子供部屋
(新ゼロなふたりの日常です)

 

6月20日

 

「それで、ジョーは今日、何をしていたの?」
「えっ?」

フランソワーズの素朴な疑問であった。
ちなみに「今日は」と言っているけれど、まだ昼を少し過ぎたくらいである。「今日」はまだまだ残っている。

「うん…朝ごはんを食べて」
「ええ」
「…なんだか眠くなったから」
「また寝たの!?」

驚いて言うのにジョーは多少気まずいのか、やや頬を染めた。

「でもさ」

弁解するように言う。

「あまり寝てないから。昨夜」
「そうだったかしら…」
「うん」

そんな覚えはなかったから、フランソワーズは首を傾げた。
自分もジョーもそんなに夜更かしはしなかったはず。

「うん…ちょっと、ね」

雨の音を聞きながら、フランソワーズの寝顔を飽かずに眺めていた。…なんてことは言えない。
それはジョーにとってあまりに幸せすぎる時間であったし、だからこそそんな――言葉にすると気障極まりないことはとてもじゃないが言えなかった。
だからジョーは、濡れるよと言ってフランソワーズの肩を引き寄せた。
フランソワーズはちっとも濡れてなどいない自分の肩に目を遣り、それでも引き寄せられるままジョーに身をよせた。

傘にあたる雨の音だけがふたりを包む。

雨の日が嫌いだと公言しているジョー。けれども、自分と一緒にいる時だけはそうではないのだと言う。
それを聞いたのは初めてだったけれど、彼がそう思うようになってくれたのはいったいいつからだったのか。フランソワーズにはわからなかったけれど、それでも彼のなかで自分の存在が少しずつでも意味を持つようになってくれたのなら嬉しかった。
彼のなかでほんのちょこっとでも――特別な存在で有れたなら。

 


 

6月19日

 

しばらく雨が傘に当たる音だけがしていた。
ジョーが持ってきた傘は彼のものであろう男物であったから、ふたり一緒に入ってもそれほど窮屈に感じなかった。
と、フランソワーズは思っていた。
でも、しばらく無言で歩いているうちにふと気がついた。

――あまりにも空間に余裕がありすぎる。

いくら男物の傘といっても、所詮は傘である。広げた下の空間には限界があり、成人二人が入っても全く濡れずにすむほど広くはない。…はずである。

…おかしいわ。

そうしてジョーに気付かれないようにそうっと自分の肩を見た。もちろん濡れていない。外側になっているにも拘らず。だから今度はそうっとジョーを窺った。

と。

「ジョー!」
「え、何?」
「何、じゃないでしょう」

彼はなんと半身がずぶ濡れだった。

「どうしてっ…」

フランソワーズが慌ててジョーを傘の真下へ引き寄せようとしたけれど、ジョーは頑なだった。びくとも動かない。

「もうっ、どうしてこんなに濡れてるの」
「え?」
「え、じゃないでしょう」
「だって別にたいしたことじゃないし」
「たいしたことじゃない?」
「うん。ちょっと濡れたみたいだけど」
「ちょっと、って…」

ちょっとどころではなかった。が、ジョーは特にそれをなんとも思っていないようできょとんとフランソワーズを見返すのだった。

「フランソワーズは濡れてないよね?」
「えっ?…ええ。でも」
「じゃあ、良かった」
「良かった、って…」
「前に言っただろ。僕は濡れて歩くのが好きなんだ」
「そ」

そんなわけないじゃない。

そう言おうと思ったけれど。

――バカなんだから。

彼の基本姿勢は知っている。だから、フランソワーズは何も言わずそのままそっと彼の肩に寄り添った。

ジョーは、いつだってフランソワーズを一番に考えており、彼の行動は全てそれを至上として決定されてゆく。
いつかそう言っていたのを聞いたことがある。勿論、直接言われたわけではなく偶然知ってしまったのだけれど。
自分にそんな価値があるのだろうか。
そう思い悩んだこともあった。
でも。

ジョーがそう言うんだから、きっとそれでいい。
彼がそう望んでいるのなら、おそらく――そうされることを拒絶してはいけないのだ。
もしフランソワーズがそれを否定したら、きっとジョーは。

「ジョー」
「ん。何?」

大好き。

「…ううん。なんでもない」


 

6月18日

 

迎えに来て。
と、言った憶えはなかった。

出かけるから。
と、言った憶えもなかった。

なのに。

電車を下りて改札口へ向かう階段を下りながら、フランソワーズは鼓動が早くなるのを抑えることができなかった。

 

***

 

日本の6月は梅雨だから、出かける時は必ず傘を持っていくこと。
これは日本に住むようになってからの鉄則だった。少なくともフランソワーズにとっては。雨に濡れても別に構わないというどこかの誰かさんとは違って、雨が降るとわかっていてわざと濡れて歩くような趣味はフランソワーズには無かった。
だから、今日も持って出たはずだった。
しかし、バッグに入れたはずの折たたみ傘はどうしてか見つからなかった。
ギルモア邸を出る時は晴れていたからだろうか。あるいは、どこかに置き忘れたか。
ちょっと本を買いに出ただけのつもりが、あちこちの店を見て歩くのが楽しくて予定していたより長い外出になってしまった。そのせいだろうか。帰りの電車に乗っている間に雨が降り始めてしまったのだった。
電車のなかでそれに気付いてバッグの中を探ってみたものの、いっこうに傘に行き当たらない。
――仕方ない。近くのコンビニで傘を買おう。
そう思ってため息をついた。帰れば傘がちゃんとあるのに、コンビニで傘を買うなんてあまり好きではなかったから、フランソワーズは自分のミスにほんの少し落ち込んだ。

そんな多少の憂鬱を抱えて電車を下りて、さてどこで傘を買ったら安くすむだろうかと考え始めた矢先だった。ジョーを見つけたのは。

本来なら、駅からバスに乗るからすぐに濡れる心配はないし、もしかしたら着くまでに雨が止むかもしれないから傘がなくてもそんなに気にする必要はなかった。しかし、この時間帯にバスは一時間に2本しかなく、直近のバスは行ったばかりだった。だからフランソワーズは歩いて帰るつもりだった。予想外に遅くなってしまったのは自分のせいでもあるし。そして、傘を駅の売店で買おうかちょっと歩いた先にあるドラッグストアで買おうか思案し、目を使って値段を確認しようとしていたら――改札口の近くにぽつねんと佇んでいるジョーを見つけたのだった。

 

***

 

ジョーとは、朝ごはんの後にちょっと会っただけだった。

いつものようにみんなよりやや遅めに起きてきたジョー。そんな彼につきあうこともあったけれど、今日はそうではなかった。フランソワーズは出かけるつもりだったから、忙しかったのだ。
だから、ジョーの顔を見たのは彼が朝ごはんを食べたあとふらふらと廊下を歩いていたのに行き会った時だった。

「あ。おはよう、フランソワーズ」
「おはよう、ジョー」
「…なんか、忙しそうだね」
「そう?いつもと同じよ?」
「…そうかな」

そうして大きな欠伸をしたジョー。
お互いに今日の予定を話したりもしなかった。だから、フランソワーズが出かけることも知らないはずだしフランソワーズも今日彼が何をして過ごすつもりなのか知らない。

とはいえ。

さすがに昼ごはんの時にギルモア邸にいなければ、出かけたのだろうと想像くらいはするだろう。
そう考えて、フランソワーズはちょっと笑った。

――そうよね。お昼にいないんだもの。出かけてるって思うわよね。

しかし。
そう思っても、彼がここにいる理由はさっぱりわからなかった。

 

***

 

うぬぼれちゃいけないんだわ。

ドキドキする胸を押さえ深呼吸してフランソワーズは改札口に向かった。既に肉眼でもジョーの姿を確認することができる距離にいる。

そうよ。別に私を迎えに来たわけじゃない。ジョーもこれから出かけるのかもしれないし。たまたま駅でばったり会っただけ。それだけのことでしょう。

そう自身に言い聞かせながら、改札口を通る。ジョーは明らかに人待ち顔なのには気付かないふりで。

ジョーの姿を見つけてから、自分を迎えに来たのだと思ってしまっていたけれど、冷静に考えてみればそうではないことは明らかだった。
なにしろ、前述の通り彼に外出する旨を伝えてはいなかったし、従って何時に帰ってくるのかも彼の知るところではないのだ。
だから、自分を迎えにきたはずがない。そんなはずはない。

でも――だったら、どうして誰かを待っているような顔なの?

という疑問は無視した。

――誰かと待ち合わせしているのよ。
それって…女?男?これから二人でどこかへ行くの?…私、なんにも聞いてないわ。

ううん、そんなの私に関係ないじゃない。ジョーが誰とどこへ出かけようがそんなのジョーの自由なんだし。それに、そう、誰かと二人ででかけるとも決まってないじゃない。複数かもしれないし。

そんなあれこれを数瞬のうちに片付け、フランソワーズは平静を装いさも驚いた風に目を丸くした。

「あら、ジョー。どうしたの?」

 

***

 

「あ、フランソワーズ。お帰り」

フランソワーズの姿を見つけると、ジョーはぱっと破顔した。
そんな彼にフランソワーズは一瞬戸惑い、けれども――彼の待っていたのは自分だったのだと確信し胸の奥が熱くなった。

「…ただいま」

ねぇ、どうして迎えに来てくれたの?
ううん。この時間に帰ってくるって知ってるはずないわよね?
ということは――あてもないのにずうっとここで待っていたの?
待っていてくれたの?

どうして?

そんな疑問が顔に出てしまっていたのだろうか。
ジョーは鼻の頭をちょっと掻くと、照れくさそうに言った。

「忘れて行ったろ?傘。玄関に置きっぱなしになってたからさ」
「あ…」

バッグに入れたと思っていたのに。

「で、玄関にあるということは出かけたんだなぁと思って。でもこの時期だし、傘がないと困るだろ?だから迎えに来たんだ」
「…歩いてきたの?」
「えっ?」
「髪が濡れてるわ」
「えっ、うん、まぁ」
「私が何時に帰ってくるかなんてわからないのに?」
「博士が昼ごはんまでには帰ってくるだろう、って」

それより遅くなるときは必ず事前にその旨を伝えることにしていた。

「…車じゃないのね」
「えっ。…うん」
「珍しいのね」
「うん…ちょっとね」
「故障?」
「いや。そうじゃなくて」

言いながら駅の外に出て傘を開く。迎えに来たと言いつつも、彼が持っている傘は一本きりだった。
その中に仲良く肩を寄せ合って入る。

「そうじゃなくて…何?」
「うん…」

まっすぐ見つめるフランソワーズの瞳を除けるように、ジョーが視線を逸らす。

「………前に言ってたから」

雨が傘に当たって音をたてる。

「えっ?」

聞こえない。

「…だから、」

雨の音。

「……雨の日は歩いて帰るのが好きって言ってたから」

雨の音が響く。

「一緒に歩いてみたくなった」

それだけだよと小さく言ってそれきり黙った。

 


 

6月2日

 

「やあね、また今日も雨だわ」

リビングで窓の外を見ながら呟いたフランソワーズ。
その憂鬱そうな横顔を眺め、ジョーは意外そうに言った。

「あれ?きみ、雨は嫌いじゃなかったよね」
「…ええ。そうだけど…」
「僕は別に平気だけどな」
「えっ?」
「え、なにその不思議そうな顔」
「だって」

ジョーの雨嫌いは筋金入りのはず。
今までそれでどんなに苦労したことか。

「雨の日は、それはそれでいいもんだと思うけど」

続くジョーの言葉にフランソワーズは文字通り声を失った。思わず背伸びしてジョーの額に手をあててしまう。

「なんだよ、別に熱なんかないよ」
「だって」

だったらいったいどうしたというのだろう。
もしかして今目の前にいるこのジョーは実はジョーではないのかもしれない。ジョーのニセモノがいつの間にかギルモア邸に入りこんでいたのかもしれない。
フランソワーズは今度はジョーの頬をぎゅうっとつまんでいた。

「痛いって、なんだよフランソワーズ」
「だって」

ニセモノ?

本物?

「あの、ジョー?」
「うん?」
「その」

雨の日も平気になったの?

と訊こうと思ったものの、もしもジョーが本当にニセモノだとしたら、せっかく今ボロを出したのにそれを修正するヒントを与えることになってしまう。だからフランソワーズは躊躇した。が、ジョーはそんな彼女の躊躇いを誤解したようでにっこり微笑んでみせた。

「風邪なんかひいてないよ。大丈夫。ここのところ変な天気だったけど気をつけてたし」
「え?ええ、そうね」
「そうだよ。フランソワーズが言ったんじゃないか。腹を出して寝るなって」
「そ…」

そうだった。
確かに言った。裸で寝る癖のある恋人に。
ということはつまり、目の前にいるジョーはやっぱり本物に違いない。うんと前にニセモノと入れ替わったのでない限り。

――って、やだわ、私ったら!

そこまで考えてフランソワーズは真っ赤になった。
何故なら、そんな会話を交わした頃にもしも目の前の彼がニセモノに入れ替わっていたとしたら、自分はそうと知らず彼とあんなことやこんなことを――

ヤダヤダ、そんなわけないじゃない!

そんなわけないのだから、やっぱり目の前のジョーは今も昔も変わらないジョーのはず。否、絶対にそうなのだ。いくら今現在の言動が怪しくても。

「あの、ジョー?」
「うん?」

雨を見ているのに飽きたのか、ジョーが大きな欠伸とともに伸びをした。目尻に涙が滲んでいる。
そんな警戒心のカケラもない009にフランソワーズは正面から挑んでみることにした。

「雨の日は苦手じゃなかったかしら」

果たしてどう答えるか。
そうだっけと謎めいたことを言ったらニセモノ。
うんと頷いたら本物。
たぶん。

「うん、苦手。今もそう」

あっさりと本物は答えた。目の前の可愛い恋人が自分をニセモノかもしれないと疑っているなど露とも思っていない。

「あの、でも、さっき別に平気みたいなことを言ってたけど…」
「うん。平気」
「でも苦手なのよね?」
「うん。苦手」
「……」

いったいどういうことなのだろう。

フランソワーズが首を傾げていると、ジョーはその顔を覗きこむようにちょっと屈んだ。

「フランソワーズが一緒にいる日は平気。そうじゃない日は苦手」
「えっ…」
「わかった?」

さすがに少し照れたのか、ジョーの頬がほんのりピンクに染まっている。

「…ええ、わかった、わ」

つられたのかフランソワーズの頬も熱くなってきた。

「――最近、わかったんだよね。どうして苦手なのか、って」

声が降って来て、フランソワーズはその顔を見上げようとしたのだけれど、その前に彼の腕に絡め取られてしまっていたのでできなかった。だから至近距離から聞こえる彼の声だけを聞くことにした。

「…きっと、独りでいるのが原因だったんだ」

雨だから独りで部屋にいた。でも気は晴れなかった。
雨だから独りでふらりと街に出た。でも余計に孤独が強調されただけだった。

「だから、」

だから一緒にいて。

という声は言葉にされはしなかったけれど。
フランソワーズには聞こえた気がした。