「子供部屋」
(新ゼロのふたりの日常)

 

 

7月29日   オリンピック

 

ロンドンオリンピックが開幕した。
オリンピックといえば――もうずっと前の話になってしまうけれど――冬季オリンピック直前のあの事件を思い出してしまう。
ネオブラックゴースト絡みの飛行機墜落事件。あの時、乗り合わせた飛行機にはオリンピック選手がたくさん乗っていたのだ。
助けることができなかったひとたち。国の威信をかけて戦いに赴くはずだった稀有なひとたち。それを思うと未だに胸の奥が痛む。そしてそれ以上に――もしかしたら誰よりも大事なひとを失うことになっていたかもしれないと思うと胸の奥が痛むどころではなかった。五臓六腑がきりきりと焼けるように苦しくなる。サイボーグだから生身の臓器などひとつもないというのに。
だからだろうか。
それら諸々を思い出してしまうから、オリンピック観戦にはあまり興味が無いというか気がすすまない。

「あら、ジョーはただ眠いだけでしょう」

しかし、ジョーがそう言うとフランソワーズはころころと笑った。なんの屈託もない。

「夜中だもの、メンドクサイんでしょう。起きて観てるのが」
「そんなことないよ」
「そうかしら。サッカーだったら起きて観てるくせに」

ついでに私も起こすくせにと頬を膨らませた。
なんだか旗色の悪いジョーである。

「…フランソワーズは楽しみにしてるんだ?」
「ええ。だって地球あげての運動会じゃない。みんなの頑張りを見るのは楽しいし、同じ国のひとは応援したいわ」
「ふぅん…」

楽しそうな横顔をそっと窺って、ジョーはちょっと安心した。
確かに自分のなかには過去の事件にまつわる屈託がある。でもそれは昔の話だ。もちろん忘れていい話ではない。が、いつまでもひきずっている必要ももちろん無いのだ。だからフランソワーズがそれらを克服したように笑ってくれるのは、ジョーとしては嬉しいことだったし安心できることだった。
自分たちには束の間とはいえこうして平和な時がある。しかし、過去には忘れたくても忘れられなかった数々の戦いや辛い出来事がいくつもあった。そしてそれらは、普段は記憶の底に沈んでいるだけで決して消え去ることはないのだ。なにかのきっかけで記憶の表層に浮かんできてどうしようもなくなることだってある。だからフランソワーズだって決して過去の事件を忘れたわけではないだろう。
でも、それを今話したところで何かが解決するわけでもない。ふたりどんよりと暗くなるだけだ。
だからジョーは代わりに別の話をした。

「運動会といえば、小学生の時って足の速い男子がもてたよな」
「えっ、そうなの?」
「うん。小学校低学年くらいの頃かな。足が速いと運動会でヒーローになれるしさ」

得意だったなとジョーは胸を張った。

「ジョーは足が速かったの?」
「運動神経には自信がある。走るのだけじゃないよ」
「じゃあ、運動会ではヒーローだったのね?」
「まぁね」

確かにジョーは足が速かったし反射神経も良かったから、運動会ではヒーローだった。まさか更に足が速くなる改造をされることになるなんて夢にも思いはしなかったけれど。

「でも、小学生の頃のそういうのって、子供ながら本能よね」
「うん?」
「足の速い男の子がもてるのって、要は獲物をたくさん捕まえる能力の高い男子ってことでしょう。女子にしてみれば、そういう子と一緒にいれば食いはぐれないという本能が働くんだわ」
「……なんだって?」
「きっと昔からの血がそう教えるのね」
「いったい何の話だよ」
「アラ、だって高学年になったら頭の良い子がもてるでしょう。それって野原をさんざん走り回って一匹しか獲れないより、罠を作ってたくさん獲物を獲ることができる能力のほうがいいってわかってくるのよ」
「……」
「でも、それも子供までよね。結局はオトナになったら両方のちからのある男の人に惹かれるんだし」
「……フランソワーズ、それってきみの話?」
「え?違うわよ、どうして?」
「いや…」

なんだか妙にリアルというか説得力があったような気がしてジョーは複雑な気持ちになった。

「いやだわジョーったら、そんな顔して。別にジョーの話でもないし、私の話でもないのよ?」
「……そうかな」
「そうよ。もう、いやあね」

拗ねた様子のジョーにフランソワーズは腕を回すとそうっと頭を撫でた。

「だって、オトナの女性の好みって経済力とか運動神経が良いとか頭がいいとか、あれこれつくけれど最近は見た目も大事だっていうでしょう。しかもそれって個々の外見の話じゃなくて服のセンスとか身だしなみとか全部だもの。果てはお料理のできる男子じゃないと駄目とかいうし。でもジョーってそういうの全然駄目じゃない」

確かに駄目である。というか全滅であった。
おしゃれでもないし身だしなみにも自信がない。料理に至っては破壊的である。
そうしみじみ思っていたら、フランソワーズの口から全く同じ言葉が聞こえてきた。

「おしゃれじゃないし、身だしなみだって…いっつも私がチェックしてるでしょ?ほんと、遠征の時はどうしてるのかしらって心配になるわ」
「男ばっかりだからどうでもいいんだよ」
「――そういうことにしておくわ。それにお料理だって全然覚える気がないでしょう」
「キッチンへの出入り禁止にしたのはきみだろう」
「だってジョーが来たらなんにもできなくなっちゃうんだもの」

出入り禁止の意味はちょっと違うのよ、と唇を尖らせるとジョーの鼻をちょっとつついた。

「いいの、ジョーはジョーなんだから。そんな条件と全然関係ないの」

だからこれはジョーの話じゃなくて一般論なのよと締めくくった。
けれどもジョーはなんだか釈然としなかった。体よく誤魔化されたような気もしなくもない。
すると更にぎゅーっと抱き締められた。

「だって、好きになるのに何か条件を設けて、それに合う合わないで決めているわけじゃないもの。ジョーの頭にいつも寝癖があったって、泣き虫で実は弱虫でもそんなジョーがいいんだもの」

寝癖は、いい。が、泣き虫で弱虫……。

「かっこいいところもあるしかっこ悪いところも大好きなのっ」

だからいいのと言われると、ジョーはフランソワーズに押し倒された。

 

 

 

8月23日 残暑@

 

朝から残暑の厳しい日だった。
真っ蒼な空と容赦ない陽射し。太陽の真下にいるのはやめましょうと天気予報のひとが口を揃えて警告していた。

「ね、ジョーは今日どうするの?」

朝ごはんの時にフランソワーズが尋ねた。

「んー。…そうだなぁ…」

二人っきりの食卓である。が、食べているのはジョーだけで、フランソワーズはその対面に座り麦茶を飲んでいるだけだった。
フランソワーズが特に小食というわけではなく、単純にジョーが朝ごはんの時間に起きてこなかっただけである。
他のみんなはとっくに朝食をすませており、のそのそ起きてきたジョーに相伴しているのがフランソワーズというギルモア邸のいつもの光景であった。

「他のみんなは?」
「今日はみんな出かけるみたい」
「ふうん…」

ジョーは幸せそうに卵焼きを口に入れた。知らず頬が緩んで嬉しそうな顔になる。ジョーにとって至福のひとときであった。
そしてまた、そんな彼を見るのがとてつもなく幸せなフランソワーズも、もちろん一緒に笑顔になった。

「おいしい?」
「うん」
「おかわりする?」
「うん」

毎朝卵焼きでいいのかよ――と、いつもギルモア邸の兄たちは言うが、若いふたりには聞こえない。 この幸せな時間を邪魔する雑音は自動的に綺麗に遮断されるのでふたりの耳には届かないのである。

「で、ジョーはどうするの?」

ジョーが卵焼きを食べ終わったところでフランソワーズは再び質問した。

「うーん。フランソワーズは?」
「今日はみんなのシーツを洗濯するの。ジョーも後で持ってきてね」
「えー。いいよ、僕のは」
「駄目よ。汗いっぱいかいたでしょう」
「平気だよ」
「駄目。どうせ裸で寝てるんでしょう。直接シーツに汗がしみこむんだから」
「裸じゃないよ。ちゃんと下は穿いてるよ」
「パジャマもシャツも着てないでしょ。半裸は裸のうちに入るのよ」
「………」

入らないし、本当に裸で寝るのはきみと一緒の時じゃないか――と心の隅で思ったけれど、賢明にも声には出さない。
こんなことを今この場で言おうものなら、むこう一週間卵焼き抜きの刑に遭ってしまう。

「いい?持ってきてね」
「……う、ん」

メンドクサイなぁ――とも思ったけれど、これも言わずにお茶と一緒に飲み込んだ。こんなことを今この場で言おうものなら、むこう一週間ひとり寝の刑が発動してしまう。

「で、ジョーはどうするの?」

ここで初めて、ジョーの頭が覚醒した。それはもう見事に理解した。フランソワーズの先刻からのしつこいくらいの質問の意図を。
お茶を飲みながらジョーの頭はフル回転した。

「うん。今日はストレンジャーのメンテナンスをする日なんだ」

湯のみを置いてにっこり笑う。ただし、少しだけ声音に残念そうな響きを入れるのを忘れない。

「あら、そうなの?」
「うん。そうなんだ」
「……そう」

フランソワーズは残念そうに目を伏せた。が、ここでほだされるわけにはいかなかった。

「ガレージにこもるの?」
「そうだね」
「一日中?」
「たぶん」
「そう…きっとものすごく暑いから、ちゃんと飲み物とか持っていってね」
「うん」
「今日も暑いってテレビで言ってたから」
「気をつけるよ」

ジョーは頬に笑みを貼り付けたままごちそうさまと爽やかに言って席を立った。

――危なかった。
あやうくシーツ干しの手伝いをするところだった。

もちろん、フランソワーズの手伝いが嫌なわけではない。が、フランソワーズが「今日は○○を洗濯するの」と上機嫌で言った時は要注意なのだ。つまり果てしが無い。例えば今日のようにシーツを洗う――というと、ふつうに考えればシーツの枚数には限りがあるのだからいつか終わりがくることは自明の理である。しかし。フランソワーズの洗濯となると話は別で、いったいどこの世界にこんなにシーツがというくらい際限なくシーツが続くのである。
ギルモア邸の七不思議のひとつであった。

 

 

8月24日 残暑A

 

約束通り、ジョーがシーツをランドリールームに持って来たのでフランソワーズは上機嫌だった。やればできるじゃないと心の中で握り拳を握った。そして、偉いわ私――と天に胸を張った。ともすれば平気で一ヶ月も同じシーツで眠ることができてしまう恋人をどうにかこうやって教育できたのである。しかも、自分で洗濯物を持ってくるという行為までマスターさせた。
思えば大変な日々だった。せめて部屋の外に出しておいてちょうだいと言ったそばから彼は忘れ、したがってフランソワーズは常に彼のベッドからシーツを引き剥がさなくてはならなかったのだった。
でもそんな日々はもう来ない。何故ならジョーが自分でシーツを持ってくるから。
なんとはなしにそんな歌詞の歌をうたってしまった。鼻歌ではなく。

「…あのさ、フランソワーズ」

機嫌よく歌っていたら、背後から申し訳なさそうに声がかかった。

「えっ?なあに?」

笑顔で振り返ると、とうに立ち去ったと思っていたジョーがまだそこにいたので大層驚いた。

「いやだジョー!まだいたの!?」

そして今の歌を聞いていたの…と頬が熱くなった。

「う、うん。ごめん」
「なあに、どうしたの?」

目を合わせられず、フランソワーズは洗濯機とシーツを見つめながら小さく答えた。

「うん。その…今日はずっとガレージにいるから」
「ええ。わかったわ」
「何かあったら」
「連絡するわ。大丈夫」
「うん。…じゃあ、」

既に作業用のツナギを着こんでいたジョーは軽く手を挙げると踵を返した。
フランソワーズははっと顔を上げると、その背に

「ジョー、ちゃんとお水とか飲み物持っていってね」

と声をかけた。

「それから、お昼ごはんの時は呼びに行くから!」
「ああ、わかった――」

ジョーが笑顔で応えるのを見届けると、フランソワーズは再び洗濯に戻った。さきほどの「ジョーが自分でシーツを持ってきた」歌も再開であった。

 

***

 

この頃、ギルモア邸の他の人々はどうしていたのかというと。

博士はイワンを連れて地下の研究室に閉じこもっていた。
ピュンマとジェロニモは揃って買出しに出かけていた。朝食の席でフランソワーズが、今日はいちにちじゅうシーツを洗いたいのと話したところ、それなら僕たちが買い物に行ってくるよと申し出たのであった。僕たちは運動不足気味だし(彼らはここのところソフト開発のため缶詰状態だった:注ふたりはSEです)外は暑いからきみは出ないほうがいいよと。その思いやりに満ちた申し出にフランソワーズはいたく感激したものだった。が、もちろん当の二人の目論見はジョーと一緒である。
ハインリヒは図書館へ調べ物に行くと早々に出かけてしまっていた。帰りは夕方遅くになるらしい。
ジェットは突然、秋物のスーツを新調したくなったとかでもうすぐ出かけてゆくはずである。

そんなわけで、もう少ししたらフランソワーズはこの広いギルモア邸でひとりきりになる予定であった。

もちろん、地下には博士とイワンが、ガレージにはジョーがいるのだけれども。

ともかく平和で穏やかな平日の午前中であった。
ランドリールームにある二台の洗濯機からは微かな機械音がしている。その外の廊下では自走式の掃除機が掃除を開始している。

フランソワーズは歌いながら各部屋のカーテンも洗おうかしらと考えつつ二階に向かっていた。

誰もまだ――イワンでさえ――このあとに起こる事件のことを知らない。

 

 

8月25日 残暑B

 

シーツの山また山だった。
フランソワーズは基本的に無地で白のシーツが好きなのだが、それが住人全員に反映されているわけではない。
また、ベッドの大きさもそれぞれ違うので、ギルモア邸の前庭はあっという間に色柄も大きさも異なる無数のシーツに埋め尽くされることとなった。
「シーツの日」には備え付けの物干しでは当然間に合わないので、洗濯機が稼動している間にフランソワーズはあれこれ工夫をしなくてはならなかった。ちょうど良い具合に植えてある木と木の間に紐をかけるとか、ベランダの柱と物干しの間に棒をかけるとかそんな風に。実はこれがちょっとした重労働であるので、シーツを干すのを手伝って欲しいというよりこの作業に人手が欲しいのだった。が、それを事前に明らかにしてしまうとまたやっかいな事態が起こったりするので(シーツ干し用にそういう設備を作ろうとか何とかいう企画がおこってしまいそうなのだ。けれどもそんな設備は実際にはそうそう使わないし普段は邪魔で仕方がないので要らないのである)なかなか難しいのであった。
洗濯の終わったものから次々に干してゆく。
前述の通り、大きさが異なるから効率よく干すには組み合わせを考えなくてはいけない。
それと、これは全く干す行為と関係ないのだが、フランソワーズとしては「美しさ」も追求したいところだった。
できれば見た目も綺麗に干したい。例えば、色はグラデーションになるようにしたいし、柄物と柄物を隣り合わせて干したりはしたくなかった。
とはいえ、使っているシーツにそうそう変化はないから――誰かから突然頂いたとかそういうのがない限り――大体の組み合わせは決まっていた。
だからそんなに悩むこともなく、フランソワーズは朝からのお気に入りである自作のジョーの歌をうたいながら、次々と干していった。

しかし。

ふとフランソワーズの眉間に皺が寄った。
一瞬、手を止める。

「…何かしら」

空を見る。
何もない。
ただただ蒼い空が広がっているだけであり、怪しい陰影も鳥の姿も見えなかった。
次いで海に目を向けた。
――変わったことはないようだった。ふつうの可視領域では海面もその周囲も地平線もいつもと同じようである。

次にギルモア邸を見た。
開け放したリビングの窓。そよぐレースのカーテン。
二階を見る。
各部屋の開け放した窓窓窓。

何もない。

「……」

フランソワーズは数回瞬きすると、再び腕を伸ばしてシーツを干すのを再開した。

しかし。

その手が不自然に止まる。

「……やっぱり、何か…」

今度は耳を使った。
じっと身動きせず、耳をすます。

波の音。
浜辺の遠い喧騒。
虫の声。
木々のざわめき。
ランドリールームの洗濯機の音。
掃除機の音。

――アラームの音。

「…いやだわ。誰か目覚まし時計をつけっぱなし…」

息をついて、各部屋を透視してゆく。
しかし。

「――待って。こんな音、誰も使ってないはず…」

フランソワーズの記憶とどれも合致しなかった。
それに今は午前11時30分である。いったいどこの誰がこんな時間にアラームをセットするというのだろう。
しかも、このアラーム音はフランソワーズがそれと気付いて意識する「前」から頭のなかに響いていたようにも思う。
小さな音だったけれど、何か引っかかる――と、いった具合に。

どこかで聞いたことがあるような、ないような。

――どこ、で?

いつ?

無視しても良かったけれど、なんだかこれは無視してはいけないような気がした。
だからフランソワーズはシーツを干すのをやめてじっと立ち尽くしていた。じりじりと肌を焼く日光にも構わずに。

――どこかで聞いたような…気がする。でも、どこで…?

どこだっただろう。

落ち着かない、音。

そう、もっと近くで聞いたことがあるような――ないような。

 

 

8月26日 残暑C

 

アラームの音。
なぜだか心がざわつく、落ち着かない音。

フランソワーズは微かに聞こえる――けれど自分の耳には嫌に障って気になって仕方が無い――それの追跡を開始した。
聴力の感度を上げる。こういうことは普段の生活では絶対にしないのだけど、でも――今回は例外にせずにはいられない。
戦闘時とほぼ同じレベルまで上げることも辞さない。そのくらい無視してはいけないような気がして仕方が無いのだ。

そっと歩き出す。
自分のたてる僅かな音さえも拾ってしまう己の耳に注意しながら、自然のものとそうでないものの音を区別し目的のアラームのみに意識を集中する。
傍からみればなんとも無防備な姿であろう。もしも今が前線であれば、苦もなくフランソワーズは標的になっていただろう。
通常、守ってくれるはずのジョーの姿はここにはないのだから。

――ジョー。

そういえば、彼はいまどうしているのだろう。
洗濯に夢中で、干すのに夢中で、すっかり失念していたけれど、そういえば朝に別れてから随分経つ。その間、なんの音沙汰もないのはちょっと変だ。
今までだって、ガレージに一日中篭っているといってもお腹が空いたら姿を見せていたのだ。お昼になったら呼びにいくねと言ったものの、それはあくまでも保険であって、ジョーはいつだって腹減ったと自らこちらに来ているのだ。
そして時間は既に11時半を過ぎている。本当ならそろそろ姿を現してもいいころだ。

ならば、ちょうどいい。
たぶん遅めの朝ごはんだったから、まだ空腹ではないのだろう。ガレージに篭っているジョーを昼ごはんよと呼びに行くついでにこの謎のアラームについて相談しよう。

フランソワーズはそう決めて、聴力の感度を元に戻しガレージに向かった。

 

***

 

「いやだ、なにこれっ!!」

ガレージに近付いた途端、フランソワーズは頭のなかにわんわんと響くアラーム音に文字通り頭を抱えた。
聴力の感度は通常レベルに下げているから、普通の人間と同じはずだ。ということは、本当にうるさいのだろう。

「ちょっとジョー!いったい何やってるの!?」

なぜかシャッターを閉めきったままのガレージ。そのなかから先ほどのアラームが聞こえてくるのだ。いったい彼はこの中で何をしているのだろう。あるいは、このアラームを止めることもしていないということは――彼は中にはいないのだろうか。
フランソワーズはシャッターの横にあるドアを開けて中に入った。
電気が灯されている。そして。

「――んっ」

物凄い熱気だった。

「ちょっ…ジョー?」

熱い。

先刻までいた庭もじゅうぶん暑かったけれど、ここの比ではない。
なにしろ、ここは暑いというより熱いのだ。何かが熱を発している。
まさか、ストレンジャーがどうにかなって、ジョーが?

そう思うと気持ちがパニックになりそうだった。が、ここは003、ひとつ息を吸い込むと心を落ち着けた。
もしもストレンジャーがどうかなってジョーもどうかなっているとするならば。いま自分がパニックに陥るわけにはいかない。
ジョーの救出を真っ先に考えなければ。

意を決してフランソワーズは中に進んだ。
今朝、ジョーがストレンジャーのメンテナンスをしなければと言っていたのを思い出す。
きっと何か不具合があったからメンテナンスが必要だったんだわ。でもその不具合が思いのほか良くなくて、で――

鎮座しているストレンジャーは熱気に包まれていた。
周囲に冗談のように湯気が見えて蜃気楼が上がっている。ジョーの姿は無い。

「ジョー?」

熱さを我慢してストレンジャーをぐるりと回ってみる。が、いない。

「ジョー?」

次に車の下を覗いて――驚いた。

「ジョー!」

ぐったりしたジョーがそこにいたのだ。意識はあるのかどうか。

「…ええと、」

台車に乗ってるはずだから、どこかからだの一部でも掴めれば簡単に車の下から引き出せるだろう。
フランソワーズは腕を伸ばしてみたり足を伸ばしてみたりあれこれしてみた。が、あとちょっとというところで届かない。
それに、ずっとアラームは鳴り響いたままで考えがまとまらない。

「んもう」

いよいよ鬱陶しくなって、とりあえずアラームを止めようとストレンジャーのドアを開けた。
これだけうるさく警告しているのだから、どこかランプかそれらしいものが点灯もしくは点滅して自己主張しているに違いない。
この車については未だによくわからないが、でもどうせイワンと博士が創ったものだ。わかりやすいところはわかりやすくなっているだろう。
そう確信し運転席からナビシートまでぐるりと見渡した。
が、無い。
点滅しそうなもの、音のでそうなものには全部触ってみた。が、どれも全てオフになっているのだ。

「もう、じゃあいったいこの音ってなによ?」

フランソワーズはアラームを消すのは諦めて、車の反対側に行った。
こちらから届かないということは向こう側に行けば容易にジョーに手が届くはずである。
そして、それは当たった。
フランソワーズはジョーの足を引っ張って、彼を車の下から引き出すのに成功した。

が、しかし。

「あっつ!」

掴んだジョーの足は熱々だったのだ。
しかもなんと、この謎のアラームはジョーからしていたのだった。

 

 

8月30日 残暑D

 

ジョーの体内から警告音。
そんなもの聞いたことがあっただろうか。

フランソワーズは記憶を手繰ろうとした。が、今はそんなことをしている場合じゃないと思いなおした。
今すべきことは目の前のジョーがどうなっているのか確かめることである。そして必要ならばその処置をしなくては。

「ジョー?」

湯気の立っているジョーは、顔色も真っ赤を通り越して薄黒い褐色になっていた。いってみればこんがり焼けている。

「ジョー?」

そうっと頬をつついてみる。

「熱っ」

尋常ではない熱さ。こんなジョーは見た事が無い。――いや、あるか?
それはともかく、このままでは絶対に駄目だ。なにしろジョーの体内にはアレがあるのだ。放っておくわけにはいかない。
あるいはもしかしたら、この警告音――アラームはソレが危ない状況になっていることを示唆しているのだろうか。
しかし、戦闘用サイボーグがこのようなアラームを体内で鳴らすシステムなどありえるのだろうか。うるさいことこのうえないし、隠密のミッションではまるっきり邪魔な機能ではなかろうか。
と、いうことは…これは創られた「あと」に追加された機能なのだろうか。そう、ここ日本のギルモア邸に落ち着いてからの。

いや、今はそんなことを考えている場合ではない。

ともすればあれこれ考察してしまう自分を振り払うように、フランソワーズは軽く頭を振った。
ともかく、ジョーをどうにかしなければ。
どうにかなってしまっている彼を、まずは――

「冷やさなくちゃ」

そう、まず熱を冷ますのが先決だろう。

「ちょっと待っててね」

フランソワーズは立ち上がると、ガレージのシャッターのスイッチを入れた。
ゆっくりとシャッターが開いていく。なぜジョーが閉めきったまま何かの作業をしていたのか謎は深まるが、それはそれで何か彼にしかわかりえない事情があったのだろう。
シャッターが全開になると潮風が吹き込んできた。さっきまでは熱風と思っていたけれど、いまのこの状況ではとてもありがたい爽やかな風に感じられた。
ガレージ内の熱気が徐々に失われてゆく。
どうやらストレンジャーの熱さはジョーの熱だったらしく、ストレンジャーを囲んでいた湯気と蜃気楼も徐々におさまっていった。
ただひとり変わらないのはジョー自身である。
アツアツのジョー。

フランソワーズは辺りを見回し、軍手を発見するとそれを両手にはめてジョーの両腕を掴んだ。
が、とてもじゃないが無理だった。
熱すぎる。

「ジョー、ちょっと待ってて」

フランソワーズは駆け出すと前庭にある干したばかりのシーツを一枚剥ぎ取り、そのままリビングに駆け込んだ。
そしてキッチンに行き、冷凍庫の製氷室を引き開けた。
あるだけの氷を持って来たシーツにぶち込む。ついでに冷えていたアイスノンを幾つか持って、サンタクロースのようにシーツを袋のようにして持ち上げ再びガレージを目指した。

「ジョー!」

相変わらず湯気を立てているジョー。さっき彼を後にした時からぴくりとも動いていない。
その彼に真上から、容赦なく氷の雨を降らせた。そして、頭の上と胸の上にアイスノンを置いた。が、氷はみるみるうちに溶けてゆき、アイスノンも蒸気を上げ始めた。

「ああ、どうしよう」

ともかくちょっとはマシにはなっただろう。でもこれはおそらく、一刻も早く博士の元へジョーを連れていかなければならない事態だろう。
しかし、いまギルモア邸には誰もいないのだ。

フランソワーズは一瞬考え――そして、唇をぎゅっと結ぶと持って来たシーツを両手に巻いてジョーの両手を掴んだ。
それでもまだ熱いけれど、さっきのような熱さは感じなかった。
これならどうにかなるかもしれない。

意識のないジョーの体はいまいったい何キロだろうか。ということを極力考えないようにし、フランソワーズはジョーの両手を掴んだまま彼のからだを引っ張った。

あっさりと動いた。
そうだった。彼は台車に乗ったままだった。なんだこれなら簡単に連れていくことができるじゃない――と喜んだのだったが。
ガレージを出て芝生に入った途端、台車からジョーの体が転げ落ちてしまった。

「ああもうっ」

泣きそうだった。

 

 

8月31日 残暑E

 

しかし、泣いている場合ではない。事は一刻を争うのだ。
とはいえ、どうしよう。
目の前には芝生の上にうつぶせに倒れているジョー。体から湯気がたちのぼっている。白煙ではないだけまだしもだろうか。

――ともかく、冷やさなければ。

なにはともあれ、まずはそれだろう。
フランソワーズはジョーを動かすのは後回しにし、庭にあるホースを取りに走った。
水撒き用のホース。いまジョーがいるのは庭の端だから届くかどうかわからない。でも、勢いよく放水すればあるいはなんとかジョーのからだに届くかもしれない。
思い切り良く蛇口を捻ると、ジョーのほうに向かって走り放水した。
残念。
ジョーの頭の先がちょっと濡れただけだった。

「ああっ、もうちょっとなのに!」

ホースの先をつぶしてみる。なんとか水の勢いが増し、やや遠くまで届いているように思う。とはいえ、せいぜいジョーの頭くらいだった。
それでもマシである。アツアツのまま放っておくよりは。それに水浸しになればなるほど、ちょっとずつは冷えてゆくだろう。

「ジョー、頑張って」

そして頑張れ私。

フランソワーズは自分を励ましつつ、ジョーに向かって放水を続けた。

 

***

 

5分が経過した。
あっという間だったような、数時間も経ったような、不思議な感覚だった。
フランソワーズはホースを放り出すとジョーの元に行き、服が泥まみれになるのも構わずひざまづいた。そうっとジョーに触れる。
熱くはなかった。

「ジョー。良かったわ」

とりあえずジョーの熱は決死の放水作業でやや下がったようだ。とはいえ、予断を許さない状態なのは依然として続いている。
一刻も早くメディカルルームへ運んで博士に診てもらわなければ。

フランソワーズはジョーの体の下に両手を入れた。介護の要領である。いかに負担を少なく身体を持ち上げるか――この前、テレビで観たばかりの知識を総動員した。いつか博士の介護の時に役にたつと思い、真剣に観ていたのである。まさかジョーを相手に実践するとは思ってもみなかったけれど。

「……お、重いぃぃ」

意識のないジョーはとてつもなく重いのだ。ふつうの介護のようにはとてもじゃないが運べない。
フランソワーズは唇をぎゅっと結んだ。
ここで諦めるわけにはいかない。諦めたらジョーの命が危ないのだ。
絶対に彼を運んで博士に診てもらわなければ。

「………んんん」

気合一発。
そう、あの大森林からの脱出の時のように。

フランソワーズはジョーを肩に担ぎあげるとゆっくりと立ち上がった。
まさに火事場の馬鹿力であった。

 

***

 

「お、おも…いぃ」

ジョーを担いで進むフランソワーズ。その一歩一歩が芝生にめり込む。
そして幾分冷めたとはいえ、ジョーの体はやはり熱かった。更に言えば、外気はふつうに熱いのだ。特に今日はずっと暑いと天気予報が朝からそう言っていた。
フランソワーズは汗だくになって頑張った。
熱いし暑いけれど、これはだからといってやめてもいいようなそんなミッションではないのだ。
助けてくれるひとが誰もいない今、彼女ひとりでやり遂げなければならないのだ。

「…が、頑張るわ、だからジョーも頑張って」

未だに意識の無いジョーがやや気になるものの、それでも声をかけながらフランソワーズは進んだ。
こんなに重いジョーを運んだら、自分のからだもきっと後でどうにかなってしまうだろう。
でも。
ジョーが爆発するよりかはマシだ。

それにしても、買い物にでかけたピュンマかジェロニモが気を利かせて早く戻ってくれたらいいのに(でも彼らは昼ごはんは食べてくると言って出かけていった)。あるいはハインリヒかジェットか――誰でもいい、予定を変更してここに来てくれたらいいのに。
仲間の帰還をこんなに願ったことはない。ここ平和な日本で。

あともうちょっとでリビングに着く。

自分が干したシーツの間をぬうように進みながら、フランソワーズは自分を励ましながら進んでいた。
そう、あともうちょっと。頑張れ自分。

と。

「――相変わらず力持ちだなぁ、フランソワーズ。それは何かのゲームなのか?」

呆れたような声が二階から降ってきた。

――誰?

 

 

9月2日 残暑F/終

 

窓の枠に肘をついて、物珍しそうにこちらを見ている人物。赤い髪の、――長い、鼻。

「ジェット!!」
「よお。ごくろうさん」
「よおじゃないわよ、何してるのよっ」
「何、って……」

ばつが悪そうに言いよどむジェット。しかし、そんな彼に構っている余裕はフランソワーズにはなかった。

「見てないで手伝って頂戴」
「うん?」

ジェットがしげしげと二人を見る。フランソワーズとその肩に担がれたジョー。

「――ふむ」

その間にもフランソワーズはよろめきながらリビングを目指し進んでゆく。

「――なぁ。それって面白いか?」
「……ジェット。怒るわよ」

地を這うようなフランソワーズの声。怒るわよという未来形ではなく、彼女はすでに怒っているのは明らかだった。
しかしジェットはそれに気付かないのか、じっと観察を続けている。

「いや、だってさ。手伝って後で文句言われても…」
「見てわからないの!?ジョーの命が危ないのよ!」
「はあ?」
「だ・か・ら!」

いったいこのアメリカ人はどうしたっていうのだろう。いくら平和ぼけしているとはいえ、天下の009がとんでもないことになっているのだ。戦火を共にした仲間なら、009の異常事態に気付かないわけがなかろう。

「博士のところに連れて行くの!手伝って!」
「いやあ、でもなぁ…」

悠長に鼻を掻く彼に見切りをつけ、フランソワーズは進む。ほんの数歩のリビングがとてつもない距離に感じられる。
担いだジョーが重い。そして熱い。――否、暑い。

「それって気絶してるだけなんだろう?」
「そうだけど違う」

いらいらと短く答えるフランソワーズにジェットはやれやれと肩をすくめると、ひょいと窓を乗り越えた。
ジェット噴射を使う必要もなく、難なく庭に下り立っていた。

「…まぁ、大変そうだから手伝うけど、でもなぁ。お前さん力持ちだろ?ジョーくらい軽いもんだろう」
「そんなこと、ないっ」
「そうかなぁ。――どう思う、ジョー」

えっ?

「うん。手伝いは要らないよジェット」

ええっ!?

「――だとさ。そういうわけで、俺は出かける」
「ちょ、ジェット…」

しかし、ジェットを追うよりも今、もっと気になることがフランソワーズにはできてしまっていた。
足を止める。

「…ジョー。もしかして、起きてるの…」
「…………」
「…いつから?」
「…………」
「怒らないから、教えてくれる?」
「…ええと」

その瞬間。
フランソワーズはジョーを放り出した。

 

***

 

思えばとっくに気付いているべきだった。
何しろ、いつからか――アラームは聞こえなくなっていたのだから。
それはジョーの体内からしていたのだから、おそらく止めることができるのもジョーだけなのだろう。それが止まっていたということは、彼が「自分で」止めたことに他ならず、自分で止めたということはとっくに意識が戻っていたということで――

――アタシの苦労はなんだったのっ。

フランソワーズは放り投げたジョーを横目でちらりと見た。
いま彼はどうしているのかというと、ひたすらフランソワーズに謝っているのだった。
水浸しのツナギ。ところどころ焦げているようなのは自分の熱で溶けたのか。
しっかり意識は戻っていて会話も可能ではあるけれどまだ全快というわけではなさそうで、ジョーはその場にしゃがみこんだまま動けないでいるようだった。
だからフランソワーズもここにいるわけなのだけれど。

いくら怒っているといっても、調子の悪いであろうジョーを放っておいて部屋に駆け込むなどフランソワーズにはできなかった。
だから腕組みして、私は物凄く怒ってますを全身でアピールするにとどめている。
そんな彼女に対して、ジョーは半身を起こしているものの具合が悪そうだった。が、それでも困ったような顔をしてひたすら「ごめんねフランソワーズ」を繰り返している。

「…ほんとに、もう」
「うん、ごめんね、フランソワーズ。でも助かったのは本当だよ?」
「……死んじゃうかと思ったわ」
「うん。あのままだったらそうだったかな」

しれっと言うジョーも憎らしい。

「――どうしてあんなになってたの」
「うーん。あまりよく覚えてないんだよな…」

そうしてジョーは頭を掻いた。

「なんだかぼーっとしてきて、頭が痛くなってきて…気がついたらフランソワーズに運ばれていたから」
「――物凄く暑かったわよ、ガレージ。どうしてシャッターを閉めきっていたの」
「いやあ、それは…」

ごにょごにょと語尾を濁すジョーにフランソワーズはふんと鼻を鳴らした。

「なあに?私に言えないこと?」
「いやそういうわけじゃ」
「見られたら困ることでもしていたの?」
「違うよ!」

そんな遣り取りを面白そうに見ていたジェットが声もなく笑った。

「まあ、いいじゃないか。何か理由があったんだろう。それにお前さんに隠し事なんかできるもんか。いざとなったら全部お見通しなわけなんだし」
「…そうだけど」

ジェットに諭され、ちょっとだけフランソワーズは頬を膨らませた。

「でも、尋常じゃない暑さだったのよ?あんな中にいたら熱中症になるの当たり前じゃない。それじゃなくても今日は暑いって天気予報で言ってたのに」
「うん」
「お水とか何か冷やすものはちゃんと持っていってたの?」
「いやあ、それが…」
「忘れたの!?」

呆れた、とフランソワーズは空を見た。
抜けるような蒼い空。

「……どうして学習しないのよっ。前にここで倒れたことがあったでしょう?」

数年前の夏。
外で水撒きしていたジョーが気絶したことがあった。炎天下でぼーっと突っ立っていたのだった。
その時もこのホースで彼を水浸しにしたんだっけ、とフランソワーズは回想した。

「ただでさえ蓄熱体質なのに」

それに、ジョーはジョー自身の体の特性によって体が熱を持つとあまり人類にとってよくないことが起きてしまうのである。
だから体内にはそれなりの冷却装置があって常に稼動しているのだ。が、夏になるとどうもちょっと調子が悪くなるようで、ジョーは熱中症に関してはふつうの人間よりも注意しなくてはならなかった。

「…学習したよ。だからアラームが鳴るようにイワンと博士が開発してくれたんだ」
「倒れる前に気付かなかったら意味がないでしょう」
「…まあ、そうなんだけど」

そこは確かにミスだったのでジョーは黙った。

「――本当にごめん。フランソワーズ」

しょんぼり肩を落とすジョー。
それを見て、フランソワーズは腕組みを解いた。

「…まあ、いいわ。とにかく無事だったんだし」
「命の恩人だな」

ジェットの声にフランソワーズはそうよと頷いた。

「この貸しは大きいわよ、ジョー」

するとジョーが顔を上げてフランソワーズを手招きした。

「なによ」
「うん。ちょっと肩を貸して」

フランソワーズがしょうがないわねと屈んだ瞬間。
ジョーがフランソワーズの腕を引き寄せ抱き締めた。

「ちょっ、きゃ」

つんのめるようにジョーの腕のなか。

「なんなの、ジョー」
「うん――ごめん」

フランソワーズの髪にジョーは囁く。

「さっき聞いたわ。もういいわ」
「うん。でもさ、」

――泣きそうな声してたから。

「なっ…」

焦げ臭いジョーの髪。服は泥だらけで水浸しで。そんな格好の彼に抱き締められたら自分の服装も似たようなものになってしまっただろう。とっくの昔に泥だらけではあったものの。
しかし、そんなことは既にどうでもいいことだった。

フランソワーズの緊張が解けた。

「――ばかっ…」

心配したんだからっ、と涙まじりに訴えたフランソワーズにうんと頷くと、ジョーはそっとフランソワーズの頭を撫でた。
彼女が泣きやむまで。

 

*****オマケ****
「お前らいい加減に着替えたらどうだ?ジョーは俺が運んでやるからさ」
フランソワーズが泣き止んだ頃、ジェットがふたりに声をかけた。
が、しかし。
二人揃ってきょとんとした顔で見つめられた。
「ん、なんだ?」
「ジェット、どうしてここにいるんだい?」
「はあ?」
「ジェット、まだいたの」
「――んだよ、それっ」



<ガレージでのジョーの光景>

「さて、と…」

ジョーはガレージの中に入ると我知らず溜め息をついていた。
目の前には、愛車ストレンジャー。
ぴかぴかに磨きあげられたそれは、二日前に見た時と同じだった。

「…変わっているわけ、ないよなぁ」

二日前に洗車して以来、動かしていないのだ。

「うーん。メンテナンスっていってもなぁ」

とはいえ、大好きな車のことである。
好きにいじっていいとなれば、やりたいことは次々に思い付く。
思い付くけれど、ほんの少しだけ罪悪感がよぎった。
フランソワーズに対しての。

「いや、僕は手伝いがいやなんじゃないよ」

つい声に出して言ってしまう。

「フランソワーズの手伝いなら喜んでするさ。でもさ」

これはそっちじゃない、ああそこちゃんと引っ張って、やだもうジョーったらそれじゃだめじゃない――
などなど、キーキー怒られたらやる気も失せるというものである。
いくらフランソワーズを愛しているといってもそれとこれとは別物なのだった。

「…まあ、いいや」

肩をすくめると、ストレンジャーのドアを開けた。
何をするのか決めてなかったから、ガレージのシャッターは閉めたままである。
フランソワーズが覗きに来たとき、うっかり居眠りなどしていた場合を考え保険のつもりもあった。
ガレージ内の温度がどうなるのかなど全く考えていないジョーだった。