子供部屋
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)

 

1月29日

 

フランソワーズの腕がひらひらと揺れる。まるで踊っているかのような腕の動きは――

「フランソワーズ。邪魔」
「いい加減にしてくれ。目がチカチカする」

極めて不評なのであった。

「あら、私は何にもしてないわよ?」

無意味に伸ばされた腕。妙なポージングで停止してみせる。

「・・・あのさ。朝ごはんくらいゆっくり食べさせてくれないかな」

見かねてピュンマが諭すように言う。

「ゆっくり食べればいいじゃない。別に急かしてないわよ?あ、それともおかわり?」

目の前に伸ばされた腕。それをじっと見つめ、ピュンマは箸を置いて深いため息をついた。

「・・・フランソワーズ。嬉しいのはわかったから。よく似合ってるし」
「でしょう?」

満面の笑みで乗り出すフランソワーズに苦笑しつつ、ピュンマは続けた。

「だから、そろそろしまったらどうかな。きみだって寒いだろう?」
「平気よ?」
「うーん・・・そうかもしれないけれど、見てるこっちが寒いんだよね」
「あら、ピュンマ。それは愛が足りてないからよ。いけないわ、ちゃんとしないと」

ピュンマは無言で箸を持つと食事を再開した。とても今のセリフにコメントする勇気はない。

「風邪ひくぞ、フランソワーズ」

見かねてハインリヒが声をかける。

「それに、そんなに四六時中つけているとそのうち壊すか失くすぞ絶対。そうしたら泣くだろう?だから、大事なものはちゃんと」
「大丈夫よ、絶対に壊さないし失くさないわ!だって、ジョーが買ってくれたんだもの!」

うふふ、と彼方を見つめて幸せそうに笑う。

「あのジョーがひとりで選んでくれたのよ?それも私のために!いやん、もう、みんなにも見せたかったわ、あのジョーの悩んだ顔。あ、でもやっぱり見せないわ、だってあの時のジョーは私のことだけを考えていたんだから、勿体無くて絶対に他のひとには見せたくないもの。私ひとりだけのジョーなの」
「・・・それはみんなわかってるし」

誰も見せろなんて言わねーよっ。

みんなの心の声はあちらの世界へ行ってしまっているフランソワーズには聞こえない。

「でもね、これはみんなに見せたいの。だってジョーが私のために選んでくれたのよ!これって凄いことなんだから!世界中に自慢して歩きたいくらいなんだから!」

・・・やりかねないな。確かに。

この心の声も当然彼女には聞こえない。

「行けばいいじゃないか。自慢しにどこへでも」
「ヤダ、ジェットったら!」

思い切り背中をぶたれたのはジェットではなく運悪くフランソワーズの隣に座っていたピュンマだった。
反動で箸が飛ぶ。

「そんなこと言われたら、本当に行きたくなっちゃうじゃない!」

頼むから行ってくれ。できればジョーと一緒に。

幸せ満載のフランソワーズがうっとり見つめる先は自分の腕。ジョーにもらったブレスレットであった。それを見せびらかすため、誕生日以降の彼女はノースリーブのニット着用の日々である。最初はみんな微笑ましく見ていたものの、それが延々と続くといい加減鬱陶しくなってくる。紅一点のフランソワーズが幸せそうなのは見ていて嬉しいものだったけれど、毎日飽きることなく延々と続く「自分のために選んでくれたジョー」についての講釈を聞かされるとなると話は別であった。

「それにしても気がきかねーな、アイツは。誕生日には指輪だろーが」

ジェットが意地悪く言う。
突然落とされた爆弾に一同は嵐が吹き荒れるのではないかと覚悟したのだった・・・が。

「あら、指輪はバレンタインの時って決まってるのよ」

さらりとかわしたフランソワーズであった。

 

***

 

「あら、指輪はバレンタインの時って決まってるのよ」

――え!?

半分まだ眠っているような状態で起きだしてきたジョーは、階段を降りている途中で聞こえてきた声に固まった。
みんなは既に食卓についているようで賑やかである。

ちょっと待て、フランソワーズ。

まるでそれが「当然」であるかのように言われたけれど、ジョーはそんな約束をした覚えはなかった。

「・・・」

誰かが何かコメントしていないかと耳をすますけれども、まるっきり何にも聞こえてはこなかった。
ジョーはゆっくりと階段を降りた。一歩一歩、確かめるように。そうして考えた。いったい何がどうなってそんな約束をしたことになってしまったのか。

・・・大体、指輪なんかいくつも持ってるくせに。

ペアリングは何組あっただろう?それ以外のファッションリングも。
ジョーは考えるだけで頭が痛くなってきたので、考えるのをやめた。何しろ彼女の持っている指輪は全て彼が贈ったものだったから。ねだられたものもあれば、ジョーがすすんで買ったものもある。これは「フランソワーズが誰か他のひとからもらった指輪をするのを見るなんて耐えられない」というジョーのワガママなジェラシーからきているので、ある意味自業自得といえるのだったけれど。
ともかく、そんなわけでいくつも持っているから、これ以上要らないだろうと思ったわけである。

「だって、このブレスレットとお揃いのがあるんだもの。それもペアで!凄いでしょう?」

何が凄いんだろう・・・と思いつつ、「ペア」という二文字にますます頭が痛くなった。

「――お前、本当にそれが気に入ったんだな」

呆れたようなハインリヒの声。

「ええ!だってジョーが選んでくれたんだもの!」

続くフランソワーズの嬉しそうな声に、ジョーはううむと唸った。
唸りながら階段を降りてそして――

「あら、ジョー。おはよう」

にっこり笑ったフランソワーズ。
うっすらピンクに染まった頬。
白い肩とすんなり伸びた白い腕。
そしてそこに誇らしげに光るブレスレット。

「・・・おはよう。フランソワーズ」

嬉しそうな彼女を見るのは好きだった。だから。

・・・まぁ、ペアリングもそう悪くないかもしれないな。

既に何組も持っていることは考えないようにした。

 


 

1月25日

 

「誕生日おめでとう」

フランソワーズを抱き締め、ジョーは優しく言った。それはもう、とても優しく言ったのだ。

「・・・フランソワーズ?」

ジョーは腕の中のフランソワーズの反応がないので、そうっと顔を覗きこんだ。先刻から彼女はジョーの胸に顔を伏せており表情は全くわからない。

「フランソワーズ?」

反応無し。
ジョーは小さく息をつくと抱き締めている腕をそうっと緩めた。どうやら眠ってしまっているらしい。
プレゼントも渡したかったのになあと天を仰ぐ。ジョーはフランソワーズの誕生日は「24日が全部過ぎてから」祝うことにしているので、プレゼントを渡すのも日付が変わってからだった。これはずっと前からそうしているので、フランソワーズもちゃんとわかっている。が、わかっているのに眠ってしまったようだったから、ジョーはちょっと拗ねた。

「・・・選ぶの、苦労したのに」

てのひらに載るくらいの小さな箱。傍らに置いてあるそれを目にしてため息が出た。
どんな顔するかなあって楽しみにしてたのに。

「ほんとに寝てるの・・・寝てます、ね」

大体、どうして途中で寝てしまったのか。いくら疲れているといってもそれはあんまりではなかろうか。
いやしかし、それもこれも自分のせいなのかもしれないとジョーは反省した。そしてフランソワーズをそうっと寝かせた。ふたりはずっとベッドの上にいたのであった。
ベッドカバーの上に広がる金色の髪を見るともなく見ながら、ジョーはなんだかやるせない気分になっていた。

まったく、どうして寝ちゃうんだよ。これからなのに。

それもこれも――フランソワーズが悪い。負けず嫌いの彼女のせいだ。自分はちらとも誘ってなかったし、そもそもそんな気はなかったのだから。

「で、結局途中なんだもんなぁ・・・」

ため息をつくと、傍らの白黒表裏一体のものを手に取った。

オセロゲーム。

ただ今第11回戦目であった。

 

***

 

ふたりで過ごした誕生日のあとは、お決まりのコース。日付が変わったら、プレゼントを渡してその後は親密な時間が始まる・・・はずだった。ともかく、例年はそういう流れだったから、今年だけ違うとは思いもしなかったのだ。

そろそろ寝る?という時間になって、ジョーが立ち上がった時、フランソワーズがオセロゲームをしようと言い出したのだ。なぜ突然言い出したのかわからない。最近、彼女がそれにはまっている様子もなかったはずだ。
ジョーは内心首を傾げながらも、相手をすることになったのだった。
そして――かれこれ2時間が経過した。
とうの昔に日付が変わってしまっているのに、フランソワーズがゲームをやめないものだから、ジョーはプレゼントを渡すタイミングを外しまくっていた。5回戦やればいいだろ、・・・じゃあ10回戦までだね。ええっ、もう一回やるの?
10回戦を終わったところで立ち上がり、フランソワーズを抱き締めながらプレゼントを渡してしまおうという半ば強引な計画だったのに。
なのに、あっさり11回戦に入り、長考しているフランソワーズにこれ幸いと作戦を敢行したのだった。が、まさか長考ではなく眠っていたとは。
それもがっかりだったけれど、それより何より、実は今日、彼女に指いっぽん触れてないのだ。いや、実際にはべたべた触ってはいたけれど、いわゆる「そういう雰囲気」にはならなかったのだ。
だけど、二人っきりだし夜は長いし、とジョーは達観していた。していたのだった・・・けれど。

「わざと負ければよかったかなあ」

10回戦中、ジョーは8勝していた。だからフランソワーズは意地になったのかもしれない。

「でもなぁ・・・手加減したらすぐばれるし、怒るし」

一度、手加減して散々な目に遭った。文字通り身も心も傷ついたので、それ以来、手加減はしていない。だから今回の彼女の2勝は、「自力勝利」なのだけれどもどうもそれも疑っているフシがあった。

「いったい何勝すれば気がすむんだよ。・・・プレゼント、要らないのかい?」

すやすや眠るフランソワーズの顔を眺めながら呟く。指先でちょんと鼻をつついてみたりしながら。

「嘘眠り・・・じゃ、ないよなあ、どう見ても」

ジョーに眠っている女性を襲う趣味はない。
だから結局、大人しく彼女の隣で眠ることになった。オセロゲームが憎かった。

 


 

1月23日

 

さて、どうしよう?
二人っきりで過ごすといっても、・・・ホテルなどは予約しそびれているし、なんだか味気ないような気もする。だから、僕のマンションでいい・・・よね?
あ、でもそうすると食事をどうするかっていう問題になるわけか。フランソワーズに作ってもらうわけにはいかないし。
デリバリー・・・となると、お寿司とかピザとかそういうの?うーん・・・それもなんだかなぁ。

とりあえずプレゼントは用意しなければ。と街へ繰り出したジョーであった。が、頭の中でこんなことを考えながら歩いていたものだから、目に映る店は全て脳を素通りし、結果としてどの店にも入らず通過してしまっていた。
けれどもそれにすら気付いていない。
薄ら寂しい地区にやって来て、やっとそれに気付いてUターンするというのを実はさっきから数度繰り返していた。
今ので何度目の往復になるだろうか?
さすがにちょっと落ち着こうと近くのベンチに腰を降ろした。
いったい自分はさっきから何をやってるんだろうか。
フランソワーズのお誕生日プレゼントが決まらないなら、それならそれで明日彼女と一緒に選べばいいのではないだろうか。

うん。それでいこう。

と、思うものの、それはそれでサプライズが無いなあとも思う。
ジョーの心はなんとも複雑だった。複雑すぎてこんがらがって、ああもうメンドクサイなあと投げてしまおうかとも思った。

いいじゃないか。忘れてた、ごめんって言えば。フランソワーズはにっこり笑って許してくれるよきっと。

そうして彼女の笑顔を思い描き――頬が緩んだ。そうして口元に笑みを浮かべたまま、よっこらしょとベンチから腰を上げた。

――まったく。僕もどうかしてる。
こういうメンドクサイことも――幸せだ、なんて思うなんて。

今まで、メンドクサイほど誰かのために考えることなどなかった。真剣に考える相手などいなかったのだ。
だから、誕生日なんて素通りだったし、それ以外の事でも――メンドクサイから避けてきたし、それですんでいたのだ。

これは好きかな、あれは気に入るかな、あっちのほうが彼女の好みのような気がする。そういえば、前にあれと似たのを買ってたからやっぱりああいうのが好きなんだろうな。あ、待てよ。てことはもう似たのをいっぱい持ってるってことだよな。だったら同じじゃないほうがむしろ新鮮なのかもしれない。いや待て。でも結局、好みじゃなかったら凄い迷惑なんじゃないだろうか。優しいから迂闊に捨てたりできないだろうし、イヤでもとっておくしかなくてそんなのありがた迷惑というか、それじゃあ困る。僕は別に困らせるつもりはないんだし。だったら、ああどうしたら。

そんな風に思うこと自体、なかったのだ。
だから、自分がたかがプレゼントひとつにこんなにうじうじ悩んで優柔不断になって決められないでいるというのは新しい発見だった。

でも。

こんな風に悩む自分が――誰かのためにたくさん考えて決められなくている自分が――嬉しかった。

大事だから。
喜んで欲しいから。
笑顔が見たいから。

だから、悩む。

それって凄く・・・幸せなことなんじゃないかな。
うん。
きっと幸せなんだろう。

メンドクサイことも。手間暇かけることも。その時間は全て、彼女のために費やされるものなのだから。
それに――そういう時間は苦痛ではなくて、・・・否、確かに苦痛ではあるのだけれど、どこかくすぐったくてこそばゆい嬉しい苦痛だった。
気温は低かったけれど、不思議に寒くない。心のなかがほわんと温かくなって、それが全身のすみずみに行き渡る。

そうしてジョーは再び何度目かの往復を続けるのだった。

 

***

 

「・・・ねぇ、フランソワーズ。今日はハリケーンジョーはお迎えに来ないって言ってたわよね?」
「ええ」
「送ってはくれたんでしょう?」
「うん。でも寄りたい所があって、どのくらい時間がかかるかわからないって言ってたの。だから、じゃあ今日は別々ね、って」
「ふうん・・・ま、だからこうして我々とお茶できたんだけど」

バレエのレッスンの帰りだった。
駅までの道を先刻までお茶とケーキでさんざんお喋りしていた友人たちと半ばじゃれるように歩いてゆく。
明日はフランソワーズのお誕生日だからとプレゼントも貰ったから、お茶とケーキの会は小さなお誕生会でもあった。

「で、例年通り、明日はふたりっきりで過ごすんだ?」
「うふふ、いいでしょう」
「あーあ。以前は『そんなことないわ』って真っ赤になってたくせに、今はぬけぬけと言うんだから困ったもんよねー」
「ほんと、幸せそうにほっぺた赤くしちゃってさ。何よそのヨユウの笑みは!」
「だって幸せなんですもの」
「はいはい。・・・で、つかぬことを訊くけれど、ほんっとうにお迎えには来ないんだよね?」
「ええ。今日は自力で帰ります」
「・・・だったら、さ。どうしてあそこにいるのかな」
「えっ?」

駅前通りは雑貨店やファッションビルが並ぶ区域で賑やかだった。行き交うひとも多い。その通りの向こう側のウインドウのなかに、見慣れた姿があった。

「すっごーい!どうして後ろ姿でわかるの!」
「だってファンだもの。ハリケーンジョーの」

じゃれあう友人たちを横目に、フランソワーズはじいっとジョーらしき人物の後ろ姿を凝視した。
見慣れた背中。見た事あるジャケット。跳ねた髪。と、寝癖。

「・・・寝癖、直したはずだったのに」

来る時気付いて、何度も撫でたのに。ジョーの髪って形状記憶繊維でつくられているのかしら。などなど思っていたら、注視している相手の横顔が見えた。やっぱり確かに島村ジョーそのひとであった。

「やっぱりお迎えに来たんじゃない?」
「実はずうっと待ってたんだったりして!」
「まさか。そんなはずないわ。・・・でも」

くるりと友人たちの方を向くと、皆心得顔で待っていた。

「はいはい。ここでさようならね」
「ごめんね」
「野暮ってもんでしょ。はい、いってらっしゃい!」

背中をどんと押され、フランソワーズはもうっと一瞬振り返り、けれども足は彼のほうへ向かって進んでいった。

 

***

 

そこはジュエリーのお店だった。
そんなトコロにジョーがひとりで来るなんて絶対に想像できないことだったから、フランソワーズはすぐに彼に声をかけず、少し観察してみようと思った。こんな珍しいことがそうそうあるわけはない。だったらしっかり、目に焼き付けておかなくては。
ジョーの立っているショーケースの対面にあたる辺りから様子を窺った。様子を窺って――思わず息をするのを忘れた。

そこにいたのは、幸せそうな笑みを浮かべながら、店員の示す品物を選ぶジョーだった。
照れて耳まで赤くなって、困ったときの癖の頭を掻くのを何回もしている。でも・・・嬉しそうなのだ。

・・・ジョー?

時期的にみて、これはたぶん自分へのプレゼントを選んでくれているのだろうと思った。いや、きっとそうであろう。そうでなければ彼が自分からこんな場所へ足を踏み入れるはずがない。何しろ、ふたりでやって来た時でさえ何とか逃げようと頑張っていたのだから。

・・・笑ってる。

そうしてフランソワーズが見ているなか、彼は二者択一に追い込まれているようだった。やっと絞り込んだ二品。
それをどちらにするべきか悩んで悩んで――フランソワーズの知るところ、既に30分は悩んでいた。
付き合っている店員も偉い。が、彼が冷やかしではなく買う気まんまんなのを知っているのだろう。

――どれにするのかしら。

見ようと思えば簡単に見えるけれど、それをしようとは思わなかった。プレゼントを買いに行ってくるなどとは言わずにいたジョーなのだ。きっと内緒なのだろう。だから、彼が何をどうするのか見てはいけないし、知ってもいけないわけで・・・
そうこうするうちに決まったのか、彼の目の前の店員が奥に引っ込み、ジョーが小さく息をついて顔を上げた。
まともに目が合ってしまった。

「・・・あれ。フランソワーズ?」

頬が上気しているジョー。

「どうしてここにいるんだい?」

少し恥ずかしそうな。でも平静を装って。

フランソワーズはぐるりと回りこんで彼の隣に立った。

「帰る途中なの。そしたら、ジョーの寝癖が見えたから気になって」
「え?寝癖?」
「ええ。直したはずなのに、ねぇ」

そうしてジョーの後頭部を優しく撫でた。

「お買い物は済んだの?」
「ああ。ちょうど今、ね」
「ふうん・・・いったい何を買ったのかしら」
「さあね」

照れたように笑うジョー。
フランソワーズは軽く膨れてみせると、ジョーの腕を取った。

「ね。せっかく会ったんだから、ゆうごはんどこかで食べていかない?」
「そうだね。どこか行きたいところはある?」
「ん。そうねぇ・・・」

上気した頬。嬉しそうな横顔。照れて赤くなった耳。
フランソワーズはそんなジョーに出会えたことが秘かに嬉しかった。
なにしろ、滅多にみられないジョーなのだ。

お誕生日のプレゼント、一日早く貰ったみたい。

そうしてそっと彼の腕にもたれた。

 


 

1月21日

 

――そういえば、今週末ってフランソワーズの誕生日じゃないか?

ジョーは突然、思い出した。思い出して――軽いパニックになった。何故ならば。

なんにも準備していない!

のである。
これは極めて珍しいことのようであり――そうでもなかったりするから、自分では判断できない。
ただ、とんでもなくうっかりしてたことだけは確かだった。

フランソワーズは何にも言わないだろう。レストランを予約するとか花束を抱えて現れるとか、そういう世間一般的なマニュアルのような誕生日の演出をジョーに期待してはいないから。
むしろ、そんなものより一緒にいる時間が欲しいわというのが常だった。
だから、毎年、フランソワーズの誕生日にはふたりっきりで過ごす。これだけは決まっていた。
今年もそれは暗黙の了解事項であったから、ジョーが今さら焦る必要は何も無いはずなのだが、それでもジョーは慌ててしまった。

忘れていたわけじゃない。うん、それは絶対に確かだ。ただちょっと・・・うっかりしてた。それだけなんだ。

別に責められたわけでもないのに、心の中で言い訳してみる。

本当だよ?フランソワーズ。今年も一緒に過ごすのは決まってるんだから――

 

 


 

1月18日

 

・・・びっくりした。

息が止まるかと思った。まさか日本にいるなんて思わなかったから。――想像だって、していなかったから。
最初の衝撃が去ると、胸の奥に懐かしい思いがわきあがった。甘くて切ない痛みを伴って。

――なんて言おう?
久しぶりね、元気・・・・とか?
それとも、ただ会釈してすれ違うだけでも?

フランソワーズは向こうから歩いてくるカップルをじっと見つめていた。憶えがあるのは男性のほう。栗色の髪の、優しい面差しの彼。ネオブラックゴーストのために召集される前、少しだけ付き合っていたひとだった。
どちらが振ったのか、どうして別れたのかは憶えていない。たぶん、ふたりとも――ただ幼かったのだろう。あるいはタイミングの問題だろうか。いや――おそらく・・・

それにしても凄いタイミングね。お互い日本にいるというのも、お互いカップルだというのも。

そう思ってフランソワーズはちょっと笑った。
本当に、パリの街でばったり会うならともかく、なぜ日本なのだろう?

「地球って大きいようで小さいのね」
「ん?」
「ううん・・・なんでもないわ」

フランソワーズは隣にいるジョーに微笑みかけると、彼の手をぎゅっと握り締めた。

お互いにカップルで。――すれ違うまで、あと5メートル。
目が合った。一瞬、心臓が跳ねた。どんな顔をしたらいいのか迷う。思わず顔を伏せた。
あと3メートル。
何か声をかけるべきだろうか。久しぶりねとか懐かしいわとか、日本にいるなんて偶然ねとか――
あと1メートル。
あと50センチ。
あと・・・

すれ違った。顔を上げる。相手もちらりとこちらを見た。胸の奥が痛くなった。

「あ、の」

何か――言うべきだろうと勇気を出して声をかけたのに。
足を止めたのは、彼の隣にいる女性のほうだった。

「なにか?」
「いえ・・・」

ちらりと彼を見る。彼もこちらを見ている。しかし。

「・・・いえ、なんでもありません。ごめんなさい」

そう言うしかなかった。
何故なら、懐かしい彼の瞳に浮かんでいたのは懐かしさなどではなく、不思議そうな――「君は誰?」という問いだけだったのだ。
そんなばかな。そんな――忘れるわけ――

「フランソワーズ?どうかした?」

すれ違っても足を止めたままのフランソワーズにジョーが心配そうに声を掛けた。

「今のひと、知り合い?」
「え・・・」

どうしてそう思うのという瞳のフランソワーズにジョーはちょっと笑った。

「いや、むこうも何だか知ってるみたいだったからさ。フランソワーズのこと。フランス人だよね?さっきの彼。あ、でもそのまま行っちゃったってことは人違いだったのかな」
「・・・ええ。人違いだったわ」

俯いて、そのまま顔を上げずに言う。

「間違いだったの。知り合いに日本でばったり会うなんてこと、ないもの」

人違いなんかじゃない。それだけは確かだった。なのに彼は自分をまるっきり無視した。会ったこともない全く知らないひとのような態度で。眉が動くとか口元がひきつるとか目元が少し笑うとか――そんな、ちょっとの変化も見えなかった。本当に全く知らないひとのように。

もしどこかで出会うことがあったら、挨拶くらいはしようよね。

そう言って別れたはずだったのに。
そんなものなのだろうか。そんなものだったのだろうか。自分と彼との付き合いは――淡い恋は。

「そうか。・・・まさかフランソワーズの昔のカレシとかじゃないよな、なーんてちょっと心配したよ」

バカだよなぁと笑うジョー。
その声がなんだか切なくて、でも嬉しくて、胸の奥にわだかまっていた懐かしさと痛みはすうっと消えていった。
残ったのは温かい思いだった。握り合ったジョーの手からこちらに伝わってくる温かさ。それが全身に広がってゆく。

「やだ。まさか、違うわよ」

しっかりとジョーの顔を見て言う。少しだけ心配そうな褐色の瞳が揺れる。

「もう、ジョーったらヤキモチやきなんだから!」
「別に妬いてなんか」
「うそうそ、妬いたでしょう、今」
「妬いてないよ」
「私にはわかるの」
「妬いてないって」
「わかっちゃうのよねぇ」
「妬いてねーよっ」
「あ、出た。不良言葉っ」
「ああもう、うるさいなあっ」

ジョーがフランソワーズの首に腕を回す。フランソワーズの笑い声。ジョーも笑う。
二人の笑う声が重なった。

 

「どうかしたの?」
「うん?――うん・・・なんでもない」

すれ違ってしばらくして、耳に入った楽しそうな笑い声。昔よく聞いた声。ちらりと肩越しに振り返ってみたけれど、もう既に雑踏に紛れて姿は見えなかった。
幸せそうな笑い声にひとつ頷くと隣の彼女の肩を抱き寄せた。

 


 

1月14日

 

バレエのレッスンの帰り道だった。
年が明けてからの初めての本格的なレッスン。いつもなら友人たちとお茶をしてから帰るのだけど、今日はみんな疲れてしまってすぐ帰って寝ようということになった。
いつもなら、シーズンオフで家にいるジョーが迎えに来る。が、たまたま今日は用事があって、フランソワーズはバスと電車を使ってレッスン場に来て、そうして帰るところだった。
ビルの間を吹き抜けてゆく風に首を縮こませながら足早に駅へ向かう途中だった。声をかけられたのは。
――知っている顔だった。
確か・・・前に合同で公演をした時の、むこうのバレエ団のひと・・・だったように思う。
ただ、むこうのバレエ団のある場所は決して近いところではなかったので、こんな所で会うなんて意外だった。

「お久しぶりです」

ともかく足を止めて会釈する。早く帰りたいけれど仕方がない。
青年は笑顔である。・・・名前を思い出せない。

「フランソワーズさん。すみません、呼び止めてしまって」
「え。・・・ええ、気になさらないで」

こちらの名前は知っている。

「今日はレッスンでしたよね」
「?ええ」
「実は・・・待ってたんです」
「え、そうなんですか?でしたら、こんな所でお待ちにならずにレッスン室に来てくださればよかったのに」

自分に用事があるのではなく、バレエ団に何か用があったのだろうと思いながらフランソワーズは笑顔で答えた。
しかし、相手の青年は慌てて手を振った。

「違います、そうじゃなくて、その――フランソワーズさんに用が」
「――私?」
「ええ」

なにかしら――とやや首を傾げると、相手の青年は頬を朱に染めた。

「ええと、・・・ここではちょっと・・・どこか、お茶でもしませんか」
「ごめんなさい。急いでいるの」
「そうですか」
「お話は長くなりそうなんですか?」

疲れているし、寒い。ビル風が吹き抜けてゆく往来での立ち話は勘弁して欲しかった。

「あ、いえ。すぐ終わります」
「そうですか」

ほっとして、ぎこちなく頬に笑みを浮かべた。

「なんでしょう?」
「あの」

青年はいったん口を閉じて息を整えた。

「いまお付き合いしているひとはいますか?」
「――えっ?」
「あるいは、好きなひと」

フランソワーズが呆然と相手を見つめていると、青年はやや口早に続けた。

「もし特別なひとがいるのでなかったら・・・僕とお付き合いしてくれませんか」

フランソワーズはただ呆然としていた。
相手は言いたいことは言った、後は答えを待つばかり――と、半分ほっとしたような、半分期待しているような、そんな目でじっとこちらを見守っている。

このひと・・・私のことが好きなのかしら。

そういわれたわけではない。ただ、交際を申し込まれただけである。だから返答に困った。
ただ「友人として交際する」のなら別に否やはない。が、「恋愛込み」では大いに困るのだ。
そこのところ、どうして日本人ははっきりさせてくれないのだろう。大体、「特別なひと」ってなんなのだ。そんなの、誰にだってひとりやふたり、あるいは数十人いるかもしれない。だから「特別なひとがいない」というのはまず有り得ない。なのに、「特別なひとがいなかったら」付き合ってくれと言う。全くもって意味がわからなかった。それに、特別なひとがいたら、他のひとと付き合ってはいけないのだろうか?そんなことはないはずである。

「あの・・・特別なひとはたくさんいます。・・・けど、お付き合いするのは別に構わないですけれど」
「ほんとですか!――あ、でも」

勢い込んだ青年は、瞬時に顔を曇らせた。

「特別なひとがたくさんいるんだ・・・そうか」

がっかりした風情だったから、フランソワーズはますますわけがわからなかった。いったい何を言いたいのか主旨がわからない。
いい加減、体が冷えてきたからもう帰りたいのに。

「たくさんいたら駄目ですか?」
「いえ!そんなことはないです。じゃあ、」

その時、突然フランソワーズと青年の間に遮蔽物が出現した。
目の前の青年が瞬時に見えなくなった。
見えるのは――

背中?

誰の?

金色に近い栗色の髪。無造作に跳ねている髪。

「ジョー?」

どうして彼がここにいるのか。今日は用事があるから送迎できないときっぱり言っていたはずなのに。
しかし、フランソワーズが呼んでもジョーらしき人物は何も答えなかった。
視界を阻まれ、彼の向こう側で何がおこっているのかフランソワーズには知るよしもない。なんとか見ようと背伸びしたり横から顔を覗かせようと頑張ったけれど、まるで背中に目があるかのようにことごとく背中に阻まれ、結局、見ることはかなわなかった。
その背中が消えて再び視界が広がったのは数分後。

「やっぱりジョーじゃない。いったい、どうしたの?」

無言でこちらを見つめる褐色の瞳の持ち主。

「ん――あら?彼は?」

ジョーの背後には誰もいなかった。影も形もない。

「・・・帰ったよ。もう二度とこういうことはしない、ってさ」
「こういうこと?」
「まちぶせ」
「でも用事があったのよ?」
「知ってる。君に交際を申し込んでいたんだろう?」
「ええ」
「で、君はオーケーした。と」
「そうよ。だって、構わないでしょう?お友達になっても」
「――友達」
「ええ」

ジョーはきょとんとしたフランソワーズに大きな大きなため息をついた。

「・・・フランソワーズ。君はやっぱり、もう少し日本語を知ったほうがいい」
「何よそれ」
「きみ、いま酷く個人的な交際を申し込まれていたんだぜ?」
「まさか。だって、ただ付き合ってください、って」
「好きなひとはいるかって訊かれなかった?」
「訊かれたわ。でも答えを待ってなかったから言わなかったわ」
「付き合ってるひとはいるのって訊かれたよね?」
「ええ。あと、特別なひとがいるのかどうかも」
「で、君は、別に構わないって答えたんだね?」
「ええ。だってお付き合いでしょう?」
「うん・・・そうなんだけどね。これって、日本語では「僕は君の事が好きだから、恋人として付き合って欲しい」っていう意味になるんだよ」
「え・・・えええっ!?」
「特別なひと、っていうのは恋人のことを指すんだ」
「うそっ」
「ほんと」
「だって、一度も好きなんていわなかったわ!」
「・・・あんまり言わないかなぁ。日本人は。こう・・・なんとなく察する、っていうか遠まわしに言う、っていうか」
「それじゃあ、全然わからないわ」
「うーん・・・だろうね」

ジョーは先刻の青年との遣り取りを思い出し、そっとため息をついた。彼と彼女の間には大いなる誤解という壁があったのだ。それをわからず、てっきりフランソワーズと交際できるものと有頂天になっていた彼に自分が言ったことはちょっと酷だったかなあと思った。もう少し優しくしてやっても良かったかもしれない。

「それより、ジョー?どうしてここにいるの?」
「ん?」
「ん?じゃないでしょう。それに――私と彼との会話、盗み聞きしてたでしょ!」
「してないよ。たまたま聞こえてきたんだ」
「嘘ばっかり!この耳はそんなことのために強化されてるわけじゃないでしょ」

ぐいっと耳を引っ張るとジョーは大袈裟に痛がった。

「痛くないくせに、大袈裟よ」
「ほんとだって。そんな怪力で引っ張られたら耳がもげる」
「もうっ!」

ジョーの胸に軽く肘打ちをしてフランソワーズは甘えるようにジョーを見上げた。

「でも――本当にどうしてここにいるの?」
「うん?用事が早く終わったからね。一緒に帰ろうと思って待ってた」
「あら、あなたもまちぶせしてたの?」
「ああ。そうしたら、いきなり告白されてるだろ。まったく――」

気が気じゃなかったよとジョーはフランソワーズを抱き締めた。

 


 

1月13日    愛の証明

 

「好き好き好き好き好きっ好きー、ふふふふふーん」

鼻歌まじりに部屋に入って来たフランソワーズにジョーは微かに眉間に皺を寄せた。

「・・・とんちの子?」
「違うわよ」

上機嫌で歌うように言いながら、フランソワーズはジョーの背後から彼の首筋に腕を巻きつけた。最強の戦士に対してこのポジションが許されるのは世界で彼女ただひとりだった。それ以外の者は無傷で立っていることはないのだ。
ジョーは巻きついてくるフランソワーズに気を留めず、パソコン画面に見入ったままだった。

「もう、ジョーったら日本人のくせに駄目ねぇ」
「うん?何が」
「日本の有名な愛の歌じゃない」
「・・・愛の歌?」

これはかの有名なとんち小坊主の歌ではなかったか。アニメの主題歌の。
ジョーの眉間の皺がやや深くなった。そんな彼に構わず、フランソワーズは乗り出すようにして彼の耳元にぐいぐい頬を押し付けた。

「ん、もう。――何見てたの?ネット?」
「あ、うん。まあね」
「仕事関係の?」
「違うよ」
「じゃあ・・・エッチなの?」
「――あのね」

やっとジョーがこちらに視線を向けたので、フランソワーズは笑みを浮かべた。

「ね、私が好きっていうさっきの歌を歌うからジョーは続きを歌ってみて」
「え」
「知ってるんでしょう?この歌」
「・・・知ってるけど」
「じゃあ、さん、はい。好き好き」
「ストップ」

ジョーはくるりと椅子を回しながら、背後のフランソワーズを引き剥がし膝の上に抱き上げた。

「僕は歌わないよ」
「あら、どうして?知ってるんでしょう?」

甘えるようにジョーの頬を指先でなぞりながらフランソワーズが言う。

「――知ってるけど」
「だったら簡単じゃない。この歌って愛の証明ができるっていうし」
「愛の証明?」
「ええ。好き好き・・・っていうフレーズの後に続く言葉を歌えたら、その恋人同士は愛し合っているっていう証明になるんですって」

ジョーはじいっとフランソワーズの目を見つめた。

「それ、誰に訊いたの」
「え?」
「・・・ああもう。また誰かにヘンなコトを吹き込まれたな」
「ヘンなコトじゃないわ。大事なことよ?日本では有名な愛の証明の歌だ、って」
「・・・それが間違いだっていうんだよ」
「いいじゃない。もし間違いだったとしても、私はジョーが言ってくれるかどうか知りたいわ」
「知りたいわ、って・・・」
「ね。言ってみて」
「う」
「早く」
「・・・」
「ジョー?」
「・・・」
「言えないの?」
「いや・・・」
「わかったわ」

言うとフランソワーズはするりと彼の膝から降りた。

「言えないのね。本当は私のこと、愛してないし好きでも何でもないから」
「ええっ?」
「――証明ができるっていうのは本当だったみたいね。いま、証明されたもの。ジョーは私のことなんて、仲間としか思ってない、って」
「フランソワーズ」

フランソワーズが身を翻すよりも一瞬早く、ジョーの手が彼女の腕を掴んでいた。

「イヤ。離して」
「フランソワーズ。これは愛の証明の歌なんかじゃないよ。ただのアニメの主題歌だ」
「そんなのどうでもいいもの。どっちにしても、ジョーは言えないんでしょう?だったら私にとっては同じことよ」
「・・・あのね」

ジョーは小さく息をつくと、俯くフランソワーズの顎に手をかけて自分の方を向かせた。

「フランソワーズ。いったいどのくらい僕を見てるんだい?」
「えっ・・・」
「わからないかなぁ。――あのね。僕は」

ジョーはそのままそうっとフランソワーズの唇に唇を触れた。ちょこっと触れ合っただけの軽いキス。
そうして至近距離で小さく言った。

「言えないんじゃなくて、言わないんだ。大事なことだから」

 

***

 

そういえば、前にもこんなことがあったわ。あの時もジョーは言葉では言わなかったんだった――とフランソワーズが思い出したのは、しばらくしてジョーが唇を離した時だった。

「・・・いつも実力行使なんだから」

小さく言うのに、ジョーが目で問いかける。

「ジョーは言葉にするより、こっちの方がたくさん喋るみたいね」
「うん――そうだね」
「自覚してるんだ?」
「うん。・・・たくさん言ってるじゃないか。いつもいつも」
「・・・そうね」

お互いに額と額をくっつけあって。

「・・・フランソワーズ」

掠れた声。熱い額。
フランソワーズの心臓が跳ねた。ジョーのこういう声は聞き慣れている。でも――今はそんな気分ではない。

「ね、ジョー。パソコンで何をしてたの」
「うん――メール」
「メール?」

首筋に唇をつけてくるジョーをかわしながら、フランソワーズはパソコンの方へ身を乗り出した。

「ふうん・・・」
「そんなの、どうでもいいじゃないか」
「だって続きを書かなくていいの?」
「いいよ。後で」
「駄目よ、書いて送ってしまったほうがいいわ。――ね?ジョー」
「・・・冷たいなぁ」

どうもフランソワーズはそういう気分ではないらしいと悟ったジョーが未練がましく彼女の首筋のあたりを見ながらため息とともに吐き出した言葉に、フランソワーズはちょっと唇を尖らせた。

「そんな言い方ないでしょう。だってまだお昼よ?この続きは夜にとっておいてもいいでしょう?」
「――夜?」
「そうよ。――でね」
「それって今夜?」
「もうっ、ジョー?」
「今夜?」

それを答えなければ一歩も引かないというようなジョーにフランソワーズは大きく息をついた。

「・・・今夜よ」

これでいい?と目を向けたフランソワーズにジョーはにっこり笑んだ。

「うん。わかった。――じゃあ、メールを書くよ」
「そうね。――ねぇ、ジョー?」
「うん?」

おとなしくパソコンに向かって続きを書いているジョーの背にフランソワーズは甘えるように言葉を投げた。

「・・・大事なことは言わないってわかったけれど、――わかっていたけれど、だったら「好き」は言える?」
「うん?」
「ジョーは私のことが好き?」
「うん。好きだよ」
「・・・こっちは大事なことじゃないから言えるの?」
「違う。――ちょっと待って・・・・ヨシ、できた。こっちは――言わないと拗ねるだろう?だから言える」
「ま。拗ねるって私が?」
「そう」
「・・・拗ねるのはジョーのほうが得意でしょう?」

私が言わなくなったら拗ねるどころじゃないくせに。と、思ったものの、それは胸の裡に留めてフランソワーズは続けた。

「じゃあ、こうしましょう。好きのところはジョーが歌うの。そして続きは私が歌うわ。それだったらいいでしょう?」
「うん?――好き好き好き好き好きっ好き?」
「あ・い・し・て・る」

どうかしらとフランソワーズはジョーを見つめた。ジョーはやや頬を赤らめたものの、

「・・・まぁ、言えなくはないな」

と言った。

「でも二回言うのは勘弁してくれ」
「んー・・・じゃあ、最初のフレーズの好きはジョーが言って、次の好きは私が言うわ。でも、次の「好き」のあとは自分が愛してるひとの名前を言うことになっているのよ。告白の歌だもの。ジョー、・・・言える?」
「うん。ノープロブレム」
「じゃあ、・・・好き好き好き好き好きっ好き」
「ふ・ら・んそわーず」

フランソワーズの頬がぱあっと染まり、それは耳まで染めていった。

「やだっ何だか恥ずかしいわっ」
「フランソワーズが言い出したことだろう?」
「だって・・・人前でそんな風に名前を呼ばれたら」
「・・・だって愛の証明の歌なんだろう?」
「そうだけどっ」
「証明になってるから、いいんじゃない?」

フランソワーズは顔を上げるとジョーの首筋に抱きついた。

「・・・ジョー。好きっ」
「うん。僕も」

 


 

1月7日

 

ギルモア邸の夜の食卓には、珍しく全員が揃っていた。
帰省した者もそうでない者も、それぞれがどんな年末年始を過ごしたのかを報告し合っている。フランソワーズの作った七草粥を食べながら、それは穏やかで楽しい時間だった。

「俺様はずっとクラブにいたぜ」
「相変わらずだな。年が空けてもそのまま成長してねーな」
「ふん。寂しく読書して年を空かしたヤツに言われたくないね」
「生憎だったな。今年はそうじゃない」
「へえ。女の家で過ごしてたとでも言うのか?」
「それはお前さんの想像に任せるよ」

ジェットとハインリヒの応酬がひと段落したところで、矛先がジョーとフランソワーズのふたりに向けられた。
矛先を向けたのは博士である。だから、誰も止めようがなかったのだ――と、後にピュンマは回想したものだった。
つまり、年末年始をギルモア邸から離れてジョーのマンションで過ごしたであろうこのふたりについては、務めて誰も言及しないことにしていたのだ。が、年末年始の報告をしようとしない二人が逆に気になったのか、博士が訊いてしまったのだ。

「ジョー、お前さんとフランソワーズはどうだったんだね?」
「はい。ええと――」

ジョーがやや顔を赤らめて無難な答えをひねり出そうとしたのも虚しく、フランソワーズが嬉々として返事をした。

「今年はずうっとジョーのマンションで過ごしました」
「ほう。そうかね」
「ええ。ずうっと二人っきりで。楽しかったわ」
「そうかそうか」

いつもはみんながいてなかなか二人っきりというわけにはいかないしなと博士はひとりで頷きながら目を細めた。
紅一点のフランソワーズが嬉しそうにしていると自分も嬉しくなるのだ。それはここにいる男性陣全員に言えることだったけれど。

「ええ!日本の寝正月というのを初めて経験しましたわ!」
「・・・寝正月?」

博士の眉間に皺が寄ったのと、食卓についていたほぼ全員がむせたのが同時だった。

「ずうっと寝て過ごすんですってね。私、意味を取り違えていたのをジョーが教えてくれたんです」
「意味?」
「はい。私はだらだらと何もせずテレビを見ておせちを食べて無為に過ごすことだと思っていたのだけど」
「・・・そういうのを寝正月と言うんじゃなかったかね」
「それが違うんです、博士」

頬を上気させてしゃべりまくるフランソワーズにジョーが腰を浮かせた。

「ふっ、フランソワーズ、おかわりもらえるかな」
「今お話の途中よ?ご自分でどうぞ。――でね、博士」

うわああ。

声にならない声を出す一同。
フランソワーズがジョーといったいどんな「寝正月」を過ごしたのか、彼女に説明させるわけにはいかない。
ミッションもかくやという真剣な表情で互いに目と目を見交わす男性陣。しかし、咄嗟に良策が浮かぶわけもなかった。
なにしろコンマ数秒の戦いなのだ。
がしかし、フランソワーズの注意をこちらに向けるような何かを思いつく者は皆無だった。

「日本の寝正月ってね、本当にずうっと寝て過ごすことだったんですよ」
「・・・寝て、過ごす?」
「ええ!だからずうっとジョーと一緒に・・・」

結局、ジョーが軽い加速でフランソワーズを攫っていくしかなかったのであった。
一瞬、風が吹いて――そして静かになった食卓。

「・・・ジョーはせっかちだのう。おかわりするのに待てなかったのか」

お茶をすすりながらしみじみと言う博士に全員が大きく息をついた。

「で・・・本当の日本の寝正月、誰か説明してくれんかの。途中だったから気になるわい」

もちろん、説明する者はいなかった。

 

 


 

1月4日 初日の出?

 

「ねぇ、ジョー。見て」

フランソワーズは彼方を指差した。

「初日の出よ。綺麗ね」

ジョーは一瞬、腕の中のフランソワーズを見つめ、そうして小さく唸った。

「・・・初日の出じゃないよ。もう4日だし」

それを聞いてフランソワーズはくるりと振り向くと、ジョーの耳を引っ張った。

「誰のせいで元旦に見れなかったんですか」
「いてて、わかったよ」
「いいのよ、今年初めて見る日の出なんだから、初日の出なの」

ジョーのマンションのベランダで、ふたり寄り沿って日の出を見ていた。
寒いから、くっついてブランケットにくるまって。

「・・・眠い」
「昨夜あまり寝てないからよ」
「寒い」
「それは冬だからしょうがないわ」
「・・・フランソワーズ、元気がいいね」
「それは気のせい」
「そう?」
「そうよ。もう誰かさんのせいでぐったりしてるんだから」
「・・・そういうコト言うかな」
「寝正月でしたから」

怒っているのだろうか、怒っているのかもしれない。とジョーはおそるおそるフランソワーズの顔を覗きこんだ。何しろ、彼女がこういうコトをはっきり指して言うのは珍しいのだ。

「なあに?」

蒼い瞳が煌く。

「いや。・・・綺麗だなあと思って」
「ええ。綺麗ね」
「・・・日の出のことじゃないよ」

え?と振り返ったフランソワーズの瞳には優しい褐色の瞳が映っていた。が、それも一瞬後には見えなくなった。
暫くは日の出よりもお互いのことで忙しい二人だった。

 


 

1月2日 寝正月

 

「・・・寝正月ってこういう意味じゃないと思うわ」
「そう?」
「ええ。・・・よく知らないけど、たぶん」
「きみは日本語をまだまだ知らないからわからないだろうけど、本来こういう意味なんだよ」

したり顔で言うジョーに疑いのマナザシを投げてからフランソワーズは体を起こした。

「そりゃ、私だって一緒にいられるのは嬉しいわ。・・・ふたりっきりだもの。でも、やっぱりこういうのってよくないわ」
「そう?」
「だって、・・・ちゃんと起きて着替えてごはんを食べなくちゃ」
「どうせまた脱ぐのに?」
「んもう、ジョー!」

フランソワーズは真っ赤になってジョーの胸を軽く叩くと、そっぽを向いて着替えを探した。
その辺に散乱している衣類のどこかに自分のものがあるはずなのだけれど、残念ながらジョーの腕が腰に巻きついてくる前に見つけることは出来なかった。

「駄目、離してジョー」
「やだ」
「だって、こんなの不健康よ」
「そうかな」
「そうよ」
「僕は別に構わないけど」
「私は構うの」
「せっかくふたりっきりなのに?」
「だって、食事くらいちゃんと・・・」

ジョーのマンション。確かにふたりっきりには違いなかったけれど、食べ物は備蓄されていたレトルトものやインスタント食品しかないのだ。

「お正月にインスタントなんて」
「じゃあ買いに行く?」
「ええ。ね。ジョーも一緒に行きましょうよ。初詣もいいわね」

途端に弾んだ気持ちになったフランソワーズだったが、ジョーのにやにや笑いを見つけ顔が曇った。

「・・・なによ、その顔」
「うん?――何を着ていくのかなぁと思ってさ」
「何ってお洋服・・・・あ!!」

そうなのだ。
ギルモア邸からフランソワーズを抱えて出てきた時、ジョーは怒りに任せて最高速の加速をしてしまっていたため、着いた時には素っ裸だったのである。ちゃっかり特殊繊維の普段着を着込んでいたジョーを除いて。

「ひどいわ、道理でこのへん探しても見つからないはずよ」
「今の今まで気付かなかったのかい?」
「え・・・だって、それどころじゃ・・・」

だんだん語尾が小さくなってゆくフランソワーズの腕を引いてジョーは再び彼女を胸に抱き締めた。

「嘘だよ。ちゃんとクローゼットにきみの服はあるだろ。着替えを置いてあるんだから」
「あ、・・・そうだわ。そうよね」
「でも逃がさないよ」
「別に逃げるわけじゃないわ」
「一緒にいたいって言ったのはきみだろう?」
「そうだけど。でも」

フランソワーズはじっとジョーを見た。褐色の瞳が揺らめいている。どこか不安そうな、落ち着かない色。

「・・・ばかね。――もう、いいわ。付き合ってあげる。アナタの寝正月に」

 


 

1月1日

 

「ん。熱も下がったわね」

フランソワーズがジョーの額に手をあてて嬉しそうに笑った。

「いまお粥を作ってくるから、待ってて」
「うん。・・・フランソワーズ?」
「なあに?」
「・・・いや・・・なんでもない」
「すぐだから。待ってて、ね?」

そうしてジョーの部屋からフランソワーズは姿を消した。
その間、ジョーはベッドに横たわりぼんやりと天井を見つめていた。
熱はとうに下がっており、全身にあった関節痛も倦怠感もすっかり消えていてからだは嘘のように楽になっていた。
これがフランソワーズの看病の賜物なのか、免疫機能が強化されたサイボーグだからなのか、ジョーにはわからない。どちらでもよかった。が、ここはやはり「きみのおかげだよ」くらいは言っておきたいところだった。
そうは思っていたものの、いざ口にするとなると妙に照れてしまってうまく言えなかった。あるいは、言わなくても気持ちは通じているんじゃないかなどと自分に都合よく解釈してみたりもして。
そんなことをつらつら思っていたところへフランソワーズが戻ってきた。

「ジョー。下でみんなと食事しない?」
「下?」
「ええ。お正月だし、せっかくみんな揃っているし」
「うん――そうだな」

体を起こしてみる。眩暈はなく、体も思うように動かせた。これなら大丈夫だろうと立ち上がった時、フランソワーズが胸にぶつかってきた。

「え。なに?」
「・・・良かった。本当に」
「え?」
「だって・・・私より熱が高かったんだもの。私のがうつったせいでジョーが苦しむなんて」
「・・・別に苦しくなかったよ」
「嘘よ」
「ほんとだって。・・・でも、心配してくれたんだ?」
「当たり前でしょう」

ジョーはフランソワーズに腕を回して優しく抱き締めた。

「・・・心配かけてごめん」
「いいの。もう治ったんだもの」
「うん――ね。着替えるからちょっと」

苦笑しつつ、フランソワーズを離そうとするがフランソワーズはジョーにぴったりとくっついたまま離れようとしなかった。

「フランソワーズ。みんなと食事するんだろ?着替えないと」
「・・・みんなと一緒なんてイヤ」
「えっ?だっていまきみが言ったんじゃないか」
「だって本当は今頃パリでふたりだけのはずだったのに」
「・・・ジャンがいるよ」
「お兄ちゃんは数に入らないの」
「あ、そう・・・」

さて、どうしたものか。

「・・・ともかく、いったんみんなのところへ行こう?」
「でも行ったらきっと、ずうっと宴会が続くわ。そしてジョーはみんなと一緒に酔っ払うのよ」
「病み上がりなんだから飲まないよ」
「そんなの、信じられないもの。みんなにジョーをとられちゃうわ」
「頃合を見て抜けるよ」
「そういうの下手くそなくせに」

ジョーはううんと唸った。確かに、「宴会の途中でうまく抜ける」というワザはジョーにとって難度の高いものであり、今まで成功した試しがないのだった。

「でも、下でみんなと一緒にって言ったのはきみだよ?」
「ええ」
「なのに行きたくないんだ?」
「そうよ」
「矛盾してるよ」
「わかってるわ。でも――よく考えたら、ジョーを独り占めできないじゃない」
「・・・今まで独り占めしてたじゃないか」
「そうだけど、それとこれとは違うのよ」
「うーん。でも、顔くらい出してもいいんじゃないかな」
「だから、顔を出したら最後だって言ってるのよ、わからないの?」
「でもみんな揃ってるんだし」

フランソワーズはジョーの胸を押すようにして離れた。

「わかったわ!ジョーは私と一緒に過ごすのはイヤなのね!」
「そんな事言ってないだろ」
「今までずうっと一緒にいたから、飽きちゃったんだわ!」
「ええっ?なんでそういう話になるんだよ」
「知らないっ。ジョーのばか!」

そのままフランソワーズは部屋を飛び出した。
自分でも矛盾した要求をしていると思っているが、感情は納得してはくれないのだ。
みんなと過ごすのもいいけれど、ジョーとふたりだけで静かに過ごすのだっていいではないか。ジョーはどうしてそれをわかってくれないのだろう。
大体、男ばっかりの家なのだから、一同が会したら大宴会になるに決まってるし、いつ終わるとも果てないのだ。
つまりどんちゃん騒ぎが三日三晩続くといっても過言ではない。それに博士も含まれるのだから、良識ある判断を下す者がいないのだ。フランソワーズが何を言ったって、誰も聞く耳持たないし、それよりお前も飲めとさんざん絡まれるに決まってる。以前そういうことがあったからわかっているのだ。

――ジョーのばか。もう知らないっ。だったら私もアナタのことなんか知らないわ!

そうして足音も荒くキッチンに戻った。

 

***
ピュンマ様部屋へ続きます。