地上の仙境 −九寨溝ものがたり−

 

むかし、昔、古(いにしえ)の神たちがこの世を司っていた遠い昔。

風と雲をつかさどるジョーという名の精悍な神様がいました。
彼は風を自由にあやつり、疾風のごとく山々を駆け巡っては、この地に豊かな恵みをもたらしていました。

野に咲く花たちは彼が吹き抜けてゆくたびに、ふるふると幸せそうに揺れました。
そして山の木立たちはいつもユラユラと揺れては、彼には恋人はいないのだろうかと噂話をしていました。

そんなジョーには、実は恋焦がれている女神(ひと)がいました。

大空をつかさどる女神、フランソワーズです。
彼女は金色に輝く美しい髪と、とても澄んだ美しい蒼い瞳をもち、その大空のような全てを包みこむ優しい心は誰からも愛されていました。

ジョーとフランソワーズはもしかしたら恋人同士なのではと山々は噂しましたが、ここぞというところで内気な2人は、時々目が合ったかと思えば
すぐに照れたように目をそらしてしまい、ジョーに至ってはすぐにどこかへ疾風のように消えてしまうという始末でした。

ですが、

このままではだめだ。
なんとかして彼女に想いを伝えたい。

ジョーはあるとき決心をしました。

そして来る日も来る日も風雲を磨き、玉のように光る美しい宝鏡をつくったのです。
それは陽の光を受けてはきらきらと蒼く輝き、陰を落としては碧に輝くという、彼女の瞳に似たとても美しい鏡でした。

うつむいたまま、素っ気無く差し出されたジョーの手に光る宝鏡を見て、フランソワーズはとても驚き、そしてその大きな瞳から一筋の美しい涙を
零して喜びました。

ジョーは彼女の頬に落ちる涙を手でぬぐいました。
2人は見つめあい、そしてようやく互いの想いが通じ合っていたことを知ったのでした。

おっかなびっくりジョーが彼女の華奢な体に腕をまわし、フランソワーズを抱きしめたそのときでした。

 

ドドドドドーーーーーーーーーーーーーーーーーン

 

辺りを引き裂く雷鳴とともに、空が真っ黒な雷雲に覆われました。
時に恐ろしい嵐を巻き起こしては辺りの木々をなぎ倒していく悪の神、ブラックゴーストです。
彼は美しい女神フランソワーズに目をつけては、いつか自分のものにしようと企んでいたのです。

 

”ジョーのものになどさせんわ”

 

ドドドドドドーーーーーッ

 

ものすごい嵐が吹き荒れました。

 

「きゃーーーーーーっ」

「フランソワーズっ」

 

吹き飛ばされ、暗雲へと呑み込まれそうになるフランソワーズ。
必死に手を伸ばしますが、雷鳴が2人の間を邪魔します。

 

「うわぁっ」

 

すさまじい電流がジョーの体に落ちました。

 

「ジョーっ!!」

「ふはははは、とどめだ」

 

ブラックゴーストがもう一度ジョーの体に雷を落とそうとしたときでした。

何かがジョーの前に飛び出しました。

暗雲の中でも、雷鳴を受けてなお美しく輝く金色の髪。
そう、フランソワーズです。

 

「だめだっ、来ちゃいけないっ」

「ジョーっ!」

 

ドドドドドドーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン

 

 

 

嵐がまるで嘘のように、静寂が一瞬辺りを包みました。

そして。

 

 

ピカッ。

何かが光ったかと思うと「カシャーーン」という音を立てて弾け飛びました。

 

あの宝鏡です。

 

ジョーを庇って飛び出したフランソワーズがその胸に握り締めていた鏡が、彼女の替わりに雷をその身に受け砕け散ったのです。

 

「フランソワーズ!!」

 

ジョーはフランソワーズをその腕にしっかり抱きしめると、風雲を呼び起こしました。
普段、寡黙な彼の怒りはこのときばかりはすさまじく、その目が燃えるような赤銅色に光ったかと思うと、風が瞬く間に暗雲を遥か遠くへと
吹き飛ばしたのでした。

そして2人はもう一度しっかりと抱き合いました。
こうしてブラックゴーストは消え去り、この地に再び平和が訪れました。

地上へと飛び散った鏡の破片は、100を超える蒼く透明な美しい湖となりました。
その湖は光を受けては蒼く美しく輝き、特に紅葉の季節には、燃えるような赤と金色の木々をその蒼に映すのでした。

九寨溝と呼ばれることになるその地は、地上の仙境としていつまでもいつまでも、遠く山の奥でひっそりと輝き続けたのでした。