−子供部屋−
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)

 

 

7月30日

 

「ふうん・・・綺麗なところねぇ」

ジョーのパソコン画面を覗き込みながらフランソワーズが言う。

「こんなに綺麗なのに、本当に穴場なの?」

ピュンマに教えられたアドレスにアクセスし展開された映像だった。紺碧の海が眼前に広がっている。見渡す限りひとけはなく、静かに横たわる海といった感じであった。

「それは確からしいよ。場所は、ええと・・・」

ジョーが読み上げたそこは、本当に海があるのだろうかというような住所ではあったし、何故か検索しても出てこないので本当に存在しているのかどうかは甚だしく疑問ではあった。

「でも本当にそこだったら、日帰りは無理よね?」

何故か嬉しそうに言うフランソワーズ。
その横顔を見つめ、泊りがけで出かけるのがそんなに嬉しいのかとジョーは苦笑した。

「近くに泊まれる所ってあるのかしら?」
「問題はそこだな」
「穴場のビーチっていうことは・・・誰も来ないんだから、何にもないわよ、ね」
「うーん。そうなるんだけど」

ピュンマ曰く「行けばわかる」というのだが。
果たしてホテルや民宿などの宿泊施設も何とかなるのだろうか?

こんなに楽しみにしているフランソワーズなのに、「行ってみたら本当に何もありませんでした」では困る。
せめて近くにホテルか何か――探さなくては。

「とりあえず、比較的近いところに予約をいれておくよ」

ジョーが言うけれども、フランソワーズは既に隣にいなかった。

「・・・・あれ?」

ジョーのクローゼットを空けて旅行鞄を引っ張り出している。

「フランソワーズ?」
「なあに?」
「もう準備?」
「ええ。だって、きっと何もないのよ?持って行くものがたくさんだもの。足りないものはないかチェックしないと」
「気が早いなぁ。まだいいじゃないか」
「ううん。備えあれば憂いなしよ!」

そんな日本のことわざをよく知ってるねと思いながら、ジョー自身もわくわくしてくる気持ちを抑えられなかった。
フランソワーズとふたりで海。ふたりきりの旅行。
いつもはレース絡みか、あるいはパリへ行くというものだった。しかも、今年はモナコでのバカンスもできなかった。

・・・本当に久しぶりだ。

二人しかいない海で、何をして遊ぼう?
サーフィンはできるのかな。だったらボードを用意しないといけないし、あるいは釣りができるならその準備もしておきたい。お弁当や飲み物も持って行く必要があるし、それからビーチパラソルとかデッキチェアとかもあったほうがいい。
ボートはさすがに・・・持っていけないか。

心は既に海に行っていた。

 


 

7月29日  (先に28日の「ピュンマ様のお部屋」を御覧ください)

 

先刻からジョーの機嫌が悪い。
買い物から帰って来たフランソワーズは、買ってきたものを冷蔵庫に入れ終わるとすぐにジョーに腕を掴まれ彼の部屋へ拉致された。
ジョーは乱暴にフランソワーズの腕を離した後、むっつり黙ったまま微動だにせずベッドに腰掛けている。
フランソワーズは隣に座るのも憚られ、結局、ジョーの前に立ったまま数分が経過した。

「あの・・・ジョー?」
「・・・」
「どうかしたの?」
「・・・」

軽くため息をつくと、フランソワーズは自分の服の胸元をつまみ、風をいれるように軽くあおいだ。何しろ買い物から帰ってきて汗びっしょりだったのに着替える間もなかったのだ。しかも、ここジョーの部屋はエアコンをたった今つけたばかりでかなり暑い。

「・・・用事がないなら、私はちょっと着替えてきたいんだけど?」
「駄目だ」
「だったら早く言って?もう汗びっしょりで気持ち悪いのよ」
「・・・」

再び黙り込んだジョーに困ったように視線を向け、彼の前髪の奥からこちらを窺う褐色の瞳と出会った。

「ジョー。もうっ、言いたいことがあるなら早く言って!」
「・・・」
「その顔は言いたいことがある時ってちゃんと知ってるのよ?」
「・・・」
「ジョー?」

フランソワーズは手を伸ばすと彼の前髪をぱっとかきあげた。ジョーが身を引く間もない。
露わになった褐色の双眸。
じっと見つめていると、ジョーの頬が微かに染まった。

「さ。言いなさい」
「・・・」
「じゃないと今日はずっとこうよ?」

ジョーはぎょっとしたように目を見開き、そして――腹を括ったように大きく息をついた。

「・・・どうしても海に行きたい?」
「えっ?」
「・・・プールじゃ駄目?」
「だって去年行ったじゃない」
「だから今年は海?」
「ええ。山は行ったし、行ってないの海だけだもの」
「この前行ったのに?」
「だって、ジョーも夏休みにはいったでしょう?・・・ゆっくりしたいの。もうちょっと遠いところで」

頬を染めるフランソワーズに、つられてジョーの頬も染まる。

「それってつまり、・・・泊まりってことだよね」
「そうよ。――イヤ?」
「いや。いいよ」
「良かった」
「うん――でもさ」
「なあに?」
「・・・フランソワーズ、何を着るつもり」
「何って?」
「水着」
「水着?」

ジョーはこくんと頷いた。それこそが大問題なのだった。彼にとって。

「そうねぇ・・・去年買ったのでいいかなって思っているけど」
「どっち?」

去年は2着購入したのだった。色違いの同じデザイン。

「・・・ピンク」

蒼も気に入っているけれど、でもせっかくジョーと二人きりのデートなのだ。太陽光の下で可愛いピンクを着てみたかった。ジョーが何て言ってくれるだろうかと想像するだけでわくわくしてくる。

「ピンクか・・・」

対するジョーは、がっかりしたのか怒っているのか何とも複雑な表情だった。

「だめ?」
「いや、そうじゃないんだけど。でも――うーん。大丈夫、かな」
「ジョー?」

フランソワーズは腰に腕を回してくるジョーの首筋に腕を投げて、彼に引き寄せられるままに任せた。

「――僕は基本的にきみが海で水着姿になるのは反対だけど、でも、さっきピュンマから穴場のビーチを教えてもらったんだ」
「穴場のビーチ?」
「うん。僕らしか知らないらしい」
「そんなところがあるの?」
「うん。ジェロニモも知っていたから、ガセじゃないと思う」
「まあ!」
「だから・・・譲歩してもいいかなと思うんだけど、その」
「海に行けるの?」
「――うん」

その途端、フランソワーズがジョーに飛びついたので、ジョーはそのまま仰向けにベッドにひっくり返った。
嬉しさをそのままキスに変えてジョーに浴びせるフランソワーズ。彼女の好きに任せて、ジョーはぼんやりと考えていた。
誰もいないビーチでフランソワーズと二人っきり。あのピンクの水着を着たフランソワーズはそれはそれは可愛くてセクシーだろう。それを自分が独り占めできるのだ。

海に行くのは基本的に反対だったけれど、ちょっと楽しくなってきたジョーだった。

 


 

7月20日

 

「ねぇ、ジョー。明日出かけない?」

そう言われたのは昨夜のことだった。
風呂上りにキッチンでミネラルウォーターを飲んでいると、フランソワーズが顔を覗かせた。

「明日?」
「ええ。何か予定がある?」
「いや、別に――無いと思うけど」
「だったらお出掛けしましょう」

キッチンに入って来ると、フランソワーズは甘えるようにジョーの腕に巻きついた。

「・・・ひとりでお風呂に入っちゃうなんてズルイ」
「ええっ。だって今日、一緒に入る日じゃないじゃないか」
「そんなの決まってないでしょう」
「ピュンマとこれからゲームをするんだよ。ほら、この前発売になったばかりの」
「・・・ふうん」

フランソワーズはゲームに興味はなかった。

「で、明日。行けるの?」
「うーん」

今夜ゲームをするからには、たぶん徹夜になりそうで、明日どこかへ出かける時間的余裕があるのかどうか、今のジョーには何とも言えなかった。

「だけど、どうして?」

どうして「明日」なのか、ジョーには疑問であった。

「・・・私と一緒じゃイヤ?」
「え。そんなことないよ」

拗ねたように言うフランソワーズの頬を指先で撫でて、そうしてジョーは視線を逸らし天井を見つめた。

「・・・嬉しいよ」

 

***

 

そんなわけで、今日こうして出掛ける事になったのだった。

玄関に並んで靴を履きながら、どこに行こうか何をしようかと楽しく話していたときだった。

「じゃあ車を回してくるからちょっと待ってて」

と出て行こうとするジョーのシャツの裾を握って止めたのはフランソワーズだった。

「何?」
「電車にしましょうよ」
「電車?なんで」
「乗りたいから」
「・・・電車に乗ってどこに行くつもり」
「海」
「海ぃ?」

そんな話は今の今まで出なかったから、海水浴の用意なぞ全くしていなかった。

「でも今からじゃ――何も準備してないし」
「あら、それなら御心配なく」

にっこり笑って、フランソワーズは体を反転すると廊下の隅に置いてあったバッグを引っ張り出した。

「昨夜のうちに準備しておいたの。もちろん、ジョーのも全部入っているわ」
「いやでも」
「それに」

フランソワーズはバッグをよいしょと肩にかけるとジョーの隣に並んだ。

「昨夜殆ど寝てないんでしょう。そんなひとの運転する車なんて危なくて乗れないわ」
「酷いなぁ。ちゃんと寝たさ」
「何時間?」
「何時間、って・・・」

おそらく正味2時間だろう。

「だけど、海に行くなら余計に車のほうがいいと思うけど?」
「あらどうして?」
「それはね」

ジョーはフランソワーズの肩からバッグを外し、自分の肩に引っ掛けた。

「電車だとまた何時間往復することになるかわかったもんじゃないだろう?」
「!!」

にやりと笑ってドアを開けたジョーの背を、ワンテンポ遅れてフランソワーズも続く。

「憶えていたの?」
「そりゃ、ね」

何年か前。二人がまだお互いに片思いだと思っていた頃、電車で海に行ったことがあった。その帰り、熟睡して何時間も電車で往復してしまったのだった。

フランソワーズは日傘をさすとジョーの隣に並んだ。ジョーにも傘を差し掛けるが、ジョーはいいよと傘を手で押し戻した。

「――懐かしいわね」
「・・・そうだね」

そうしてお互いに過去に思いを馳せる。

あの時、僕はフランソワーズを誰かが迎えに来るまで一時的に預かっているだけだと思っていた。もちろん、それは今でも変わらないけれど、でも――

あの時、あんまり自然にジョーが肩を貸してくれたから、悲しくなったんだった。だって、慣れているみたいで――きっと彼にはこうして肩を貸すような人がちゃんといるに違いない、私はただの「仲間」だから、義理でそう言ってくれているだけだ、って・・・思ったんだったわ。――でも・・・

「ねぇ、ジョー?」
「ねえ、フランソワーズ?」

車庫の前で足を止め、お互いにお互いの名を呼んで。

でも――今もこうしてフランソワーズは隣にいてくれる。
でも・・・そんなの誤解だった、って今ではちゃんとわかってる。

「あのね」
「あのさ」

潮風が二人の間を通り抜けてゆく。
盆栽が趣味の博士が、自分の部屋の軒下に下げたばかりの風鈴。それが鳴った。
博士の部屋は風があまりこないから、さっぱり鳴らないと嘆いていた。近日中にリビングに移す予定の風鈴。

「あ。――鳴ったね」
「ええ。・・・なんだか涼しい感じね」

フランソワーズがその音の名残を確かめるようにそうっと目を閉じる。
ジョーもそうっと目を閉じて、そして――ふたりの唇が重なった。

もしも、いつか誰かがフランソワーズを迎えに来るのなら、その時は彼女を笑って送り出そうとそう心に決めていた。
――でも、今は違う。
もしいつか、そんな誰かが来たとしても。僕はフランソワーズをそう簡単には渡さない。

「仲間」だからとか、義理だとか、どうせ私のことなんて、とか――そう思っていた時期もあった。そうして泣いたこともある。でも――今は違う。
私はジョーに大切に思われている。だから、彼の気持ちを信じる。
そう自信を持つまでに随分かかってしまった。今でも時には揺らぐこともある。でも。

・・・信じてるから。

「――ん。何か言った?」

唇を離してジョーが問う。

「ううん。なんでも――」

ないわ、と言おうとしてちょっと考えた。そして。

「・・・好きって言ったのよ」

と言った。最近、ちゃんと伝えていなかったと思いながら。

「なっ・・・ばかだなあ!」

ジョーはふいっと視線を逸らせると、ガレージのシャッター開閉ボタンを押した。凄まじい音を立ててシャッターが上がってゆく。

「もうっ・・・車庫だけ旧式なのってどうにかならないのかしら」

フランソワーズが耳を押さえて言う。そんな彼女を見てジョーが笑う。

「・・・ジョー?いま何か言った?」
「別に。何でもないよ」

シャッターの音に紛れて聞こえたのは空耳なのか、それとも――

――そんなの、前から知ってるよ。

 

 

*****
「ある夏の日」から数年経ちました。


 

7月17日

 

「日本では日食を観るのにツアーも組まれているのよ」
「ふうん。・・・日本人ってそういうの好きだよね」
「ま。あなただって日本人じゃない」
「半分だけだよ」
「半分だって、日本人は日本人よ」

フランソワーズはジョーの額を軽くつついた。

「ジョーは日本にいるの?」
「ん?」
「22日の昼間。日食のピーク」
「・・・さあ。どうだろう。予定表を見ないとなんとも言えないなぁ」
「せっかくの日食なのに。世紀の天体ショーなのよ。全世界あげての」
「全世界は大袈裟だよ。地球の半分以上はそんなの関係ないはずだろ。見えないんだから」
「・・・そうだけど。でも皆既日食よ?せっかくだから見たくない?」
「雨かもしれないじゃないか」
「んもう!どうしてそんな意地悪言うのよ!」
「いてて。つねるなよ。天気はわからないってことだよ」

ドイツから帰国したジョーはギルモア邸に居た。
いつもは帰国しても殆どタッチアンドゴー状態だったから自宅マンションに帰るのだが、今回は少しだけ時間が取れたのだった。
ジョーの部屋のベッドの上。ジョーはフランソワーズを膝の上に抱き締めていた。
しかし、交わされる会話は甘い雰囲気とは程遠い。

「だって、一緒に見たいもの。世紀の天体ショー」
「太陽が陰るだけだろう?」
「いいじゃない。滅多にないことよ?」
「昔はこれを事前にわかっていたからって魔女扱いされた者もいるんだろうなぁ」
「そうね。計算すればわかることなのに」

太陽が陰る。ただそれだけのことと言えば、それだけのことだった。

「太陽と月が直線上に並ぶんだっけ?」
「そうよ」
「ふうん。・・・君が太陽なら僕は月だね。なあんて言うカップルもいそうだな」

ジョーは大きな欠伸をすると、フランソワーズを抱いたまま仰向けに寝転がった。

「いいじゃない。月が太陽と重なって見えなくなるのが日食なんだから」
「・・・ふうん。それってつまり――」

寝返りをうつとフランソワーズをベッドに押し付け上下反転する。

「こういうことかな」
「もうっ・・・そんな不埒な考えをするひとなんて、きっとジョーだけよ」
「不埒かな」
「不埒よ」
「・・・品行方正のほうがいい?」
「私はジョーならどっちでもいいわ」
「なんだよそれ」
「だって」

ジョーがジョーであれば、それでいいもの。

 


 

7月14日

 

ドイツグランプリ。ニュルブルクリンクは難コースであった。
どのサーキットで勝ちたいかと問われれば、それはもちろんモナコであるのだが、ここドイツも外せなかった。

ジョーは今までここで勝ったことはない。
よく「得意なサーキット」や「相性の良いコース」と言うが、過去の戦績から言えば、ジョーはニュルブルクリンクとは「相性が悪い」ほうだった。本人はそう思って無くても結果がそう示す。

――嫌いなコースではないんだけどなぁ。

むしろ好きなほうである。
ジョーは難しいほうが好きなのだ。
だから、そういう意味でいえば、まさにジョーの片思い。なかなか手の届かない思い人であった。

決まったグリッドは5番。3列目だった。が、このコースに於いて、5番グリッドというのはジョーにとっては最高位であったから、ジョーはずっと機嫌が良かった。しかも、マシンのセッティングもうまくいったし、天候にも悩まされず――もしかしたら、今回やっと思いが通じるかもしれない。
そんな期待をしていた。
ジョーだけではなく、チーム全体で。

だから、僅差で勝利をもぎとった時は、ジョーもチームも歓喜の嵐だった。チームラジオも何を言っているのか殆ど聞き取れない。無理もないですね――と、冷静に言ったのは実況アナウンサーだけで、解説の元F1ドライバー2名は抱き合って喜んでおりとても放送にならなかった。

もちろん、それを録画で観ていたフランソワーズも同様であった。が、日本では真夜中だったので――声を出さず、抑えて抑えての喜びだった。

しかし。

『やった!!やったよ、フランソワーズっ!!』

――え?

空耳かと思った。が、しかし。

『フランソワーズっ!!やったよっ!!』

・・・ジョー?

真っ暗なリビング。音量を絞った大画面テレビ。
そのすぐ前でかぶりつきになって、最後には立ち上がって両拳を天に掲げていたフランソワーズの動きが止まった。
いま流れているのはジョーのチームラジオのはずである。
まさか、空耳よ。気のせい、気のせい・・・
と言い掛けたまさにその時。

『フランソワーズっ、聞こえてる?!』

・・・ジョー?

嘘でしょ!

 

***

***

 

「もうっ、信じられない!ジョーのばかっ」
「いやあ、ゴメンゴメン」

電話の向こうの「ゴメン」は豪く陽気だった。
おそらく祝賀会の最中なのだろう。彼の声の背後は陽気に騒ぐ声ばかり。

「つい、ね。つい」
「もうっ」
「だってさ。フランソワーズに最初に報告したかったんだよ」

そんな甘いことを言っても駄目ですからね――と言うつもりが、予想外に甘い声のジョーにフランソワーズは絶句した。

「・・・酔ってるのね?」
「酔ってないよ」
「嘘よ」

だってそんな優しげな甘い声で言うなんてずるい。怒れなくなってしまうではないか。

「愛してるから仕方ないだろ」
「!!?」

さらりと言われた「愛してる」は、次の瞬間、大量の嬌声にかき消されてしまった。どうやら携帯電話を陽気な一行に奪われたらしい。
これでは「愛してる」だって、ジョーが素面で言ったのか、酔って言ったのか、あるいは悪ふざけの一環の賭けで言ったのか定かではない。

フランソワーズは大きなため息をつくと、

「ばかっ!!」

大音量で言い放って通話を終えた。

 

***

 

数時間後にかかってきた電話で、ジョーはこの一件を全く覚えていないことが判明し、フランソワーズは更に深くため息をついたのだった。

 


 

7月12日

 

フランソワーズはいったいどうしたんだろう?

電話の向こう側で、おそらく泣いているであろうフランソワーズ。無言でそれを受け止めながら、ジョーは内心首を傾げていた。
先刻電話した時は、電話を切る間際に語尾が揺れた。それが気になって、もう一度電話しようかどうしようか考えていたところに彼女から電話がきたのだった。
しかし、彼女は未だ用件を口にしていない。と、いうことは特に用事などなかったということである。
用事のない電話。とは、即ち――ただ声が聞きたかった。と、いうことになる。少なくとも、ジョーが彼女に用件のない電話をする時はそうだった。彼女もそうなのかはわからないけれども。

「・・・フランソワーズ?」

可愛くないなぁと言ったけれど、それは言葉のアヤであって、実際には何をしても可愛いと思っていることは内緒であった。

「ごめんなさい。ジョー。・・・あのね」
「うん?」

既に泣いていることを隠すことなく鼻をすするフランソワーズ。
きっと鼻の頭を赤くしているに違いない。
その顔を思い浮かべ、ジョーは少し笑った。

「・・・ううん。なんでもない」

あれ?

まだ強がるのだろうか。
ジョーの笑みが広がる。

「フランソワーズ。どうした?」

何となく――彼女が何を伝えたいのか、そして伝えずにいるのか、わかる――ような気がする。
だったらこちらから言ってやるのが思い遣りかもしれないが、ジョーはそれをしたくなかった。
何しろ、強がっているフランソワーズもまた可愛いのである。

「・・・ううん。本当になんでもないの」
「ふうん。――じゃあ、もう切る?」
「えっ。ジョー?」

途端に慌てたように言うのも可愛い。

「忙しいの?」
「忙しいね」
「お仕事の邪魔しちゃった?」
「それは大丈夫」
「良かった」

ほっとしたような声。
やっぱりこの前みたいに無理矢理連れてくるんだったなぁ――と、目の前を通り過ぎてゆく同業者とその恋人を見送りながら小さく息をついた。
が、それを聞かれてしまった。

「ジョー?どうしたの。ため息ついたわ」
「えっ」

不覚。

「何かあったの?」
「イヤ。・・・無いよ。何も」
「嘘よ」

形勢が逆転した。
フランソワーズのモードが「泣き虫で強がりの可愛い恋人」から「ジョーの心配を取り除くミッションを受けた恋人」に変わってしまった。
こうなるとフランソワーズは強い。絶対に負けない。

「ジョー?」

もちろん、攻守も逆転する。

「いやぁ、だから・・・何でもない、って」

ジョーはのろのろと話す。しまったなぁと思いながら。
まったく、耳聡い恋人というのはやっかいであった。

「ジョー?」

追求の手は緩まない。

「何でもないよ」
「嘘よ。だってため息ついた」
「だから。ついてない、って」
「私に嘘つくの?」

あれ?

「・・・それ、さっき僕が言ったことなんだけど」
「あら、そうだったかしら」
「うん」
「じゃあ、何でもないよっていうのが嘘だって認めるのね?」
「あ。きみ、いま、自分もさっきの何でもないわが嘘だったって認めたね?」
「・・・あ」

お互いにちょっと黙って。

「・・・だって。・・・ジョーに会いたくなっちゃったのって言ったら困るでしょう?」

拗ねたように渋々言うフランソワーズ。ジョーはそれを聞いて頬を引き締めた。

「困らないよ。僕もいまそう思っていたんだから」
「嘘」
「ほんと。・・・無理矢理連れてくればよかったなって後悔ばっかりだよ」
「またまた嘘ばっかり」
「・・・嘘だと思う?」

間。

「・・・思わないわ」

 


 

7月11日   お見通し?

 

ジョーとの通話を終えて、携帯電話を畳むとフランソワーズはジョーのベッドにころんと寝転んだ。
まだ彼の声が耳に残っているうちは自分の部屋に戻りたくなかった。

電話を切った後の方が寂しく感じるのは何故なんだろう?

自分はこんなに寂しがりのはずではない。そんな女の子ではないはずである。
今まで「好きな人」や「カレシ」がいても、わりとあっさりとしていたように思う。別れ際だって、明日も明後日もその次もまた会えるんだから、と。

――ジョーとはそうはいかないからだろうか。

自分たちにはサイボーグという枷がある。だから、明日も明後日もその次も無事に会えるという保証などないのだ。
だから、今のこの一瞬が大切であり、――もしかしたらそれが、最期の会話になってしまうかもしれないのだから。

フランソワーズはぎゅっと目をつむって頭を振った。

――いけない。そんな事ばかり考えていたら・・・どこにも行けなくなってしまう。

自分たちの身体はもちろんひとつの「運命」を背負っているけれども、それ以上にそう考えてしまうこと自体が実はやっかいな荷物なのかもしれない。

普通に生きる。

普通に生活する。

その「普通」というのがこんなにも意識されるものだとは思わなかった。

ベッドの上で寝返りをうってうつぶせになる。ベッドカバーに顔をつける。が、柔軟剤の香りがするばかりでジョーの匂いなどちらりともしなかった。
少し――いや、かなり残念な思いに囚われ身体を起こした。
ベッドカバーではなく、枕だったら彼の匂いがするだろうか。と思いかけ、

「いやだわ、私ったら。これじゃ何だか変なひとみたいじゃない!」

軽く頬を膨らませ、立ち上がった。
ずっとここにいるわけにはいかない。――たぶん。
いくらジョーでも、自分が不在の時に部屋に入られるのは不快だろう。例えフランソワーズには甘いのだとしても、それでもやはり落ち着かなく思うだろう。だから自分は、即刻ここから立去るべきなのだ。
一刻も早く。
なのに、足が動かない。
代わりに再度彼のベッドに上がり――壁を背にして、ベッドの上で膝を抱えた。そのまま膝頭に頬を当てて。

・・・変なの。ジョーのお得意ポーズじゃない。

くすりと笑みが洩れる。
確かに、彼がここにこんな格好で座っているのを見るのは、そう珍しいことではない。

真っ暗な部屋で。
こうして膝を抱えて彼は何を思うのだろう?

――私は。

携帯電話を開く。液晶画面の光がフランソワーズを照らす。
親指でジョーの番号を呼び出していた。

コール1回。

「フランソワーズ?」
「ジョー?」

驚いた。なぜこんなにすぐ出られるのだろう?

「良かった。いま電話しようかと思っていたところ」
「えっ?」

まさか。
二度もそんな偶然が起こるわけがない。

「どうして」
「うん。さっきちょっと、その・・・なんだか元気がなかったから」
気になって。と小さく言われた。

「いつもと変わらないわよ?」
「うん――いや。・・・そうかな、フランソワーズ」
「そうよ?」
「うーん・・・フランソワーズ?」
「なあに?」
「・・・まったく、可愛くないなぁ」
「あら、ごめんなさい」
「ほら。そういうトコロ」
「ふふっ。可愛くない?」
「うん」
「そうね、私――」

可愛くないのはきっと、こんな風に強がってみせるところだわ。

それでも、寂しいとか会いたいとか――言ってしまえば楽になるのだろうけれど、これからレースの彼にそんな事を言って困らせるわけにはゆかない。だから唇をぎゅっと結んだ。頬に一筋涙が流れる。でも、それだけ。

「・・・フランソワーズ。泣いてる?」
「えっ?」
「いまちょっと黙ったから」
「・・・別に。なんでもないわ」
「そう?」
「ええ」

うっかり鼻をすすらないように気をつける。が、そうすると鼻が詰まってそれが気になった。声も鼻声になっているし、気をつけないとジョーに全部ばれてしまう――かもしれない。いま泣いたことが。

「泣き虫」
「失礼ね。泣いてないわ」
「我慢すると身体によくないよ」
「泣いてないもの」
「・・・そうかな」
「そうよ。――だって」

泣いたら、困るのはジョーでしょう。

「なら、僕が泣くよ?」
「え――ええっ?」

いったい何を言い出すのだろう?

「もう、何ばか言ってるのよ」
「だってフランソワーズが僕に嘘をつくから」
「嘘、って・・・」

もう――ジョーのばか。

逢いたいの。寂しいの。一緒にいたいの――
我慢してたのに。

 


 

7月10日   一緒だね

 

ジョーは桜の花びらが舞うのを見るのがあまり好きではない。
フランソワーズは星空を見るのが怖かった。蛍を見るのも苦手だった。

自分が塵になって地表に舞う様を想像してしまう。だから、好きではない。
辛い思いを抱えて見上げた星空を思い出してしまう。蛍の草原もあのときの空に似ている。だから、怖い。

その頃、ふたりは恋人同士というわけではなかった。
お互いに――嫌いではなかったけれど、かといって特別な存在というわけでもなかった。
フランソワーズはジョーに対して腫れ物に触るように妙に優しかったし、ジョーはというと、そんな彼女にいらいらして余計にあたるみたいだった。

それが、あの日を境に変わった。

フランソワーズはジョーにストレートに感情をぶつけたし、心配していることも隠さないし、心配をかけられると怒った。
ジョーはそんな彼女に最初は戸惑いつつも、徐々に心を開いていった。

そんな二人だった。

信頼関係はあるけれど、それはまだまだ恋愛感情には程遠く――だから、別れがきても平気だった。
またいつか会うことがあるかもね。そう笑い合ってお互いの生活に戻った。

けれど。

それでも、フランソワーズは夜空を見るのが怖かったし、流れ星なんて大嫌いだった。だから、夜になると窓を閉ざしカーテンをぴったりと引いていた。なぜそうしないと落ち着かないのか、自分でもよくわからなかった。

ジョーは四月がくるのが嫌だった。
もともと、「新しい年度」というのは好きではなかったが、桜の花びらが舞い散ると嫌な気分になった。
そして、これは今まで誰にも言ってなかったことだけれど――蒼い空と蒼い海も、見ると辛くなった。だからしばらくは見られなかった。大好きだったはずなのに。どうして辛くなったのかわからない。でも、ともかく――見なくなった。

それから数年が過ぎて、いま、ふたりは恋人同士であった。

ジョーは桜の花びらが舞い散る中に居ても平気になった。隣にフランソワーズがいるのなら。
フランソワーズは夜空が怖くなくなった。あの星はジョーではないし、彼を還してくれたのだから。同じく、蛍の草原もジョーが一緒にいるなら怖くなかった。

そんな事もあったね。
そんな事もあったわね。

お互いを見つめて。声に出して言うことはなかったけれど。

それまで、どうして離れて平気だったのかわからない。
今では彼がそばにいないと落ち着かないし、彼も彼女がいないと眠れない。

 

***

 

フランソワーズの手のなかで携帯電話が鳴った。「犬のおまわりさん」のメロディー。
慌ててフラップを開いて耳にあてた。いまこの部屋の主は不在のはずなのだから、部屋の中から物音がするなんておかしいのだ。誰かに聞かれて覗かれたりしたら、かなり恥ずかしいことになってしまう。寂しくてジョーの部屋にいたのかいって言われるに決まってる。そうしたら、どんな顔をすればいいのだろう?

「フランソワーズ?」

もしもし、と言う前に名を呼ばれた。頬が熱くなった。

「ジョー。あの、今ね」

ちょうどあなたのことを考えていたのよ。どうしてわかったの――

そうは言わなかったはずなのに。

「うん。・・・一緒だね」

 

 

 

***
ジョーの桜のお話は「桜闇」(桜シリーズ2008にあります)
フランソワーズの夜空のお話は「行かせない」ですが、再掲しておりません。すみません。蛍のお話は2008年8月の子供部屋あたりに。
「あの日を境に」変わったあたりのことは、2008年のジョー誕のお話になります。


 

7月9日   癖になる

 

週末のレースのため、ジョーがドイツに行ってから数日が経った。
今回もジョーは一緒に行こうと頑張ったが、フランソワーズは頑として譲らず日本に残ったのだった。
曰く、

「そんな癖をつけたら大変。私の生活が破綻しちゃうわ」

ということである。
しかし、ジョーにとって「フランソワーズと一緒にレース」というのは既に癖になっているのかもしれなかった。

――ドイツっていま何時なんだろう?

ジョーからは、着いたよと連絡があって以来、話していない。
とあるチームのF1撤退や、F1存続の危機等で忙しいらしい。もちろん、ジョーに何か関係があるのかといえばそうでもないはずなのだが、それでもレース界全体を震撼させる出来事には違いない。だから、やはり何かと忙しいのだろう。

フランソワーズは寝る準備をしてベッドに腰掛けていた。
既に照明は落としてあり、ベッドサイドの間接照明だけがぼんやりと周囲の家具を浮かび上がらせている。
携帯電話は手のなかにあった。しかし。

声が聞きたくなったら我慢しないこと。

そう決めてはあるものの、それでもやはり――電話をするのは躊躇われた。
だったらメールでも、と思うのだが、彼はそんなにマメにメールチェックをするひとではない。だから、何か送ってもサイアクの場合、帰国してから見ることもありえる。

・・・ジョー。

寂しいのか、そうではなくてただ恋しいのか。フランソワーズにはわからない。
恋しいから寂しいのか、寂しいから恋しいのか。それも、わからなかった。が、どちらでも良かった。両方の気持ちなのは確かだったから。

バレエのレッスンは続いている。だから、明日もちゃんと行くつもりだ。そうでなければ、日本に残っている意味がない。
いま寂しいと恋しいと思うのは、つい先日まで一緒にいたから――いすぎたから、その名残というだけで、きっとまたすぐに慣れる。
たぶん。
そうでなくては困る。

しかし。

フランソワーズは立ち上がるとそっと部屋を出た。パジャマ姿のまま。
そうして、ジョーの部屋の前に立つ。
ドアに手をかけ、一瞬だけ躊躇した。

でも。

どこかの部屋のドアの開く音がして、慌ててドアを開け身体をなかに滑り込ませた。後ろ手にしっかりドアを閉める。
ジョーの部屋は闇に沈んでいた。
閉めきっているので、空気もどこか淀んでいる感じがする。

「・・・ジョー」

――自分の部屋より、落ち着くのはどうしてなんだろう?

やっぱり、一緒にいすぎるのかな、と思った。

 


 

7月5日   朝型?夜型?

 

自分は決して朝型だったわけではない――と、フランソワーズは思う。おそらく、夜更かしもへっちゃらの、完全なる夜型人間だったはずだった。
しかし、既にその記憶は遠い。
何故なら今は、夜遅くに何かするよりも、とりあえず睡眠をとってから翌朝にするほうがよっぽど効率が良いし、やる気もおきるのだ。何より、眠いときに何かするなんて面倒くさくってやっていられない。
だからフランソワーズは夜12時になったら眠りたいし――眠いし、朝6時になったらもう起きたいのだった。
今日も朝6時に起床し、朝食を作り窓を開けて換気をし、草木に水遣りをして洗濯機を回し、そして後は――と考えていた。日曜日なので、掃除機をかけるのはお昼頃の方がいいだろう。まだみんなは寝ているし。
博士は既に起きていて、庭で盆栽の手入れをしている。研究と盆栽は意外に相性がいいのだそうだ。盆栽をいじりながら、気分転換にもなるし、意外なアイデアが生まれることもあるという。
フランソワーズは博士にごはんの用意が出来たと声をかけ、そして彼がテーブルに着くのを待って自分も椅子を引いた。
誰も降りてこない。
起こしにも行かない。

日曜日の朝食は博士と二人だけだった。

 

***

 

朝型になったといっても、それを実際に実行できるようになるまでにはかなりの時間が必要だった。
原因はジョーである。
とはいえ、彼は夜型でもなく朝型でもなかったから、そのへんは特に問題はなかった。
が。
敢えて言えば、そう――彼は「フランソワーズ型」だったのであった。
とにかく、朝でも夜でもフランソワーズがいればそれでいいようで、逆にいないと糸の切れたマリオネットもしくはネジの巻いてない時計・・・といった具合に、ともかく何もしない。
見かねた他の者が「お前はフランソワーズがいないと何にもできないのかよっ」と叱っても「うん」とひとこと言ったきり動かない。

何もできない、ではなくて――何もしない。なのよね。ジョーは。

洗濯機を回して、ランドリールームでひとりフランソワーズは考える。いったいいつからこうなってしまったのか。
そもそも、一番最初はそんなことはなかったはずである。
ジョーはどちらかというと夜型で、夜更かしも徹夜も全く平気、ともすれば一晩帰ってこないのも珍しくは無かった。
一晩のみならず、三日三晩ふらりと姿を消すこともあった。
二人の気持ちが通じ合うようになってからはそんなことは少なくなり、フランソワーズと一緒にいる時間が長くなった。
それは嬉しいことだったから、フランソワーズもジョーと一緒にいるようになった。それはもう、「お前らよく飽きないよな」と呆れられるくらい。
一緒にいたがるジョーと、それが嬉しい自分。
だから、無理などしてなかったし、ジョーが嬉しそうに笑ってくれるのが嬉しかった。ただそれだけであって、彼を甘やかしているなんて思っても居なかったのだ。

――甘やかしすぎたのかな。

フランソワーズに合わせて、夜は早く休むようになったジョー。実際に「眠る」までには時間が要ったけれど、それでも夜中に出かけることは滅多になくなった。
しかし。
かといって彼が朝早く起きるのかというとそうではなかった。そこだけは、どうあっても無理だった。
しかも、起きないだけではなく――

ひとが起きるのを邪魔しなくてもいいと思う。

ランドリールームの鏡に向かってため息をつく。
そう――邪魔するのだ。ジョーは。

彼女が隣からすり抜けるのが嫌なのか何なのか、とにかく絡みついて離さない。
最初はふざけているだけかと思ったフランソワーズだったが、後にそうではないことに気がついた。
無意識なのである。眠ったまま、彼はフランソワーズを離さない。
彼の腕から脱出するまで有に数十分を要するのだ。それはもう、脱出不能なミッションのように。
だから、今ではフランソワーズは縄抜けならぬジョー抜けの達人になっていた。

しばらくして、階段を駆け下りる音が響いて――それも尋常ではない音である――フランソワーズは再度ため息をついた。
その足音は、いったんキッチンに向かい、そしてリビングを通り、だんだん近付いてきた。
と、思ったら。

「フランソワーズっ!!」

必死の形相のジョーだった。Tシャツにジーパン姿である。

「あら、ジョー。おはよう」
「おはようじゃないよっ・・・いったい、いつの間にっ」
「んー、ジョー。静かにしてちょうだい。まだ寝てるひともいるのよ?」
「知るもんかっ」
「それ、ちょうだい」

手を伸ばすと、言われるままに手のなかのものを素直に寄越した。
パジャマである。
ジョーはいつしか、起きたら着替えて、脱いだパジャマを持ってランドリールームへ行くというのを躾られていたのだった。
しかしそれは何故か日曜限定だった。何故なのかはフランソワーズにはわからない。が、何度やっても日曜だけなのだった。

ジョーから受け取ったパジャマを洗濯機に放り込みながら、フランソワーズは思わず笑っていた。

「なに?何かおかしい?」

訝しげなジョーに、とうとうくすくす笑い出す。

「だって。・・・ちゃんと着替えて偉いなぁ、って」
「なんだよそれ。ひとを子供みたいに」
「あら、子供でしょう?――ほら、寝癖がついてる」

人工毛髪なのに何故寝癖がつくのかは永遠の謎であった。
フランソワーズが指差したところを押さえつつ、ジョーは腕のなかに彼女を捕獲した。

「ジョー、暑い」
「うるさい。いったいいつの間にいなくなったんだよ」
「さあ。何時頃だったかしら」
「そういうの、やめてくれって言ってるだろ。驚くんだからな。いなくなってて」
「だってあなた起きてたじゃない。憶えてないの?」
「起きてないよ。寝てたんだから憶えている訳がない」
「んもう。だからってあんな大きな音たてて降りてこなくてもいいでしょう?」
「だって、いなかったから」

唇を尖らせ拗ねるジョー。その顎を指先でなぞり、フランソワーズは微笑んだ。

「・・・おはようのキスは?」
「ん?」
「おはよう、って。・・・しないの?」
「・・・するよ」
「あ、でも待って。いい?「おはよう」の、キスよ。わかってるわね?」
「・・・・・・・・・・・・・・・うるさいなぁ」
「なあに?何か言った?」
「言ってないよ。わかってるよ、おはようのキスだろっ」
「そうよ」

軽く唇を合わせるだけの「おはようのキス」――の、はずだったのに。

「ちょっと、ジョーっ・・・」

――もうっ。ばか。

 


 

7月1日   夏の元気な御挨拶+新婚なふたり

 

「大変!お中元の手配をしてないわ!」

イギリスGPの帰りの飛行機の中。
フランソワーズの声にジョーは物憂げに片目を開けた。

「・・・お中元?」
「そうよ。日本の文化じゃない」
「・・・いいよ、別に」
「駄目よ!夏の元気な御挨拶なのよ!」

ジョーは我関せずという風に目を閉じた。が、フランソワーズに両肩を掴まれ揺すられ、諦めて両目を開けた。

「帰ったらすぐにやらなくちゃ間に合わないわ!」
「・・・いいよ別に、そんなの」
「駄目よ!もうっ、ジョーはいつもメンドクサがって何にもしないくせに」
「だって別にそんなの――」

言いかけて、ふとジョーはある事に気がついた。

「・・・ねぇフランソワーズ?」
「なあに?」

虚空を見据え、お中元を出す相手を指折り数えているフランソワーズ。

「そのお中元。差出人の名前は何?」
「――えっ?」
「博士?」
「ううん、違うわ」
「じゃあ誰」

するとフランソワーズの頬がみるみる染まった。

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・しまむら
「ん?聞こえないなあ」

消え入りそうな声で言うフランソワーズににやにや笑いを浮かべ顔を寄せる。

「だから、・・・・・・島村、よ」
「ふーん?」
「・・・もうっ、知らないっ。だったらジョーひとりでやって!」
「え。イヤだよ。全部任せてるのにさ」

「島村ジョー」名義のお中元。
それに深い意味はないのだけれど、それを手配したのが金髪碧眼の愛らしい女性であることは、夏の元気な御挨拶を受け取るほぼ全員の知るところだった。

中元・歳暮の差出人の名前。それが「島村ジョー」で手配されることに関してジョーに異存はない。
そもそも自分ではやらないからだ。全てフランソワーズに一任している。
もちろん、彼女は自分名義のものと博士名義のものも等しく手配している。
だから、ジョーの分の手配をすることは彼女曰く「ついでだから」ということらしい。

それら全ては二人にとって暗黙の了解事項なので、今更差出人の名前云々で照れるようなものではない。
ないのであるが、それでもやはり追及されると照れてしまうフランソワーズだったし、そんなフランソワーズを見るのが楽しいジョーなのだった。
だから、毎回ジョーは同じネタでフランソワーズをからかって遊ぶ。
それは、いつだったか「島村」名義でそういう手配をフランソワーズがしてくれていると知ってからずっとだった。
いい加減しつこいと思いつつ、からかわれるたび照れて赤くなってしまうフランソワーズは、差出人の名前を書くあるいは入力する時にくすぐったい気持ちになることをジョーに見透かされているような気がして落ち着かなくなる。
それも毎回の事だった。

「もうっ・・・イヤなジョー。そんな顔するなら、自分でやってもらうわよ」
「無理無理。僕にできると思う?」
「・・・思わない」

それはもう、全く思わない。

「だろ?」

思わないけれど、それを悪びれもせず言うジョーがなんだか憎たらしい。

「頼りにしてるんだよ。僕だって」

しかし、にやにや笑いを引っ込めて真摯な瞳で見つめられたら何も言えなくなってしまった。

・・・もう。本当にズルイわ、ジョー。

つんと横を向いたフランソワーズの髪にキスをして、ジョーは自分のシートに収まった。

 

 

***

 

 

しばらくして、フランソワーズは手を伸ばしてジョーの指先にそっと触れた。

でも何も起こらない。

いつもなら、すぐに手を引くか握るかするのに、今日は何のアクションもなかった。

――まさか、もう眠ったの?

いくら眠いとはいえ、ほんの数瞬で眠れるものだろうか。いやいや、それが出来るのが009である。
・・・と思いながら、背筋を伸ばして隣のシートを窺った。

ジョーは動かない。

フランソワーズは更に身を伸ばし、ジョーを覗き込んだ。

途端。

「・・・っ!!」

腰に腕が巻き付いて、ジョーの胸にぴったりと抱き締められてしまった。

「・・・!」

離して、と言おうにもジョーの胸で窒息しそうである。じたばたもがくと、ジョーが耳元で低く言った。

「静かにしないと迷惑だよ?」

確かに。
照明が絞られたビジネスクラスは、殆んどの客が沈黙の海に沈んでいた。
先刻から話しているのはジョーたちだけだった。
しかし、誰からも苦情がこないのは、二人が極限まで声を落として話していたからというだけではなく、おそらく、新婚カップルと思われているのだろう。その証拠に、向けられる視線は「しょうがないなぁ」という温かいものであったし、現にこうして親密な空気になっても、慎ましく無関心を装ってくれている。

フランソワーズの体温は上昇した。

「もうっ、ジョーったらダメよ、離して」
「誰もみてないって」
「でも」
「・・・寂しいからファーストクラスは嫌だって言ったのは誰だったっけ?」

そう。最初はファーストクラスに乗るつもりだったのだ。けれども、それだと二人の距離が開いてしまう。座席は並んでいても適度な距離が保たれているのである。
それが嫌だと言ったのは、確かにフランソワーズのほうだった。
本当はエコノミーのほうがより近いので良かったのだが、あいにく空いていなかった。だから、エコノミーよりは遠くファーストよりは近い二人の距離となったのだった。

「それは・・・そうだけど」

しかし、このままジョーの胸に抱き締められているわけにもいかない。しかも自分はシートを越境しているのだ。上半身はジョーの上で、下半身は自分のシートの中にある。なんとも不自然極まりない。

「もうっ・・・ジョーったら」

自分のシートで静かになったジョーに構って欲しくて、そうっと彼の手に触れただけだった。なのにネツレツに抱き締められるのは予想外であった。ほんのちょっと嬉しさが胸に広がったとしても、やはり場所柄を考えるとなんとも落ち着かない。
フランソワーズはジョーの胸に手をついて体勢を整えると、さっと彼の唇にキスをした。そうしてジョーが何かを言う前に体を引いて自分のシートに収まった。

ジョーは何も言わない。

ただ、フランソワーズの手がジョーの手の中にあるだけだった。
それだけでじゅうぶんだった。

今は。