子供部屋
(新ゼロなふたりの日常です)

 

10月15日  おまじない

 

「えっ・・・呪術?」

穏やかじゃないなあとジョーは振り返った。

「違うわよ、お・ま・じ・な・い」

対するフランソワーズは可愛らしく頬を膨らませた。テーブルの前に広げているのはおまじないばかりを集めたという雑誌。
ジョーは、普通はそういうものは中学生が対象ではないかと思うのだったが、それを言うとますます膨れるだろうから黙っていた。

「おまじないって、つまりは呪術だろう?」
「だから違うの。願いごとが叶うのよ」

やっぱり呪術じゃないのかなぁと呟くジョーをよそにフランソワーズは誌面に視線を戻した。

「ええと・・・恋が叶うおまじないは――」

恋が叶うおまじない?

「そ・・・」

そんなの必要ないじゃないかと言い掛けたジョーだったが、真剣に文字を追うフランソワーズに何も言えなくなってしまった。
ジョーにしてみれば、フランソワーズの恋の相手とは即ち自分である。しかも、気持ちは既に通じ合っているのだから、今さらおまじないなどする必要性が見つからない。
が、しかし。
ジョーはあることに気付いて愕然とした。

――他に好きな奴がいるのか?

あっけらかんと「恋が叶うおまじない」などと言っているフランソワーズだから、そんなに深刻な話ではないのだろう。もしも本当にそういう相手がいて片思いしているというなら、何もジョーの目の前でそういう話をせずともいいわけなのだから。
しかし。

――僕にそれとなく伝えているのだろうか。

面と向かって他に好きなひとができたなどと言えないから、こういうまわりくどい手段で自分に伝えようとしているのではないだろうか。
ジョーはそう思った。そしてなんだか凄く悲しくなった。
目の前で別れを伝えることをせず、遠まわしに思い人がいると悟らせる恋人。
フランソワーズはそんな子だったのだろうか。
ジョーは、フランソワーズは他に好きなひとができたらちゃんとそう告げる子だと勝手に思っていた。しかし、ジョーのそんな勝手な思いはフランソワーズをただ崇めていただけの幻想に過ぎなかったのかもしれない。

そんなジョーの胸中を知らず、フランソワーズは楽しげだった。

「ええと、月夜の晩に――まあ!見てジョー。ちょうど月夜だわ!」
「・・・そうだね」
「さっそく試してみなくっちゃ!」
「・・・うん」

ジョーは爪先を見ながら適当に答えた。なんだか膝に力が入らない。世界が崩れてゆくようだった。

「じゃあ、ちょっと失礼」

謳うようにフランソワーズが言ったと思うと、ジョーは激痛を感じ顔を上げた。

「いてっ・・・何だよ一体」
「髪の毛を一本もらっただけじゃない。そんなに痛かった?」
「髪の毛?」
「ええ。おまじないに必要なの。好きなひとの髪の毛」
「ああ・・・そう――え?」

フランソワーズはジョーの髪の毛を手にベランダに出ていた。

「ちょっ・・・フランソワーズ?」

ジョーは混乱していた。まったくもって意味がわからない。
大体、好きな相手が自分だというなら、そもそも「恋が叶うおまじない」など必要ないではないか。
なのになぜ――?

――やっぱり呪術に違いない。

おまじないなんて可愛く言うから危うく騙されるところだった。髪の毛が必要だなんて、呪術以外の何だというんだ。
もしかしたら呪術の練習のつもりなのかもしれない。

ジョーはそういう結論に達し、月の光のなかにいるフランソワーズに目を遣った。今にも水を張ったコップに髪の毛を浮かべようとしている。

「ちょっと待った!」

ジョーはフランソワーズの手首を掴んだ。

「ひとを練習台にするのはやめてくれ」
「あら」

フランソワーズは悪びれずに小首を傾げた。

「大体、なんなんだよ恋が叶うおまじない、って。本当は何の呪術なんだ」
「呪術じゃないわよ」
「いいや、そうに決まってる」
「ジョーを呪術の練習台にするわけないでしょ」
「それは・・・そうかもしれないけど」

アヤシイもんだ、とジョーは胸の裡で思う。

「心配した?」
「えっ?」
「私が誰か他のひとを相手におまじないをするのかと思って」
「――別に」

月の光のなかでもジョーの頬がみるみる染まってゆくのがわかった。
フランソワーズはそれを満足そうに眺めると、掴まれたままの腕を振り解いてジョーの首になげかけた。

「凄いわ、このおまじない。もう利くなんて」
「えっ?」
「本当はね――」

フランソワーズはジョーの耳元に唇を近づけて囁いた。

――恋人ともっと仲良くなれるおまじないなのよ。

 


 

10月10日 君に嫌われたいF<終>

 

「ジョー。泣かないで」

フランソワーズはジョーの髪を撫でた。
でもジョーは何も言わず、フランソワーズの肩に顔を埋めたままだった。

全てが終わった後で。
背を向けようとするジョーを引きとめ、抱き締めた。
最初は抗っていたジョーも優しく背を撫でるフランソワーズに気持ちが落ち着いてきたのか、そのまま彼女に抱き締められるにまかせていた。彼女の肩に顔を埋めて。
いま彼がどんな顔をしているのか、どんな思いを抱えているのか、フランソワーズには推測するしかなかったけれど、でもおそらく泣いているであろうことは当たっていると信じていた。

「ジョー」

フランソワーズはジョーの髪を撫で続ける。

――本当に、ばかなんだから。

心中ため息をつきつつも。呆れつつも。それでも彼を嫌いになんてなれないのだ。なのにどうして彼にはそれがわからないのだろう?

――ねえ。
何を怖がっているの?

私があなたを嫌いになるかもしれない未来?
それがあんまり怖いから、いっそのことさっさと嫌われたいなんて言わないでね。

怒るわよ?

嫌いになんてならない。

嫌いになんてなれない。

大好きなの。

なのにどうしてそれがわからないの。
わかってくれないの。

わかってもらえないのは私のせい?
私の何かがあなたを不安にさせているの?

フランソワーズの心が波立ち始めたとき、ジョーが顔を上げた。フランソワーズの予想通り彼の顔は涙で濡れていた。

「・・・フランソワーズ」

声も弱々しくしゃがれている。
その情けない声と言い方にフランソワーズはちょっと笑ってしまった。

――まったく。王子様とか音速の騎士とかかっこいいことばかり言われているのに。

「泣き虫」

笑いながら言ってみる。

「おばかさんね、もう」

ジョーの答えはない。ただ視線が左右に彷徨う。
だからフランソワーズは彼の頬を両手で挟みこんで自分のほうに視線を固定した。

「本当にばかなんだから」

しかしジョーはフランソワーズの目を見ない。

「フランソワーズ、ご」
「謝ったら許さないわよ」

ジョーは黙る。

「何か悪いことでもしたの?だったら聞いてあげなくもないけれど」
「・・・それは」
「でも言っておきますけれど、私は何か悪いことをされた覚えなんてないですからね」
「・・・声が怒ってる」
「ジョーが隠し事をするからでしょう」
「してないよ」
「いいえ、してました」
「・・・やっぱり怒ってる」
「怒ってません」
「・・・丁寧語になってる」

フランソワーズは軽く肩をすくめると、改めてジョーの顔を引き寄せた。

「そうね。私の気持ちを疑ったことやわかってなかったことに関してはものすごーく怒っているかもしれないわね」

ジョーが口を開いて何か言おうとするのを遮るように素早く続ける。

「でもね。間違えないでちょうだい。ジョーが私を一方的に好きで私が仕方なく付き合ってあげているだなんてちょっとでも思っていたら、勘違いも甚だしいわ。だって、私がジョーを選んだのよ?私がジョーを一方的に好きなの。だからジョーは、紅一点で可哀相な私を無下にできなくてしぶしぶ付き合ってくれているだけなの。わかった?」
「ちがっ」
「違わないわ。たった9人しかいない中で、女は私ひとり。よりどりみどりのなかからあなたを選んだのよ。どうしてもっと自信を持ってくれないの」
「だっ」
「だってじゃない。本当よ?私はジョーがいいの。私があなたを指名したの。――だから本当のあなたの気持ちはよくわからないわ、未だに。だって本当はただの情けでこうしているだけかもしれな」
「そんなわけないじゃないか!」

ジョーがまっすぐにフランソワーズを見た。
燃えるような双眸。
挑むようなその瞳にフランソワーズは満足そうに頷いた。

「そうでしょう?疑われたら悲しいし腹がたつでしょう?――私も同じよ?」

 

***

 

「ほんと、ジョーったら意外に怖がりさんね」
「うるさいな」
「弱虫」
「ふん」
「泣き虫」
「・・・」
「認めるんだ?」

唇を尖らせたままのレーシングスーツ姿の男を見上げる。

鈴鹿サーキットのパドックであった。
今日はF1の日本グランプリが開催される。

「ふふ。泣いてもいいけど、それは私の前だけにしてね」
「――うん」
「その代わり、私もあなたの前でしか泣かないわ」
「うん」
「私はどこへも行かないわ。ここであなたが戻ってくるのを待っているから」
「うん」
「だから安心して走ってきてね」
「うん。一番で戻ってくるよ」
「はい。いってらっしゃい」

いつものように送り出し、いつものようにその背を見送って。


――いつかどこかへ行ってしまうのはあなたのほうよ。


そんな思いが去来した。
彼は彼の愛ゆえにフランソワーズのために命を落とすだろう。ならば、いつか自分のほうから見限って――見限ったふりをして彼を解放してあげることが彼自身の幸せのためにはいいのかもしれない。

ジョーが自分を嫌いになって離れてくれれば、そのほうがきっと彼は幸せになるだろう。

――いつか。

あなたは私を嫌いになる。――そうであってほしい。

 

「ジョー!待ってるから!」

その声を背で受けたジョーが右手を上げて応えた。

「一番先に帰ってきてね!」


私は――あなたに嫌われたいのかもしれない。

 

 


 

10月9日 君に嫌われたいE

 

君の熱を感じたくて、僕は君を抱いた。
身勝手な本能に導かれるままに。

その時の僕は、自分のことしか考えていなかった。
君が何を思いどう感じているのかよりも、自分が大事だった。

君が何を言おうと何を訴えようと何も聞こえなかった。
聞きたくなかった。

そんな身勝手に抱いて、抱きつくして君の熱を取り込んで、そして無理矢理押し付けて。


僕を嫌いになればいい。


意地悪な気持ちで願っていた。

僕は君が思っているようなニンゲンじゃない。
そんな男じゃないんだ。だからほら、こんなことも平気でできる。君をモノのように扱って。自分の欲望を満たす事しか考えない。

これが僕の本当の姿だ。

わかっただろう?

 

 

***

 

 

たぶん、ジョーは気付いていない。
おそらく考えもしないだろう。

いつもどこか自信がなさそうで。そのくせ、ひとこと「任務」となると大胆になる。大義名分を作るのも考えものよね。
もちろん、まっすぐこちらを見てくれるのは嬉しいけれど。

でも、私はいつかどこかへ行ってしまうんだろうとか、いつか僕を嫌いになるんだろうとか、卑屈な思いを胸に抱えている。

どうしてそう思うのか。
いつか、ちゃんと訊いてみようとは思うけれど、答えてくれるかどうかはわからない。

孤独に慣れてしまったひと。
だから、もしかしたらまた孤独に戻りたく思うときがあるのかもしれない。

でも私はそれを許さない。

好きという言葉は簡単に相手を縛ってしまうけれど、だからこそ私はその言葉を使う。


だって、私のほうがもっと好きなんだもの。

あなたを逃がしてなんてあげない。

 


***

 

どうすればフランソワーズにちゃんと嫌われることができるだろうか。
そう思っていたジョーはフランソワーズの不意打ちともいえる答えに混乱し、パニックになった。
ずっとずっと考えていた。
本当に嫌われる前に――その前に――自分の心の準備ができている時に嫌われてしまいたいと。
不意打ちで別れを告げられるのは辛すぎる。でも、自分の意志で彼女に嫌われるのならそんなにダメージはないだろう。
そう思っていた。だから、私も好きよなんて言われてしまうとくじけそうになる。そんな自分が怖かった。
だから。
先刻まで優しく抱き締めていたフランソワーズをわざと――乱暴に扱った。
それは不本意に間違いなかったけれど、フランソワーズにそんなことをする自分なんて唾棄すべき最低の男だと思ったけれど、それでもどうしようもなかった。
ただ、乱暴に抱き締めてもちっとも楽しくなんかはなく、心に血の雨が降るようだった。
乱暴にされているフランソワーズはいまどんな気持ちでいるのだろうか。そう思うだけで辛くて仕方ないのに、それでも――やめる勇気がでなかった。
こんな自分なんかさっさと嫌われてしまえばいい。二度と顔を見たくないといわれるくらいに。そうすれば、いつかくる別れを怖がる必要もなくなって、自分には憂えるものなどなにもなくなる。何故なら、フランソワーズに二度と会えなくなることがいまの自分にとって一番怖いことだからだ。それを乗り越えてしまえばきっと――恐怖も不安も自分のなかからなくなるだろう。
ただ、他のものもなくなってしまうだろうけれど。
ジョーはわざとそこは見ないでいた。
自分がフランソワーズを失うことによって人間ならざるものになってしまうのなら、それでもいいとさえ思った。
どうあっても自分はサイボーグであるし、そんな自分を嫌いになって、顔も見たくなくなって、二度と召集に応じなくなれば。そうすればフランソワーズはサイボーグとしてどんな悲しい思いもしなくてすむようになるのだ。今まで通りの平穏な生活に戻れる。
以前、パリで行っていた普通の人間に戻りたいという彼女の思いを叶えることができる。
だから、自分を嫌いになって二度と会う気持ちにならないでくれれば一石二鳥だと思った。
自分は怖いものがなくなる。
そしてフランソワーズは幸せになる。


――僕を嫌いになればいい。

そのほうがきっと、君は幸せになる。

 

***

 

先刻までの優しいジョーとはうってかわって突然乱暴するかのように荒々しく抱き締める彼にフランソワーズは抵抗しなかった。
もちろん、急な変貌に驚いてはいたものの――わざと顔を背けているジョーの瞳を一瞬捉えたときに、わかってしまったのだ。
彼が楽しんでしている行為ではないということに。
ならばなぜやめないのだろう。
そう思った。
そしてすぐに答えはでた。
それは、自分がジョーに「やめて」と言わないからだ。
おそらくジョーはフランソワーズがやめてと泣いて頼めばすぐにでもやめるだろう。そうするのはたやすいことだった。
しかし、そうしたらすぐにジョーは体を離しフランソワーズに背を向け――そのまま去ってしまうだろう。永遠に。
だからフランソワーズは何も言わなかった。
抗うこともなかったし、泣くこともなかった。

ただ、――悲しかった。

ジョーが離れようと言ったことと、先刻の告白とは全て繋がっているのだ。
だから、おそらく――

――ジョーは、私のことを好きだから離れようと言った。

普通は好きなら離れない。
けれども特殊な考え方をするジョーにはその理論は当て嵌まらない。
そのひねくれたメンドクサイ思考によって導き出されたのはおそらく・・・

嫌われるのが怖い。

だから、不意打ちで「嫌い」と言われるより先に、わざと嫌われてしまおうとしている。
それがわかったから、フランソワーズはただジョーの好きにさせた。いま、平気よだの大丈夫よだのと言ったところで彼には何も届かないだろう。それに、乱暴にすぎるけれども、それでも――細心の注意を払ってくれているのはわかる。
驚いたし戸惑いもしたけれど、それでもジョーはフランソワーズを身体的に傷つけようとはしていないのだ。

されるがままに、それでも自らジョーを抱き締めてフランソワーズは思った。

後で、全てが終わった後でちゃんと伝えよう。
彼に自分の気持ちを。
本気の気持ちをちゃんと。

大体――ジョーは自信がなさすぎる。どうして自分が彼を嫌いになったり彼の元を去ったりなどと考えたりするのだろうか。
そんなびくびくする必要なんかないのに。

フランソワーズは、ジョーが自分の気持ちを全く信じてくれていないことが悲しかった。

 


 

10月7日 君に嫌われたいD

 

僕はフランソワーズが好きだけど、フランソワーズはどうなのか僕は知らない。
とはいっても、普段一緒にいるときが多いし、キスしたりそれ以上のことだってするから、たぶん僕のことを好きなんだろう。
自信はないけれど、きっと。たぶん。

根拠はある。

フランソワーズは好きでもない男とどうにかなるような子ではない。
そういうことはしない。

それだけは確信を持って言える。

好きでもない男とどうにかなるような子ではないから、僕とどうにかなっているということはつまり、僕はフランソワーズに好かれているということになる。もちろん、論理的な帰結でしかないのだけれど。

彼女が僕を好きと声に出して言ってくれたこともある。
ただ、言葉にされた気持ちをそのままの言葉通りに信じてもいいのかどうか、残念ながら僕にはわからない。

今まで他人の言葉を信用したばかりにいろんな目に遭った。だから、むしろ真実は言葉にすれば価値を失うものなんだろう。
だったら、何も言わないほうがいい。
言ったそばから消えてゆく言葉なんてどんな意味があるのだろう。


だから。

僕は今こそ言う。


「フランソワーズ、好きだよ」


眠っている耳元に小さく言うだけというなんとも情けない告白だけど。

でも・・・これで。
僕の気持ちは音になって空気に溶けて消えてしまった。もうこの言葉が真実なのかどうか確かめる術は無い。

あとに残るのはこれだけだ。


僕を嫌いになれ。フランソワーズ。

 

***

 

「少し離れよう」と言われたのにもかかわらず、私とジョーは一緒にいた。
いつもと変わりなく。

だから私はますます意味がわからなくなってしまった。

いったいジョーは何が言いたいの?
何をしようとしているの?
私に何を求めているの?

本気じゃないのはわかっているから、絶対に間違えない。
ジョーが私と離れたいなんて嘘。そんな気はさらさらないのに決まってる。

でも・・・だったら何故?

わからないまま抱き締められて、わからないまま一緒に眠る。
そんな夜が続いた。
悔しいけれど、ただそれだけの事で安心してしまう私はやっぱりどうあってもジョーのことが好きだった。
彼の匂い。彼の肌。彼の吐息。彼の鼓動。それらを抱き締めて眠るのは、何ものにも替え難く、この権利だけは絶対に誰にも譲りたくは無い。
もしもジョーが「離れよう」と言った日から、本当に離れていったなら私はおそらく今よりもっとパニックになっていただろう。
まさか本当に離れるなんて思ってもいなかったから。
だけどやっぱりジョーは離れるなんてことはなかった――肉体的には。
精神的にはもしかしたら、私とずいぶん離れてしまっているのかもしれないけれど。
それはそれで怖いけれど、でも――たぶん、離れてはいないはず。

今までと何も変わらない。
だから今夜も変わらないはずだった。ジョーの告白を聞くまでは。


「好きだよ。フランソワーズ」


小さな声。あっというまに空気に溶ける。

たぶんジョーは私が眠っていると思ったのだろう。
でも残念でした。私は起きていて、ちゃんと聞いてしまった。
彼の「離れよう」を解く鍵であろう告白を。

 

***

 

 

「・・・私もよ」

フランソワーズは目を開いて至近距離にいるジョーをじっと見つめた。
彼女が眠っているとばかり思っていたジョーは不意を衝かれて動けなかった。

「・・・起きてたのか」
「ええ」

フランソワーズと決別するための告白だった。
しかし、あっさりとそれを彼女に聞き取られ、しかも返事までされてしまった。おそらくジョーの思惑とは全く違う方向に。

――僕を嫌いになれ。フランソワーズ。

そう念じて言った。
そして、どうやったら彼女にちゃんと嫌われるのだろうかと思案していた。その不意を衝かれたのだ。
迂闊だった。

いっぽうのフランソワーズは、目の前のジョーが明らかに動揺しているのを見て心が波立った。
なぜ私も好きよと答えて動揺されなければならないのだろう。
なぜ困ったような顔をするのだろう。
ジョーがフランソワーズの彼に対する気持ちに自信が持てなくなってしまっているのではないかと推測し、だったらちゃんと彼にわかるようにすればいいのだと思っていた。
だから、彼からの告白はちょうどよかったのだけど。

――いいえ。駄目よ、フランソワーズ。

波立つ自身の心を叱咤する。
目の前の彼の姿に心を乱されてはいけない。困った顔をしたからって、動揺した様子だからって、いったいそれがなんだと言うの?

 


 

10月6日 君に嫌われたいC

 

結局、フランソワーズはジョーに何も言うことができず――彼の真意を掴み損ね――そのまま彼の背中を見送った。
考えていることがわかりにくい上に、とても面倒くさい愛情表現をしてくる彼。読み違えたらそれこそ目もあてられない。彼には常に正解を示さなくてはならないのだ。そうでなければ、彼は――ジョーは、また元通りの彼になってしまうだろう。昔の彼に。
とはいえ。
今回は難問だった。
だからフランソワーズは考えて考えて、想像して、推理して。それこそずうっと考えていたのだ。
しかし。
離れようと言ったくせに、ジョーの態度は以前のものと全く変わらなかった。
それも、フランソワーズが答えを見出せない一因でもある。
普通は「離れよう」と言われたら、「別れよう」と同義である。男女関係においては。
けれどもジョーは、そんな言葉を言ったことなどなかったかのようにいつもと変わらず接してくるのだ。ふつうに話すのはもちろんのこと、抱き締めたりもするし、じゃれてくるのも今までと変わらない。
だからフランソワーズは、あれは――あの言葉はもしかしたら聞き間違いではなかったかと思うくらいだった。
でもそれが聞き間違いではないのは、誰あろうフランソワーズが一番良く知っていた。

 

***

 

いつものようにジョーが部屋にやってきて、そしていつものように朝になって部屋を出て行く。
いつもと全く変わらない。

何も変わらないのだ。

・・・表面上は。


二人の間に何かがあったなど、ギルモア邸の誰も気付いていない。疑うはずがないのだ。表面上、何も変わってはいないのだから。

しかし。

何かが違う。

ジョーの中身の何かが違う。

彼のなかに何かしらの変化があったのは確かだった。
見つめる瞳の色が違う――なんて詩的なことを言うつもりはない。
ただ、「違う」のだ。

やはり彼は本気で別れたくて、でもいざとなると私のことがかわいそうになってできないでいるのかしら。

フランソワーズはぞっとするような事も考えてみたりした。
でも、すぐに打ち消した。
ジョーにそんな小細工ができるわけがない。そんな器用なひとだったらこんなに苦労していない。

ではいったいなんなのか。
何があったのか。

ジョーは。

「まず第一に、ジョーは私と別れたいなんて思っていない」

声に出して言って、指をひとつ折る。
これは大前提であった。これだけは自信がある。全てはきっとそこから始まっているのだ。たぶん。

「第二に、ジョーは私を試そうとして言ったわけでもない」

フランソワーズの気持ちを疑って、「離れたくない」と自分にすがってくるかどうかを待っているのではない。これも自信があった。
ジョーがそんなことを思うわけがない。なぜなら、もしもそういう状況になったら――

「・・・すがって泣くのはきっとジョーのほうだもの」

そう呟くと、フランソワーズはしょうがないひとと小さく言ってちょっと笑った。
ジョーの泣き顔を思い浮かべるとなんだか愛しさが増すようだった。決してかっこよいものではないのに。
けれども、彼のそんな面を見る事ができるのは自分の特権に他ならなかった。

「第三は・・・」

ちょっと宙を見る。

「うーん・・・」

なかなか仮説が浮かばない。

「・・・ん・・・自信がなくなった・・・とか?」

自分に問うように声に出して言ったところで、気がついた。

「いやだ。もしかしてこれが正解?」

 


 

10月5日 君に嫌われたいB

 

「少し・・・離れようか」

フランソワーズは耳を疑った。
一瞬躊躇うような素振りを見せたものの、結局はきっぱりと言い切ったジョー。唇を一文字に結んで。
表情は見えない。いつものように都合の悪い時は前髪の奥に隠れてしまう。ジョーの悪い癖だ。
フランソワーズはジョーを真正面からじっと見つめたまま待った。きっと何か言うことがまだあるはずだ。
しかし。

「ごめん」

そう言っただけで再び口をつぐんだ。それ以上もう何もいう事はないというように。
だからフランソワーズには何がなんだかさっぱりわからなかった。
突然、そんなことを言われる理由に心当たりはないし、本当に――そう、本当についさっきまで仲良くじゃれあっていたのだから。
なのに「離れよう」?

「ジョー?」

声が少し強張っていたかもしれない。
フランソワーズの声に名を呼ばれ、ジョーは少し肩を揺らしたものの、そのままやはり何も言わずに背を向けた。

「ねえ、ジョー」

いったい何だというの?
言外にそんな問いを滲ませてみる。
いつもなら、ジョーはすぐに振り返るはずだ。
けれども今日は頑固に背を向けたままだった。どうやら何も説明してくれないようである。

全く意味がわからなかった。

なぜそんなことを言うの?

なぜそうしようというの?

 

本気?

 

それとも他に何か――別の理由があるの?


フランソワーズはジョーの背を見つめたまま考えていた。
考える時間はなぜか――たっぷりあった。何故ならジョーは、別れの言葉と思われるようなことを言ったくせに、しかも御丁寧に背を向けたくせに、そこから立ち去ろうとはしなかったのだ。
そのままただそこに居る。

彼はいったい何をしようとしているのだろうか。

彼はいったい自分に何を期待して――何を待っているのだろうか。

・・・全然、わからなかった。
けれどもジョーはきっと正解を教える気はないのだろう。言葉を放った途端、背を向けたのだから。全てを拒絶するように。

 

もしも、相手がジョーではなかったら、私はもっと慌てていただろう。
数秒ののち、フランソワーズは冷静になっていた。客観的に自分とジョーのことを考えてみる。
ジョーの意味不明の言動には幸か不幸か慣れているのだ。なにしろ、彼は今までに夜中に突然飛び出していって朝まで帰ってこなかったりとか、勝手に敵地に乗り込んでいってわざと捕まってみたりとか、いろいろやらかしているのだ。しかもそれら全てに関して何も理由を言わなかった。フランソワーズにだけは何か言おうかどうしようかと逡巡していたようだったけれど、それでも結局は何も言ってはくれなかった。
だからフランソワーズは彼を理解するのにずいぶん苦労してきたのだ。
今でももちろん苦労しているけれども、それでも当初より少しは――いや、かなり――ジョーのことがわかってきたように思う。
彼の謎と思える言動全てにはちゃんと彼なりの理由があって、そして彼なりの理由によって他人にそれを言えないのだということも。だからきっと、今回も何か――彼の言葉の外に、深い理由があるはずなのだ。

しかし。

「離れよう」なんて、別れの言葉以外にどんな意味があるというのだろう。普通なら、それの意味することとはそのままずばり、

離れよう。
別れよう。
さようなら。

である。普通の男性が相手なら、そのまま破局になるのだろう。そういう別れを意味する言葉以外のなにものでもない。でも。
相手はジョーなのだ。
彼をふつうの男性と一緒に考えてはいけない。ジョーはあくまでもジョーなのだ。だから難問なのだ。


フランソワーズは手を伸ばせば届く距離に未だ留まっているジョーの背中を見つめた。ここに答えが書いてあったらいいのにと思いながら。

ジョーが私に求めているのは何?

何を言えば、何をすれば、正解なのだろう。

ジョーが私に言って欲しい言葉。

ジョーが私にして欲しいこと。

彼の場合、言葉をそのまま受けとるのではダメなのだ。
そんなのは――そんなことは、彼を知らないひとがとる行動ではないか。

私は違う。

フランソワーズは手を握り締めた。
自分の知っているジョー。今までの彼との付き合いのなかで知りえたこと、ジョー自身でさえ知らないこと、それらを総動員して考えれば絶対にわかるはず。

そう――私はそんな薄い付き合いなんかしていない。そこらの女の子とは違う。
私はジョーを知っている。

 


 

10月4日 君に嫌われたいA

 

平和な日常なんて、望むべくもなかった。
自分の居場所は非日常の中にこそあった。だから、こうして平和な日常に身を置くと落ち着かなくて不安になるのだろう。

ジョーは自身をそう分析した。
とはいえ、ずいぶん長い間「平和な日常」にいたものだ。
にもかかわらず、慣れていないということは、所詮は平和が似合わないとそういうことなのだろう。
思えば、ずっとそうだった。
平和な時間や穏やかな時間とは無縁で育ち、学校でも一人きりだった。最初はおそらく寂しいと思っていたのだろう。しかし、長い年月をひとりで過ごして来た身には、むしろひとりのほうが居心地のよいものとなっていたのも確かだった。
係累のない寂しさ。しかし、係累のない身軽さもあった。
誰かを心配しなくてもいい。自分のことだってどうでもよかったから、ジョーにとってひとりというのは都合が良かった。

なのにそれが今ではどうだ。

自分のことよりもフランソワーズが一番。
自分などどうでもいいのは以前と同じだったけれど、他の誰かを優先する、守る、大事に思うなど初めての経験だった。
だから、落ち着かなかった。
大事な存在など今までいなかったのだから、いざそういう存在が出来てしまうとどうしたらいいのかわからなくなった。
自分のいないどこかで大変な目に遭っているのではないだろうか。何か困ったことが起きてはいないだろうか。
そう思うといてもたってもいられなくなって、フランソワーズが自分の目の届く範囲にいないと嫌だった。
しかも一番戸惑ったのは、そんな情けない己がそれほど嫌いではなかったという事実だった。
誰かを大事に思っていてもたってもいられなくなる自分というのは新鮮だったし、なんだか――そう、ちょっといい感じだったのだ。
そういう自分も悪くない。

そう思っていた。
そして、いつしかそれが常態となっていた。

しかし。

気付いてしまったのだ。

――彼女はいつか、いなくなるだろう。

そう考えついた瞬間、足元から世界が崩れてゆくようだった。
フランソワーズのいない日々。
フランソワーズに会えない日々。
それがこれから先、ずうっと――死ぬまで続く。
そんなことに耐えられるだろうか?

――無理だ。

考えただけで怖くて怖くて仕方なくなる。
しかし、彼女の幸せを考えると、自分はその日がきたら笑顔で送りだすしかないのだ。そしてたぶん、実際に――笑顔で送ることができてしまうのだろう。そしてその後、自分はただのサイボーグになる。中身のない、本当の機械に。
それはそれでいいと思った。そうなってしまうなら、それでもいい。フランソワーズのいない日常なんて要らないのだから。
しかし、それは彼女が去った後の話であって、今ではない。
今はこうして和やかな穏やかな日々を送っている。
それは――どうしてこんなに心地いいのだろう。
落ち着かないのは変わらないけれど、それでもフランソワーズがそばにいて笑ってくれる毎日というのは嬉しくてどきどきしてわくわくして、ずっとこうだったらいいのにと願わずにはいられなかった。
だから。
それがいつか唐突に終わりを告げるだろうと思っただけで怖くてたまらなくなった。

フランソワーズがいなくなるのが怖い。

ものすごく怖い。

この恐怖はいったいどこからきているのか。

それは――今を大事に思い、失いたくないと思う気持ちがあるから。

では、恐怖心を打ち砕くにはどうすればいいか。

失いたくないと思わなければいい。

そう思わなくてすむにはどうすればいいのか。

――フランソワーズがそばにいなければ・・・

 

***

 

「えっ?ジョー。いまなんて言ったの?もう一度言ってちょうだい」

怖い顔でフランソワーズが振り返る。
聞こえてなかったはずはないし、彼女が聞き逃すなんて有り得ない。絶対、聞いていたはずだ。
そう確信していたけれども、ジョーは律儀に繰り返した。

「少し、離れよう」

繰り返して言うと、なんだか現実感がなかった。夢のなかで言っているようだった。

「どうして・・・」

そんな事言うの、とフランソワーズが小さく呟く。
しかしジョーはそんな彼女に答えることはなく、くるりと背を向けた。
フランソワーズを拒絶するように。
彼女に背を向けるということは、おそらくジョーにとって平和な日常と決別することでもあるのだろう。
フランソワーズが視界にいない。
それは恐ろしいことではあったけれど、心を閉ざしてしまえばどうということはなかった。

いま目の前にフランソワーズはいない。

僕の前にフランソワーズはいない。
存在しない。

これから、ずっと。

そう思うとなんだか気持ちが楽になったような気がした。
未来に思いを馳せてもなにも怖いものはなかった。
ただ、侘しくひとりぼっちの世界が広がっているだけだった。
随分御無沙汰していたその世界は、ジョーが思っていたより居心地の良さそうなものではないようだった。
過去の自分がそんな場所を好んでいたなんて信じられない。
全てが殺伐とし色彩を失った味気ない世界。
そんな毎日が未来永劫続く。

でも――それでいい。

何も怖いものはないのだから。

 


 

10月3日 君に嫌われたい@

 

日本グランプリの前で情緒不安定になっていた――というわけでもない。と、ジョーは思う。日本グランプリなんて毎年開催されているし、初めて参戦するわけでもない。慣れているのだ。だから、これが理由ではないだろう。
では、いったい何なのか。
この――自分のなかに巣食うどす黒いものは。
元々自分に備わっていたものなのか。あるいは、常に自分とともにあって、でも普段は見えなくて時折顔を出すだけの特殊な感情なのだろうか。
しかし。
いずれにせよ――

ジョーは頭を振ると立ち上がった。
自室の窓から見える海に目を遣る。

そう――どう頑張ったところで自分自身に言い訳できるわけがないのだ。
故意にフランソワーズを傷つけていることを。

 

***

 

発端は何だったのか、さっぱりわからない。
ただ、突然不安に襲われたのは確かだった。

フランソワーズが微笑んでくれても。

フランソワーズが手を握ってくれても。

フランソワーズが抱きしめてくれても。

何をどうしてくれたって、不安がなくなることはなくむしろ増長していくようだった。
いまこんな風にしてくれていたって。いずれ君はあっさりと僕なんか捨ててどこかへ――

そんな考え方はよくない。

それはじゅうぶんわかっている。
でも、一度思うとどんどん不安が大きくなっていくのもわかっていた。たぶん、自分はこんな不安を常に持っていていつもは見ないようにしていただけなのだろうと思う。こうしてまっすぐ見つめてしまうと自分がどんなに臆病でどんなに小心者なのかわかってしまうから嫌なのだ。
ひとを信じることができない自分。
それは生い立ちのせいだとひとは言うだろう。カウンセラーや精神医学者もそう分析するだろう。
しかし、同じ生い立ちのもの全員が等しく持つ感情だとは思えない。だからこれは、ジョー自身の特性であり、恐怖心であり、欠点であるのだろう。

他人を信じきることができない。

ブラックゴーストからの脱出行でゼロゼロナンバーサイボーグと行動を共にしてゆくことで「仲間意識」が芽生えたし、相手を信じることや裏切りを心配しなくてもいい心地良さや安定感も得ていたはずだった。
自分はサイボーグになったけれど、同時に過去の自分とも決別できた、ある意味ほんとうに生まれ変わったのだとそう思っていた。

でもそれは幻想にすぎなかった。

本当の恐怖は平和で安定した日常のなかにこそ潜んでいた。

それに気付くのに随分かかってしまった。が、あるいは最初から知っていたのかもしれない。
なぜなら、自分を除くほかのものはみな知っていたようだったから。

ならば、なぜみんなはそんな日常と自分の恐怖心とどう折り合いをつけているのだろうか。

いつか失くしてしまうもの。
でも失くしてしまいたくないもの。

それらがぎっしり詰まった毎日。
平和で、誰かの裏切りを心配することもなく、昨日と同じように今日が過ぎて今日と同じように明日がやってくる。そんな日々。
それを両手で抱き締めていたくても、きっといつかは離してしまう日が来る。
それがいったいいつなのか。
今日かもしれないし、明日かもしれない。あるいは、永遠にこないのかもしれない。
そう思うと毎日が怖くて怖くて仕方なくなった。

――持っているから怖いんだ。

だったら、以前のように――何も持っていなければ、怖くなくなる。
失う心配からも解放される。

いつか失くすのが怖いなら。

最初から――持っていなければいい。

ジョーにとって、失くすと怖い大切なもの。大切な日常のなかにある大事なもの。
それはフランソワーズという女性にほかならなかった。