準備万端、整った。あとは「その日」を待つばかり・・・

F1開幕戦を控え、最終チェックも終えた夜。彼女は指折り数えて待っていた。
想い人がやって来るのを。

――長かった。
議会を通過させるのがこんなに大変だとは思わなかった。父はこともなげにやっていた事なのに。
「女だから」となめられるのは嫌だった。だけど「女だから」と甘くみられるのが有利な場合はとことん使った。自分はか弱き女王なのだということを。
そしてやっと――念願が叶う。

こんなに誰かを思う日が来るなんて思ってもいなかった。
あの日、日本に行っていなければ――公務から抜け出していなければ、会うこともなかったひと。
公務を抜け出すのは日本でなくても良かった。けれども、日本だったからこそ会えたのだった。
不思議な縁。
でも、忘れられない。

一度は思いが重なったのに。
安易に離してしまったのは、私がまだまだ何にもわかっていないコドモだったから。
でも今は違う。
自分の欲しいものに対し、どうすれば手に入れられるのかもわかっている。

もう間違いはしない。

彼のことを思い浮かべ・・・そして、当然浮き上がってくる彼の隣にいる「女」に眉をしかめる。

――ただのバレリーナだと思っていたのに・・・。

彼と同じサイボーグという、たったそれだけの理由で彼の隣にいることを許されている女。
たまたま紅一点だったから、みんなからちやほやされてそれを誤解している女。
彼は彼女を愛していると勘違いし、それに全く気付いていない。彼女もそれを正そうとはしない。
――なんの努力もしてないくせに。どうして平気で彼の隣にいられるの?彼を愛してるなんて自信を持てるの?
私は・・・彼を得るためにどれだけ苦労したことか。
サーキットの建設に国家予算をどのくらい削ったかわかる?
もちろん、彼がいれば集客を見込めて、回収は早期に可能だという試算は何度も行った。
だけど、これはひとつの賭け。
もし彼が勝たなかったら?リタイヤしたら?負傷したら?全ては負債になる。
そんな責任も辞さない覚悟でいるのに。
彼に会うためにはそのくらい軽いわ。って笑って言えるくらいなのに。
なのに、彼女は何にもしていない。
ただ身体がサイボーグというだけで、たったそれだけの共通点にしがみついて彼のそばから離れない。

だったら。

そんな共通点を凌駕すればいい。
私は――あなたがサイボーグでも、関係ない。
愛したひとはあなただけ。

島村ジョー。

 

***

 

「じゃあ――行ってくる」
「行ってらっしゃい」

キスとともに送り出してから1時間も経っていない。おそらくまだ空港にも着いていないだろう。
F1開幕戦を控え、ジョーが――サイボーグのリーダーの顔からレーサーの顔になって――モナミ公国へ旅立って行った。空港には行かないことにしている。いくら離れるのが嫌でも、空港に行けば人目がある。
自分が一緒にいるところを見られるのは、彼にとって良い事ではない。人気商売なのだから。
何度もそう自分に言い聞かせた。そうしないと、挫けそうだったのだ。

「フランソワーズも一緒に行かない?」

昨夜、突然言われた。

「・・・行けないわ」

行かない、のではなく、行けない、のだった。

「どうして?バレエの公演はしばらくないんだろう?」
「そうだけど・・・」
「向こうに着いちゃえばマスコミなんて気にならないさ」
それに、向こうではキャシーが取材関係を一手に引き受けてくれてるはずだし。
「それとも・・・キャシーが気になる?」

そうっとフランソワーズを抱き寄せ、髪を撫でる。

「ううん。そうじゃないわ」
「じゃあどうして?僕と一緒に行くと何か困る?」
「だって・・・カノジョを連れてきたなんて知れたら、困るのはジョーでしょう?」
「僕は困らないよ」
「だけど」
あなたのレースの邪魔にはなりたくないもの。

「あのさ。開幕すれば毎週末にレースがあって、しばらく自宅には帰れなくなるんだよ。それはみんな一緒。
だから、奥さんを連れてきたり、恋人を連れてきたりするのは普通のことなんだよ」
「そうなの?」
「うん。――僕だけだよ。だーれも連れて来てないの。みんなが大切なひとと一緒にいるのを見ながら、いいなーっていつも思ってる」
「本当に?」
「うん」

しばし考え込む風情のフランソワーズ。
一緒に行こうと誘われれば気持ちが揺れるのは当然のことであり、それを断るのは勇気が要った。

「――でも、駄目。行けないわ」

きっぱりと言う。そしてジョーもその答えに否は唱えなかった。

「やっぱり駄目か」
「ええ」
「――まぁ、わかっていたけどね」
ちゅっと額にキスを落とす。
「・・・ごめんなさい」
「いいよ。そう言うと思ってたし」
「ごめんなさい」
「――ほら。そんな顔しない。僕が思い出すフランソワーズは泣き顔じゃないんだから」

そう言って抱き締めて、たくさんのキスをくれたのが数時間前。
そしていまはひとり。

静かだった。

邸内には誰もいない。みんなそれぞれ仕事に行っていたり、故国に帰っていたり・・・様々だった。それは特別なことではなく、最近では全員が在宅している方が珍しいくらいだった。
だから、こんな静寂には慣れている。・・・けれども。

ジョーがいない。

毎回、彼が遠征するたびに囚われる思い。感覚。いつまでたっても慣れなかったし――慣れたくも、なかった。
誰もいないリビング。いつもより更に広く感じられる。
窓からは春の陽が射しているけれども、どこか寒々しい。暖まろうと淹れた紅茶も、手をつけないままとっくに冷めてしまっていた。
ソファに座り、ジョーが見ていた雑誌を手にとってみる。けれども興味をひかれる記事などなく、ただただぼうっとページを繰っていた。

こんな時、93王道パターンならば。「忘れ物した」といってジョーが戻って来たり、何故か「出発の日にちを間違えて」いたり、出発便を遅らせたりしてともかくジョーが戻って来る。そうしてひとりで泣いているフランソワーズを見つけて、そうして・・・・。と、なるのだが、いかんせんここは王道無視なサイトなのだった。
なので、待っても待ってもジョーが戻ってくるはずもなく、彼がそんなワザを思いつくはずもなかった。
いままさに着々と空港へ向かっていることだろう。お菓子でも食べながら。

だったら。

 

ここのサイトのフランソワーズは、「救助されるのを待つ孤高のお姫さま」なぞではなかったのである。



モナミ公国での開幕戦は炎天下のなか行われた。
初戦だからなのか、どのチームもエンジンとそのバランスを試しながらの走行となり、そのためなのかどうかはわからないが、クラッシュ、リタイヤが続き波乱の幕開けとなったのだった。

今季はちょっと厳しいなぁ・・・

入賞は果たしたものの、改めて「勝つことの難しさ」を痛感するジョーなのだった。

昨日のタイムアタックではいい数字が出ていたのに。

そう思うと悔しさが募る。
何が悪いというわけではない。スタッフも頑張ったし、もちろん自分も頑張った。目の前で仲間の車がクラッシュするという光景にも耐えた。

ともかく、無事にゴールできたということだけでもヨシとするか・・・。

軽いミーティングのあと、着替えて車に乗り込む。
その際、待ちかねていたファンにサインもする。
自分が疲れている以上に、この地のこのサーキットまで来てくれて、ずっと立ちっ放しで観戦もしてくれて、しかも自分を待っていた彼らのほうが数十倍疲れていることを知っているのだ。
だから、ジョーは決してサインの拒否はしない。(写真撮影はNGだが)
もちろん、レース直前はそうもしていられないのだが、彼のファンは彼のそういうパターンは先刻承知であり、サインはレース後というのが暗黙の了解になっているのである。

仲間と談笑しつつ、投宿しているホテルに戻る。
夕ごはんはどこにしようかなどと話しながら、ともかく少し休もうとそれぞれの部屋に分かれた。

さすがに疲れた。
暑かったし。
それに――大変だった、し。

ベッドに座り込み、携帯を取り出す。
開いて画面を見ながら・・・

――ほんと、大変だったんだよ。何しろ、女王が観に来ているわけだろ?いつも通りってわけにはいかなくてさ。・・・しかもウチのチームは特に。――まぁ、確かに女王はキレイで可愛かったよ。それは認める。それに、今回は節度ある態度で接してくれたし。・・・そういうことなら、こっちとしても邪険にする理由はないから、会話だってするさ。・・・いつまでそうなのかはわからないけれど。

――それにさ。『あら。フランソワーズさんはご一緒ではなかったの?』って訊かれちゃったんだぜ。
そりゃ・・・前回、彼女に僕が愛してるのはフランソワーズだけだ、なんて言っちゃってたからしょうがないけどさ。レース前だぜ?普通、そういう話をするかなぁ。

レーサー・島村ジョーになると、一切の事は忘れレースに集中するのが常だった。
愛しいフランソワーズの事といえど、例外ではないのだ。
だから、他人にレース以外の事を直前に言われるのは心外であり、腹立たしいことなのだった。
かといって、そんなささいな事で集中力が削がれる、なんてことは無いのであったが。

――どう思う?

・・・これは全て、ジョー島村の心の声である。どういう訳か、レース後のちょっとした時間にはこうして携帯待ちうけ画面を見つめて心のうちを語ってしまうのである。だったら、待ちうけ画面の相手と直接電話でもすればいいものを、それはしない。常に時差のことを考えているのだ。そして、こうして――待ちうけ画面の相手には絶対に言ったりはしないことも――心の中で語ったりするのが彼なりのストレス発散でもあるのだった。

――君を一緒に連れて来ていれば、「ええ。もちろん一緒ですよ」って答えることができたのになぁ・・・
いや、わかってる。そんなのは僕のわがままだし。君には君の生活があるし。わかってる。大丈夫だよ。
うん。・・・まぁ、本音を言えば・・・もちろん一緒にいてくれればずうっとずうっと嬉しいし、頑張れるんじゃないかと思うんだけどね。

そうして携帯画面に軽くキスをすると携帯を閉じた。
そのままごろんと横になる。夕ごはんまでまだ間があり、仮眠をとっても大丈夫だと判断し目を瞑った。

数分後、彼の携帯が振動した。
でも、いまは009ではなくレーサー島村ジョーなので――起きなかった。

更に数分後。
今度は彼の部屋のチャイムが鳴った。
片目をこじ開け、時計を見つめる。夕ごはんの時間にはまだずいぶん早かった。

――なんだろう?今日の反省会かな。

それはいつも夕食後のはずだったが。
諦めて、体を起こす。再度、チャイムが鳴る。ハイハイと言いつつ、特別急ぐわけでもなくだらだらとドアに向かう。

「――誰?」

いちおうドア越しに声をかけてみる。メンドクサイので魚眼レンズで確認はしない。チームクルーは何かとイタズラを施し、見えないようにするか変な顔をしてみせるか・・・あれこれ意表を衝いた演出をしてくれるので反応するのが嫌なのである。

「ジョー?」

聞き覚えのある声だった。一気に意識が覚醒した。

 



一体、この国はどうなっているのか?

という疑問は何度目だっただろうか。
モナミ公国。王制を敷いており、それが成功しているイマドキ珍しい国だった。
しかも、君主は若き女王。
そのためか、女王の人気は絶大であり――よって、この国に初めて来た者は例外なく驚くことになっている。
まず、空港のあらゆるところに飾られた女王の写真。みやげ物屋はもちろん、広告ポスターにももれなく女王が写っている。更に、女王に忠誠を誓う旨を記載したプレートが各店舗に飾られている。
そして、街に出れば更に驚きが増す。
女王が写っている広告看板の多さ――そして、ホテルやカフェや果ては公園にまでつけられた彼女にちなんだ名称。
更に今は、F1開幕戦が行われるのがこの国のトップニュースであり、話しはそれでもちきりだった。
どこへ行ってもどの店に入っても、F1関係の資料やチーム紹介の写真入りアルバム、そしてテレビ放送で繰り返し流される特集番組を目にすることになるのだった。
特に――レーサー・島村ジョーと、女王キャサリンとの親密度についての。

 

***

 

――全くもう。

ただでさえイライラしている上に、先刻からどこを向いてもキャサリン女王の顔が目に入り、更に不快指数が増していく。
熱いし。
重いし。
疲れたし。
そして何より。

この国が嫌いだったのだ。

なのに、どうしてここにいるのかしら私。

カートを引く歩みもいつしか速度が落ちていた。最初は怒りにまかせてずんずん歩いていたものの、落ち着いてくると――外気の熱さと荷物の重さと旅の疲れの三重苦に襲われた。気分は最悪だった。

もうぜっっっっっっっっっっっっっったいに来るもんかと思ってたんだから。
思い出すのもむかつくのよっ。

軽く拳を握る。

大体、ひとのカレシに手を出すなんておかしくない?
しかも、当のカレシがまたふらふらと行ってしまいそうになったもんだから――彼女が図に乗ったのよ。
お互い想い合ってるって勘違いして。
ええそう、「勘違い」よ。
大体ね、彼女はジョーのことなんて全然わかってないんだから!
それに、ジョーもジョーよ。自分のことがわかってなさすぎる。
私がいなくなったら泣くくせに。もし、私があの時「ふーん。そう。いいわよ?どうぞご勝手に」なんて言おうもんなら、絶対にパニックになったくせに。そりゃもう、女王の事なんてどうでもよくなって、大暴れするわ荒れるわで――手がつけられなくなってたはず。
だから、私は・・・ちょこっと強がりを言って、あなたがいなくちゃだめなの、って言ってみせたの。
それはもちろん、正直な気持ちではあったけれど。
でもね。ジョーが拗ねると手に負えなくなるのよ。
それをなーんにも知らないくせに、ひとのカレシに手を出すな、っていうのっ。
ジョーが泣いちゃったらどうすればいいか知らないくせに。ジョーが拗ねたらどうすればいいのかも知らないくせに。ジョーが強がりを言ったらどうすればいいのかも知らないくせに。ジョーが・・・・

呪文のように唱えながら炎天下をひたすら歩く。
彼女の不機嫌の理由は他にもあった。

――それに、なんなのこの天候っ。
直行便なのに、悪天候で着陸許可が下りないからって、空港の上でひたすらぐるぐる旋回してたのに、降りてみたら晴天じゃないの。何時間、足止めされたと思ってるのよっ。おかげで、おかげで――ジョーのレースに間に合わなかったじゃないの!!
絶対に間に合う便だったのに。

その悔しさを思い出すと涙が滲んでくる。
それを手の甲で乱暴に拭う。

今まで開幕戦のときは公演が重なって、観たくても観られなかった。だから、公演先のテレビニュースだけが頼りだった。でも、今年は運よく重ならなくて、観に行こうと思えば行ける日程だった。
飛行機のチケットを取ったのは早い時期だった。行けるものなら絶対に現地に行くと決めていたから。
けれども、当の相手であるジョーにはとうとう内緒にしたままだった。と、いうのは。

だって・・・ただでさえ、モナミ公国での試合っていうのでピリピリしてたもの。行けば必ず女王と会わなくちゃいけないし。もし私が行く、って言っていたら更にナーバスになって・・・ああもう、想像したくもないわ。

予選は諦めて――どうせジョーは通過するのに決まっているので――決勝だけを楽しみにやって来たのだった。

なのに、なんにも観られなかったなんて。

悔しさに再び視界が滲んでくる。

飛行機が遅れた結果、開幕戦はとっくに終わっており街は試合後の喧騒に包まれていた。
サポーターが流れて溜まっているカフェとか飲み屋とか。
それらを横目に、ひとりカートを引き摺ってホテルを目指して歩いているのだった。
タクシーはだいぶ手前で降ろされた。今日は交通規制がかけられているのだという。どう交渉してもホテルの前までは行ってくれなかった。

それもこれも、みーんな女王のせいなのよっ。

それは半分、言いがかりだったのだが今の彼女には何を言っても無駄だった。

嫌い嫌い嫌いっ。
遅れた飛行機も、途中で降ろしたタクシーも、女王もこの国も、F1も、ジョーも――みーんな嫌いっ。

目尻に涙が浮かんでくる。

ジョーのばか。



ホテルにチェックインし、シャワーを浴びて着替えたら少しスッキリした。そうして改めて考えてみる。
これからどうするのかを。
ベッドに腰掛けて、手の中の携帯電話を弄ぶ。

・・・私ったら、ばかみたい。何してるんだろう・・・

予定では、空港からサーキットに直行し、レースを観るはずだった。もちろん、フォーメーションラップには到底間に合わない。けれども、何週目かから観られればそれで良かった。ジョーが途中でマシンを降りるなどとは最初から想像すらしていない。レースの大詰めと、彼がチェッカーを受けるところが観られればいいと思っていたのだった。
しかし、不運にもそれすら間に合わなかった。
いちおう、サーキットには行ったのだ。もしかして――あまり在り得ることではないが――新しいサーキット故の不手際などでレース開始が遅れているかもしれない。もしくは、トラブルがあってセーフティカーによる先導でレースは動いていないかもしれない。と、一縷の望みを抱いて。
確かに、レースは何度も中断されており、セーフティカー先導による波乱の開幕戦となっていた。
けれども、それらがあっても間に合わなかったのだった。
着いた時は既にレースは終わり、観客の大移動が始まっていた。その民族大移動の波を逆行する術は見つからなかった。
せめてジョーのチームの車でも見つけられればと駐車場も探してはみたものの、いかんせん、人波は途切れる事が無く――結局、そこにも全く近寄れなかった。
仕方なくタクシーを拾い、ホテルに戻ったのだが――謎の交通規制に行く手を阻まれ、途中で降ろされてしまい炎天下の道行きとなったのだった。

日本を経ってから十数時間が経過している。移動に次ぐ移動で殆ど休んでいない。何しろ空港に着いてからは、レースの進行がどうなっているのか気が気ではなく、気持ちにも余裕がなかった。
それが、レース終了を知った時、体中の力が抜けていくような虚脱感に変わっていった。
自分は「ジョーに」会いに来たわけではない。
彼の「レース」を観たかったのだ。
だから、レースを観られなかったら今回の内緒の旅行は全く意味をなさない。
しかも、明日にはもう日本へ帰るのだ。
この国を嫌いな彼女にとって、長居をする理由は全くなかったし、ましてや買い物をするなんて言語道断なのだった。
次善の策として、「ジョーに会っていく」のも考えた。
けれども。

だって、ジョーは私がこの国にいるなんて知らない。言ってないもの。なのに、急に私がジョーのホテルに訪ねて行ったら・・・

思わず顔を両手で覆う。

だめよ。
そんなの・・・驚くというより、呆れられるわ。
それに、そんなことをしたらまるで・・・

私って物凄いストーカーみたいじゃない!!

日本とモナミ公国をまたにかけるストーカー。それが私。
サイボーグ003ことバレリーナのフランソワーズで、レーサー・島村ジョーの恋人。
なのに、その実体は世界を翔けるストーカー。自分のカレシをストーキングする女。
それが私。

そんなの、やだ!!

ベッドに転がり、足をばたばたさせる。シーツに突っ伏して、小さくやだやだと繰り返す。

だって、私はジョーに会いに来たわけじゃないもん!!
ジョーのレースを観に来ただけだもんっ
開幕戦を観に来るのは、F1ファンならあってもいいことでしょう?ううん、むしろ普通のことよね?
全然、おかしくなんてないわ。
だけど、いちレーサーのためだけに来たなんて言ったら・・・・・・・・・・・・やだやだ違うもんっ
ジョーに会いに来たんじゃないもん!!

しばらく心ゆくまで悶絶してから、改めて起き上がり、手のなかにある携帯電話のフラップを開ける。
じっと待ちうけ画面を見つめた。

・・・ジョー。
私、どうすればいい?――ううん。何をしたらいいのか、自分でもわからないの。

見つめる画面の上に大粒の涙が降ってゆく。

だって、勢いでこんな遠くまで来ちゃって――なのに、あなたのレースも観れなくて。
本当に、私いったい何をしてるんだろう・・・。
あなたに会ってもいいのかな。そんなこと、許される?
――ううん。そもそも「会える」のかな。

ジョーの仕事中に彼のそばに行ったことは今まで一度もなかった。それが、日本グランプリであっても。
何しろ、シーズン中にちゃんとサーキットに行ったのは数えるくらいしかなく、それもジェットの招待によるものだったのだ。もちろん、ジョーもグリッドに居たが、レース後彼とは会わずにまっすぐ帰宅していた。
シーズンイン=仕事中。そういう図式は彼女のなかでは基本的事項であり、更には、ジョーが自分の仕事をどう捕らえているのかもわかっているつもりだった。

だってジョーはレーサーの顔になったら、レースの事しか考えない。レースが終わってからもチームスタッフとの打ち合わせが続くから、しばらくは私の事なんて思い出さない。
私のことを思い出すのは・・・彼が酷く落ち込んでいるときだけ。そういう時しか電話はこない。

そして、未だに電話は沈黙を守り続けている。
つまりジョーは落ち込んではおらず、今も元気いっぱいに打ち合わせをしたり――スタッフと街に繰り出して疲れを癒したりしているのだろう。

待ちうけ画面に降った自分の涙を指で拭う。

こうして泣いてたって仕方ないわ。
――考えなくちゃ。どうしたらいいのか――私は、どうしたいのか。
だって。
こんなに遠くまで来ちゃったのよ?
このまま帰ったら、ただの「飛行機好き」もしくは「モナミ公国好き」じゃない。
違うわ。
どっちでもないもの。
だって、私が好きなのはジョーだもの。

とはいえ、ジョーがどこに泊まっているのかも知らないのだった。



思わずドアを開けて――そのまま声もなく立ち尽くした。

先刻まで夢と現実世界を彷徨っていたので、いまひとつ思考が進まない。
しかも、声を出そうにも喉が乾いていて途中でひっかかってしまっていた。

唾を飲み込み、喉を湿らせ何とか発声する。

「ど――どうして、ここに?」

我ながら、起き抜けの変な声だ――と、ジョーは思った。

 

***

 

ジョーが泊まっているホテルはすぐにわかった。

が。

なんとなく、後ろめたかった。
何しろ「目」を使ってしまったのだから。

――いいわよ、もう。

陽が傾いてきたので、暑さがやわらぐかと思いきやますます上がる気温にうんざりしつつ歩く。

――はいはい。私は世界を翔けるストーカーです。

自嘲気味に思う。

だって、私の「ちから」って・・・・その気になれば、史上最強のストーカーになれると思うのよ?
しかも、絶対に捕まらないし。

捕まる前に、自分の身に危険が迫っている事すら視えてしまうし聞こえてしまう。サイボーグとしての戦いよりも、現実世界はずうっと容易かった。

 

ホテルの一室であれこれ考えてみたものの、「こうしたい」という積極的な気持ちは見つからなかった。
ジョーの姿を観たかったけれど、それは「会いたかった」というのとは別物だった。
何しろ、寂しがるにはまだ早い。つい数日前に離れたばかりなのだから。
いま、彼女を動かしているのは「はるばるここまで来て、手ぶらで帰るのは何だか悔しい」という思いだった。いくぶん、打算的な考えかもしれなかったが――とはいえ、それが自分に対する大義名分なのだということも実はちゃんとわかっていた。何しろ、どんなキレイ事を並べて自分をごまかしても、結局はジョーに会いたいというただそれだけが全てだったのだから。
でも、悔しいので認めない。

だって、私ばっかり・・・・そんなの悔しいもの。
だいたいジョーはいっつも、あっさり「じゃあ行ってくるよ」ってかるーく言って出かけちゃうけど、実際には数ヶ月会えないことだってあるのに。

寂しいのは私だけなのかなと思い、ちょこっと悲しくなる。いつもはそんな事でこんな思いをしたりはしないのだけれど、この地が地だけにややセンチメンタルになっていた。

――あ、でも・・・・

昨年の日本グランプリの前にジョーが日本に戻ってきたときのこと(注)を思い出す。(注:「いつでもloving」

そういえば、あの時は私の公演があって・・・

ジョーと入れ違いに遠征することになったのだった。
その朝、ジョーは帰ってくるなりフランソワーズのことをなかなか離してはくれなかった。

・・・そうよね。ジョーだって、寂しかったはずよね?

軽く頬に赤みが増す。
その日のことを思い出し、幸せな笑みを洩らし――うっかり行き過ぎそうになって慌てて後戻りする。
そしてホテルを見上げる。

ここにジョーが居る。

 



ホテルのロビーに入ってからは、もう躊躇しなかった。

だって私は自分のカレシをストーキングする女だもん。

そう開き直ってみると、何にも怖いものはなかった。
彼女を止めるものはなにもない。

まるで自分がこのホテルの滞在者であるかのように、迷わずまっすぐエレベーターに向かう。
ジョーが居る階もわかっていた。やだやだと言いながらも、自らの大義名分で自分をくるみ――必要な情報は全て入手済みだった。

目的階でエレベーターを降りる。
そうして――

――途方に暮れた。

 

***

 

次の瞬間、開いたドアを必死で閉めようとした――が、刹那遅かった。

「お前、それはないだろーが」

ドアに手をかけたまま、こちらも一歩も譲らない。

「大体なー、居るんなら電話ぐらい出ろっつーの」
「寝てたんだよ」
「なら、もう起きただろ」
「やだ。寝る」

ドアを挟んでの攻防戦だった。
闖入者を防ごうと防戦一方なのは、本日のレースで入賞したレーサー。
そして、突破口を開こうと力まかせにドアを引くのは・・・

「なんでここにいるんだよっ」
「いいじゃねーか。入賞祝いだ」
「要らないっ。疲れてるんだ。僕は寝るっ」
「まだそんな時間じゃないだろーが。いいから開けろ」
「嫌だっ・・・だいたいどうしてここにいるんだよ、ジェット!」

そう。元F1レーサーのジェットだった。

「どうして、って。そりゃレースがあるからに決まってるだろ?」
「レース?」
「明日、インディーズのレースがここであるんだよ――知らないのか?」
「・・・知らなかった」

ドアを閉める力が緩む。

「冷たいなぁ。俺のレースに興味がなくてもいいけどよ」

ジェットは今季からインディーズのレーサーなのだった。
「インディーズ」とは何か?F1の格下の、賞金稼ぎが集うサバイバルレースである。荒い走りをする者ばかりだが、度胸とテクニックがある者は一度は挑戦するカテゴリーだった。ちなみにジョーもずうっと昔はそこで自分のテクニックを試していたものだった。
今季、ジェットが移ったのはもちろん賞金稼ぎのため――などではなく、すっかり大人しくなってしまったように感じる自らの走りを改善するためだった。以前の自分の走りを思い出し、更に磨きをかけるため。

「いや、そんなことは・・・」
「いいっていいって。ま、お邪魔するぜ・・・と言いたいところだが」

ドアを開放しても入る気配はなかった。

「出かけるぞ。着替えろ」
「?出かける?」
「ああ――ま、いいか。そのまんまで」

ジョーの格好を上から下までチェックし、まぁいいかと合格点を出す。彼のセンスからすれば、ジョーのような格好で外に出るなどと噴飯ものではあったのだが、まぁジョーの事だしな。と、合格ラインを引き下げた。

「ほら。ぼけっとすんな」

そのままジョーを引っ張り出す。
腕を引かれたまま、数歩廊下に踏み出したジョーの背後でドアがゆっくりと閉まっていった。

「――あ」

ドアが閉まり、ロックがかかる音に慌てて振り返るものの時既に遅し。

「どうした?――あぁ、そうか」

ジョーは手ぶらだった。当然、ルームキーも財布も携帯も、何にも持っていない。靴を脱がずにベッドに倒れこんでいたのだけがせめてもだった。

「悪い。でもまぁ、何とかなるだろーよ」

ほら行くぞ。とばかりに背を向けるジェットに思い出したように言う。

「だめだ。このあとミーティングがあるんだ」
「ミーティング?」

肩越しに振り返るジェットに続ける。

「夕ごはんのあとミーティングがあって――」
「んなもん、ないぞ。たぶん」
「――え?」
「もぬけのカラ。お前のチームの奴らはどこにもいない」
「――なんだって?」

呆然。
廊下に突っ立ったままのジョーを苦笑して見つめる。

「ホラ。ゆっくりしてられないんだ。――行くぞ」

強引に腕を掴み、引き摺るようにして進む。

「いない、ってどうして・・・だってミーティングだって言ってたのに」
「だから、ミーティングは中止になったんだろーよ。今頃みんな食事に行ってるぜ」
「食事?なんで。だったら声をかけてくるはずで」
「だーかーらー。それはだな、お前を連れて行くわけがないんだよ」
「・・・なんで」

仲間はずれ。
という嫌な言葉がジョーの脳裏に浮かぶ。

「アホ。子供かお前は」

ジェットがジョーの頭を軽く小突く。

「違うって。そうじゃなくてだなー・・・うーん・・・話すと長くなるから後で言うよ。ともかくここを出るのが先決だ」

エレベーターホールに出る最後のゲートが見えてきた。
半透明のそのゲートは、このフロアを守る砦だった。
エグゼクティブフロア。
その中でもセキュリティの高いこの階は、関係者でない限り絶対に中に入れない仕組みになっている。
エレベーターを降りると左右にあるゲートを通らない限り、どの部屋にも行けないのだ。
もちろん、傍らにある電話で同じ階にあるスタッフルームに来訪目的と氏素性を明らかにすればいいのだが、それでも前もって約束があるかどうかによりゲートが開くかどうかは違ってくるのだった。
更に、そこを通過できても次に待つのはスタッフルームであり、来訪目的及び滞在者との関係を明らかにしなければならない。そこでスタッフが滞在者に連絡を取り、心当たりがないということであれば即刻速やかに外に出されるのだった。
そのゲートも中から外に出るのは何の問題もない。

相変わらずジョーを引っ張りながら歩くジェットは、ゲートの向こう側の人影に眉を寄せた。

「・・・遅かったか?」

その緊張を含んだ声にジョーも同じ方向を見た。
確かにゲートの前に人影があった。
しかし。

遅かった、って何が?

 



――嘘っ。なにこれ・・・!

思わず手で触れる。
硬質のそれは、どう見ても触ってもガラスに間違いなかった。
なのに。

全然、視えなかった。・・・どうして・・・?

ジョーが居る階を探す時、このゲートは目に映らなかった。全く気配もわからなかったのだ。

いくら要人警護のためといっても・・・大袈裟すぎない?
私に視えないなんて・・・

戦闘機械である自分は、戦うために創られた。その自分の能力を凌駕するということはつまり、国家機密レベルでの軍事力を有しており、そのための開発もかなりのレベルまで進んでいるということになる。

だけど、いちホテルの施設にそんな機密を使う?
そんなの変。

何かおかしい。
どこか、変だ。

このゲートの向こうにはいったい、何があるというのだろう。

自分にはこのゲートの向こう側に行く術はない。
「島村ジョー」に用があるといってもアポイントがないという時点ではねられるのは明らかだった。
かといって、本人に直接電話をするのもはばかられた。第一、何と言えばいいというのだろう。いまホテルにいるんだけど出てこれない?などとは、いくら自称・世界を翔けるストーカーでもできない相談だった。
何しろ、いま彼女は日本にいることになっているのだから。

――とりあえず、このゲートはどうでもいいわ。

問題は、いまジョーがここにいるのかどうかだった。

ゲート自体はその存在を悟られずにいたが、そのゲートが守る先は容易に見通せた。
先程感じた違和感は、それもあった。
大事なのはゲートの先なのではないか?なのにどうしてそこから先は全く問題なく視えるのだろうか。
とりあえず、その疑問は棚上げした。あとでゆっくり考えることにしても罰は当たらない。

えー・・・・と、ジョーの部屋は・・・

視た。
が、そこはもぬけの殻だった。

・・・え?
いないの?

ゲートに手を触れたまま、額もくっつける。

なんなのっ。
――今日の私は呪われてる。やっぱり、この国との相性が最悪なのよ・・・・っ!

 

***

 

「お前、ちょっと退いていろ」
「えっ?」
「いいから」

舌打ちをしそうな雰囲気。
仕方なくジョーは数歩、脇に寄った。

ジェットはためつすがめつゲートを見て――その向こう側に居る人物の同定をするつもりらしい。

「・・・あのさ、ジェット。無理だと思うよ?」
「ああん?どうしてだよ」
「だって君はそういう機能は持ってないし」
「今はそういう場合じゃないんだよ」
「・・・?」
「何しろ、ここで鉢合わせしたら俺様が来た意味がなくなっちまうしな・・・」

ゲートの隙間から向こうが見渡せないかと頑張っている。

「――くそ。アリの子一匹入る隙間もないぜ」
「あのさ。よくわからないけど・・・普通に出ればいいんじゃないか?」
「おい、待てよっ。だからだな、俺様が心配しているのはもし向こうに居るのが――」

ジェットが止める間もあればこそ。
ジョーは全く普通にゲートの前に立ち、外に出ようとした。

ゲートが開く。

「ああっ!!やっぱり女じゃねーかっ」

ジェットの声が響く。

――女?

 

***

 

ゲートに額をくっつけて悶々と悩んでいると、エレベーターの到着した音がした。

・・・この階のひとということは・・・

瞬時に考える。

まぁ!フランソワーズったら、超ラッキー。ゲートが開いたら一緒に中に入ってしまえばいいのよ。

いまその先にある部屋にジョーはいない。ということはすっかり忘れていた。

慌ててゲートから身を離す。
そうして、いったいどんな人物が来たのかとエレベーターの方を見つめ――固まった。

――うそ。

やはりこの国との相性は最悪だったらしい。
何しろ、降りてきたのは・・・いま一番会いたくない人物だったのだから。

どうして女王がここに来るの?

降りてきたのは、女王・キャサリンそのひとだった。

 

***

 

ゲートの外に居たのは女性だった。
が、見知らぬひとだった。

「――ああ、すみません」

ジェットが慌てて挨拶をする。

「・・・ったく、ジョー、お前も運のいい奴だな。もしこれが・・・だったら、アウトだったぜ」
「そうなのか?」
「ああ。まぁとにかく急げ」

そのままエレベーターに飛び乗る。(エグゼクティブフロア専用のエレベーターが一基あり、ゲートが開けばいつでも乗れるようにできているのである)

下ってゆく。

「・・・ともかくミッション成功」
「ミッションてなんの」
「お前の救出作戦」
「・・・なにそれ」
「後でゆっくり話してやるよ。とりあえず、みんながいるところに行くぞ」

 

***

 

かなりラフな格好をしているが、そのひとはキャサリン女王に間違いなかった。何しろ今日この国に着いてからというもの、嫌というほどその顔をあちこちで見ているのだ。見間違えるわけがない。
しかし。

女王・・・よね?どうしてSPのひとりもいないのかしら?

しみじみと見つめる。

このフロアのひとに何か用事があるのかしら?

まぁ、エグゼクティブフロアだしね。と勝手に納得する。こんなにラフな格好でSPも連れていないとなると、お忍びなのかしら。とも思ったりする。

「――あなた、もしかして・・・」

女王が口を開く。

「――003?」

いきなりゼロゼロナンバーを呼ばれ、顔が強張った。

「003でしょう?」

重ねて訊かれる。

「――何か、事件でも・・・?」

女王の貌が曇る。

「あ、はい、イイエそういう訳ではないんです。今日は・・・」

慌てて答える。一国の君主に余計な心配をさせるわけにはいかない。

「そう。なら良かったわ」

説明しようとしたフランソワーズの言葉を最後まできかず、女王は言葉を継ぐ。

「でも奇遇ね。今日はプライヴェートなのかしら。我が国を楽しんでいってくださいね?」
「あ、はい。ありがとうございます」

それっきり会話が続かない。

女王はちらりとフランソワーズを見遣り――それはまるで、アナタ邪魔よと言っているようだった――インターホンを取った。

「――私よ。島村ジョーを呼んで」

――えっ?

思わず女王を見ると、女王はその反応を楽しんでいるかのように唇に笑みを浮かべたまま彼女を見つめていた。

「――ええそう。さっき説明した通り。もちろん、彼も知っているわ――待ちかねているはずよ」

そうしてひとつ頷くとインターホンを戻した。

「――何か?」
「あ、いえ・・・」
「あなたも約束の方と連絡をとらなくてよろしいの?私はもう済んだからどうぞ」

インターホンを指差す。

「――いえ、私は」

後ずさりする。
そのままエレベーターに向かう・・・つもりが、足が動かなかった。

 



いまのところ、順調に進んでいるわ。

エレベーターの中でひとり笑みを洩らす。

ジョーのチームスタッフ全てを「無料で」食事に招待する。それも、この国最高峰の店の。しかも、何をどれだけ食べても会計はスポンサー持ち。どこのどんな知人を同伴しても良い――なんて、我ながらうまい事を考えたものだわ。
レース終了後なら、開放的になっていて――それこそ、色々な人たちが入り乱れて集って飲んで騒いで健闘を讃えあう。そういう場が、主催国から提供される。
誰もがたったひとつの条件さえ呑めば。

たったひとつの条件。
それは
『島村ジョーには言わないこと』

彼だけは、誘わない。
彼にだけは、この話をしない。

たったそれだけの条件で、その権利を得られる。

――もちろん、チームの絆は強固であり、本当ならそんな簡単な条件さえ拒否されても不思議ではない。
けれど。
これが、「レース後」なら。
そして、「レース後のおふざけの一環」という位置づけならば。
それはもう簡単に、誰もがこの条件を呑む。ただの「冗談」であり、「お遊び」として。

だから・・・

いま、ここにジョーはひとりで居る。仲間に置いていかれたとも全く知らずに、無防備に。

周りの目を気にして、私を無視する必要も無い。
昔のふたりに戻っても――誰も見ている者はいない。

そんな状況なら・・・

エレベーターがフロアに着いて、自分のとめどない思いが中断された。
さあ。
いよいよ正念場よ。キャシー。
私のことを『キャシー』と呼ぶ愛しいひとの甘い声を、近くで聞くことができる。
笑みを浮かべ、期待に胸をふくらませ、エレベーターを降りる。

けれどもフロアに一歩進んだ時、そこに居た意外な人物に顔が強張った。

――003?
どうしてここに――

――まさか、ジョーが?
ううん、そんなこと――でも――

幸せな思いでいっぱいだった胸が瞬時に真っ黒に塗りつぶされてゆく。

どうして003がここにいるの?

 

***

 

「ジェット。僕の救出作戦っていったいなんなんだよ」

前を歩くジェットの背に、何度目かの同じ問いを放つ。

「んー?まぁ、それは後でいいじゃねーか」
「よくないよ。全然、意味がわからない」
「フーン」

と、突然足を止めたジェットがくるりと180度回頭した。
慌てて止まるジョーの目の前には、彼の長い鼻。

「わっ。ば、急に止まるなよっ」
「ジョー。お前さ。全然、危機感がないみたいだから言っておくがな――」
「――うん?」
「あのまま部屋で寝てたら、襲われてたぜ」
「え?」
「女王さまに」
「・・・まさか」
「ほんとだって。だから、全員ホテルから出されてそこの――」

背後に親指を向ける。

「レストランでどんちゃん騒ぎの最中さ」

どんちゃん騒ぎ。という言葉がこれほど似合わない建物もないだろう。
なにしろそこは、モナミ公国きっての由緒あるレストランだったのだから。
門構えも重厚であり、ドアの前にはボーイが控えている。――が、開け放たれた窓からは賑やか過ぎる声が聞こえてくるのだった。

「――え。でも・・・」

いまひとつ状況がつかめていないジョー。
ジェットは大きく息をつくと、ジョーの首筋にがっちりと腕を回した。

「まったくイロオトコは大変だな。感謝しろよ?本当は救出してやる義理なんざないんだからな」

ぎりぎりと首筋を締め付ける。

「大体、お前を救出しようもんなら契約違反で食事代は全て自腹になってしまうんだしな」

そうなのだった。
この勅令は、ジョーにばれた時点で「飲み食いしたぶんは全て自腹で払うこと」というペナルティが課せられているのだった。

「――だったら、僕がここに来たらまずいんじゃ・・・」
「お前、俺達をみくびるなよ?」

よく聞く声とともに、背中が派手な音をたてた。
痛さに顔をしかめつつ、周囲を見回すとそこには――

いつものチームスタッフの面々がいた。
しかも、違うチームの輩も混じっている。
いつの間にか店のドアが大きく開いており、中から人がこちらに溢れてきていたのだった。

「よぉ。イロオトコ。貞操は守られたってわけだ」
「ジェット、ご苦労さん」
「ほら、こんなとこにいないでさっさと中に入れ。見つからないうちに」
「そりゃ無理だろう。店の人間が見てるんだから」

口々に言いながら、ジョーの姿を各々の体の影に隠しつつさてどうしたものかと思案する。

「――ジェット。どうする?」
「うーん。どうすっかなぁ・・・」

ジョーを救出はしたものの、その後のことは全く決まっていなかったのだった。
ともかく、今回の「女王の勅命」は魅力的ではあったけれども――誰もが「ジョーをイケニエにしてまで」従う義理はないと思っていた。だから、勅令を受けたフリをして全員が移動し、その後改めてジェットがジョーを連れてくる。という算段をした。
そしてそれはうまくいったのだったが。
何しろ、「ジョーが来た」もしくは「ジョーにばれた」と公国側の人間に知られてしまったら、その時点で全てが自腹になるのだ。
そのくらい、大した額ではない。が――こんな馬鹿馬鹿しい出費はゴメンこうむりたいのだった。

「ともかく、外にずっといるのも変だぜ」
「――だな。とりあえず戻るか」
「ジョー、これ使っとけ」
「これもやる」
「これもだ」

口々に言って店に戻ってゆく。
ジョーに各々の持ち物を与えて。
サングラス。
帽子。
怪しい色柄の上着。
それらを何にも考えずに身につけてゆくジョー。

「――なんだ、その格好」

ジェットが呆れて言うのも当然だった。
まったく彼に合ってないサイズに似合わない色合いのものばかり。

「・・・しょうがねーな。お前の場合、変装っていうとだなー・・・」

帽子を取り、ジョーの前髪をかきあげて帽子の中にたくしこんでしまう。

「――ほぅら。既に誰なのかわかりゃしねーよ」

両目が見える彼は、ちょっと見には「島村ジョー」とはわかりにくいのだった。遠目からとなれば尚更であり――風呂上りの彼を見たことがない者には、それはもう近くで会ってもジョーだとはわからない。
実際に、以前ジョーの前髪が短くなった時などジェットは至近距離で彼に会っても毎回敵と間違えていたくらいなのだった。

「どんなに熱烈なファンだってわかりゃしねーな。女王だって絶対にわかんねーぞ」
「・・・・そりゃどうも」

不機嫌である。
勝手にサングラスをかけられたり、上着を着せられたり・・・果てはジェットに髪をいじられて。
説明は聞いたものの、いまひとつ現状を把握していないジョーにとって、これらの仕打ちはただのいじめとしか受け取れないのだった。いじめ――たちの悪いおふざけ。レース後の酔っ払い集団による恒例の。

「まぁ、怒るな、って。いいじゃねーか。女王なんかお前のそーゆーカッコ見た事ないから絶対に安全だぞ」
「安全、って・・・・」

いったいなんなんだよ?

「だから睨むなよ。ともかくその姿なら正体がばれないし」
「・・・・ばれるよきっと」
「大丈夫だって。お前のその顔みてお前だとわかる奴なんて――」

間。

不自然に途切れたジェットの声に、不審そうにジョーが彼を見つめる。
ジェットの視線はさっき自分たちが来た方角に向いていた。

「――まじかよ」

 



「いない?――どうして!?」

女王の声がフロアに響く。

女王さまなのにこんな声をあげるなんて・・・

ぼんやりと思っていたフランソワーズは、視線を感じて我に返った。

「――あなた。003。ジョーはどこにいるの?知っているんでしょう?」
「え・・・私は」
「教えなさい」

睨みつけてくる顔は、女王ではなくひとりの女性だった。

「隠しても無駄よ。それに、彼のためにはならないわ。彼のことを思うのなら――」
「隠してなんかいません。私もジョーがどこにいるのかなんて知らないわ」
「――本当に?」
「ええ」

お互いに見つめ合う。
どちらも視線を外さない。
蒼い瞳とエメラルドグリーンの瞳。無言の対峙。

沈黙を破ったのは女王のほうだった。

「――そう。あなたも彼に逃げられた、ってわけね」
「ちが」
「黙りなさい。違うわけないでしょう?実際に、あなたがここに居て、ジョーはここに居ない事がその証拠」

最初から約束なぞしていないので、女王が言うのは誤解だったのだけれども言葉を差し挟む猶予を与えられず黙っているしかなかった。

「つまり、立場は一緒。ということね・・・なるほど」

一瞬、口をつぐみ。
そしてすぐに笑みを浮かべる。

「いいこと考えたわ。――これからジョーの所へ行きましょう。一緒に」
「え。でも」
「心当たりがありますの。・・・さ、早くなさい」

言われるがままにエレベーターに乗り込む。

「あの、心あたり、って・・・」
「ついて来ればわかるわ」

ひとことそう言ったきり黙る。

女王キャサリンが言う「心当たり」の場所とは、ジョー以外の彼のチームメンバーが飲み食いしているあのレストランに他ならなかった。

――ジョーは連れて行かないというのが前提だったというのに。
見てなさい。
ジョーが居るのをこの目で見て、然るべきペナルティを――

彼女の目的は、おそらく仲間と共に食事をしているであろうジョーの奪還と、それ以外の人物へ請求書を回す手筈を整えることだった。

――このままで終わらすものですか。
いったい、何のためにこれまで準備してきたというの。

ちらりと横目で蒼い瞳のサイボーグを見つめる。

私と彼がどのように思い合っているのかを、その目で見届けるが良いわ。

自分が会いに行けば、ジョーは必ず一緒に来ると信じて疑わないのだった。

一方、フランソワーズは

・・・このひとがキャサリン――キャシー。どうして・・・どうしてジョーの名前を呼び捨てにするのかしら。
しかも、私の目の前で。
――わざと?
わざとなのかしら?
私がジョーの恋人だって知っていて、それで・・・わざと言ってるのかしら。――宣戦布告のつもり?
・・・まさかね。
だってそんな勝ち目のない試合を女王さまがするわけないわ。
でも、だったらどうして・・・

混乱していた。
なぜ、彼女がこの場所に現れたのか。
なぜ、ジョーを呼び出したのか。それも、ひとりで。こんなラフな格好で。
まさかジョーとキャサリンが「会う約束」をしていたなどと、考えたくはなかった。

駄目よ。絶対、嘘なんだから。騙されちゃ駄目。だってジョーは出発前にも何度も何度も繰り返していたじゃない。「僕を信じて」って。
だから・・・信じる。
遠いこの地で、ジョーと彼女が会う約束なんてしていない。ジョーがそんなことするわけがない。
そうよね、ジョー?

「まったく・・・ジョーも困ったひとね」

暫くの沈黙のあと、おもむろにキャサリンが口を開く。

「約束していたのを忘れてしまうなんて。――あのひと、いつもこうなのかしら」

それはフランソワーズへの質問のようで、そうではなく――まるで恋人の悪い癖を語っているかのようだった。唇には笑みを浮かべ、優しい声で続ける。

「レースの後だから仕方ないけれど・・・ねぇ、サイボーグの仕事のときもそうなの?」

サイボーグの仕事。
はっきりと「サイボーグ」と言われたことに動揺する。

――そうだった。このひとは、私たちの体のことを知っているんだったわ・・・

エレベーターが地上に着き、ロビーにふたりが下りた途端にSPが周りを取り囲む。
それをうるさそうに手で払う女王。

「・・・もう。今日は放っておいて、って言ってたのに・・・。いいわ。ついて来てもいいから、その代わり私から最低3メートルは離れててちょうだい。――大丈夫よ。ホラ、彼女は武術の達人だから。――ええそう、だから大丈夫」

武術の達人って・・・私のこと?

フランソワーズが状況について行けず、女王の言うままに一緒に歩き出したところへその耳元に小さく女王が囁いた。

「いいわよね?あなたは003なんだから――いざというときは私のことを守れるわよね?」

喉が詰まる。

「盾になるくらい、できるでしょう?撃たれても刺されても、死なないのよね?――サイボーグなんだから」

サイボーグだって――死ぬわ。

ただ、そう思った。
でも、何も言わなかった。
否。
言葉にできなかった。
ただ、「サイボーグ」と聞いて普通のひとが思い浮かべるのは、彼女が言った通りのことなのかもしれない。と漠然と考えていた。
今まで面と向かって言われたことがなかっただけに、フランソワーズの気持ちは重く沈んだ。
実はジョーは過去に数度、しかも知り合いからそう言われたことがあるのをフランソワーズは知らなかった。
ただ黙って女王と共に歩く。
自分はいったいここで何をしてるんだろうと思いながら。

 



――まじかよ。

もう一度言う。今度は心の中で。

ジェットはこちらに向かってやって来る二人連れを認め――軽いパニックに陥った。
混乱する理由はふたつ。
ひとつは、なぜ女王がここにやってきたのか。
ふたつめは、なぜここにフランソワーズがいるのか。
まず、ひとつめ。
女王は、ジョーがここに居るということは知らないはずである。救出作戦中、それらしい人には会っていないし、じゅうぶん注意もしてきたつもりだった。と、いうことは――女王がここに来たのは全くの偶然、もしくは――ジョーを探しにやって来た。というのが妥当なところか。
と、いうことはつまり――

ここでジョーを引き渡すわけにはいかない。

何しろ、そうなってしまったら先刻までの自分の任務が意味をなさなくなってしまう。
「ジョーの救出作戦・失敗」
という汚点は、自分史に刻むには耐え難い屈辱だった。
望んで救出作戦の執行者になった訳ではないが、なったからには絶対に成功させなくては気がすまないのだった。

そして、ふたつめ。
大体、フランソワーズもこの国に来ているとは知らされていなかった。が、今までのジョーの様子をみる限りでは――どうやらジョーも知らなかったと思って良いようだ。
ということはつまり――

女王とフランソワーズが出会ったのは、イレギュラー以外の何者でもない。

つまり、「計算になかった」ことである。
この場合の計算施行者とは、もちろん女王キャサリンである。
フランソワーズの存在は、彼女の脚本には書かれていなかったはずである。

以上を突き詰めて考えれば、最善の策は――

「・・なるほど」

今度は声に出して言い、ジョーを見つめにやりと笑った。
幸い、ジョーはまだ連れ立ってこちらにやってくる二人の女性の姿を捉えていない。

ジョーから少し離れて、彼の今の姿を検分する。

――悪くないぞ。これなら大丈夫だ。
ただ、問題があるとすればそれはおそらく――ジョー自身だった。

二人連れを横目で捉えながら、素早くジョーに耳打ちする。

「あのな。向こうに女王が来ている」
「えっ」
「ば。見るなよ。意識するな」
「あ、う、うん」

サイボーグのリーダーかたなしである。

「それでだな。オマエはここに来ちゃいけないことになってるのはわかってるな?」
「う?うん・・・」

なんとも頼りない返事である。

「それでだ。こうやって・・・もうちょっと帽子を深くかぶれ。で、サングラスは要らねーな。――よし。それで、この上着をこうやって――」
肩半分をずり下げる。何ともだらしのない格好の出来上がりだった。

「あとは、そうだな・・・ジョー、ちょこっと昔を思い出してみろ」
「昔?」
「オマエがあれこれ悪さしていた頃のことだ」
「悪さ、って・・・ひどいなぁ。大したことしてねーよ」

言いつつ、既に言葉が戻っている。
まったく俺に何をやらせるんだよとブツブツ言いながらヤンキー座りをする。

「よし。これでまぁ・・・オマエと認識できるかどうかは、あとは個人の問題だな。いいか、何も喋るなよ」
「――なんで」
「お?それならいいぜ。喋っても」

普段の甘い声で喋られたら変装も何も台無しだったのだが、すっかり昔を思い出しているジョーの声は地を這うように低かった。これならますます――この人物がジョーだと認識できるのは個人の問題になった。

あとは――

――頼むぜ、フランソワーズ。打ち合わせも何もしてねーけどな。

察してくれ。

 



「――さ、着いたわ。ジョーはいるかしら?」

女王の声に、俯いて歩いていたフランソワーズも足を止めた。
ここは――公国では有名なレストラン。ガイドブックにも載っていた。

ここに――ジョーがいるの?
なぜ?

レストランのドアは閉ざされてはいるものの、中から喧騒が聞こえてくる。
おそらく中ではレストランには似つかわしくない騒ぎが繰り広げられていることだろう。
そのへんは、ジョーに聞いて知っていた。レース後の宴会の凄まじさを。

肩をすくめ、改めて見回すとそこには。

――ジェット?

フランソワーズの瞳が丸くなる。

どうしてジェットがここに・・・・

その疑問は、ジェットの傍らに居る人物を認めた時点でどうでもよくなった。

――え?

どこからどう見ても、「柄の悪い二人組の男」だった。
それも、できれば関わりたくないという消極的な範囲を逸脱した――絶対に関わりたくない、存在さえも見なかったことにしたいと願うほどの柄の悪さだった。

思わず女王を見遣る。

女王はといえば。

それはもう、鮮やかに彼ら二人組を無視していた。
まったく視界に入っていないように。
人物として認識しているのかどうかも怪しかった。
SPが彼らを排除しようと動く。それを目にしたフランソワーズは思わず、

「待って。私が聞いてきます――ジョーを見なかったかどうか」

投げ捨てるように言うと、小走りに二人組の男の方へ向かった。

 

***

 

「――よぉ」

ジェットが片手を挙げて応える。ジョーはと言うと・・・視線を歩道に固定したまま、立ち上がろうともしない。
「――いったい、ここで何をしてるの」

そのフランソワーズの声に、はっと顔を上げようとしたジョーの頭を押さえつける。

「ばか。座ってろ」
「だけど」
「いいから。お前は顔を上げるな」

そのままジョーの背中に腰をかけ、ジェットはまじまじとフランソワーズを見つめた。

「それはこっちのセリフだぜ。オマエこそどうしてここにいるんだ?」

「それは――」

全てを話すと長くなるのだった。
そして今は、そんな時間はない。

ちらちらとジョーを見つめ黙ってしまったフランソワーズにため息をつく。

「――ま、いいや。コイツの名前を叫んで駆け寄って来なかっただけでも上等だ。――で?女王様は何と言ってるんだ?」
「・・・ジョーはどこにいるのか、って」

いまひとつ事情を掴みきれていないものの、このジョーの姿とジェットとの遣り取りでおおよその事は理解できた。

「――見つかっちゃいけないのよね?」
「そうだ」
「だから、こんな格好で」
「まぁな。で、オマエは使い走りをやらされてるのか?」
「ん・・・まぁ、そんなところかしら」

それを聞いた途端、ジョーがジェットを跳ね除けて立ち上がった。

「!ふ、」
フランソワーズ!と叫びかけたところをジェットがすぐさま羽交い絞めにする。
「バカヤロウっ。俺様の努力を無駄にする気かよ?」

フランソワーズとふたり、そうっと女王の方を窺う。
けれども、女王は全くこちらに注意を払ってはいなかった。

「――フン。女王さまはジョーがわからないらしいな。案外、近くに行っても大丈夫なんじゃないか?」
「駄目よ。近くで見たら、きっと・・・」

じっとジョーを見つめる。

「・・・きっと、わかると・・・」
「わかんねーよ、きっと」
俺だってわからんぞ。と付け加えるジェット。確かに、以前ジョーが前髪を切った時(注2)は彼を認識できずにいたのだった。(注2:SS「逃げ場」)

「面白いから行ってみるか?」
「――そうだな」

フランソワーズは目を瞠った。
何しろ、今のジョーの声が――フランソワーズでさえ、聞いた事がない低く冷たい声だったのだ。

それに、何だか・・・怖い?

「レーサー・島村ジョー」の時に、彼から殺気を感じることなど皆無だった。
けれども今はまるで――

009とも違うわ・・・いったい、何?

彼から発散される冷たい空気がいったい何なのかわからない。
が、それが「危険な空気」なのは疑いようがなかった。

フランソワーズを残し、ジェットとジョーがだるそうに女王一行へ近付いていく。

一瞬遅れてフランソワーズも後に続いた。

このふたりを野放しにしてられないわ。一般人に危害が及んでしまう・・・!

全く信用がないのだった。

 

***

 

ジョーはひとり静かに怒っていた。

――なんなんだよ。なんでフランソワーズが。

まるで女王の「使いの者」のように扱われた事に我慢がならなかった。

キャシーはフランソワーズが誰なのかを知ってる。だから、知ってて、わざとそんな仕打ちを――

胸がむかついた。
もはや自分の正体がばれるとかばれないとかはどうでもよかった。
フランソワーズが軽く扱われていることが、そしてそれが故意であることが許せなかった。
そして、女王がフランソワーズをそう扱う理由が自分がらみであることも。

全ては過去の自分のせいだった。

――くそっ。あんなの、一瞬の気の迷いなのに。なんだってこんなに尾を引くんだ。
俺は――キャシーなんかどうでもいい。

もし今、天変地異が起こったら。
そして、女王とフランソワーズのどちらかしか助ける猶予がないとしたら。

それはもう、刹那も迷わずフランソワーズだけを助ける気まんまんなのだった。
例え、優しい優しいフランソワーズが自分はいいから女王を助けろと懇願しても――彼女に嫌われてもなじられてもいいから、フランソワーズだけを助けるつもりだった。

――いや。それは違うな

彼女――フランソワーズに嫌われるのは嫌だった。

そんなことをしたら絶対、しばらく口をきいてもらえなくなる。

それは泣きたくなるくらい嫌だった。

・・・フランソワーズは優しいからなぁ・・・しょうがないな。フランソワーズを助けて、もしほんのちょっとでも時間が余ったらキャシーを助けるふりくらいするか。

そんな他愛もないことを考えながら女王一行のもとへ近付く。

ジョーの眼光が鋭さを増した。

 

***

 

二人組の男と女王一行が邂逅しようとするちょっと前に、その間に割って入ることに成功したフランソワーズ。
ジョーの眼光を受け止めつつ、女王の方も気にして。

けれども。

――え?

 

***

 

――あれ?

これから面白いもんが見られそうだと期待していたジェットはぽかんと立ち止まった。

あれ?

 

***

 

ジョーは睨みつけた先にフランソワーズが居たので、大層驚いて――立ち止まった。

そういえば、どうしてフランソワーズがここにいるんだ?

そもそもの疑問に立ち返る。

どうしてフランソワーズはここにいるんだ?

 

***

 

女王は――キャサリンは。

自分に近付いてくる二人組の男のことなど全く気にしていなかった。
それはもう、驚くほど。

フランソワーズが彼女を見ると――見ても。
既に、フランソワーズ自体にも興味を失ったのか、彼らのほうなど一瞥もくれなかった。

なので、思わず体を退いてしまい、ジェットとジョーを女王と対面させる形にしてしまった。

すぐさまSPが彼らを取り囲む。

女王の眉間に皺が寄った。

「――何事なの?・・・そうだったわ。フランソワーズ。ジョーはどこにいるのかわかって?」
「・・・え」

どこにいるのかって。いま目の前に居る。

「あの――」

口を開いたフランソワーズの肩に手を置き、ジェットが一歩前に出る。

「島村ジョーを探してるのは女王さまでしたか」
「――あなたは?」
「俺は同じレーサーのジェット・リンク。ジョーのことなら良く知ってるぜ」
「レーサー?」
「明日、レースがあるんでね。女王さまもジョーだけじゃなく他のレースも観てくださいよ」
「え?ええ、そうね・・・」

イライラと適当に返事をする。

「――そんなことより。あなた――ジェット。ジョーがどこにいるのか知ってるのですね?」
「ええ。まぁ」

ジェットを上から下まで見つめ、そして。

「――だったら案内しなさい」

どうやらジェットは彼女の服装基準に合格したようだった。

「でも、確実にいる場所って何箇所かあたってみないとわからないぜ」
「構いません。案内しなさい」
「――仰せのままに」

大仰な礼をして――ちらりとフランソワーズに目配せをしたあと――女王と連れ立って目の前のレストランに入って行った。

 

***

 

残されたのはフランソワーズと――変装らしきものをしていたジョー。

ジェットと女王の後ろ姿を見送り、そして。
改めてお互いを見つめる。

どのくらいそうしていただろうか。

先に我に返ったのはジョーだった。

「フランソワーズ。ともかくここから離れよう」
「えっ?――ええ、そうね。そうだったわ」

ジョーはにやりと笑うとフランソワーズの手首を掴んだ。
そして引っ張るように走り出す。

「待ってジョー。速いわ」
「いいから。早く逃げないと捕まるだろっ」

とりあえず――数々の疑問は後回しだった。

 



走って逃げ込んだ先は海浜公園だった。
ジョーが場所を知っていて誘導したのか、ただの偶然なのかは定かではない。
ともかく、お互いに息が切れて――もう一歩も走れないくらい走り続けだったのだった。

しばらく何も言えず――けれども繋いだ手は離さず――息を整えることに専念する。

「・・・フランソワーズ、・・・どうしてここにいるんだい」

何を措いてもまず先にこれを訊かなければと、まだ切れ切れの息遣いのなかジョーが切り出した。

「え」

繋いだフランソワーズの手が揺れた。
何しろ、元々の目的はジョーには会わずに開幕戦を観ることだった。そしてそれが叶わなかった今は、ともかく手ぶらでは帰れないから、せめてジョーの顔だけでも見て帰ろうとそれしか考えていなかったわけで・・・どうしてここに居るのかなどという根本的な理由を説明しなければならない状況は想定していなかった。
そして。

――どうしよう。ジョーに説明したら、私が「世界を翔けるストーカー」だってばれちゃう・・・!

もし、それがジョーにばれたら。

嫌われちゃうかもしれないっ。

それは絶対に嫌だった。

ううん。それだけじゃなく、きっと物凄く怒るわ。勝手なことをするな、って。そもそも、一緒に行こうって誘っていたのにそれを断ったくせに、って。なのにこうして来て、もしかしたらジョーの仕事の邪魔をしているのかもしれなくて――

そう思うとなんだか涙が滲んできてしまうのだった。

――だって。そんなつもりじゃなかったのに・・・。

思えば長い一日だった。
もうちょっとで着くところを飛行機が遅延し、せっかく来たのにレースにはまったく間に合わず――タクシーも途中で降ろされ炎天下を歩き、ジョーの顔を見るのだって一度は断念したのだ。
けれども、このまま帰るのではあまりにも自分が不憫だと感じ、勇気を奮い起こしてジョーに会おうと決心した。そうして向かったジョーのホテルだったけれども彼はそこに居らず、何故か宿敵・キャサリン女王とガチンコするはめになった。
状況が掴めないまま、何故か女王と行動を共にすることになり――しかも、「サイボーグ」と蔑みの目で見られ、自分でも悔しいのか悲しいのかわからない感情に囚われ・・・
そうしてやっと会えた愛しいひとはなぜか妙な変装をしており――

もう。なんだか・・・

けれども、ここで泣いたら今まで我慢してきた様々な感情が噴出してしまいそうだった。
異国の地で号泣するのは避けたかった。しかも、大嫌いな国で醜態を晒すのは耐え難い屈辱でもあった。
だから何も言わずに黙っていることに決めた。
うっかり何か言おうものなら、きっと泣いてしまいそうだったから。

けれども。

そう思ってはいたけれど、実際には勝手に言葉が口からこぼれてしまっていた。

「――ジョーに会いたかったの」

 

***

 

え?

それだけのために、ここまで来たのか?

フランソワーズの言葉に、まじまじと彼女を見つめる。
困ったような顔をして――涙を溜めて、でも泣くもんかと頑張っている。赤く染まった頬は走ったためか、泣くのを我慢しているためなのかわからない。

――可愛いなぁ・・・

ジョーは彼女のこの表情には弱いのだ。それはもう、絶対的に彼女が悪くても――そんなことはあまりなかったが――100%、ジョーが謝ることになってしまうのだった。そして、それを全く苦に感じてもいなかった。
もはや、自分が彼女に何を質問し、彼女が何て答えたのかも忘却の彼方だった。
ほんの数秒前の出来事にも拘らず、そんなことは彼にとって既にどーでもいいことだったのだ。

ああもうっ。食べちゃいたいくらい可愛いぞっ。

そう思うけれども、まさかここで「いただきます」する訳にもゆかず――そんな事をしようもんなら、間違いなくフランソワーズに回し蹴りをくらうことは過去の経験から知っていた。
なので、そうっと手を引いてフランソワーズを引き寄せるにとどめた。最大限の注意を払って。

「――僕も会いたかったよ。来てくれて嬉しい」

「・・・ほんと?」
「うん。本当」
「迷惑じゃなかった?」
「どうして」
「だって・・・女王さまとデートする約束だったんでしょう?」
「――え?」

フランソワーズの髪に顔を埋めていたジョーは思わずフランソワーズに向き直った。

「――何?いま何て」
「だから。キャサリンとデートするはずだったんでしょう?って」
「――まさか」
「だけど、邪魔しちゃった、から・・・」

徐々に語尾が小さくなる。

「・・・彼女がそう言ってたもの。約束したのに、って」

その言葉を聞いて、一瞬ジョーの瞳を冷たいものがよぎった。

「――他には?」
「えっ」
「他に何か言われた?」

ジョーの声の様子が変わったのを不審に思い、見上げると。

「あの・・・もしかしてジョー、怒ってる・・・?」
「いいや。ぜんぜん怒ってない」
「嘘。だったらどうしてそういう顔するの」
「別に。いつもこんな顔だよ」

今の彼は「妙な変装」をまだ解いておらず、従って「いつもの顔」では全然なかった。
むしろ、両目が見えているだけに怒った時の怖さも倍増していた。

 



なんか・・・怖い。
いつものジョーじゃない。
「009」でもない。「レーサー」でもない。
これが・・・「島村ジョー」?

どう見ても、彼が怒っているのは明らかだった。
そして、その怒りの矛先は――先刻までの会話を元に考えれば、「女王との約束を邪魔してしまった自分」に対して向けられているのに違いなかった。
何しろ、どんな思惑があるにせよ、女王は彼のスポンサーという「仕事上での関係者」なのだから。
だから、ジョーと女王がどんな約束をしていたとしても、それは「仕事」の範囲内であり――そして、自分はおそらくそうとは知らないうちに「仕事上での付き合い」の邪魔をしてしまっていたのかもしれなかった。
その可能性は大だった。

「・・・ごめんなさい」

だから、謝った。
何しろ彼の仕事の邪魔をする気は毛頭無く、いま落ち着いてよく考えてみれば、女王がジョーを探していたのは当然の事であり、自分の邪推が全ての間違いの元だった。

いくら混乱していたとはいえ、彼女の言うことを勝手に曲解したのは私だわ。

女王が言った「ジョーとの約束」について、てっきり「ふたりがデートの約束」でもしていたのかと思っていた。でも、もしそうではなく――本当に「仕事」だとすれば。

やだ、私ったら。
勝手にこんなところまで来ておいて、ジョーの仕事の邪魔をしてる。
・・・そんなつもりなんかないのに。
ジョーに迷惑をかけるつもりなんてなかったのに。

けれども、結果的にそうなってしまった事は事実だった。

ジョーが怒るのは当たり前だわ。

泣いている場合じゃない。泣いたからといって許されるわけでもない。むしろ、泣いて許してもらおうと思っていると思われたくはなかった。
だから、まっすぐ顔を上げて彼の目を見つめた。どんなに怖くても逸らさない。誠心誠意、謝罪するしかないのだから。

「あの、ジョー」

「ったく。酷いよなぁ」

お互いの言葉がかぶった。

「えっ?」
「なに?」

更にかぶる。

そしてお互いに黙る。

――酷い。って、何だろう?・・・私のこと?

やっぱり彼が怒っているのは私に対してなんだ・・・と思うと気持ちが挫けそうになった。
任務の時以外で、こんなに怒っているジョーを見るのは初めてだった。

「・・・ごめ」
「彼女、いったい君に何を言った?」

再び謝ろうとしたフランソワーズの言葉は、ジョーの言葉に遮られた。

「大体、君をSPみたいに使うっていうのが気に入らない。しかも使いの者みたいに扱ってただろう?なんなんだよそれ。フランソワーズは彼女の部下でもなんでもないだろうが。他に何か言ってなかったか?」

ジョーの怒りの矛先は、どうやら自分ではないらしい。

「・・・他に、って」
「レストランの前に来た時、元気がなかった」

――え。

「なんだかしょんぼりしてて・・・辛そうだった」
「・・・見てたの?」

確かあの時、ジョーは歩道ばかり見つめていたはず・・・??

するとジョーはふっと微笑み、と同時にフランソワーズの腕を引いて再び抱き締めた。

「――気付かないわけないだろう?」
「だって、ジョーは一度も顔を上げなかったのに」
「ちらっと見ればすぐわかるよ。――どうしてここにいるのか、驚いたけどね」

でも嬉しかったよ、と言いながら彼女の髪にキスをする。

「それより、何か彼女に意地悪されなかった?」
「・・・どうして?」

私が意地悪されるような何かがあるというのだろうか。

「あー・・・うん、まぁ、ちょっとね」

目を合わせない。
去年、女王に『自分が愛しているのはフランソワーズだけだ』ときっぱり言い放ってこの国を去った。とは言えないのだった。

「それより、何を言われた?」
「・・・大した事じゃないわ」

聞いたら絶対にジョーも傷つく。だから言えない。

「駄目だよ。何でも言う約束だろう?」

そんな約束をした覚えはなかった。

「やなこと言われたんだったら話して?僕も一緒にやな気持ちになって、一緒に落ち込むから」
「だめよそんなの」
「だってそうじゃないと一人でたくさん考えるだろう、フランソワーズは」
そんなのやなんだよ。と続ける。

「そんなの、俺に言って忘れてしまえ」

俺。という彼の一人称にはいつもドキドキしてしまう。
「素の自分」「ただの島村ジョー」の時にしか使わない、彼の一人称が「俺」だった。

「・・・ほんとうよ?大した事じゃないの。心配性ね、ジョーは」

なんだか嬉しくなって、ジョーの胸に寄りかかった。

「あの時元気がないように見えたのなら、それはきっと疲れていたからよ。でも、いまジョーに会えたから元気になったわ」
「・・・ほんとうに?」
「ほんとうよ?」
「ほんとうのほんとうにほんと?」
「ほんとうのほんとうにほんと」

ジョーが唸る。

「なんだかすっきりしないけど・・・まぁ、いいか」

そう言って、そうっとフランソワーズを胸に抱き締める。
ほんの数日離れていただけなのに、随分久しぶりに会ったような気がするのは何故だろう。
なんだかとても懐かしかった。

――言わないわ。ジョーには絶対。だってほんとうに大した事じゃないもの。

『盾になるくらい、できるでしょう?撃たれても刺されても、死なないのよね?――サイボーグなんだから』

傷つくのは私だけでいい。
それに、もう忘れる――忘れた、わ。

そんな事は、ジョーが本気で自分のことを心配してくれたことに比べたらあまりにも些細でつまらない事に思えた。それに、あの時実は気付いてくれていた事も嬉しかった。

「・・・やっぱり、ジョーね」
私の。

「うん?」
「なんでもないっ」

ともかく、ジョーには会えた。当初の計画とは随分と離れてしまったけれど。

「そうだわ。今日のレースはどうだったの?」

顔を上げて改めて訊く。
ジョーはその心配そうな顔を見つめ、そして

「うん。ハードなレースだったけど何とか入賞したよ。無事完走」

そう言って、フランソワーズにくちづけた。

そう。良かったわ――という彼女の言葉は直接彼のなかに飲み込まれた。

 

――来て良かった。

初めてそう思った。

やっぱり、遠くで見守ってるだけなんていや。会いたくなったら、会いに行かなくちゃ。
だって私は・・・

世界を翔ける、ジョーのストーカーだもん!

 

そう、ウチのお嬢さんは「王子様を待ってるだけのお姫様」ではなく、むしろ「迎えに行ってしまうお姫様」なのです。王子様が来ないなら、自力で脱出し王子に会いに行くのです。高い塔でぼんやり待ってなんかいないのでした。



「・・・ジョー。そろそろ起きた方がいいんじゃないかしら」

隣で爆睡しているジョーの肩を揺する。

「・・・ねぇ」

けれども、びくともしない。
死んだように眠っている。

――死んだように。

そういえば、なんだか息もしていないような気がしてきたのだった。

「・・・ジョー?」

反応なし。

「・・・・・・・ジョー?」

いやだ、まさか本当に・・・・?!

「――っ、ジョー!?」

思わず、彼の肩を強く揺すった。

 

***

 

ここはモナミ公国にあるホテルの一室。
フランソワーズの部屋だった。

あれから、成り行き上ジョーを泊めることになってしまったのだ。

何しろ、ジョーは手ぶらで部屋を出てきており、鍵も何も持っていない。
もちろん、彼の部屋はエグゼクティブフロアなので、フロアスタッフに連絡をすればすぐに部屋へ通してもらえる。
けれども。
女王から無事に逃げる事が出来たつもりではいるけれども、いつまた彼女がやって来るのかわかったものではない。そうなれば、せっかくのジェットの「ジョー救出作戦」も無駄になってしまうし、何より――

「やだ。戻りたくない」

と、まずジョーが駄々をこねた。
いまホテルに帰ったところで、チームの人間はみんな飲みに出てしまっており誰もいないのは確実であるし、ひとりぼっちになるのは必至。せっかくフランソワーズと会えたのに、それを振り切ってひとりきりでホテルの部屋に居なければならない理由も意味もわからなかった。

そして

「駄目よ。言うこと聞いて?」

とジョーを説得するフランソワーズ。
けれども実は、理性ではジョーを帰さなければとわかっていても、感情が納得してはいなかった。
それはただのワガママだったので、とりあえず表面上でだけでも平静を装い、ホテルに戻るよう促した。
けれども。

「わかった。じゃあ、戻るよ」
とジョーが言った途端、

「やっぱりイヤ。行っちゃだめっ」

そう言って、彼のシャツの裾を握り締め泣いたのはフランソワーズだった。
やはり、今日一日に彼女が受けたダメージは大きかった。彼女としては、それはもうかなり頑張ったのだ。

そんな訳で、お互いに離れる気持ちには全くなれず――フランソワーズのとった部屋に落ち着くことになったのだった。元々、ツインのシングルユースだったので全く問題はない。翌日朝早くにジョーは戻ることで話は決まった。

そうしていま、朝を迎えている。

 

***

 

同じベッドに寝ていたわけではなかった。
ぴったりくっつけて置いてあるふたつのベッドにそれぞれ潜り込み――手を繋いで眠りについた。

レース後であり、そのあとのあれこれで疲労しきったジョーと、旅行疲れと到着後のあれこれで疲れきったフランソワーズがすぐに眠ってしまったのは当たり前といえば当たり前のことだった。
むしろ、眠る前にアラームのセットをしておいたフランソワーズが偉いというべきか。
ジョーなぞは、夕ごはんを食べてシャワーを浴びたあと倒れるようにベッドに入り――そのまま意識を失ったのだった。
上掛けの上にうつ伏せになったまま動かなくなった最強のサイボーグを寝かしつけるのは、更に多大な労力を要した。何しろ、重い。弛緩しきった他人の身体を動かすのはとてつもなく重かった。押しても引いても駄目。結局、上掛けを彼の下から引っ張り出し、そのまま彼の身体をくるむことで手を打った。
そうしてから、自分も隣のベッドに潜り込み、手を伸ばして――彼の手を握り締め眠ったのだった。

そしていま、アラームの音で起きたのはフランソワーズだけだった。

ジョーは昨夜と殆ど同じ格好のまま動かない。

「ジョーっ!?」

彼の身体に何か起こったのではと、半ばパニックになりかける。

どこか故障した?
不具合が起こってる??

あれこれ、嫌な想像が頭を駆け巡る。

――落ち着くのよ。

深呼吸する。

――こういう時は、落ち着いて・・・

彼の身体をスキャンしなければならない。そう、博士とイワンに言われている。
おもむろに目のスイッチを入れて、ジョーの頭部からスキャンを始め――

 

***

 

その瞬間、いきなり視界が真っ白になった。

「――?!」

何が起きたのか咄嗟にはわからない。
自分の目がショートしたのかと思いかけ、すぐにそうではないと気がついた。
なぜならば。

聞こえてくるのは、ジョーの笑い声。

「ごめんごめん。びっくりした?」

耳元でジョーの声が響いた。

――そう。先刻まで、もしや死んだのかもと疑うくらい微動だにせずシーツにくるまっていたジョーが、フランソワーズが彼をスキャンしようとしたまさに絶妙のタイミングで彼女を組み伏せたのだった。
全く無防備だった彼女は簡単に彼の術中に嵌り――つまり、あっという間に彼のベッドに引き込まれていた。
目の前にはシーツの白が広がっている。
そして。
力強い腕に絡め取られていた。

「ジョーっ!」
「オハヨ」
「おはよ、じゃないわよ、もうっ!!」

彼の腕から逃れようとじたばたもがく。

「心配したのにっ」
「――何が?」
「あんまり静かだから、何か起こったのかと思って――」
「何かってなに?」
「・・・あちらの世界にいってしまったのかと」
「コラ」

フランソワーズの鼻をつんとつつく。

「さっきから起きてたの?」
「さっきは寝てた。いま起きた」
「寝たふりしてたわけじゃないのね?」
「・・・さあ?」

もうっ!と言ってジョーの頬を――

 

***

 

お互い目を覚ましてはいたものの、起きたくはなかったのだった。
何故なら、起きること即ち別れることだったから。
ジョーは第2戦の地へ。
フランソワーズは日本へ。
もちろん、次の第2戦が終われば第3戦まで少し間が空くので、ジョーが帰国することは可能だったのだが――実はちょうどその時期にフランソワーズのバレエの公演があるのだった。
従って、今日までがぎりぎり遊んでいられる期間であり(だから、滞在時間最短でジョーの開幕戦を観ることに決めたのである)帰国してからはレッスン漬けの日々が待っている。
そんな訳で、なかなか予定が合わないふたりだった。

「飛行機、キャンセルして一緒にマレーシアに行っちゃおうよ」
「そんな訳にいかないわ。公演も近いし、練習しないと」
「――うーん・・・」
「一週間もこっちにいるのは無理よ」
「そうだよなぁ・・・」

フランソワーズの髪を撫でながら。

「――うーん・・・・。一週間後にまた会うっていうのはどう?」
「そんなの」
無理ってわかってるでしょう?とは言えず。
否。
言いたくなかった。
何しろ、本音は
「・・・観に来てもいいの?」
やっぱり会いたいのだった。

さて、どうしよう?

その前に――
そろそろ出ないと、仲間に置いていかれますよ島村さん!

やっぱり離れ難いのだった。

 

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