子供部屋
(新ゼロなふたりの日常です)

 

2月15日

 

「フランソワーズ。いったいどうしたんだ?」

少し語気を強めて問う。
フランソワーズはそれでも黙ったままだったけれど、僕の顔をちらりとみて少し迷っているようだった。

「ねえ、フランソワーズ。このままだと僕は誤解したままだけど、いいの?きみはそれで」
「・・・」
「僕は誤解するよ。きみが誰か他の男に会いに行くんだ、って。きみは本当にそれでいいの」

フランソワーズの体が揺れる。

「――フランソワーズ。頼むよ。・・・誤解したくないんだ。これからどこへ何しに行くつもりか教えて」

そうして僕はそっと手を離した。
フランソワーズはそのままここに留まり、そして顔を上げて僕をじっと正面から見つめた。

「・・・ケーキの材料が無いの」
「――えっ?」
「チョコレートケーキ。作ろうと思ったら・・・無くなって、て」
「・・・」
「ずっと前から練習してたの。今日のために。・・・ジョーのために。なのに・・・」

そのまま泣いてしまうのかと心配になったけれど、僕のフランソワーズはそんなヤワにはできていなかった。
きっと顔を上げると雄々しく宣言したのだ。

「だから材料を買いに行くの!そして、とびっきり美味しいケーキをジョーにご馳走するの!」

今にも走り出しそうな気配に、僕は慌ててフランソワーズの肩を掴んだ。

「ええと、それはどうも」
「お礼はまだ早いわ。食べてから言ってちょうだい」
「うん。でも、美味しいケーキだったから」
「まだ食べてないでしょう。あなたが今まで食べたことがないくらい美味しいのを目指しているの」
「うん。だから、美味しかったよ」
「何言ってるのよ、ジョー。食べてないでしょう。私の作ったチョコレートケーキ」
「え・・・と、だからその」

じっと見つめるフランソワーズ。
ああもう、やりにくいなあ。

「ジョー?」

静かな声が何だか怖いのは何故だろうか。

「食べたことないわよね?私の作ったチョコレートケーキ。今年初めて挑戦したんだもの」
「う、うん。そうなんだけど・・・」

ああ、とても目を見ていられない。

「その、意外とそうでもないっていうか、何故か味を知っているというか・・・」

フランソワーズの凝視のなか、僕はとうとう告白した。

「――食べました」

 

 

***

 

 

結局、私はスーパーには行かず、チョコレートケーキも作らなかった。
今は、ジョーの部屋で一緒にコーヒーを飲んでいる。

まったくジョーったら。

私の作った試作品のケーキをいつどうやって食べたのか。
答えは簡単だった。
どうやらジョーは、私がチョコレートケーキを作ることを知っていたらしく、毎日練習していたのも知っていたらしい。
その練習で作って余ったものは、冷凍してとってあったんだけど、ジョーはどうにも我慢できなくて解凍して食べてみたのだという。
冷凍庫内にケーキはとてもたくさんあったから、私も全然気付かなかった。
ジョーは、自分のとても好きな味だと確信し、本当に――今日食べられるのを楽しみにしていたのだという。
それを聞いて私は落ち込みかけたんだけど、不可抗力で作れずにいるのだとわかったジョーは、そうやってこっそり味見したケーキの感想を延々と述べてくれた。
本当は、今、一緒にケーキを食べているはずなのだけど、いまここにあるのはコーヒーだけ。
数ある冷凍ケーキのひとつを解凍しても良かったんだけど、基本的にケーキの解凍は自然解凍だから間に合わなかった。それを考えると、ジョーはいったいいつこっそりケーキを解凍していたのかと疑問に思うところだけど。
とんでもなく根気がいっただろうことは想像がつくし、そこまでして食べたかったのかしらと思うとちょっと胸が熱くなった。
油断も隙もないけれど、それもこれも全ては私が作ったものを食べたいという一途な思い。
・・・ただ単に食べてみたいという好奇心かもしれないけれど、それでも自然解凍を待つ手間は尋常ではない。

まったく、ジョーったら。

「甘やかしすぎよ」

コーヒーのカップに向かって小さく言う。
だって、ジョーったら私を甘やかしすぎる。こんなにされたら、私・・・どんどんジョーに甘えてしまうかもしれない。

「うん?何か言った?」
「ううん。何も言ってないわ」

ジョーはカップを置くと私を抱き寄せた。

「そう?」
「ええ」

でも今日はバレンタインデー。甘い甘い一日。
だから、ちょっとくらい甘えてもいいかもしれない。

「・・・ジョー?」
「うん?」

私はジョーの体に腕を回して、胸に頬を摺り寄せた。
こうしてぴったりくっついて、ジョーの体温や匂いを感じるのはとても好き。

「あのね。・・・だーい好きっ」

 

 


 

2月14日 その2

 

フランソワーズが僕からじりじりと離れていく。
背中に何か隠しているようだけど、僕からは見えない。

心ここにあらずのイベントを終えて、わくわくする気持ちを抑えながら猛スピードで帰ってきた。
そんな僕を待っていたのは、出かけようとしているフランソワーズだった。

ちょっと待てよ。だって今日はバレンタインデーだろ?
それこそずっと――きみが練習していたチョコレートケーキを披露してもらえる日じゃないのかい?

でも、リビングのテーブルを見てもそれらしきものは載っていなかった。
邸内にチョコレートの香りは漂っているのに、フランソワーズは何故か僕と目を合わせない。

これじゃあまるで、昨夜みた夢のようだ。
――嫌な夢だった。
でも、まさか・・・正夢?

「フランソワーズ、いったい」
「ごめんね、ジョー、急いでるの」

急ぐって・・・いったいきみはどこへ行くつもり?

 

***

 

僕はフランソワーズの後を追って玄関まで来ていた。でも、何と言って声をかければいいのかわからない。
だからぼうっと黙ったまま彼女を見送ることになった。
フランソワーズは一瞬、肩越しに僕を見ると、困ったように眉を寄せた。そして小さく「すぐ戻るから」と言った。

夢と違って、フランソワーズは手に何も持っていなかった。
いや、持っていなくはないのだけど、とりあえずそれは夢で見たようなチョコレートケーキなどを想像させるようなものではなかった。
だから僕はほっとするとともに、ますますわけがわからなくなってしまった。

玄関のドアが閉まる音がして、僕ははっと顔を上げた。
そのまま後を追って飛び出す。

「フランソワーズ、ちょっと待って」

門を出ようとしていたフランソワーズの背中がびくんと揺れた。

「な、なあに?ジョー。私、急いでいるから」
「送っていくよ」
「――えっ?」
「だってもう暗いし、天気も悪いし」

外はどんよりと曇っており、今にも雨か雪が降り出しそうだった。

「どこに行くのか知らないけどさ、送っていくよ」
「え、い、いいの、一人で行けるわ」
「だってその様子じゃバスを使うつもりだろう?今の時間帯なんてなかなか来ないよ」
「でもいいの、一人で行くの」
「・・・フランソワーズ」

僕は走りだそうとするフランソワーズの腕を掴んだ。

「待てってば」
「離して、ジョー」
「イヤだ」
「どうしてっ・・・」

泣きそうなフランソワーズの顔をじいっと見つめ、僕は少し怖い声を出した。

「――フランソワーズ。今日は何の日か知ってる」
「・・・知ってるわ」
「どこに出かけるつもり」
「それは・・・」

言えないわ、と小さく言われた。

「ふうん。だったら僕は誤解するけど構わない?」
「誤解?」
「そう。今から出かけるなんて、どこかで誰かに会うつもりなんじゃないの――ってね」
「どこかで誰かに、って・・・」
「――きみが告白したい相手。男」
「な、なによそれっ」
「だって僕を置いて行くんだから、そうだろう?それもこんな日に」
「違うわ」
「どこが違うんだい?」
「だって、私が行くのは」
「行くのは?」

フランソワーズは諦めたようにため息とともに吐き出した。

「・・・スーパーだもの」

 

***

***

 

午後になって、そろそろチョコレートケーキを作ろうとキッチンに向かった。
いよいよ、今までの特訓の成果を見せる時。
私は深呼吸してから冷蔵庫から材料を取り出した。
ううん。取り出そうと、した。

そして。

「・・・無い」

愕然とした。
今朝まではちゃんとあったはずの、卵と牛乳が消えていたのだ。
失敗しても作りなおせるくらいの量を用意していたはず。それが全部、忽然と姿を消していたのだ。

「――どうして」

そこへふらりとピュンマがやって来た。

「あれ、どうしたんだいフランソワーズ」

冷蔵庫の扉を開いたまま固まっている私にピュンマが言う。

「そうそう、今日の昼ご飯、オムレツを作って食べたんだ。大量に卵があったしミルクも余ってたみたいだし。早めに使わないと駄目だろう?」
「・・・・・・オムレツ?」
「ああ。フランソワーズはそれどころじゃないだろうって事になって、僕たちだけでなんとかしたんだ」

確かに、それどころじゃなかった。そう――お昼ゴハンを忘れてしまうくらい。

「ケーキを作っているのは知ってたけど、もう出来上がっているんだろう?最新作は部屋に置いてあるのかい?」
「・・・・」
「昨日までのは冷凍庫にあるし。――ま、僕たちはそれで構わないよ。お裾分けしてくれなんて言ったらジョーが暴れるだろうからね」

笑いを含んだ声で楽しそうに言う。

「でもせっかくだから、デートとかすればいいのに。出かけないのかい?」
「・・・出かけます・・・」
「あ、出かけるんだ?そうだよなあ、街は愛で溢れているんだし」

振り返ると、コーヒーカップを手にピュンマが微笑んでいた。

「楽しんでくるといいよ」

 

***

 

どうしよう。

ジョーが帰ってくるまでに何とかしないと。

私の頭のなかにはそれしかなかった。だから、スーパーまでダッシュで行ってこようとした矢先にジョーが帰ってきて死ぬほど驚いたのだ。だってまさか、こんなに早く帰ってくるなんて思ってもいなかったから。

いま、ジョーに会うわけにいかない。

だってまだ、ケーキが出来上がっていない。
今までさんざん練習してきて、本番直前にこういうことになるなんて。思い返すと涙が出そうになった。でも泣いている場合じゃない。どうにかしないと、それこそ今までのことが全部無駄になってしまう。

私は期待に満ちたマナザシを向けるジョーから逃げ出した。

 

***

***

 

「スーパー?」

僕はただ鸚鵡返しに口にした。

「そうよ」

対するフランソワーズは諦めたようにぶっきらぼうに答えた。

「お買い物に行くの。これから」
「これから、って・・・。だったら余計、車を出すよ。僕も行く。買い出しに一人で行くなんて無理だよ」
「・・・買出しじゃないわ」
「でもスーパーに行くんだろ?」
「そうだけど。・・・でも」

妙に煮え切らない。
だから僕は、なんだか急にイライラしてしまった。
だってそうだろう。スーパーに買い物に行くのに一人だなんて絶対におかしい。ギルモア邸の住人に必要な食材の量は半端じゃないんだ。

――本当はスーパーに行くのではないのかもしれない。
あるいは、どこかで誰かと待ち合わせている――とか。

そう思うと、なんだかそれが事実のように思えてきた。

「ジョー、離して」

フランソワーズが身をよじる。でも僕は掴んだ腕を離さなかった。

 


 

2月14日  真夜中のキッチン

 

試食をしてもらわないまま作り続けるのって、けっこう大変だった。
いつもなら、ちょっと味見してくれないって言って、で――彼が食べるのをどきどきしながら見守って。
でもジョーはいつも、うん美味しいよとしか言わないから、それじゃわからないじゃないと私が怒って、ジョーは困ったように頭を掻いて。そして言うの。

「フランソワーズの作ったものなら、なんでも美味しいよ」

って。
もう!やあね、ジョーのばか。


・・・なあんて、思い返せばけっこう――ううん、かなり幸せだったなあ私。
あてにならないジョーの味覚。でも、嬉しそうに言うジョーが可愛くて、そんな彼を見ているのが幸せだったから私は結局何も言えなくて。そんな時間が大好きだった。

だから、試食してもらわないのみならず、こうして作っているのも秘密というのはけっこう辛いかもしれない。
何度作っても、本当にこれで大丈夫なのか全然わからないし。もうチョコレートの匂いにもうんざりしてきたし。

・・・いま、何時だろう?

時計を見たら午前3時だった。
ああもう、さすがに寝なくちゃ。大きく伸びをして目の前のケーキを見つめる。
午前3時のキッチンには不似合いな量の、焼きたてのケーキたち。いくつあるのかというと・・・数えてみてちょっとうんざりした。これ、どうしよう。アレンジして明日というか今日の朝ごはんにしてしまおうか。
たぶん、ジョー以外は気付くだろう。何の残骸なのか。でもきっと黙って食べてくれる。14日までの辛抱だと思ってくれる。――そんなの申し訳ないから、やっぱり一人で食べるのがいいのかもしれないけれど。
あるいは冷凍してとっておくとか。いちおう、全部ちゃんとしたケーキに出来上がっているから、後日食べるぶんには問題ないはず。問題は冷凍庫のキャパシティだったりするんだけど。既にチョコレートケーキで埋まってるなんて誰にも言えない。

ジョーのせいよ。
夜中の3時にキッチンにいるなんて。

わかってる?ジョー。
今頃は何もしらずにぐうぐう眠っているはず。行って鼻でもつまんでやりたい。

私はそんな彼の隣に潜り込みたい気持ちを抑えて、後片付けに取り掛かった。

 

***

 

ここのところ、朝食当番は免除されていた。バレンタインデーの準備があって忙しいからと無理言ってみんなにお願いしたのだ。もちろん、当日には全員にその成果を披露する約束つきで。
そんなわけだったから、今朝もちょこっと寝坊した。
だって仕方ないじゃない。ベッドに入ったのって朝の4時なんだから。昨夜、後片付けにけっこう時間がかかってしまってこうなった。

でも、それも今日まで。

今日は今までの成果を存分に発揮する日で――ジョーは何て言うかしら――鼻歌混じりにリビングに下りて行ったら、あら珍しい、ジョーがもう起きてコーヒーを飲んでいた。

「おはよう、ジョー。早起きね」
「おはようフランソワーズ」

ジョーはにっこり微笑むと言った。

「今日はイベントがあるからね」
「イベント?」
「そう。毎年恒例のバレンタインイベント」
「恒例の・・・って・・・あ!」

すっかり忘れていた。
そうだった。
ジョーは毎年、2月14日にはファンの集いに出るのだった。大事なお仕事である。

「何時頃帰るの?」

思わずジョーに詰め寄ってしまった。
だって、うんと遅くなるなんて困る。

「うん?そうだなぁ・・・いつもと同じくらいには帰ると思うけど」
「いつもと同じくらい・・・」
「夕方かな。遅くても7時までには絶対戻れると思うよ」

そう――そう、ね。去年も確かそのくらいだった。
チョコレートがいっぱい入った紙袋をいくつも持って帰ってくるんだったわ。

「遅くなるときは電話するから」

そう言ったジョーに頷く。
毎年思うのだけど、どうして2月14日にイベントをするのかしら。スタッフやファンの子にとっても特別な日だったりするのではないかしら。
以前、ジョーにそう尋ねたことがある。すると答えは簡単だった。なんと自分は暇だからそうなったとのこと。
でもそれは、フランソワーズに会う前の話だよ――と笑っていたけれど。
そろそろ違う日になってもいいのじゃないかしらなんて思う。もちろん、私は片思いじゃないからそんなに危機感はないけれど、でも・・・。

 

***

***

 

「ただいまー」

ジョーがリビングに入って来た。
疲れた顔。なんだかヨレヨレになっている。両手にはチョコレートのはいった紙袋が4つ。

「ああ、疲れた」
「お帰りなさい、ジョー」

今朝言っていたより早い帰宅に私は内心とっても焦っていた。
だって、まだ午後4時で。それに――不測の事態が起こっていたから。

私はジョーに微笑むと、そのままじりじりと彼から離れた。
何か言われる前に、抜け出さなければ。

「フランソワーズ?」

ジョーが眉間に微かに皺を寄せる。

「どうかしたのかい?」
「え、あ、ええ――ちょっと出かけてくるわ」
「出かけるって・・・これから?」
「ええ」
「・・・」

ジョーは何か言いかけて、でもそのまま口を結んだ。何か考え込んでいるようだったけれど、ごめんねジョー、今の私にそれに構う余裕はないの。
私はジョーをそのままにギルモア邸を後にした。

 


 

2月13日  ひとり寝

 

僕は部屋に帰るとそのままベッドに寝転がった。
なんだかいつもよりベッドが広くなったような気がする。そんなはずはないけれども、でももしかしたら実際に広くなったのかもしれない。後で測ったほうがいいかもしれない。

そんなことを考えながら天井を睨む。

そりゃ、僕だってオトナだ。添い寝が必要なちびっ子ではないし、そもそもちびっ子の頃も添い寝が必要だったことなどない。もっとも僕の場合は添い寝を希望したところで叶えられなかったから、怖くても寂しくてもなんとか夜を遣り過ごすしかなかったのだけれど。もしかしたら、その反動で、オトナになってからの独り寝が辛いのかもしれない。

でも、誰だっていいというわけではない。
フランソワーズに会う前は・・・誰でも良かったということを否定できないけれど、でも今は違う。

フランソワーズじゃなきゃイヤだ。
フランソワーズがいい。

別に一緒に寝たからって何をするわけでもない。(もちろんすることもあるけれど)
ただ、隣にフランソワーズがいるだけでいい。
それだけで僕は安心するし、ぐっすり眠れるんだ。

だから。

・・・やっぱり朝よりベッドが広がったような気がする。伸縮自在の特殊ベッド。僕のベッドはきっとそういう作りだったに違いない。おそるべしブラックゴーストの技術。

僕はため息をつくと寝返りを打った。

フランソワーズ。

やっぱり、誘えば良かったなあ。

 

***

 

「えっ、これは違うの、そうじゃないの・・・」

伏せた睫毛の隙間から蒼い色がちらちら覗く。頼りなげに揺れる語尾。

「違うって何が」

対する僕は、予想外のフランソワーズの態度に戸惑うばかり。
だって誰が想像する?こんな反応。

今日は2月14日、バレンタインデー。
日本では女性が男性に愛を告白する日。チョコレートを携えて。
だから僕は、当然そう思っていた。毎年そうだったし、だから今年も、って。
それに。
それに――フランソワーズは僕の恋人なんだから。だから、フランソワーズがチョコレートを渡す相手は僕しかいない、って。
だから、彼女が数日前から練習してきたチョコレートケーキを受け取るのは僕だとそう思っていた。
今年はチョコレートケーキを作るなんて全く知らないフリで、受け取ったら大げさに驚いて喜んで――って、そんな風に考えてもいた。

なのに。

フランソワーズの持っているケーキの箱。
それは、僕の手に渡らず彼女の背中に回された。

「え・・・と」

何て言ったらいいのかわからない。

「それ、・・・博士にあげるの?」

出てきたのは馬鹿みたいな問い。

「ううん。違うわ」

フランソワーズは小さく言う。
言ってから、非常に言いにくそうに付け加えた。

「これは、その・・・これから渡しに行ってくるの」

渡しに行く。と、いうことは、渡す相手はギルモア邸にいる者ではないということになる。

「・・・出かけるんだ?」

掠れた声が我ながら情けない。
情けないといえば、今のこの状況も涙が出るくらい情けないんだけど。

フランソワーズは声もなく頷くと、僕をかわして歩み去った。

今年のバレンタインデーはなんとも虚しい日となった。
幾日も前から浮かれていた僕は馬鹿みたいだった。

・・・。

・・・・・・・・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・?

 

「・・・なんだ、これ」

目を開けると天井が見えた。

「・・・夢か」

嫌な夢だった。
フランソワーズが僕に隠しながら作っているチョコレートケーキ。でもそれは僕に渡すものではなかった――なんて。
考えるだに恐ろしい。
僕は身震いした。

夢だ。考えるな。
怖がるな。
ただの夢だ。こんなの。
だってフランソワーズが僕以外の男に愛の告白なんてするわけがない。

・・・しないよね?フランソワーズ。

夢のなかの僕はいい笑いものだったけれど、今の僕も結構笑える奴かもしれない。
だって、フランソワーズが僕以外の誰かに愛の告白をしたらどうしようなんて本気で考えてしまっているのだから。
しかも、本当にそうだったらなんて真剣に悩み始めてしまっている。

そんなわけないだろ。しっかりしろよ、おい。

体を起こして頭を振ってみる。
なんだか凄い怖がりになってしまったようだった。
きっとこれは、夜にひとりで寝ていたせいに違いない。しかも、こんな広いベッドで。
いまここにフランソワーズがいたら、絶対にこんな夢は見なかったし、こんな思いもしなかったはずだ。
だからいま僕がこんな思いをしているのは全部フランソワーズのせいで、ここにいないフランソワーズが悪い。
でももっと悪いのは、ひとりで寝るのは寂しいから一緒に寝てくれと言えなかった僕だろう。
だから一番の悪者はやっぱり僕自身で、そんな僕は広くて広くて仕方ないこの謎のベッドにひとりで眠る刑に服すしかないのだろう。

ため息が出た。

フランソワーズのせいでこんなになってしまう僕はなんて情けないんだろう。
わかっているのだろうか、フランソワーズは。

・・・いま、何してるんだろう?

ふと思って時計を見た。
午前3時だった。

――さすがにもう寝てるよな。

僕は彼女の寝顔を思い浮かべ――るんじゃなかったと後悔した。
だって思い浮かべたら、もう会いたくて仕方なくなってしまったから。
あの可愛い寝顔を見たい。ひとめでいいから。

いつもの僕だったら、躊躇せず彼女の部屋に行っていただろう。
でも今日の僕はいつもと違う。
我慢した。
どうだ、偉いだろう。僕だってたまには我慢したりもする。ストイックに生きることだってできるんだ。

できるんだけど。

ストイックって、ちょっと泣けた。

 


 

2月12日  挙動不審

 

「フランソワーズ、どうかした?」
「えっ!?べ、別にっ」

取り繕うような笑み。でも目が泳いでいて、僕は知らんぷりを決め込むのがとても難しかった。
だけど、何も見ていないし聞いてもいない。そんな顔をしてみせる。

「それより、どうしたのジョー。何か用?」
「えっ・・・いや」

そう正面きって訊かれると困ってしまう。
だって、用事なんて何もないから。
ただフランソワーズの顔を見たくなって部屋をノックしただけのことだから。

フランソワーズの部屋にしばらく入らないと決めたから、僕は一歩も中に入っていない。そしてそれはフランソワーズにとって有り難かったらしく、彼女は背後に何か隠したまま動かずにいる。
僕はドアを少し開けて顔だけ覗かせているというわけだった。

「え・・・と」

さて、何といったものだろう。
考えあぐねている僕がよほど不審人物だったのか、フランソワーズは背後になにやら隠したものをどうにかすると、立って僕のそばにやって来た。

「ジョー?」

小首をかしげる。

「どうしたの?」
「ん?いや・・・」


――僕の部屋に来ない?


「いま忙しいかい?」
「え?ええ・・・忙しいといえば忙しいけど」

ちらりと背後を気にして。

「でもそうでもないわ。何かしら」

とはいえ、心ここにあらずという風情だったから、僕は自分のわがままな願いを胸にしまいこんだ。
当分、ひとりで寝るのかと思うとひどく寒々しかったけれど。
そんな僕がどう映ったのか、フランソワーズは少し笑うと言った。

「でもちょうど良かったわ。ちょっとジョーに訊きたいことがあったの」
「訊きたいこと?」

なんだろう?

「あのね、男のひとって甘い物って得意じゃないひとのほうが多いわよね・・・?」
「うん?」
「ジョーもそうでしょう。卵焼きは甘いのだけど、ふだん、・・・例えばケーキとかはあまり食べないし」

ケーキね。
例え話が下手だなあ、フランソワーズ。丸見えじゃないか。
でもそんなところも可愛いんだけど。

「そうでもないよ。甘いのだって平気さ」

フランソワーズが作るものならなんだって。

「そう?大丈夫?」
「うん」
「良かった」
「え、何が?」
「あ、ううん。なんでもないのっ」

慌てて手をひらひらさせるフランソワーズ。
隠し事してるつもりが実は僕は全部知っていると知ったらどう思うんだろう?
言わないけれど。

「そう・・・大丈夫なのね」

確認するように改めて言うと小さく頷いた。

「わかったわ」

そのままフランソワーズに見送られるようにして、僕は自分の部屋に戻った。
戻ってから、あれ今の僕の行動ってまるまる不審者じゃないかと思い至った。

フランソワーズは用もなく立ち寄った僕をどう思っただろう・・・?

 


 

2月8日  パニック

 

ジョーォ、だーいすきっ。


心の中で言っただけなのに、照れて真っ赤になってしまう。頬が熱い。
ううん。頬だけじゃなくて、体全体が熱い。
細胞のひとつひとつ、流れる血液のひとしずくまでもが、ジョーを好きだと訴えてくる。
息苦しい。
死んじゃいそう。

ううん。

死んじゃだめ。

この溢れる熱くて苦しい思いをジョーに伝えるまでは死ねない。
こんなにこんなに大好きなんだもの。大好きなひとに大好きって言ってしまいたい。
言わないともったいない。

だって、体のなかから温かくなって、自然に笑顔になっちゃうの。
苦しいけれど嬉しい気持ち。

わくわくする。

どきどきする。

でもそれが嬉しい。

そういう気持ちになるのよ、不思議でしょうってジョーに伝えたい。


ああ、でも。

心の中で言うだけでこんなにどきどきするのに、口に出して言うなんてできるのかしら。


・・・練習、してみようかな。

そう、ちょっとだけ声に出して。


「ええと」

なんだかかしこまってしまう。

「ジョー、だ・・・」

やだ、緊張するっ。

「だーいすきっ」

い、言えたっ・・・。

大きく息をはきだした時。

 

「呼んだ?」


!!!!


「じ、ジョー?」


もしかして聞かれた?

だって、なんだかジョーの顔赤いし!!

 


 

2月7日  僕はそれを見ていない

 

その日、僕はわけもなく浮かれていた。

いや、厳密に言うとちゃんとわけはあった。あったんだけれども、なんというかそう・・・思い返すとどこかこそばゆいので忘れたフリをしていたのだ。
心のどこかにちゃんとあるのはわかっているけれど、直視するのはちょっとねという感じ。

そんなわけだったから、僕はわけもなく浮かれていたとそういうことだ。
以降、その辺りは不問でお願いしたい。


さて、浮かれた僕は部屋を出るとキッチンに向かった。
たぶん、ここにいるだろうと思いながら。
でも決して中には入らない。
別に結界が張ってあるわけじゃないよ。自発的に入るのを慎んでいるわけだ。
だから、ちょっと覗くだけにした。

いた。

「フランソワーズ?」

後ろ姿に声をかけると、驚いたのか肩が揺れた。

「あ、な、なあに、ジョー」
「いや、そろそろ買い物に行くかなと思って」
「あらやだ、そんな時間?」
「そんな時間」
「すぐ支度するわ、・・・」

支度するわと言いつつ、僕をここに残していくのは気がすすまないらしい。背中に何か隠している。
僕は、気を利かせた。

「車、回してくるよ」

そうしてギルモア邸を出てガレージに向かった。
明らかにほっとした顔のフランソワーズを思い返しながら。

かわいいなあ。

可愛かったな。

ともすれば緩む頬の内側を噛んで真面目な顔を保つ。
うん。
しばらくは気を付けないといけない。特にキッチンは要注意だ。
あと、フランソワーズの部屋も。

そこまで思って、しばらく立ち入りを我慢するのは寂しくなった。
フランソワーズの部屋は居心地がいい。落ち着くし、部屋の主が不在でも彼女の匂いがするから大好きだ。
でも、しばらくは入れないんだよな。
いや、入らないと決めたと言うべきか。

うん。
仕方ない。フランソワーズのためだ。

・・・僕のためでもあるけど。

いかん、また頬が緩んできた。しゃっきりしなくては。


ガレージに着いた頃には、僕の浮かれた気分も落ち着いてきた。

そう。
心のどこかにあるけど、僕はそれを見ていないし知らない。
そういうことになっている。

 

『恋人に贈る手作りチョコレートケーキ』特集の載った雑誌。
開いたページに蛍光ペン。

 

僕はそれを見てはいない。

 

 

*****
バレンタインデーのお話その@のはず・・・デス。