原作「偶然?」
『熱っ!!熱いよ、ゼロゼロナイン』
意識に電気的な痺れを感じ、ジョーははっと我に返った。
自分の腕のなかの赤ん坊が身をよじって泣いて訴えている。
「――あ、ゴメン」
慌ててミルクを離すと、暴れていた赤ん坊はやっと静かになった。
『全くもう。さっきから熱いって言ってたのにどうして気付かないかな』
そう。
彼は熱いミルクを供され、約3分は暴れ訴え続けていたのだ。
『昨日のほうがまだマシだよ。ぬるい分、やけどしなくてすむからね』
昨日はぬるいミルク、そして今日は熱湯ミルク。
イワンの受難は続いていた。そしていい加減、うんざりしてもいた。
『全く。フランソワーズがいないからってそうぼうっとされてちゃ困るな。何かあったらどうするんだい』
「何かって?」
『ゼロゼロナインが頑張らなくちゃいけないような非常事態ってことさ。こんなんじゃ使い物にならないね』
「――酷いなぁ」
ふわあと欠伸まじりに返され、イワンはふいっと彼の腕から宙に浮き上がった。
『やってらんないよ、モウ』
フランソワーズが出かけてからまだ二日目である。
しかし、ここギルモア邸は悲惨なことになっていた。
以前、フランソワーズがバレエのレッスンに忙しく家事を出来ないことがあったが、まだ今よりもましであった。
例えジョーがレトルトしか調理できず、後片付けも何もできないとしてもである。
今は、キッチンは誰も行きたくない場所に成り果てていたし、リビングや廊下、あらゆるところも何故か薄汚れており散らかっている。
ジョーの名誉のために言うならば、全てが彼のせいというわけではない。単に男所帯であるということなのだ。
しかし。
老人や赤ん坊を除けば、元気な青年は彼ひとりなのだ。
その彼が全く上の空でぼうっとしているというのはいかがなものだろうか。片付けられないのではなく、片付けないのだから。
イワンから見れば、それはまるで彼らに嫌がらせをしているようにしか思えない所業ではあったが、しかし彼の精神状態を覗いてみればそうではないことは簡単に知れた。だから怒るのもちょっとかわいそうかなと思い我慢できる範囲は我慢しようと頑張っていたのではある。
しかしもう限界だった。
博士は早々に大人と話をつけたようで、今日の昼からは飯店から出前がくるらしい。
オトナはいいなあとイワンは思う。自分の主食はミルクだから、出前というわけにはいかない。
こればっかりは作ってもらわないといけないし――だったら博士に作ってもらいたいなあと思うのだけどこれは自分の仕事とばかりジョーが譲らなかったから、イワンは彼の作るミルクを飲むしかなかったのである。
どうやらフランソワーズが「イワンのミルクをお願いね」と念押ししていったようであった。
イワンにしてみればありがた迷惑以外の何者でもない。
ふわふわ浮かびながら、何かいい案はないかと考える。
ジョーの様子がいつにも増して変なのは、フランソワーズが不在だからである。
イワンから見れば、普段、放ったらかしにしているように見えるのに、いないとなるとこうも焦がれるというのは理解ができない。
オトナって不思議だなぁと思うものの、ただならぬジョーとこのまま何日も過ごすというのはぞっとしない。早晩、舌をヤケドするだろう。
あるいは、ミルクを我慢して痩せてゆくのか。
『――しょうがないなぁ』
『ねぇ、ジョー』
「うん?」
数時間後。
ぬるいミルクを飲みながら、イワンはジョーの腕のなかで可愛く問いかけた。
見下ろすジョーの瞳は優しげだ。
『しばらく遺跡調査って行ってないよね?』
「えっ?なんだい、急に。――そうだなぁ。行ってないかな」
『そろそろどうかと思ってさ』
「うん…何か調査するようなものがあればね」
『そんなの、いくらでもあるさ。地球には不思議がいっぱいなんだから』
「そうか」
『ウン。で…イタリアなんてどうかな』
「イタリア?」
イタリアには今、フランソワーズがいる。
ジョーの意識に浮かび上がったことを確認して、イワンは無邪気に続けた。
『最近、夢によく見るんだ。ポンペイの遺跡を』
「夢?」
イワンの見る夢は放ってはおけない。
『どうも気になるから、調査に向かってくれないかな』
「いいけど…それって急ぎかい?」
『ウン、…できたら』
「………」
ジョーはちょっと考えた。
否。
考えるふりをした。
が、イワンには全てお見通しである。
「…きみがそういうなら、すぐにでも発つけど」
『良かった。そう言ってくれると思ったよ、ゼロゼロナイン』
ほっとして言ったのは本心だった。
だからあっさりばれたのだろうか。
「――ということにしておくよ、イワン」
『えっ?』
にやりと笑うジョーに一瞬イワンの背筋が冷えた。
「いや、いいんだ。僕もイタリアに行きたいと思ってたし。――やっぱり心配だしね。色々と」
大義名分があれば公然とイタリアに行ける。
日本であれこれ心配しているよりはいいだろう。