子供部屋
(新ゼロなふたりの日常です)

 

5月30日 (ピュンマ様のお部屋の続きです)

 

「……なんだ、そんなこと?」

レース後、ジョーは電話で詳細を知ることとなった。
レース前の糞忙しい時の要領を得ないフランソワーズからの謎の電話。一方的に喋られ、何がなんだかわからず怒ったら機嫌がよくなってあっさり切れた。不可思議ではあったけれど、そもそもフランソワーズという女性は不可思議な存在でなかった試しがないので、その件に関してはそのまま忘れていた。
そして今、レースが終わり――久しぶりの表彰台だった――報告がてら電話をして、やっとわけがわかったというわけだった。

「そんなことじゃないでしょう?」

電話の向こうのフランソワーズは唇を尖らせたようだった。少し拗ねたような雰囲気に、ジョーの唇に笑みが浮かぶ。

「いやあ、だけどさフランソワーズ。どうしてそんな心配をしなくちゃいけないんだい?」
「だって、……私たちも遠距離だし」
「遠距離じゃないだろ。しょっちゅう帰ってるし、そもそも俺の家は日本にしかないよ」
「でも、遠距離恋愛に失敗したし」
「そうだね。会えない時間がどうたらって言ってたひとが一番駄目だったよな?」
「もうっ、意地悪ね、ジョーは」

膨れて拗ねているフランソワーズを構うのは楽しいのだ。

「ともかく、俺は遠距離って思ってないし」
「嘘よ」
「ほんとだって、信じろよ」
「どうかしら」
「フランソワーズ」
「いいわ。信じましょう、とりあえず。――で?続けてちょうだい」

何が続けてちょうだいだと思いながらもジョーは素直に従った。

「他の奴らが破局したからって自分たちもそうなるかもしれないなんて、そんなくだらないことを言うなってことだよ」
「……くだらないかしら?」
「くだらないね。根拠もないし、そもそも有り得ない仮定だ」
「でも、未来のことは誰もわからないわ」
「そうだな。フランソワーズはそんなに自信がないのかい」
「自信?」
「ああ。俺は、……まぁ、いいや」
「あら、なあに?言いかけてやめるなんてズルイわ」
「いいよ、別に」
「イヤっ。ちゃんと言って」
「だから――」

ジョーはちょっと空を見つめると、早口で小さく一気に言った。

「え?なあに、ジョー。聞こえないわ」

嘘をつけ。
ジョーはちょっと顔をしかめた。
こういう時、どうして聞こえなかったふりをするんだろう?女はみんないつだってそうだ。

「――だから。俺は」

俺は自分の気持ちに自信があるし、フランソワーズのことも信じているから平気だ。

「……」

フランソワーズは少し電話を離して、もう一度繰り返したジョーの言葉を心に滲み込ませた。
もちろん、彼がどんな小さな声で言っても聞き取れる。
だけど、普通だったら聞き取れないくらい早口だったりするから、必ずもう一回言わせるようにしている。
そうすれば、嬉しく優しい言葉を2回聞けるのだから。

「――私も」

私も信じているわ……

うっとりとそう返したのに。

「なんだよそれ。ったく、本当は最初っからそう思ってたんだろ!」

叱られた。

「違うもんっ」
「いいや、違わないね。あーあ、やだなあ、ひとを試す女って」
「何よその言い方。別に試したわけじゃないわ」
「だったらなんだってんだよ」
「確認したのよ!」
「か…」

かくにん?

「だってそうじゃないと、ジョーはいっつも何も言わないもの。時々、ちょっとだけ――不安になることだってあるのよ。私だってか弱い普通の女の子だもの」
「か……か弱い?」
「ひどいわ、笑うことないじゃない!」
「いや、だって、か弱いって」
「もうっ、ジョーのばかっ」

おそらく頬を染めて、きらきらした瞳で怒っていることだろう。彼女がむきになっているときはいつもそうだ。
ジョーには簡単に想像ができたし、映像だって思い浮かべることができた。ただ、残念なことにそんな彼女がどうにも恋しくてもいまここで抱き締めることは不可能であった。

――ほんと、何にも心配することないよフランソワーズ。すぐ帰るから。

そして抱き締めたいのだから。

 


 

5月23日 (まだ誕生日やってます)

 

「もう……そんなにお兄ちゃんが好き?」

どこかがっかりしたような寂しそうな横顔にフランソワーズはいじけたように呟いた。

「えっ?」
「ずうっとお兄ちゃんのことばっかり見てたわ」
「そうかな」

怒るでもうろたえるでもなく頬を緩めたジョーにフランソワーズは小さくため息をついた。

――別にいいんだけど。仲が悪いよりは仲良しのほうがいいもの。

しかし、毎回兄が来るたびにジョーを持っていかれてしまうのは面白くない。「兄」という存在が嬉しくて仕方がないジョーと「弟」という新鮮な響きに浮かれている兄。そんなふたりの内情を知っていても、ふたりが一緒にいられる時間はとても少ないというのがわかっていても――それでもやっぱり面白くなかった。
怒っているのでもヤキモチをやいているのでもなく、拗ねているのだ。
きっと兄は、そんな風に拗ねている妹を見て内心面白がっていただろう。一方、ジョーは……おそらくフランソワーズが拗ねていることにも気付いていない。

「フランソワーズ?」

突然視界にジョーが入って、フランソワーズは驚いて身を引いた。

「な、なあに?」

にやにやしているジョー。酔っているのかもしれない。

「あのさ。今日は何の日か知ってる?」
「……モナコグランプリの日」
「それだけじゃなくて」
「……ジョーのお誕生日」
「うん。やだなあ、知ってるじゃないか」
「知ってるわよ」

でも。

するとジョーが目の前に手を差し出した。

「なあに?」
「プレゼント。もらってもいいかな」
「……そんなの」

用意してないわ。

用意しようとしてもできなかったのだ。何しろ、ジョーはフランソワーズ自身を欲しいというのに、兄が同席していたらあげるにもあげられないではないか。だから、そう知った時に用意するのをやめた。どう頑張っても昨年みたいに趣向をこらすことはできない。

「いいよね、もらっても」
「だから用意してないって――」

フランソワーズの言葉に耳をかさず、ジョーは立ち上がるとフランソワーズを肩に担ぎ上げた。

「きゃっ、ちょっと何するのよっ」
「うん?だから、もらうって言っただろうちゃんと」
「だけど、」
「あ。やだなあ。すぐえっちな事を考えるんだから。僕がそればっかり考えてると思ったら大間違いだよ」
「え、でも――」
「今年はね、」

ベッドルームに運ばれ、そうっとベッドの上に降ろされた。
こんな状況下で「それ」以外なんてあるのだろうか。
フランソワーズがどうしたらいいのかわからず、とりあえず身を起こしベッドの端に両足を下ろすと

「あ、駄目だよ座ってて」

肩を抑えられた。
そしてジョーはベッドの上にあがり――そのままフランソワーズの膝に頭を預けた。

「うん。いい感じ」

そうして、フランソワーズと目が合うとにっこり笑んだ。

「しばらく膝枕してもらってないなあって思ってさ」

言いながら、少しずつジョーの頬が朱に染まる。
何も言わずじいっと見つめるフランソワーズに照れたのか、ふいっと横をむくと髪で目を隠してしまった。

「……そうだったかしら?」

フランソワーズは構わずジョーの髪をかきあげる。
覗く額と照れた瞳。

「……うん」
「……ジョーったら」

甘えんぼね。

こうして甘えてくるのが、恋人だからなのか、姉や母親のような役割を期待してなのかはわからない。
わからないけれど。
でも。

どちらでもいいと思った。

否。

両方であって欲しいと思う。

きっと、世の恋人は「私はあなたのお母さんでもお姉さんでもないわ」と訴えるほうが多いだろう。
だけど自分は。

――だって、ジョーが無条件に甘えられるのはきっと私だけだもの。

 


 

5月21日

 

ジョーには家族がいない。

それは知っていた。
けれど、どこまでちゃんとわかっていただろうか。
家族がいないとひとくちにいっても、状況は色々なのだから。死別、生き別れ――それらは、「最初はいたけれどいなくなった」というもの。おそらく9割はそういう状況だろう。
でも、ジョーは。

ジョーには最初から家族がいなかった。

父がいたけれどいなくなった。
母がいたけれどいなくなった。

そういうものとは根本的に違う。
何故なら、彼には――ジョーには、「家族と一緒にいた記憶」がないのだから。最初から持っていないのだから。

フランソワーズは突然その事に気がついた。
わかった。
いくら、自分たちゼロゼロナンバーサイボーグが「我々は家族だ」と言っても、所詮、仲間は仲間でしかない。
しかも、ジョー以外の者はみな家族と一緒にいた記憶を持っているのだ。

ジョーだけが持っていない。

小さい頃、誰かに頭を撫でられた記憶。
お誕生日おめでとう、って言われた記憶。
気をつけていってらっしゃい。お帰りなさい。よく来たね。ジョーはいい子だ――

どんな他愛のない小さなことも、ジョーにはなかった。

自分たち「仲間」が「我々は家族だ」と言ったら、ジョー以外の者は苦笑いしながらも、擬似家族のような真似事だってやろうと思えばできる。「家族」というものがどんなものか知っているし、過去には自分も持っていたから。

でも、ジョーは。

真似事でさえ、できはしないのだ。
手探りで、他の者を見て真似をして。
そして、そういうものかなと思う。

思うだけだ。

照らし合わせる過去の記憶なんてないから、それが正しいのかそうでないのか、どうすべきなのか、しないほうがいいのか何も――何も、知らない。

もしも自分に両親や兄と一緒に過ごした記憶が無かったら、どうだろう?

フランソワーズはそう考えると、暗闇にひとり残されたような言いようのない不安感、心細さに襲われた。
もちろんそれは、「誰かと一緒にいた記憶」があればこその反応である。
だから。
もしも「誰かと一緒にいた記憶」が元から無かったら、そんな不安感も心細さもおそらく感じないだろう。最初から、手を引いてくれる誰かも大丈夫だよって言ってくれる誰かもいないのだから、突然ひとりになってもそんなものだろうと思うだけで。暗闇にひとりでいても――最初からひとりなのだから――いつかは慣れてしまうだろう。

ジョーはそうやって育ってきたのだろうか。

どこか暗闇を抜ける道があると教えてくれる誰かは、本当にいなかったのだろうか。
彼の手を引いて。こっちだよ、って。大丈夫だよって声をかけてくれる誰か。

 

***

 

フランソワーズはジョーの手のなかに自分の手を滑り込ませた。

「ん?フランソワーズ、どうかした?」

訝しげに見つめる褐色の瞳。

「ううん。どうもしないわ」
「でも――」
「おいおい、いきなり二人の世界かあ?」

フランソワーズが急に黙り込んだのが気になったのだろう、ジャンがことさらにおどけて冷やかした。

「おっと、そんなに睨むなよファンション。邪魔者はそろそろ退散するからさ」
「えっ?」

席を立った兄に不安そうに腰を浮かせたのはジョーだった。

「そんな、兄さん――」
「ばーか」

兄はジョーの額を指先でつついた。

「俺がここに泊まると思うか?そんなことしてみろ、ファンションに殺されちまう」
「でも」
「俺はお前のレースを見にきたついでに誕生日パーティにお呼ばれしただけだ。そろそろ退散する頃合だ」
「だけど」
「なあに、ホテルはちゃんと手配してある。心配するなって」

ジョーの髪をかき回すようにジャンの大きな手が頭に置かれた。

「明日また会えるんだから、何も心配することはないだろう?」
「……でも」
「俺がいないと寂しいか?だったら一緒に出かけるか」
「は」
「駄目っ」

はい、と答えそうになったジョーと、彼の腕を抱き締めるようにすがりつくフランソワーズ。
ジャンはそんなふたりを見て大きく笑った。

「ジョー。家族はそう簡単にはいなくならない」

大丈夫だ――

それに、増えることもあるんだぞ。

そう付け加えようかと思ったけれど、果たしてこのふたりにそれが可能なのかどうか知らなかった。
迂闊なことは言えない。
だからジャンは、微笑んだままふたりを残して部屋を出た。

確かに俺とフランソワーズは兄妹で、家族だ。だから、妹の恋人であるジョーも俺の弟だ。
いつまで――いつまで、こうして三人で過ごせるのかはわからないけれど。

 


 

5月20日

 

「――で、小さい頃のフランソワーズってどんな子だったんですか」
「まあ、そう急くなよ。そうだなあ……基本的には殆ど今と変わりがないな。例えば…」

ジャンの話に目を輝かせてジョーが聞き入る。
その隣でフランソワーズはすこぶる不機嫌だった。
自分が覚えていないくらい昔のことを他人に面白おかしく語られるなど、およそ楽しい経験であるわけがない。
しかも、話しているのは兄なのだ。
ともすれば、両親よりも誰よりもフランソワーズのそばにいて、彼女にとって都合の良い事も悪い事も、もしかすると一番よくわかっている人物である。

――もう。お兄ちゃんたら、この話をするためにモナコに来たの?

そんなわけはないのである。
それはじゅうぶんわかっていたけれど、それでもそう思わずにはいられないフランソワーズであった。
頬を膨らませ、自分は不機嫌ですとアピールしてみても、二人ともフランソワーズの姿は目に入っていないようだった。だから、いったい何を話しているのかと会話に耳をすませると

「その時のファンションは真っ赤になっててさ、両手をこう握り締めて何か言おうとしているんだけど声がでなくて」

――ああもうっ、それっていったいいつの何の話よっ。

フランソワーズは頬が熱くなってきた。
いい加減にしてと割り込もうとしたが、しかし。

「へえ…それでどうなったんですか?」

楽しげな様子のジョーの横顔を見て黙り込んだ。

――ジョーが楽しいなら、……いい……かし、ら。

そんな風に思ってみたりもする。
何しろ今日は彼の誕生日なのだ。
しかも、表彰台は逃したものの――いいレースだったし。

だから黙って二人の会話に耳を傾けた。

そうして――しばらく経ってからだった。
ジョーがポツリと言ったのだ。

「いいですねぇ、家族って。こうして小さい頃のフランソワーズをちゃんと知っている人がいる」

僕にはいないですから――と。

 


 

5月11日〜19日 (ジョー誕連載を転記しました)

 

「何が欲しいか、って?そんなの、フランソワーズに決まってるじゃないか」

変な質問だよなあと笑う。

「前はフランソワーズ自身だったし」

あれは楽しかった、と思い出して頬を緩ませた。

「去年は、裸エプロン完全版だし」

さらに頬が緩む。

「いやあ、今年はなんだろうなあ」

ねっ、フランソワーズ?

と振り向いたけれど、そこにいたはずのフランソワーズは忽然と姿を消していた。

「あれっ?フランソワーズ?」

 

****

 

「……まったくもう」

今年はどんなのかなあと瞳を輝かせて言われたものの。

「何をしたらいいのよ」

ハードルが高すぎるわ……とフランソワーズは溜め息をついた。

 

****

 

****

 

フランソワーズはずっと考えていた。
考えて考えて考えて。

そして、ふっと思い出したのだ。

「いやだ、その日ってモナコグランプリじゃない!」

毎年のように日本で迎えるジョーの誕生日ではないのだ。
雌雄を決するといっても過言ではないモナコグランプリ。
その日はジョーと一緒にモナコにいるのである。
だから、ジョーがいくら鼻を鳴らしたところで、昨年やその前のようなプレゼントをするわけにはいかないし、しようにもできない。

「やだわ、私ったらすっかり……」

忘れてたと呟くと、大きく息をついた。

ほっとしたといえばほっとしたけれど、なんだか少し残念なような、そんな複雑な気持ちだった。

ともかく、ジョーへのプレゼントをどうするのかは振りだしに戻った。改めて何か考えなくてはならない。

 

ジョーの欲しいもの。

 

ジョーが貰って嬉しいと思うもの。

 

それはいったい何なのか。

 

フランソワーズは知らなかったけれど、ジョーが自身の誕生日を嫌がらなくなったのは、プレゼントが彼女自身であったからだった。


だから。


そうではなくなったら、彼にとっての誕生日は再び忌避すべきものになってしまうのかもしれない。

 

***

***

 

 

「お兄ちゃんが来るの!?どうして!?」


電話の向こうの能天気なジョーの声にフランソワーズはいらいらと返した。
けれども返ってくるのは、やはりどこかのほほんとしている声だった。

「どうして、って、モナコグランプリだし。近いし」
「ぜんっぜん、近くないわよ、モナコとパリなんて!」
「近いだろう、日本よりはさ」
「遠いわよっ」
「やだなフランソワーズ。何か怒ってる?」
「怒ってないわ。驚いてるの!」


モナコグランプリ。
むこうの状況はどうなのか、ジョーに電話をかけたフランソワーズだったが思いもかけないことを言われ抱いていた甘い思いは粉砕された。

兄であるジャンも来るというのだ。モナコに。

どうやらジョーがチケットを送って招待したらしい。
もちろん、それだけならどうってことはない。が、ホテルの部屋も一緒なのだというから、フランソワーズの怒髪は天を突いた。


誕生日なのに!


私を欲しいって言ってるのはジョーなのに!


悩んだのに!


兄がいたら何も――できないではないか。
できないだけならまだしも、サイアクの事態が待っている。たぶん。


「君も久しぶりに会えるの、嬉しいだろう?」
「……そうね」

嬉しいわ。
でも今、君「も」って言ったわよね?

「部屋のことなら心配ないよ。ホラ、僕達が毎年予約してあるスイートって部屋が余ってるくらいだろう?全然ヨユウだよ」
「そうね」

なぜかジョーの声が弾んでいて、フランソワーズの心は重く沈んだ。
兄に会えるのはもちろん嬉しい。でも――その日はジョーの誕生日なのだ。
彼の誕生日の重要性を兄はわかっているだろうか。

いや、わかっていない。

フランソワーズはそう判断した。
わかっていたら、いくらジョーがお願いしたって来るのを断るはずである。
妹の邪魔をするのは目に見えているのだから。
そして邪魔をしたら、彼の妹は大暴れするのだから。

 

***

***

 

それにしても、何故なのだろう?


フランソワーズは頬杖をついて窓の外を眺めていた。
眼下に広がる雲海。
どんな速度でどんな距離を行っても変わらない景色。もしかしたら、永遠にこのままなのかもしれない。
地上に戻ることもなく。ただずっと同じところを周り続ける。

――馬鹿らしい。

いい加減に眩しくなった目を瞬き、フランソワーズは窓のシェードを下ろした。
途端に暗くなる視界。
フランソワーズの座席以外は全てシェードが下りており、機内は既に消灯されていた。

日本を発ってからどのくらい経つだろうか。

フランソワーズはずっと考えていた。

ジョーは今まで自分の誕生日は大嫌いだった。
その理由は幾つもあって、どれもフランソワーズにとっても納得できるものだった。

けれど。

とはいえ。

フランソワーズにとって、それらは関係ないものだといえばその通りでもあった。
彼女にとって大事なことはただひとつ。

自分がいま一番大切に思っているただひとりのひとが生まれた大事な日であるということ。

その日が来なければ、ジョーが生まれることもなかっただろうし、こうして会うこともなかった。
巡り会えた奇跡というけれど、そもそも同じ時代に生を受けなければ会うことなど叶わない。
だから、その経緯がどうであれ、フランソワーズにとってジョーが生まれたという事実は大切なものであり、彼が誕生したその日はとても大切な日であった。

けれど、いくらそう説いてもジョー自身が納得しなければ軽んじられてしまうのも事実である。
実際、その通りで、彼は誕生日などどうでもいい――そう過ごしてきた。

それがここ数年はそうではなくなってきたように見えた。

否。

なくなってきた。

それは確かだった。

それは、フランソワーズが友人にそそのかされて「プレゼントは私よ」と言った時から始まった。
大喜びしたジョーは、あまつさえ「こういうプレゼントをもらえるなら、誕生日ってやつも悪くない」などと言ったのだ。そしてその通り、翌年もジョーはよく憶えていて――本当に嬉しそうだったのだ。

だから。

今年も楽しみにしているジョーが嬉しくて、フランソワーズもそれに応えようとあれこれ考え、そして悩んでいたのだ。もちろん、その悩みは辛いものではなく嬉しい悩みであり、悩むほどに自分はなんてジョーが好きなんだろうと自覚させられたものだった。

が、しかし。

そんな嬉しい悩みが全て水泡に帰そうとしている。
自分を欲しいと言ったくせに、当の誕生日に第三者を呼んだのだ。そんなことをしたら、せっかくの――彼自身のリクエストにどうあっても応えられないではないか。

不思議だった。

なぜ自らそんなことをしたのか。
あるいは、ジョーにとってフランソワーズを欲しいというのはただのジョークの域でしかなかったのか。

――それはない。

それだけは確信できる。

では――なぜ?


「直接訊くしかない……か」

フランソワーズは小さく呟いて、シートを倒し毛布を被った。

ひとり考え込んでいても仕方がない。

 

***

***

 

訊くつもりだったのに。


フランソワーズの思惑は完全に外れた。
何しろ、とにかく着いたらサーキットに直行して、

ぎゅーっとしてちゅーよっ。

そう思っていたし、そうするつもりだったのだ。
大体、一緒に来ているはずのモナコだったのに勝手にひとりで行ってしまったのはジョーだったし、軽いお仕置きのつもりもあった。

だから、

「うわ、やめろよフランソワーズ」
「いやよ」
「だめだよ、……うわっ」
「だってジョーったらひどいんだもの」
「だからって……」

そんな会話もあるだろう。
そういう、イチャイチャ親密な時間も楽しみにしていた。

なのに。


「よお、やっと来たな」


仲良く肩を組んだ兄と彼氏に出迎えられたら、どうすればいいのだろう?

「お兄ちゃん……もう来てたの?」
「お?なんだなんだ、会えて嬉しくないのか?」
「嬉しいわよ、もちろん。でも……」

ぎゅーっとしてちゅーはどこへいった。

フランソワーズは恨めしげにジョーを見た。彼の肩には兄の腕が回されている。

「ん?フランソワーズどうかした?」
「……別にっ」

つん、と顔を背けると、突然兄が笑い出した。

「まったく、お前はチビの頃から変わらないなあ。ほらよっ」

かけ声と共に押し出されたのはジョーだった。

「邪魔者はちょっとだけ消えててやるから、ぎゅーっとしてちゅーを思う存分するんだな」
「お兄ちゃん!」
「え、なに、ぎゅーっとしてちゅーって」

突き飛ばされてフランソワーズに抱きつくかたちになったジョーを受け止めつつ、フランソワーズは兄を目で追った。

「お兄ちゃん」

なんで……どうしてわかるの?ぎゅーっとしてちゅーしたいのが。

「ちっちゃいときからそうだったろ?」

同じ蒼い瞳を煌めかせ、兄は笑った。お前のことはお見通しなんだよと。


「ちっちゃいときからそうだった……か」


フランソワーズを抱き締めながら、ジョーが小さく呟いた。

 

 

***

 

 

結局、フランソワーズの危惧したとおりになった。

レース後、ホテルに戻った三人はジョーのバースデーを祝ったのだが、あくまでも「三人」であり「二人っきり」ではなかった。また、それより何より兄はジョーと一緒に飲んで飲んで飲みまくっている。フランソワーズの出る幕はないようだった。しかも、ジョーもそれを喜んでいるのかフランソワーズのことをすっかり忘れたかのように飲んでいる。

「……もうっ」

だから兄が来るとイヤなのだ。ジョーをとられてしまう。
別に兄にそっちのケがあるわけではないし、妹としては兄と恋人の仲が悪いより仲が良いほうがいいに決まってる。

ただ。

それも限度があるだろうと思うのだ。

「ジョーの恋人は私よ?私がいなかったら、お兄ちゃんとジョーは会えなかったんだから」

そう考えると不思議ではあるが。

「おお、そうだよファンション。お前、よくわかってるなあ!」

兄が上機嫌で妹を手招きする。
もう片方の腕はジョーの首に回したままだ。

「ほら、そんなところで拗ねてないでこっちにおいで」

兄が笑う。
フランソワーズは頬を膨らませたけれど、素直にそれに従った。
兄の隣に座る。
すると、兄は妹の肩にも腕を回して引き寄せた。

「家族三人、仲良くしなくちゃな!」


――家族。


ジョーと目が合った。きょとんとしている。

「あれ?そうだろう、ジョー?家族だから誕生日に俺も呼んだんだろう?」
「違うわよ、レースがあるからでしょう」

フランソワーズが怒ったように言う。ジョーは無言で兄妹ふたりを見つめるばかり。

「そうだろう?」
「そうでしょう?」

ふたり同時に言われ、ジョーは答えに窮した――かのように、見えた。
しかしそれはフランソワーズの勘違いで、次の瞬間、ジョーは笑ったのだった。
それも――嬉しそうに。

「――なんだ、そうか。そういうことか」
「なにがそういうことなの、ジョー?」
「いや、いいんだ。……そうか、僕は」

ひとりで何か言って納得しているジョー。
フランソワーズは訝しそうに彼を見つめ、追求したものかどうか迷った。
けれど。
兄が両腕にふたりを抱えたままぎゅーっとしてちゅーをしたから、機会を逃した。

「もうっ、お兄ちゃんってば!酔っ払いね!」
「酔ってないよ。な?ジョー」
「ええ、酔ってませんよ」
「もうっ……ずるいわ、ジョーを味方につけるなんて」
「はん。いいだろう、いつもお前の味方なんだから、たまには俺に寄越せ」
「寄越せって、ジョーはモノじゃありません」

兄妹のじゃれあいのようなケンカが始まった。
ジョーはそれに参加はしなかったけれど、未だ自分の肩を掴んだままのジャンの手を振り払うでもなくそのままに任せていた。

 


……そうか、僕は。

 

誕生日を「家族」に祝って欲しかったんだ。

 


「ん、何か言ったジョー?」
「いや、なんでもないよ」
「そう?」
「うん」

ジョーが笑う。

フランソワーズも笑う。

ジャン兄も笑う。

 


こんな誕生日は初めてだった。

 


 

5月9日

 

「し……しんっじらんない!こんなのってアリ!?」

真夜中のギルモア邸のリビングに悲鳴のような声が響き渡った。

「しー。静かにしろよ。みんなもう寝てるんだからさ」
「だって、信じられないもの!」

フランソワーズはソファから立ち上がり両手を拳にして身をよじった。

「なんなの、この短い放送はっ」
「そりゃ局の都合だろうさ」
「だって」
「視聴率の問題もあるんじゃない?」
「視聴率――」

それを言われると弱かった。日本でのモータースポーツの認知度は絶対的に高くはないのだ。
静かになったフランソワーズをピュンマが手を引いて座らせる。

「ほら。お茶でも飲んで落ち着くんだ」

すっかり冷めてしまった紅茶。けれどもフランソワーズは大人しくそれに口をつけた。

 

***

 

F1の予選であった。
日本では真夜中に放送される上、フランソワーズがアヤシクなるので、ギルモア邸の仲間は早々に部屋に引き上げ引きこもるのが常だった。当然、今夜もそうなっていたはずなのだが、ピュンマがついうっかりとお茶を飲みに降りてきてしまったのだった。そしてフランソワーズに捕まった。満面の笑みで「たまには一緒に見ましょうよ」と誘われれば否やを唱える男子はいない。だからピュンマも、まあたまにはいいかと相好を崩したのだが、その後に「ジョーのかっこいいところを」と続けられ途端に脱力した。
それでも、紅一点のフランソワーズがわくわくしながらテレビに相対し、夢見る女の子のように一心不乱に画面を見つめる姿を見るのはなかなか楽しいものだった。
だからだろうか。
ピュンマはつい――退散する時期を逃してしまったのだ。

 

***

 

「……だって、おかしいわ。ね、ピュンマもそう思わない?」
「そうだね」

ジェットと違ってフランソワーズの取り扱いに慣れているピュンマは「何がおかしいのか」を反問したりもせず、もっともらしい顔で頷いた。

「そうよね。やっぱりそう思うわよね」
「ああ。ひどいな、全く」
「そうよね――そうよ!」

大人しく紅茶を飲んでいたフランソワーズだったが、自身の言葉で再び火がついたのか声に熱がこもった。

「こういうのは、テレビ局に抗議しなくちゃいけないのよ!」

今にも「電話してくるわ」と行ってしまいそうなフランソワーズに、ピュンマは静かに言った。

「きっと何千人ものファンが既にかけていると思うよ?」
「えっ……そうかしら」
「そうさ。ハリケーンジョーの人気を甘く見ちゃいけない」
「んもう、ピュンマったら!」

フランソワーズは頬を染めて、ピュンマの背中を軽く叩いた。もちろん、その一撃はフランソワーズにとっては「軽く」であったが受けた当人にはけっこうなダメージであった。咳き込んでいる間にもフランソワーズの声は続く。

「やあね、何千人なんて言い過ぎよ。せいぜい……数百人よきっと。やあねえもう、いくらジョーが素敵だからって、そんなにたくさんのひとが抗議の電話なんかしないわよ」

嬉しいのか妬いているのかその両方なのか。ソファの上でもじもじと身を揺らす。

「そうかな。でもやっぱりハリケーンジョーのインタビューがないっていうのは駄目だろう」

ピュンマは真剣に言った。どう考えてもこれは正論だろうと思いながら。

「そうよねっ」
「ああ。日本人ドライバーは彼ひとりなんだし、注目度から言っても――」
「インタビューされているときのジョーの横顔、とっても素敵なんだから!」

両者の見解は微妙にずれていた。

「もうっ、なのに省略するなんて信じられないわ!一緒に行けないときは、それだけが私の楽しみなのに」

嘘をつけ。

そう思ったものの、ピュンマは曖昧な笑みを浮かべたまま冷めた紅茶を飲んだ。

「どうせそのうち本人から電話がくるだろう?」
「ん。でも、それとこれとは別なのよ」
「そうか。――よし、わかった。僕からテレビ局に言っておくよ」
「えっ?」

フランソワーズが目をみはる。

「知り合いがいるからね」

ウインクで返すピュンマ。
呆然としているフランソワーズをそのままに立ち上がった。

「じゃあ、僕はそろそろ。ふたりの電話の邪魔をするわけにはいかないからね」
「えっ?ええ……」

――ピュンマはテレビ局に何かコネがあるのだろうか。そして、ジョーのインタビュー映像を流すよう訴えるのはそんな大きなコネを使ってまですることなのだろうか。

「え、と。ピュンマ……」

フランソワーズにはわからなかった。
わからなかったけれど、そこまですることではないということだけはわかった。だから止めようとしたのだが、ピュンマはさっさとリビングを後にしていた。
ひとり残されたフランソワーズ。なんだかぽかんとしている。
ただ甘えてふざけて言っただけなのに。なのになんだか――オオゴトになってしまった……ような気がしなくもない。

「……ちょっと言ってみただけなのに。だって」

ジョーの素敵に真剣な横顔なんて、いくらでも見られるのだから。

 


 

5月8日

 

「おい、なんだよお前その格好」

廊下で行き会ったジェットが呆れたように言う。

「いいでしょ、何でもないわよ私の勝手」
「いや、そりゃそうだけど」

立ち止まらずにすたすた行ってしまうフランソワーズ。ぞんざいな口調にジェットの眉が寄った。

「……お前、何かあったのか?」
「何かって何よ」

くるりと振り返る蒼い双眸。

「いや――ケンカとか」
「ケンカ?」

フランソワーズは今やジェットに体ごと向き直り、両手を腰に当てていた。当然のことながら、既にジェットは及び腰である。できればもう逃げたかった――が、問いを放ったのは自分だったからそうもいかない。迂闊だった……と後悔したところで始まるものはない。

「してるわよ?ええ、してますとも。いけない?」
「いや別にいけなくは」
「だったら放っておいて頂戴」
「え?あ、ああ……」

放っておくのはやぶさかではない。むしろ、今後一切ノータッチの宣誓をしてもいい。が、ジェットがそう祈ったところでそうそう天には届かないのであった。
ジェットが居心地悪そうに徐々に廊下を後退し始めたとき、フランソワーズの瞳にみるみる涙の粒が盛り上がり、ひとすじ頬を伝って流れた。

「うわ、何いきなり泣いてんだお前っ。俺が泣かしたと思われるだろっ」
「だって、ひどいんだもの」
「俺は何もしてねーだろーが」
「そうよ。ひどいのはジョーだもの!」

――俺はどうしてここでコイツと行き会ってしまったんだろう。何かの因果だろうか。

ジェットは真剣に思った。あと数秒でいい、ずれていたら会わずにすんで――イケニエになるのは別の誰かだったはずなのだ。ピュンマとか。
そんなジェットを知ってか知らずか、フランソワーズはジェットが考え込んでいる数瞬の間に彼との距離を一気に縮めていた。

「聞いてくれる?」
「へ?――うわっ」

いきなり腕のなかにフランソワーズが出現し――ジェットは情けなくもバランスを崩ししりもちをついた。

「なっ、お前っ、加速装置かなんか使いやがったなっ」
「私はそんなの持ってません」
「嘘つけ。今の速さは尋常じゃないぞ。絶対、ジョーの奴からもらっただろ」
「もらってないわ。ふん。あんなひと、何かくれるっていったってもらうもんですか」

いったい何があったんだ。

そう思ったものの、声には出さず自制する。が、今さらどうやってもフランソワーズがら逃れる術はなかった。

「ひとりで行っちゃったのよ、あのひと!」
「へっ?」

意味がわからならい。
ジェットは数回瞬きすると、反応を待っているらしくじっとこちらを見つめるフランソワーズに軽く咳払いした。

「ええと、何?アッチの話だったら俺はちょっと」
「アッチの話って何よ」
「いやだから、いっちゃうとかナントカ」
「そっちの話なんかするわけないでしょ!」

ぴしゃりと言われ、ジェットは肩をすくめた。
そもそもフランソワーズの反応もおかしい。いつもだったら、「いやん、ジェットのばか」くらい言うはずなのに、頬を赤らめもせずあっさりとかわした。

「いいから、聞いてよ!」
「いや聞いてるから」

座り込んだままのジェットにフランソワーズが屈みこむ。

「聞いてるけどさ、その頭突きというか目潰しというか、ちょっとヤメロ」
「何よ目潰しって」
「お前の頭についてる耳が目に入りそうなんだよ」

フランソワーズは瞳をくるんと回すと姿勢を戻した。

「あら、失礼」
「だいたい、どうしてお前がそれをつけてんだ。しかも――なんで猫になってんだ」
「だってジョーがひどいんだもの」
「だからひどいって何が」
「言ってるでしょ。ひとりで行っちゃった、って」
「いやだからどこに」
「スペインに決まってるでしょ!」
「スペイン……」

今週末はスペインでレースがあるのだった。

「――そりゃ別にひとりで行ったってよかろうよ。仕事だし」
「だって、今回は一緒に行こうねって言ってたのよ?それもジョーが!」
「奴にも色々な事情があるんだろうさ」
「事情ってなによ?」
「いやだから、お前さんの予定とか」
「ジョーのお誕生日前に色んな予定をいれるわけないでしょう!」

そうだった。
どうしてかフランソワーズはジョーの誕生日前にはいっさい自分の個人的な予定はいれないのだ。そのわけはジェットにはわからない。ただ、フランソワーズはなにか考えがあってそう決めているようだった。

「――で?置いていかれたから泣いてるのか」

ジェットはやれやれ困ったお嬢さんだなと言いながら立ち上がった。

「別に泣いてないわ」
「そうか?」

顔を覗きこまれ、フランソワーズはちょっと身を退いた。

「そうよ。目にゴミが入っただけよ」

そうして乱暴に手の甲で目を拭った。

「まあ、それはいいけどさ。それとこれとどう繋がるのか俺にはわからんが」

そう。
先日のジョーの猫耳カチューシャに引き続き、今日はフランソワーズがそれを装着しているのだ。しかも、どこから調達したのか猫の尻尾までつけている。

「だってジョーが」
「ああ、ジョーがどうした」
「私が猫の格好したら、可愛くてとてもじゃないけどひとりにさせられない、って言ったのよ。だから、もしかしたらこういう格好していたら、一緒に行こうとか、あるいは行くのを遅らせようかなとか言ってくれるかなーって思って。でもねでもね、ジョーったら、この格好でお見送りしてもちょっと笑っただけで何にも言わないの。ね、どう思う?ひどくない?ひどいわよね、ジョーのばか。だから、ジョーが本当に落ち着かなくなるようにずうっとこの格好をしていることに決めたの。そうすれば、離れていても今頃フランソワーズはあの可愛い猫の姿でいるんだろうなって思うだろうし、そうしたら落ち着かないからこっちに来いよって言うかもしれないし、電話だって頻繁に――」

そこでタイミングよく携帯電話が着信した。

「まあ!ジョーだわ!ほーら、やっぱり我慢できなく――もしもし、ジョー?……ううん。大丈夫よ?ジョーのほうは?――ええ、まあ、そうなの。えっ?うふふ、それはどうかしら。ジョーはどう思って……ま。やっぱりそうなの?もー、やあね、ジョーったら、もお、ばかっ。えっち。いまジェットがここにいるんだからちょっと待っ……」

こちらの世界に戻ってきたフランソワーズは、ジェットの姿を捜し四方を見回した。が、当然のことながら、ジェットはとうの昔に消えていた。

「ううん。いなかったわ誰も。だから平気よ。うふふ、そうでしょ?私がいないと――いやん、もお」

 


 

5月6日

 

そんなわけで、色んなものの区分けに忙しいフランソワーズだったが。

「――ジョー。ちょっと来て」

クローゼットの奥から名を呼ばれ、部屋の中に散在する箱を片付ける係だったジョーはそちらに向かった。

「なんだい?」
「座って」

にっこり微笑むフランソワーズに、言われるまま座り込む。

「なに?」
「これ。何かしら?」

言うとともに目の前に差し出されたのはカチューシャだった。

「何って、見ての通りカチューシャだけど」
「でもこれ、タグがついてないわよね」
「うん。店員さんが気を遣ったんじゃないかな」
「私が言ってるのはそういうことじゃないわ」

フランソワーズはにっこり笑う。

「これ、箱にも入ってなかったのよ。どこから出てきたと思う?」
「――さあ?」

じいっと見つめる蒼い瞳。見返すのは褐色の瞳。

「知らないわけないでしょう?」
「知らないよ」
「嘘が下手ね、ジョーは」
「なんだよ嘘って」
「だって、知らないわけないもの。ジョーのジャケットのポッケから出てきたんだから」
「――はあ?!」

ジョーは手を伸ばしカチューシャを掴もうとしたが、フランソワーズはさっと背後に隠した。

「駄目よ、証拠隠滅しようとしたって」
「そんなつもりじゃないよ、ともかくちょっと見せてくれ」
「イヤ」
「フランソワーズ」
「だっておかしくない?プレゼントだったら箱に入ってたり何かしら包んであるものでしょう?それなのに、そうじゃなくてこのままポッケに入ってたのよ?ということは誰かのもの、ってことでしょう?違う?」
「違うよ、何言ってるんだ」
「あら、とっても自然な論理の展開ですけれど?」
「ふん、憶測だろ」
「だって、マトモじゃないわ、こんなの」

そう言うと、フランソワーズはそのカチューシャをジョーに投げつけた。

「他の女の子にあげたのかもらったのか知らないけど、そんなのどうしてちゃんと処分しておかないのよ、ジョーのまぬけっ」
「なんだよ、そんなんじゃないって」
「ひどいわ!私だって、そりゃ……ジョーが他の女の子と一緒に居るのなんて考えたくもないけど、でも、前よりはずうっと寛容になったのよ。わからないようにしてくれれば、それでいいのに!」
「いやだから、聞けって。ひとの話を」
「何よ!浮気したって話?」
「してねーよっ」
「じゃあ、それはなんなのっ」

目尻に涙をためたフランソワーズを見て、ジョーは大きく深いため息をついた。

「……浮気なんてするわけねーだろ。これはだな。その……俺のだ」
「まさか」
「本当だって」
「嘘ばっかり」
「ほんとだって。信じろよ」
「じゃあ、信じさせてよ」

ジョーは再び大きく息をつくと、手に持っていたカチューシャを自分の頭に装着した。

「ほら。ぴったりだろ」

フランソワーズはただ無言でジョーの頭を凝視した。ぴくりともしない。何か言いたそうに唇が微かに開くが、声は出ない。

「……」
「なに?」
「……ジョー」
「なに」
「……あなたって、そういう趣味があったの?」
「ねーよ」
「じゃあ、どうしてこんな……」
「うるせーな。余興だ、ただの」

ジョーのスタッフは悪ふざけが大好きなのだ。

「余興……」

フランソワーズの目がきらんと光った。

「ね。じゃあ、頭だけじゃなかったんじゃない?」
「はあ?」
「体は?何か着たんでしょう?」
「べべ別に、着てなんか」
「着たのね!ね、それはどこ」
「……さあね。どっかにあるかもしれないしないかもしれない。知らないよ」
「もし見つかったら着てくれる?」
「イヤだ」
「だって、頭だけでもこんなに可愛いのにっ」
「絶対、イヤだ」
「いやん。ね、ジョー、お願いっ」
「そんな顔しても駄目だね」
「だって、ジョーったらすっごく可愛いんだものっ。他の人は知ってて私だけ知らないのってズルイわ!」
「別にずるくないから」
「見たいの!」
「見なくていいって」

フランソワーズはちょっと黙った。そうして頬を膨らませて――猫耳のついたカチューシャをつけたジョーをじっと見た。

「――じゃあ……しばらくそのままでいてくれる?」
「ええっ!?やだよ」
「駄目。だって可愛いんだもの」

 

***

 

猫耳のついたカチューシャ。
あまりに無造作にポケットに入れられていたのは何故なのか、ジョーは知らない。何しろ、それをつけた夜は仕事の打ち上げで――みんなヤケクソで――妙に盛り上がっており、コスプレ大会と化していたからだ。だから、ジョーはなぜか猫になっていたのだが、その時使ったカチューシャが彼らの手によってポケットに挿入されていたなどとは思いもしなかったのだ。そしてまさか今、フランソワーズの手によりみつかることになるとも。
そのまま放っておいたスーツケース。全くジョーったら駄目ねと開けたフランソワーズが見つけたのだった。
ジョーにとって幸運だったのは、その時着た猫の着ぐるみまでは入れられていなかったことである。そうでなければ、今頃それを着るハメになっていたことだろう。

とはいえ。

今日一日は猫耳のままなのかと思うと、げんなりしてくるのも確かだった。
何しろこれはきっと、フランソワーズが飽きるまではつけていなくてはならないのだろうから。

 


 

5月4日

 

「ジョー。ちょっとこれ持ってて」
「あ、うん」
「これも」
「……」
「大丈夫?ちょっとよろけたみたいだけど」
「う、うん。大丈夫」
「そう?無理しないでね」
「平気さ。君こそ無理するなよ」
「ええ、大丈夫よ。だって楽しいもの!」

楽しいんだ、そりゃ良かった……と、ジョーは小さく笑った。が、その笑いは唇が引きつっただけで声にはならない。
だからフランソワーズに気付かれることはなかったけれども、ひょっとしたら気付いてもらったほうがジョーは幸せだったかもしれない。
ともかく、いまフランソワーズはそれどころではないのだ。
脚立の上に立って、靴のしまってある棚の一番上のほうを整理するのに必死なのである。

「あ、これもすっかり忘れてたわ、春物じゃない。もったいないわ、履かなくちゃ!はい、ジョー」

いったん箱を開けて中を見て、そしてジョーの頭上に渡される。ジョーはそれを受け取り下に置く係なのだが、先刻からそれがひっきりなしなので、まとめて3箱になってから屈んで下に置く事にしていた。というのも、

「これはどうしようかしら。……ちょっと持っててくれる?」
「うんいいよ」
「んー……、あ。さっきの渡してくれる?」
「はい」
「ううん。これじゃなくて、その前に渡したの。……ああそう、これこれ」

というわけである。
これはしまってあったものを出すという単純作業ではないのだ。フランソワーズの吟味により選定されたものだけが出されるという選別作業なのだった。
だからジョーは、渡されたものをすぐに下ろすわけにはいかなかったし、渡されたものを間違わずに再度渡さなくてはならなかった。
なかなか辛い作業であり役割である。何しろ、手を挙げたまま待っていなくてはならないし、場合によっては手一杯のフランソワーズのために箱を開けて中身を見せるディスプレイそのものの役もしなくてはならない。

部屋でゆっくりごろごろできればそれでいいというジョーの目論見は完全に外れてしまった。

 

***

 

一緒にジョーのマンションへ行くと決めてからのフランソワーズは上機嫌だった。
みんなに行ってきますと明るく言い、博士とイワンには頬にキスもした。
いったい何がそんなに嬉しいのだろうとジョーは思ったものの、僕と二人っきりで過ごすというのが嬉しいのだろうなと思うと頬が緩んで仕方なかった。だから敢えてフランソワーズに訊いたりはしなかったのだ。
いま思うとそれが失敗だったのだろうけれど。

途中で食材を買っている時も、車内でも、駐車場に着いてからも。
ずっとフランソワーズは機嫌が良かった。だからジョーも機嫌が良かったのだけど、部屋に入って食材をしまって、さて二人っきりとなってからフランソワーズが豹変したのだった。

「ジョー。さあ、始めるわよ」

何が?

ソファに座って、煙草を吸おうかDVDでも見ようかぼんやり考えていたジョーは、目の前に仁王立ちに立ち塞がったフランソワーズを訝しげに見た。
ギルモア邸を出た時は確かワンピースを着ていた。それも、シフォン素材が重ねられた薄いピンクのひらひらした。
確かにそうだった。そして、ここに着いた時だってその姿のままだったはず――だった。
しかし、いま目の前にいるフランソワーズはジョーの記憶と全く違っていた。
きっちり束ねられている髪。Tシャツにジーパン。そしてエプロン。

「あれ?」
「あれ?じゃないわよ、さ、立って」

わけがわからず腕を引かれ、ジョーはそのまま連行された。玄関に。

「さ、いい?じゃあ始めるわよ」
「は」

始めるって……何を?

どこから持ち出したのか、そこには脚立があって。そしていまフランソワーズはするすると登って行くのだ。

「危ないよ」
「大丈夫よ。そのためのジョーでしょう?」
「って……」

それもどういう意味なのだろうか。

そしてジョーは見た。
そこには収納力抜群の大型クローゼットがあって、そしてそれには靴がしまってあって。
もちろん、ジョーの靴があるのだが、それは――2割程度であった。あとの8割は何故か……フランソワーズの靴であった。そしてその靴の入った箱がぎゅうぎゅうに納まっているのだった。

「うわ、凄いな。なんだそれ」
「何って靴よ?」
「それはわかるけど、いったいいつそんなに買ったんだい?」
「えっ?」

棚の中身を覗いていたフランソワーズがジョーの問いにこちらを見た。くるんと蒼い瞳が動く。

「そこにそんなにしまってあるの、知らなかったよ」
「あの……ジョー?」
「なに?」
「本気で言ってるの」
「え、ああ――別に怒ってないよ。そうだな、ギルモア邸じゃそんなに置けないし、僕のうちなら広いしいくらでも置けるし、うん。それは構わないけどひとこと言っておいてくれれば僕だって」
「そうじゃなくて。あのね」

フランソワーズは呆れたようにため息をつくと言った。

「これ全部、あなたが勝手に買ってきたものなんですけど?」

 

***

 

どうやらフランソワーズは「ゴールデンウィークのきまり」をどうあっても実行したいようである。と、ジョーは理解した。そうでなければこんなに嬉しそうに作業をするわけがない。

「大体ね、そんなに要らないし履かないわ、って私は何度も言ってるのに」

文句なのか愚痴なのかジョーにはわからないけれど、どこか嬉しそうに延々とひとり喋るフランソワーズ。口も動くけれど手も動く。次々としまわれていた箱が取り出され、中身を確認され、ジョーに降って来る。一個や二個ではない。

「なのに勝手に買ってくるのはジョーでしょう――きみに似合いそうだったからとか何とか言って。試着しないで靴を買うなんて、そんな恐ろしいこと私にはできないわ」

ジョーは黙ったまま箱を受け取り、渡し、そして受け取る。

「まったく男のひとってみんなこうなのかしら。それともジョーだけかしらってちょっと悩んだわ。でもジョーったら、サイズなんて知ってるから大丈夫だ、って言い張って。――ん、まあ、確かにサイズは合っているけど、ブランドによっては違っていたりするんだから」

フランソワーズは容赦なかった。

「でもそこが不思議なのよねぇ。いったいどこでどうやってそれぞれのブランドのサイズを知ったのかしら。同じサイズでも微妙に小さくできていたり大きかったりするのに、それもわかっているのよねジョーは。ほんと、なぜかしら」

ちらりと鋭い視線が投げられる。が、ジョーは手を伸ばしたままあらぬほうを見ているから目が合うことはない。

「でもね、ともかくそれは措いておくとして――思い出したのよ。春物の靴を買いに行こうと思った時。そういえば、確かジョーのところにあるはずだわ、って」

それはよかった。

「でもジョーのことだから、買うたびに棚に押し込んでいるだけでしょうって思ったの。それもたくさん。考えただけで眩暈がしそうだったから、だったらお休みが長くとれたときにジョーに手伝ってもらって整理整頓しなくちゃ、って」
「それが今日ってわけ?」
「そうね」
「つまり――」

これがしたかったから、ゴールデンウィークのきまりだのなんだの持ち出したってこと?

「あら、違うわよ」

ジョーの心の中を読んだかのようにフランソワーズが否定したからジョーは驚いた。

「素直にそういえばいいのに、って思ったでしょう。いま」
「思ってないよ」
「嘘。顔に書いてあるわ」
「えっ」

思わず顔を撫でようとして――両手が塞がっていることに気がついたときには遅かった。両手に持っていた靴と箱がばらばらと落下した。

「もうっ、ジョーったら」
「え、だって」
「そうじゃないわ、後付よこんなの」

そう言って、両手が自由になったジョーの上にフランソワーズが落下してきた。

「いててて」

受身をとれずにそのまま仰向けに床に激突したジョーである。もちろん、しっかりフランソワーズを抱きとめているから、彼女は無傷であった。
その無傷の彼女がジョーの鼻先にキスをした。

「整理整頓なんてついでに決まってるでしょ?――ジョーのばか」

 

***

 

そのまま靴の整理は曖昧になって、今度こそゆっくりごろごろいちゃいちゃするのだろう――とジョーは思った。が、今度も彼の予想は完全に裏切られた。
何故ならば。

「整理するのって靴だけじゃないのよ」
「えっ?」

フランソワーズに手を引かれ、ウォークインクローゼットに連れていかれた。

「見て、この箱の山。これぜーんぶお洋服が入っているんだから」

ジョーはなんだか居心地が悪くなってきた。

「それから、こっちはたぶんアクセサリーの箱ね」

箱には様々なブランド名が書いてあった。

「ねーえ?どうしてこんなにいろいろあるのかしら?これって私によね?それとも――他の誰かへのプレゼント?」

そう思って開けるに開けられなかったのだ。

「ち、違うよっ、全部フランソワーズのだよっ」
「あらそう」
「そうだよ、レースであちこち行くだろう?で、その時にふと思い出して似合いそうだなって思うといてもたってもいられなくなって、だから」

早口で弁明したものの、言わなくてもいいことまで言ってしまったような気がしてジョーは黙った。

「……あちこちで思い出したの?私のこと」
「え、いや……」
「思い出したんじゃないんだ?」
「いや、思い出したよ」
「じゃあ、何度も思い出したのね?」

何しろ一個や二個じゃないのだ。

「ね?ジョー」

ジョーは黙ったままである。

レースのたびに離れなければならない。もちろんそれはジョーだけの事情ではなくて、フランソワーズも公演があったりで同行したくともできなかったのだけれど。
それでも。
プレゼントの数だけ、ジョーは自分を思い出してくれていたことになる。
フランソワーズが喜ぶかどうかわからないし、身につけるのかどうかもわからない。だから、買ってはきたもののフランソワーズに伝えそびれてそのままになっていた。
それをフランソワーズはどうかして見つけたのだろう。

「――ごめんね」

不意に小さく言われたので、ジョーは思わずフランソワーズを見た。
フランソワーズはゆっくりとジョーの胸から背中に両手を回し、彼の腕のなかにおさまった。

「フランソワーズ?」

 

***

 

結局、整理整頓は明日以降へ持ち越しとなった。

が、しかし。

フランソワーズのひとりファッションショーが開催された。
ジョーはそれをベッドのなかから優雅に観察し――時には腕を伸ばしてモデルに叱られた。

 


 

5月3日

 

どこへ行くかで少し揉めた。
曰く、「ゴールデンウィークのきまり」を遵守するならば、普段はなかなか行く事が叶わない遠くへ行くべきなのだ。
だからフランソワーズも当然そのつもりのようであった。
しかし。

「車を出すのは構わないけど……凄い渋滞だと思うよ。テレビで観たんだろう?」

確か40キロの渋滞とか言っていた。そんな「日本一長い駐車場」と化した高速道路に加わるつもりはない。
だったら、逆に都内はどうかということになった。
しかし。

「でも、そんな近くなんていつでも行けるわ。ゴールデンウィークのきまりからは外れてしまうんじゃないかしら」

あくまでも「普段行かれないところへ行く」ことがきまりなのだとフランソワーズは主張する。
それは、どこか作為が入っているわけではなく、フランソワーズはただ単に素直に信じているだけのようだった。

「それに都内だと今度は駐車場が見つからないわ、きっと」
「うーん。だったら電車で行く?」
「電車……」

それもおそらく混んでいるのだ。
上り路線は何しろ混む。普段も混むけれど、それに加えてターミナル駅に向かう旅行客がいるのである。通勤で生じるある一定のルール。暗黙の了解。それらに従って移動しない彼らは、自身が混む理由になってしまうのだ。いきなり立ち止まる。広がって歩く。そして――自分が乗るべき路線が何番線なのかわからない。
ジョーはともかく、普段から電車も使うフランソワーズとしては、休日の電車はやはり避けたい乗り物のひとつだった。それに、今急に遠くへ行くといっても、その為の列車の指定席がとれるはずもない。しかも行ったところで宿の手配だってしていないし、突然行って空き部屋があるわけもなかった。

フランソワーズの顔がどんどん曇ってゆく。

ジョーは朝食に供された卵焼きを頬張りながら、正面に座るフランソワーズを見守っていた。
先刻のはしゃぎようからどんどん静かになっていくのである。そして今や、諦めた風情の落ち込んだ顔。

「――ねえ、フランソワーズ」
「なあに?」
「その……きまりとやらって遠くじゃなくてもいいんじゃないかな」
「え、でも普段行けないところ、って」
「うん。そこなんだけどね、フランソワーズ。きみはフランスのひとだから馴染みがないだろうけれど、僕は日本人でゴールデンウィークとはずうっと昔からの付き合いだ。経験がある。で、その経験上言うんだけど、ゴールデンウィークのきまりには裏技があるんだ」
「裏技?」
「そう。何も遠くへ行かなくてもいい、普段行かれない場所だったら近くでもいい――っていう裏技が、ね」

ジョーが片目をつむってみせた。

「本当?」

ジョーのへたくそなウインクにフランソワーズはちょっと笑った。ただ顔をしかめただけにしか見えない。

「うん。本当だよ――なにしろ裏技だから、あまりおおっぴらに言ってはいけないんだけどね」

フランソワーズが笑ったのが嬉しくて、ジョーも頬を緩めた。

「だから、そうだな――歩いていける場所っていうのはどうかな」
「歩いていける場所?」
「そう。でも、普段はあまり行かないところ」

そんなトコロがあるのかどうか知らない。

「それは……ジョーが行かない所、っていうこと?」
「僕はこのへんは商店街までしか行ったことがないから、行ったことがない場所なんてたくさんあるよ。そうじゃなくて、きみの行かない場所がいいな」
「私?」
「うん。普段、行きたいなって思っていて、でもなかなか行けないところ」
「だったら……ジョーのマンション」

頬を染めて下を向いて小さく言われたので、ジョーにははっきり聞き取れなかった。

「ええと、ごめん。聞こえなかった。どこかな」
「だから……ジョーのマンション」
「僕の?え、だってそんなところ普段いくらでも行けるじゃないか。鍵、渡してあったよね?」
「でもジョーがいない時に行っても楽しくもなんともないもの。それに、ひとりで待っているのってジョーは嫌いでしょ?」
「うん」
「だから、ジョーと一緒に行くの」

そんなのでいいのだろうか。あれほど、ゴールデンウィークのきまりとやらに拘っていたくせに。

「ジョーが裏技を教えてくれたんだもの、これだってじゅうぶんにきまりになってるわ」
「そ……」

そうだろうか?

――とはいえ。
ジョーに否やがあるはずもない。何しろ、彼にとってのゴールデンウィークはフランソワーズがそばにいることなのだから。彼女がそばにいて、そして部屋でゆっくりごろごろできればそれでいい。
いいのだけど。
なんだかうまく誘導されたような気がしなくもない。
ゴールデンウィークのきまりとか何とか持ち出して、実はジョーのマンションで二人っきりで過ごしたいとそういう心積もりではなかったのだろうか。

――ったく、素直にそういえばいいのに。

「なあに?」
「なんでもないよ」

ジョーはくすくす笑う。

「なによ、もう」
「なんでもない、って」

フランソワーズは頬を膨らませた。

「もう、知らないっ。いやなジョー」

 


 

5月2日

 

日本国ではゴールデンウイーク真っ最中である。誰もがこの長期休暇を有効に使おうとあれこれ予定を立て、遠くへ出かけたり、普段はなかなかできない家屋内の整理整頓などを行う。それが日本国のゴールデンウィークのきまりである。
――と、フランソワーズは聞いていた。
だから、やはりどこかへ出かけたり、あるいはギルモア邸の大掃除などをしなければならないと思っていたのだが、生憎ギルモア邸の住人に日本人はジョーしかおらず、したがって他の者は我関せずであった。
ジョーは日本人だから、ゴールデンウィークのきまりは守るだろう。
フランソワーズはそう信じていた。
無関心のようでいて、実は意外とそうでもないようなジョー。きっと、照れてしまって自分から「こうするものだ」と言い出せずにいるのではないだろうか。だったら、自分から言ってあげなくては。何しろ、自分は日本人ではないけれども、つまりその――ジョーのためなら、ゴールデンウィークのきまりとやらを遂行する手伝いをしてもいい。いや、是非とも一緒にやってみたい。そういう健気なオトメゴコロであった。

そんなフランソワーズの思惑を知らず、ジョーはいま自室にいた。
午前10時。
特に予定もなかったので、ジョーは未だベッドのなかで惰眠をむさぼっていた。
遮光ではないカーテンからは陽が透けており、部屋のなかはじゅうぶんに明るい。しかも、快晴らしく気温もしっかり上昇し、窓も開けていない室内も相応に温度が上がっていく。
だからジョーは、上掛けを跳ね飛ばし、パジャマのボタンをはずし腹と胸を出して眠っていた。全て無意識下の行為である。
なんとも幸せな時間であった。まだまだいくらでも眠っていられそうである――いや、眠る。少なくともあと5時間くらいは。

しかし、そんな幸せな時間は刻一刻と終了に向かって進んでいた。

そして今。その時が訪れたのである。

 

***

 

「ジョーォ。おーきーて」

語尾を伸ばす甘えた声とともにドアが開けられた。

「まあ!なぁに、その格好」

フランソワーズは室内の空気の澱みに顔をしかめ、真っ先に窓を開けに行った。カーテンを引いて、窓を開けると潮風が入り込んでくる。

「んー。気持ちいい。ね?ジョー」

しかし返事はない。
振り返ってみると、ジョーは先刻の姿と一分の変わりもなくそこにいた。フランソワーズという闖入者に慣れているからなのか、警戒心のかけらもない。もちろんフランソワーズは知らなかったが、この場合やってきたのがフランソワーズ以外の者であったならばこうはいかなかった。ドアを開けた途端に何かが起こるのである。だから、いくら仲間とはいえ他の者は誰もジョーを起こす為に部屋に入ることはしない。みんな一度やって来てそして二度と行かなくなった。が、そういう目に遭っていないフランソワーズにはなぜ自分だけがジョーを起こす係になっているのかさっぱりわからなかった。

「もお。おなかから風邪ひいちゃうわよ?」

ひとさしゆびでジョーの腹をつつく。
くすぐったかったのか、ジョーが微かに身じろぎした。

「ジョー?起きてるんでしょう?」
「……寝てる」
「ほぉら。起きてた」
「寝てるってば」

不機嫌そうな声。しかしフランソワーズはそれには全く構わず、今度はジョーの鼻をつまんだ。

「起きてください」
「んっ」

ジョーの手がフランソワーズの手を掴もうと伸ばされたが、フランソワーズはそれを見切っていて即座に離れたのでジョーの手は空を切った。ジョーが唸る。

「そんな声を出しても駄目。今日はそんなヒマはないの。早く起きて頂戴」
「……そんなヒマってどんなヒマ?」

そんな禅問答のようなジョーの反問には答えず、フランソワーズは声高く宣言した。

「今日はゴールデンウィークのきまりをしなくちゃならないんだから!」

ジョーはぱっちりと目を開けた。

「……はい?」
「ゴールデンウィークのきまり、よ!」
「……ゴールデンウィークのきまり……なに、それ」
「あら、知らないふりをしてもだめよ!そうはいきませんからね」
「いやだって」

本当に知らないのだ。
常々、フランソワーズは唐突なのだが、寝起きにこれをされると辛い。
ジョーはしばらく天井を見つめた。が、そこに答えが書いてあるはずもなかった。

「……ええと、その」

期待に満ちたマナザシで熱く見つめるフランソワーズの視線を避けるように、ジョーは体を起こした。そうして軽く頭を振った。

「……なんのことだろうか」
「ジョーは日本人なんだから、当然知ってるわよね?」
「だから何が」
「ゴールデンウィークのきまり、よ」
「……きまり」
「もう!昨日からテレビでずっと言ってるじゃない。高速道路が渋滞とかサービスエリアが混んでいるとか。みんな忠実にきまりを守っている証拠だわ。空港だって電車だってとっても混んでいるんだから!」
「……ええと、それが?」
「もう、ジョーったら、まだ頭が眠っているのね。――だからね、ゴールデンウィークにはどこかへお出掛けしなくてはいけないのでしょう?」
「……え」

なんだって?

「そういうきまりだって聞いてるわ」
「・・・・」

ジョーはため息をついた。
本当ならここで「誰に聞いたか」を尋ねるべきなのだろうけれど、聞かずともわかった。たぶんこういう変な入れ知恵をするのは――ナンバー008か002、もしくは004、あるいはこの三名全員である。いや、001ということもあるなとジョーは思った。思っただけで声には出さない。それを訊いたら話が長くなるからだ。こういう時のフランソワーズの取り扱いには慣れている。だからジョーは別のことを訊いた。

「で……どこに行きたいの?」

すると、フランソワーズの顔がぱあっと輝いた。

「いやだ、ジョー!どうしてわかったの!」

凄いわ、やっぱり愛の力ねとはしゃぐフランソワーズをよそに、ジョーは曖昧に微笑み、心のなかでため息をついた。
どうやら今年のゴールデンウィークはどこかへ行かなくてはいけないようである。

「……きまりを思い出したんだよ」