−子供部屋−
(ジョー島村もしくはお嬢さんのお部屋)



8月27日

 

「えっ。熱?!」

突然の大音響にフランソワーズは顔をしかめて携帯電話を耳から離した。

「もー。ジョー、声が大きい」
「大丈夫なのかっ!?」

フランソワーズの声を全く意に介さず、電話の向こう側の相手は第二声を放った。

「・・・大丈夫よ」

ゆっくり静かに言いながら、やっぱり言うんじゃなかったと後悔する。
ジョーがスペイングランプリに出場するために日本を発ったのは、今から約一週間前だった。
その間に日本は夏から秋に豹変したり、豪雨になったり、あらゆる変化をみせる地球に翻弄されていた。
油断したのか風邪をひいてしまった――と、ぽろっと言ってしまったのが運のつき。
レースが終わったジョーから電話がきたのはつい先刻。まだ熱が下がりきらずに臥せっていた時だった。
熱でぼうっとしていたのか、普段なら絶対に言わないのに言ってしまった。

ベッドの上で身体を起こし息をつく。

えーと・・・いま、夜の10時だから、レースはとうに終わっているわけで、で、ジョーが電話してくるということは・・・

ぼうっとした頭でめまぐるしく考える。が、時間の計算がうまくできなかった。

えーと・・・つまりジョーは勝ったのかしら・・・?んん、それにしては時間が早いから、負けた・・・?

何しろ日本での放送はこれからなのだ。
いつも、放送前の電話でネタバレはやめて、と言っているのにやっぱり電話してきてしまうジョーだった。

「で・・・どうだったの?」
「どうって何が」

あ。これって負けたパターン?

しまったと顔をしかめる。

「・・・」

思わず黙ってしまう。

「フランソワーズ?具合悪い?切ろうか?」
「ヤダ、切らないで!」

心配そうな声に、思わずすがるように言ってしまう。
心細いわけではないけれど、もう少しジョーの声を聞いていたかった。

「――大丈夫だから。ジョーのこと聞きたいの」
「んっ・・・」

途端に口が重くなるジョーだった。

「・・・まぁ、色々とあるけどさ。初めてのサーキットは楽しかったよ。モナコみたいだけど、でも全然違ってて」

レースの話をしない。

「それより、本当に大丈夫か?」
「ええ、大丈夫っ・・・」

そう答えた途端に咳き込んだ。

「フランソワーズ?」

心配そうなジョーの声が響く。が、こみ上げる咳に呼吸をするのも辛かった。
しばらくして、息を整えて。

「――もしもし、ジョー?・・・ごめんなさい」
「いいよ。それより・・・いま博士もイワンもいないんだろう、確か」
「ええ」
「診てくれる人がいないんじゃ、フランソワーズ」
「大丈夫よ、ちゃんと病院に行ってお薬ももらってきたもの」
「病院、って」
「ジョーも行ったことあるでしょ?いつも博士がお世話になってる」
「――ああ、あのクリニックか」

商店街から少し離れたところに個人医院があるのだった。
そこは、生身の博士のかかりつけだった。
いくら医師とはいえ、自分自身の診察はできても処方はできない。ギルモア邸に薬品の納入はないのだ。
何しろ、見た目普通の住居であるのだから。
なので、風邪をひいた時はいつもそのクリニックにお世話になっている。
フランソワーズも博士の付き添いで行くので、顔なじみだった。

「抗生剤も頂いたから、ゆっくり休めば大丈夫よ」
「そうか。・・・でも、心配だな」

それよりレースが気になるんだけど。――とは催促できず、フランソワーズは黙って耳を傾けた。
けれどもジョーは何も喋らない。
かといって、フランソワーズも特に話す事はなかったので――黙った。

無音の会話。
果たして耳にあてる電話の先に、愛しい人は存在しているのだろうか?

「――じ」
「フランソワーズ」

相手を確認したくなって、名を呼んだのも同時だった。いや、ジョーの方が数瞬早かっただろうか。

「――」
「なに?ジョー、聞こえないわ」
「・・・オヤスミ」
「えっ?ちょ、まっ」

無情にも切られた電話。
急に電波の具合が悪くなったのだろうか?それにしても、あっさり切るなどおよそジョーらしくないのだった。

しばし、切れた電話を見つめる。もう一度かかってくるだろうかと思いながら。
しかし。
鳴ったのは呼び出し音ではなく、メール着信音だった。

「――?」

ジョーからだった。

たった今電話を切ったばかりなのに、一体何故?

『勝ったから』

ひとことだった。

 

 

*******
博士って後期高齢者なんでしょうか・・・?だとすると、厚生年金に加入してないから(外国人だし)色々と大変だろうなぁ。



8月25日     あれ?終わってない?

 

このホテルのプールは夜の12時まで開いている。
なので、二人は夕食後にもう一度プールへやって来た。昼間の分の埋め合わせもあった。

ところどころに灯りが燈ってはいるものの、全体的には暗く、外の月の光がゆらゆらと反射している。
貸切状態かと思いきや、意外にも利用者はいて、むしろ昼間より少し多いような感じだった。そして殆どがカップルだった。

「・・・お昼とは違うわね」
「そうだね。オトナの時間、ってやつかな」

静かだった。
カップル同士とはいえ、アヤシゲな事をしているような様子もなく、ゆったりとした時間を楽しんでいるようだった。

昼間の出来事については、お互い話題にしていなかった。
ジョーとしては、当初懸念していた「事件」のことをフランソワーズに話すつもりは全くなかった。
知らなくていい。そう思っている。自分が何を抱えて日々過ごしているのかなど――彼女にわざわざ伝えなくてもいい。
それが、ネオブラックゴースト絡みなら尚更だった。もし、「本当に事件」になって、メンバー全員の協力が必要になったなら、その時に言えばいい。普通の日常生活で、少なくとも彼女だけは――忘れていて欲しいのだ。

一方、フランソワーズは。
夕食を共にしながら、昼間の事は気になったものの――実はジョーが自分の事をちゃんと見てくれていたことに気付かなかった自分を反省していた。しかも、拗ねて怒って、彼の指輪にも気付かなかった。
どうしてジョーのことになるとすぐ変な方に変な方に考えがいってしまうのか、自分でも持て余している。
ジョーのことをちゃんと見ているつもりなのに、実は全然見えていないのではないか?

「――ん?何?」

優しい瞳で見つめるこのひとを自分はちゃんと見ているのだろうか?

そう思ってはいても、堂々巡って結局は同じところに戻ってしまう。

――昼間のプールであの女のひとたちと何を話していたの?

自分でもつまらないことを気にしていると思う。が、気にしていないふりをしても、やはり考えてしまうのだ。
かといって、ジョーに改めて聞くのも、自分が凄いやきもちやきであることを宣言しているようで嫌だった。

ジョーのことを言ってられない。私だって、独占欲が強いわ――

どうしてこんなに独り占めしたいのだろう?今でもじゅうぶん過ぎるくらいに独り占めしているのに。
身体も心も、全部知りたい。何を考え何を見つめ何を思っているのか――全部。

私とジョーが同じひとりの人間だったらいいのに。

そうすれば、彼の見るもの、考えること、全てが同時にわかる。
けれども、そうもいかなかったから、できる限りの時間を空間を共有していたかった。

「・・・あの、ジョー?」

いい加減、飽きずにじっと見つめてくるジョーの視線に耐えられず俯いてしまう。

「ん?」
「・・・あんまり見ないで。――恥ずかしいわ」
「どうして」
「だって・・・」

そんなに見たら。私の心の中まで見えてしまいそうで。
こんな――ジョーのことばっかり考えているのなんて、ジョーが知ったらどう思うだろう?

「だって、何?」
「・・・・」

答えないフランソワーズにジョーは笑みを洩らした。

「昼間、ちゃんと見れなかったから足りない。だからそのぶん。――蒼いほうがやっぱり似合うね。うん」
カワイイ、と小さく付け加える。
「ちゃんと見れなかった、って・・・どうして?」
「・・・ん」

ジョーも答えない。

「・・・他の女の人に夢中だったから?」
「えっ?」

はっとして口を押さえる。言うつもりはなかったのに、勝手に言葉がつるっと出てきてしまった。

「あの・・・」
「僕が話していた人たちが気になる?」
「・・・・」
「本当に?フランソワーズ」

何だか嫌味っぽく言ってしまったから、てっきりジョーが怒るか機嫌が悪くなるかすると思っていたが、暗に相違して嬉しそうな声音のジョーだった。

「そっかぁ。気になるんだ。そっか」

嬉しそうに何度も「そっか」を繰り返す。

「あの・・・ねぇ、ジョー。その、ヤキモチ妬いてるのよ?ジョーが話した人に」
「うん」
「・・・呆れないの?」
「何で」
「ココロが狭いなぁ・・・とか」

途端にジョーは笑い出した。そして、隣にいるフランソワーズを抱き締めた。

「思う訳ないだろっ・・・まったく。――あのね。あの人たちは婦人警官」
「婦人警官?」
「そ。ちょっとね。ここのプールの警備について聞きたい事があってね」

半分は嘘ではない。

「それで話しかけたんだけど――なんだ、妬いてたのかぁ。フランソワーズ」

どうしてそんなに嬉しそうなんだろう――と思いつつも、ジョーの説明にとりあえずは納得して・・・ほっとした。

「そうよ。やきもち妬きなのはあなただけじゃないの」

ジョーを見つめ、彼の鼻をつつく。

「私だって、妬くときは妬くのよ?」
「ん・・・覚えておくよ」
「怖いわよ?」
「知ってる。僕も負ける」

最強のサイボーグの僕が、常に負けを喫するのはきみだけなんだから。
まさにきみこそが、最強のサイボーグであり、ゼロゼロナンバーのリーダーであり・・・

とはいえ、彼女にはずうっと負けていたいと思うジョーだった。

 

 

******
プールに来ても見つめ合ったままプールに入りません・・・・。

******

 

「――あ。そうだ。忘れてた」
「なに?」

見つめる蒼い瞳をじっと見て――ジョーは軽くフランソワーズの額を中指ではじいた。

「いったーい。どうしてデコピンするのっ」
「昼間、僕以外の男について行くって言ったから」

そして、彼女を引き寄せ額に唇をつける。

「――許せないな。寿命が縮んだ」
「・・・ごめんなさい」
「ほんっとうにあっちに行くつもりだった?」
「――ううん」

ジョーが見つめると、フランソワーズはいたずらっぽく笑って小さく舌を出した。

「だって、引き止めるでしょう――あなた」
「う。む・・・」

読まれてる。のが、何だか悔しい。

「・・・もし引き止めなかったら行ってたってわけ」
「まさか。だって行ったりしたら」
泣くでしょう?あなた。

「ジョーの泣き顔は見たくありません」
「・・・そんなに泣かないよ?」
「私以外のひとに見せないで」
「・・・うん」

 

******
プールに入らないどころか、入ってすぐのところでイチャイチャしてる二人。・・・もう部屋に戻ってください。



8月24日

 

「――なんだお前」

先刻まであくまでも慇懃な物言いだった彼らの口調が急に変わった。

「邪魔するな」
「どけ」

フランソワーズはいきなり視界を遮られ、ただ呆然としていた。
ということはつまり、彼らの視界からもフランソワーズの姿が消えたということである。

フランソワーズと彼らの間に突然出現した濡れた身体の持ち主は――当然の如く――ジョーだった。
彼女を背に庇い、男性グループと正面から対峙している。
睨みつけるその瞳は暗く、視線は相手の生殺与奪の権は自分が握っている事を知らしめていた。
フランソワーズに近付く者全てに彼から向けられる視線。
それは、名も知らない、うっかり彼女に声をかけてしまった者に始まり、彼女のバレエ教室のペアを組む男性、果てはゼロゼロナンバーの仲間たちにも及んだ。知人かそうでないかの区別は全く無い。
ジョーにとって、「フランソワーズに近付く者」は全て同等なのだった。
だから、ゼロゼロナンバーたちは不用意には彼女の近くに寄らない。ジョーが不在の場合は特に。
彼女と話し込んでいるところを帰宅した彼に発見されたら最後、しばらくは使い物にならなくなる。恐怖で。
しかも、当のフランソワーズ自身は全くそれに気付いていない。何しろ彼がそういう目をしている時、彼女は大抵彼の背に守られているのだから。
ジョーの視線をマトモに受けたら、大抵の者はすぐに戦意を喪失する。時にはゼロゼロナンバーたちでさえ。
だから、彼の目を初めて見た彼らがどういう反応をするか――は、ジョーにとってはあまりにもよく見た光景のはずであり、簡単な相手のはずだった。

しかし。

彼らの周囲の空気は一変していた。
ジョーの視線を真正面から受けているが、負けていない。それどころかむしろ――それを凌駕するような強い視線。

両者の視線が空中で絡み合った。

「――悪いね。彼女はそういう子じゃないんだ」
「今更彼氏面しても遅いな。彼女を放っておいて向こうで他の女と遊んでいたのはどこのどいつだ」
「彼女も君を見限って、僕達と一緒に行くところだったんだ。邪魔しないでもらえるかな」

こいつらは一体、何者だ?

フランソワーズを背に庇いながらもめまぐるしく考える。
自分の視線を受けてもびくともしない。そんな相手なぞ、今まで出会ったことはなかった。サイボーグとして戦ってきた中でさえ。
が、それと同時に――随分昔に見たような気もしていた。
そして、それが合っているのならば・・・自分に勝ち目はないということも。
昔出会ったのと同じ目を持つ者。それが、過去と同じ種類の者であればそれは――いわゆる天敵に違いなかった。

「残念だけど、彼女は君達と一緒には行かない」

微かに後退しつつ言う声には、ほんの僅かに硬質さが欠けていた。さきほどより。

――こいつらの目は・・・落ち着かない。

何故だかわからないが、既に勝敗が決しているような気もした。
が、それでもジョーは退かない。何しろ、彼が今守っていると思っているのは大切な・・・

「行くわ」

――え?

軽い水音を立てて、彼の背から姿を現す白い身体。

「フランソワーズ?」
「邪魔しないで」

軽くひとかきでジョーを追い越し前に出る。

「――行きましょ」

つんとして言う彼女に、今がどういう状況か瞬時に把握したらしい彼らは少し身体を退いた。

「いや・・・やっぱりやめとくよ。うん」
「そうだな。せっかく彼氏が来たんだし、うん、彼氏と一緒に行ったほうがいいよ」

急に及び腰になった目の前の彼らの変貌ぶりに驚きつつも、ジョーはフランソワーズの後頭部を見つめた。彼女はちらりともこちらを見ない。

「・・・フランソワーズ?」

呼んでも返事がない。それどころか、そのまま彼らの元へ行ってしまいそうだったので――ジョーは思わずフランソワーズの腕を掴んでいた。

「離して」
「フランソワーズ」
「イヤ」
「だけど」
「ジョーとなんか一緒に行かない。私はこのひとたちと一緒に行くの」

このひとたち。

蒼い瞳にひたと見つめられた彼らは――先刻のジョーの視線よりも身が竦むのを感じていた。

「あ、いや・・・僕達はちょっと急用が」
「そ。そうなんだ。悪いけど」

言ってどんどん後退してゆく。ジョーの視線を受け止め跳ね返していた彼らが。
先程の迫力は微塵もなく、今は、ただ一刻も早くこの場を去りたいと望むだけだった。

こんな――ややこしそうな痴話ケンカなんぞに巻き込まれてたまるか。

 

「あーらら。あなたたち、何やってるのかと思ったら――署のイケメン軍団もかたなしね」

上から声が降ってきた。
見ると、さきほどジョーと話し込んでいた女性グループ3名がこちらに回って来ていたのだった。

「ナンパ失敗」

指差され、けらけらと笑われる。

「うるせーな」
「ま。お下品な言葉遣い。――上司に対してその態度。いくら非番とはいえ許さないわよ」

その言葉に小さく悪態がつかれる。
今やジョーとフランソワーズはすっかり蚊帳の外なのだった。

・・・署?――上司?てことはつまり、こいつらは・・・警察の人間?

ジョーは彼らの遣り取りを聞きつつ、なぜ自分が負けそうになったのかわかってきた。
警察の人間が苦手というわけではない。が、ただ一種類の警察官だけは――昔から駄目なのだ。
街中ですれ違ってもわかってしまう。彼らの身体から滲むオーラは強大で、その前にジョーは成す術もないのだ。

「全く。少年課にいるからってそんな言葉遣いまでしなくてもいいのに」

・・・ああ、やっぱり。

少年課。
それは、昔ジョーがさんざんお世話になった因縁の課なのであった。
いくらジョーの視線が怖いといっても、彼らにしてみれば、所詮は不良少年の目つきとしか映らないのである。
それはある意味そうだったから、ジョーが負けを悟るのも当然の帰結だった。

「・・・すみません。ホラ、フランソワーズ。迷惑かけちゃ駄目だろう?」

言って強引に彼女の二の腕を掴んで引き寄せる。

「すみません。失礼します」

頭を下げながら、フランソワーズの手を引き反対側の縁に向かう。

「ジョー。痛い」

途中、抗議の声が上がったが黙殺した。

縁に着いてから、投げ出すようにフランソワーズの腕を離した。

「ったく。何やってるんだ」
「何って、ジョーに関係ないでしょ」
「関係なくないだろ」

――私のことなんてどうでもいいくせに。

小さく呟いてみる。

「ん?なに?聞こえないな」

「知らない。ジョーなんか」

そのまま縁に手をかけプールから上がってしまう。

何よ、ジョーなんか。ずっと放ったらかしだったくせに、私が他の誰かと一緒にいると怒って。そんなのまるで――自分のおもちゃを取られるのが嫌なだけの子供みたいじゃない。もう飽きて放っておいたおもちゃなのに、他人が触ると許せない。・・・ただのコドモ。私はおもちゃじゃないわ。

自分の荷物が置いてあるところに戻り、手早く荷物をまとめる。パーカーをはおってタオルを畳んで――

「――帰るの?」

背後からジョーの声がかかる。

「帰るわ」
「へぇ・・・いいんだ?」
「何が」

あくまでも背を向けたまま。ジョーの顔は見ない。

「まだ青いほうの水着を見てないんだけど」

手が止まる。

「今着てるのも凄く似合っているけどさ、・・・青いのの方がフランソワーズっぽくていいな」
「・・・・」
「まだ一緒に泳いでないし。いくらなんでも帰るのは早すぎると思うけど?」

――何よそれ。だったらどうして、最初からそう言わないのよっ・・・

「フランソワーズ?」
「知らない」
「――まだ気付かない?」

何が?

「・・・指輪」

指輪?

思わず振り向いていた。ジョーを見る。

「・・・無いわ」

いつもつけていると言っていた指輪は、彼の胸元には無かった。

「いつもつけてるって言ったのに・・・」
続く、ひどいわジョー。という言葉は発されずに消えた。

目の前に掲げられたのは、ジョーの左手。――指輪が嵌っている。

「――たまにはね」

ゆっくりとジョーの左手に触れる。

「・・・どうして」
あんなに嫌がっていたのに。

ホテルを予約したのはピュンマとジェロニモだった。全て手配したからといってジョーには何も見せてくれなかった。
だから、フロントで「御夫婦で御予約の島村様ですね」と言われた時は天地がひっくり返るかと思った。
だからそれらしく見えるように仕方なく――と、いうのでもなかったが、こういうきっかけでもなければ指に嵌めることなど無いだろうなぁと思い、胸元の鎖から外したのだった。

「だから、たまには・・・だよ」

改めて言われるとやはり照れる。

フランソワーズはジョーの左手を握ったまま――彼の胸に額をつけた。

「もうっ・・・ばか」

 

 

でも好き。

****
最後もお約束。



8月23日

 

「ふじん・・・けいかん?」

ジョーは瞳を丸くした。

「警察の方なんですか」

そんなジョーの声に、3人の女性はくすりと笑みを洩らした。

 

ホテルのプールに盗撮をする輩が出没している。
そのため、日々警戒しており、今日の午前中にそれも無事に排除できたばかりだという。

――なんだ。とっくに警察が動いていたんじゃないか。

ジョーはほっとしたものの、なぜそんな情報がピュンマやジェロニモにわからなかったのか不思議だった。
何故なら、彼らのハッキングの腕はかなり確かなものだったから。
今回の情報もそうやって手に入れたという話だった。だから、「ホテルのプールに行くならついでに」と依頼されたのだけれども。
心中首を傾げつつも、とりあえずこれで――お役御免だった。

「ごめんなさい。じろじろ見ちゃって。――レーサーの島村ジョーに似ているひとがいるな、って思ったものだから」

モータースポーツが趣味なのだという。

「――本人よね?」

声を潜め、内緒話をするようにジョーの方へ身を寄せる。

「はい」

別に内緒にする必要もなかったから、ジョーは素直に頷いた。

「やっぱり。――ね?アタシの勝ち」

他の二人に勝ち誇ったように胸を張る。

「夕食はまかせたわよ」

どうやら賭けの対象にされていたらしい。
警察がそういうことをしてもいいのだろうか――と、ジョーは思った。

「――そういえば連れの方がいたわよね。もしかして・・・噂のバレエのひと?」
「・・・」

さすがにそれは答えられなかった。

「ああ、ごめんなさい。いいのよ言わなくて。ただ――」

すっと右手を水平に伸ばし、プールの向こう側を指差した。

「――困っているみたいだけど?」

つられてそちらを見たジョーは、そのまま身を翻し、水泳選手のような完璧なフォームでプールに飛び込んだ。

「・・・あらら」
「行っちゃったね」
「私たちも行こう?」

こちらはプールサイドを回って目的地へ向かった。

 

***

 

ここに来たのは事件絡みだったのだろうか。

フランソワーズは内心、考え込んでいた。
偶然ここに来ることが決まったとばかり思っていたのに、そうではない?

でも・・・そうならそうとジョーは言うはずだわ。

それがない。と、いうことは、事件かと思ったのは自分の気のせいであり――ということは、つまり、彼が女性グループに近付いたというのは。

ジョーが私の目の前で他の女性に好意を示す?
そんなの――そんなの、有り得ない。
だってジョーは、私以外は目に入らないんだから。――いつも、そう言っているんだから。

でも、そうではなかったのだろうか。
フランソワーズが同じ空間にいるにもかかわらず、他の女性に興味を示しているのだろうか。
それとも、フランソワーズがそこにいるいないは関係なく、彼女が知らないだけで実はそういうことは日常茶飯事だったのだろうか?

――まさか。
そんな訳ないじゃない。

自分のなかに沸いてくる疑問を片端から否定していても、ふっとそれに囚われそうになる。

でも・・・そういえば、ここに来てから私の方を一度も見なかった。他のひとの方ばかり見て。
何にも言わないし。一緒に居ても退屈そうだった。――欠伸なんかしちゃって。

一緒に泳ごうともせず、面倒そうにデッキチェアに寝転んでいた姿が脳裏に浮かぶ。

――ううん。違うわ。私と一緒にいるのが退屈なのではなくて、昨夜寝てないから眠かっただけ。そうに決まってる。

とはいえ、いま自分の目の前で――他の女性と話し込んでいるのは紛れも無くジョーそのひとだった。

 

「お連れの方は忙しいようですね。――こんな美しい人を放っておくなど信じられない」

ジョーから目を逸らし、目の前のひとを見つめる。

――そうよね。私だって、ジョー以外のひとと話しちゃいけないってことはないわよね?

全く興味は無かったけれど、たまにはジョーにやきもちを妬かせてみるのもいいかなと思った。
もし彼が本当に妬くなら、ではあったが。
フランソワーズがここから消えても、もしかしたら――気付いてくれないかもしれない。
そう思うことは悲しいことだったけれど、今は悲しさよりも怒りの方が勝っていた。

何よ、ジョーなんか。

「いかがですか?ちょうどカフェも空いているようですし」

傍らのカフェを目で示す。
このプールに併設されているそれは、プールに来たひとたちが休憩するために設けられたものであり、水着姿のまま入ることができるようになっていた。

「――そうね」

ジョーなんか。
何にも言ってくれないし。大体、今日はずうっと――私の話なんて聞いてなくて、返事もしてくれてなかった。
これじゃ一緒に来た意味がないじゃない。

「少しだけなら」

そう答えた瞬間。

目の前に濡れた背中が出現した。水中から。

 

 

******
ハイ、お約束。



8月22日

 

目の前を美しい肢体が完璧なフォームで行ったり来たりする。
――フランソワーズだった。
ジョーとのんびり仲良く過ごそうという思惑が外れ、半ば意地になって泳いでいる。殆ど個人メドレーのノリだ。
平泳ぎの時に、そうっとジョーの方を見てみた。
ジョーは、まっすぐにこちらを見ていたのでほっとしたのも束の間、彼の意識が自分に向いていない事に気付き、怒髪天を突いた。
自分の方を見ながら――別のことを考えている。
フランソワーズにはわかるのだ。
もしやさっきの女性グループに注意を向けたままでいるのかと、彼女らの方を見てみる。すると、彼女たちもなぜか――ジョーの方を気にしているようだった。

――何よ、コレ。

 

フランソワーズがひとり意地になって泳いでいる間、ジョーは彼女の姿を目で追いつつも周囲への警戒は怠らなかった。特に、先刻から気になっている女性グループ。どうみても、何かが不自然だった。

――でも、盗撮とは関係なさそうだよなぁ。普通はそういうのって男だろ?

そう思うが、いや油断してはいけないと自分を戒める。

同性だからと油断させて――接近する輩かもしれない。

女性同士であれば、プール以外でもどこでも不審がらずにいられるのだから。

――フランソワーズにも一応、注意するように言っておくか。

そう思い身体を起こす。――が。

いや。彼女には「見える」のだから、下手に注意しなくても大丈夫か。

言ってしまえば彼女は「休暇を楽しむ」なんてことはしなくなってしまう。「003」になって、出来る限りジョーをサポートするだろう。
そんなつもりはなかった。
彼女には――むしろ、知らないで居て欲しかった。
こんなところまで来て「003」になれとは絶対に言いたくない。

だからジョーは、フランソワーズには何も言わなかった。

一度起こしかけた身体を再び背もたれに戻す。

さて。――どうするか。

何気ない風を装って、女性グループに近付くのは簡単だった。
盗撮と関係があるのかどうか。背後に組織が関与している可能性があるのかどうか。
それらを手っ取り早く知るには、彼女らに接近するのが一番だった。

組織が関与しているとすれば、あまりにも稚拙な部隊である。こんな素人集団、すぐにばれるし情報を洩らす可能性だって大きい。が、そう見せかけているだけとも考えられた。

――仕方ない。――行くか。

のんびりと身体を起こす。
傍らのパーカーを羽織ることもせず、水着姿のまま彼女たちの方へ歩を進めた。

 

ジョーが動き始めたその頃、フランソワーズは妙な集団に捕まっていた。
とはいっても、危険性は全くない。
いわゆるナンパだった。

「先刻から美しい人が泳いでいるなと気になっていたんですよ。――マドモアゼル、とお呼びしてよろしいでしょうか?
フランスの方、ですよね」

背泳ぎでターンしようとしていたフランソワーズの前に立ちはだかった男性集団だった。
上背が高く、筋肉質で均整のとれた体をしている。そして――精悍な顔つき。

いわゆるイケメンってやつね。

フランソワーズは心の中で呟いた。
時々バレエ教室のあとにお茶をするグループに教えられた言葉だった。
彼女らの話では「ジョーくんはイケメンよね」ということだったが、フランソワーズとしては納得がゆかない。
「ジョーがイケメン?――イケメンって、そういう意味なの?」
「イケメンでしょう?ヤダ、フランソワーズったらわからないの?」
「・・・わからないわ」
それって、彼しか見てないからでしょう――と、からかわれたのだった。
未だに「ジョーがイケメン」なのかどうかはわからなかったが、いまここにいる彼らがその条件に当て嵌まっているであろうことはわかった。

私だって、そういう言葉を使えるわ。

知ったばかりの言葉を使えた自分が凄いと思った。
が。
かといって、泳いでいるのを邪魔されたのはまた別問題だった。

許可を取らずに声をかけてきた不躾な奴らに冷たい視線を浴びせる。

マドモアゼルだなんて。そんなの礼儀でも何でもないって知らないの?――コドモ、って意味なのに。

返事をせず、再び泳ぎだそうとするところを別の人物に遮られる。

「逃げなくても、私達は何もしませんよ。あなたのあまりの美しさに目を奪われてしまっただけですから。もし良ければお茶でもいかがでしょう?そろそろ休憩が必要では」

「――生憎ですけど、連れがおりますので」

フランス語で答えて煙に巻いてしまおうかとも思ったが、余計にメンドクサクなりそうだったのでやめた。

「連れ、ですか?」
「ええ。そうですわ」

左手の指輪が見えるように、髪を直す。
が、それで怯むような輩ではなかった。

「そのひとって、もしかしてあそこに居る――」
「ええ」

言って、彼らの指差す方を見つめた。
が、そこは、さっきまで彼がいたデッキチェアではなく――

ジョー?何してるの?

一見、女性に囲まれているように見えるが、ジョーが自分から積極的にその輪に入っていっているのはフランソワーズの目には明らかだった。
ジョーがナンパ。
しかも、自分が一緒に居る時に。

――有り得ない。

そもそも、ジョーが「ナンパ」などという行為をするわけがない。――そんなことができるわけがないのだ。
そして、自分が一緒に居る時に他の女性を見るなんて、そんなこともあるわけがなかった。

だって、いつも――時には鬱陶しくなるくらい、私しか見てないのに。

彼が自分から注意を逸らす時。それは、戦いの場に他ならなかった。

と、いうことは。

事件――?

 



8月21日

 

実は、プールに遊びに来たと思わせて、それだけではないのだった。
昨日、ピュンマとジェロニモから聞いた情報によると、ここのところホテルのプールに盗撮隊が出没しているのだという。
何度捉まえてもどこからともなく湧いてくる。もしかしたら、背後に何か巨大な組織が関与しているのかもしれない。
そういう話だった。
ジョーとしては、今更ネオブラックゴーストもないだろう・・・とは思うものの、「盗撮」などをする輩には我慢がならなかった。しかも、それらは水面下でネット上にその「作品」を掲載し、売買もしているのだという。
到底許せることではなかった。だから今回、できればそれらの情報も得ようと調査も兼ねて乗り出したのだった。
フランソワーズは、昨夜はジョー達がゲームで遊んで徹夜したと信じている。が、実はそうではなかったのだ。
もちろん、ゲームをしなかったわけではないが。

「ジョー、どこ見てるの?」

隣のジョーの視線を追い、・・・そこに水着姿の妙齢の女性グループを見つけた。いずれもフランソワーズのように布地の少ない水着を着用しているが、フランソワーズよりも出るところは出ているのだった。

「・・・・」

ちらりと自分の肢体に視線を巡らせ、改めてジョーの横顔を見つめる。
にやついているその横顔に完全に機嫌を損ねて、フランソワーズは構わず彼の耳を引っ張った。

「いてててて」
「ジョーのえっち」
「エッチって」
「どこ見てるのよ、もう!!」
「どこ、って・・・」

再び女性グループに視線を向ける。

「・・・眺めがいいなぁって」

悪びれずに頬を緩める彼を見つめ、フランソワーズは大きく息をついた。

「もうっ・・・知らないっ」

そのまま近くのテーブルに向かい、来ていたパーカーを脱ぐとさっさとプールに入った。
ジョーはフランソワーズの後ろ姿を見送って、ウエイターに飲み物を注文するとデッキチェアに寝そべった。
大きく欠伸をする。いかにものんびりと余暇を楽しんでいるように見える。が、視線は――周囲への警戒を怠らない。

――あの女性グループ。何だか変だ。

泳ぐわけでもなく、かといってのんびり何かをするでもなく――ジョーと同じように周囲へ視線を走らせているのだった。
しかし、すぐにそれとわかるような行動を取るなどと、まるで素人であり、とても背後に組織が関与しているとは思えなかった。
ジョーとしては、盗撮などという行為は到底許せるものではなかったが、それは警察の仕事であって――自分は、その背後にネオブラックゴーストの気配があるのかどうかだけを調査するつもりだった。
気配がなければ、フランソワーズとゆっくり余暇を楽しむことができる。
そのつもりだった。

 



8月18日        

 

「わぁっ・・・キレイ」
「そうだね」

ガラス越しに太陽光が差し込む会員制のプール。某ホテルの一角にあるそこは、ゆったりとしたクラシック音楽が流れ、人影もまばらだった。
チェックインを済ませてからここにやって来た二人は、一歩入ってその光景にしばし見惚れた。
50メートルプールの水はあくまでも蒼く、ところどころに観葉植物と思しきオブジェが配置されている。
デッキチェアは絶妙の間隔で配置されており、隣のテーブルの会話は聞こえないようになっていた。
ゆったりとした音楽のせいか、そこはかとなくアンニュイな雰囲気が漂っている。
つられてジョーも何だか眠くなってきた。大きく欠伸をしていると、隣にいるフランソワーズに睨まれた。

「ジョー。寝に来たんじゃないのよ」
「わかってるよ」

とはいえ、昨夜は殆ど眠っていない。
彼女のせい――ではなく、昨夜はピュンマやジェロニモとゲーム対戦をしていたからだった。

「全くもう」

今朝、ジョーを起こしに彼の部屋に行ったものの、そこはモヌケのカラで、ベッドには寝た形跡もなかった。
一体部屋の主はどこへ行ったのだろうと思案しているところにジェロニモが通り過ぎ、彼ならピュンマの部屋で死んでいると教えてくれたのだった。
行ってみると、確かに死んでいた。
凍りつくくらいの冷気に包まれて、ゲーム端末を手に倒れている二名の成人男性。
アルコールと食べ物の臭いが充満している部屋の戸口で仁王立ちになり、どうしたものかと一瞬考え、エアコンのスイッチをオフにした。そのままドアを閉め、待つこと30分。
汗だくになって転がるように部屋から出てきたところを捕獲したのだった。
そうしてシャワーを浴びさせ、着替えさせて、やっとの思いでここまで来た。
彼の分の荷物を詰めておいて本当に良かった。と、フランソワーズは自分で自分を褒めた。
しかし。
チェックインしてプールに来てからも、ジョーはどこかぼんやりしていていまひとつ覇気がない。
何しろ、フランソワーズの水着姿を見ても何にも反応がないのだ。
水着を買いに行った時の試着室での動揺など微塵もなく、もしかしたらその時に「水着姿のフランソワーズ」に対して、免疫を獲得してしまったのかもしれなかった。
改めて、自分の姿に目を走らせる。
淡いピンク色のセパレート。チューブトップをさらに細くしたようなトップスに、腰の脇の細い紐が解けたら簡単に脱げてしまうように見えるボトム。いずれにせよ、どちらも申し訳程度に体を覆うだけの、布地のエコに成功していた。

――我ながら、ちょっぴり大胆だなって思うけど・・・それもこれも、ジョーと一緒だから、って頑張ったのに。
なのに、何にも言わないし、ちらっとも見ないってどういうことよ?

自分の隣で秘かに御機嫌ナナメになっているフランソワーズに気付かず、ジョーは油断なく室内全体に目を走らせた。
従業員、プール監視員・・・カップル、親子連れ。
海や他のプールと比べれば格段に少ない人数だったけれども、それでも警戒しチェックしておくのに越した事はない。
何しろ今日はフランソワーズを連れているのだ。しかも、こんな無防備な姿の。
肩に掛けたフランソワーズのバッグの中に、タオル類などにまぎれてレイガンを入れてあるにしても丸腰というのは不安要素だった。

――よし。ネオ・ブラックゴーストらしき影は無いな。

遊びに来たはずのホテルのプール。
けれどもジョーはリラックスするのとは程遠い気分だった。

 

******
あれっ・・・・事件??



8月17日          そんなところも好き

 

超銀組が帰って、ギルモア邸はいつもの静けさを取り戻していた。
と、いうより何より、ジョーとフランソワーズの二人が落ち着きを取り戻したというべきか。

「ねぇジョー。お盆休みってつまり・・・クリスマス休暇みたいなものなのかしら?」

リビングのソファに仲良く並んで座り、ぼーっとテレビを観ているのだった。
テレビの画面には、Uターンラッシュの高速道路や空港の混雑した様子が映されていた。

「うー・・・・ん。まぁ、そんなもん・・・かな?」

適当に答えてチャンネルを変える。
国営放送ではオリンピックの様子が伝えられていた。

「あぁ、そっか。オリンピックだったなぁ」
「・・・オリンピック」

二人にとって「オリンピック」という言葉は特別な意味を持つ。
何しろ、冬季オリンピックを観戦に行く途中で飛行機事故に遭い、大変な目にあったのだから。

思わず二人、顔を見合わせる。
そうして、どちらからともなく指を絡めて手を繋ぐ。

あの事故を通して、自分達は――相手に対する自分の気持ちに自信を持つことができたのだった。
相手を愛する気持ちから逃げてはいけない、と。自分のために相手が傷つく、だから離れる――なんてことはしなくてもいいのだ、と。相手を愛する自分に誇りを持てた。かっこ悪くても、常に一緒に進むのだと。

画面はレスリング女子の決勝に切り替わった。
4年間、辛く苦しいことがあったけれど二連覇を達成した選手のインタビューだった。

「・・・っ」

フランソワーズが鼻をすすった。

「フランソワーズ?」
「――だめね。こういう、辛い事があっても頑張って達成した――というのを見ると、・・・嬉しくて泣いているのを見ると、もらい泣きしちゃうのよ。特に御家族が映ったりすると余計に」

ジョーが黙って傍らのティッシュボックスを差し出す。

「ありがとう。・・・ヘンよね。悔し泣きは泣かないのに、嬉しい涙は駄目なのよ」

ティッシュで涙を拭い、鼻をかみ――
そうして、家族と喜びを分かち合う姿を見て更に泣いてしまうのだった。

「・・・ごめんなさい」

そう言って、傍らのジョーを見つめると――

彼も涙ぐんでいるのだった。

「・・・ジョー?」
「んっ?」

慌てて目尻を拭うジョー。

「どうしたの?」
「ん?何が?」
「だって今泣いてた」
「――気のせいだよ。泣いてないよ」
「嘘。泣いてたわ」

じいーっとジョーの目を見つめる。ジョーはそれを避けるように身体を引いた。

「ジョー?」
「――何でもないよ」
「だって、気になるわ。――どうしたの?」
「だから、何でもない、って」

それでも納得しないフランソワーズに小さく息をついて。

「・・・フランソワーズが泣いたから」
「――私?」
「そう。だから」

するとフランソワーズはジョーの頬に手をあてて

「・・・一緒に泣かなくてもいいのに」
「うるさいな。だから、何でもないって言っただろ?」
「もう。あなたが泣くなら、私は泣けないじゃない」

困ったひと。

でも、そんなところも好きよ。

と、小さく言った。

 

 

********
オリンピックですねぇ・・・。二連覇している選手が多くて、その精神力と持続する力にはたくさん教えられるものがあります。



8月14日        〜夏休み特別企画〜

 


そのJ「ひとくちA」

 

「――動かないなぁ」

何度目かのため息とともにハンドルから手を離し、背もたれによりかかった。

「フランソワーズ。ちょっと見てくれないか」

そして、これまた何度目かのセリフを言う。

「ん――ちょっと待って」

これで5度目よ――とは言わず、こちらも律儀に前方を凝視するのだった。例え、彼がさっきそう言ってから数メートルしか進んでいないとしても。

「――だめ。全然、動いてないわ。さっきと同じよ」

渋滞しているのだった。
事故か自然になのかはわからなかったが、とにかく帰り道に渋滞にはまっているのは確かだった。

「ったく。いい気なもんだぜ。帰りは運転するって言ってたくせに」

バックミラーで後部座席の二人を苦々しく見つめる。
新ゼロのふたりは、後部座席に並んで座りお互いにもたれあって爆睡しているのだった。

「――昨夜、寝てないって言ってたし。いいじゃない。眠らせてあげても」
「ふん。いったい寝ないでなにやってたんだ」

あなたと同じ事でしょ――と思いつつもそれは声に出さず、代わりにこう言った。

「あと1キロ進んだら左折できるところがあるから、そちらに行きましょう」
「――わき道なんてあるのか」
「ええ。――渋滞を抜けたいでしょ?」
「ああ」
「私が誘導するから、抜けましょう」
「・・・そんなことできるのか」
「私を誰だと思ってるの」

超銀ジョーが背もたれに寄りかかったまま、ちらりと隣のシートの超銀フランソワーズを見つめた。
その彼の視線を受け止め、超銀フランソワーズはにっこり笑んだ。

「それより、アナタこそ大丈夫?けっこう細い道を通ることになるけど」
「――僕を誰だと思ってるんだい?」
運転技術なら負けないさ。と、胸を張る。

そんなわけで、超銀フランソワーズの誘導のもと、渋滞を抜けることになったのだった。

 

数時間後。

一行は無事にギルモア邸に到着していた。
――が。

「・・・フランソワーズ。僕を殺す気?」

ハンドルにぐったりともたれて動かない超銀ジョー。

「アラ。そんなに大変だったかしら」
「・・・大変だったかしら、って」
大変だったに決まってるじゃないか。何しろ、自分だけならともかく、きみを隣に乗せて雑な運転ができるはずがない。
――と、言いたかったが、言う元気さえないのだった。

「私のナビが悪かったとでも?」
「いや!それはない。それは完璧」
慌てて身体を起こす。
と。
目の前にキャラメルが差し出されていた。

「――なにこれ」
「塩キャラメル。疲れが取れるわ。口あけて」
「いいよ、甘いし」
「甘いからいいんじゃない」

すでに包み紙を剥がされ、口にいれるばかりになっているのだった。

「――いいよ、僕は。甘いの得意じゃないし」
「お薬だと思えばいいじゃない。血糖値を少し上げれば元気がでるわ」
「血糖値」
「そうよ。美味しいんだから」
「――フランソワーズは食べたの」

じっと彼女の口元を見つめる。

「ええ。・・・ちょっと歯にくっつくけど、すぐ溶けるから大丈夫よ?」
「――ふうん」
「ジョー?ホラ、口開けて」
「――いいよ。僕はこっちのをもらうから」
「えっ?」

 

「――ん。本当に歯にくっつくね」

嘘よ、くっついてないでしょう。だってそれは私が食べていた――

「僕は、君からひとくち貰うのが一番効くんだ」

 

******
そんなわけで、「夏休み特別企画」は終わりです。



8月12日       〜夏休み特別企画〜

 

そのI「おそろいA」

 

翌日。
起き出した二組は、それぞれ手分けして朝食の準備をしていた。

「アラ。そのシャツかわいい――」
超銀フランソワーズのシャツを見て、胸のワンポイントのクマを指差し言いかけた新ゼロ・フランソワーズ。
が、すぐに、その隣で微笑む超銀ジョーを見て言葉を失った。
「あの、――もしかしなくても・・・おそろい、よね?」

可愛いクマのイラストを胸に、超銀ジョーは新ゼロ・フランソワーズににっこりと微笑みかけた。
「そう。おそろいなんだ。――ねっ、フランソワーズ?」
嬉しそうに微笑む超銀フランソワーズとしばし見つめ合う超銀ジョー。
そんな二人にどうリアクションしたものかと思いつつ、でもこれは仲良しな二人を目の前にしているだけで、単にあてられてしまっただけなのかしら・・・とも思うのだった。

「――オイ。何だ、その顔は」

そんな新ゼロ・フランソワーズの胸の裡を知ってか知らずか、その彼女の後ろで大きな欠伸をしている新ゼロ・ジョーを見つけ、呆れたように口を開く超銀ジョー。

「・・・何って」

完全に目が覚めていないようで、ぼやんとしている新ゼロ・ジョー。

「・・・まだ眠くてね」
「昨日は早く寝たんだろう?」
「ん・・・まぁね」

まだ半分眠っているような新ゼロ・ジョーにやれやれと息をつきかけ――目を見開いた。

「お前、ソレ・・・」
「んー・・・?」

ぼんやりと目を開け、超銀ジョーの視線を追った新ゼロ・ジョーは「あ」と言って首筋をおさえた。

「何でもない何でもない」
「虫刺され――にしては妙だな」
「だから、何でもないよ」
「・・・・ふうん?」

目を細める超銀ジョー。

 

一方、その頃お嬢さんたちはというと、ぼんやりしている男性陣をよそに朝食つくりに余念がないのだった。

「ウチのジョーは、卵焼きさえあればいいひとなのよ」
「あら、ウチもよ」
「まぁ。『島村ジョー』の好きなモノって共通してるのかしら。確か、スリーのとこのナインもそうだったわ」
「共通しているんじゃないかしら。たぶん――あら、フランソワーズ。そこ、蚊に刺されたの?」
「えっ?」

新ゼロ・フランソワーズの首筋を指差し問う超銀フランソワーズ。
「かゆみ止め持ってるから、とってくるわ」
今にもテントに取りに行きそうなのだった。
「え、あ、大丈夫」
「でも」
「かゆくないから」
「後になってかゆくなってくるわよ?」
「ううん。本当に、大丈夫だから」
だって、コレは・・・
と、言いかけたところで超銀ジョーの呆れたような声に遮られた。

「お前たち、おそろいか?」

えっ、何が?と超銀ジョーを見つめる超銀フランソワーズをよそに、

おそろいです・・・と、新ゼロ組は小さい声で応えたのだった。

 



8月11日       〜夏休み特別企画〜

 

そのH蛍・その2

 

超銀のふたりが川辺で蛍を見ていたので、新ゼロのふたりは手をつないで川辺を散策していた。少し上流の方へ向かって。

 

「――寒くない?」
ジョーが心配そうに訊く。
「ええ。大丈夫よ」
フランソワーズは答え、そうして繋いだ手に力をこめた。ほんの微かに。

「・・・キレイねぇ・・・」

淡く光る光点を見つめるフランソワーズ。その横顔を見つめ、ジョーはそっと息をついた。

――どうやら、大丈夫みたいだ。

「ジョー?・・・どうかした?」

彼の視線に気付いてこちらを向く。

「いや。なんでもないよ」
「・・・そう?」
「うん」

蛍を見るのは初めてではなかった。
ここ、日本に一緒に住み始めてから数回観に行っている。
最初は、はしゃいで、そして――泣いて。でも、笑って。それらを繰り返して、彼女はやっと平気になった。蛍を見るのが。
大体、蛍を見るのに爆弾を抱えているようにびくびくすること自体、普通ではない。と、ジョーは思う。
普通は、キレイだとただ愛でていれば良いのだから。

――でも、自分たちはいわゆる「普通」ではない。

普通の人間だ、と。普通に生活できるんだ、と。常に憧れ、思い込みながら生きている。
思い込みであっても、長い間そうしていれば、それはいつしか真実になってゆくだろう――とも思う。
が。
避けては通れない色々な事。も、自分たちには多かった。
そのひとつが「蛍」だった。
なんてことのない昆虫なのに。
なのに。
その光点が星星に見える――なんて、普通では有り得ない。宇宙飛行士にでもならなければ、実際に宇宙で星を観るなんてことは体験したくともできないのだから。
しかも、我が身が燃えながら――地球に落下していく行程で観る。などと。
それでも、当事者である自分のほうが随分マシだった。むしろ、冷静に分析できるし、「ああ、あのときと似てるな」と
ぼんやりと思う程度だったから。
だけど、フランソワーズは。
他のメンバーには視えなかったはずだった。燃えていく自分の姿など。
だけど、フランソワーズは。
その能力ゆえに視えてしまった。大気圏に突入し、燃えてゆく自分の姿が。
そのとき、彼女がどうだったか――なんてことは、もちろん自分は全く知らない。メンバーの誰も、何も言わない。だから、知らなくていいことなのだろう・・・とは、思う。
ただ、それでも――普段の生活のなかで、何が彼女にとって禁忌になっているのかは知っておきたいとも思っている。
が、そのためには、彼女のなかの「辛い記憶」を掘り起こさなくてはいけないので――結局、触れずに今日まできていた。

フランソワーズは、しばらくの間、星を観られなかった。
だから、夜空と似たもの――夜景も、苦手だった。しばらくの間は。

今は、自分がそばにいる時だけは大丈夫なようだった。
自分は、あの星のなかにはいないと、ちゃんとわかっているようだった。
が、やっぱり独りではまだ夜空を見ることはできないらしい。そう、聞いている。他のメンバーから。
本人は決して認めないけれど。

だから、初めて観た蛍の群れは、はっきり言って――微妙、だった。
何しろその頃はまだ――彼女とは恋人同士ではなかったから、なぜ彼女が泣いてしまったのかもわからず、ただおろおろするばかりだった。
挙句の果てには、お前が何か言ったんだろう・・・と、他のメンバーに責められた。何か心無いことを彼女に言ったのではないかと。――そんなこと、言う訳がない。

――いや。

くすりと笑みが洩れる。

――そうでもなかったな。困って泣いた可愛い顔を見たくて、わざと言った時もあったような気がする。
我ながら、子供だったなぁ・・・

そう思い、けれども今もあまり変わってないという結論に辿り着く。

フランソワーズを困らせることをわざとする――なんてことは、しょっちゅうだった。

結局、成長してないなぁ・・・

 

立ち止まり、じいっと蛍を見つめているフランソワーズの腰に手を回し、自分のほうへ引き寄せた。
「きゃっ。――どうしたの、急に」
びっくりするじゃない――という声は黙殺する。

「ん・・・なんでもないよ」

もし、ここが星星に囲まれた遠い宇宙だったとしても。独りではない。

 



8月7日         〜夏休み特別企画〜

 

そのG蛍

 

夕食後、近くの温泉へ行った帰り道。
フランソワーズたちが入浴中に地元のひとから聞いたという「蛍の名所」に寄ってみることになった。

「蛍。・・・見た事ないわ」
「あれ?そうだったかな」
「ええ。――テレビでは観たことがあるけれど、実際には」
「去年、行かなかったっけ?・・・ホラ、帰りに車のバッテリーが上がって苦労した」

ちらり。と超銀ジョーの運転する横顔を見つめる超銀フランソワーズ。

「――それ、私じゃないわ」

瞬間、凍結する車内。

後部座席でイチャイチャしていた新ゼロのふたりも固まった。

「きみだよ」

車内が凍結しているのも全く意に介さず、にこにこしながら超銀ジョーが言う。

「嫌だなぁ。忘れちゃったのかい?」
「忘れちゃったのはアナタでしょう」
「僕?」
「私は行ってないもの。――蛍なんて、今日初めて観に行くのよ?」
「いや、行ったよ去年。ちょうど今頃じゃなかったかなぁ」
「・・・去年の今頃、私はパリにいたわ」
「そうだっけ?」
「そうよ」

静寂。

後部座席では、新ゼロのふたりがハラハラしながら成り行きをじっと見守っていた。
――否。ハラハラしているのはフランソワーズだけで、ジョーはというと座席にもたれて腕組みをしたまま我関せずという姿勢を保っていた。

「・・・ねぇ、ジョー」

そんな新ゼロ・ジョーの膝に新ゼロ・フランソワーズがそっと手を置く。

「大丈夫かしら。あのふたり」

小さい声で言う。が、FMからはやけに陽気な洋楽が流れており、ふたりの会話が前方のふたりに聞こえる心配はなかった。

「――さぁね」
「だって・・・」

超銀ジョーが浮気したかもしれないのよ。と、ポツリと言う。

「――もしかして、アナタもしたのかも、とか考えてないだろうね?」
「まさか」
「・・・アヤシイ」
「考えてないわよ、そんなこと」
――きみがそういう顔をする時は要注意なんだよ。とは声に出して言わない。

「ともかく、放っておけよ」
「でも・・・。せっかく一緒に遊びに来ているのに、ケンカなんて」
「――大丈夫だろう。きっと」

そう言うと、ジョーは自分の膝の上に置かれたフランソワーズの手を握った。

「彼はゼロゼロナインなんだからさ」

 

ナビシートに座っている超銀フランソワーズは、じっとフロントガラスを凝視したまま何も言わない。
対する隣の席の超銀ジョーも、運転に専念しているのか何も言わない。

そのまま数十分が過ぎた。

 

「・・・あ」

目の前をふうっと黄色い光点がよぎっていった。

「――蛍」

つい声を洩らし、はっと口元を押さえる超銀フランソワーズ。

「どうかした?」

にやにや笑いを浮かべながらも、前方から目を離さず超銀ジョーが問いかける。

「・・・私」
「ん?」

観たことあったわ――蛍。

「でも・・・」
それは去年の夏のことだったのかしら。――ジョーの言う通りの。

そうしている間にも、車の周囲にはポツリポツリと小さな黄色い光点が増えていった。

「さ。着いた」

車が止まる。

降りると、そこは川の上流で――小さな光が辺りで明滅していた。
虫の声に包まれて。

 

「キレイ・・・」

確かに観たことのある光景だった。が、それがいつのことだったのか思い出せない。

「――どうして」
思い出せないのかしら。・・・憶えていない?

隣に立っているひとの横顔をそうっと見てみる。
彼は視線に気付かず、前方を凝視していた。

「――小さい光が」
「えっ?」

唐突に話し始めた彼に驚く。――が、彼はこちらを見ない。

「宇宙で見た星みたいだ、って。――去年、きみが言った」

そのまま数歩進んで――川の淵にしゃがみこみ、そうっと手をひたした。

「そうして、しばらく――」

泣いて、ジョーを困らせた。――思い出した。

ドライブの帰り道だった。さっきみたいに蛍が目の前を横切って――それに誘われるかのように、蛍の草原に入っていた。
私が蛍を見た事がないと言ったので、車から降りて観てみることになり・・・ほんの数分のつもりだったから、車のライトも消さずにいた。何しろ辺りは真っ暗だったから。
だけど、無数の蛍を見て――私が宇宙を思い出して、・・・泣いたから。ジョーが困って、私が泣きやむまで待って――車のバッテリーがあがってしまった。

あの宇宙で、私はもうジョーには会えないのだと悟った時を・・・思い出したから。
二度と会えないかもしれない。私は彼にまだ――何も言ってないのに。
そう思って、・・・何も言えずに送り出してしまったことを後悔した。
そんな苦い記憶を思い出してしまったから。

だから――憶えていなかったのかもしれない。

「ひどいよなぁ。憶えてないなんてさ。まるで僕が他の女の子と来たみたいじゃないか」
そんなことしたことないのに。と、続ける。

「――ごめんなさい」

言うと、川面を見つめていたジョーが振り返った。

「・・・思い出した?」
「ええ」
「・・・やっぱり、まだ悲しくなる?」

心配そうに問う。

「――ううん」

数歩進むとそのままジョーの後ろから彼の首筋に腕を回した。

「・・・もう、悲しくなんてならないわ。――逆よ」
「逆?」

アナタが還ってきてくれたのがただ嬉しかったことを、思い出したから。
あの宇宙で、悲しいこともたくさんあったけれど、――それでも、アナタはちゃんとここに・・・私の元に還ってきてくれた。
それがとても嬉しかったことを、どうしてずっと忘れていたんだろう?

「もう泣いたりなんてしないわ。――悲しくないもの」
「・・・そう」
「今は――嬉しかったのを思いだしたから」

――そう。きっとそれは、今日アナタが「離れない」と言ってくれたから・・・かもしれない。
それまでの私は、どこかアナタのことを信じきれてなくて、いつも不安だった。
もちろん、今でも不安は消えない。
でも。
本当に「その時」が来たら、きっとアナタは――と、思ってはいても。
だけど今は。

まだ、「その時」ではない。

だから。

「ごめんなさい。――私、」

あなたが好き。――とは、言葉に出来なかった。
でも。
いつかちゃんと・・・言えるようになるから。

後悔しないように、ちゃんと。

 



8月5日          〜夏休み特別企画〜

 

そのF「運命の相手は」

 

ゴハンが炊き上がるのを待ちながら――しゃがんでじっと火を見つめながら、新ゼロ・フランソワーズは考え込んでいた。

もしも、あの日あの時のジョーと、自分が入れ替わっていたら?
王女ではなくて王子で、休暇だったのがジョーではなくて私で。
そうして、出会って、恋に落ちて。お互いに強く惹かれ合ったとしたら?

自分がジョー以外のひとを好きになる。そんな事、とても考えられない事ではあったけれど。
しかし。
実際に、彼の身にはそれが起きた。
だから、自分には永遠にそんな日はこないと決めてかかるのは早計だったし、何より。
ジョーと自分は、いつも――お互いに「本当の相手」が現れるまでの付き合い――と、思っているのだった。
ブラックゴーストによって歪められた人生。一緒にいるけれど、おそらく――本来の運命の相手はいつか現れるだろう。
場つなぎというわけではない。
ただ、相手にとって自分よりもふさわしい誰かが、どこかにいるのだと思っている。
だから、もしも自分にジョーよりも大事に思う誰かができたなら、きっとジョーは、優しく背中を押すだろう。
自分が過去に彼にそうしたように。

もし、私に他に大事なひとが出来たらジョーはどうする?

もし、私が他の誰かを愛したら。

きっと、ジョーは止めない。私が彼から離れてゆくのを。
ただ黙って「いいよ」って言うだけ。
でもそれは、ジョーが私の事を愛してないからではなくて、愛しているからこそ――そうする。
相手を深く愛しているからこそ、止めない。
本当の、本来の相手に出会って惹かれるなら、それこそが運命であったのだと、一緒に居るのが幸せなのだとわかっている。
だから、引き止めない。相手が今より幸せになるなら――自分が、ちょっとだけ我慢すればいいだけのこと。

けれど。

そう思っていても、残された方はひとりになってからきっと・・・泣く。
身も世もないほど、泣く。
相手が幸せならそれでいい・・・とは思っていても、それでもきっと泣くだろう。

実際、自分も泣いた。
彼が自分に背を向けるところなんて見たくなかった。
頭でわかってはいても、それが――あんなに辛い事だとは、実際にそうなってみるまで本当にはわかっていなかった。
だから。
ジョーもきっと泣くだろう。
私が彼に背を向けて、去っていったら。

ただ、問題は――もしも本当に他の誰かを好きになって、彼の元を去ったとしても・・・その先に幸せがあるのかどうかだった。
おそらく私は、いくらその相手を愛していても、残してきたジョーのことが気になって――心配で――泣いているんじゃないか、食事はちゃんとしているのだろうか、と心配して心配して――毎日、気が気じゃないだろう。
きっと、いま目の前にいる相手のことなどどうでもよくなってしまうくらいに。

 

そこまで考えて、フランソワーズはふっと笑みをもらした。
知らないうちに緊張していた肩の力が抜ける。

 

いやだわ私・・・。それって結局、ジョーの元へ戻るんじゃない。
つまり、やっぱり愛しているのはジョーだけだって気付くだけで――

 

そうして、気付いた。

確かに、ジョーもそうだったのだと。
だから、彼も――自分の元に戻って来たのだったと。

 

だからつまり、私たちの「本当の運命の相手」っていうのは、結局・・・・

 

 

小枝の折れる音がして、フランソワーズははっと顔を上げた。

「ジョー!」
「向こうに行ったらいなかったから――」

いつもの通りの彼――平和で、のほほんとした表情のジョーを見て、何だか泣きたくなってしまった。
彼がいるのが当たり前過ぎて。
こうして自分を探して来てくれることが普通過ぎて。
そして、自分を見つめる褐色の瞳が優しいのが――嬉しくて。

「――どうかした?」

立ち上がると、そのままジョーの胸に飛び込んだ。

「フランソワーズ?」

対するジョーは、訳がわからないものの、それでもしっかりと彼女を抱き締めた。

「・・・お魚は釣れた?」
「んっ?・・・んー・・・むこうのジョーはたくさん釣ってたよ」
「あなたは?」
「僕はあんまり・・・釣りは向いてないみたいだ」

ジョーの拗ねたような声にくすくす笑う。

「そっちは?」
「順調よ。ゴハンも炊けたし。たぶん、カレーももう出来ている頃ね」
「そうか。――で」

ジョーが改めて腕の中のフランソワーズを見つめる。

「一体、どうしたんだい?」
「どう、って何が?」
「ウン・・・さっき、泣きそうな顔してたから」

何でもないわと言ってしまうのは簡単だった。
けれど。

「・・・向こうのフランソワーズと、さっきまで話してたの。その・・・お互い『王女』には苦労したわよねって」
「フランソワーズ」
「待って。大丈夫。そうじゃないの。――そうじゃなくて」

結局、ジョーには何でも話してしまうのだった。

「どうして私たちと『王子さま』じゃなかったのかしら、って。そういう話」
「『王子さま』?」
「そう。あってもおかしくないでしょう?」
アナタたちばっかりズルイわ――という声は、ジョーの笑い声に掻き消された。
「何よ、笑うなんてひどいわ」
頬を膨らませるフランソワーズに、ごめんごめんと言って何とか息を整える。

肩で息をしながら、ジョーはフランソワーズをしっかりと胸に抱き締めた。
「――わかってないよなぁ、ホント」
「何が」
「・・・あのさ。僕は009だよね」
「そうよ?」
「その僕が、目の前で003を攫われて黙っていると思う?」
「・・・思わないけど、でも・・・いま話してるのは『王子さま』のことよ?」
「僕にとっては同じ事だよ。――たぶん、向こうのジョーも同じだと思うけどね」

そうして、改めてフランソワーズを見つめる。

「そんな事になったら、きっと009は『王子』を殺すよ?――前にも言ったと思うけど」
確かに、そんな話をした事もあった。
「そもそも話にならないんだよ。003が――フランソワーズが、他の誰かとどこかへ行ってしまうなんて設定は」
こつんとフランソワーズの額に自分の額をくっつける。
「もしそうなったら、きっと、・・・僕は凄く泣くし、何にもしないよ?世界や宇宙の平和のためになんか。むしろ、全て壊れてしまえって――悪の手先にさえなるかもしれない。だって、きみがいなくなったら、僕の世界は崩壊するんだから」
「・・・大袈裟ね」
「じゃあ、いなくなってみる?世界がどんな事になるか・・・見てみるかい?」
「――遠慮しておくわ」
だって、泣きながら世界を壊して歩く009なんて見たくないし、きっとなだめるのが大変だもの。
「あなたを泣き止ませるの、大変なんだから」
「・・・簡単だよ」
ずうっと僕のそばにいればいいんだから。

 

もしも、運命の相手ではなかったとしても。

それでも――最期のその瞬間まで、見つめ合っていられるのならそれでいい。

背を向けて去ってゆくのを見送るより。

 



8月3日         〜夏休み特別企画〜

 

そのE「あなたはきっと」

 

「――そういえば。私、ちょっと思ったんだけど」

夕食の支度中である。
キャンプ場に着いて、テントを設営したあと男性陣は川へ釣りに行ってしまった。女性陣は初めお茶をしながら談笑していたが、それにも飽きてそれじゃあ夕食の支度でもしてしまいましょう――ということになったのだった。
野菜を切りながら、ふっと思い出したように新ゼロ・フランソワーズが口を開いた。

「・・・ゼロゼロナインたち、って・・・特に私たちの場合だけど・・・『王女』と知り合う機会があったじゃない?」
「ええ」
「で・・・私は凄く辛かったけれど、アナタはどうだったのかしらと思って」
「私?・・・それは」

鍋をかき混ぜ、手元に視線を落とす超銀フランソワーズ。

「・・・辛かった、わ」
「――泣いた?」
「泣いたわ。・・・ジョーに見つからないように」
「・・・私も」

言い出したのは自分なのに、やはりその時の事を思い出すと切なく苦しくなってしまう新ゼロ・フランソワーズ。
超銀フランソワーズも同様だったようで、しばらくは鍋の煮える音しか聞こえなかった。

「――それでね。私、思うんだけど」

気を取り直したように、新ゼロ・フランソワーズが明るく言う。

「どうして『王子様』というのはなかったのかしら?」
「――え!?」
「だって、私たちが異国の王子様と知り合って恋に落ちても良かったと思わない?どうしてそういう話のひとつもなかったのかしら」
「・・・例えば、サバが実は王子で、私に好意をもつ、とか・・・?」
「そう。で、私の方は、来日していたのが実は王子で、こっそり公務を抜け出す・・・とか。――もしくは、・・・例えばオスカーが青年で、私を見初める・・・とか」

再びお互いに黙り込む。今度は、それぞれが何かを考え込んで。

 

 

***

 

***

 

――もし、サバが王子だったら。

そして

もし、彼が003を見初めて「一緒にここに残って欲しい」と言ったなら。

一体、どうなっていただろう・・・?

 

 

私は彼と一緒に行っただろうか。

そして――ジョーは私を引きとめただろうか。

 

もしも、その星の命運がかかっていて、彼しか直系がいなくて――女性がひとりも生き残っておらず、でも子孫を残す為に必要であると言われたら。

私は、求められて完全に拒否することができただろうか。

――私は。

 

いくら宇宙全体の平和のためとはいっても・・・彼を愛していない。
だから、彼の子を成して、彼の星に一生住むなんて――できない。

だってそうしたら、009に・・・ジョーに会えなくなってしまう。その日からずっと永遠に。
宇宙の端と端にいるから、会いたくなったからといって簡単に会えるものではない。

ジョーと会えなくなるなら、死んだのと同じ。
ううん。
それより悪い。
だって、離れたらあの人は・・・私のことなんてきっとすぐに忘れてしまう。
それは、死よりも辛いことだった。
何より、彼の褐色の瞳を見る事ができなくなるなんて耐えられない。だから――
――私にはできない。
しかし。
もしも、ジョーがそれを――引き止めなかったら?
宇宙全体の平和のために、その星のために、私が行くのは仕方のない事だと。
ううん。
むしろ行くべきだと、彼が率先して進めたら?

そう思う事はとても苦しかったけれど、心の中では、きっと彼ならそうするだろう事も確信していた。

私は・・・彼に「きみはそうするべきだ」と言われたら断れない。
引き止めてももらえず、平然とそう言われたら、むしろ――何千光年も離れた場所に行ってしまって、もう二度と会えない方がいいのかもしれないとさえ、思うかもしれない。
何故なら。
彼が――私が二度と会えなくなるような場所に行ってしまっても平気なのだと知るのは、辛い。
だったら、彼と遠く離れて、いつか・・・彼のことを忘れてしまえるように。忘れてしまえるくらい、遠い遠い場所に行ってしまったほうが・・・いい。

 

もしも、私と彼が逆の立場になったら。

ジョーは止めない。
止めてはくれない。

それは勝手な想像ではあったけれど、おそらく事実に違いなかった。

 

 

「ただいま」

耳元で声がして、私は驚いて飛び上がった。

「ジョー!びっくりしたわ」
「ん。いい匂いだね。フランソワーズのカレーは久しぶりだ」
「お魚は?釣れた?」
「もちろん。大量さ」

傍らのクーラーボックスを指す。

「じゃあ、さっそくお魚も焼かなくちゃね」

そう言って、クーラーボックスに手を伸ばすと、ジョーに腕を掴まれた。

「――フランソワーズ?」
「なぁに?」
「・・・・」

何だか怖い顔で、探るようにじっと見つめてくる。

「――何かあった?」

一瞬、どきんと心臓が跳ねた。

「別に、何もないわ」
「・・・そう?」

私は小さく頷いた――途端、ジョーの胸に抱き締められていた。

「ジョー?」
「――ダメだよ」

何が?

見上げると、更にぎゅうっと抱き締められた。

「ジョー。どうしたの?」
「何だか君が遠くに行ってしまいそうで・・・」
怖くなった。と、小さく言われた。

私は何て言おうか少し考えて、しばらく彼の手が髪を撫でるのにまかせた。

 

「――大丈夫よ。・・・行かないわ」

「・・・ん」
ほっとしたようにジョーが息を吐く。

腕が緩む。

「・・・行かないけど・・・」

ジョーの胸を手で押し遣る。

「もし、宇宙の平和のために遠く離れた星に来て欲しいって言われたら、アナタなら行くわよね?」
「何?急に」
一瞬驚いて、そして訝しそうに私を見つめながら
「・・・そうだね。行くだろうね」
と答えた。
「そこに――その星に私が残るのが条件だと言われたら、・・・やっぱりアナタは私を残していくわよね?」
「――009なら、そうするだろうね」

やっぱりね。

予想はしていたけれど、実際に彼の口から聞くのはまた別だった。

でも、それが彼だから――彼らしい答えといえば彼らしい答えでもあった。
だから私は、ある意味満足して再びカレー鍋に向き合った。

悲しかったけれど、それは私の勝手な想いだから。
こんなちっぽけな想いよりも、宇宙全体の平和を思い遣れるのが009だった。

 

「――でも」

ジョーの腕が伸びて、私の腰を抱く。

「僕も一緒に残る」
「ダメよ。そんなこと言ったら。――信じちゃうでしょ?」

心にもないことを言わないで。

「――何で信じないんだよ」
「だってありえないもの。大体私、その星の人と結婚して子孫を残すことになっているのよ?アナタ、それをそばでずっと見ているつもり?」
そんなのイヤだわ、と続けて言おうとしたのに。

「何だよそれ」

くるりと私の向きを変え、正面から見つめる。

「さっきはそう言ってなかったじゃないか」
「――そうだったかしら?」
「そうだよ。そういう話なら僕は」

僕は?

「絶対に君を連れて帰る」

 

くす。

思わず笑っていた。

「何で笑うんだよ」
「だって・・・ありえないもの。――もう、ジョーったら。そんな嘘を言わないで。信じたくなっちゃう」

もうやめて。

「だから、何で信じないんだよ」
「だって・・・アナタはそうしないから」

私にはわかる。
本当にそういう時がきたら、アナタはどうするのか。

 

「――フランソワーズ。いいかい?」

私の両肩に手を置いて、真剣な瞳でじっと見つめてくる。

「そんな遠くの星がどうなろうが・・・宇宙がどうなろうが、僕にとってはどうでもいい事だ。知ったことじゃない」
「だけど」
「聞いて。――君が、何を気にしているのかはわかっている。だけど、あの時だって、僕はあの星に残る気はさらさらなかった。もし彼女が生きていたとしても、それは変わらない」
「でも」
「あいにく、それをちゃんと伝える前に彼女は亡くなってしまったけどね」

俯く私の顎に手をかけて自分の方を向かせる。

「いい?僕は、宇宙がどうなろうが、その星が滅亡しようがどうでもいいんだ。そんなの、運命なんだから。
だけど、君と離れるのは――運命じゃ、ない」
嫌だ。と言って、私を抱き締めた。

「君をどこかの誰かに渡すくらいなら、僕は――その前に君を攫って逃げる。誰を敵に回してもいい。君が一緒にいるなら」

その瞳を一瞬よぎった色に――私は気付かなかった。

「僕は、君がいないと」
ダメなんだ。と囁いて、強引に唇を重ねた。

 

 

 

 

 

――でもね。ジョー。

それでも、あなたはきっと・・・

 

 

 

 


 

8月1日        〜夏休み特別企画〜

 

そのD「命令よ!」

 

昼過ぎに着いて、さて何をしよう――と、フランソワーズ達はあれこれ考えていた。
何しろ、昨日の今日で急に決まったので、周囲にどんな遊びスポットがあるのか全く知らないのだった。

「・・・だって、てっきり海になるかと思ってたのよ」
新ゼロ・フランソワーズが言う。
「ほら、あなたたち海に行くので盛り上がっていたみたいだったし」

すると超銀フランソワーズはくすりと笑って
「ああ――あれね。・・・いいのよ、気にしないで。ジョーはああいう流れでああいう風に言わないとおさまらないものだから」
ごめんなさいね。と小さく付け加える。

「ううん、別に海に行きたかったわけじゃなからいいんだけど」
大体、新ゼロ・ジョーと海に行ったりしたら大変な事になるのは目に見えている。
彼が大人しく海で遊んでいてくれるなど微塵も思えないのだった。

「でも、どうするのかしら。まだ目的地じゃないわよね・・・?」
「そうよね。ココって一体」

駐車場で話しているところへ、ふたりのジョーが戻ってきた。

「さ、行くぞ」
「行くってどこへ?」
「あそこ」

指差した先は――

「・・・サーキット?!」

まだ少し遠目なのではっきりしなかったが、どうやらサーキットっぽい造りなのだった。

「ここまで来て、まだ乗り足りないの?」
呆れたように新ゼロ・フランソワーズが言う。
「ジョーったら。いいじゃない、帰りはあなたが運転することになってるんだから」
実は、出てくる時にどちらのジョーが運転するかでもめたのだった。どちらも運転したがって大変だったのだ。
しかも、その「理由」を思い出すたび頭痛がするフランソワーズだった。

「どちらのドライビングテクニックが上か相手に知らしめる」なんて――全く。子供じゃないんだから。

しかし、考えてみれば二人ともレーサーだったし、競い合いたくなるのも性(サガ)なのかもしれなかった。

「サーキットはサーキットだけどね。ちょっと違うんだなぁ」
「違うって・・・?」
「まあまあ。行けばわかるよ」
ニヤニヤしている新ゼロ・ジョーに何だか嫌な予感を覚える新ゼロ・フランソワーズ。

「でも、そういう所って予約してないとダメなんじゃない?」
最もな質問をしたのは超銀フランソワーズ。
しかし。
「僕がそんなミスをすると思うかい?もちろん、予約してあるよ。――心配性だな、フランソワーズは」
つん、とフランソワーズの額をつつく超銀ジョー。
「・・・もうっ。――予約してあるならいいのよ」
「そう、四人分、ね」
「――よにんぶん?」

私たちも?

思わずフランソワーズ同士顔を見合わせる。

「ダメよ、車の運転なんて」
「だいじょーぶだいじょーぶ」
「だって、アナタたちとは違うのよ?」
「平気だって。ちゃんと教えるから」

その超銀ジョーのひとことに、ふたりのフランソワーズは大きくため息をついた。

・・・ああそう。どちらがうまく教えられるかも競いたいのね。

そんな会話をしつつぶらぶら歩いて着いた先は、やはりサーキット場だった。
が。

「・・・ねぇ、ジョー。もしかして・・・間違えた?」
「いや。合ってるよ」
「でも、これって・・・」
「ん。時間もちょうどいいな」

呆然としているふたりのフランソワーズをその場に残し、ふたりのジョーは受付するべく事務所らしき建物の方へ歩いていった。
モーターバイクの受付に。

 

***

 

ミニバイクと思いきや、しっかりしたバイクだった。それもよりによって――

「250cc?バカじゃないの、アナタたち」

ふだん乗っているならまだしも、全然乗ったことがないのに。

「バカってひどいなぁ、フランソワーズ」
レンタルしたヘルメットをくるくるしながら、新ゼロ・ジョーが言う。
「大丈夫、僕たちはどんな乗り物でも運転できるんだから」
「アナタたちはそれでいいでしょうけど・・・」
私たちは、ねぇ?と超銀フランソワーズと顔を見合わせる。

「無理よ。大体、バイクに乗ったこともないのに」
「ちゃんと教えるから大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないわよ」
「だって、君たちが乗るのは125ccだよ?」
そういう問題じゃないんだってば。という超銀フランソワーズの声は聞こえていない。

「ま、そういうわけだから」
「これ持ってて」

財布と携帯電話を押し付け、ふたりのジョーはスターティンググリッドに向かった。
ブーツと皮の手袋、そしてヘルメットを身につけて。

「・・・これ、絶対、マジメな対決よね?」
「ええ。たぶん」
「もしかして、最初からコレが目的だったんじゃ・・・」
新ゼロ・フランソワーズの声は、すさまじいエンジン音にかき消された。
「二人しかいないのね」
思わず声が大きくなる。
「たまたまじゃない?」
珍しくトレーニングチームも来ていないようだった。
ふたりのフランソワーズは知らなかったが、ジョーたちが夏休みなのと同じように、ライダーたちにも夏休み期間というものがあるのだった。
「何周するって言ってたかしら」
「30周とかって・・・」
「・・・30周・・・」
ということは、約一時間。

やっぱり、最初から目的はココだったのではないかと思うのだった。

 

***

***

 

結局、ふたりのフランソワーズがバイクに乗ることはなかった。
ふたりのジョーは大層残念がっていたが、ふたりのフランソワーズに睨まれ、大人しく言う事を聞いたのだった。
しかも、ジョーたちが走っている間に何をどうやって調べたのか、この付近に美味しいケーキ屋さんがあるのでこれからそこへ行くのだという。
ふたりのジョーが文句を言う前に、さっさと運転席についた超銀フランソワーズはアクセルを踏み込んだ。
その隣には新ゼロ・フランソワーズが座っている。

「・・・まったくもう。手加減っていうものを知らないのかしら」
「子供よね」
「ほんと。どこがリーダーよ」
「・・・本当はリーダーじゃないのかも」

後部座席に聞こえるように話すふたりのフランソワーズ。
聞こえているものの、後部座席のふたりは沈黙を守った。

ふたりのジョーの対決は、ゴール寸前の28周目に唐突に終わりを告げた。
常に抜きつ抜かれつを繰り広げ、熱い戦いをしていた二人は、確かに上手いライダーだった。
ブレーキングのタイミングも、バイクの倒し方も堂に入ったものだったので、ぱらぱらと集まってきていたライダーたちからも歓声が上がっていた。
が、28周目の最終コーナー、直線コースに入る手前でふたりのバイクが接触し転倒したのだった。
それはもう、ほうぼうから悲鳴があがり――救急車も呼ばれたくらいの大転倒。
すぐに駆け寄るスタッフたち。
が、もちろん――ふたりのジョーは無傷だった。
いや、細かく言えば「無傷」ではなかったのだが、ともかく「命にかかわるケガ」をしているはずはなかった。
それを知っているので、ふたりのフランソワーズは駆け寄らずその場で待っていたのだが、こちらにやって来たふたりを見てそれはもうジョーたちがとてもなだめられないくらい怒ったのだった。

ジーンズはところどころ摩擦熱で溶けていた。
そして、シャツも焦げていて、肘や膝には擦過傷があり――

けれども、その格好や事故に関して怒っていたのではなかった。ふたりのフランソワーズが突然怒ったのは、
「お前があそこで無茶なツッコミをするから」
「ふんっ。ブレーキングが下手くそなくせに何を言う」
「なんだと」
「下手だから下手って言ったんだ!」
フランソワーズにごめんの一言も無く、ケンカをしながらやって来て、そうしてお互いの胸倉を掴みあったからだった。

「いい加減にしなさい!!」

ふたりのフランソワーズのユニゾンに、びっくりした瞳で固まるふたりのゼロゼロナイン。
そうして、後は――彼女たちの言う通りに、スタッフに謝り、バイクの弁償をし、コースの整備を手伝ってきたのだった。

そして今は、有無を言わせず車に乗せられケーキ屋へ向かっている。

「・・・フランソワーズ?」
おそるおそる声をかける新ゼロ・ジョー。しかし、新ゼロ・フランソワーズは前を見たまま答えない。
聞こえていないわけがない。
「その・・・悪かったよ」
「――知りません」

そんな遣り取りを横目で見て、
「フランソワーズ?」
超銀ジョーも声をかけた。
フランソワーズはバックミラー越しにちらりと彼を見たものの、何も言わない。
「フランソワーズ、・・・心配かけて」
「心配なんかしてません」

取り付く島もないのだった。

――本気で怒ってる。

ふたりのジョーは改めて事の重大さに気付いた。
「あの、ふら」
「静かにしてください」

氷のように冷たい声で言われる。

「ケガ人なんだから、しばらく大人しくしてなさい。――これは命令よ」

誰も知らない事だったが、サイボーグのリーダーは実は003なのだった。

 

そのあと、ケーキ屋で「どちらが先にフランソワーズに許してもらえるか」競争をしていたふたりのジョーは、それぞれのフランソワーズからイヤというほどほっぺをつねられるというお仕置きをされたのだった。



 

7月31日     〜夏休み特別企画〜

 

そのC「ひとくち」

 

サービスエリアで休憩をとることになり、超銀組に続いて新ゼロのふたりも車を降りた。
ぶらぶらと店内を見て歩く。

「あ。ご当地ソフトですって。食べてみる、ジョー?」
「僕はいいよ」
「そお?――買っちゃおうっと。すみませーん」

満面の笑みでソフトクリームを買うフランソワーズにヤレヤレと息をつく。
そして、彼女が買ってきたそれを見て目を瞠った。

「――何ソレ」
「ソフトクリームよ?」
「だって色が・・・」

何となく茶色っぽいのだった。

「そば粉が入ってるんですって」
「・・・ふうん」

それにしても妙な色だな。と思いながら、ひとくち食べるフランソワーズを見つめた。

「――ん!甘くて美味しいっ」

笑みを浮かべ、嬉しそうに言う。

「ね、ジョーもひとくち食べる?」
「えっ、いいよ」
「だって甘くて美味しいのよ?」
「そば粉だろ」
「大丈夫だってば。ホントに美味しいんだからっ」

そうして、もうひとくち。

「んん。美味しいっ」
「・・・そんなに美味しいの?」
「うん。ジョーも買ってきたら?」
「イヤ、いいよ。ひとくち貰うから」
「そーお?じゃあ・・・ハイ」

ソフトクリームを差し出すと、ジョーはその腕を掴み――

「――ん!」

あっという間の出来事だった。
それはもう、「アナタ加速装置を使ったのね疑惑」をもたれるくらいの。
周囲の客の誰もが全く気付いていなかった。
このふたりが衆人環視の中、キスを交わしていたなどと。

「――本当だ。甘いね」
「・・・・・・っ」

フランソワーズはかあっと頬を染めた。

「もうっ。急に何するのよっ」
「だって、甘くて美味しいんだろう?」
「そうだけど、でも」
「だからひとくち貰ったんだよ」

悪びれず、唇をぺろりと舌でなめる。

「だっ、だからってっ・・・・」

イキナリあんなキスをしなくたって。

という彼女の訴えは言葉にならない。

「ホラ、早く食べないと溶けちゃうよ?」
「いいっ。も、ジョーにあげるっ」

「――ふぅん?」

そう言ったジョーの瞳を見て、
「やだ、間違いっ。やっぱりあげないっ」
慌てて言うものの、
「残念。――遅いよ」

その瞬間、フランソワーズの腰を抱き寄せ唇を重ねた。先刻よりも長く。
今度は周囲の客も気付き、足をとめて呆然と見ている者もいる。
が、幸か不幸か、外国人観光客が大量に到着したばかりであり、このふたりの行為など「当たり前の光景」のように周囲に埋没していった。
それすらもジョーの計算だったのかどうかは定かではない。

「・・・もうっ・・・・ジョーのばか」

離れてからも、ジョーの胸に隠れるように埋もれたまま、瞳を潤ませフランソワーズが言った声はとても小さく、ジョーにも届いたかどうか。

「――ごちそうさま」

平然としたジョーの声が降ってきて、フランソワーズはぎゅっと目をつむった。

ジョーのばか。もう知らないっ・・・

 

――でも、好き。

 


 

7月30日     〜夏休み特別企画〜

 

そのB「おそろい」

 

結局、新ゼロ・ジョーの強い希望で行き先は山になった。

新ゼロ・ジョーの愛車「ストレンジャー」では乗り入れが出来ないので、超銀ジョーのSUVに乗り込んで出発した。
ナビシートには超銀フランソワーズが座り、新ゼロ二人は後部座席に並んで座った。

「アラ、かわいい・・・それ、おそろい?」

超銀フランソワーズが後部の二人を肩越しに見つめる。
新ゼロ二人組は、色違いのパーカーにジーンズという姿だった。

「ええ、そうなの。・・・子供っぽいでしょ・・・?」

少し恥ずかしそうに目を伏せる新ゼロ・フランソワーズ。

「ううん。うらやましいわ。私たちにはそういうのないから」

寂しそうに言って、前を向く。
小さく息をつくと、隣で運転に専念してるものとばかり思っていたジョーが口を開いた。

「――おそろいを着たい?」
「えっ」

思わずジョーの横顔を見つめる。

「――おそろい」

ジョーはもう一度言うと、チラリと隣のフランソワーズを見た。

一瞬、目が合う。

「えっ・・・、ううん」

小さく首を振る。

「――いいの。無理しないで」
私たちは、そういうのが似合わないってちゃんとわかっているから。

そう胸のなかで呟いて。
そうして、ひとり小さく頷いた。

私たちには、そういうものは重荷にしかならないわ。きっと。
ただの、二人を繋ぐ鎖になってしまう。

そんな鎖なら要らなかった。

 

しばし無言のまま走る車。

 

いくつめかのサービスエリアで休憩をとることになった。

「フランソワーズ、ちょっと」

ジョーが有無を言わせずフランソワーズの腕を掴む。

「なぁに?どうしたの」

けれども答えず、ジョーは彼女の腕を掴んだままどんどん歩いていく。
そして、ある場所で足を止めた。
そこは。
土産物コーナーの一角にある、Tシャツ売り場だった。

「その、・・・着替えを持って来てなかったような気がするんだ」
「あら、着替えなら」
私がちゃんと詰めたから大丈夫よ。

と、言おうとしたが、続くジョーの言葉に思わず黙る。

「だから、ここで買おうと思うんだ。・・・おそろいで」

じいっと見つめると、フランソワーズの視線を避けるように、慌てて目の前のシャツを掴んだ。

「ホラ、これなんかいいんじゃないか」

無造作に手に取ったそれは、白地に赤い字で「熊出没注意」とプリントされていた。

「・・・・・・・・・・」

絶句するジョーにくすりと笑みをもらし、フランソワーズは傍らにある胸に小さくクマのイラストが描かれているシャツを手に取った。

「こっちの方がカワイイわ」

言って、ジョーの胸にあてる。

「んー・・・・色は・・・やっぱり黒かしら」

メンズの黒を探す。

「あ、あったわ。私は・・・白にしようかしら」

レディースのMを手に取る。

「これがいいけど、ダメ?」
「イヤ。――いいよ」

 

会計を済ませ、仲良く手を繋いで車に戻る。
乗り込もうとした時に、ジョーがフランソワーズを胸元に引き寄せた。

「帰ったら、ちゃんとしたおそろいを作るから」
「えっ?」

顔を上げようとしたけれど、ジョーに頭をぎゅうっと抱き締められ彼の顔を見る事はできなかった。
そうして

「――だから、後で指のサイズ教えて」

耳元で囁かれた時も、一体彼がどんな顔でソレを言ったのかわからなかった。

 

 


 

7月29日     〜夏休み特別企画〜

 

そのA

「大体、君はちゃんと考えているのかい?海なんていったら、キミのフランソワーズだって水着姿になるわけで、他の奴らだって彼女を見ることになるんだぞ」
「そうだな」
「そうだな、って・・・平気なのか?」
「ああ」

平然と微笑むジョーに対し、新ゼロ・ジョーは気勢を削がれて絶句した。
そんな彼に構わず、彼はゆったりと椅子の背にもたれ、悠然と腕を組んだ。

「僕のフランソワーズだぞ。むしろ、自慢したいくらいだ」
「自慢、って」
「キミは自慢じゃないのかい?自分のフランソワーズが」
「・・・彼女は見世物じゃない」
「ふん。稀有なバレリーナだってことくらい、わかっているだろう?」
「生憎だけど、僕のフランソワーズはそういうのは好きじゃないんだ」
「キミが好きじゃないだけで、彼女はそうでもないかもしれないぞ」
「好きじゃないよ。――僕にはわかる。それより、キミのフランソワーズだってそういうの好きかどうかわからないだろう?」
「・・・彼女は僕が『行こう』って言えば行くさ」

本当かよ・・・

呆然としつつ、二人のフランソワーズの方を見る。
と、自分のフランソワーズと目が合い思わず笑顔になった。小さく手も振ってみる。

ところが、もうひとりのフランソワーズはというと、突然立ち上がり、こちらへやって来るのだった。
そして。

「ジョー?」

テーブルに手をつくと、にっこり笑んで自分のジョーを見つめた。

「いくらアナタの命令でも、私はどこへでも行くわけではありません」
「えっ」
「ゼロゼロナインとしても、島村ジョーとしても。私は自分の意思で決めますから」
「え、でも」
「だから、アナタがどうしても海に行きたいならどうぞお一人で行ってください。私は行かないわ」
「え、ちょ、フランソワーズ!」

がたんと椅子を倒して立ち上がる。
先刻までのヨユウな態度は微塵も窺えなかった。

「行かないわ、って、そ」
「ダメよ。命令だ、なんて威張っても」
「・・・フランソワーズ」

がっくり肩を落とす姿を新ゼロの二人はただただ呆然と見つめるばかりだった。
このジョーが、さっきまで大威張りで物事を進めていたジョーと同一人物とはとても思えないのだった。

「・・・キミが一緒じゃなかったら僕は・・・」

ジョーの湿った声にもまるで頓着しない様子のフランソワーズを見つめ、むしろ新ゼロ・フランソワーズの方が焦ってソファから腰を浮かせた。

もうっ。何してるのよ、フランソワーズ。ジョーが泣いちゃうじゃないっ・・・!

かといって自分が彼に駆け寄るわけにもいかず(何しろ腰を浮かせただけで自分が何を考えているか察したのか、さっきから新ゼロ・ジョーがこちらを睨みつけているのだから)おろおろと二人を見つめるしかないのだった。

「もう。・・・バカね。命令だったら行かない。って言ってるだけでしょう?」
「・・・フランソワーズ?」

フランソワーズが腕を伸ばし、そうっとジョーの髪に触れた。

「・・・そうか。・・・そうだったね」

頷くジョーに、そうよと頷き返す。
そうして。

「フランソワーズ。僕と一緒に海に行ってくれないか?・・・これは命令じゃないぞ。・・・お願い、だ」

一瞬の静寂。

「・・・命令じゃないのね?だったら・・・ええ。一緒に行くわ。アナタとならどこへでも」

 

*******
さすが「演歌」な二人!?・・・旧ゼロなふたりを期待してたらゴメンナサイ(汗)今回は「命令だ!」の二人組です。


 

7月28日   〜夏休み特別企画〜

 

その@

「やっぱり海だろう。夏なんだし」
「いや、意外と山もいいと思うよ」

ギルモア邸のリビングで、二人のジョーがテーブルで額をつき合わせて相談をしている。
海と山。どちらかに行こうという事になったのだった。
が、中々決まらない。お互いに一歩も引かないのだ。

「バッカだなぁ。お前、知ってるか?海っていうのは水着になるんだぞ」

バカと言われ、対する新ゼロ・ジョーは憮然としながら腕を組んだ。

「僕はそういう動機で物事を決めるのは嫌いだな」
「うわ。出たな、イイコ発言。――お前、本気で言ってるのか?」
「本気さ。大体、フランソワーズの水着姿なんて別に海じゃなくても――」

平然と言った途端、後ろから口を塞がれた。

「もう、ジョーってば。どうしてアナタはそーゆーコトをペラペラと」
知らないっ。とつんと横を向く新ゼロ・フランソワーズ。

ジョーは口を塞いでいる手を掴んで引き寄せ、
「ダメだよ、邪魔したら。今、大事な会議中なんだから」
「会議、って・・・海か山でもめてるの、あなたたちだけじゃない。私たちはどちらでもいいのよ」
「・・・フランソワーズ」

ジョーはフランソワーズを引き寄せるとそっと耳元で囁いた。

「もし海に決まったら、君の水着姿を僕以外の奴も見るんだよ?そんなの、僕が耐えられると思う?」
「え、そっ・・・、・・・もうっ」

頬を染めると、そうっとジョーの頬にキスをひとつ。

「――わかったわ。アナタの好きなようにして」

そうして彼の腕をすり抜け、少し離れた所にあるソファに向かう。
そこにはもうひとりのフランソワーズが座っていた。

「・・・大丈夫?」
「ええ。ごめんなさい。まったく、ウチのジョーもそちらみたいにもう少しヨユウを持ってくれるといいんだけど」
「ヨユウ?」

言われたフランソワーズは驚いたように瞳を丸くした。

「ヨユウなんて・・・」

そう言って、ちらりと自分のジョーを見つめた。

 

******
新ゼロのふたり×今回はどこのふたりでしょう。
で、夏休み特別企画とはいっても、はっきりいって「見切り」です。更新もさくさくできればいいのですが、どうなるのかわかりません。


 

7月26日

 

『ハリケーンジョー、ファステスト!!』

興奮したアナウンサーの声が響く。

フランソワーズは少し身を乗り出して画面を見つめ――それから、ちらりと隣にいるジョーを見つめた。
ファステストラップを更新しているとテレビが伝えていても、無表情だった。

 

先日のドイツグランプリ。
その録画をリビングで観ていた。いま邸内に居る者の殆どがここに集っている。
ジョーとフランソワーズは仲良くソファに座っているのだけれど、先程からひとことも交わしていなかった。

そして。

『ああっ!!ハリケーンジョー、クラッシュ!!クラッシュですっ!!』

画面には、ばらばらになったマシンの痛々しい姿が映されていた。
ドライバーは――大丈夫だと親指を立て、ゆっくりとサーキットの外に出てゆく。

『優勝争いをしているハリケーンジョーがリタイヤです!!』

フランソワーズは隣にいるジョーを気にして、――そうっと指先で彼の腕に触れた。
一瞬、ジョーの目がこちらを向いて――でもすぐに逸らされた。

 

ドイツから帰って以来、落ち込んだ様子のジョーに他のみんなも腫れ物に触るかのように接していた。
が、本人はそれにすら気付いていない。周囲に注意を払ってもいなかった。
はじめ、フランソワーズはそれが――クラッシュでリタイヤなんて本当に久しぶりだから、それでなのかと思っていた。
が、そうではないようだったのだ。
だったら何が原因なのかというとそれもわからない。
ジョーは何も言わないし、訊けるような状態でもなかったから。

帰国してすぐに博士によるメディカルチェックを受けた結果、どこにも異常はみあたらなかったはずだった。
だから、身体の不具合による何かが起きている――と、いうのでもなく。

 

「ジョー?いったい・・・」
どうしたの?と最後まで言えず、語尾はすうっと空気に溶けた。

「・・・ウン・・・」

小さくため息をついて、ジョーは背もたれにゆったりともたれかかった。
そしてフランソワーズの手を握った。

「・・・今の事故、どう思った?」
「どう、って」
「ドライバーが普通に立って歩いて、ピットに戻ったんだよ?」
「ええ、それが・・・?」

ジョーが何を言いたいのかわからない。

「それって『普通』だと思う?」
「だって、今のF1マシンってそういう風に出来ているんでしょ・・・?」

確かに、年々マシンの構造・素材は進化しており、今はどんな事故にあってもマシンが衝撃を吸収してしまうから、ドライバーがどうにかなるという事は稀なはずだった。

「――この、・・・こんなクラッシュで無事でいるドライバーなんか本当はいないんだよ」

関係者の目にも、素人目にも、彼の事故は大したものではない――ように、見えていた。
フランソワーズの言ったとおり、現在のマシンはそうそうドライバーに影響がでるような造りにはなっていない。

「――誰かに何か言われたの?」

少し険を含んだようなフランソワーズの声だった。

「――えっ」
「言われたんでしょ?そうなんでしょう?」

ジョーの手を握り締めたフランソワーズの手が震えていた。

「・・・言われてないよ」
「だって」
「大丈夫」

優しく言われ、肩の力を抜く。

「でも、だったらどうしてそんなこと・・・」

改めてジョーの顔を見つめる。

「・・・ウン・・・。ちょっと、ね。僕はこのままドライバーを続けていてもいいのかなって」

ジョーの言葉にそこにいた全員が彼を見た。

「・・・オイオイ。何言ってるんだよ」
「そうだよ。いいに決まってるじゃないか」
「まさか辞めるって言うんじゃないだろうな」

「・・・・」

無言の答えは肯定なのか、否定なのか。

「ちょっと待ってくれよ。お前が辞めたら――」

大きく息を吸って言い放った。

「ここの維持費と生活費は誰が出すんだよ?」

 

***

 

「――それは冗談で言ったんだと思うわ」

みんなが各部屋へ引き上げた後も、ジョーとフランソワーズはそのままリビングに居た。

「だって、・・・そりゃ、ジョーの収入に頼っているのは事実だけど、でも、他にも収入源はあるんだし。あなたが辞めたいって思っているなら、誰も止めないわよ?」
「・・・辞めたいとかじゃないんだ」

そうじゃなくて。

こんな――生身の体ではない自分が走っていてもいいのだろうか?
強烈なGに耐える体。それは、鍛えてそうなったのではない。
どんなスピードで走っていてもはっきり見える観客ひとりひとりの顔。それは、動体視力がいいという問題ではなく。
高温や低温にさらされても、さほど苦痛ではない自分の体。
そんな体でレースに出るのは――反則ではないのか?

「――考えすぎよ。ジョーは」

握っていたジョーの手を解く。

「私だって、疲れない自分の身体を持て余すこともあるけれど、でも――」

バレエに対する気持ちは、自分が自分である限り揺るがない。

「・・・それだけじゃないから」

 

******
実は以前、お嬢さんも同じような事で考え込んでいたことがありました。(昨年12月頃の「子供部屋」だったかな?)
でも確か答えはでなかったような気がします・・・


 

7月24日     土用の丑の日

 

「お。今日はウナギの日か」
二階から降りてきたジェットは夕食のテーブルを見て少し嬉しそうに言った。彼はウナギが好きなのであった。

「そうよ。今日は全国的にウナギを食べる一大イベントなんだから」
自慢げに胸を張って言うフランソワーズを見つめ、ジョーはちょっと違うんだよなぁ・・・と思っていた。
「大変だったんだから。朝から1時間も並んだのよ、ウナギ屋さんに」
「へぇ・・・それはまたご苦労なことで」
「ほんとよ。暑かったし。ジェットに代わりに並んでもらえばよかったわ」
ちらりと見つめる蒼い瞳にうへえという顔をしつつ席につく。
ジョーは箸を止めて、お茶を飲みつつ
「言ってくれれば一緒に行ったのに」
「・・・・だって、ジョーは」
何回起こしに行っても起きてくれなかったじゃない――と軽く頬を膨らませて小さく言う。
「――起こしに来たっけ?」
「行きました」
「・・・覚えてないな」
「だって爆睡だったもの。・・・冷房もつけないで、あんな暑い中、よく昼まで寝てられるわ」
「・・・寝てたかな」
「寝てました」

ふたりの遣り取りを横目で見つつ、食事を進めるジェットとジェロニモ。
ピュンマとアルベルトは既に食事を終えて部屋に消えていた。博士は何度呼んでも地下から上がって来ないのだった。

「うーん・・・あ。寝たのは昨夜じゃなくて今朝だからさ、だから昼まで寝てもそんなには」
「今朝方?宵っぱりだな。いったい何をしてたんだ?ゲームか?」
「いや。ゲームじゃなくて」
「っ、ジョー!」

ジェットの問いにしれっと答えそうなジョーを慌てて制するフランソワーズ。頬が赤く染まっている。

あーあ。そんなわかりやすい態度を取るから・・・というジョーの声は、もちろん胸の中。

「ああ?――お前ら、このクソ暑い中、仲良しだなぁ」
け、と喉の奥で言ってウナギを口に運ぶ。
「夏ばてしないようにちゃんと寝とけよ」
「ああ。大丈夫だよジェット。今日はウナギも食ったし」
「夏ばて防止。日本の文化」

ジェロニモがごちそうさまと言いながら、話を締める。

「――もう、知らないっ。ジョーは部屋に来ないでっ」

真っ赤になって投げ捨てるように言うと、フランソワーズはそのままキッチンへ逃げ込んでしまった。

「・・・あーあ。お前、せっかくウナギ食ったのにな」
「別にそのために食べたわけじゃ・・・」

とは言いつつも、なんだか寂しいジョーなのだった。

 

*******
イヤほんと、ウナギ屋に朝10時に行ったのに既に行列で挫けそうになりましたよ。
予約するほどでもないしなー・・・と軽く見てたけど甘かった。(ええ、並んで買いましたケド)


 

7月15日          噂L

 

「――フランソワーズ。ちょっと来て」

ギルモア邸のリビングで朝刊全紙をテーブルに並べ、ジョーはその正面に座り腕組みをしていた。
じっと見つめる、朝刊全紙。さっきひとっぱしりコンビニまで行って片端から買ってきた。

「なぁに?どうしたの」

昨日の騒動のあと、事務所の車でここまで送ってもらった二人は昨夜は早々にベッドに入り――ぐっすりと眠ったのだった。そして今朝は早くから起き出して、フランソワーズは朝食の用意をしたり庭の草木に水をやったりとくるくると楽しげに動いていた。
キッチンの方からコーヒーの香りが漂ってくる。
髪にその香りを纏いつかせ、フランソワーズはジョーの隣に腰を降ろした。

「ウン・・・おかしいんだよ。どこにも昨日の事が載っていない」

朝刊全紙を集めたのは、昨日の騒動への対応策を練るためだった。
おそらく――各紙一面に大きく取り上げられているだろうから。
が、しかし。
予想に反して朝刊各紙のどこにも――一面にも三面にも芸能面にも――昨日の記者会見の事は報じられていなかった。
その代わり、一面の下のほうに小さく『お詫びと訂正』が載っていた。
『お詫びと訂正』――先日の、島村ジョーに対するフタマタ報道は全くの誤報であり、心より謝罪する。と。

「まぁ、これだけでもいいけど」

『お詫びと訂正』を指さし、フランソワーズに見せる。

「とりあえず、ヘンな誤解は訂正されたわけだし、きみの写真も載らなかったしね」
「そうね」

フランソワーズはジョーの手から新聞を受け取り、ページを繰った。
目指すのは芸能面でも三面記事でもなく――経済欄。
そしてそこには、目当ての記事が載っていた。

「・・・・」

そこには、『モナミ公国、来季より二輪レースも招致か』の見出しとともに女王と二輪レース関係者の映った写真が掲載されていた。

「なに?どうかした?」

ジョーが紙面を覗き込むが、

「なんでもないわ」

新聞を畳んでしまう。

「それより、ごはんにしましょう。――冷めちゃうわ」
「うん、そうだね。――おなか空いた」

 

どこでどう操作されたのか――は、ある程度予想ができたけれど、お互いに口にすることはなかった。

 

***

 

後日、立ち消えになっていた「ジョーのCMの話」が具体化することはまた別の話である。

 


 

7月14日          噂K

 

広報担当者に促され、一歩踏み出したジョーはふと先刻まで自分がいた場所に目を遣った。
そこには――女王がひとり座っていた。
悠然と。
超然と。

ジョーの視線を追って報道陣もそちらを見た。
かすかにざわめきが起こったが、先程と比べればそよ風が吹いた程度だった。

「あ・・・」

決して故意ではなかったが、結果的に彼女を傷つけてしまったかもしれない事に気付き詫びを入れようと口を開いた。
が、言葉が出たのは彼女の方が一瞬早かった。

「――まったく。いったい何の騒動かしらね」

珊瑚色の唇が弧を描く。

「あなたって――ここまでお膳立てしないと何もできないの?」
「――え?」

ぽかんとしているジョーを見つめ、女王は小さくため息をつくと立ち上がった。

「まさか私が、本当にあなたとこんな茶番をするために日本に来たなんて思ってないわよね?」
「それは・・・」

思っていた。

「いい加減にしてちょうだい。そんなに暇じゃなくてよ、私」
「でも」
「――誤解しないで欲しいの。あなたの事は好きよ、ジョー。だけど、それ以上に私は自分の国が大切。父が命がけで渡そうとしたもの、そしてあなたが守ってくれたものが・・・今の私には何よりも大事なの」

一歩、ジョーの方へ進む。

「あなたのチームのスポンサーになって、レースを招致したのだって――国の利益になると思えばこそ。もしあなたに集客力がなければ、とうの昔に見限ってるわ。いくらあなたの事が好きでもね。それとこれとは別なの」
当たり前でしょう――と結ぶ。

「今回、日本に来たのは二輪のエンジンを作らせるのにはどこがいいかみるためよ。いずれ、二輪レースも行いたいし。イギリスであなたと会ったのは本当に偶然。ちょうど二輪のグランプリを観た後だったから――それだけ、よ」

ジョーの目の前で立ち止まる。

「それから、アナタ」

フランソワーズの肩に軽く触れる。

「私、あなたの事は大っ嫌いだけど――勇気だけはあるみたいね」
エメラルドグリーンの瞳が煌く。

「もしあなたが来なかったら、このひとを離しはしなくてよ」

するりとジョーの腕から抜け出し、エメラルドグリーンの瞳を見つめる蒼い瞳。

「残念ね。彼は私のなの」

女王の手を自分の肩からそっと外す。

「あなたがどんなに頑張っても――彼は渡さないわ」
「自信家ね」
「愛されてるから」

いっとき見つめ合う。

先に視線を外したのは女王キャサリンだった。
口元には笑みが浮かんでいる。

「あなたの事は大っ嫌いだけど――大っ嫌いだったけれど、今はそうでもないみたいだわ」
「奇遇だわ。私もそうみたい」

くすっと笑い合って。

「ジョー。聞いた?あなた――負けてるわよ。彼女に」

女王の言葉にジョーは微かに眉間に皺を寄せた。

「あなたもこのくらい言えていたらね――結局、彼女がいなくちゃ何にもできないなんて情けなくてよ」

ジョーが何か言おうとするのを、フランソワーズがその腕をぎゅっと握って止めた。
じっとジョーの瞳を見つめ、何も言うなと制する。

「――次のレースも勝って――三連勝なさい。そのくらい、見せて頂かないとスポンサーとしても困るわ。こんなことをしている場合じゃなくてよ」

今度はフランソワーズは彼の腕を引き、何か言えと促す。

「・・・あ、はい。キャ」
「呼ばないで。――私は女王よ」
「――女王陛下」

一瞬、エメラルドグリーンの瞳が褐色の瞳を見つめ――そして、踵を返すと彼を後にし部屋を去っていった。
一度も振り返らず、それは見事な退場だった。

 

 

*********
なんかちょっと切ない・・・同じジョーらぶとしては。


 

7月13日 その2         噂J

 

報道陣の後方がざわ、と揺れた。
そのざわめきは徐々に前方にも波及した。

床の一点に視線を固定し、全ての質問を放棄していたジョーは、その視界に華奢なサンダルが見えて顔を上げた。
見慣れたサンダル。そして――足元からゆっくりと視線を上に上げてゆく。
そこには、報道陣をモーゼのように二つに分けて通り道を作ったフランソワーズが立っていた。
状況についていってない。
いま、カメラはシャッターを押される事を忘れ、インタビュアーは失語症に陥った。
突然の闖入者を全てのものが無言で迎えていた。
その対峙している相手――島村ジョー以外は。

「――ふ」

椅子から立ち上がる。

フランソワーズは呼吸ひとつも乱さず、ただジョーの顔を見つめた。
その蒼い瞳を見た瞬間、

「フランソワーズ!!」

椅子を蹴飛ばし、――それは後方に控えていたSPにヒットし、はからずも彼らに対する牽制になっていた――ほんの数歩で彼女の元に駆け寄ると、全く躊躇せず彼女を胸に抱き締めた。

「フランソワーズ、フランソワーズっ・・・!」

両腕でしっかり抱き締め、彼女の肩のあたりに顔を伏せてうわごとのように名を呼ぶ。
フランソワーズはというと、彼のアタックにも全く動じず、しっかり足を踏ん張って受け止めた。
そして彼の背中と頭に腕を回し髪を撫でながら――小さく、何事かを呟いた。

「――おいっ!これって――」
「あの熱愛報道のじゃないか!」
「なんだよ、こっちが本命かよ」
「写真!カメラ!」

一瞬後、二人の周りに怒号が飛び交い報道陣が殺到した。
四方八方からフラッシュが光り、二人の姿は光の中に浮かび上がった。
それでも、その対象はまったく周囲に気を向けておらず、まるで――今、世界のなかに二人しか存在しないかのように、全てのものを自分たちから切り離していた。

「島村さん、こちらが本命ですよね!?」
「女王とは本当に仕事だけの話だったんですね。てことは、一緒に帰国したのも仕事の打ち合わせを兼ねて?」
「彼女はどうしてここに?」
「島村さーん、顔上げてくださーい」

けれども、全く聞こえていない・存在していないかのように、二人は全く動かない。
動いているのは、彼の髪を撫でる彼女の白い指先だけ。
髪を撫でる――と、いうよりも。
それはまるであやすかのように、彼の髪を指に巻きつけたり、髪をくしゃっとしたりを続けている。

と。
衆人環視のもと、その彼女の手が――そうっと彼から離れた。
そうして、ふたりの間に隙間ができて・・・わずかに離れた。

「・・・・」
小さく彼女が何かを彼に問う。
それに対し、彼はかすかに頷いて――ゆっくりと顔を上げた。

「島村さん!彼女が熱愛報道のひとですよね!?」
「彼女こそ本命と言っていいんですね!?」

「――本命?」

たった今まで穏やかな笑みを浮かべていたその顔に、一瞬のうちに険がよぎった。

「え、いや・・・本命、ですよね?」

「――そんなわけ、ないでしょう」

当然、肯定するという想定の元に放たれた質問だった。が、それはジョーの唸るような低い声により否定された。

「えっ・・・でも」

なおも食い下がろうとするインタビュアーを一瞬見つめ、――インタビュアーが黙ると、おもむろに口を開いた。

「本命なんて二度と言わないでください。僕には、本命も何もありません。彼女が全てなのですから」

フラッシュが焚かれる。
が、ジョーはフランソワーズの頭を肩にしっかり抱き締め決して顔を撮らせることはしなかった。

「では――フタマタというのは」
「有り得ません。そんなもの、僕には全くの事実無根であり――訴訟を起こす用意もしています」

その言葉に報道陣に動揺が走る。中には、携帯電話を耳に当てどこかと連絡をとる姿も見える。

「え・・と、では、こちらが島村さんの恋人、と――」
「もちろんです。先日からそうお伝えしている通りですが」
「お名前をお聞きしてもよろしいですか?」
「――名前?」

一瞬、ジョーは目をくるりと天井に向け――既に彼女の名前は公共電波に乗せてしまっていたことを思い出した。
何を隠そう、自らが「ね?フランソワーズ」と言っていたのだった。

「名前は・・・」

少し照れたように微笑んで。

「・・・フランソワーズです」

「苗字も教えてください」
「ご職業は?」
「どうやって知り合ったのか教えてください」

質問が矢継ぎ早に飛ぶ。
が。

「――苗字?」

たった今、照れたように微笑んでいた彼の瞳が眼光鋭く質問を放った記者を射る。

「苗字なんて教えませんよ。もし、誌面に載せるようなことがあったら、ころ」
「ジョー」

剣呑な言葉は寸でのところで彼女に止められた。

「だめよ。・・・そういうつもりで質問しているわけじゃないんだから」
「でも」
「大丈夫。・・・大丈夫よ、ジョー」
「う。・・・うん」

小さく交わされる会話の間さえも、フランソワーズの顔が撮られないようにカバーする腕を外さない。

そんな中、やっと事態を知った広報担当者が到着した。
「すみません、今日はこれで――」

 

********
姫(ジョー)を助けに来た王子(お嬢さん)・・・。あ。女王は?


 

7月13日           噂I

 

空港ラウンジの一角で、フランソワーズはジョーの事務所の広報担当者と向かい合ってソファに座っていた。
テーブルにはコーヒーがふたつ。
けれども、どちらも手をつけられていない。

「――おかしいわ。もうとっくに着いているはずなのに・・・」
どうして連絡がこないのかしら。
と、何度も繰り返す担当者。目の前のフランソワーズに申し訳なさそうに。
「ごめんなさいね。到着したら電話がくることになっているのだけど」
「飛行機が遅れているのではないでしょうか?」
「いえ、それはないみたいなんだけど・・・」
テーブルに置かれた携帯が震えた。
「あ、ごめんなさい。その連絡みたいだわ――ちょっと失礼」
携帯を耳に当てながら、小走りにラウンジから出てゆく。
その後ろ姿を見送りながら、フランソワーズは小さく息をついた。

昨夜、ジョーから成田に来て欲しいと連絡があった。その後、彼の事務所の広報担当者から連絡が入り――いま一緒にいる彼女だ――今日、ここ成田空港にいる。
流れとしては、ジョーの乗った飛行機が到着後彼女の携帯にその旨連絡が入り、その後ジョーの会見が終わる頃に移動、となるはずだった。会見が完全に終わり、マスコミ陣がいなくなってから会う手筈になっている。
それはジョーの意向であり、彼はフランソワーズがちらっとでもマスコミと接触するのをよしとしなかったのだ。
だったら、何も空港に呼ばずともいいものだが、それとこれとは彼のなかでは別らしい。
ともかく、フランソワーズは広報担当と共に成田空港にいた。
が、待てど暮らせどジョーが到着したという連絡が一向に入らない。
到着予定時刻より一時間も経っている。
もし、彼の乗った飛行機に何かトラブルがあったのなら――それこそ、速やかに情報が入ってくるはずだった。
けれども、その類の連絡は一切ない。
ということは、――ジョーはいま一体、どこにいるのか?
まだ機上なのか?それとも、とっくの昔に着いているにもかかわらず、連絡が出来ない状況にあるのか。

ラウンジにひとり残されたフランソワーズは、ともかく考えても仕方がないとコーヒーカップに手を伸ばし――すっかり冷めていることに気がついて、やめた。

何度目かのため息をつく。

昨夜、ジョーから電話をもらったあとは――打ち上げ会場に戻ってもどこか上の空だった。
なにしろ彼が言っていた「噂を払拭するいい機会」というのが気になった。
明日、成田で彼はいったい何をするというのだろう?
そして、自分を呼んだ理由は?
ともすれば、そればっかり考えがちだったフランソワーズは、注がれるままにワインを飲み――結果、普段よりもだいぶ飲むことになり、それは今日成田に来るための早起きも相まって、彼女のこめかみで自己主張をしているのだった。

バッグからそっとコンパクトを出し、チェックする。
何しろ、寝不足と二日酔いのダブルなのだ。彼の目に自分がどう映るか気になっていた。
鏡に映った自分の顔を見つめ――すぐに、少し乱暴にコンパクトを閉じた。

やだもう。ひどい顔してる。・・・こんな顔でジョーに会うなんて、最低だわ。

傍から見れば、いつもの自分と大差ないはずだった。けれど、自分的には今日の自分はお世辞にも綺麗とは言えなかった。もちろん、最低ランクではないと思いたいが、それでもベストな自分とは大きく差がついていた。

ああもう・・・。変なトコ目聡いんだから、あのひと。絶対、「顔、ヘンだよ」って言うに決まってる。そして「酒飲んだだろ」って言うわ。ちょっと不機嫌そうに。でもね、昨日は打ち上げだったんだし、飲んでるの当たり前でしょう?大体、私が誰とお酒飲んだってジョーには関係ないと思うのよね。別に合コンしているわけじゃないんだし。・・・ちょっと待って。実は打ち上げなんて嘘で、私がどこかの誰かと合コンしてて、それでお酒飲んでるかもって思うということは・・・自分がそうだから、って事じゃない?――あらやだ。ジョーはそうしてる、ってこと?だから疑うの?・・・しんっじられない!

勝手に思考が暴走していくのは、寝不足と二日酔いのせいだと思いたかった。
ともかく、第一声で「顔、ヘンだよ」と言われたら、どう反撃しようか考えていると

「―――・・・・」

何か聞こえたような気がした。

「・・・?」

思わず、耳をすます。
が、何も聞こえない。

けれども、「003」としての自分がもう一度試せと言っている。
普段、日常生活に於いては絶対に「ちから」を使わない。眼も耳もスイッチをいれることはない。
が。
首筋にちりっと電気が走るような感覚。

フランソワーズは居住まいを正し、そうして――耳のスイッチをいれた。
途端に流れこんでくる大量の音音音。
その音の洪水をより分けて、いま、自分が何を聴くべきなのか探りながら、慎重に範囲を絞ってゆく。

「―――を、・・・・なんて言われたら、あなただって」

「!?」

周波数が合ったかのように、突然明瞭に聞こえてくる声。
それは、よく知っている――忘れるわけがない――世界で一番嫌いな声だった。
どうしてこの声がこんな近くで聞こえるのだろう・・・と、思った瞬間。

「・・・でしょう、ジョー?」

ジョー?

思わずソファから立ち上がっていた。

ジョーの声?もう成田にいたの?

そして。

なぜ、――彼女と話しているの?

わけがわからなかった。
思わず眼のスイッチをいれていた。
声が聞こえてくる方をじっと見つめ――ジョーと、彼女が並んで座っているのを確認した。報道陣に囲まれている。

ジョー?――何よこれ。
あなたが言っていた、噂を払拭するいい機会ってこのことなの?

しかし。

ジョーの表情は暗く、とてもそんな噂を払拭している最中とは思えないのだった。

・・・何してるのよ。

と、ジョーが突然立ち上がり――かと思うと、すぐに押さえつけられ着席させられた。
その彼に、隣にいる彼女が顔を寄せて何事かを囁いた。
その瞬間、ジョーの顔色が変わった。

フランソワーズは、バッグを掴むとその場所――ジョーのいる場所へ向かって駆け出していた。ふたりがいる場所は、自分が今いる所から意外と近いことは既にわかっている。

「・・・フランソワーズ」

駆けていても明瞭に聞き取れる彼の声。
それはいつもより掠れて――すっかり弱っているように聞こえた。

もうっ・・・何やってるのよ、ジョー!
よくわからないけど、いま行くから、だから――みんなの前で泣いちゃだめよ!

 

********
行け行けお嬢さん!!


 

7月12日         噂H

 

こんなはずじゃなかった。

たくさんのカメラのフラッシュを何の感動もなく浴びながら、ジョーの心は冷たくなっていった。

・・・こんなはずじゃ・・・

用意されていた席に着いたのは、ジョーとキャサリンだった。
まるで二人の会見のような様相を呈しており――そして、女王キャサリンはそれを否定しなかった。

「おふたりのなれそめは、やはりあの来日の時の?」
質問が飛ぶ。
キャサリンは一瞬、隣のジョーを見つめ・・・そして答えた。
「ええ。そうなるわ――ねぇ、ジョー?」
ジョーは彼女を見ない。
唇を噛み締め、耐える。
今、口を開いたら何を言うか自分でもわからなかった。

数年前の、来日の時。――その話はしたくなかった。

確かに、あの時は――いや。考えるな。もう、過ぎたことだ。

あの時の、フランソワーズの悲しげな顔がフラッシュバックする。

――違う。――思い出すな。
彼女はもう――あんな顔は、しない。

 

――そうだろうか?

本当に、そうだろうか?

それは、自分が勝手にそう思い込んでいるだけで――自分の知らないところで、今でも彼女はあの時のような顔をすることがあるのかもしれない。

 

自分の知らないところで。

 

――悲しい?

何が悲しいんだフランソワーズ。
僕がきみをひとりにするなんて、そんなことあるわけがないじゃないか。
僕がそばにいるのに、どうして悲しくなることがある?
ないだろう?
だから、きみは悲しくなんかならない。そんな顔は――しない。

 

・・・たぶん。

 

自信がなかった。
なにしろ、いまここでこうしている一分一秒が――おそらく、彼女を不安にさせている。
何故なら、自ら彼女をこの地に呼んでおいて、未だに会えていない。
自分がどこにいるのかも知らされていない。もし、うまく事務所の人間と会えていても、いま自分がいるこの場所に彼女が現れることは皆無であったし――何しろ、当初の予定では「自分の会見」が全て終了してから会うつもりだったのだから。
きちんと彼女の話をして、そして――全てが終わってから、彼女の顔をみてほっとしたかった。
と、いうよりも。
マスコミ相手に戦うためには、彼女が「近くにいる」と信じられること、彼女が「待っていてくれる」と思えることが必要不可欠だった。そのどれが欠けても、おそらく自分は――マスコミ相手でなくとも――誰とも、どんなものとも戦えない。
なのにいま、自分がここにいてこういう状況になっていることを彼女に伝える術がない。
だいたい、今のこの状況をどう打破したらいいのかもわからないのだ。

――何が最強のサイボーグだ。

こんな、噂ひとつ払拭できず、ただのスポンサーでしかない女王をどうすることもできず、結果、自分が全く思ってもみない方向に進んでいる。
不本意ながら、で済ませられる状況ではない。

 

「・・・よね?ジョー」

もの思いに沈んでいたジョーは、エメラルドグリーンの瞳に見つめられ我に返った。

「――え。なにが」
「ま。聞いてなかったの。・・・今までも、何かの時に会っていたわよね、って言ったのよ?」
「何かの時に、って・・・」
会っていただろうか?

「そういえば、島村さんは以前一般女性と熱愛報道がありましたよね?その件については」
「あ、それは」
チャンスとばかり、勢い込んで話しだそうとするジョーの言葉を強引にひったくったのは女王だった。
「誤報ですわ。決まっているじゃない」
「そ、そうなんですか?」
「ええ。どこかの記者が間違えたのよ。そんな――ちょっと遊んでいたのを熱愛なんて言われたら、あなただってたまったものではないでしょう、ジョー?」

――ちょっと遊んでいた。

「あなたたち、・・・名誉毀損で闘う気はあるのかしら?――モナミ公国を相手に」
若い女王だから御しやすいと思うのは早計だった。
いま、目の前にいるのは若くても支配者に間違いなかった。

――もう、たくさんだ。

立ち上がろうとする。
が、SPによりすぐに椅子に戻されてしまう。

「・・・あら。・・・行ってもいいのよ?ちからを使って」
「――!」
小声でキャサリンがにっこり笑って言う。
「でも、ほどほどにしてね?あとが大変だから」

借りを作る気はなかった。
しかし。

 

――フランソワーズ。

逃げられない。

いつも、突破口を知っていて、自分を導いてくれた大切な存在。それが、いない。いまここには。

 

――フランソワーズ。

スポンサーの意向には従わなければならない。というだけではなく。ジョーは半分、諦めていた。

 

「・・・フランソワーズ・・・」

僕は、どうしたらいいんだ。

 

知らず、小さく彼女の名を呼んでいた。

 

**********
ん〜〜〜〜〜(悩)キャサリンがすっごいヤなヤツになってるような気がする・・・。


 

7月11日        噂G

 

到着した飛行機を見つめ、驚きの声が上がったのはほんの一瞬だった。
次の瞬間には、マスコミ陣はその飛行機の到着ゲートに向けて殺到した。

銀色の機体。
尾翼には――王室のマークが入っていた。

 

***

 

特別ルートを通るでもなく、堂々と一般通路を進んでゆく。
ジョーは憮然とした態度を崩さない。いきおい、早足になるものの、その度に隣を歩く人物の手が伸びて彼の腕を引くのだった。その手を何度振り払おうとしたことか。しかし、その手の持ち主はまるで当然のように彼の腕を取って歩くのだ。

「――怖い顔。大丈夫よ、記者会見なんて。私が全部うまくやるわ」
「君は口をだすな」
「あら、どうして?」
「・・・・」

それは、何を言い出すかわからないからだ。
と、ジョーは胸の裡でひとりごちた。
彼女の意図が全く読めない。そもそも、なぜイギリスにいたのかも謎だった。
まさに発とうとしたその時、空港ロビーでジョーの前に立っていたのはモナミ公国の女王、キャサリンだった。
そうして、彼女の専用機に乗せられ――いま、成田にいる。

思惑が外れた。
予定がどんどん変わってゆく。
変わってゆくだけならまだしも――自分が意図しない方向に進みつつある。

彼女の言い分は――それを頭から信じていいものかどうかは甚だ疑問ではあったが――至極当然のものであり、他意はなさそうだった。
つまり。
年始から打診していた「コマーシャル第2弾」の件で、「たまたま」日本に行く用があったのだという。
そして偶然、ジョーに会った。
イギリスに来ていたのはレースとは全く無関係の別件だったのだという。
知り合い、それも旧知の仲のジョーを自分の機体へ誘ったのも自然な流れだった。本当に偶然であるならば。

「キャサリン女王。日本に来た目的はなんですか?」

ジョーの腕に手を添えて歩いている女王に、女性記者から質問が飛ぶ。
通常であれば、こんな不躾な質問の仕方なぞ不敬罪に問われても不思議ではない。が、今日は特別だった。
何しろ、女王の周りにはSPも少ないのだ。薄い警備は危険を感じさせたが、女王はというと危険を感じてすらもいない様子だった。
にこやかにカメラを見つめ、そして――傍らの島村ジョーを見つめ、エメラルドグリーンの瞳が輝く。

「このひとと仕事の話をするためです。――そうよね?ジョー」

ジョーが何か言おうと口を開いた途端、別の方向から質問が飛んだ。

「今回、一緒に日本へ来たのは何か親密な意味を感じるのですが?」

「まあ」
くすりと笑みをひとつ。

「それは今更言わなくてもおわかりでしょう?私とジョーは」
「――キャシー」
低い声で遮られる。が、気にしない。
「もう随分・・・昔からの仲ですのよ。――大切なひと。そうよね?ジョー」

甘えたように見上げられた。が、ジョーはそちらを見ない。

「ジョー。・・・もう、照れ屋なんだから」

 

*******
・・・・・ううっ・・・・なにこの展開。・・・・いったいナニやってんのよ、ジョー!


 

7月10日        噂F

 

あと数分で成田空港に着くというのに、島村ジョーはえらく不機嫌だった。
しかも、その不機嫌は今に始まった事ではなく――飛行機に乗ってからずっと、だった。
否。
より正確に言うならば、――飛行機に乗る直前からずっと――だった。

 

***

 

フランソワーズに電話をしてから数時間後。
ジョーは空港にいた。日本に帰るための手続きを全て終え――あとは搭乗するだけだった。
それまでまだ数時間ある。
何をするともなく、空港のラウンジでぼーっとしていた。スタッフはそれぞれマシンの調整やら何やらのため、各自ばらばらに自分の目的地へ向かうことになっている。
ジョーは無理言って――2連勝したので、少しは強気で――いったん帰国することを許された。
何しろ、一連のこの馬鹿馬鹿しい報道騒動を何とかしなければいけなかった。
日本での件はともかく――モナミ公国女王と熱愛中だなんて冗談ではなかった。

・・・キャシー。悪ふざけにもほどがあるぞ。

ひとこと言ってやりたい気もしたが、火に油を注ぐことにもなりかねない。
けれども、この一連の噂騒動の火元が彼女であることは明らかだった。
ジョーには確信があった。
開幕戦以来、彼女が何か考えているような気がしていてならなかった。何しろ、開幕戦後に彼女には会わず、さっさと移動してしまったのだから。
それ以後も彼女がサーキットに現れることもなく、日々は平穏に過ぎていったのだった。が。

――それですむわけがない。

いくらジョーが避けても、やはり彼女は彼のスポンサーなのである。
早晩、彼に対しプレッシャーがかかるのは目に見えていた。
スポンサー不在がどういうことを意味するのか。今季のF1レースでは痛いほど知らされた。

でもまぁ、ともかく・・・

あと数時間後にはもう成田に立っているし、そこにはフランソワーズも待っている。
ここで、自分の恋人は彼女であると公言してしまう決意を固めていた。
今までのような会見ではダメなのだ。もっとちゃんと――しっかり、言わなければ、この一連の噂は消えずますますおかしなことになってしまうだろう。

本当は、フランソワーズの肩を抱いて言ってしまいたかった。けれど、自制した。
彼女は自分と違って、一般人であり――夢を実現させ頑張っているひとりの女の子なのだから。
それに、彼女をカメラの前になんて立たせてしまったら。
面白いもの好きなテレビ局が放っておくわけがないのだ。お笑いの種に出演依頼されたり――レーサーの恋人という立ち位置で、スポーツ系トーク番組に呼ばれたりするかもしれなかった。
そんな、一過性の見世物にする気は全くなかった。だから、次善の策として、近くで待っていてもらうことにしたのだった。
そうでなければ、自分はマスコミなんていう強大な敵には立ち向かえない。
ミッションの時も、いつでも――彼の隣には彼女がいたのだから。
だから、戦えた。
それは、彼女にも他の仲間にも言わない、彼自身の秘密だったけれど。

 

***

 

「・・・ジョー?どうかした?気分でも悪い?」

自分の視界がエメラルドグリーンに染まる。

「・・・別に」

ふいっと顔をそむけ、ついでに身体全体もそむけてしまう。

「機嫌が悪いわね。まだ拗ねてるの?」

しょうがないひとね。という声を背に受け――ジョーはぎゅっと目を瞑った。

全く、どうしてこんなことになってしまったんだ?

 

********
エメラルドグリーン。オズのエメラルドの都に行ってしまったわけではありません。


 

7月8日         噂E

 

「――あのさ。フランソワーズ」

いったん、言葉を切る。口中の唾を飲み込んで、息を整えて、そして――

「・・・これから帰るから。だから、明日。・・・成田に来てくれないか?」

「明日?」

携帯電話の向こう側から、訝しげな声が響く。不思議そうに小首を傾げて自分を見つめている彼女の顔が思い浮かんだ。
「そう・・・明日」

明日が勝負だった。
そして、ジョーの心は既に「明日」以外にないと決めていた。

 

***

 

ジョーからの電話を受けたのは、公演が終わって数時間後だった。
打ち上げも始まったばかりで、まだ場も静かな中――自分の携帯が小さくメロディーを奏でている事に気がついた。
ついさっき電源を入れており、うっかりマナーモードにしておくのを忘れていた。
小さく「ごめんなさい」を繰り返しながら、外に出る。
電話の相手はジョーだった。

「もしもし、ジョー?」

確か彼のレースも終わっている頃だった。
そして、終わってすぐ自分に電話をかけてくるということは、良い結果を残せたのに違いなくて。
フランソワーズの声は自然と弾んだ。
電話を受ける側としては、やはり楽しい話題の方がいい。

「勝ったのね?――何位だったの?」
「何位だって?」

返ってきたのは、聞き慣れた大好きなひとの声。――何度聞いても、どきどきする、甘い声。
「嫌だなぁ、フランソワーズ。誰に向かって訊いてるんだい?」
「――!?」

ジョーが少し偉そうな口調で話す時は、「ほんとうに」良い結果の時だけだった。

もしかして、フランスグランプリに続いて・・・2連勝?

「か」
勝ったのね、と言おうとして――ジョーの声とぶつかった。
「参ったよ。雨でグリップが難しくてさ。も、滑る滑る」
「・・・・」
勝ったことの報告ではなかったのか。
黙り込んだフランソワーズの耳には、楽しげなジョーの声が響いている。
「何回もスピンしそうになってさ。堪えたんだけど、何度目かにもっていかれて」
くるくる回ってしまったのだそうだ。彼の表現そのままで言うなら。
「・・・くるくる・・・?」
スピンするのはそんなに楽しげなことだっただろうか?
フランソワーズは眉間に軽く皺をよせ、一瞬携帯を耳から離し――まるで、相手がそのなかに見えるみたいにしみじみと携帯電話を見つめた。電話の向こう側からはくすくす笑いを含んだ声が続く。
「そ。くるくるーって。もうだめかなーって思ったんだけど、そうでもなかったよ。だってさ、みーんなくるくる回ってるんだぜ?俺だけじゃなくて。それはもう、壮観だったなぁ」
「・・・そうなんだ」
それで、ジョーは何位だったのだろうか?まさか、スピンを楽しんだ話をするために電話をしてきたわけではないだろう。
・・・それとも、そうなのだろうか?
「で、俺が一番先に我に返ってコースに復帰したというわけ」
この際、ジョーの不可思議な表現は無視した。そうじゃないと話が進まない。
「そんなわけで、優勝しちゃったよ。また」
「優勝っ?」
「そ。2連勝」
「すごい。さすがね」
「もちろん」
一瞬、間が空いて。

「――で?フランソワーズのほうはどうだったんだい?ミスしなかった?」
「ま。誰に向かって言ってるの?」

ジョーと同じ調子でやり返す。こういうノリがでる時のフランソワーズも、機嫌が良い証拠だった。

「ふーん。その調子ならうまく行ったんだ。――良かったな」
「そうよ。だから、ジョーもいつかちゃんと観てね?」
「え。いまそれを言うわけ?」
「言うわよ。だって観て欲しいもの」
「う―――」

低く唸る声にくすりと笑ってから続ける。

「これから打ち上げなの。だから、また後で――切るわね」
「あ、待った」
「なに?」
「あのさ。明日なんだけど・・・・」

 

***

 

「成田?」

きょとんとした顔が容易に思い浮かぶ。その蒼い瞳を思い出しながらジョーは言葉を継いだ。

「うん。――明日、どうしても来て欲しいんだけど、だめかな」
「どうしても、って・・・・行けるけど、どうしてまた」
「それは」

再び、唾を飲み込んで声を整えて。

「明日が一番いいと思うんだ。その、・・・連勝したからマスコミ関係も来てるだろうし」
「ええ、それが・・・?」
「だから、・・・噂を払拭するいい機会だと思うんだけど」

噂を払拭する。
それは、ジョーがイギリスグランプリのために日本を発ってからずうっと考えていたことだった。
なにしろ、日本では――その少し前に、自分はフランソワーズと付き合っているとちゃんと宣言したにも拘らず――何故か翌日から自分は「フタマタ野郎」になってしまっていたから。自分では、自身のことだし天地神明に誓って「フタマタ」なんて覚えがないと言える。が、それでも、自分があらぬ疑いをかけられ、あたかも「その通り」であるかのように放送されると、彼女は凄く不機嫌になるのだ。それは、噂の内容についてではなく――自分がフタマタなんぞしていないことはよくわかっているので――彼が、つまりジョー自身があらぬ噂によって傷つくと本気で心配して、そして――怒っている。
だから、彼女のためにも一刻も早く「効果的」に噂を払拭したいと思っていたのだった。

そして、前回の優勝時もそうであったように、連勝した今もおそらくマスコミは待ち構えているわけで・・・

できれば国際映像も使いたかった。
ジョーがイギリスグランプリに行って一番初めに知ったのは、日本以外では自分とモナミ公国の女王が「熱愛中」だと報道されていることだった。それも、連日繰り返し繰り返し。
どうしてそんな出来事が突然降って沸いたのか、ジョーには心当たりがあり――おそらくそれは当たっているはずだった。

だから、それも含めて、全ての噂の払拭を心に誓った。

明日の成田では――フランソワーズとの事をちゃんと、誰の目にも誤解ができないように発表するつもりだった。

とはいえ、彼女の姿を報道させるつもりは全くなく、彼女を成田に呼んだのは・・・
発表したあと、真っ先に彼女の顔を見たいからだった。

 

**********
大丈夫かなぁ・・・。見つかるよ?


 

7月5日     噂D

 

キャサリン女王、か・・・。

闇の中に一組の蒼い瞳だけが見える。が、煌いたのはほんの一瞬で、その蒼はすぐに見えなくなった。
フランソワーズは闇の中で天井を見つめていたが、考えようとしても思考がまとまらず目を閉じた。

ばかね。考えても仕方ないじゃない。

ジョーが彼女をキャシーという愛称で呼ぶことも。
キャサリン女王がジョーのチームのスポンサーになったことも。
開幕戦の、モナミ公国でのことも。
どれも――深い意味はない。
表面上では、全て綺麗に説明がつく。
ジョーが彼女をキャシーと呼ぶのは、「過去の彼女」を相手にしているからであって、いまではない。だから、彼が彼女をそう呼ぶ限り、彼にとって彼女は現在そこに存在しているわけではなく――彼のなかでは終わった存在。
だから、何も心配することはない。
スポンサーの件もそうだ。ジョーのチームにとって、それは大きく良い方へ進むきっかけになるし、必ずプラスになる。
だから、何も心配することはない。
開幕戦で、彼女がジョーを探していたことも――スポンサーの開催国での開幕戦なのだから、不思議なことでも何でもないはずだ。例え、彼女が公的な意味ではなくジョーに会おうとしていても。
それに、実際――彼女はジョーに会えなかったのだから。私的には。
否。
正確には、彼女は『ジョーに会っていたのに彼をわからなかった』。
今でも不思議だった。
もし、彼女がほんとうに彼を――ジョーを好きなのなら、わからないはずがない。彼がどんな格好をしていようとも。
何故なら、自分だったらそうだからだ。彼がどんな姿をしていても、見分けられないわけがない。自分の能力を使わずとも、それは容易なはずだった。
なのに、彼女はわからなかった。

――どうしてかしらね。ジョー。

体の向きを変えて、傍らで眠っているジョーの顔を見つめる。
そうっと目にかかる髪を除ける。
両目が見える彼の顔。

これって、そんなに貴重なことかしら・・・?

ジョーの両目が見える。
フランソワーズにとって、それは特に珍しいことではなかった。
が。

でも、他のみんなもわからなかったのよねぇ・・・。

彼の前髪が短くなってしまった時。しばらくは他のメンバーも彼をジョーだと認識するのに手間取っていた。
はじめは冗談でそう言っているのかと思っていた。が、じきにそうではなく――本当にわからないのだと知ったときは驚いた。

私だけ。――どうして?

それは、彼とこうしていることに関係があるのだろうか。あるいは、彼に抱き締められることが多いからなのだろうか。ミッション中もそうでない時も含めて。確かに、彼の腕のなかから彼の顔を見上げるときは、大抵・・・前髪に隠れているはずの瞳もちゃんと見えていた。

と、いうことは。
キャサリン女王がわからなかったということは、つまり、彼女がジョーとそういう位置関係をとる機会は皆無かもしくはあってもほんの数回だったということになる。

だったら、全然フタマタじゃないじゃない。

そう思い、なんだか馬鹿らしくなってきた。

――そうよ。大体、変装もなんにもしていないジョーが目の前にいるのに、まるっきり気付かないのっておかしいじゃない。そんなの――ジョーのことを本当に好きなのか・・・愛してるのか、って疑うわ。だって、私は絶対にわかるもの。
もし、ジョーのそっくりさんが何人立っていて「本物はだーれだ」って言っても、絶対に間違えないわ。
だって。

甘えるように鼻を彼の肩のあたりにこすりつけ――彼の胸に寄り添った。

だって。
私のジョーは「このひと」だもの。例え、何人ものそっくりさんが現れても――私にはわかるわ。
ほんとうよ?ジョー。

その声が聞こえたのか聞こえてないのか――
フランソワーズは、まるで返事をされたかのように、彼の腕に抱き締められていた。

 

*******
「開幕戦のときのこと」が書いてある部分をまとめました。前ページのネコをクリックしてください♪
(でも、女王絡みのお話は、他に「CM編」「記者会見編」があるのですよね・・・。いずれ、気が向いたらまとめます。予定は未定ですが)


 

7月4日    噂C

 

ジョーの腕に抱き締められながら、その胸に頬を寄せてフランソワーズは考えていた。
今回のこの「フタマタ」騒動が何故起こったのかを。
何故か?――ジョーがフランスグランプリで優勝したから。
それは、わかっている。ともかく、優勝すれば世界的にも国内的にも一時的とはいえ「時の人」になる。
そして、ジョーは表彰台で自分の名前を叫び、更には空港でのインタビューでも自分のことを「恋人」であると認めた。
そこまでは、いい。
しかし。
一夜明けてからの「フタマタ」騒動。しかも、恋人宣言されたはずの自分よりも、かの国の女王がまるで彼の恋人であるかのような扱いになっていた。昨日よりも今日のほうが、自分の影は薄くなり、かの女王の存在が色濃くなっている。
明らかに、不自然だった。

「・・・ねぇ、ジョー」

彼の胸から頬を離して顔を見上げる。

「あの」

けれども、自分の胸に湧き上がった疑惑をぶつけるには時期尚早なのかもしれず、言葉にしていいものかどうか迷った。なので、代わりにこう言った。

「・・・そろそろゴハンにしない?おなか空いちゃった」

 

***

 

そもそも、かの女王と彼のツーショット写真はいつ撮られたものなのか。
もちろん、しみじみと見た訳ではないので、どんな構図のどんな写真なのかはうろ覚えだった。が、ジョーの表情が「よそいき」のような気がしてならなかった。もし「親密な」ふたりの写真ならば、もっとこう・・・嬉しそう、とはいかないまでも、そういう雰囲気というのは写真に現れてくるものではないだろうか。例えば、自分と彼の映っている写真は、時には自分で見ても照れてしまうことがある。ただ並んで映っているだけで、手を握ったりも肩を抱かれてもいないのに、お互いの距離感や雰囲気がお互いを思い遣っているのがわかるのだ。もちろんそれは、自分ひとりだけがそう感じてしまうのかもしれなかったが。
だから、例のツーショットはただの「表敬訪問時の記念撮影」としか思えなかった。
そんな他人行儀な写真が「フタマタ疑惑」の表舞台に出ているというのは、やはりどう考えても不自然だった。

夕食後、ゲストルームでストレッチをしながらフランソワーズはずうっと考え込んでいた。
なにをどう考えても、やはり納得がいかなかった。
それに。
マスコミが本気を出してジョーと彼女との事を調べたならば、数年前の彼女の気まぐれが起こした一件も簡単に知られてしまうであろうことは想像に難くない。

――別に、いま思い出しても平気よ。

辛かったのは事実だが、それも今は遠い昔の記憶だった。少なくとも自分にとっては。あれから数え切れないほどの事が色々と続いた。だから、それらに比べれば大した事ではなかったのだ。
しかし。
当人である彼女にとってはどうなのか。そこまでは、わからない。
彼女の状況も変わってはいる。何しろ、当時は王女だったのが今では女王なのだから。

まさか、彼女のなかではジョーとのあの一件が現在進行形・・・ってことは・・・ないわ、よ。ね?

とはいえ、開幕戦での出来事を思えば、完全に否定しきれなかった。
しかも。
あの時、自分はまるで――機械人間のように扱われた。
サイボーグなのだから、人間を守って当たり前なのだとも言われた。
あの時の思いは忘れていない。今でも思い出すと悔し涙が出そうになる。決して泣きはしなかったが。
その件に関しては、ジョーにも言っていない。自分と女王との確執なのだから。それに、きっと彼が知ったら――今の自分よりも傷つくのは目に見えている。決してそんな素振りをしなくても、それは確実だと自分にはわかる。だから、言わない。
ともかく、あの時彼女が自分を邪険に扱ったのは――もしかして、自分をジョー争奪戦のライバルと思ったからではないだろうか。
そして、今回の件も――あるいは、女王自らが流した風聞なのかもしれなかった。ジョーが優勝したのと合わせて。
それとも。
そう結びつけて考えてしまう自分は意地悪なのだろうか。

「・・・わからないわ」

「何が?」

背後から声をかけられ、自分の思考にしか意識を向けていなかったフランソワーズは文字通り飛び上がった。

「ジョー!・・・もう、びっくりしたわ」
「ゴメンゴメン。あんまり熱心だから、声をかけるタイミングが見つからなくて」

そう言って頭を掻いている。

「・・・どうしたの?」
「うん。・・・きみの公演っていつだったかなぁと思って」
「今度の日曜日よ」
「日曜・・・」

フランソワーズの答えに、ジョーはがっくりと肩を落とした。

「・・・ダメだなぁ」
「どうかしたの?」

フランソワーズは彼の元へ進み、そうっと頬に手をあてた。

「なかなか予定が合わないな、って。残念ながら、その日はイギリスグランプリなんだ」
「あら。予定が合えば見に来てくれるつもりだったの?」
「え。いや、それとこれとは・・・」
「あーあ。いつになったら見てくれるのかしら。ハリケーン・ジョー?」
「コラ。そんな事言ったら、次のレースに一緒に連れて行くぞ?」

抱き締めようとする彼の腕をすり抜ける。

「ダメよ。今度もひとりで行ってちょうだい」
「冷たいなぁ」
「そのくらいガマンできなくてどうするの。・・・ちゃんと、電話もメールもするから」
「ん・・・」
「だから、泣いちゃダメよ?」

明日にはもう出発しなければならないジョーだった。

 

*********
えぇと。フランスグランプリからすぐ帰ってきたジョーですが、次のレースに向けて準備のために翌々日には出発しなければならないのです。
・・・というかなり大変なスケジュールなんです。そうなってしまいました。ジョー、ごめん!


 

7月3日   噂B

 

「ちょっと待った!」

瞬時にジョーは手を伸ばし、彼女の体を捉まえた。

「どうして止めるのよ」
「落ち着け、って」
「だって」
「いいから。ちょっとこっちに」

引き摺るようにしてその場から引き離す。
何事かと見つめる周囲の視線から避けるように、自販機の影に入り込んだ。
そうしてから、やっとジョーは深くため息をついた。心から。

「・・・ったく。いったいどうしたっていうんだ」
「だって」

未だにジョーに腕を掴まれたままのフランソワーズは、頬を紅潮させ彼を睨みつけた。

「だって――ひどいじゃない!・・・訂正しないと、誤解されたままなのよ?」
「いいよ別に」
「ダメよ!」
「僕は気にしてないよ」
「だって」
「いいから」
「嫌よ。私が気になるの!!」
「・・・フランソワーズ」

ジョーはやれやれと二度目のため息をついた。

「僕は気にしてないから。フランソワーズがちゃんとわかってくれてればそれでいいんだよ」
「イヤ」
「フランソワーズ」
「イヤよ。だって、あなたが悪く言われてるのよ?」
「だから、僕は平気だって」
「だって」

一瞬、炎が燈ったようだった双眸が揺らぎ、怒りは鎮静化された――かのように、見えたのだが。

「イヤよ。何よ、『フタマタ野郎』って!!」

 

***

 

迎えに来なくていいと言ったはずだったのに、ジョーが待っているのを見つけてフランソワーズは大層驚いたのだった。
レッスン後、ビルを出るとすぐ――彼の姿を見つけた。朝、別れた時と全く変わっていない。本当に事務所に行って用を済ませてきたのか疑うほどだった。

まさか、朝からずっとこの辺にいたんじゃないでしょうね?

ちらりと疑惑の目を向けるものの、ジョーは全く悪びれずにニコニコしていた。

・・・子犬みたい。

彼に尻尾があるなら、いままさにそれは振り切れんばかりに振られていることだろう。

褐色の瞳のわんちゃん。名前はジョー。

勝手に心のなかで犬になった彼を思い描いてみる。

性格は甘えんぼ。でも、飼い主を守るためならどこだって行くの。勇敢なのよ。

思わずくすりと笑みが洩れてしまった。

「――ん、なに?どうかした?」
「ううん。なんでもない」
「機嫌がいいね。何かいいことあった?」
「うふ。あのね。・・・『お手』」
「へ?」
「『お手』ってば」
「・・・?」

訳がわからなかった。が、言われるままに手を差し出してみる。

「はい。よくできましたっ」

笑顔とともに言われ、そのまま腕に巻きつかれる。

「・・・フランソワーズ?」
「なあに?」
「・・・これ、そういう意味?」
「そーよ」

あ、そ・・・とジョーは軽く首を傾げつつ、それでも彼女に腕を貸したまま駅へ向かった。
そして、今の今まで機嫌の良かった彼女が豹変したのは、駅の売店を通り過ぎたあとだった。

駅のホームに着いて、あと5分で電車がくるねと話していた。
が。
「・・・・っ」
フランソワーズの、鋭く息を吸い込む音がしてジョーは驚いて傍らの彼女を見つめた。
戦場以外でこんな表情をしているのを見た事は滅多になかった。
「フランソワーズ。ど」
「・・・ひどいわっ」

ひとこと言うと、あっけなくジョーの腕を解放し、先刻通り過ぎた売店前へ歩き出した。大変な早足で。
その姿に不穏なものを感じたジョーは、彼女が売店前の大学生と思しき集団に到達する前に彼女の体を捕獲したのだった。

彼と彼女の姿を目にした彼らは、いままさに自分たちが噂していた当人が現れ、ただ呆然と突っ立っていた。
売店で買ったスポーツ新聞の一面を見ながら、『コイツ、フタマタだったんだぜ』『いいよなー、レーサーってさ。よりどりみどりじゃん』『もっと他にもいるんじゃね?』『いいかぁ?俺はがっかりしたよ。ただのフタマタ野郎ってさ』と、さんざん言いたい放題だったのだから。

フランソワーズがこの会話を耳にしたのは、別に能力を使ったわけではない。
彼らの声は甲高く、空いているホーム中に響き渡っていたのだから。
当然の如く、当のジョーも聞いていた。
が、フランソワーズと違って反応しなかったのは――全く気にしていないからだった。

 

***

 

「ひどいわ。どうしてジョーは怒らないのよ」
「だから、気にしてないから。本当に」
「どうして平気なのよ」
「事実じゃないから」
「だけど」
「ふーん?じゃあフランソワーズは本当だと思ってるんだ?」
「思ってないわよ」
「だったらいいじゃないか」

膨れたままのフランソワーズの手を引き、ホームに滑り込んできた電車に乗る。

「夕ごはん、何にしようか」
「・・・・」
「どこがいいかなぁ。どこか行きたい所とかある?」
「・・・・」
「言わないと勝手に決めるよ?」
「・・・・」
「んー・・・じゃあ、張」
「イヤ」

瞬殺だった。

「たまには張大人の中華を食べたいなぁ」
「イヤ。絶対、あなたの噂のこと、根掘り葉掘り聞こうとするもの」
「大人はそんなことしないよ」
「するひとがひとりいるでしょう?」

それっきり、つんと横を向いたままひとことも喋らない。

あーあ。グレートは信用がないんだなぁ・・・。

彼の脚本による舞台『雪の女王』の中のセリフを、フランソワーズは未だに根に持っているのだった。

 

***

 

電車を降りて、途中でテイクアウトの惣菜を買って、ジョーのマンションに入ってからも、フランソワーズはずうっと無言だった。ジョーが顔を覗き込んでも、目を逸らせたまま合わそうとしない。そのままだったら、いくらジョーでもお手上げだったが、フランソワーズはそれでも繋いだ手はずっと離さなかったので――大丈夫かと思いきや、部屋に入ってからも、彼女の不機嫌は直らなかった。

「フランソワーズ。とりあえず、ごはんにしようよ」

上着を脱いでネクタイを緩める。

「ホラ。さっきから一体どうしたんだよ」
「だって」

覗き込むジョーの視線を避けるようにして。

「だって・・・テレビや新聞で面白がってあんなふうに言われて、それを見たり読んだりしたひとがみーんなジョーの事をそう思ってるのよ。・・・そんなの、酷い」
「僕は平気だって言っただろう?本当に気にしてないから」
「だって」
「フランソワーズがちゃんとわかってくれてるからいいんだよ。それとも信じてないの。僕のこと」
「そんなわけないでしょう?」
「でもさ。そんな顔されると、ああ僕って信用ないんだな・・・って思ったりして」
「違うわっ。そうじゃないの。そんなんじゃないのよ」

そのまま俯いて。

「そうじゃなくて。・・・あなたが悪口を言われるのがイヤなの。何にも悪いコトしてないのに」
「悪口なんて慣れてるよ」
「そんな事言わないで」
「だって、慣れてるから」
「イヤ。慣れないで、そんなの」

彼が少年期にどういう日々を送っていたのかは想像するだけで、実際に彼の口から聞いたことはなかった。
いくら彼がさらりと「鑑別所時代にね――」と会話の中で言ったとしても、いくら彼が「本当にもう気にしてない」事だとしても、それでも、そういう日々の片鱗を思い出させるような事は言って欲しくなかったし、思い出して欲しくもなかった。
辛い記憶であるならば。
ジョー自身も、フランソワーズがその事を気遣ってくれているのはわかっていた。が、本当に平気なのだといくら言葉を尽くしてもそれがきちんと彼女に伝わることはないであろうことも知っていた。

「・・・ほんとに大丈夫だから」

そういった彼の目をじっと見つめる蒼い瞳。

「・・・本当に?」
「うん」
「・・・泣いたり、しない?」
「しないよ。僕をいくつだと思ってるんだい?」

だって、泣くくせに。と思いつつ、とりあえず――笑顔を作った。ジョーが困っているのがわかったので。

「・・・ジョーは、本命とか、選ぶとかじゃないのよね?」
「何が?」
「・・・私のこと」
「うん」
「私しか、いない?」
「うん」
「一番目は?」
「そんなの。・・・膨れっ面しているフランソワーズだよ」
「なによそれ。――ひどいわ」

そのまま、ジョーの胸に寄り添った。

――テレビも新聞も、なにもかも間違っている。ジョーはちゃんと言ってるのに。私のこと。

「告白」を受けた女の子は強いのだった。

 

*********
そうです。ジョーに「本命は誰?」なんて口が裂けても聞いてはいけません。怒られますよ。
名前:ジョー 性格:甘えんぼ 種類:柴犬。