「子供部屋」
(新ゼロのふたりの日常)
7月29日 オリンピック
ロンドンオリンピックが開幕した。 「あら、ジョーはただ眠いだけでしょう」 しかし、ジョーがそう言うとフランソワーズはころころと笑った。なんの屈託もない。 「夜中だもの、メンドクサイんでしょう。起きて観てるのが」 ついでに私も起こすくせにと頬を膨らませた。 「…フランソワーズは楽しみにしてるんだ?」 楽しそうな横顔をそっと窺って、ジョーはちょっと安心した。 「運動会といえば、小学生の時って足の速い男子がもてたよな」 得意だったなとジョーは胸を張った。 「ジョーは足が速かったの?」 確かにジョーは足が速かったし反射神経も良かったから、運動会ではヒーローだった。まさか更に足が速くなる改造をされることになるなんて夢にも思いはしなかったけれど。 「でも、小学生の頃のそういうのって、子供ながら本能よね」 なんだか妙にリアルというか説得力があったような気がしてジョーは複雑な気持ちになった。 「いやだわジョーったら、そんな顔して。別にジョーの話でもないし、私の話でもないのよ?」 拗ねた様子のジョーにフランソワーズは腕を回すとそうっと頭を撫でた。 「だって、オトナの女性の好みって経済力とか運動神経が良いとか頭がいいとか、あれこれつくけれど最近は見た目も大事だっていうでしょう。しかもそれって個々の外見の話じゃなくて服のセンスとか身だしなみとか全部だもの。果てはお料理のできる男子じゃないと駄目とかいうし。でもジョーってそういうの全然駄目じゃない」 確かに駄目である。というか全滅であった。 「おしゃれじゃないし、身だしなみだって…いっつも私がチェックしてるでしょ?ほんと、遠征の時はどうしてるのかしらって心配になるわ」 出入り禁止の意味はちょっと違うのよ、と唇を尖らせるとジョーの鼻をちょっとつついた。 「いいの、ジョーはジョーなんだから。そんな条件と全然関係ないの」 だからこれはジョーの話じゃなくて一般論なのよと締めくくった。 「だって、好きになるのに何か条件を設けて、それに合う合わないで決めているわけじゃないもの。ジョーの頭にいつも寝癖があったって、泣き虫で実は弱虫でもそんなジョーがいいんだもの」 寝癖は、いい。が、泣き虫で弱虫……。 「かっこいいところもあるしかっこ悪いところも大好きなのっ」 だからいいのと言われると、ジョーはフランソワーズに押し倒された。
|
朝から残暑の厳しい日だった。 「ね、ジョーは今日どうするの?」 朝ごはんの時にフランソワーズが尋ねた。 「んー。…そうだなぁ…」 二人っきりの食卓である。が、食べているのはジョーだけで、フランソワーズはその対面に座り麦茶を飲んでいるだけだった。 「他のみんなは?」 ジョーは幸せそうに卵焼きを口に入れた。知らず頬が緩んで嬉しそうな顔になる。ジョーにとって至福のひとときであった。 「おいしい?」 毎朝卵焼きでいいのかよ――と、いつもギルモア邸の兄たちは言うが、若いふたりには聞こえない。 この幸せな時間を邪魔する雑音は自動的に綺麗に遮断されるのでふたりの耳には届かないのである。 「で、ジョーはどうするの?」 ジョーが卵焼きを食べ終わったところでフランソワーズは再び質問した。 「うーん。フランソワーズは?」 入らないし、本当に裸で寝るのはきみと一緒の時じゃないか――と心の隅で思ったけれど、賢明にも声には出さない。 「いい?持ってきてね」 メンドクサイなぁ――とも思ったけれど、これも言わずにお茶と一緒に飲み込んだ。こんなことを今この場で言おうものなら、むこう一週間ひとり寝の刑が発動してしまう。 「で、ジョーはどうするの?」 ここで初めて、ジョーの頭が覚醒した。それはもう見事に理解した。フランソワーズの先刻からのしつこいくらいの質問の意図を。 「うん。今日はストレンジャーのメンテナンスをする日なんだ」 湯のみを置いてにっこり笑う。ただし、少しだけ声音に残念そうな響きを入れるのを忘れない。 「あら、そうなの?」 フランソワーズは残念そうに目を伏せた。が、ここでほだされるわけにはいかなかった。 「ガレージにこもるの?」 ジョーは頬に笑みを貼り付けたままごちそうさまと爽やかに言って席を立った。 ――危なかった。 もちろん、フランソワーズの手伝いが嫌なわけではない。が、フランソワーズが「今日は○○を洗濯するの」と上機嫌で言った時は要注意なのだ。つまり果てしが無い。例えば今日のようにシーツを洗う――というと、ふつうに考えればシーツの枚数には限りがあるのだからいつか終わりがくることは自明の理である。しかし。フランソワーズの洗濯となると話は別で、いったいどこの世界にこんなにシーツがというくらい際限なくシーツが続くのである。
真っ蒼な空と容赦ない陽射し。太陽の真下にいるのはやめましょうと天気予報のひとが口を揃えて警告していた。
フランソワーズが特に小食というわけではなく、単純にジョーが朝ごはんの時間に起きてこなかっただけである。
他のみんなはとっくに朝食をすませており、のそのそ起きてきたジョーに相伴しているのがフランソワーズというギルモア邸のいつもの光景であった。
「今日はみんな出かけるみたい」
「ふうん…」
そしてまた、そんな彼を見るのがとてつもなく幸せなフランソワーズも、もちろん一緒に笑顔になった。
「うん」
「おかわりする?」
「うん」
「今日はみんなのシーツを洗濯するの。ジョーも後で持ってきてね」
「えー。いいよ、僕のは」
「駄目よ。汗いっぱいかいたでしょう」
「平気だよ」
「駄目。どうせ裸で寝てるんでしょう。直接シーツに汗がしみこむんだから」
「裸じゃないよ。ちゃんと下は穿いてるよ」
「パジャマもシャツも着てないでしょ。半裸は裸のうちに入るのよ」
「………」
こんなことを今この場で言おうものなら、むこう一週間卵焼き抜きの刑に遭ってしまう。
「……う、ん」
お茶を飲みながらジョーの頭はフル回転した。
「うん。そうなんだ」
「……そう」
「そうだね」
「一日中?」
「たぶん」
「そう…きっとものすごく暑いから、ちゃんと飲み物とか持っていってね」
「うん」
「今日も暑いってテレビで言ってたから」
「気をつけるよ」
あやうくシーツ干しの手伝いをするところだった。
ギルモア邸の七不思議のひとつであった。
8月24日 残暑A 約束通り、ジョーがシーツをランドリールームに持って来たのでフランソワーズは上機嫌だった。やればできるじゃないと心の中で握り拳を握った。そして、偉いわ私――と天に胸を張った。ともすれば平気で一ヶ月も同じシーツで眠ることができてしまう恋人をどうにかこうやって教育できたのである。しかも、自分で洗濯物を持ってくるという行為までマスターさせた。 「…あのさ、フランソワーズ」 機嫌よく歌っていたら、背後から申し訳なさそうに声がかかった。 「えっ?なあに?」 笑顔で振り返ると、とうに立ち去ったと思っていたジョーがまだそこにいたので大層驚いた。 「いやだジョー!まだいたの!?」 そして今の歌を聞いていたの…と頬が熱くなった。 「う、うん。ごめん」 目を合わせられず、フランソワーズは洗濯機とシーツを見つめながら小さく答えた。 「うん。その…今日はずっとガレージにいるから」 既に作業用のツナギを着こんでいたジョーは軽く手を挙げると踵を返した。 「ジョー、ちゃんとお水とか飲み物持っていってね」 と声をかけた。 「それから、お昼ごはんの時は呼びに行くから!」 ジョーが笑顔で応えるのを見届けると、フランソワーズは再び洗濯に戻った。さきほどの「ジョーが自分でシーツを持ってきた」歌も再開であった。 *** この頃、ギルモア邸の他の人々はどうしていたのかというと。 博士はイワンを連れて地下の研究室に閉じこもっていた。 そんなわけで、もう少ししたらフランソワーズはこの広いギルモア邸でひとりきりになる予定であった。 もちろん、地下には博士とイワンが、ガレージにはジョーがいるのだけれども。 ともかく平和で穏やかな平日の午前中であった。 フランソワーズは歌いながら各部屋のカーテンも洗おうかしらと考えつつ二階に向かっていた。 誰もまだ――イワンでさえ――このあとに起こる事件のことを知らない。
思えば大変な日々だった。せめて部屋の外に出しておいてちょうだいと言ったそばから彼は忘れ、したがってフランソワーズは常に彼のベッドからシーツを引き剥がさなくてはならなかったのだった。
でもそんな日々はもう来ない。何故ならジョーが自分でシーツを持ってくるから。
なんとはなしにそんな歌詞の歌をうたってしまった。鼻歌ではなく。
「なあに、どうしたの?」
「ええ。わかったわ」
「何かあったら」
「連絡するわ。大丈夫」
「うん。…じゃあ、」
フランソワーズははっと顔を上げると、その背に
「ああ、わかった――」
ピュンマとジェロニモは揃って買出しに出かけていた。朝食の席でフランソワーズが、今日はいちにちじゅうシーツを洗いたいのと話したところ、それなら僕たちが買い物に行ってくるよと申し出たのであった。僕たちは運動不足気味だし(彼らはここのところソフト開発のため缶詰状態だった:注ふたりはSEです)外は暑いからきみは出ないほうがいいよと。その思いやりに満ちた申し出にフランソワーズはいたく感激したものだった。が、もちろん当の二人の目論見はジョーと一緒である。
ハインリヒは図書館へ調べ物に行くと早々に出かけてしまっていた。帰りは夕方遅くになるらしい。
ジェットは突然、秋物のスーツを新調したくなったとかでもうすぐ出かけてゆくはずである。
ランドリールームにある二台の洗濯機からは微かな機械音がしている。その外の廊下では自走式の掃除機が掃除を開始している。
8月25日 残暑B シーツの山また山だった。 しかし。 ふとフランソワーズの眉間に皺が寄った。 「…何かしら」 空を見る。 次にギルモア邸を見た。 何もない。 「……」 フランソワーズは数回瞬きすると、再び腕を伸ばしてシーツを干すのを再開した。 しかし。 その手が不自然に止まる。 「……やっぱり、何か…」 今度は耳を使った。 波の音。 ――アラームの音。 「…いやだわ。誰か目覚まし時計をつけっぱなし…」 息をついて、各部屋を透視してゆく。 「――待って。こんな音、誰も使ってないはず…」 フランソワーズの記憶とどれも合致しなかった。 どこかで聞いたことがあるような、ないような。 ――どこ、で? いつ? 無視しても良かったけれど、なんだかこれは無視してはいけないような気がした。 ――どこかで聞いたような…気がする。でも、どこで…? どこだっただろう。 落ち着かない、音。 そう、もっと近くで聞いたことがあるような――ないような。
フランソワーズは基本的に無地で白のシーツが好きなのだが、それが住人全員に反映されているわけではない。
また、ベッドの大きさもそれぞれ違うので、ギルモア邸の前庭はあっという間に色柄も大きさも異なる無数のシーツに埋め尽くされることとなった。
「シーツの日」には備え付けの物干しでは当然間に合わないので、洗濯機が稼動している間にフランソワーズはあれこれ工夫をしなくてはならなかった。ちょうど良い具合に植えてある木と木の間に紐をかけるとか、ベランダの柱と物干しの間に棒をかけるとかそんな風に。実はこれがちょっとした重労働であるので、シーツを干すのを手伝って欲しいというよりこの作業に人手が欲しいのだった。が、それを事前に明らかにしてしまうとまたやっかいな事態が起こったりするので(シーツ干し用にそういう設備を作ろうとか何とかいう企画がおこってしまいそうなのだ。けれどもそんな設備は実際にはそうそう使わないし普段は邪魔で仕方がないので要らないのである)なかなか難しいのであった。
洗濯の終わったものから次々に干してゆく。
前述の通り、大きさが異なるから効率よく干すには組み合わせを考えなくてはいけない。
それと、これは全く干す行為と関係ないのだが、フランソワーズとしては「美しさ」も追求したいところだった。
できれば見た目も綺麗に干したい。例えば、色はグラデーションになるようにしたいし、柄物と柄物を隣り合わせて干したりはしたくなかった。
とはいえ、使っているシーツにそうそう変化はないから――誰かから突然頂いたとかそういうのがない限り――大体の組み合わせは決まっていた。
だからそんなに悩むこともなく、フランソワーズは朝からのお気に入りである自作のジョーの歌をうたいながら、次々と干していった。
一瞬、手を止める。
何もない。
ただただ蒼い空が広がっているだけであり、怪しい陰影も鳥の姿も見えなかった。
次いで海に目を向けた。
――変わったことはないようだった。ふつうの可視領域では海面もその周囲も地平線もいつもと同じようである。
開け放したリビングの窓。そよぐレースのカーテン。
二階を見る。
各部屋の開け放した窓窓窓。
じっと身動きせず、耳をすます。
浜辺の遠い喧騒。
虫の声。
木々のざわめき。
ランドリールームの洗濯機の音。
掃除機の音。
しかし。
それに今は午前11時30分である。いったいどこの誰がこんな時間にアラームをセットするというのだろう。
しかも、このアラーム音はフランソワーズがそれと気付いて意識する「前」から頭のなかに響いていたようにも思う。
小さな音だったけれど、何か引っかかる――と、いった具合に。
だからフランソワーズはシーツを干すのをやめてじっと立ち尽くしていた。じりじりと肌を焼く日光にも構わずに。
8月26日 残暑C
アラームの音。 フランソワーズは微かに聞こえる――けれど自分の耳には嫌に障って気になって仕方が無い――それの追跡を開始した。 そっと歩き出す。 ――ジョー。 そういえば、彼はいまどうしているのだろう。 ならば、ちょうどいい。 フランソワーズはそう決めて、聴力の感度を元に戻しガレージに向かった。
***
「いやだ、なにこれっ!!」 ガレージに近付いた途端、フランソワーズは頭のなかにわんわんと響くアラーム音に文字通り頭を抱えた。 「ちょっとジョー!いったい何やってるの!?」 なぜかシャッターを閉めきったままのガレージ。そのなかから先ほどのアラームが聞こえてくるのだ。いったい彼はこの中で何をしているのだろう。あるいは、このアラームを止めることもしていないということは――彼は中にはいないのだろうか。 「――んっ」 物凄い熱気だった。 「ちょっ…ジョー?」 熱い。 先刻までいた庭もじゅうぶん暑かったけれど、ここの比ではない。 そう思うと気持ちがパニックになりそうだった。が、ここは003、ひとつ息を吸い込むと心を落ち着けた。 意を決してフランソワーズは中に進んだ。 鎮座しているストレンジャーは熱気に包まれていた。 「ジョー?」 熱さを我慢してストレンジャーをぐるりと回ってみる。が、いない。 「ジョー?」 次に車の下を覗いて――驚いた。 「ジョー!」 ぐったりしたジョーがそこにいたのだ。意識はあるのかどうか。 「…ええと、」 台車に乗ってるはずだから、どこかからだの一部でも掴めれば簡単に車の下から引き出せるだろう。 「んもう」 いよいよ鬱陶しくなって、とりあえずアラームを止めようとストレンジャーのドアを開けた。 「もう、じゃあいったいこの音ってなによ?」 フランソワーズはアラームを消すのは諦めて、車の反対側に行った。 が、しかし。 「あっつ!」 掴んだジョーの足は熱々だったのだ。
|
8月30日 残暑D
ジョーの体内から警告音。 フランソワーズは記憶を手繰ろうとした。が、今はそんなことをしている場合じゃないと思いなおした。 「ジョー?」 湯気の立っているジョーは、顔色も真っ赤を通り越して薄黒い褐色になっていた。いってみればこんがり焼けている。 「ジョー?」 そうっと頬をつついてみる。 「熱っ」 尋常ではない熱さ。こんなジョーは見た事が無い。――いや、あるか? いや、今はそんなことを考えている場合ではない。 ともすればあれこれ考察してしまう自分を振り払うように、フランソワーズは軽く頭を振った。 「冷やさなくちゃ」 そう、まず熱を冷ますのが先決だろう。 「ちょっと待っててね」 フランソワーズは立ち上がると、ガレージのシャッターのスイッチを入れた。 フランソワーズは辺りを見回し、軍手を発見するとそれを両手にはめてジョーの両腕を掴んだ。 「ジョー、ちょっと待ってて」 フランソワーズは駆け出すと前庭にある干したばかりのシーツを一枚剥ぎ取り、そのままリビングに駆け込んだ。 「ジョー!」 相変わらず湯気を立てているジョー。さっき彼を後にした時からぴくりとも動いていない。 「ああ、どうしよう」 ともかくちょっとはマシにはなっただろう。でもこれはおそらく、一刻も早く博士の元へジョーを連れていかなければならない事態だろう。 フランソワーズは一瞬考え――そして、唇をぎゅっと結ぶと持って来たシーツを両手に巻いてジョーの両手を掴んだ。 意識のないジョーの体はいまいったい何キロだろうか。ということを極力考えないようにし、フランソワーズはジョーの両手を掴んだまま彼のからだを引っ張った。 あっさりと動いた。 「ああもうっ」 泣きそうだった。
|
8月31日 残暑E
しかし、泣いている場合ではない。事は一刻を争うのだ。 ――ともかく、冷やさなければ。 なにはともあれ、まずはそれだろう。 「ああっ、もうちょっとなのに!」 ホースの先をつぶしてみる。なんとか水の勢いが増し、やや遠くまで届いているように思う。とはいえ、せいぜいジョーの頭くらいだった。 「ジョー、頑張って」 そして頑張れ私。 フランソワーズは自分を励ましつつ、ジョーに向かって放水を続けた。
***
5分が経過した。 「ジョー。良かったわ」 とりあえずジョーの熱は決死の放水作業でやや下がったようだ。とはいえ、予断を許さない状態なのは依然として続いている。 フランソワーズはジョーの体の下に両手を入れた。介護の要領である。いかに負担を少なく身体を持ち上げるか――この前、テレビで観たばかりの知識を総動員した。いつか博士の介護の時に役にたつと思い、真剣に観ていたのである。まさかジョーを相手に実践するとは思ってもみなかったけれど。 「……お、重いぃぃ」 意識のないジョーはとてつもなく重いのだ。ふつうの介護のようにはとてもじゃないが運べない。 「………んんん」 気合一発。 フランソワーズはジョーを肩に担ぎあげるとゆっくりと立ち上がった。
***
「お、おも…いぃ」 ジョーを担いで進むフランソワーズ。その一歩一歩が芝生にめり込む。 「…が、頑張るわ、だからジョーも頑張って」 未だに意識の無いジョーがやや気になるものの、それでも声をかけながらフランソワーズは進んだ。 それにしても、買い物にでかけたピュンマかジェロニモが気を利かせて早く戻ってくれたらいいのに(でも彼らは昼ごはんは食べてくると言って出かけていった)。あるいはハインリヒかジェットか――誰でもいい、予定を変更してここに来てくれたらいいのに。 あともうちょっとでリビングに着く。 自分が干したシーツの間をぬうように進みながら、フランソワーズは自分を励ましながら進んでいた。 と。 「――相変わらず力持ちだなぁ、フランソワーズ。それは何かのゲームなのか?」 呆れたような声が二階から降ってきた。 ――誰?
|
窓の枠に肘をついて、物珍しそうにこちらを見ている人物。赤い髪の、――長い、鼻。 「ジェット!!」 ばつが悪そうに言いよどむジェット。しかし、そんな彼に構っている余裕はフランソワーズにはなかった。 「見てないで手伝って頂戴」 ジェットがしげしげと二人を見る。フランソワーズとその肩に担がれたジョー。 「――ふむ」 その間にもフランソワーズはよろめきながらリビングを目指し進んでゆく。 「――なぁ。それって面白いか?」 地を這うようなフランソワーズの声。怒るわよという未来形ではなく、彼女はすでに怒っているのは明らかだった。 「いや、だってさ。手伝って後で文句言われても…」 いったいこのアメリカ人はどうしたっていうのだろう。いくら平和ぼけしているとはいえ、天下の009がとんでもないことになっているのだ。戦火を共にした仲間なら、009の異常事態に気付かないわけがなかろう。 「博士のところに連れて行くの!手伝って!」 悠長に鼻を掻く彼に見切りをつけ、フランソワーズは進む。ほんの数歩のリビングがとてつもない距離に感じられる。 「それって気絶してるだけなんだろう?」 いらいらと短く答えるフランソワーズにジェットはやれやれと肩をすくめると、ひょいと窓を乗り越えた。 「…まぁ、大変そうだから手伝うけど、でもなぁ。お前さん力持ちだろ?ジョーくらい軽いもんだろう」 えっ? 「うん。手伝いは要らないよジェット」 ええっ!? 「――だとさ。そういうわけで、俺は出かける」 しかし、ジェットを追うよりも今、もっと気になることがフランソワーズにはできてしまっていた。 「…ジョー。もしかして、起きてるの…」 その瞬間。
***
思えばとっくに気付いているべきだった。 ――アタシの苦労はなんだったのっ。 フランソワーズは放り投げたジョーを横目でちらりと見た。 いくら怒っているといっても、調子の悪いであろうジョーを放っておいて部屋に駆け込むなどフランソワーズにはできなかった。 「…ほんとに、もう」 しれっと言うジョーも憎らしい。 「――どうしてあんなになってたの」 そうしてジョーは頭を掻いた。 「なんだかぼーっとしてきて、頭が痛くなってきて…気がついたらフランソワーズに運ばれていたから」 ごにょごにょと語尾を濁すジョーにフランソワーズはふんと鼻を鳴らした。 「なあに?私に言えないこと?」 そんな遣り取りを面白そうに見ていたジェットが声もなく笑った。 「まあ、いいじゃないか。何か理由があったんだろう。それにお前さんに隠し事なんかできるもんか。いざとなったら全部お見通しなわけなんだし」 ジェットに諭され、ちょっとだけフランソワーズは頬を膨らませた。 「でも、尋常じゃない暑さだったのよ?あんな中にいたら熱中症になるの当たり前じゃない。それじゃなくても今日は暑いって天気予報で言ってたのに」 呆れた、とフランソワーズは空を見た。 「……どうして学習しないのよっ。前にここで倒れたことがあったでしょう?」 数年前の夏。 「ただでさえ蓄熱体質なのに」 それに、ジョーはジョー自身の体の特性によって体が熱を持つとあまり人類にとってよくないことが起きてしまうのである。 「…学習したよ。だからアラームが鳴るようにイワンと博士が開発してくれたんだ」 そこは確かにミスだったのでジョーは黙った。 「――本当にごめん。フランソワーズ」 しょんぼり肩を落とすジョー。 「…まあ、いいわ。とにかく無事だったんだし」 ジェットの声にフランソワーズはそうよと頷いた。 「この貸しは大きいわよ、ジョー」 するとジョーが顔を上げてフランソワーズを手招きした。 「なによ」 フランソワーズがしょうがないわねと屈んだ瞬間。 「ちょっ、きゃ」 つんのめるようにジョーの腕のなか。 「なんなの、ジョー」 フランソワーズの髪にジョーは囁く。 「さっき聞いたわ。もういいわ」 ――泣きそうな声してたから。 「なっ…」 焦げ臭いジョーの髪。服は泥だらけで水浸しで。そんな格好の彼に抱き締められたら自分の服装も似たようなものになってしまっただろう。とっくの昔に泥だらけではあったものの。 フランソワーズの緊張が解けた。 「――ばかっ…」 心配したんだからっ、と涙まじりに訴えたフランソワーズにうんと頷くと、ジョーはそっとフランソワーズの頭を撫でた。
*****オマケ**** |
<ガレージでのジョーの光景> 「さて、と…」 ジョーはガレージの中に入ると我知らず溜め息をついていた。 「…変わっているわけ、ないよなぁ」 二日前に洗車して以来、動かしていないのだ。 「うーん。メンテナンスっていってもなぁ」 とはいえ、大好きな車のことである。 「いや、僕は手伝いがいやなんじゃないよ」 つい声に出して言ってしまう。 「フランソワーズの手伝いなら喜んでするさ。でもさ」 これはそっちじゃない、ああそこちゃんと引っ張って、やだもうジョーったらそれじゃだめじゃない―― 「…まあ、いいや」 肩をすくめると、ストレンジャーのドアを開けた。 |