「モナコグランプリ」
2008.5.22−29
「――ウン。全部、準備万端、待ってるから」 「――本当に一人で大丈夫?」 「――心配だなぁ・・・やっぱり迎えに」 「――フランソワーズ?聞いてる?」 少し怒ったような心配そうな声に顔を上げる。 「もしもしっ」 部屋を数歩で横切り、携帯を掴み耳に当てる。 「ちゃんと聞いてるわよ?もう――心配しすぎ」 「大丈夫よ。コドモじゃないんだから。一人でだって、ちゃあんと行けます」 「だいじょーぶだってば。もう。ジョーはレースに専念して?」 空港に迎えの車が待っている手筈だった。 「あのさ。・・・ちゃんと『シマムラです』って言うんだよ?」 「それは、そう言って中に入ろうとするひとがいるから。――いい?ちゃんと運転手に『シマムラです』って言うんだよ? どうして「シマムラです」を連呼しなくちゃいけないんだろう? 「もしもし?フランソワーズ?」 「でも――待ってるから」 *** 電話を切ったあと、部屋の惨状を見つめフランソワーズは途方に暮れた。 本当に、明日の便に間に合うだろうか? モナコグランプリを見に行くというのは、随分早くに決まっていた。もちろん、ジョーも知っている。 モナコグランプリ。 ここでのレースだけは、欠かさず行っている。もしこの時期に公演があってもフランソワーズは休みをとるのだった。 だって、また「昔のカノジョ」にでも会ったら大変だもん!! 何年か前。彼がひとりでモナコグランプリに行き、そこで――モトカノに会い、単身砂漠越えをすることになった。その際、重傷を負い、心身ともにボロボロになったのだった。言うなれば、因縁の地である。 「あのー・・・・」 おそるおそる、迎えと思しき運転手に声をかける。 「・・・日本のF1チームの」 シマムラです。って言わなくてはいけないのだろうか? と躊躇していると、運転手は大仰なアクションで破顔した。 「お待ちしてました!!お荷物はこちらですね?御預かり致します」 あっという間に荷物を取り上げられ、フランソワーズ自身もさっさと車の後部座席に収められてしまった。 ――まだ何にも名乗ってないのに。 軽く首を傾げていると、バックミラー越しに運転手が笑顔を見せた。 「シマムラさんの大事なお客さまでしょう?――わかりましたよ。すぐ。何しろ――」 その理由を聞いて、フランソワーズは顔が熱くなるのだった。 サーキットで降ろされた。 もうイヤよ。あんな思いをするのは。 そしてもしも、どんなに気をつけていても事件に巻き込まれるような事態になったら。 その時は――私がジョーを守る。一人でなんて戦わせない。傷つけさせたりしない。誰にも。 「おーい、フランソワーズ!!」 自分を呼ぶ声に、遠い夢想は破られた。 「ジョー!!」 負けないくらい大きく彼の名を呼ぶ。 「――で?何番手なの?」 ジョーの腕にぶらさがりながら彼の横顔を見つめる。 「ねぇ、・・・まさか予選ノックアウトじゃないわよね?」 その声に一瞬のうちに頬を朱に染める。 「仕方ないだろっ・・・」 その日の夜――つまりレース前夜である。 レースセッティングを終えたジョーは、フランソワーズとともにホテルの部屋で夕食を摂っていた。 食事を終えたところで、おもむろにフランソワーズが切り出した。 「確かジョーは・・・半年以上受けてないはずよ?」 「――このレースが終わって日本に帰ったら・・・受けるよ。ちゃんと」 2位だった。 優勝を狙っていたジョーとしては甚だ不本意な結果ではあったけれど、それでもフランソワーズが大層喜んでくれたので――それに関しては満足していた。 *** 「――ねぇ、ジョー。これは?」 欠伸まじりに言った途端。 「ジョーってば!あなたの意見を聞きたいの!」 難問だった。 ――どうせ両方買うんだろ? と内心思う。が、それを口にしたら最後、彼女の機嫌がナナメになるのは明らかだった。 「――どっちもダメ」 「ええーっ。似合わない?」 「そ。どっちも似合わない」 「・・・コレ」 彼が指差したのは。 「――いま着てるのがいいの?」 「そうじゃなくて。――着てるものなんかどーでもいいよ。中身が一緒なら」 いたずらっぽく笑う彼を見つめ、軽く頬を膨らませ――けれども、彼の首筋にそっと腕を回す。 「もうっ・・・ジョーのばか」 ――モナコにある某服飾店だった。 フランソワーズを抱き締め、彼女の髪にキスをしてからジョーは店員に合図をし―― 「――いま彼女が見てたもの全部お願いします」 と言い切ったのだった。
ハンズフリーにしていた携帯から聞こえてくるジョーの声が少しいらついていた。
「そんな事言ったって」
心配じゃないか――というジョーの声にため息をつく。
「違うよ。僕が心配しているのは――」
着いてからなんだけど。と、小さく聞こえる。
「だけど」
「平気平気。着いたらわかるようになっているんでしょう?」
「ン・・・そうだけど」
「あら。『ハリケーンジョーの関係者です』じゃ、ダメなの?」
「だめ」
「どうして?」
「それじゃ中に入れてもらえないよ」
「どうして?」
「それは――」
僕がそうしたからだ。とは言わず。
で、着いたら荷物はそのまま彼に任せて、フランソワーズはスタッフに『日本から来たシマムラです』って言えばわかるようになってるから」
唇を微かに尖らせて、ジョーの言葉に不満な様子を示してみる――が、遠く離れた日本とモナコ間では言葉にしないと伝わらないのだった。
聞いてる?
「・・・聞いてマス」
「わかった?」
「ん・・・。ねぇ、ジョー?そもそも、パスやチームジャンパーは出発する前に渡してくれるってことだってできたんじゃないのかしら?モナコに行くの、急に決まったわけでもないんだから」
「――まぁ、それは色々と。それより準備は済んだ?」
「ジョーが電話で邪魔するからできてない」
膨れっ面で答える。
「ああ。そりゃ失敬」
にやりと笑った気配だけが伝わってくる。
「ん・・・ジョーも前のほうのグリッドにいられるように頑張ってね?」
「え」
「ポールポジションでスタートするジョーを見たいなぁ」
「・・・頑張りマス」
何しろ、クローゼットから出された服が所狭しと投げ出されており、他に靴やらバッグやらアクセサリーやらが散乱し、床には大きく開いたトランクが鎮座している。まだなかには何も詰められていない。
モナミ公国での開幕戦はジョーに内緒で行ったのだけど、今回のモナコはそうではなく、全てジョーが手配をした。
本当は一緒に行ければよかったのだが、そうも行かず――明日、向かう事になった。
そのくらいの覚悟もあるし――何より、彼をモナコでひとりにする気はさらさらなかった。
別にモナコが好きなわけではなく、そうするのには訳があった。
それは。
も、絶対、あんな目には遭わせないわよ。――下手したら死ぬところだったんだから!
それ以来、モナコグランプリには一人で行かせるなというメンバーの強い希望もあって、フランソワーズは必ず行くことになっていた。
ただ。
最近では、ただ行って観戦するだけではなく色々と――つまり、彼とゆっくり過ごすバカンスのような意味合いも含まれていて、それに伴い持っていく荷物も増えるのだった。
ともかく、ジョーも普段にはないくらい浮かれているし、それはフランソワーズも同様だった。
「あ。ハイ」
荷物はそのままホテルに運んでおくというので任せ、ぶらぶらと辺りを見回す。
何度来ても、胸の奥に軽い痛みが走る。
あの砂漠越え事件は、今もなおフランソワーズの記憶から消えてはくれない。
あの砂漠で。
ジョーが、どんなに傷ついたのか忘れていない。
心無い言葉で傷つけられた心。そして、そんな心を抱えたまま立っていた砂漠の地。自身は立っているのがやっとの状態だったのに一歩も退かずに戦っていた。そんな彼を――あの子は見捨てた。
なのにジョーは、彼女を一言も責めず、あまつさえ救助までしたのだ。仲間の制止を振り切って。
――ジョーはばかだ。
でも。
そんな彼だからこそ、好きになったのだ。
もし、あの砂漠であの子をそのまま見捨てるような彼だったら好きになどならなかっただろう。決して。
しかし。
だから、ジョーがうっかり事件に巻き込まれたりしないように――私は見張ってなくちゃいけないの。そう決めたの。
だって、ジョーは私の・・・・
走り出した先には、大好きな彼の姿があるはずだった。
「・・・え」
「ポールを獲るって言ってたわよね?」
対するジョーはその目線を直視できず、そのまままっすぐ前を見つめたままずんずん歩いてゆく。
「違うよ」
「だったら教えてよ」
「・・・4番手」
「よんばんんん??」
モナコのコースは難しいんだっと口の中で呟く。
「・・・ふぅん?」
探るような蒼い瞳から逃げるように視線を他へ飛ばす。
けれども、フランソワーズは少し小走りになるとジョーの腕を離し、彼の正面に回りこみ――下から彼の視界に入った。
「な、なに?」
ジョーはというと、不意に出現した目の前の蒼い瞳にすっかり呑まれてしまい思わず正面から見つめてしまった。
ポールポジションを期待していた彼女に責められることを覚悟しつつ身構えると――
「頑張ったね」
「・・・え」
「うん。凄いわ。4番手!」
「い、いや・・・凄くないよ」
もごもごと小声で言う。
「ううん。凄いわよ。だって、順位を上げていく楽しみができたもの!」
「・・・そうかなぁ」
「そーよ!トップぶっちぎりじゃジョーのテクニックを見せ付けられないじゃない。どんどん抜いていきつつ、後方をブロックするというむっずかしい技術が求められるわけでしょう?」
そうかなぁと合いの手を入れるものの、フランソワーズは全く聞いていない。
「それができるのは『ハリケーンジョー』だけだものっ!」
冗談で言っているのかと思いきや、彼女の目は真剣そのものだった。
「ジョーのカッコイイところが全世界に配信されるのよっ」
自分の言葉に酔ったのか、フランソワーズのテンションはますます上がっていくばかり。
「きゃーん、どうしようっ」
「どうしよう、って何が」
「だって、またファンが増えちゃうじゃない!絶対、優勝するもの!」
「そんなの、走ってみなくちゃわからないよ」
「わかるもん!ジョーが勝つって」
「・・・フランソワーズ」
「絶対、勝つわ。・・・そうよね?」
「え、あ・・・」
じいっと見つめる蒼い瞳に気圧されてしまう。
「・・・ハイ」
ホテルの部屋といっても特別スイートルームなので広い。
モナコグランプリではいつも二人一緒に泊まることに決めていた。
「――そういえば、出てくる時に博士に言われたんだけど」
レースの話は一切しない。
「博士に?」
なんだろう・・・と訝しげなジョーを、食後のコーヒーをひとくち飲んでから見つめ返し
「そろそろ、ちゃんと受けなさい。って。伝言」
その言葉を聞いた途端に、うえっという顔をするジョー。
「またそんな顔をして。――ジョーだけよ?ずうっと逃げてるの」
「だってさ」
「メンドクサイ――なんてダメよ?」
「う。・・・でもさ」
「『どこも悪くないし』?」
「そう、それ」
ジョーがコーヒーを飲むまで待って。そして、テーブルに身を乗り出して彼の顔を見つめる。
「悪くなってからじゃ遅いの、知ってるわよね?」
「・・・・」
「ね?」
蒼い瞳にひたと見据えられ、視線を逃がすにも逃げられず――
「・・・・ハイ」
諦めたように頷くのだった。
「・・・・」
そんな事は十分わかっているので答えない。
「他のみんなはちゃーんと受けているのに、いったい何がそんなにイヤなの?」
「そりゃ・・・」
加速装置をいじられるのがイヤなんだよ。とは言うに言えず。何しろ、あの「加速装置の不具合」の件は彼女には言っていないのだ。一生、言う気もなかったが。
「知らないうちに磨耗しているトコロがあったりするかもしれないのよ?」
「わかってるけど」
「・・・私だって、できれば受けたくはないわ。だって、サイボーグだっていうのをあれほど突きつけられることってないもの」
思い出して目を伏せる。
と、ジョーの手がそっとフランソワーズの髪を撫でた。
「・・・そうだね」
「うん・・・だから、――だけど」
不意に席を立って、テーブルを回り込みジョーのそばへ行く。待っていたかのように腕を広げ、フランソワーズを膝の上に抱き上げるジョー。
「・・・心配なのよ。あなたの身体が」
「うん・・・」
自分の胸に頬を寄せるフランソワーズを抱き締めながら、わかってると小さく呟く。
「私だって、平気ってわけじゃないのよ?でも・・・」
もし自分の目や耳が故障して使い物にならなくなったら。そしてそれが戦闘中だったら。仲間全員の命を危険に晒すことになってしまう。自分の苦痛と全員の命を比べたら、後者の方がずっと重い。
そしてそれ以上に、ジョーの身体のことが心配だった。
「ホントに?」
「うん。・・・約束する」
「絶対よ?」
「うん」
「ほんとにただの健診なんだから。そんなに心配しなくても大丈夫よ?」
「・・・そうだね」
フランソワーズは知らない。彼の加速装置の一件を。
しかし。
ジョーもまた知らなかった。検査後に彼女の耳と眼が一時的とはいえ全く利かなくなったという話を。
お互いの胸にそれぞれの不安を抱きつつ――とりあえず、明日は本戦なのだった。
クラッシュ・リタイア続出の波乱のレースだった。完走できただけでもよしとしなければならなかった。
「ん・・・いいんじゃない」
「じゃあ、これは?」
「・・・いいね」
「じゃあ、こっちとこっち、どっちがいい?」
「フランソワーズの好きなほうでいいよ」
目の前に蒼い瞳が出現し、ジョーは一歩後退した。その蒼い双眸に睨まれると退却せざるを得ないのだった。
「だから・・・」
僕はどっちでもいいよ。と言いかけ慌てて飲み込む。
「『どっちでもいい』はナシよ」
「じゃ」
「『両方買えばいい』も、ダメよ」
まさにそう言いかけていたところだったので、改めて黙る。
「いい?『ジョーは』どっちがいいと思う?」
何しろ、フランソワーズが両手に掲げているドレスはどちらも――彼女によく似合っていたから。
ため息まじりに言う。
ひどく落胆して、両手に持ったドレスを交互に見つめる。どっちも好きなのに・・・とぶつぶつ言いながら。
「・・・じゃあ、ジョーはどれがいいと思うの」
しょんぼりとしたフランソワーズに思わず笑みがこぼれる。
思わず自分がいま着ている服を見回しながら訊き返す。
「え?」
「だから。・・・僕はフランソワーズがフランソワーズなら、あとは何でもいいってこと」
レースの翌日、ふたり揃って買い物に繰り出していた。既にジョーの車は大小さまざまな大きさの箱や包みに占拠されつつあった。直接ホテルに届けられる分もあり――それはそれは買い物タイムを満喫しているのだった。フランソワーズが。