準備万端、整った。あとは「その日」を待つばかり・・・ F1開幕戦を控え、最終チェックも終えた夜。彼女は指折り数えて待っていた。 ――長かった。 こんなに誰かを思う日が来るなんて思ってもいなかった。 一度は思いが重なったのに。 もう間違いはしない。 彼のことを思い浮かべ・・・そして、当然浮き上がってくる彼の隣にいる「女」に眉をしかめる。 ――ただのバレリーナだと思っていたのに・・・。 彼と同じサイボーグという、たったそれだけの理由で彼の隣にいることを許されている女。 だったら。 そんな共通点を凌駕すればいい。 島村ジョー。 *** 「じゃあ――行ってくる」 キスとともに送り出してから1時間も経っていない。おそらくまだ空港にも着いていないだろう。 「フランソワーズも一緒に行かない?」 昨夜、突然言われた。 「・・・行けないわ」 行かない、のではなく、行けない、のだった。 「どうして?バレエの公演はしばらくないんだろう?」 そうっとフランソワーズを抱き寄せ、髪を撫でる。 「ううん。そうじゃないわ」 「あのさ。開幕すれば毎週末にレースがあって、しばらく自宅には帰れなくなるんだよ。それはみんな一緒。 しばし考え込む風情のフランソワーズ。 「――でも、駄目。行けないわ」 きっぱりと言う。そしてジョーもその答えに否は唱えなかった。 「やっぱり駄目か」 そう言って抱き締めて、たくさんのキスをくれたのが数時間前。 静かだった。 邸内には誰もいない。みんなそれぞれ仕事に行っていたり、故国に帰っていたり・・・様々だった。それは特別なことではなく、最近では全員が在宅している方が珍しいくらいだった。 ジョーがいない。 毎回、彼が遠征するたびに囚われる思い。感覚。いつまでたっても慣れなかったし――慣れたくも、なかった。 こんな時、93王道パターンならば。「忘れ物した」といってジョーが戻って来たり、何故か「出発の日にちを間違えて」いたり、出発便を遅らせたりしてともかくジョーが戻って来る。そうしてひとりで泣いているフランソワーズを見つけて、そうして・・・・。と、なるのだが、いかんせんここは王道無視なサイトなのだった。 だったら。 ここのサイトのフランソワーズは、「救助されるのを待つ孤高のお姫さま」なぞではなかったのである。 モナミ公国での開幕戦は炎天下のなか行われた。 今季はちょっと厳しいなぁ・・・ 入賞は果たしたものの、改めて「勝つことの難しさ」を痛感するジョーなのだった。 昨日のタイムアタックではいい数字が出ていたのに。 そう思うと悔しさが募る。 ともかく、無事にゴールできたということだけでもヨシとするか・・・。 軽いミーティングのあと、着替えて車に乗り込む。 仲間と談笑しつつ、投宿しているホテルに戻る。 さすがに疲れた。 ベッドに座り込み、携帯を取り出す。 ――ほんと、大変だったんだよ。何しろ、女王が観に来ているわけだろ?いつも通りってわけにはいかなくてさ。・・・しかもウチのチームは特に。――まぁ、確かに女王はキレイで可愛かったよ。それは認める。それに、今回は節度ある態度で接してくれたし。・・・そういうことなら、こっちとしても邪険にする理由はないから、会話だってするさ。・・・いつまでそうなのかはわからないけれど。 ――それにさ。『あら。フランソワーズさんはご一緒ではなかったの?』って訊かれちゃったんだぜ。 レーサー・島村ジョーになると、一切の事は忘れレースに集中するのが常だった。 ――どう思う? ・・・これは全て、ジョー島村の心の声である。どういう訳か、レース後のちょっとした時間にはこうして携帯待ちうけ画面を見つめて心のうちを語ってしまうのである。だったら、待ちうけ画面の相手と直接電話でもすればいいものを、それはしない。常に時差のことを考えているのだ。そして、こうして――待ちうけ画面の相手には絶対に言ったりはしないことも――心の中で語ったりするのが彼なりのストレス発散でもあるのだった。 ――君を一緒に連れて来ていれば、「ええ。もちろん一緒ですよ」って答えることができたのになぁ・・・ そうして携帯画面に軽くキスをすると携帯を閉じた。 数分後、彼の携帯が振動した。 更に数分後。 ――なんだろう?今日の反省会かな。 それはいつも夕食後のはずだったが。 「――誰?」 いちおうドア越しに声をかけてみる。メンドクサイので魚眼レンズで確認はしない。チームクルーは何かとイタズラを施し、見えないようにするか変な顔をしてみせるか・・・あれこれ意表を衝いた演出をしてくれるので反応するのが嫌なのである。 「ジョー?」 聞き覚えのある声だった。一気に意識が覚醒した。 一体、この国はどうなっているのか? という疑問は何度目だっただろうか。 *** ――全くもう。 ただでさえイライラしている上に、先刻からどこを向いてもキャサリン女王の顔が目に入り、更に不快指数が増していく。 この国が嫌いだったのだ。 なのに、どうしてここにいるのかしら私。 カートを引く歩みもいつしか速度が落ちていた。最初は怒りにまかせてずんずん歩いていたものの、落ち着いてくると――外気の熱さと荷物の重さと旅の疲れの三重苦に襲われた。気分は最悪だった。 もうぜっっっっっっっっっっっっっったいに来るもんかと思ってたんだから。 軽く拳を握る。 大体、ひとのカレシに手を出すなんておかしくない? 呪文のように唱えながら炎天下をひたすら歩く。 ――それに、なんなのこの天候っ。 その悔しさを思い出すと涙が滲んでくる。 今まで開幕戦のときは公演が重なって、観たくても観られなかった。だから、公演先のテレビニュースだけが頼りだった。でも、今年は運よく重ならなくて、観に行こうと思えば行ける日程だった。 だって・・・ただでさえ、モナミ公国での試合っていうのでピリピリしてたもの。行けば必ず女王と会わなくちゃいけないし。もし私が行く、って言っていたら更にナーバスになって・・・ああもう、想像したくもないわ。 予選は諦めて――どうせジョーは通過するのに決まっているので――決勝だけを楽しみにやって来たのだった。 なのに、なんにも観られなかったなんて。 悔しさに再び視界が滲んでくる。 飛行機が遅れた結果、開幕戦はとっくに終わっており街は試合後の喧騒に包まれていた。 それもこれも、みーんな女王のせいなのよっ。 それは半分、言いがかりだったのだが今の彼女には何を言っても無駄だった。 嫌い嫌い嫌いっ。 目尻に涙が浮かんでくる。 ジョーのばか。
想い人がやって来るのを。
議会を通過させるのがこんなに大変だとは思わなかった。父はこともなげにやっていた事なのに。
「女だから」となめられるのは嫌だった。だけど「女だから」と甘くみられるのが有利な場合はとことん使った。自分はか弱き女王なのだということを。
そしてやっと――念願が叶う。
あの日、日本に行っていなければ――公務から抜け出していなければ、会うこともなかったひと。
公務を抜け出すのは日本でなくても良かった。けれども、日本だったからこそ会えたのだった。
不思議な縁。
でも、忘れられない。
安易に離してしまったのは、私がまだまだ何にもわかっていないコドモだったから。
でも今は違う。
自分の欲しいものに対し、どうすれば手に入れられるのかもわかっている。
たまたま紅一点だったから、みんなからちやほやされてそれを誤解している女。
彼は彼女を愛していると勘違いし、それに全く気付いていない。彼女もそれを正そうとはしない。
――なんの努力もしてないくせに。どうして平気で彼の隣にいられるの?彼を愛してるなんて自信を持てるの?
私は・・・彼を得るためにどれだけ苦労したことか。
サーキットの建設に国家予算をどのくらい削ったかわかる?
もちろん、彼がいれば集客を見込めて、回収は早期に可能だという試算は何度も行った。
だけど、これはひとつの賭け。
もし彼が勝たなかったら?リタイヤしたら?負傷したら?全ては負債になる。
そんな責任も辞さない覚悟でいるのに。
彼に会うためにはそのくらい軽いわ。って笑って言えるくらいなのに。
なのに、彼女は何にもしていない。
ただ身体がサイボーグというだけで、たったそれだけの共通点にしがみついて彼のそばから離れない。
私は――あなたがサイボーグでも、関係ない。
愛したひとはあなただけ。
「行ってらっしゃい」
F1開幕戦を控え、ジョーが――サイボーグのリーダーの顔からレーサーの顔になって――モナミ公国へ旅立って行った。空港には行かないことにしている。いくら離れるのが嫌でも、空港に行けば人目がある。
自分が一緒にいるところを見られるのは、彼にとって良い事ではない。人気商売なのだから。
何度もそう自分に言い聞かせた。そうしないと、挫けそうだったのだ。
「そうだけど・・・」
「向こうに着いちゃえばマスコミなんて気にならないさ」
それに、向こうではキャシーが取材関係を一手に引き受けてくれてるはずだし。
「それとも・・・キャシーが気になる?」
「じゃあどうして?僕と一緒に行くと何か困る?」
「だって・・・カノジョを連れてきたなんて知れたら、困るのはジョーでしょう?」
「僕は困らないよ」
「だけど」
あなたのレースの邪魔にはなりたくないもの。
だから、奥さんを連れてきたり、恋人を連れてきたりするのは普通のことなんだよ」
「そうなの?」
「うん。――僕だけだよ。だーれも連れて来てないの。みんなが大切なひとと一緒にいるのを見ながら、いいなーっていつも思ってる」
「本当に?」
「うん」
一緒に行こうと誘われれば気持ちが揺れるのは当然のことであり、それを断るのは勇気が要った。
「ええ」
「――まぁ、わかっていたけどね」
ちゅっと額にキスを落とす。
「・・・ごめんなさい」
「いいよ。そう言うと思ってたし」
「ごめんなさい」
「――ほら。そんな顔しない。僕が思い出すフランソワーズは泣き顔じゃないんだから」
そしていまはひとり。
だから、こんな静寂には慣れている。・・・けれども。
誰もいないリビング。いつもより更に広く感じられる。
窓からは春の陽が射しているけれども、どこか寒々しい。暖まろうと淹れた紅茶も、手をつけないままとっくに冷めてしまっていた。
ソファに座り、ジョーが見ていた雑誌を手にとってみる。けれども興味をひかれる記事などなく、ただただぼうっとページを繰っていた。
なので、待っても待ってもジョーが戻ってくるはずもなく、彼がそんなワザを思いつくはずもなかった。
いままさに着々と空港へ向かっていることだろう。お菓子でも食べながら。
初戦だからなのか、どのチームもエンジンとそのバランスを試しながらの走行となり、そのためなのかどうかはわからないが、クラッシュ、リタイヤが続き波乱の幕開けとなったのだった。
何が悪いというわけではない。スタッフも頑張ったし、もちろん自分も頑張った。目の前で仲間の車がクラッシュするという光景にも耐えた。
その際、待ちかねていたファンにサインもする。
自分が疲れている以上に、この地のこのサーキットまで来てくれて、ずっと立ちっ放しで観戦もしてくれて、しかも自分を待っていた彼らのほうが数十倍疲れていることを知っているのだ。
だから、ジョーは決してサインの拒否はしない。(写真撮影はNGだが)
もちろん、レース直前はそうもしていられないのだが、彼のファンは彼のそういうパターンは先刻承知であり、サインはレース後というのが暗黙の了解になっているのである。
夕ごはんはどこにしようかなどと話しながら、ともかく少し休もうとそれぞれの部屋に分かれた。
暑かったし。
それに――大変だった、し。
開いて画面を見ながら・・・
そりゃ・・・前回、彼女に僕が愛してるのはフランソワーズだけだ、なんて言っちゃってたからしょうがないけどさ。レース前だぜ?普通、そういう話をするかなぁ。
愛しいフランソワーズの事といえど、例外ではないのだ。
だから、他人にレース以外の事を直前に言われるのは心外であり、腹立たしいことなのだった。
かといって、そんなささいな事で集中力が削がれる、なんてことは無いのであったが。
いや、わかってる。そんなのは僕のわがままだし。君には君の生活があるし。わかってる。大丈夫だよ。
うん。・・・まぁ、本音を言えば・・・もちろん一緒にいてくれればずうっとずうっと嬉しいし、頑張れるんじゃないかと思うんだけどね。
そのままごろんと横になる。夕ごはんまでまだ間があり、仮眠をとっても大丈夫だと判断し目を瞑った。
でも、いまは009ではなくレーサー島村ジョーなので――起きなかった。
今度は彼の部屋のチャイムが鳴った。
片目をこじ開け、時計を見つめる。夕ごはんの時間にはまだずいぶん早かった。
諦めて、体を起こす。再度、チャイムが鳴る。ハイハイと言いつつ、特別急ぐわけでもなくだらだらとドアに向かう。
モナミ公国。王制を敷いており、それが成功しているイマドキ珍しい国だった。
しかも、君主は若き女王。
そのためか、女王の人気は絶大であり――よって、この国に初めて来た者は例外なく驚くことになっている。
まず、空港のあらゆるところに飾られた女王の写真。みやげ物屋はもちろん、広告ポスターにももれなく女王が写っている。更に、女王に忠誠を誓う旨を記載したプレートが各店舗に飾られている。
そして、街に出れば更に驚きが増す。
女王が写っている広告看板の多さ――そして、ホテルやカフェや果ては公園にまでつけられた彼女にちなんだ名称。
更に今は、F1開幕戦が行われるのがこの国のトップニュースであり、話しはそれでもちきりだった。
どこへ行ってもどの店に入っても、F1関係の資料やチーム紹介の写真入りアルバム、そしてテレビ放送で繰り返し流される特集番組を目にすることになるのだった。
特に――レーサー・島村ジョーと、女王キャサリンとの親密度についての。
熱いし。
重いし。
疲れたし。
そして何より。
思い出すのもむかつくのよっ。
しかも、当のカレシがまたふらふらと行ってしまいそうになったもんだから――彼女が図に乗ったのよ。
お互い想い合ってるって勘違いして。
ええそう、「勘違い」よ。
大体ね、彼女はジョーのことなんて全然わかってないんだから!
それに、ジョーもジョーよ。自分のことがわかってなさすぎる。
私がいなくなったら泣くくせに。もし、私があの時「ふーん。そう。いいわよ?どうぞご勝手に」なんて言おうもんなら、絶対にパニックになったくせに。そりゃもう、女王の事なんてどうでもよくなって、大暴れするわ荒れるわで――手がつけられなくなってたはず。
だから、私は・・・ちょこっと強がりを言って、あなたがいなくちゃだめなの、って言ってみせたの。
それはもちろん、正直な気持ちではあったけれど。
でもね。ジョーが拗ねると手に負えなくなるのよ。
それをなーんにも知らないくせに、ひとのカレシに手を出すな、っていうのっ。
ジョーが泣いちゃったらどうすればいいか知らないくせに。ジョーが拗ねたらどうすればいいのかも知らないくせに。ジョーが強がりを言ったらどうすればいいのかも知らないくせに。ジョーが・・・・
彼女の不機嫌の理由は他にもあった。
直行便なのに、悪天候で着陸許可が下りないからって、空港の上でひたすらぐるぐる旋回してたのに、降りてみたら晴天じゃないの。何時間、足止めされたと思ってるのよっ。おかげで、おかげで――ジョーのレースに間に合わなかったじゃないの!!
絶対に間に合う便だったのに。
それを手の甲で乱暴に拭う。
飛行機のチケットを取ったのは早い時期だった。行けるものなら絶対に現地に行くと決めていたから。
けれども、当の相手であるジョーにはとうとう内緒にしたままだった。と、いうのは。
サポーターが流れて溜まっているカフェとか飲み屋とか。
それらを横目に、ひとりカートを引き摺ってホテルを目指して歩いているのだった。
タクシーはだいぶ手前で降ろされた。今日は交通規制がかけられているのだという。どう交渉してもホテルの前までは行ってくれなかった。
遅れた飛行機も、途中で降ろしたタクシーも、女王もこの国も、F1も、ジョーも――みーんな嫌いっ。
ホテルにチェックインし、シャワーを浴びて着替えたら少しスッキリした。そうして改めて考えてみる。 ・・・私ったら、ばかみたい。何してるんだろう・・・ 予定では、空港からサーキットに直行し、レースを観るはずだった。もちろん、フォーメーションラップには到底間に合わない。けれども、何週目かから観られればそれで良かった。ジョーが途中でマシンを降りるなどとは最初から想像すらしていない。レースの大詰めと、彼がチェッカーを受けるところが観られればいいと思っていたのだった。 日本を経ってから十数時間が経過している。移動に次ぐ移動で殆ど休んでいない。何しろ空港に着いてからは、レースの進行がどうなっているのか気が気ではなく、気持ちにも余裕がなかった。 だって、ジョーは私がこの国にいるなんて知らない。言ってないもの。なのに、急に私がジョーのホテルに訪ねて行ったら・・・ 思わず顔を両手で覆う。 だめよ。 私って物凄いストーカーみたいじゃない!! 日本とモナミ公国をまたにかけるストーカー。それが私。 そんなの、やだ!! ベッドに転がり、足をばたばたさせる。シーツに突っ伏して、小さくやだやだと繰り返す。 だって、私はジョーに会いに来たわけじゃないもん!! しばらく心ゆくまで悶絶してから、改めて起き上がり、手のなかにある携帯電話のフラップを開ける。 ・・・ジョー。 見つめる画面の上に大粒の涙が降ってゆく。 だって、勢いでこんな遠くまで来ちゃって――なのに、あなたのレースも観れなくて。 ジョーの仕事中に彼のそばに行ったことは今まで一度もなかった。それが、日本グランプリであっても。 だってジョーはレーサーの顔になったら、レースの事しか考えない。レースが終わってからもチームスタッフとの打ち合わせが続くから、しばらくは私の事なんて思い出さない。 そして、未だに電話は沈黙を守り続けている。 待ちうけ画面に降った自分の涙を指で拭う。 こうして泣いてたって仕方ないわ。 とはいえ、ジョーがどこに泊まっているのかも知らないのだった。 |
ホテルのロビーに入ってからは、もう躊躇しなかった。 だって私は自分のカレシをストーキングする女だもん。 そう開き直ってみると、何にも怖いものはなかった。 まるで自分がこのホテルの滞在者であるかのように、迷わずまっすぐエレベーターに向かう。 目的階でエレベーターを降りる。 ――途方に暮れた。
***
次の瞬間、開いたドアを必死で閉めようとした――が、刹那遅かった。 「お前、それはないだろーが」 ドアに手をかけたまま、こちらも一歩も譲らない。 「大体なー、居るんなら電話ぐらい出ろっつーの」 ドアを挟んでの攻防戦だった。 「なんでここにいるんだよっ」 そう。元F1レーサーのジェットだった。 「どうして、って。そりゃレースがあるからに決まってるだろ?」 ドアを閉める力が緩む。 「冷たいなぁ。俺のレースに興味がなくてもいいけどよ」 ジェットは今季からインディーズのレーサーなのだった。 「いや、そんなことは・・・」 ドアを開放しても入る気配はなかった。 「出かけるぞ。着替えろ」 ジョーの格好を上から下までチェックし、まぁいいかと合格点を出す。彼のセンスからすれば、ジョーのような格好で外に出るなどと噴飯ものではあったのだが、まぁジョーの事だしな。と、合格ラインを引き下げた。 「ほら。ぼけっとすんな」 そのままジョーを引っ張り出す。 「――あ」 ドアが閉まり、ロックがかかる音に慌てて振り返るものの時既に遅し。 「どうした?――あぁ、そうか」 ジョーは手ぶらだった。当然、ルームキーも財布も携帯も、何にも持っていない。靴を脱がずにベッドに倒れこんでいたのだけがせめてもだった。 「悪い。でもまぁ、何とかなるだろーよ」 ほら行くぞ。とばかりに背を向けるジェットに思い出したように言う。 「だめだ。このあとミーティングがあるんだ」 肩越しに振り返るジェットに続ける。 「夕ごはんのあとミーティングがあって――」 呆然。 「ホラ。ゆっくりしてられないんだ。――行くぞ」 強引に腕を掴み、引き摺るようにして進む。 「いない、ってどうして・・・だってミーティングだって言ってたのに」 仲間はずれ。 「アホ。子供かお前は」 ジェットがジョーの頭を軽く小突く。 「違うって。そうじゃなくてだなー・・・うーん・・・話すと長くなるから後で言うよ。ともかくここを出るのが先決だ」 エレベーターホールに出る最後のゲートが見えてきた。 相変わらずジョーを引っ張りながら歩くジェットは、ゲートの向こう側の人影に眉を寄せた。 「・・・遅かったか?」 その緊張を含んだ声にジョーも同じ方向を見た。 遅かった、って何が?
|
――嘘っ。なにこれ・・・! 思わず手で触れる。 全然、視えなかった。・・・どうして・・・? ジョーが居る階を探す時、このゲートは目に映らなかった。全く気配もわからなかったのだ。 いくら要人警護のためといっても・・・大袈裟すぎない? 戦闘機械である自分は、戦うために創られた。その自分の能力を凌駕するということはつまり、国家機密レベルでの軍事力を有しており、そのための開発もかなりのレベルまで進んでいるということになる。 だけど、いちホテルの施設にそんな機密を使う? 何かおかしい。 このゲートの向こうにはいったい、何があるというのだろう。 自分にはこのゲートの向こう側に行く術はない。 ――とりあえず、このゲートはどうでもいいわ。 問題は、いまジョーがここにいるのかどうかだった。 ゲート自体はその存在を悟られずにいたが、そのゲートが守る先は容易に見通せた。 えー・・・・と、ジョーの部屋は・・・ 視た。 ・・・え? ゲートに手を触れたまま、額もくっつける。 なんなのっ。
***
「お前、ちょっと退いていろ」 舌打ちをしそうな雰囲気。 ジェットはためつすがめつゲートを見て――その向こう側に居る人物の同定をするつもりらしい。 「・・・あのさ、ジェット。無理だと思うよ?」 ゲートの隙間から向こうが見渡せないかと頑張っている。 「――くそ。アリの子一匹入る隙間もないぜ」 ジェットが止める間もあればこそ。 ゲートが開く。 「ああっ!!やっぱり女じゃねーかっ」 ジェットの声が響く。 ――女?
***
ゲートに額をくっつけて悶々と悩んでいると、エレベーターの到着した音がした。 ・・・この階のひとということは・・・ 瞬時に考える。 まぁ!フランソワーズったら、超ラッキー。ゲートが開いたら一緒に中に入ってしまえばいいのよ。 いまその先にある部屋にジョーはいない。ということはすっかり忘れていた。 慌ててゲートから身を離す。 ――うそ。 やはりこの国との相性は最悪だったらしい。 どうして女王がここに来るの? 降りてきたのは、女王・キャサリンそのひとだった。
***
ゲートの外に居たのは女性だった。 「――ああ、すみません」 ジェットが慌てて挨拶をする。 「・・・ったく、ジョー、お前も運のいい奴だな。もしこれが・・・だったら、アウトだったぜ」 そのままエレベーターに飛び乗る。(エグゼクティブフロア専用のエレベーターが一基あり、ゲートが開けばいつでも乗れるようにできているのである) 下ってゆく。 「・・・ともかくミッション成功」
***
かなりラフな格好をしているが、そのひとはキャサリン女王に間違いなかった。何しろ今日この国に着いてからというもの、嫌というほどその顔をあちこちで見ているのだ。見間違えるわけがない。 女王・・・よね?どうしてSPのひとりもいないのかしら? しみじみと見つめる。 このフロアのひとに何か用事があるのかしら? まぁ、エグゼクティブフロアだしね。と勝手に納得する。こんなにラフな格好でSPも連れていないとなると、お忍びなのかしら。とも思ったりする。 「――あなた、もしかして・・・」 女王が口を開く。 「――003?」 いきなりゼロゼロナンバーを呼ばれ、顔が強張った。 「003でしょう?」 重ねて訊かれる。 「――何か、事件でも・・・?」 女王の貌が曇る。 「あ、はい、イイエそういう訳ではないんです。今日は・・・」 慌てて答える。一国の君主に余計な心配をさせるわけにはいかない。 「そう。なら良かったわ」 説明しようとしたフランソワーズの言葉を最後まできかず、女王は言葉を継ぐ。 「でも奇遇ね。今日はプライヴェートなのかしら。我が国を楽しんでいってくださいね?」 それっきり会話が続かない。 女王はちらりとフランソワーズを見遣り――それはまるで、アナタ邪魔よと言っているようだった――インターホンを取った。 「――私よ。島村ジョーを呼んで」 ――えっ? 思わず女王を見ると、女王はその反応を楽しんでいるかのように唇に笑みを浮かべたまま彼女を見つめていた。 「――ええそう。さっき説明した通り。もちろん、彼も知っているわ――待ちかねているはずよ」 そうしてひとつ頷くとインターホンを戻した。 「――何か?」 インターホンを指差す。 「――いえ、私は」 後ずさりする。
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いまのところ、順調に進んでいるわ。 エレベーターの中でひとり笑みを洩らす。 ジョーのチームスタッフ全てを「無料で」食事に招待する。それも、この国最高峰の店の。しかも、何をどれだけ食べても会計はスポンサー持ち。どこのどんな知人を同伴しても良い――なんて、我ながらうまい事を考えたものだわ。 たったひとつの条件。 彼だけは、誘わない。 たったそれだけの条件で、その権利を得られる。 ――もちろん、チームの絆は強固であり、本当ならそんな簡単な条件さえ拒否されても不思議ではない。 だから・・・ いま、ここにジョーはひとりで居る。仲間に置いていかれたとも全く知らずに、無防備に。 周りの目を気にして、私を無視する必要も無い。 そんな状況なら・・・ エレベーターがフロアに着いて、自分のとめどない思いが中断された。 けれどもフロアに一歩進んだ時、そこに居た意外な人物に顔が強張った。 ――003? ――まさか、ジョーが? 幸せな思いでいっぱいだった胸が瞬時に真っ黒に塗りつぶされてゆく。 どうして003がここにいるの?
***
「ジェット。僕の救出作戦っていったいなんなんだよ」 前を歩くジェットの背に、何度目かの同じ問いを放つ。 「んー?まぁ、それは後でいいじゃねーか」 と、突然足を止めたジェットがくるりと180度回頭した。 「わっ。ば、急に止まるなよっ」 背後に親指を向ける。 「レストランでどんちゃん騒ぎの最中さ」 どんちゃん騒ぎ。という言葉がこれほど似合わない建物もないだろう。 「――え。でも・・・」 いまひとつ状況がつかめていないジョー。 「まったくイロオトコは大変だな。感謝しろよ?本当は救出してやる義理なんざないんだからな」 ぎりぎりと首筋を締め付ける。 「大体、お前を救出しようもんなら契約違反で食事代は全て自腹になってしまうんだしな」 そうなのだった。 「――だったら、僕がここに来たらまずいんじゃ・・・」 よく聞く声とともに、背中が派手な音をたてた。 いつものチームスタッフの面々がいた。 「よぉ。イロオトコ。貞操は守られたってわけだ」 口々に言いながら、ジョーの姿を各々の体の影に隠しつつさてどうしたものかと思案する。 「――ジェット。どうする?」 ジョーを救出はしたものの、その後のことは全く決まっていなかったのだった。 「ともかく、外にずっといるのも変だぜ」 口々に言って店に戻ってゆく。 「――なんだ、その格好」 ジェットが呆れて言うのも当然だった。 「・・・しょうがねーな。お前の場合、変装っていうとだなー・・・」 帽子を取り、ジョーの前髪をかきあげて帽子の中にたくしこんでしまう。 「――ほぅら。既に誰なのかわかりゃしねーよ」 両目が見える彼は、ちょっと見には「島村ジョー」とはわかりにくいのだった。遠目からとなれば尚更であり――風呂上りの彼を見たことがない者には、それはもう近くで会ってもジョーだとはわからない。 「どんなに熱烈なファンだってわかりゃしねーな。女王だって絶対にわかんねーぞ」 不機嫌である。 「まぁ、怒るな、って。いいじゃねーか。女王なんかお前のそーゆーカッコ見た事ないから絶対に安全だぞ」 いったいなんなんだよ? 「だから睨むなよ。ともかくその姿なら正体がばれないし」 間。 不自然に途切れたジェットの声に、不審そうにジョーが彼を見つめる。 「――まじかよ」
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「いない?――どうして!?」 女王の声がフロアに響く。 女王さまなのにこんな声をあげるなんて・・・ ぼんやりと思っていたフランソワーズは、視線を感じて我に返った。 「――あなた。003。ジョーはどこにいるの?知っているんでしょう?」 睨みつけてくる顔は、女王ではなくひとりの女性だった。 「隠しても無駄よ。それに、彼のためにはならないわ。彼のことを思うのなら――」 お互いに見つめ合う。 沈黙を破ったのは女王のほうだった。 「――そう。あなたも彼に逃げられた、ってわけね」 最初から約束なぞしていないので、女王が言うのは誤解だったのだけれども言葉を差し挟む猶予を与えられず黙っているしかなかった。 「つまり、立場は一緒。ということね・・・なるほど」 一瞬、口をつぐみ。 「いいこと考えたわ。――これからジョーの所へ行きましょう。一緒に」 言われるがままにエレベーターに乗り込む。 「あの、心あたり、って・・・」 ひとことそう言ったきり黙る。 女王キャサリンが言う「心当たり」の場所とは、ジョー以外の彼のチームメンバーが飲み食いしているあのレストランに他ならなかった。 ――ジョーは連れて行かないというのが前提だったというのに。 彼女の目的は、おそらく仲間と共に食事をしているであろうジョーの奪還と、それ以外の人物へ請求書を回す手筈を整えることだった。 ――このままで終わらすものですか。 ちらりと横目で蒼い瞳のサイボーグを見つめる。 私と彼がどのように思い合っているのかを、その目で見届けるが良いわ。 自分が会いに行けば、ジョーは必ず一緒に来ると信じて疑わないのだった。 一方、フランソワーズは ・・・このひとがキャサリン――キャシー。どうして・・・どうしてジョーの名前を呼び捨てにするのかしら。 混乱していた。 駄目よ。絶対、嘘なんだから。騙されちゃ駄目。だってジョーは出発前にも何度も何度も繰り返していたじゃない。「僕を信じて」って。 「まったく・・・ジョーも困ったひとね」 暫くの沈黙のあと、おもむろにキャサリンが口を開く。 「約束していたのを忘れてしまうなんて。――あのひと、いつもこうなのかしら」 それはフランソワーズへの質問のようで、そうではなく――まるで恋人の悪い癖を語っているかのようだった。唇には笑みを浮かべ、優しい声で続ける。 「レースの後だから仕方ないけれど・・・ねぇ、サイボーグの仕事のときもそうなの?」 サイボーグの仕事。 ――そうだった。このひとは、私たちの体のことを知っているんだったわ・・・ エレベーターが地上に着き、ロビーにふたりが下りた途端にSPが周りを取り囲む。 「・・・もう。今日は放っておいて、って言ってたのに・・・。いいわ。ついて来てもいいから、その代わり私から最低3メートルは離れててちょうだい。――大丈夫よ。ホラ、彼女は武術の達人だから。――ええそう、だから大丈夫」 武術の達人って・・・私のこと? フランソワーズが状況について行けず、女王の言うままに一緒に歩き出したところへその耳元に小さく女王が囁いた。 「いいわよね?あなたは003なんだから――いざというときは私のことを守れるわよね?」 喉が詰まる。 「盾になるくらい、できるでしょう?撃たれても刺されても、死なないのよね?――サイボーグなんだから」 サイボーグだって――死ぬわ。 ただ、そう思った。 |
――まじかよ。 もう一度言う。今度は心の中で。 ジェットはこちらに向かってやって来る二人連れを認め――軽いパニックに陥った。 ここでジョーを引き渡すわけにはいかない。 何しろ、そうなってしまったら先刻までの自分の任務が意味をなさなくなってしまう。 そして、ふたつめ。 女王とフランソワーズが出会ったのは、イレギュラー以外の何者でもない。 つまり、「計算になかった」ことである。 以上を突き詰めて考えれば、最善の策は―― 「・・なるほど」 今度は声に出して言い、ジョーを見つめにやりと笑った。 ジョーから少し離れて、彼の今の姿を検分する。 ――悪くないぞ。これなら大丈夫だ。 二人連れを横目で捉えながら、素早くジョーに耳打ちする。 「あのな。向こうに女王が来ている」 サイボーグのリーダーかたなしである。 「それでだな。オマエはここに来ちゃいけないことになってるのはわかってるな?」 なんとも頼りない返事である。 「それでだ。こうやって・・・もうちょっと帽子を深くかぶれ。で、サングラスは要らねーな。――よし。それで、この上着をこうやって――」 「あとは、そうだな・・・ジョー、ちょこっと昔を思い出してみろ」 言いつつ、既に言葉が戻っている。 「よし。これでまぁ・・・オマエと認識できるかどうかは、あとは個人の問題だな。いいか、何も喋るなよ」 普段の甘い声で喋られたら変装も何も台無しだったのだが、すっかり昔を思い出しているジョーの声は地を這うように低かった。これならますます――この人物がジョーだと認識できるのは個人の問題になった。 あとは―― ――頼むぜ、フランソワーズ。打ち合わせも何もしてねーけどな。 察してくれ。
|
走って逃げ込んだ先は海浜公園だった。 しばらく何も言えず――けれども繋いだ手は離さず――息を整えることに専念する。 「・・・フランソワーズ、・・・どうしてここにいるんだい」 何を措いてもまず先にこれを訊かなければと、まだ切れ切れの息遣いのなかジョーが切り出した。 「え」 繋いだフランソワーズの手が揺れた。 ――どうしよう。ジョーに説明したら、私が「世界を翔けるストーカー」だってばれちゃう・・・! もし、それがジョーにばれたら。 嫌われちゃうかもしれないっ。 それは絶対に嫌だった。 ううん。それだけじゃなく、きっと物凄く怒るわ。勝手なことをするな、って。そもそも、一緒に行こうって誘っていたのにそれを断ったくせに、って。なのにこうして来て、もしかしたらジョーの仕事の邪魔をしているのかもしれなくて―― そう思うとなんだか涙が滲んできてしまうのだった。 ――だって。そんなつもりじゃなかったのに・・・。 思えば長い一日だった。 もう。なんだか・・・ けれども、ここで泣いたら今まで我慢してきた様々な感情が噴出してしまいそうだった。 けれども。 そう思ってはいたけれど、実際には勝手に言葉が口からこぼれてしまっていた。 「――ジョーに会いたかったの」
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え? それだけのために、ここまで来たのか? フランソワーズの言葉に、まじまじと彼女を見つめる。 ――可愛いなぁ・・・ ジョーは彼女のこの表情には弱いのだ。それはもう、絶対的に彼女が悪くても――そんなことはあまりなかったが――100%、ジョーが謝ることになってしまうのだった。そして、それを全く苦に感じてもいなかった。 ああもうっ。食べちゃいたいくらい可愛いぞっ。 そう思うけれども、まさかここで「いただきます」する訳にもゆかず――そんな事をしようもんなら、間違いなくフランソワーズに回し蹴りをくらうことは過去の経験から知っていた。 「――僕も会いたかったよ。来てくれて嬉しい」 「・・・ほんと?」 フランソワーズの髪に顔を埋めていたジョーは思わずフランソワーズに向き直った。 「――何?いま何て」 徐々に語尾が小さくなる。 「・・・彼女がそう言ってたもの。約束したのに、って」 その言葉を聞いて、一瞬ジョーの瞳を冷たいものがよぎった。 「――他には?」 ジョーの声の様子が変わったのを不審に思い、見上げると。 「あの・・・もしかしてジョー、怒ってる・・・?」 今の彼は「妙な変装」をまだ解いておらず、従って「いつもの顔」では全然なかった。
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なんか・・・怖い。 どう見ても、彼が怒っているのは明らかだった。 「・・・ごめんなさい」 だから、謝った。 いくら混乱していたとはいえ、彼女の言うことを勝手に曲解したのは私だわ。 女王が言った「ジョーとの約束」について、てっきり「ふたりがデートの約束」でもしていたのかと思っていた。でも、もしそうではなく――本当に「仕事」だとすれば。 やだ、私ったら。 けれども、結果的にそうなってしまった事は事実だった。 ジョーが怒るのは当たり前だわ。 泣いている場合じゃない。泣いたからといって許されるわけでもない。むしろ、泣いて許してもらおうと思っていると思われたくはなかった。 「あの、ジョー」 「ったく。酷いよなぁ」 お互いの言葉がかぶった。 「えっ?」 更にかぶる。 そしてお互いに黙る。 ――酷い。って、何だろう?・・・私のこと? やっぱり彼が怒っているのは私に対してなんだ・・・と思うと気持ちが挫けそうになった。 「・・・ごめ」 再び謝ろうとしたフランソワーズの言葉は、ジョーの言葉に遮られた。 「大体、君をSPみたいに使うっていうのが気に入らない。しかも使いの者みたいに扱ってただろう?なんなんだよそれ。フランソワーズは彼女の部下でもなんでもないだろうが。他に何か言ってなかったか?」 ジョーの怒りの矛先は、どうやら自分ではないらしい。 「・・・他に、って」 ――え。 「なんだかしょんぼりしてて・・・辛そうだった」 確かあの時、ジョーは歩道ばかり見つめていたはず・・・?? するとジョーはふっと微笑み、と同時にフランソワーズの腕を引いて再び抱き締めた。 「――気付かないわけないだろう?」 でも嬉しかったよ、と言いながら彼女の髪にキスをする。 「それより、何か彼女に意地悪されなかった?」 私が意地悪されるような何かがあるというのだろうか。 「あー・・・うん、まぁ、ちょっとね」 目を合わせない。 「それより、何を言われた?」 聞いたら絶対にジョーも傷つく。だから言えない。 「駄目だよ。何でも言う約束だろう?」 そんな約束をした覚えはなかった。 「やなこと言われたんだったら話して?僕も一緒にやな気持ちになって、一緒に落ち込むから」 「そんなの、俺に言って忘れてしまえ」 俺。という彼の一人称にはいつもドキドキしてしまう。 「・・・ほんとうよ?大した事じゃないの。心配性ね、ジョーは」 なんだか嬉しくなって、ジョーの胸に寄りかかった。 「あの時元気がないように見えたのなら、それはきっと疲れていたからよ。でも、いまジョーに会えたから元気になったわ」 ジョーが唸る。 「なんだかすっきりしないけど・・・まぁ、いいか」 そう言って、そうっとフランソワーズを胸に抱き締める。 ――言わないわ。ジョーには絶対。だってほんとうに大した事じゃないもの。 『盾になるくらい、できるでしょう?撃たれても刺されても、死なないのよね?――サイボーグなんだから』 傷つくのは私だけでいい。 そんな事は、ジョーが本気で自分のことを心配してくれたことに比べたらあまりにも些細でつまらない事に思えた。それに、あの時実は気付いてくれていた事も嬉しかった。 「・・・やっぱり、ジョーね」 「うん?」 ともかく、ジョーには会えた。当初の計画とは随分と離れてしまったけれど。 「そうだわ。今日のレースはどうだったの?」 顔を上げて改めて訊く。 「うん。ハードなレースだったけど何とか入賞したよ。無事完走」 そう言って、フランソワーズにくちづけた。 そう。良かったわ――という彼女の言葉は直接彼のなかに飲み込まれた。
――来て良かった。 初めてそう思った。 やっぱり、遠くで見守ってるだけなんていや。会いたくなったら、会いに行かなくちゃ。 世界を翔ける、ジョーのストーカーだもん!
そう、ウチのお嬢さんは「王子様を待ってるだけのお姫様」ではなく、むしろ「迎えに行ってしまうお姫様」なのです。王子様が来ないなら、自力で脱出し王子に会いに行くのです。高い塔でぼんやり待ってなんかいないのでした。 |
「・・・ジョー。そろそろ起きた方がいいんじゃないかしら」 隣で爆睡しているジョーの肩を揺する。 「・・・ねぇ」 けれども、びくともしない。 ――死んだように。 そういえば、なんだか息もしていないような気がしてきたのだった。 「・・・ジョー?」 反応なし。 「・・・・・・・ジョー?」 いやだ、まさか本当に・・・・?! 「――っ、ジョー!?」 思わず、彼の肩を強く揺すった。
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ここはモナミ公国にあるホテルの一室。 あれから、成り行き上ジョーを泊めることになってしまったのだ。 何しろ、ジョーは手ぶらで部屋を出てきており、鍵も何も持っていない。 「やだ。戻りたくない」 と、まずジョーが駄々をこねた。 そして 「駄目よ。言うこと聞いて?」 とジョーを説得するフランソワーズ。 「わかった。じゃあ、戻るよ」 「やっぱりイヤ。行っちゃだめっ」 そう言って、彼のシャツの裾を握り締め泣いたのはフランソワーズだった。 そんな訳で、お互いに離れる気持ちには全くなれず――フランソワーズのとった部屋に落ち着くことになったのだった。元々、ツインのシングルユースだったので全く問題はない。翌日朝早くにジョーは戻ることで話は決まった。 そうしていま、朝を迎えている。
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同じベッドに寝ていたわけではなかった。 レース後であり、そのあとのあれこれで疲労しきったジョーと、旅行疲れと到着後のあれこれで疲れきったフランソワーズがすぐに眠ってしまったのは当たり前といえば当たり前のことだった。 そしていま、アラームの音で起きたのはフランソワーズだけだった。 ジョーは昨夜と殆ど同じ格好のまま動かない。 「ジョーっ!?」 彼の身体に何か起こったのではと、半ばパニックになりかける。 どこか故障した? あれこれ、嫌な想像が頭を駆け巡る。 ――落ち着くのよ。 深呼吸する。 ――こういう時は、落ち着いて・・・ 彼の身体をスキャンしなければならない。そう、博士とイワンに言われている。
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その瞬間、いきなり視界が真っ白になった。 「――?!」 何が起きたのか咄嗟にはわからない。 聞こえてくるのは、ジョーの笑い声。 「ごめんごめん。びっくりした?」 耳元でジョーの声が響いた。 ――そう。先刻まで、もしや死んだのかもと疑うくらい微動だにせずシーツにくるまっていたジョーが、フランソワーズが彼をスキャンしようとしたまさに絶妙のタイミングで彼女を組み伏せたのだった。 「ジョーっ!」 彼の腕から逃れようとじたばたもがく。 「心配したのにっ」 フランソワーズの鼻をつんとつつく。 「さっきから起きてたの?」 もうっ!と言ってジョーの頬を――
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お互い目を覚ましてはいたものの、起きたくはなかったのだった。 「飛行機、キャンセルして一緒にマレーシアに行っちゃおうよ」 フランソワーズの髪を撫でながら。 「――うーん・・・・。一週間後にまた会うっていうのはどう?」 さて、どうしよう? その前に―― やっぱり離れ難いのだった。
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