「イヤなジョー」
「ジョー?そろそろ目が覚め」 ここはジョーの自宅マンション。 既に昼を過ぎて午後になっている。 しかし、ジョーは未だに惰眠をむさぼっているのだった。 遮光ではない薄いグリーンのカーテンから射す陽光は目に穏やかで、室内を適度に明るくしていた。 朝からひとり、洗濯に追われていたフランソワーズは、昼を過ぎても起きてこない彼を心配して部屋を覗いてみたのだが、部屋の主は未だ規則正しい呼吸で別の世界に漂っているようだった。 ――でも、今日はいいわ。ゆっくり寝ていて。 明日には出かけてしまうから、寂しくないのかと問われれば間違いなく寂しいと答えるだろう。 ドアを閉めようとした時、シーツにくるまっていた身体が寝返りをうった。 「・・・ん。――フランソワーズ・・・?」 その瞬間。 「フランソワーズ?」 勢いそのままにベッドから降りて、改めてベッドの上を捜索し、さらにはその下も覗き込んで。 その目が――ドアの所で止まり、固定された。 「――フランソワーズ」 はあっと肺全体から息を吐き出してしまうかのように大きく息をつくと、そのまましゃがみ込んだ。 「・・・たく。おどかすなよ」 床に向かって小さく呟く。 フランソワーズはくすくす笑いながら部屋に入り、しゃがみ込んでいるジョーのそばに行くと、屈んで彼の頭をつついた。 「オハヨ」 対するジョーは、無言で彼女を見上げた。 「あら。なんだか不良みたいね?」 まるでコンビニ前にたむろしている不良のようにしゃがみ込み、じろりと彼女を見つめているのだった。 「――あ?何だって?」 口調もそれっぽく、目つきも何だか荒んでいるようだった。 「んもう。機嫌悪いのね」 「目が覚めた?」 面倒そうに言われる。 「・・・いつ、起きた?」 くそっ、気がつかなかった・・・と悔しそうに呟くのを聞いて、フランソワーズはそのままジョーの首筋にかじりついた。 「わっ」 寝起きでバランスの悪いジョーは、そのまま尻餅をついてしまう。 「――なんだよ」 それが格好悪く、憮然とした表情のまま不機嫌に言う。 「うふっ・・・。覚えてないのね?」 身体を起こし、ジョーの前髪を掻き揚げるとその額にちゅっとキスをして。 「私が起きる時。大変だったのよ?離してくれなくて」 絡み付いてくるジョーの手から逃れるのに10分は有したのだ。 「もうっ・・・しょうがないひと」 つん、と鼻をつつく。 意識下でも、無意識下でも、自分を必要としてくれていると知らされるのは何よりも嬉しかった。 「まだ眠い?」 「今日はごろごろしてていいわよ。疲れをとらないと」 そのまま、フランソワーズを抱き締め彼女の肩にもたれて――目を閉じた。 「ジョー?ちょっと・・・ちゃんとベッドで寝て」 けれども答えない。 「ジョー・・・重い」 サイボーグである自分たちは、起きている時はともかく――眠ってしまうと通常の人間の熟眠時より数倍重くなる。 結局、ジョーはしばらく起きず――フランソワーズは彼の重い身体を抱えたまま、そのままでいるしかなかった。
目が覚めた?と言い掛けたフランソワーズは、そのまま微笑んだ。
昨日の日本グランプリのあと、一週間後に中国グランプリを控えているため、明日には出発なのだ。
だから、ギルモア邸まで帰る時間がなかった。
更に言うと、母国グランプリでの優勝、しかもポールトゥウィンという完璧な勝利でマスコミは大盛り上がりであり、どこに行ってもカメラや記者に追われてしまう。そんな状態でギルモア邸に行くわけにはゆかないので、完全にマスコミをシャットアウトできるここにいるのだった。
休日の、のどかな昼下がり。
その中に浮かび上がるのは、清潔なシーツにくるまれた姿。シーツからは金色に近い栗色の髪の一部だけが覗いている。
が、今日はなぜか――それほど寂しくはなかった。
褐色の瞳が閉じられていても。
その声で呼ばれることがなくても。
それでも、彼がぐっすり眠れるのなら――そしてそれは、自分が居る場所だけだと知っていたから――寂しくなかった。
そうして、手が伸びて――空を切り、ベッドの上に何かを探すように漂った。
寝ていたはずのそのひとは勢い良く身体を起こした。
それから、部屋をぐるりと見回した。――刺すような視線で。
「・・・」
寝起きの機嫌の悪さは何とかならないものかと思いつつ、隣にしゃがみ込む。
「――ああ」
「んー・・・3時間くらい前かしら?」
普段の彼からは絶対考えられないことだった。
「何が」
「だってあなた、気がついてたもの」
「え?」
「・・・そう、だった・・・かな?」
「そうよ」
起きているわけではなく、ぐっすり眠っているというのに、ジョーは彼女がいなくなることを許してはくれなかった。
「うん・・・」
答えながら、欠伸をひとつ。
「ん・・・そうするよ」
本当に寝てしまったかのように、どんどん重くなってゆく身体。
いくら軽量化された金属で創られているとはいえ、やはり機械の身体なのには間違いなかった。
それはそれで、幸せな時間なのに違いなかったけれども。
部屋のどこかでドアが開閉する音が響いた。 その大音量を引き起こした張本人と思しき足音も、これまた普段よりもやや乱暴に聞こえ、それが徐々に近付いてきた。と、思ったら、またもや大きな音を立ててリビングのドアが開かれた。 「・・・フランソワーズ。うるさいよ」 階下のひとに迷惑だろ・・・と、読んでいた資料から目をあげずにぶつぶつ呟く。 「なにするんだよ」 大事な資料なんだよ、返せよ・・・と言いかけたジョーの言葉は舌の上で固まった。 「――あれ?・・・何か、怒ってる?」
燃える蒼い双眸。 ああ、今日も可愛いなぁ・・・ ぼんやりとそう思った。 いったい何を怒っているんだろう? 「――ジョー?」 ともかく資料を奪還しようと手を伸ばすが、フランソワーズはそれをひらりとかわしサイドテーブルに置くと、胸の前で腕を組んだ。ジョーの眼前で仁王立ちになって。 何か怒っているらしいことは疑う余地もないのだが、どうせそんな大した事ではないのだろうと予想をつけて、ジョーはのんびりとお茶をすすった。 「――たまには日本茶もいいよね」 なので、仕方なく胸に手をあてて考えてみた。 「んー・・・・」 けれども、特にこれといって彼女が怒るようなことは思い当たらなかった。 「別に何も思いつかないけど?」 昨夜のことかなぁ。と思いかけ、それを舌にのせようとしてやめる。 「わからないよ。降参」 両手を挙げてギブアップのポーズをとる。 「じゃあ、教えてあげるけど――」 フランソワーズはエプロンのポケットから何やら取り出し、ジョーの眼前に突き出した。 「コレ!使ったでしょう?」 瞬きして目の前に差し出されたものを凝視する。 「――ああ。使ったよ。それが何?」 どうして彼女が怒るのかわからない。 「使っちゃだめ、って言ったわよね?」 まるっきり覚えていなかった。そんな会話を交わしたことも。 「入荷困難だから、使わないで、って言ったのに」 前から、どうしてそんなに減りが早いのか不思議に思っていたのだった。 「それなのに、どうして使うのよ?」 瞬時にフランソワーズはパニックになった。 「――ともかく」 とりあえずその問題は脇に措いたようで、改めてジョーに向き直る。 「もう使わないで」 ああもう、うるさいな――と、がしがしと頭を掻くジョーを両手を腰にあてて見つめていたフランソワーズは、ふと、鼻をひくつかせた。 「――!?」 やや眉間に皺を寄せて。 「・・・?」 くんくんと鼻を頼りに追ってゆくと、その先はジョーの頭だった。 「!?」 思わず、がばっと彼の頭を抱える。 「わ。なに?」 ジョーの頭のてっぺんに顔を埋め――そのまま、くぐもった声でジョーに問うた。 「・・・まさかジョー。シャンプーの代わりに使った?」 その途端、ジョーの髪をぎゅっと掴んで引っ張った。 「いてててて」 ジョーを突き飛ばすように離し、両手をグーにして言い募る。 「いい?これはボディソープなのっ。シャンプーじゃないの!!」
***
「――だから、ゴメンってば」 私の言う事なんか素通りしてしまうのね――と、うつむく。 「そんなことないよっ、聞いてるよちゃんと」 平行線だった。 「――いいわ。100歩譲って、それがそこに在ったとしましょう。でもね、それが使っていいということにはならないわ」 しつこく追求されるうちに、ジョーはその遣り取りに飽きてきていた。 大体、どうしてそんな話をしなくちゃならないんだ?しかも、彼女のボディソープを無断で使った使わないというどうでもいい話題で。 レースの翌日に繰り広げられる会話として適当とは思えなかった。 「それも、シャンプー代わりにも使ってたなんて!」 信じられない――と、結ぶ。 「これは、私も普段は使わないの。大事に使ってるのよ」 そんな大事なものなら、きちんとしまっておかなくちゃ駄目だろう――と言いかけて、ふと違和感に気付いた。 ――あれ?・・・それ、むこう(ギルモア邸)では使ってなかったような気がするぞ。 それは確かに「普段は使わない」という彼女の言葉通りだった。しかし。 ・・・・? フランソワーズの言葉は続く。 「バラの香りのボディソープなんて、確かにたくさんあるわ。でもこれは、時間がたっても微かにバラの香りが残るから、香水とかつけなくてすむの」 ――バラの香り、ねぇ・・・ 「だから、ジョーが使ってもしょうがないでしょ?大体、バラの香りがする男の人なんて気持ち悪いわ」 眉間に皺を寄せ、ぐいっとフランソワーズの腕を掴み引き寄せた。 「きゃっ。な、なに?」 途端に頬を真っ赤に染めて、フランソワーズはジョーの腕から逃れようとじたばたした。 「うーん・・・するかなぁ」 けれども、最先端のしなやかな金属を使った彼の身体はびくともしない。 「うーん・・・何か思い出しそうな気がする」 彼の腕から逃れようと暴れるフランソワーズを難なく押さえ込んで。 「何だったかなぁ・・・」 にやり。 彼の口元が緩んだのを、フランソワーズは見逃さなかった。 「もうっ、ずるいわ、忘れたふりしたでしょっ」 更に赤く染まるフランソワーズに構わず、その首筋に唇を寄せた。 「や、もうっ、知らないっ。酷いわ、ジョー」 言いつつも、そのバラの香りを追うように首筋を辿り―― 「・・・もう知らないっ・・・」 消え入るような声で答え、そのまま彼の首筋に腕を回し、ぴったり寄り添ったまま黙った。 ――思い出した。 それからずっと、フランソワーズはこちらではそれを使っているのだった。 ――可愛いなぁ 構わず髪にキスして、軽く耳を噛んで。が、それだけでは足りなかった。 「・・・フランソワーズ」 耳元で囁かれ、真っ赤になりながらもフランソワーズは憮然とした表情だった。 「なによもう・・・イヤなジョー」
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