いないですよね!?』
『え。あ・・・はあ』
『レース中不在でのこの事態、どう思われますか』
『いやあ、どう、って僕は別に』
『しかも、お相手はあなたの友人ではないですか!』

いったい何の話なのか、皆目見当がつかない。

そんなフランソワーズの疑問が届いたのか、画面が切り替わり、写真週刊誌と思われるページが映された。
それは。

「嘘っ・・・」

そこには、スーツ姿のジェットと、彼と腕を組み楽しそうに微笑む自分の姿があった。そして、彼の頬にくちづけている写真も。

「・・・いつの間に」

撮られたのだろう?

「ね、フランソワーズ。これって本当?」
「どうしてジェットと一緒なの?彼ってハリケーンジョーの親友じゃなかった?」

呆然と画面を見入るフランソワーズに彼女たちの声は聞こえていない。
いま、フランソワーズの目には扇情的な文句が映っていた。

『ハリケーンジョーの恋人、真夜中の密会!!親友・ジェットリンクの裏切りか?』

再びジョーのインタビューに戻る。

『島村さん。今のお気持ちは』
『いやあ、お気持ちって言われても・・・僕は別に』
『でも、恋人と親友のいわば二重の裏切りですよ?』
『はあ、そうですね』

――裏切り、って。

フランソワーズはだんだん頭が痛くなってきた。いったい、どうしてこんなことになってしまったのだろう?

「ね、フランソワーズ。本当のところはどうなの?」
「心変わりなんて、マジでしちゃったの?」
「ジェットのほうがいいってわけ?」

ああもう。

「違うわよ、だってこれ――」

『あの。これ・・・僕も一緒に居たんですけど』

まるでフランソワーズと合わせたかのようにジョーの声が響く。

えええーーーーっと湧く更衣室。と、画面の中の報道陣。

「あら。これって生放送?」

というフランソワーズの声は誰にも届いていない。

「ほほほんとなの、フランソワーズっ」
「本当よ?」
「だってだって、これってっ・・・」
「だから、ジョーも一緒にいたもの」
「でもっ、だってこれっ・・・」
「しー。ほら、見て」

『では、これは誤報なんですか?』
『そうなりますね。――ほら、ここ。フランソワーズの腰に添えられてる手があるでしょう。これ、僕です』

「ヤダ、ジョーったら!」

頬を染めていやんと小さく言うフランソワーズ。が、誰も彼女を見ていない。ワンセグ画面に釘付けなのである。

『でも、これはいったいどういう集まりで・・・?』
『ジェットのレースの後、食事しただけなんですけど』

やだー、なによそれえーという声が響き、みんな興味をなくしたように着替えるために散って行った。
残されたのはフランソワーズただひとりだった。誰のものかわからないワンセグ携帯を手にしたまま。

「・・・」

けれどもフランソワーズはじっと考え込んでいた。
画面ではジョーがにこやかに手を振って去ってゆくところだった。これから飛行機に乗るのだという。つまり、空港だったというわけだ。

――お迎えに行こうかな。

滅多にそんなことはしないけれども、なぜかそう思った。

 


 

6月3日

 

「ね。ジョー。ちょっと襲ってみて」

フランソワーズの部屋の前を通りかかった時、狙ったかのようなタイミングでドアが開いて部屋の主が顔を覗かせた。
妙に嬉しそうな様子で手招きしている。
ジョーは背筋に何やら冷たいものが走ったが、既に拒否する選択権はないようだった。

「襲う、って・・・僕がフランソワーズを?」
「そうよ。ね、入って」

――部屋に入ったら最後のような気がする。

過去の経験がジョーに入ってはいけないと警告する。
それに従いたかったジョーだったが、フランソワーズにがっちりと腕を捕まれ、半ば拉致されるようにひっぱりこまれてしまった。

フランソワーズはジョーをどんどん部屋の中央に引き込み、そうして――おもむろに床に横たわった。
仰向けにまっすぐ足を伸ばして。

「ほら。襲って」
「襲う、って・・・」

意味がわからない。

「だから。いつものようにすればいいだけよ。簡単でしょう?」

――いつも、って。

最近はそんな事はないはずだった。
何故なら、夜中にいきなりフランソワーズの部屋に行くということはなく、ちゃんと――自分の部屋へ連れて行くからである。寝る前に。
いったい彼女の目的は何なのだろうか。

「・・・こう?」

わけがわからなかったが、フランソワーズの機嫌がどんどん悪くなっているような気がして、ジョーは仕方なく「襲う」ことにした。
フランソワーズが仰向けに寝ているのだから、とりあえず――馬乗りになってみる。襲えというのだから、つまりはこういう意味なのだろうとあたりをつけて。

「ん。そんな感じね。続けて」
「続けて、って・・・」

うーんと唸って、ジョーはともかく「襲って」みる。
フランソワーズの上に馬乗りになり、覆いかぶさるように身体を押し付け――

「――あれ?」

気がついたら天地が逆転していた。
いつの間にか、自分がフランソワーズに組み伏せられている。

「・・・あれ?」

一体何が起こったのかわからない。
わからない。が、そのままフランソワーズが自分を突き飛ばし、更には急所蹴りを見舞って離れるに至り――ああこれはもしかして、自分は何かの練習台になったのだろうと思い至った。いったい何の練習台なのかさっぱりわからなかったけれども。

「――やった!」

何を。

「ジョー、大丈夫?」

嬉しそうに「やった」と言ったあと、慌ててジョーの顔を覗きこむ。

「・・・大丈夫じゃ、ない」

死ぬ。

「んもう、ジョーったら。ね、本気だしてた?ちゃんと」
「ああ――」

たぶんね。

と答える胸の裡。
本気じゃないよなんて言おうものなら、もう一度と言われるのに決まっている。そのくらいは学習しているジョーだった。

「じゃあ、やっぱりこれで良かったんだわ!」

にこにこしながらジョーを見つめ、――そして眉間にシワが寄った。

「ねぇ、本当に・・・大丈夫?」
「だから大丈夫じゃない、って」
「――でも。私、ちゃんと外したはず・・・」
「いいや。もれなくヒットしてる」
「嘘!!」

フランソワーズが両手が口元にあて、じっとジョーの下半身に視線を注ぐ。

「・・・嘘なもんか。僕はもう駄目だ」
「え、だって。――テレビでやっていたようにしただけよ?護身術の」
「・・・護身術?」
「ええ。寝ている時に襲われた時の逃げ方。――でも、急所蹴りは、練習の時は外すようにしましょうって言ってたから、外した・・・はずなのに」
「ふうん――なるほど」

ジョーはそのまま目を瞑った。苦悶の表情はそのままに。
果たしてフランソワーズは、ジョーが意識を失ったと思ったらしく、彼の肩に両手をかけてゆさぶった。

「ジョー!!ね、嘘でしょう?やだ、私っ・・・」

その瞬間。

狙い済ましたかのように、ジョーが身体を起こし、再度フランソワーズを床に組み敷いた。先刻の彼とは段違いである。
今度は馬乗りになっておずおずと手を出すのではなく――身体の全体重を手加減せずに彼女の身体に乗せている。

「っ!ジョー、くるしっ」
「――僕を練習台にするなんていい度胸だねフランソワーズ。高くつくっていつになったら覚えるのかな?」
「んんっ、重いぃ」
「ふん」

ジョーが身体を除けると、フランソワーズは大きく息をついて半身を起こした。軽く咳き込む。

「やっぱり嘘だったんじゃない!すっごく心配したのに!」
「だから。僕がそういうのの練習台になれるわけがない、っていったいいつになったらわかるわけ?」

練習とはいえ、ジョーが急所蹴りを受けるはずがないのだ。そんなことは――昔から、急所を外す受身は会得しているのだ。ケンカ三昧の日々だったのだから。

「ひどいわ!」
「ひどいのは君だろう?」
「・・・もうっ」
「大体、護身術なんて要らないだろうが」
「どうして?襲われた時に役に立つじゃない!」
「・・・僕がいるのに?」
「えっ、だって」

いない時だってあるじゃない。

「まぁ、ともかく、・・・高くつくよ。これ」

ジョーの顔を見ると、にやりと嗤って――そうして唇が奪われた。
確かに高くつくようだった。

 


 

6月1日  注:先に「ピュンマ様の部屋」をお読み下さい。繋がってます。

 

「あーあ。参ったなぁ」

ジョーは部屋に戻るとごろんとベッドに転がった。

「禁止にしなくてもいいじゃないか」
「・・・そうね」

フランソワーズもジョーの隣に転がった。
ジョーが彼女の肩の下に腕を回し抱き寄せる。フランソワーズはジョーの胸に頬を寄せた。

「でも、やっぱり・・・お洋服がどんどんなくなっていくのは私も困るわ」
「――そう?」
「だって、お気に入りばっかりなのよ?」
「ん?そうは言ってなかったじゃないか」
「だって、言ったら聞いてくれるの?」

それは怪しかったので――ジョーは天井を見つめたまま黙った。

「そんなことより、ジョー?」

フランソワーズはジョーの胸に腕を乗せ、乗り出すようにしてジョーの視界に入る。

「夜中に帰ってくるの、ばればれだったみたいだけど?」

逆光で表情の見えないフランソワーズ。怖い。

「ジョーは知ってたのね?――酷いわ!」
「いや、僕だって、その・・・知ってたわけじゃ」
「だって!私だけよ、裸だったの、って!!」
「あ、イヤ・・・」
「ずるいわ!ジョーばっかり特殊繊維のお洋服なんて!」
「ええと」
「みんな、知ってて知らないふりしててくれたなんて、私っ・・・明日からどんな顔すればいいのよっ」

そうしてジョーの胸に突っ伏してしまう。

「イヤ、いつもと同じにしていればいいと思うけど」
「いやよ、恥ずかしくてもう会えないわ!」

ジョーはううむと唸って、自分の胸に顔を伏せたままのフランソワーズの髪を撫でた。

「――あのさ、フランソワーズ?」
「何よ」
「それってつまり・・・新手のおねだり?」

フランソワーズの肩がぴくりと揺れた。

「・・・何の事かしら?」
「だから。服を買ってくれという」
「・・・知らないわ」
「それとも」

ジョーはよいしょと身体を起こすと、改めてフランソワーズを抱き締めた。

「ふたりとも裸だったら平等なのにっていう意味かな?」
「・・・ばか」